江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(21年3月28日)

2021-03-28 13:48:39 | Weblog

主日礼拝

2021.3.28

しばしの別れの前に

使徒20章28-35(新共同訳)

 

導入部

  • みなさん、おはようございます。お祈りをして、このメッセージを始めてまいりたいと思います。お祈りしましょう。

 

  • いよいよこの日が来たな、という感覚です。この3月をもって、私の青葉台教会でのユースパスター、青年担当牧師としての3年間の任期が終わりますので、本日がひとまず、青葉台教会での最後の礼拝となります。
  • 4月からは、私が平日に奉仕しておりますKGKキリスト者学生会の「副総主事」、一般の会社で言うところの副社長なのですが、そのような立場となることになりましたので、牧師と兼任するというのはさすがに難しいだろうということで、4月からはKGKの専任となります。
  • 教会は、来週からは自宅から徒歩で行ける多摩ニュータウンキリスト教会という教会に出席する予定です。
  • ただし、これからも青葉台教会には説教奉仕で呼んでくださるそうなので、また会えると思いますし、呼ばれた際には、詩篇のメッセージを続けたいと考えていますので、これは「お別れ」ではなく、あくまでも「しばしの別れ」であります。
  • これからも交わりを持つことができることを期待しつつ、本日は私たちと同じように、「しばしの別れ」を経験した聖書のなかのパウロという人物の言葉を通して語られた神のことば、神様の想いに、ともに耳を傾けていきたいと思います。

 

  • 本日読まれた聖書の箇所は、使徒言行録の20章18節から35節にわたる、「パウロの告別説教」と言われるメッセージ、説教の一部なんですね。
  • 「告別説教」、すなわち最後の説教です。ではなぜ最後かと言うと、実はこのときパウロは、ヨーロッパへの伝道旅行を終えて、エルサレムに向かっていました。そして、次の使徒言行録21章で、彼は逮捕されます。その後、言い伝えではローマで処刑されたと言われますが、本日の箇所の少し前の25節では、パウロは、それを分かっていた。自分がもう彼らに会えないということが分かっていたということが書かれています。
  • その「彼ら」とは誰か。それは現在のトルコにあるエフェソという町に建てられた教会の長老、リーダーたちでした。使徒言行録の18章、19章で、パウロは二度に渡りエフェソを訪れていますが、19章では「三年間」そこに腰を据えて滞在し、教会に仕えた、交わりをもったということが書かれています。今日読まれた31節にも「三年間」という言葉があります。

 

  • 「三年間」です。もちろん、パウロと比べることは大変おこがましいですが、私も、微力ながら、三年間、この青葉台教会で仕えさせていただきました。
  • もちろん、私が仕えたという面もあるとは思いますが、それとともに、いやそれ以上に、みなさんが、私を、そして妻を大切にしてくださり、仕えてくださった。このように愛に溢れた、「仕える教会」で三年にも渡って奉仕ができたことに心から感謝しています。
  • パウロは、三年間ともに過ごした、愛してやまないエフェソ教会のリーダーたちに、もう地上では会えないことを承知の上で、どうしても伝えたいことを語った。それがこの告別説教であり、本日読まれたのはその告別説教のクライマックスにあたる部分なのです。

 

  • パウロは、愛するエペソの教会の長老たちとの地上での別れの前に、このことばを語りました。
  • もちろん、私はみなさんとまた会えると思います。でも、人の地上での「命」は神に属することでありますから、いつ取り去られるかは分からないものです。その意味では、誰でも、いつでも、もちろん天において再会はできます。
  • だからこそ、いずれにしても「お別れ」ではなく、「しばしの別れ」ですが、三年間、ともに歩ませてくださった、愛するみなさんに、このみことばを送りたいと思います。

 

本論部

一.あなたがた自身と群れ全体とに

  • それではまず、28節をご覧ください。

 

20:28 どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

 

  • この箇所で、興味深いのは、長老たち、リーダーたちに命じられているゆえに、「群れ全体とに気を配」るというのは当然です。しかし、ここでは「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」となっています。

 

  • 私は、この青葉台教会で3年間過ごして思うことは、先ほども申し上げましたが、この教会は本当によく愛に溢れた、「仕える教会」であるということです。
  • ここにも、「聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」とありますが、本当にこの教会は、互いを「世話」する。互いをケアする。互いを愛する教会であるということに、いつも感動させられ続けてきました。
  • まず、私がこの教会に来て、一番感動したのが、これほどまでに、子どもたちのために、若者たちのために、時間もお金も使う教会はないということです。若い魂を、本当に愛し、「世話」し、ケアしようとしている。だからこそ、私のようなものを招いてくださったのだと思います。
  • もちろん、若者だけではない。大人たちの間でも、特にそれはこのコロナ禍において発揮されましたが、よく互いに声をかけ、祈っておられる。神の教会のなかで、「群れ全体」が、互いを愛し、互いを「世話」する、ケアし合う姿をたくさん見させられてきました。

 

  • 私たち夫婦も、そのような教会のみなさんの愛に支えられてきました。特に、昨年7月にこの教会で結婚式をさせていただいた際は、本当に多くの人が祝福してくださり、寿子も青葉台に来てから、妊娠とコロナのためになかなかここに来ることはできませんでしたが、いつも感動していました。
  • この青葉台教会は、ここでパウロが言っているように、「群れ全体」に「気を配」り合う交わりです。このような交わりに、加えていただけたことを心より感謝しつつ、これからもこの地にあって、青葉台教会が用いられ続けることを祈っています。

 

  • しかし、それとともにここで注目したいのは、パウロはこのように言っていることです。「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」
  • 他者に気を配ることはもちろん大切である。でも、自分たち自身に気を配ることがリーダーたちの働きの半分であり、優先されるべきことである。

 

  • なぜでしょうか。29節にはこのようにあります。

 

20:29 わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。

 

