江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年10月29日)

2023-10-29 12:37:55 | Weblog

日曜礼拝(三位一体21主日)       2023.10.29

神の恵で信仰が覚醒する」  マタイ4:1~11    

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。10月の第五日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。3週間ぶりの御無沙汰です。昨日は、青葉台教会創立55周年記念のコンサートが持たれ、ユーオディア・アンサンブルの6名の方々の素晴らしい演奏に、安らぎのひと時、恵みの時を持ちました。お祈りして下さった方々、参加して下さった方々に心から感謝致します。

 10月31日は何の日でしょうか。ハロウインでしょうか。この世は、まさにハロウィンの様相ですね。わたしが行きつけの湯けむりの里には、ハロウィンの飾りがあります。ローマ・カトリック教会では、11月1日を「諸聖人の日」として守られてきました。「諸聖人の日」は、古くは「万聖節」とも言われ、亡くなった聖人たちを記念する日です。英語では、「オール・セインツ・デー」と言い、別名「ハロウ・マス」とも言うようです。「ハロウ」は、「聖なるものとする」という意味で、「マス」とは、お祭りを意味します。クリスマスのマスです。「ハロウ・マス」とは、「聖なるものとする祭り」という意味です。この「ハロウ・マス」の前夜イブが、「ハロウ・イブ」訳すと「ハロウィン」です。「ハロウィン」は、キリスト教の行事ではなく、ドゥルイッドというケルト人の土俗宗教の祭りです。ケルト人の暦の新年は、11月1日から始まり、その前夜日本で言えば大みそかの夜、ここでは10月31日には、死んだ人の霊が家族の許に帰って来ると信じられており、その時同時に、悪い霊や魔女が出て来て悪さをするので、この夜に仮面をかぶったり、野菜をくり抜いて作ったランタンに火を灯したりして、魔除けにする習慣が生まれたと言われているようです。私が言いたいのは、10月31日はハロウィンではなく宗教改革記念日だということです。ここまで来るのに長かったですね。マルチン・ルターが1517年10月31日に教会の扉に95箇条の意見書を提示し、カトリック教会の免罪符制度の乱用を批判すると共に、信仰の意味を問いかけたのでした。私たちは、宗教改革を覚え、自らの信仰を見つめ、さらなる信仰の向上を目指したいと思うのです。

 今日は、マタイによる福音書4章1節から11節を通して、「神の恵で信仰が覚醒する」という題でお話し致します。

本論部

一、試練にあっても神様の守りの中にある

 マルチン・ルターは、宗教改革の三大原則として、「聖書のみ」、「信仰義認」、「万人祭司」を示しました。「聖書に返れ」と聖書の言葉の大切さを示しました。今日の箇所は、イエス様が聖書の言葉を大切にされたことが記されています。4章の前、3章の最後は、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)という声が天からあったことが記されています。4章のサタンの誘惑はイエス様が聖霊を受けられ、聖霊に満たされ、父なる神様から、愛する子、神の子としてのお墨付きをいただいた後に、霊に導かれて荒れ野に行ったと4章1節は語ります。新約聖書一日一章で、榎本保郎先生は、「だから私たちも、現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。」と語っておられます。その通りだと思います。

 私たちが、聖霊に満たされていたら誘惑に合わないということではないということです。聖霊に満たされていても誘惑はあるし、聖霊様が誘惑を受けることを肯定するのです。ヨブ記には、神の使いたちの集まりに、サタンも参加し、ヨブの財産を奪うこと、ヨブの体を傷つけることを神様に願い、神様はそれを許されたので、ヨブは試練を受けることになりました。ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ記1:1)とあります。イエス様の試練も、私たちが受ける試練も、神様の知らないことではないということです。

 イエス様は、誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行きました。これから公生涯に入る時、神の子として歩む、救い主として歩む時、ふさわしいかどうかのテストを受けられたということでしょうか。救い主としての資格があるのかということです。アブラハムは、神様から一人息子のイサクをささげよという神様の言葉に忠実に従い、信仰のテストに合格しました。イエス様は、40日間断食されたのです。偉大な指導者モーセは、十戒をいただくために、シナイ山で40日間断食しました。ノアの洪水は、40日間雨が降り続きました。イスラエルの民は、40年間荒野をさ迷いました。エリヤは、イゼベルの脅しに40日間さ迷いました。「40」という数字は、苦しみの時、試練の時、あるいは、神様の導きを待つ期間といえます。旧約聖書では、「断食」は、悔い改めの時や嘆き悲しむ時に行われたものでした。断食の目的は、祈りに専念するためだと言えるでしょう。2節の最後には、「空腹を覚えられた。」とあります。神の子が空腹を覚えられるはずがありません。しかし、イエス様は100%神様であり、100%人でありました。イエス様は、食べなければ、断食すれば空腹にもなる肉体を持っておられたのです。何も食べなくてもへっちゃらというのではないのです。このように、40日間の断食のゆえに、精神的にも肉体的にも、最も弱った時にサタンは攻撃する、誘惑するというのです。ペトロの手紙一5章8節には、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」というみ言葉があります。

 私たちは、どんなに備えても、信仰的に恵まれようとも、聖霊に満たされようとも、誘惑は避けられないことを覚え、誘惑を受けることは、不信仰でも、悲しいことでも、恥ずかしいことでもない、ということを覚え、神様の守りの内にあることを信じて歩みたいと思うのです。

