主日礼拝
2021.3.28
「しばしの別れの前に」
使徒20章28-35(新共同訳)
Ⅰ導入部
- みなさん、おはようございます。お祈りをして、このメッセージを始めてまいりたいと思います。お祈りしましょう。
- いよいよこの日が来たな、という感覚です。この3月をもって、私の青葉台教会でのユースパスター、青年担当牧師としての3年間の任期が終わりますので、本日がひとまず、青葉台教会での最後の礼拝となります。
- 4月からは、私が平日に奉仕しておりますKGKキリスト者学生会の「副総主事」、一般の会社で言うところの副社長なのですが、そのような立場となることになりましたので、牧師と兼任するというのはさすがに難しいだろうということで、4月からはKGKの専任となります。
- 教会は、来週からは自宅から徒歩で行ける多摩ニュータウンキリスト教会という教会に出席する予定です。
- ただし、これからも青葉台教会には説教奉仕で呼んでくださるそうなので、また会えると思いますし、呼ばれた際には、詩篇のメッセージを続けたいと考えていますので、これは「お別れ」ではなく、あくまでも「しばしの別れ」であります。
- これからも交わりを持つことができることを期待しつつ、本日は私たちと同じように、「しばしの別れ」を経験した聖書のなかのパウロという人物の言葉を通して語られた神のことば、神様の想いに、ともに耳を傾けていきたいと思います。
- 本日読まれた聖書の箇所は、使徒言行録の20章18節から35節にわたる、「パウロの告別説教」と言われるメッセージ、説教の一部なんですね。
- 「告別説教」、すなわち最後の説教です。ではなぜ最後かと言うと、実はこのときパウロは、ヨーロッパへの伝道旅行を終えて、エルサレムに向かっていました。そして、次の使徒言行録21章で、彼は逮捕されます。その後、言い伝えではローマで処刑されたと言われますが、本日の箇所の少し前の25節では、パウロは、それを分かっていた。自分がもう彼らに会えないということが分かっていたということが書かれています。
- その「彼ら」とは誰か。それは現在のトルコにあるエフェソという町に建てられた教会の長老、リーダーたちでした。使徒言行録の18章、19章で、パウロは二度に渡りエフェソを訪れていますが、19章では「三年間」そこに腰を据えて滞在し、教会に仕えた、交わりをもったということが書かれています。今日読まれた31節にも「三年間」という言葉があります。
- 「三年間」です。もちろん、パウロと比べることは大変おこがましいですが、私も、微力ながら、三年間、この青葉台教会で仕えさせていただきました。
- もちろん、私が仕えたという面もあるとは思いますが、それとともに、いやそれ以上に、みなさんが、私を、そして妻を大切にしてくださり、仕えてくださった。このように愛に溢れた、「仕える教会」で三年にも渡って奉仕ができたことに心から感謝しています。
- パウロは、三年間ともに過ごした、愛してやまないエフェソ教会のリーダーたちに、もう地上では会えないことを承知の上で、どうしても伝えたいことを語った。それがこの告別説教であり、本日読まれたのはその告別説教のクライマックスにあたる部分なのです。
- パウロは、愛するエペソの教会の長老たちとの地上での別れの前に、このことばを語りました。
- もちろん、私はみなさんとまた会えると思います。でも、人の地上での「命」は神に属することでありますから、いつ取り去られるかは分からないものです。その意味では、誰でも、いつでも、もちろん天において再会はできます。
- だからこそ、いずれにしても「お別れ」ではなく、「しばしの別れ」ですが、三年間、ともに歩ませてくださった、愛するみなさんに、このみことばを送りたいと思います。
Ⅱ本論部
一.あなたがた自身と群れ全体とに
- それではまず、28節をご覧ください。
20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。
- この箇所で、興味深いのは、長老たち、リーダーたちに命じられているゆえに、「群れ全体とに気を配」るというのは当然です。しかし、ここでは「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」となっています。
- 私は、この青葉台教会で3年間過ごして思うことは、先ほども申し上げましたが、この教会は本当によく愛に溢れた、「仕える教会」であるということです。
- ここにも、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」とありますが、本当にこの教会は、互いを「世話」する。互いをケアする。互いを愛する教会であるということに、いつも感動させられ続けてきました。
- まず、私がこの教会に来て、一番感動したのが、これほどまでに、子どもたちのために、若者たちのために、時間もお金も使う教会はないということです。若い魂を、本当に愛し、「世話」し、ケアしようとしている。だからこそ、私のようなものを招いてくださったのだと思います。
- もちろん、若者だけではない。大人たちの間でも、特にそれはこのコロナ禍において発揮されましたが、よく互いに声をかけ、祈っておられる。神の教会のなかで、「群れ全体」が、互いを愛し、互いを「世話」する、ケアし合う姿をたくさん見させられてきました。
- 私たち夫婦も、そのような教会のみなさんの愛に支えられてきました。特に、昨年7月にこの教会で結婚式をさせていただいた際は、本当に多くの人が祝福してくださり、寿子も青葉台に来てから、妊娠とコロナのためになかなかここに来ることはできませんでしたが、いつも感動していました。