  • これは直接的には、やがてエペソ教会に「異端」が入り込んでくるということを指しています。私はKGK主事として、普段から大学生たちと関わっていますから、異端・カルトの問題は身近です。
  • 異端・カルトに出会うと、「なんで異端など存在するのか?」、「どうしてこんなひどいことが起こるのか?」と思わされます。
  • しかし、それは人間に罪がある以上、ありうることであり、イエス様ご自身も何度も予告され、そして使徒パウロもここでそのような可能性をはっきりと指摘しているわけです。

 

  • しかし、さらに驚くべきは、続く30節をご覧ください。

 

20:30 また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。

 

  • なんと長老たち自身のなかからも誘惑に屈してしまう者が現れると語っている。
  • もちろん、私たちが、みなさんが、直接異端に陥るということは、ないことはないとしても、あまりないとは思います。もちろん、気をつけて欲しいですが。
  • ここで私たちが受け取りたい真理、それは、キリスト者は誘惑に遭うということです。キリスト者は誘惑に遭う。聖書の教えをねじ曲げるとまではいかないとしても、神さまが喜ばないような思いや言葉や行動に向かっていってしまう。そのような誘惑に遭う。それは、あなたにも起こり得ることだ。だから、「あなたがた自身」に「気を配ってください」と語るんですね。

 

  • この一年は、私にとっての青葉台教会での最後の一年は、本当に大変な一年でした。覚えていらっしゃる方が多いと思いますが、ちょうど去年、一年前の3/28は初めて首都圏で外出自粛要請が出された初めての週末でした。
  • 私自身、それをはっきりと覚えているのは、実はその翌日3/29が私たちの婚約式で、しかもそれに加えて大雪で、中止にすべきか悩み、結局家族は呼ばないという形での婚約式をもったのをよく覚えています。
  • あれから一年が経ち、少しずつ状況が改善しているように見えたときもあれば、また悪化したときもあれば、と波がありながら、少しずつ、またこの場所に集まって礼拝を捧げられるようになったことには感謝していますが、この2020年度という一年間は、もちろん個人差はあると思いますが、大変な想いをされたと思うんですね。

 

  • コロナは教会から様々なものを奪いました。特に食事。一緒に食事をするというのは初代教会から続く教会の本質的な事柄です。聖餐式ができたことは本当に感謝なことでしたが、一緒に食事ができないということは、特にユースにとっては大打撃でした。
  • 最近は、教会で会うことができる人が増えてきましたが、会う頻度はグッと落ちてしまい、なかにはもうずっと会っていない方もいる。人との距離による孤独、感染への恐怖、経済的な不安…。この一年、様々な感情の動きがあったことと思います。
  • もちろん、コロナによって、オンラインでの活動が強化されたことによってもたらされた祝福も大きいです。今回もイースターの映像配信楽しみですよね。私たち夫婦も出演していますが、グヨルさんに時に厳しく、時に優しく指導していただき、とても良いときでした。
  • オンラインの祝福もある。でも、人によっては、オンラインを通しての礼拝だと、どうも集中できない。この一年間の歩みのなかで、神様を遠く感じてしまうようになったという方もいらっしゃるかもしれない。

 

  • そのような一年の歩みのなかで、こころも、からだも、たましいも、予想以上に疲れているということがあり得ると思うのです。その意味では、コロナで教会の活動が減ったことで、休めるようになったという部分もあるかもしれません。
  • そして私たちは、疲れているときこそ、誘惑に負けやすいものです。異端・カルトにまで行ってしまうことはないとしても、神さまが喜ばないような思いや言葉や行動に引き寄せられる。誘惑に負けやすくなる。

 

  • だからこそ、パウロは言うのです。「あなたがた自身」に「気を配ってください」」。ここには神の優しさが現れています。
  • ここには、教会について、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」とあります。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」。
  • 今週私たちは、全世界の教会とともに受難週として、イエスさまの最後の一週間を想いながら過ごします。神さまは、その独り子イエス・キリストの血によって、私たち一人ひとりを救ってくださいました。ご自分のものとしてくださった。みなさんお一人おひとりは、それほどまでに愛されている存在である。

 

  • 仕事の前に、奉仕の前に、あなた自身に、あなたの信仰に、そしてあなたの健康に気を遣ってほしい。
  • 私自身も、4月から責任が上がっていくなかで、きちんと休むことができているか、祈り、静まる時間を確保できているか、家族を、特に5月に出産予定ですので、家族を大切にできているかということを、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」という主の御心に生きていきたいと願っています。

 

二.神とその恵みの言葉とに

  • 続く31節をお読みします。

 

20:31 だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

 

  • パウロは言います。わたしパウロが教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。これは、別にパウロの教えとか、思想がすごいということではないんですね。
  • 今日の箇所の直前の27節には、「わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えたからです」とあります。パウロが伝えたのは、彼が教えたのは、あくまでも「神の御計画」だった。つまり、聖書のメッセージ、みことばでした。
  • だからこそ、彼は32節でこう言うのです。

 

20:32 そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。

 

  • パウロは、もう彼らと、エフェソの長老たちと会えないことが分かっていましたから、不安だったでしょう。彼らはこの先どうなるのかと心配を覚えていたことでしょう。
  • 私も、正直に言えば不安です。特にユースたちが、これからの長い人生のなかで、試練を経験するであろうなかで、それでもイエスさまと一緒に歩んでいけるのだろうか、イエスさまに従い、本当に幸いな生涯を歩んでいけるのだろうかと考えれば、不安はあります。
  • もちろん、また会えると思います。LINEもあります。でも、これまでと比べたら会う頻度は減っていくなかで、心配はもちろんあります。

 