二、神の言葉で戦うイエス様

 サタンの誘惑が始まります。3節です。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」とあります。リビングバイブルには、「ここに転がっている石をパンに変えてみたらどうだ。そうすれば、あなたが神の子だということがわかる。」とあります。サタンは、「神の子なら」とイエス様を誘惑しました。洗礼を受け、聖霊を受け、父なる神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というお墨付きをいただいたイエス様に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とサタンは誘惑しました。この誘惑は、私たちにとっては何の意味にもなりません。なぜならば、私たちは石をパンにすることは絶対にできないからです。しかし、イエス様には可能なのです。イエス様にできることを誘惑してきたのです。イエス様が、転がっている石をパンに変えるなら、パンは生きる力を生み出す源であり、イエス様が確かに神の子であるとの最高の証明になるのです。また、御自分の空腹を満たすことができるのです。一石二鳥です。サタンは、自分のために神の力を使えと誘惑しました。イエス様は、4節で、「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」」とあります。イエス様は、パンで生きることを肯定されました。ただ、「人はパンだけで生きるものではない。」パンだけあればよいとは言われないのです。物質的なものが満たされ、権威が与えられ、多くの友人がおり、たくさんの楽しみがあり、健康であっても幸せではない、という人々がたくさんおります。それは、「人はパンだけで生きるものではない。」ということでしょう。イエス様は、パンを肯定しながら、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたのです。「と書いてある。」というのは、イエス様が旧約聖書の申命記8章3節の言葉、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」という聖書の言葉を引用されたのです。出エジプトしたイスラエルの民は、マナというパンで養われましたが、それは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」ということなのです。

 するとサタンは、5節,6節です。「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」」とあり、サタンは、イエス様を神殿の屋根に立たせて、飛び降りたら、天使たちが守って無事に舞い降りることができる。人々があっというパフォーマンスを見せたら、神の子としての証明になる。しかも聖書にそう書いてある、と誘惑しました。サタンも、「と書いてある。」と旧約聖書の詩篇91篇11節、12節、「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」を引用したのです。イエス様が聖書を引用したので、サタンも聖書を引用したのです。サタンも神様の言葉、聖書を知っているということです。イエス様は、この誘惑に対して、7節で、「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。」とあります。イエス様は、「とも書いてある」と再び、申命記6章16節の言葉、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」と答えられたのです。飛び降りたら、守って下さるかどうかを試してから信頼するということではないと言われたのです。イエス様は、聖書の言葉をとても大切にし、イエス様ご自身、聖書の言葉に生かされていたということがわかるのです。いざという時のためには、私たちは、日々聖書の言葉、神の言葉に触れ続けるということを大切にしたいと思うのです。

三、楽な道ではなく、十字架の厳しい道を選ばれたイエス様

三番目の誘惑は、8節、9節です。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。」とあります。1と2番目のサタンの誘惑は、「神の子なら」、それを実行することで、神の子の証明となるという、自分を守るために、神の力を使えという誘惑でした。3番目は、頭を下げれば、全てのものを与えると言いました。サタンの誘惑は、イエス様を十字架につけさせないことでした。十字架の苦しみをしないでも、全てを与えるから、そうなれば何でもできる。全てを支配し、人々を幸せにできる。サタンの最も恐れていることは、イエス様の十字架と復活を通して、罪の赦しと永遠の命が与えられることでした。イエス様にとって、公生涯を始めるにあたって、神の子として歩むにあたって、全てを与えられ、支配者として、人々を幸せにできるならという誘惑はあったのかも知れません。その誘惑に対して、10節です。「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」」イエス様は、また、申命記の6章12節の言葉、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」という言葉を引用されました。「退け、サタン。」という言葉は、マタイによる福音書16章23節で、イエス様が、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを言った時に、ペトロが「そんなバカな」とイエス様の十字架と復活を否定した時に、ペトロに対して、「サタン、引き下がれ。」とイエス様が言われたのです。サタンがイエス様の十字架と復活を否定したように、ペトロもイエス様の十字架と復活を否定して、サタンに成り下がってしまったからでしょう。イエス様は、サタンそのものに、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」とみ言葉、聖書の言葉で対抗し、勝利したのです。11節には、「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」とあります。イエス様は、サタンからの誘惑に勝利して、十字架に向かわれるのです。イエス様は、父なる神様を試して、自分の思いや願いを優先することによって、父なる神様の恵みを確かめることなく向かわれた十字架の死なのです。私たち罪人を愛し、私たちの罪を赦すために、私たちの罪を赦し贖うために、罪のない清いイエス様が、私たちの身代わりに、父なる神様から裁かれ、罰を受け、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで墓に葬られ、三日目に甦らされて、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの犯す全ての罪を赦し、清め、義とし、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さるのです。イエス様は、サタンの誘惑に勝利されたからこそ、十字架と復活が現実のものとなり、私たちの罪が神様の恵みによって赦されたのです。

Ⅲ結論部

 マルチン・ルターは、宗教改革に着手して10年後、彼は精神的にも、肉体的にも、信仰的にも疲れてしまいました。カトリック教会の勢力は反撃に転じ、当時はやりのペストで長女が病死し、ルター自身もサタンの誘惑に圧倒され、神経衰弱に陥りました。その時、詩篇46篇「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」に励まされ、「神は我らが固き砦」という賛美を作りました。宗教改革の進軍歌とも呼ばれているようです。実際は祈りの歌であったようです。先ほど讃美しました新聖歌280番です。「神はわがやぐら わが強き盾。苦しめる時の 近き助けぞ。おのが力 おのが知恵を頼みとせる 陰府のおさもなどおそるべき」ルターもまた、厳しい宗教改革者としての歩みの中で、サタンの攻撃、誘惑に遭いましたが、神の言葉、聖書の言葉で立ち上がることができたのです。