- この青葉台教会は、ここでパウロが言っているように、「群れ全体」に「気を配」り合う交わりです。このような交わりに、加えていただけたことを心より感謝しつつ、これからもこの地にあって、青葉台教会が用いられ続けることを祈っています。
- しかし、それとともにここで注目したいのは、パウロはこのように言っていることです。「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」
- 他者に気を配ることはもちろん大切である。でも、自分たち自身に気を配ることがリーダーたちの働きの半分であり、優先されるべきことである。
- なぜでしょうか。29節にはこのようにあります。
20:29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。
- これは直接的には、やがてエペソ教会に「異端」が入り込んでくるということを指しています。私はKGK主事として、普段から大学生たちと関わっていますから、異端・カルトの問題は身近です。
- 異端・カルトに出会うと、「なんで異端など存在するのか?」、「どうしてこんなひどいことが起こるのか?」と思わされます。
- しかし、それは人間に罪がある以上、ありうることであり、イエス様ご自身も何度も予告され、そして使徒パウロもここでそのような可能性をはっきりと指摘しているわけです。
- しかし、さらに驚くべきは、続く30節をご覧ください。
20:30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。
- なんと長老たち自身のなかからも誘惑に屈してしまう者が現れると語っている。
- もちろん、私たちが、みなさんが、直接異端に陥るということは、ないことはないとしても、あまりないとは思います。もちろん、気をつけて欲しいですが。
- ここで私たちが受け取りたい真理、それは、キリスト者は誘惑に遭うということです。キリスト者は誘惑に遭う。聖書の教えをねじ曲げるとまではいかないとしても、神さまが喜ばないような思いや言葉や行動に向かっていってしまう。そのような誘惑に遭う。それは、あなたにも起こり得ることだ。だから、「あなたがた自身」に「気を配ってください」と語るんですね。
- この一年は、私にとっての青葉台教会での最後の一年は、本当に大変な一年でした。覚えていらっしゃる方が多いと思いますが、ちょうど去年、一年前の3/28は初めて首都圏で外出自粛要請が出された初めての週末でした。
- 私自身、それをはっきりと覚えているのは、実はその翌日3/29が私たちの婚約式で、しかもそれに加えて大雪で、中止にすべきか悩み、結局家族は呼ばないという形での婚約式をもったのをよく覚えています。
- あれから一年が経ち、少しずつ状況が改善しているように見えたときもあれば、また悪化したときもあれば、と波がありながら、少しずつ、またこの場所に集まって礼拝を捧げられるようになったことには感謝していますが、この2020年度という一年間は、もちろん個人差はあると思いますが、大変な想いをされたと思うんですね。
- コロナは教会から様々なものを奪いました。特に食事。一緒に食事をするというのは初代教会から続く教会の本質的な事柄です。聖餐式ができたことは本当に感謝なことでしたが、一緒に食事ができないということは、特にユースにとっては大打撃でした。
- 最近は、教会で会うことができる人が増えてきましたが、会う頻度はグッと落ちてしまい、なかにはもうずっと会っていない方もいる。人との距離による孤独、感染への恐怖、経済的な不安…。この一年、様々な感情の動きがあったことと思います。
- もちろん、コロナによって、オンラインでの活動が強化されたことによってもたらされた祝福も大きいです。今回もイースターの映像配信楽しみですよね。私たち夫婦も出演していますが、グヨルさんに時に厳しく、時に優しく指導していただき、とても良いときでした。
- オンラインの祝福もある。でも、人によっては、オンラインを通しての礼拝だと、どうも集中できない。この一年間の歩みのなかで、神様を遠く感じてしまうようになったという方もいらっしゃるかもしれない。
- そのような一年の歩みのなかで、こころも、からだも、たましいも、予想以上に疲れているということがあり得ると思うのです。その意味では、コロナで教会の活動が減ったことで、休めるようになったという部分もあるかもしれません。
- そして私たちは、疲れているときこそ、誘惑に負けやすいものです。異端・カルトにまで行ってしまうことはないとしても、神さまが喜ばないような思いや言葉や行動に引き寄せられる。誘惑に負けやすくなる。
- だからこそ、パウロは言うのです。「あなたがた自身」に「気を配ってください」」。ここには神の優しさが現れています。
- ここには、教会について、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」とあります。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」。
- 今週私たちは、全世界の教会とともに受難週として、イエスさまの最後の一週間を想いながら過ごします。神さまは、その独り子イエス・キリストの血によって、私たち一人ひとりを救ってくださいました。ご自分のものとしてくださった。みなさんお一人おひとりは、それほどまでに愛されている存在である。
- 仕事の前に、奉仕の前に、あなた自身に、あなたの信仰に、そしてあなたの健康に気を遣ってほしい。