  • パウロは、文字通り二度と会えないわけですから、もっと不安だったでしょう。しかし、パウロは、「神とその恵みの言葉とに」委ねるのです。彼らのことを、「神とその恵みの言葉とに」委ねたのです。最も確かな存在である「神とその恵みの言葉とに」委ねたのであります。
  • なせなら、32節で語ります。「この言葉は」、聖書は、「あなたがたを造り上げる」。これは別の翻訳ですと「育成する」となっていますが、聖書にはあなたを変える力がある。
  • パウロに力があるんじゃない。そして、これは当然ですけれど、私に何か力があるんじゃない。聖書に力がある。だから、聖書が語られる礼拝という場所から離れないで欲しい。聖書を分かち合い、祈り合うことのできる交わりから離れないで欲しい。

 

  • さらに、「この言葉は」、聖書は、「聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」あります。他の訳では「御国を継がせる」となっていますが、恵みとして神の国を受け継ぐものとされるのです。
  • 「神の国」それは、イエス・キリストがこの世界に来られたことでスタートしました。来週私たちイースターを迎えますが、イエス様の復活において、神の国の完成は決定的であるということが示されました。もちろん、いまだ完成してはいません。だからこそ、この世界には、私たちの人生には痛みがある。嘆かざるを得ないときがある。
  • しかし、主の十字架と復活が確かであるゆえに、やがて確かにイエス・キリストは来られ、神の国は完成し、そこに私たちも迎え入れられる。
  • でもそのときまでは、辛いこともある。涙する日もある。意味が分からないことも、ことばを失う出来事も経験する。私もそうでした。

 

  • しかし、私たちを待っているのは幸いな結末である。全ての出来事の意味が分かるときが来る。主にあってすべての労苦が無駄になることがないと、私たちの小さな営みがあの新天新地において、神の国が完成するそのときにまで引き継がれる。
  • そのときまでは、正直に嘆き、祈り、聖霊なる神に慰められながら、歩むことができる。神はあなたを、この聖書を通して、そのような希望とともに生きる歩みへと、今日もあなたを招いておられる。
  • だから、私たちも、「神とその恵みの言葉とに」それぞれの生涯を委ねたいと願うのです。

 

三.受けるよりは与える方が

  • 最後に33節からをお読みしましょう。

 

20:33 わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。

20:34 ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。

20:35 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」

 

  • ここで語られるのはイエスさまのように生きることへのチャレンジです。「受けるよりは与える方が幸い」だなんて、普通は逆です。でも、私は本当に思うのです。この青葉台教会は「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスさまのことばに生きている、あるいはそのように生きることをあきらめない教会である。

 

  • この教会から、この礼拝から、今日も私たちはそれぞれの日常に、それぞれの場所に遣わされていきす。特に、私たち夫婦は新しい場所に遣わされていきます。今まで本当にありがとうございました。
  • 私たちもまた、「受けるよりは与える方が幸いである」というみことばに生き続けるために、自分自身と「群れ全体とに気を配」り、私たちを「造り上げ」、「恵みを受け継がせる」神のことばを握って、ともに、それぞれの場所に遣わされていこうではありませんか。
  • お祈りしましょう。
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日曜礼拝(21年3月21日)

2021-03-21 12:25:29 | Weblog

日曜礼拝(受難節第五)        2021.3.21

罪人にまで成り下がった救い主」 ルカ23:32~43

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第三日曜日を迎えました。今日も会堂に集い、あるいは各家庭や置かれた場所でライブ礼拝を通して、共に心を合わせて礼拝をささげることができますことを感謝致します。緊急事態宣言が今日で解除の予定ですが、私たちは、今まで以上に、マスク、消毒、手洗い、距離を保ち、換気することに徹したいと思います。

 昨日は、竹下太陽兄と三女天夢の結婚式が青葉台教会で執り行われました。30年以上牧師をし、数々の結婚式を執り行ってまいりました。花嫁とバージンロードを歩き、同時に司式をさせていただきましたが、初めての経験でした。娘が腕を組んでくれて、久しぶりにドキッとしました。花嫁の父の心境を体験させていただき。大変勉強になりました。二人の結婚式のためにお祈り下さり感謝致します。二人の結婚生活の上に、神様の守りと導きが豊かに与えられますようにお祈り下さい。

さて今日は、ルカによる福音書23章32節から43節を通して、「罪人にまで成り下がった救い主」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、イエス様は本当に救い主なのか

 十字架刑では、イエス様が真ん中に、左右に犯罪人が磔(はりつけ)にされました。ですから、イエス様が三人の中でボス的存在、最も悪いというイメージがあります。34節には、「そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と言われたとあります。

 この「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉は、イエス様が、山上の説教で教えられた「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。」(ルカ6:27)、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)とあり、この言葉を実践されたということです。

 議員たちは「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら自分を救うがよい。」(35)と言い、兵士たちは、「お前がユダヤ人の王なら自分を救ってみろ。」(36)と言い、十字架につけられた犯罪人のひとりは、「お前はメシアではないか自分自身と我々を救ってみろ。」(39)と言いました。それぞれが、イエス様に対して神に選ばれた者なら、ユダヤ人の王なら、メシアなら自分を救えと侮辱し、あざけり、ののしりました。奇跡を起こしてみろ。奇跡を起こしたら、それを見たら信じようと言ったのです。そのような人々に、イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られました。イエス様を悪く言う人々、敵のために祈られたのです。

 十字架のイエス様のお姿には、選ばれた者としての特別な風格も、ユダヤ人の王としての威厳も、メシアとしての力もありませんでした。ただ、そこには鞭打たれ、十字架を担いで運ばされ、服をはぎ取られて、両手両足に釘を打たれ、頭にはいばらの冠をかぶらされ、苦しみの中にある犯罪人のあわれな姿しかありませんでした。このような姿を見て、誰が救い主、メシアと言うことができるでしょうか。ここには、救いがない。神様の愛とか、神様の守りとか、神様の恵みというものが一切ありませんでした。マタイやマルコによる福音書には、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46、マルコ15;:34)という言葉が記されています。ここには、父なる神様に見捨てられた、哀れな神の子の姿がありました。どこに力強い救い主の姿があるのでしょうか。