 イエス様も、ルターも聖書の言葉、神の言葉でサタンの誘惑に勝利しました。私たちも同じです。神様の言葉で生きるのです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とイエス様が、申命記の言葉を引用されたように、旧約の時代も新約の時代も、神の言葉、聖書の言葉で生きるのです。「聖書のみ」とルターは言いました。聖書の言葉は、恵みです。別の言い方では「恩寵のみ」という表現があります。ただ、神様の恵みによってのみ、私たちは生きる者となるのです。十字架と復活とは言い換えれば、神様の愛と恵です。私たちは、イエス様が十字架につくほどに、神の子であるお方が死んで下さるほど、私たちは神様に愛されているのです。私たちは、神様の恵みによって生きるのです。私たちの信仰は、神様にどれほど愛されているのか、どれほどの恵みが与えられているのかを知る時、信じる時、私たちの信仰は覚醒されるのです。神様の言葉に押しだされて、神様の愛と恵みに触れて、私たちの信仰は、今までにない喜びと感謝に生きる者と変えられていくのです。そのことを覚えると同時に、愛の主、恵みの主であるイエス様が、共におられ、私たちがサタンの誘惑に遭おうが、苦しみや痛みの中に置かれようが、イエス様の愛と恵みは変わらずにふり注いでいることを信じて、感謝して、この週も歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(23年10月22日)

2023-10-22 16:04:39 | Weblog

聖霊降臨節第22主日礼拝説教                                                                         2023年10月22日

満山 浩之

『永久不変の真理』

マタイによる福音書 22章15節〜22節

  

 皆さんは税金についてどのように思っておられるでしょうか。正直、消費税なんかはどんどん上がってきていて、嫌だな〜なんて思っている人も多いのではないかと思います。この日本に住んでいるだけで、税金は掛かってくるものです。消費税、所得税、住民税、県民税、車乗っている人は自動車税、もっともっとたくさんありますが、必ず掛かってくるものは消費税だと思います。何かを買うときには、いちいち消費税が取られますよね。その税金で恩恵を受けている人も多いので、悪いことだけではないですが、子どもの医療費が無料であったり、所得によっては児童手当もあったりします。

 私は10年くらい前までヨーロッパのエストニアという国に住んでいました。この国は、IT先進国であのSkypeというインターネットで、ビデオ通話の出来るシステムを開発したのも、このエストニアなのです。このエストニアの消費税は、10年前当時から20%なのです。高いと思いますよね。でも、色々なものが無料で与えられているのです。例えば、公共交通機関が全て無料だそうです。私が住んでいた次の年から無料化になったそうです。このように納税するというのは、私たちがこの世を生きていく上で、切っても切れない関係でもあるということが言えると思います。

 この当時の人たちもそれは同じでした。当時の人たちの税金の種類は大まかに分けて三つありました。地税、所得税、そして人頭税です。地税は、穀物の1/10、酒とぶどう酒の1/5を、一部は現物で、一部は現金で納めることになっていました。所得税は、収入の1%を納めていました。最後に人頭税は、14歳から65歳までの男の人と、12歳から65歳までの女の人が納めるもので、その額は1デナリオン、つまり、当時の労働者1日分の賃金、今で言うならな1万円くらいでしょうか、それを納めていたのです。人の固定資産税みたいなものです。これらの税金の中の、人頭税についてを今日の人たちは話していたのです。

 そして、今日の箇所はファリサイ派の人たちと、ヘロデ派の人たちが一緒になってイエス様を陥れようとしていた場面です。普段、この両者は仲がものすごく悪い人たちだったのです。でも、イエス様を陥れようと悪巧みをしているところが共通していたので、ここは協力関係になって、仲良し風になっていたのです。

 ルパン三世が、銭形のとっちゃんとは、大泥棒と警察ですから、逃げるルパン三世を追っかけて捕まえようとする銭形警部の構造です。その二人が、極々たまに協力し合って、敵を倒していく場面がありますが、そのようなイメージでしょうか。このファリサイ派の人たちというのは、ものすごく頭がキレッキレで、賢くて言葉も巧みな人たちだったのです。

 彼らは質問してイエス様を追い込もうとします。16節17節「先生、私たちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、誰をもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」

 もしイエス様が税金を納めないでも良いと言えば、ローマ政府にイエス様を反逆者として訴える口実ができるのです。そうすればイエス様は逮捕されます。もし、税金を納めるのが正しいと言えば、イエス様は人々の人気を失います。なぜなら、人々は納税を嫌っていたからです。誰でも税金は喜ばないものですが、特にユダヤの人々は、神様を王としていた神権国家でしたから、地上の王に税金を納めることはその王権を認めることとなってしまうので、神様を冒涜すると考えていたのです。そこでイエス様がどのように答えられたとしても、自分で困難を招くだろうと、ファリサイ派の人たちは考えていたのです。

 一方ヘロデ派の人たちは、ガリラヤの王ヘロデの一党で、ローマから権力を与えられていたために、ローマに積極的に協力していた人たちだったのです。この考え方が真逆の両者が今だけ、協力関係になって、イエス様を陥れようとしている。 それくらい彼らの中では、本気度が高かったのです。 