- 私自身も、4月から責任が上がっていくなかで、きちんと休むことができているか、祈り、静まる時間を確保できているか、家族を、特に5月に出産予定ですので、家族を大切にできているかということを、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」という主の御心に生きていきたいと願っています。
二.神とその恵みの言葉とに
- 続く31節をお読みします。
20:31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。
- パウロは言います。わたしパウロが教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。これは、別にパウロの教えとか、思想がすごいということではないんですね。
- 今日の箇所の直前の27節には、「わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」とあります。パウロが伝えたのは、彼が教えたのは、あくまでも「神の御計画」だった。つまり、聖書のメッセージ、みことばでした。
- だからこそ、彼は32節でこう言うのです。
20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。
- パウロは、もう彼らと、エフェソの長老たちと会えないことが分かっていましたから、不安だったでしょう。彼らはこの先どうなるのかと心配を覚えていたことでしょう。
- 私も、正直に言えば不安です。特にユースたちが、これからの長い人生のなかで、試練を経験するであろうなかで、それでもイエスさまと一緒に歩んでいけるのだろうか、イエスさまに従い、本当に幸いな生涯を歩んでいけるのだろうかと考えれば、不安はあります。
- もちろん、また会えると思います。LINEもあります。でも、これまでと比べたら会う頻度は減っていくなかで、心配はもちろんあります。
- パウロは、文字通り二度と会えないわけですから、もっと不安だったでしょう。しかし、パウロは、「神とその恵みの言葉とに」委ねるのです。彼らのことを、「神とその恵みの言葉とに」委ねたのです。最も確かな存在である「神とその恵みの言葉とに」委ねたのであります。
- なせなら、32節で語ります。「この言葉は」、聖書は、「あなたがたを造り上げる」。これは別の翻訳ですと「育成する」となっていますが、聖書にはあなたを変える力がある。
- パウロに力があるんじゃない。そして、これは当然ですけれど、私に何か力があるんじゃない。聖書に力がある。だから、聖書が語られる礼拝という場所から離れないで欲しい。聖書を分かち合い、祈り合うことのできる交わりから離れないで欲しい。
- さらに、「この言葉は」、聖書は、「聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」あります。他の訳では「御国を継がせる」となっていますが、恵みとして神の国を受け継ぐものとされるのです。
- 「神の国」それは、イエス・キリストがこの世界に来られたことでスタートしました。来週私たちイースターを迎えますが、イエス様の復活において、神の国の完成は決定的であるということが示されました。もちろん、いまだ完成してはいません。だからこそ、この世界には、私たちの人生には痛みがある。嘆かざるを得ないときがある。
- しかし、主の十字架と復活が確かであるゆえに、やがて確かにイエス・キリストは来られ、神の国は完成し、そこに私たちも迎え入れられる。
- でもそのときまでは、辛いこともある。涙する日もある。意味が分からないことも、ことばを失う出来事も経験する。私もそうでした。
- しかし、私たちを待っているのは幸いな結末である。全ての出来事の意味が分かるときが来る。主にあってすべての労苦が無駄になることがないと、私たちの小さな営みがあの新天新地において、神の国が完成するそのときにまで引き継がれる。
- そのときまでは、正直に嘆き、祈り、聖霊なる神に慰められながら、歩むことができる。神はあなたを、この聖書を通して、そのような希望とともに生きる歩みへと、今日もあなたを招いておられる。
- だから、私たちも、「神とその恵みの言葉とに」それぞれの生涯を委ねたいと願うのです。
三.受けるよりは与える方が
- 最後に33節からをお読みしましょう。
20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。
20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。
20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」
- ここで語られるのはイエスさまのように生きることへのチャレンジです。「受けるよりは与える方が幸い」だなんて、普通は逆です。でも、私は本当に思うのです。この青葉台教会は「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスさまのことばに生きている、あるいはそのように生きることをあきらめない教会である。
- この教会から、この礼拝から、今日も私たちはそれぞれの日常に、それぞれの場所に遣わされていきす。特に、私たち夫婦は新しい場所に遣わされていきます。今まで本当にありがとうございました。
- 私たちもまた、「受けるよりは与える方が幸いである」というみことばに生き続けるために、自分自身と「群れ全体とに気を配」り、私たちを「造り上げ」、「恵みを受け継がせる」神のことばを握って、ともに、それぞれの場所に遣わされていこうではありませんか。
- お祈りしましょう。