 メシアだったら、人を救うのなら、救うための力がいる。自分が死んでしまうようでは、滅びてしまうようでは、人を救うことなどできるはずがない。ユダヤ人の王なら、権力が必要です。なのに、捕らえられ、裁かれ、十字架刑で死ぬような者が王であるはずがないのです。十字架刑の周りにいる全ての人が、イエス様の無残な姿に、選ばれた者、ユダヤ人の王、メシアとして誰も認めることなく、あざ笑い、ののしり、侮辱したのです。

 私たちもイエス様に対してイエス様を神として認めないというようなことはないでしょうか。思うようにならない信仰生活や教会の歩み、神様に祈っても答えられない状況、病気がいつまでもよくならない、治らないという時、「どうして助けてくれないのか。癒してくれないのか。現状をよくしてくれないのか。」と「神様なら力を見せてほしい。苦しむ私を救ってほしい」と私たちもイエス様の神としての権威や力を疑うことはないでしょうか。

 二、何をしているのか知らないから

 マタイやマルコの福音書では、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」というイエス様の十字架の言葉を記しています。しかし、ルカは、この言葉を記してはいません。イエス様は、黙って周りにいる人々からの、ののしりやあざけり、侮辱の言葉を受け、耐えておられる姿を描いているのです。その苦しみの中で発せられた言葉が、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉でした。イエス様は、十字架刑による肉体的な苦痛の中で、十字架の周りにいる全ての人々、イエス様を侮辱し、あざけり、ののしる人々、ご自分を十字架刑にした人々、敵の赦しを祈ったのです。その赦しの根拠は、「自分が何をしているのか知らない」ということです。つまり、本当の愛、真実の愛、神様の愛を知らないということです。今目の前でのイエス様の十字架刑の苦しみが、自分のためであるということ、自分の罪の身代わりであることを知らないのです。わからないのです。本当は、自分が罪人であり、罪ある自分が十字架にかかって死ななければならない存在であることを知らないでいるのです。

 イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々、祭司たちから逮捕されないようにすることもできました。天の軍団を呼んで彼らを蹴散らすこともできた。父なる神様は子なるイエス様を助けようと思えば、その力を持って助けることができました。それにもかかわらず、父なる神様はイエス様を助けず、イエス様はご自分を守ろうとはなさらなかった。ただ、父なる神様は私たちを愛して、私たちの罪を赦すためにイエス様を十字架につけることをゆるされ、イエス様は人々から侮辱され、あざけられ、ののしられ、十字架で死ぬという事を選び取られたのです。私たち人間は、私たちの罪を自分で解決できないので、神様がイエス様の十字架を通して、罪の赦しを与えて下さったのです。ヨハネの手紙一4章10節には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とあります。

 40節には、犯罪人のもう一人がたしなめた、とありますが、マタイやマルコによる福音書では、最初、イエス様の右と左に十字架につけられた犯罪人は、同じようにイエス様を侮辱し、ののしり、あざけっていたのです。「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」(マタイ27:44)とあります。しかし、もう一人の犯罪人は、イエス様をののしっていたにもかかわらず、擁護する者となりました。イエス様を神と信じる者となったのです。そこには何があったのでしょうか。

 三、低きに降られたイエス様

 40節、41節には、「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」とあります。

 この犯罪人は、十字架上のイエス様を見、イエス様の語る言葉を聞きました。イエス様がご自分を十字架につけ、ののしり、あざける者たちの罪の赦しを父なる神様に願うことができる、まことの神の子の姿を見たのではないでしょうか。神の子、罪のないお方が、自分と同じ刑罰を受けておられるという事実に対して神様への深い恐れがあったでしょう。神様の裁きと怒りを恐れるというのではなく、生きておられる神様が、今自分の前におられる、十字架につけられし神の子、生ける神様との出会いに畏れを感じたのではないでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」とイエス様は祈られました。神を父と呼び、祈る姿。救い主とは言えない十字架上の哀れな姿の中に救い主を見たのです。この生ける神様であるイエス様との出会いを通して、自分の犯した罪の当然の報いとして十字架刑にされ、自分は十字架刑で死ななければならない罪人であることを悟ったように思います。自分の罪を認めたのです。

 そのような罪人である自分と同じ刑を受けているお方、罪のない神の子が、罪を犯し続けた自分自身が罪の報いとして受けなければならない苦しみ、その同じ苦しみをイエス様ご自身が引き受け、その苦しみを味わっておられる。血まみれになり、息も絶え絶えになるその姿、神の子が罪人の一人となられた。人の罪をご自分が引き受けておられる姿。本来、あってはならない、その事実に触れた時、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願うことができたのではないでしょうか。自分は、今まで自分が犯してきた罪のゆえに、十字架刑について死ぬべき者、滅ぶべき者であって、本来イエス様に「わたしを思い出してください」という資格は全くない。しかし、滅ぶべき自分と同じ姿、十字架刑を受けておられる神の子、イエス様であるからこそ、自分と同じ罪人に成り下がって下ったイエス様に触れて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願うことができたのです。

 この犯罪人は、十字架の上で、人生の最後に、死の間際に希望の光が、希望の道が滅ぶべき罪人の自分の前に、開かれていることを見出したのではないでしょうか。「あなたの御国においでになるとき」とは、イエス様が、この世の終わりの時、神の子としての権威を持ってもう一度来られる時、再臨の時です。神の国の完成の時、イエス様の十字架と復活を信じる者に与えられる罪の赦し、そして、復活と永遠の命の完成の時です。イエス様が、神の国の完成のために来られる時、イエス様と共に十字架についていた自分のことを思い出して下さい、と願ったのです。