 私たちは、この世に神様によって命を与えられて、神様によって生かされています。心臓がドクドクと動いているのは、神様の守りの中を歩んでいるからです。私たちは生まれながらにして、神様から離れてしまいやすい性質を持っている、神様なしで生きようとしてしまっている、それを聖書は罪、的外れと言いますが、それから神様に立ち返ることができるように。人間本来の生き方である、神様と一緒にこの世の中を歩んでいけるように、神様は、イエス様を送って下さった。的外れな人生を歩んでいた私たちに、罪に溺れていた私たちに、人間が本来与えられる神様からの祝福のある人生、恵み豊かな人生を歩んで欲しいと思っておられるのが神様です。ですから、この世のすべてを造られた神様は、私たちを救いたいといつも願っておられる。私たちは心疲れて、ストレスが多過ぎて、体調を崩し、心身共に落ち込んでしまっているときに、自然と足が向くのは自然界です。綺麗な海があるビーチや、マイナスイオンが出ていると言われる森林や山登り、川のせせらぎの音に耳を傾け、動物たちの鳴き声に心が安らぎ、雑踏な普段の生活から逃れて、心を落ち着かせるときをつくる。これは神様が私たちを造られた証拠です。なぜなら、神様によって造られた大自然の場所に、神様によって造られた私たち人間がそこに身を置くと、心が魂が充電されていく、生き返っていくということは、神様なしでは生きては行けないということに気付かされるので、そのことを証ししているのと同じだからです。これらを無視して、自分勝手に生きている人というのは、このイエス様を嫌いますし、憎みます。自分の思い通りのこととは違うことをしなければならないからです。

 ファリサイ派の人たちやヘロデ派の人たちも同じです。でもイエス様は「税金に納めるお金を見せなさい。」と言われました。このデナリオン銀貨には皇帝の肖像が刻まれていました。当時の社会では、貨幣というのは王権の象徴であって、王は王座に就くと、すぐに自分の貨幣を造らせました。また実際に王でない者でも自分の貨幣を造らせて、自分が王であることを示そうとしました。このお金は、肖像が刻まれている王の所有物であるとみなされていたのです。イエス様は、この銀貨には誰の肖像が刻まれているかと尋ねられました。「皇帝のものです」と彼らは答えました。するとイエス様は「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」と言われたのです。

 このイエス様の教えは、いつの時代にも当てはまるものです。クリスチャンというのは、二重の国籍を持っています。一つは自分が生まれ育った国の国籍を持っていて、その国から多くの恩恵を受け取ることができます。政府は市民を法律を破る者から守り、数々の便宜を与えます。

 例えば、国家は電気を送り、浄化装置、水道などの公共施設を提供します。福祉国家では、教育、医療、失業者の救済、老後の保証などを国家が与えています。そのために市民は国家に対して義務を負うのです。クリスチャンは信頼される人物として、国家に対して良い見本となることが求められています。その市民としての義務を怠る人というのは、クリスチャンとしての義務を怠っていると言っても良いでしょう。クリスチャンがもし、国の政治に関与することを拒み、政治を自分勝手な人たちに任せるとしたら、国民の生活も国の産業もどれだけ多くの損害を受けることになるでしょうか。

 金子道人牧師は、政治家になられて参議院議員の事務所で牧師宣教師限定で、祈祷会を定期的に行なっています。この日本の政治が行われるど真ん中で、賛美歌を大声で歌い、国の祈祷課題を共有し、そして、心を一つにし共に祈っていく。私も参加させていただきましたが、私たちが知らないことがたくさんありました。クリスチャンである横田早紀江さんの娘さんが拉致されていまだ行方知れず。このことを積極的に取り扱っているのが、金子先生です。できることは少ないけれど、拉致問題を風化させないことが今できることだとおっしゃっていました。クリスチャンというのは、その国の支配から受ける特権を、国に返す義務のある者でもあるのです。

 でもクリスチャンというのは、天国の市民でもあります。神様を信じて、イエス様を自分自身の救い主であると心に迎え入れ、神様と一緒に生きている者として、神様に従っている者として、人としての在り方、神様を愛し、隣の人を愛していく生き方、そのように生きる者として変えられて来ています。私たちは完璧ではありませんから、罪から救われたとしても、罪人には変わりないですから、どんどんと神様から離れてしまいやすいです。でも、神様の言われる生き方、人としての在り方を目指していくことができます。忘れてしまいやすい生き物ですから、私たちは日々神様に祈るのです。だから、私たちは日々聖書を読むのです。私はクリスチャンだからと言って、世の中の人と同じように、人を罵り、あざけり、悪口を言い、意地悪な心でいたらどうでしょうか。それは神様の顔に泥を塗っているのと同じです。

 私たちの背後には、目には見えませんが、神様が、命までささげて犠牲となって十字架で死んでくださったイエス様が、両手を広げ、おられるのです。その神様の存在を証ししていくこと、これがクリスチャンの任務でもあります。この二つの国籍を持つ者としての責任が、すべて一致すれば良いのですが、そうもいかないのが世の中です。そして、これらは必ずしも対立するものでもありません。

 でももし、クリスチャンが、ある一つのことを神様の御心だなって祈りの中で確信している場合には、それを行動に移してください。神様はそれを喜んでくださるでしょう。またもし、神様の御心ではないなと祈りの中で、また心の中におられる聖霊なる神様が騒ついて導いておられるならば、それらを行うことはやめた方が良いでしょう。今日の午後に行われるユース向けの恋愛セミナーでも、リベカ先生がビシバシ、アドバイスされると思うので、楽しみにしていてくださいね。この二つの責任や義務の境界線がどこにあるのか、イエス様が明確に示して下さっているならば、私たちは楽ですし、従いやすいです。でも、イエス様は明確には言われていません。それはそれぞれが与えられてる良心に、心の内に与えられている聖霊なる神様にいつも尋ねるということを、委ねられているからです。