 イエス様は、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と彼に宣言されたのです。楽園とは、イエス様が共におられるという事です。この事以外の全てが整っていても楽園にはならないのです。今、私たちの置かれている場所が、苦しみや悲しみの場所、絶体絶命の場所であっても、イエス様が共におられます。そうならば、その場所が楽園となりうるのではないでしょうか。イエス様は、「わたしと一緒に」と言われました。私たちが楽園、天国に行くという事に留まらず、イエス様といつまでも共にいるという事の約束です。その救いを、恵みをイエス様は、犯罪人に約束された、宣言されたのです。あと数時間の命しかない者にも、死んでいくしかない者にも救いの宣言が与えられたのです。そこに、私たちのイエス様に対する大きな希望があるのです。

父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という言葉を聞いたのは、この犯罪人だけではありませんでした。もう一人の犯罪人も、議員も、兵士も、十字架の周りにいる人々はみんな聞いたのです。しかし、イエス様が救い主であると気づいたのは、この犯罪人だけでした。私たちも、イエス様が私の救い主であることに気づいたのです。気づかなかった人々に対しても、やはりイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈って下さり、数われることを願い、祝福を与えておられるのだと思うのです。

 私たちも滅ぶべき者、死ぬべき者、罪人でした。そのような私たちのために、イエス様は私たちを愛して、私たちが受けるべき罰を十字架で受け、私たちに代わって父なる神様に裁かれ、私たちが流すべき血を流し、死ななければならない私たちの代わりにご自分の命をささげて下さった。死んで下さったのです。そして、墓に葬られましたが、三日目によみがえり、神であることを示されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪を赦し、私たちの魂を救い、私たちに死んでも生きる命、永遠の命、復活、天国の望みを与えて下さったのです。そのことを感謝したいと思うのです。イエス様の十字架と復活を通して、与えられる救いは全ての人々に提供されているのです。

 Ⅲ結論部

 私の義理の父、家内の父は、昨年の12月31日に天に召されました。肝臓がんを患っていて一年前に、余命1年と診断されました。昨年の4月にひ孫が生まれたので、夏に会わせようかと思いましたが、コロナ禍の中にあって断念しました。しかし、余命1年という事で、ひ孫に合わせようと、2020年12月31日に家族で神戸の父の家に行きました。父は喜んでくれました。体調はあまりよくなかったようですが、朝早く起きてシャワーを浴びて、お寿司やおせち料理を準備して待っていてくれました。孫たちとどこそこへ行ったとか、楽しい思い出を話していました。自分の生涯は幸せだったと言っていました。自分は1月3日に死ぬと言っていましたが、私たちがその日の宿泊場所のホテルへ行った時、救急車で運ばれて召されて行きました。父は、阪神大震災の時、仕事を失い、毎週、私たちが奈良の開拓伝道をしていた奈良西和教会の礼拝に出て、孫たちをかわいがってくれました。私は12月31日に父の家へ行った時、父に、「お父さん、自分の心の中に罪があるのがわかる。」と聞きましたら、「わかる」と大きい声で言いました。私は、「その罪のためにイエス様が十字架にかかって死んで下さったんですよ。うれしいですよね。感謝の祈りをしましょう。」と祈ると父は力いっぱい両手を組んで頭を垂れていました。最後にアーメンとイエス様を信じたことを確信しました。競馬が好きで、お酒が好きで、マイペースな父でしたが、この犯罪人のように、人生の最後で、最後の一日でイエス様の救いをいただいて、天国に行ったのです。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエス様が父に語って下さり、本当に12月31日に天に召されました。

 この犯罪人は、罪を犯し続けていたでしょう。悔い改めて、善い行いをする暇もありませんでした。罪を悔いてよい行いをする。そのような時間はありませんでした。イエス様は彼の前歴を問うことはしないで、ご自分が天の位を捨てて人となり罪人となられ、彼と同じ立場に立ち、そのままの姿、罪人のままの彼を救われたのです。天国に導いたのです。イザヤ書53章12節には、「罪人のひとりに数えられたからだ。」とあります。神の子、罪のないお方、清いお方が私たちを愛するがゆえに、「罪人のひとりに数えられた」のです。だからこそ、犯罪人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈ることができたのです。

 この犯罪人は、人生で最悪の場所、処刑場がイエス様との出会いを通して、イエス様の愛と恵みを受ける場所と変えられたのです。私たちも、今最悪の時、最悪の場所に置かれているのかも知れません。しかし、私たちの信じる神様は、その最悪の時、最悪の場所を恵みの時、恵みの場所、祝福の場所に変えて下さるのですから、何があろうとも、イエス様に信頼して、全てをお任せして歩みたいと思うのです。

私たちも、私たちがどのような罪を犯そうとも、神様に背を向けようとも、神様を否定しようとも、私たちもこの犯罪人のように、「わたしを思い出してください」と願うことが、祈ることができるのです。放蕩息子は、全てを失い、父の元に帰り、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(ルカ15:18-19)と言いました。父は弟息子が何をしたかではなく、息子の存在そのものを無条件で赦し、祝福したのでした。私たちも資格のない者ですが、私たちをそのままで受け入れて下さるのです。私たちは、このような真実の愛で愛されているのですから、愛されていることを覚え、この方がいつも共におられることを信じて、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(21年3月14日)

2021-03-15 08:33:32 | Weblog

ヘブル 9:11~15 永遠の贖い主、イエス・キリスト 21,3,14

  • 今日は、レントにはいり4回目の主日です。レントの期間40日の半ばを過ぎたところです。この期間は、イエスさまが十字架の死に向かう歩みに思いをはせる時です。古来より信徒の訓練、学び、洗礼準備をするときでもありました。コロナ下では、なかなかそうはいきませんが。毎主日唱えている、使徒信条は、イエス様の誕生から、十字架、復活,昇天、そして父なる神の右に座し、私たちを見ていることを言っています。レントの期間は、イエスさまの受難・復活に思いをはせつつ唱えたいものです。
  • 本日の聖書箇所は、まさに受難から復活・昇天し神の右に座していることを現しています。15節でイエスさまを、新しい契約の仲介者だと言っています。新しい契約とはなんでしょう?最後の晩餐の時に、イエスさまは「この杯は、あなたたちのために流される私の血による新しい契約です」(ルカ22:20)と弟子たちに言っています。新しい契約という意味、内容について弟子たちはその時点では、わからなかったのではと思います。まだ復活前ですし、新約聖書もなかったのですから。エレミア31:31以下に「みよ、わたしはイスラエルの家と新しい契約を結ぶ日が来る。それは、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは、かれらの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」と主が預言されているので、これを思い浮かべたかもしれません。旧約では、新しい契約ということばが使われているのはここだけだと思います。15節ではさらに「新しい契約」とは何かを示しています。「最初の契約ー旧約ですねーの下で犯された罪の贖いとしてイエス・キリストは死んでくださった。

召されたものが、永遠の贖いをうけつぐためである」と言っています。さらに、28節で「キリストも多くの人の罪を負うためにただ一度自身をささげられた後、2度目には罪を負うためでなくご自分を待望している人たちに救いをもたらすために現れてくださるのです」というのが新しい契約の中味です。

  • 新しい契約をどのようになしとげられたかは、11~12節にあります。「人間の手で作られたものでない、この世のものでない完全な幕屋―天の聖所―から人の世にこられ、自身の血によってただ一度神の聖所に入り永遠の贖いを成し遂げた。」別の言い方をすると、イエスさまが、十字架上で最後の時を迎えるとき、神殿の垂れ幕が上から下まで裂けたとあります。神殿の時代(旧約)は終わったことを現しています。イエスさまを通して神と直接の関係をもてるようになったということです。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のみもとにいくことができない。」(ヨハネ14:6)ということです。
  • それでは、旧約ではどのように罪を清めていたのでしょう。12~13節に、雄牛、雄羊の血によってしていたとあります。ある学者の計算によると、毎年の決まった祭りだけでも、雄牛130頭、雄山羊32頭、子羊1086頭のいけにえがささげられていたそうです。(レビ、民数記)その他個人の罪を負うためのささげものがあったことを考えるともっと多くなるのでしょう。神殿は血の匂いが充満していたと言われています。

 これを、イエスさまは、ただ一度ご自分の血によってすべての人の罪を赦し、永遠の贖いを成し遂げたのです。「神は実に、その一人子をお与えになったほどにこの世を愛された。それは、御子を信ずるものが、一人として滅びることなく永遠のいのちをもつためである。」(ヨハネ3:16)私たちは、この神が成し遂げてくださったことを、ただ信じるだけで罪が赦されるのです。神さまが用意していただいている恵を、ただ信じて受け取るだけでいいのです。信仰のみ、恵のみといわれていることです。

  • 神に罪赦されたのだから、私たちも人の罪は赦すべきだと、主は言っています。しかし、人には、他人の罪を簡単に赦すことができるのでしょうか?先日、新聞を読んでいたら、1936年(昭和11年)におこった226事件で父を亡くした渡辺和子シスターの記事が出てました。彼女は、子供の時226事件で,目の前で父親が青年将校たちに43発の銃弾を浴びてなくなるのを見るという経験をしたのです。父が目の前で殺された衝撃と悲しみは簡単には消えるものでなかったが、人に聞かれれば、恨みは乗り越えたとは答えていた。事件から50年たった時、反乱軍として処刑された15名の青年将校たちの記念の法要が西麻布の寺でおこなわれるので、遺族の方々から出席してほしいと言われ、迷ったが出席した。敵を赦すというキリスト教的な心掛けから出席したわけではなかった。法要のあと、墓に線香を供えて手を合わせた。振り返ると2人の男性が深々と頭を下げている。父にとどめを刺した2人の実弟だった。2人は涙ながらに、わたしたちこそ、先にお父様のお墓にお参りするべきでしたのに。・・・・これで私たちの2・26が終わりました。と話した。反乱軍という汚名を受けた身内を持ったこの方たちは、被害者のむすめであった私より、もっとつらい50年間を過ごされてきたのだと、その時気が付いたのです。この日を境に気持ちに区切りがつきました。神に仕えていたシスターでも、心の底から赦すということが難しかったのですね。人間にはできないことかもしれません。それだけに神さまから赦されていることのすばらしさを受け止めたいとおもいます。

 最後に、14節に興味深いことが述べられています。聖霊によって神にささげられたイエス・キリストの血によって、良心を清めるとあります。私たち、日本人はよく良心に誓ってなどと、約束したり、誓ったりします。良心というものは、まるで不変で絶対的基準となるのだと思いがちです。しかしそうでしょうか。私たちの、心の中には、2人の人がいて、そんなことはしてはだめだという人と、今回だけだからなどと言ってよくないことだと知りながらやってしまうことはないでしょうか。良心は失われやすいものです。聖書はこの良心こそが、キリストの血によって清められる必要があると言っているのです。キリストの血が良心を清める恵みに聖霊が導いてくださるのです。良心の聖化の恵みと言ってもいいでしょう。パウロも「わたしは、自分の内には、つまり私の肉には善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持っているのですから、信仰により聖霊の力により、人の良心はキリストの良心に変えられるのです。そしてキリストに似たものになっていくのです。救い清めて下さったイエス・キリストの十字架の下に日々悔い改めて立ち直らせて下さるのです。イエスの十字架に感謝して召されたものとして今週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(21年3月7日)

2021-03-07 16:27:27 | Weblog

日曜礼拝(受難節第三)        2021.3.7

目は口ほどに物をいう」 ルカ22:31~34,54~62

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第一日曜日を迎えました。今日も会堂に集い、あるいは各家庭や置かれた場所でライブ礼拝を通して、共に心を合わせて礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 新型コロナウィルス感染症の緊急事態宣言が、最初は7日に解除される予定でしたが、新規感染者の数があまり減少せず、医療も逼迫している状態で、21日まで2週間延長されることが決まりました。緊急事態宣言が解除されれば、会堂での礼拝に来られる方々も増加し、教会学校や聖書の学び等の再開の予定でしたが、礼拝のみの歩みが2週間続く予定です。本当に、皆なが、しっかりと感染対策をして、コロナにうつらない、うつさないと我慢し、制約の中で一生懸命に頑張っています。