 でも、本当のクリスチャンというのは、これがイエス様が示される絶対に変わることのない、そして永遠になくなることのない真理であることを信じているということです。自分自身が与えられている国籍の国に対して善き市民であり、同時に天国の善き市民であるようにとイエス様は今日の箇所で、当時の人たちにも、そして今を生きる私たちにも教えておられます。私たちは神様にはもちろんのこと、人々にも誠実であることが求められているのです。

 私が初めてブラジルへ行ったときのことです。ブラジルのイメージとしては、物を盗まれるのではないかという不安がいつもありました。サッカーチームの寮で生活していましたが、同じ部屋の選手に物を盗られないように荷物にはいつも鍵をしていたり、ブラジル人の目にはいつも警戒していたのです。でも実際は違いました。彼らは私をいつも助け、愛を示してくれたのです。物を盗られるのではないか、というイメージから、逆に物を与えられた、愛を実際の行動で示してくれた。彼らはクリスチャンだったのです。この世の生き方ではなくて、イエス様を信じる者として、実際に行動に移し見ず知らずの人を助けてくれた。それは天国の市民としても、とても素晴らしい行いです。神様は喜んでくださっていたでしょう。そうやって、私の心の中に、信仰の種を植えてくれてから6年後、私はクリスチャンになろうと決心したのです。

 私たちもこの世の中を生きている者です。目には見えないですが、二つの国籍を持っている者です。ペトロが自身の手紙の中でこう言っています。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を恐れ、皇帝を敬いなさい。」(ペトロ一 2:17)まだまだこの世の中には、神様の存在、イエス様の存在を知らない方がたくさんおられます。どうか、その人たちに福音が届くように、私たちが心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、イエス様の御言葉に耳を傾け、そして、実際に行動に移してまいりましょう。

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日曜礼拝(23年10月15日)

2023-10-15 15:04:37 | Weblog

ガラテヤ2:11~15  人の目より神の目   2023,10,15

  • ケファとは、ペトロのこと。シリアのアンテイオキアは、ガリラヤより北のほうです。アンテイオキアというところは、使徒11章で、ステファノの殉教の後、エルサレムで迫害が起こったとき、多くのギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者が散っていったところの一つです。そこでその人々は主イエスについて福音を告げ知らせたので、多くの人が信じて主に立ち返ったとあります。ユダヤ人、異邦人の区別なく交わりをもっていたようです。初めての異邦人教会とも言っていいのでしょう。割礼なしの福音は、ユダヤ人キリスト者にとっては驚くべきことだったと思います。そのことがエルサレムの教会に聞こえたので、様子を見にバルナバを派遣したのです。バルナバはタルソにいたパウロを探してここにつれてきて、2人はこの教会で一緒に丸1年間教えたとあります。弟子たちはここで初めてキリスト者と呼ばれるようになったところです。
  • そのアンテイオキアにペトロが来たのです。ペトロは、はじめは異邦人とも一緒に食事をしていたのです。使徒10章でペトロは、カイサリアにいた百人隊長のコルネリウスたちという異邦人に洗礼を授けています。その時ペトロは「主は人を分け隔てなさらないことがわかった。どんな国の人でも神を畏れて正しいことを行う人は神に受け入れられる」と言っていたのです。異邦人を受け入れることを認めていたのです。そのペトロが、エルサレムのヤコブのもとから、救い

には割礼が必要だと思っている人々が来ると、割礼を受けている者たちを恐れて尻込みし、異邦人と食事をしなくなったのです。13節で、ペトロだけでなくほかのユダヤ人たちやバルナバまでも、それに同調してしまったのです。彼らは、心にもないことを行い、エルサレムから来た人々のみせかけの行いに引きずり込まれてしまったのです。ペトロは、異邦人を受け入れていたのに突然、それを否定するような間違った行動をとったのです。人の目を恐れて神の目を見なかったところに間違いがあったのです。恐れは福音の真理に徹底的に信頼しきれないところから生じます。パウロは、ペトロたちの行為をキリストにあってすべての人は神の前では一つであるという福音の真理から外れていると批判しているのです。ガラテヤの人々に、あなたたちが惑わされている教えはこういうものです。だから私が告げ知らせた正しい信仰に戻りなさいと言っているのです。しかし、アンテイオキア教会は分裂してしまったのです。神の選びの民としてのユダヤ人にとっては、キリスト者になっても割礼と食事規定の維持は、敏感に反応する重要問題だったのです。これを守らないと神との契約の民としての資格を危うくすることだったのです。このアンテイオキア事件ともいうべきこのことは、パウロにとっても重大な転機になったのです。パウロは怒り、皆の前でペトロに向かって「あなたはユダヤ人でありながらユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」と批判したのです。ペトロが、15節にあるように「異邦人のような罪びと」としてふるまっていたのを皮肉ったのです。

  • 当時のユダヤ人キリスト者の立場になって考えると、創世記17章に、神とアブラハムとその子孫との間の契約で「男子はすべて割礼を受ける。無割礼の男は民の間から断たれる」とあります。無割礼の異邦人とは交際しないという契約です。当時のユダヤ人キリスト者の多くはキリスト教をユダヤ教の一派と受け止め、律法を守ること、特に割礼と食事規定は当然守るべきだと考えている人も多かったようです。特にエルサレムのキリスト者はそう考えていたようです。エルサレムでは、ペトロより主の弟ヤコブの影響力が大きくなっていたことも影響したかもしれません。異邦人とは交際しないこと、ましてや共に食事をすると、食事規定に違反する恐れがあるので避けていたようです。ギリシャ語を話すユダヤ人キリスト者は、異邦世界で暮らしている人が多かったので、そこまで厳格ではなかったようです。
  • 私たちも、その場の空気に同調してしまうことが多いのではないでしょうか。自分が違う意見をもっていても大半の人が支持しているならと黙ることはないでしょうか。日本人はその場の空気に支配されやすい国民だとよく言われています。空気を読めよ、などと言われることもおおいのでは。日本は空気教という一神教があるともいわれます。長いものに巻かれろという言葉があるくらいです。少数意見がほとんど認められない社会と言ってもいいでしょう。当時の多くのユダヤ人キリスト者たちも、ペトロやバルナバに同調したのではないでしょうか。
  • ヤコブ、ペトロとパウロ、バルナバの間で合意された、エルサレムでの使徒会議で、パウロは異邦人伝道に、ペトロはユダヤ人伝道にという役割分担(使徒15章)の中途半端性があらわにされたのです。しかし、イエスさまは、口に入るものは人を汚さないとか、神が清めたものを清くないなどといってはならないと食事規定を否定し、さらにユダヤ人から罪びとと言われた人々に寄り添い救われたのです。そのうえ、全世界に行って福音を宣べ伝えよと言っているのです。世界のすべての人々の救いのために十字架にかかりその罪を赦し復活して導いているのです。パウロもユダヤ人にはユダヤ人のように、異邦人には異邦人のように伝道すると言っています。それぞれの民族の文化は尊重するが、救いはそれと関係ないことを示しています。ユダヤ人が割礼をしていても、それは救いとは関係がないと言っているのです。ここでのパウロの伝道は、アンテイオキア教会の分裂ということにはなりましたが、パウロはこのことを通じて独立して、神の恵みによる救い、信仰義認という、福音の真理を確信をもって外に向かって伝道に歩んでいくのです。排他的民族信仰ではなく、割礼なしですべての人を受け入れるというパウロの信仰は、その後のキリスト教の発展にとって

画期的で重大なことだったのです。パウロの主張したことは、ユダヤ人キリスト者は異邦人キリスト者にユダヤ化することを強要はできないということでもあったのです。信仰義認という考えでユダヤ人と異邦人の壁を壊したのだとも言えます。すべての人の罪を許すために十字架にかかり、復活したイエスさまは、世界中の人人が福音に立ち返ることを望んでいます。わたしたちも、異なった教えや、空気に支配されず福音の真理に立って今週も歩みたいものです。

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日曜礼拝(23年10月8日)

2023-10-08 12:56:54 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後18主日)       2023.10.8

愛の三角関係」  マルコ12:28~34    

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第二の日曜日となりました。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様の賛美し、礼拝できますこと感謝です。今日は、ナザレン日です。ナザレン教会は、世界164カ国にあります。260万人の信徒数です。この11月は、ナザレン教会が誕生した日、ナザレン教会として信仰の歩みが始められた日として記念されています。日本のナザレン教会は、小さく、数少ないですが、世界に目を向ければ、大きな集団です。私たちも世界に目を向け、世界のナザレン教会との交わりをしていきたいと思うのです。

 今日は、マルコによる福音書12章28節から34節を通して、「愛の三角関係」という題でお話しします。三角関係といえば、すぐに頭に浮かぶのは、男女における三角関係でしょう。三角関係とは、一筋縄ではいかない複雑な3人の関係を表したものと説明されています。スタンバーグという人は、愛は観察、情欲、責任の3つの要素から成り立つと考え、これを愛の三角理論と名付けました。今日の説教題の「愛の三角関係」とは、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛するという3つの愛に生きるということです。

 

 Ⅱ本論部

 一、第一と第二の戒めの両方が大事

 マルコによる福音書12章は、ファリサイ派やヘロデ派の人、サドカイ派の人々とイエス様との問答が記されています。28節には、「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」」とあります。宗教家たちとイエス様との議論を聞いていた律法学者が、イエス様の立派な答えに対して質問しました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と。律法には「何々してはいけない」という365の禁止事項と「何々しなさい」という258の積極的に守るべき掟があったと言われています。律法学者は、これらを熱心に探究していましたが、律法と律法の間にも重要度に差がありました。十戒のように主たる律法もありましたが、他の律法が従属するような関係もありました。一つひとつの掟の関係は、律法学者たちも研究し、どの掟が重要であるか、根本であるか、というように、彼らにとっては、大きな関心ごとだったのです。ですから、宗教家たちとの議論で立派に答えられたイエス様に、律法学者は、「この人になら」と、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と一番関心のある質問をしたのです。

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という質問にイエス様は答えられました。29節と30節です。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」 イエス様は、これに加えて、さらにお答えになりました。31節です。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」」 

 イエス様は、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と問われ、どれが一番かと言われて、一つではなく、二つの事を示されたことは、とても大切な事です。一番大切なものは一つではなく、二つのものの調和の上にあると示されました。全ての物事には、両極というものがあり、真理の世界には、常に両極というものがあります。真理に立つならば、いつも両極、二つの面をよく見つめて、両極を、二つの調和をはかる必要があります。一面だけを見るならば、一面を見落として、真理は一面的になってしまいます。そうなると、真理の全体を正確に把握することができなくなるのです。

 神様を愛することと隣人を自分のように愛することも一面的になってしまうのです。どちらか極端になってはならないのです。神様を愛するために、隣人の愛が軽んじられてはならないし、隣人を愛するために、神様を愛することを軽んじてはならないのです。神様を愛することと隣人を自分のように愛することは、どちらも真剣でなければならないのです。神様を愛することと隣人を自分のように愛することに調和する生き方こそが大切であることをイエス様は示されたのです。