 私たちは、制約の中、厳しい歩みが続きますが、私たちは歴史を支配し、私たちを守り導いて下さる神様を信じておりますので、神様に期待して、神様を信頼して歩んでまいりましょう。

 今日は、受難節第三日曜日、ルカによる福音書22章31節から34節と54節から62節を通して、「目は口ほどに物をいう」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様の執り成しがある

 先週は、最後の晩餐の席でのイエス様の大切な教え(聖餐の制定)、ユダの裏切り、弟子たちの「だれが一番偉いのか」という議論に対してお話ししました。今日の記事も、イエス様と弟子たちとの最後の食事の席でのお話し、その後、ペトロについてのお話しです。

 イエス様は、ペトロに話します。31節と32節です。「「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」」 最後の食事の席で、イエス様はユダの裏切りについて話しました。「見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。」(ルカ22:21) 弟子たちは、誰がイエス様を裏切るのか議論しました。ここで、イエス様は「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」と言われました。「小麦のようにふるいにかける」とは、もみがらと実を分けることです。実を残しもみ殻は捨てられるのです。弟子たちは、実ではなく、もみがらなのでこぼれ落ちてしまうのです。弟子たちのイエス様に対する姿勢が、信仰が試されるのです。結局は、弟子たち全てはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。ペトロもそうなのです。ペトロがイエス様を裏切り見捨てて逃げてしまっても、イエス様はペトロのために、「信仰が無くならないように」と祈っていて下さるのです。そして、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と励まして下さいました。

 しかし、ペトロはイエス様の言葉に反論します。納得できなかったのです。マタイやマルコによる福音書では、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言っています。ルカによる福音書22章33節では、「「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」」と言いました。弟子としての責任を果たしますという事でしょうか。責任感から語り、弟子としての覚悟を宣言しています。イエス様は、ここで「シモン」と呼ばれました。イエス様が最初ペトロに会った時、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)と呼ぶことにする」(ヨハネ1:42)と言われ、それ以来ペトロと呼ばれました。いつもペトロと呼んでおられたイエス様が、ここで「シモン」と呼ばれて、ただ事ではないとペトロも戸惑ったのかも知れません。ペトロの覚悟、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」を聞いて、イエス様は語ります。34節です。「イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 イエス様は、ここでペトロの覚悟を求めてはおられません。信仰には覚悟は、必要はないということでしょうか。もし、覚悟が必要であるならば、「覚悟して従いなさい。」とペトロに言われたでしょう。イエス様は、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と言われました。イエス様はペトロに何かを求めておられるのではなくて、私たちの信仰は、イエス様の祈りによって、とりなしによって守られているということです。イエス様は、ペトロがイエス様に従うから、誘惑に勝ち、命を懸けてイエス様に従って来るので、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」ということではないのです。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と誓いながらも、イエス様を3度も知らないとイエス様を見捨てて逃げていくようなペトロのために祈られたのです。私たちが、イエス様に背を向け、イエス様を見捨てて、裏切ろうとも、イエス様は私たちのためにも祈っていて下さるというのが真実なのです。

 私たちは、イエス様を救い主と信じて歩んでいても、苦しみや悲しみ、絶望を通して、イエス様を見ないで、信じないで行動することがあります。でも、イエス様は、決して私たちを見捨てることも、見放すこともされないのです。そのことを覚えたいのです。

 

 二、あなたはどこにいるのですか

 イエス様と弟子たちは、この後ゲッセマネの園に行きます。ここでイエス様は捕らえられ、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げてしまいます。(マタイ26:56、マルコ14:50)ペトロも逃げますが、54節を見ると、「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。」とあります。「ペトロは遠く離れて従った。」とは、イエス様とペトロの物理的な距離だけではなく、霊的な、信仰的な距離があるように思います。ゲッセマネの園では、祭司長やローマ兵がイエス様を捕えようとした時、ペトロは剣を抜いてイエス様を守ろうとしました。剣を抜くとは、この世の力で、自分の力で何とかしようとしたということです。「御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言いましたが、それは、自分の意志や力で、頑張りで何とかするということでしょう。ペトロや周りにいた人々は、「主よ、剣で切りつけましょうか」と尋ねました。そして、イエス様が答える前に、ペトロは剣を抜いて大祭司の手下の右の耳を切り落としたのです。つまり、イエス様の言葉が聞けない。聞かない状態になっていたのです。イエス様に尋ねつつ、意見を求めつつも、イエス様の意見、お考えを聞かないで自分の判断で剣を抜いたのです。「やめなさい」とイエス様は言われました。ペトロはイエス様に従っているつもりでも、自分に従い、自分の考えに従い、自分の力に従って行動したのです。ペトロは、イエス様の思いとは、考えとは、違う方法でやり方で、自分のタイミングで何とかしようとしたのではないでしょうか。ペトロの独断、イエス様の言葉を聞かない暴走が始まっていたように思うのです。信仰から離れるというのは突然ではなく、その道筋があるのです。

 「ペトロは遠く離れて従った。」というペトロの現在の位置は、イエス様と運命を共にするというイエ様の近くに寄り添った状態ではなく、あるいは、他の弟子たちのように遥か彼方に逃げて行ったという距離でもない。つかず離れずといった所でしょう。言い換えれば、中途半端な位置にいた。「ペトロは遠く離れて従った。」とは、今のペトロの状態をよく表しているように思います。私たちは今イエス様とどのような関係にあるでしょうか。

 私たちは、イエス様との関係において、自分が何者であるかを話すのか話さないのか。イエス様と私の関係をどう表現するのか、私たちは日本の社会の中で多くの葛藤や闘いがあるのです。でも大丈夫。イエス様は私たちの全てを御存じで、そのままの私をそのままで受け入れ、愛し、私たちのために執り成していて下さるのです。

 大祭司の中庭で人々が火をたいて座っていたので、ペトロも仲間に加わり、腰を降ろしていると、56節には、「するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。」とあります。「じっと見つめ」とありますが、刺すような視線で見て、焚火の火で顔を照らしたので、イエス様と一緒にいたことを言ったのです。ペトロは、「わたしはあの人を知らない」と答えますが、少したって他の人が、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは「いや、そうではない」と答えました。一時間ほどたって、別の人が「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言いました。すると、ペトロは「あなたのいう事はわからない」と答えました。この言葉を言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いたのです。ペトロは、イエス様を三度知らないと言ったのです。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と言われたイエス様の言葉の通りになりました。

 

 三、あなたを見つめておられるイエス様の深い愛

 61節には、「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。」とあります。マタイやマルコの福音書では、ペトロは鶏が鳴いて、イエス様がペトロに「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろ」という言葉を思い出したとあります。ルカは、鶏が鳴いたからではなく、イエス様が振り向いて、ペトロがイエス様の顔を見、イエス様の目に触れて、ペトロを見つめられたので思い出したのです。

 ペトロがそうであったように、私たちもいざという時には、愛する人、大切な人さえも簡単に裏切ってしまう存在、弱い人間であることをイエス様は知っておられるのです。イエス様は全てのことを知っておられるのですから、ペトロのように、自分の力で、頑張りで、背伸びをして何とかするというのではなく、イエス様の前に隠すこともなく、噓をつくこともなく、自分だけは大丈夫と強く見せる必要もないのです。私たちは弱さを持ちながらでも、罪を犯し続けているのにも関わらず、罪あるままでイエス様に赦されているのです。だから、背伸びして自分を正当化することもないのです。

 たとえ、私たちもペトロのように、イエス様を裏切り、イエス様を見捨てようとも、知らないと否定しようとも、イエス様が私たちを裏切ることも見捨てることも、知らないと否定することなど絶対にあり得ないのです。「主は振り向いてペトロを見つめられた。」とあり、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」というイエス様に、私たちも触れられて、イエス様から愛されていること守られていること、受け入れられていることを知り、確信して、私たちもたとえイエス様から離れてしまっても、イエス様の眼差しの中に置かれているので、挫折からの回復が始まって行くのです。

 22章32節にある、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」の「立ち直る」は、原語では、「方向転換する、立ち戻る、悔い改める」という意味があるようです。「主は振り向いてペトロを見つめられた。」というイエス様の眼差しが、ペトロの立ち直りを導くのです。「見つめられた。」という言葉は、「注視する、目を向ける」という意味があります。ヨハネによる福音書1章42節には、イエス様が初めてペトロに会った時の事が記してあります。「イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)と呼ぶことにする」」と言われたのです。この時の「見つめられた」と、

主は振り向いてペトロを見つめられた。」の「見つめられた」とは同じなのです。ペトロが岩のようになると「ペトロ」という名前をつけられ、ペトロに期待されたイエス様の暖かい眼差しは、ペトロと名前をつけられた時からペトロがイエス様を3度知らないと否定したこの時まで、イエス様の誠実さは何も変わっていないのです。

 「主は振り向いてペトロを見つめられた。」ここには、イエス様の言葉はありません。一言の言葉も存在しない。イエス様のペトロを見つめる眼差しは、ペトロを愛し、慈しんでおられるのです。イエス様の眼差しの中にペトロが置かれているのです。「目は口ほどに物をいう」のです。ペトロは、イエス様の言葉を思い出して、大泣きします。絶望します。ここからペトロの姿は消えます。ペトロはおそらく、自分の不真実さ、不信仰さ、イエス様を裏切ったことからイエス様から離れようとします。絶望するのです。しかし、振り向いてペトロを見つめられたイエス様は、ペトロから離れることはないのです。ペトロがイエス様と自分との関係を切ったとしても、またつないで下さるのです。それを示すのは言葉ではなく、愛と慈しみのイエス様の眼差しの中に置かれているということなのです。

多くの人がイエス様を信じてクリスチャンになりましたが、様々な理由で信仰から、教会から離れて行かれました。イエス様との関係を切っていかれました。しかし、イエス様の側ではそうではないのです。あなたがどのような状態で、どこにいても、「主は振り向いてあなたを見つめておられる」のです。だから、安心してまたお帰り下さい。イエス様はあなたのお帰りを心から待っておられるのです。

 

 Ⅲ結論部

 ペトロの最大の欠点は、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」という、自分だけは大丈夫という傲慢な姿勢でした。イエス様は、「失敗しないように」とか、「苦しみに会わないように」と祈られたのではなく、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」とあります。そして、失敗はある。苦しみに会う。けれども、「あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言われたのです。

 パウロ先生は、弱さの中にこそ、神の力、キリストの力が現れる、発揮されると自分の経験から語りました。ですから、弱くてもいいのです。失敗があってもいいのです。弱さの中にある私たちと失敗して傷ついている私たちの罪の身代わりにイエス様は十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげ死んで下さり、墓に葬られましたが、三日目によみがえり、神の力を示されました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの罪が赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命、復活の望みが与えられたのです。私たちの弱さの中に力を示し、寄り添っておられるお方、何よりも私がどのような状況でもいつも見つめていて下さる。イエス様の眼差しの中に置いていて下さり、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と励まして祈っていて下さるのです。

この週も、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」とあるように、このお方が共におられ、そのままの私を、あなたを愛して、見つめていて下さいます。決して私たちとの関係を切らないお方です。安心して、全てをイエス様にお任せして歩んでまいりましょう。

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