 

 二、神様を愛することと隣人を愛することはひとつ

 イエス様は、神様を愛することと隣人を自分のように愛することが大切であることを示されましたが、第一の掟は、と第二の掟はというように、順位をつけられたことに注意が必要だと思います。ヨハネの手紙一4章7節には、「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」とあります。神様の愛をいただいて、神様に自分が愛されていることを深く感じて、感謝する。その神様の愛が私たちの内側に溢れて、それが隣人を自分のように愛するように愛する愛として、わたしの内側から隣人へと流れていくのだと思うのです。愛は私たちから、人間から出て来るものではないのです。まずは、神様から出て来るのです。神様がこんな罪人の私を愛して下さることを信じて、全身全霊を持って神様を愛して、自分の内側に神様の豊かな愛をいただくのです。そして、神様の愛が私の内側からあふれ出すのです。神様の愛が私たちの内側に満ちて、その愛があふれ出て、隣人を自分のように愛することができる。これが第二の掟なのです。

 また、神様を愛する愛と隣人を愛する愛とでは、求められている度合いが違います。神様を愛する時は、全身全霊で、自分自身よりも神様を愛するということが求められています。けれども、私たちが隣人を愛する時は、自分のように愛することが求められているのです。

 イエス様は、神様を愛することを旧約聖書の申命記6章4節から、隣人を自分のように愛することをレビ記19章18節、34節から引用されました。ですから、これは、新しいものではなく、旧約聖書ですでに語られていたものです。

 イエス様は、神様を愛することの前に、「わたしたちの神である主は、唯一の主である。」と語られました。これはとても大切なことです。単に知識として神様を知るのではなく、心から信じて知ること、信仰生活の中で、信仰の歩みの中で、神様が唯一のお方であるということを知ることがとても大切なことなのです。そうでないと、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということはできないのです。「心を尽くし」とは、最大の愛を持って神様を愛すること。「精神を尽くし」とは、神様を畏れ、礼拝して愛すること。「思いを尽くし」とは、感情的な面だけではなく、意志を持って愛すること。「力を尽くして」とは、調子が良い時も悪い時も、神様を愛し、神様に従って生きることなのです。

 律法学者にとって、神様を愛することだけならば、自分たちは神様を愛しているという自覚がありました。彼らにとって神様を愛するとは、祭儀を行うことや犠牲をささげることなど、いろいろな制度を守ることでした。ですから、イエス様は第二の掟として、神様を愛するということは、隣人を自分のように愛することだと言われたのです。イエス様にとっては、第二の掟とは、第一の掟を言い換えて示されたということなのでしょう。神様を愛することと隣人を自分のように愛することは、別々の事ではなく、もともと一つなのです。ヨハネの手紙一4章20節、21節には、「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。 神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」とあります。

 

 三、律法を愛の教えとして語られた

 十戒は、モーセがシナイ山で神様から与えられた十の戒めです。1戒から4戒は、「わたしをおいて他に神があってはならない。」「いかなる像も造ってはならない。」「主の名をみだりに唱えてはならない。」「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」という神様と人間の関係が示され、5戒から10戒は、「あなたの父母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証してはならない。隣人の家を欲しがってはならない。」という人間と人間の関係を規定する掟でした。1戒から4戒は、要するに全身全霊を持って、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」ということなのです。そして、5戒から10戒は、隣人を自分のように愛しなさいということなのです。十戒の中に、すでに神様を愛することと隣人を自分のように愛するということが示されていたのです。

 神様を愛しなさいということは、その前提に神様に愛されているということです。ヨハネの手紙一4章10節には、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」と記されています。十戒は、神様の愛されるための条件ではなくて、すでに神様に愛されている者として、このような歩みをしてほしいという神様のお心、願いが書かれているのです。神様を愛するとは、情緒的なものではなく、神様がどのようなお方であるかという認識であり、その御心に従おうという意志なのです。まず神様が私を愛して下さったという喜ばしい事実を知った上で、その神様が望んでおられることを自分も大事にしよう、大事にしたいという意思なのです。そして、神様が最も望んでおられることが、神様を愛し、隣人を自分のように愛することなのです。イエス様は、モーセの律法を厳しい戒めとしてではなく、愛の教えとして語られたのです。これが、イエス様の律法理解であり、イエス様の言葉や行動の根本にあるものであり、イエス様自身が、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」「『隣人を自分のように愛しなさい。」ということを実践する者として歩まれたのです。

 32節、33節には、「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」とあります。イエス様の神様を愛すること、隣人を自分のように愛することという内容を聞いて、律法学者はイエス様の語られた内容を復唱し、「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」と言いました。ユダヤ教においては、宗教は愛のない戒めを意味しており、学者たちが教えるのは、生きて働かない観念でした。愛のない信仰は、独善的になり、信仰のない愛は、観念的になるのです。しかし、この律法学者は、イエス様の教えに感動したのです。

 34節には、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」とあります。「あなたは、神の国から遠くない」とは、近い、おしい、かすっているということでしょうか。試験で、1点足らなくても、合格点に遠くない、近くあっても不合格なのです。たかが1点、されど1点なのです。戒めを知っていることと戒めを実行することとは別の事です。戒めを知識としていくら知っていても、実行しなければ、戒めを知っていること自体空しいのです。律法学者は、神様を愛する、隣人を自分のように愛するという戒めを喜びましたが、やはり知識として知っているだけで、実践できなかった。実践しようとしなかったのでしょう。「あなたは、神の国から遠くない」にとどまっていたのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちは、神の国にははるか遠い存在です。罪ある者です。しかし、神様はそんな罪ある者をまず愛して下さり、私たちを罪から救うために、神であるイエス様を人として、人間の世界に送り、私たち罪ある者が裁かれなければならないのに、イエス様が十字架の上で裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。私たちに代わって、死んで下さり、墓に葬られましたが、三日目に甦らされて、罪と死に打ち勝たれ、神であることを証明されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さったのです。このように、神様がまず私たちを愛して下さったので、私たちはこの愛に満たされ、神様を愛し、隣人を自分のように愛することができるのです。

 私たちは隣人を自分のように愛するということに、いつも苦労するように思います。好きな人、話が合う人は愛せるでしょう。しかし、嫌いな人、話の合わない人を愛することは難しいことです。めんどくさいのです。ややこしいのです。気が休まらないのです。

 日本伝道会議のメインの聖書講演の説教者は、30代、40代の若い牧師たちでした。その中で、一番若かったのが、わが塚本良樹先生でした。先生は、「聖霊は教会を不快な交わりにする」という題で、使徒言行録2章1節から21節と黙示録7章9節から10節からお話しされました。聖霊が降り、使徒たちを中心とする120名の人々は聖霊に満たされ、使徒たちは福音を大胆に語り、3千人が救われるという驚きのみ業がなされました。しかし、同時に多くの問題も生み出していったのです。ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの問題、自分と異なる人と出会う時、偏見があるのです。交わらないのです。交われないのです。聖霊によって導かれた教会、聖霊に導かれているキリスト者であっても、嫌いな人、話の合わない人とは交われないのです。そのような人と共にいることには不快感があるのです。落ち着かないのです。辛いのです。私たちの教会にも、いろいろな人がいます。年齢も違い、経験したことも違い、考えも違い。感じ方も違う。話の合う人もいるし、合わない人もいることでしょう。そのような中で、キリスト者である自分が、自分のように隣人を愛せない、と苦しむことが多くあるのではないでしょうか。また、合わない相手や嫌いな相手もキリスト者であって、「なんで、あの人はキリスト者なのに、いじわるだとか。話の分からない人」とかと思い、隣人を愛せない自分は、キリスト者としてふさわしくないと落ち込み、不信仰になることもあるのでしょう。初代教会も同じです。聖霊によって誕生し、聖霊に導かれているキリスト者であっても、受け入れられないことはあるのです。何でもかんでも一致して、仲良くなって、愛し合うということが聖霊の導きではないということです。私たちは、キリスト者であっても、神様を愛し、隣人を自分のように愛するということがかなかできない、実践できないということで苦しむことがあります。そのような危機や問題を聖霊は、神様は用いて神様のみ業を起こして下さるのです。それが使徒言行録に示された教会の姿でした。みんな、誰もが隣人を自分のように愛せるのが聖霊の導きではなく、愛せない人がいる。嫌いな人もいる。そこにも、聖霊は働いているということなのです。そして、その危機や問題を、神様はそのままにはしては置かれないということなのです。神様は私たちが、聖書の言葉に触れ、聖霊の導きを求める時、知恵と愛を与えて下さるのです。教会の中にある不快さも、争いも、聖霊が働いていない、聖霊が導いていないという理由にはならないのです。神様を愛せない、隣人を自分のように愛せないからこそ、イエス様が十字架にかかり、死に、よみがえって下さった。愛せない私たちを十字架と復活で補って下さるのです。愛するということはめんどくさいのです。時間がかかるのです。そんな簡単なものではないのです。だから、愛せないからといって落ち込む必要はありません。自分をダメなキリスト者だと決めつけてはいけないのです。自分自身を自分がどのように見ていても、自分の中にどのような汚れや罪があろうとも、神様は、イエス様はそれを赦し、きよめ、私たちを変わらずに愛していて下さるのです。ですから、神様に自分は愛されているのだ、ということを第一に考え、感じてこの週も歩みたいのです。神様を愛さなければ、隣人を自分のように愛さなければ、と気負ってしまうのではなく、自分が自分を見てもだめな私さえも、イエス様は愛していて下さるというイエ様の愛に、どっぷりとひたり続ける週を歩んでまいりましょう。そんなあなたとイエス様は共にいて、あなたの存在を喜び、あなたを愛して下さるのです。

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日曜礼拝(23年10月1日)

2023-10-01 13:04:01 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後17主日)       2023.10.1

病人こそ医者が必要」  マルコ2:13~17    

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第一日曜日となりました。1日、10月の最初の日を礼拝をもって始めることができますことは幸いな事です。愛する皆さんと共に礼拝できますことを心から感謝致します。先週は、牧師不在の越谷教会での礼拝での御用でした。牧師不在の中、信徒の兄弟姉妹だけで礼拝を守っておられる越谷教会と信徒の方々を覚えてお祈り下さい。9月26日㈫には、村上美里さんの告別式が執り行われました。46歳という若さで亡くなり、ご家族にとりましては、本当に悲しいことです。ただ、復活の望みだけが希望であり、その信仰がご家族みんなに与えられていることは、大きな慰めです。ご家族の上に神様の豊かな慰めがありますようにお祈り下さい。

 10月になってもまだ暑さは続いておりあすが、もう間もなく涼しくなるようです。

10月を迎え、スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋です。聖書の言葉に触れて、聖霊の導きの中、霊も心も魂も肉体も守られ、支えられて歩みたいと思います。

 今日はマルコによる福音書2章13節から17節を通して、「病人こそ医者が必要」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、声をかけて下さるイエス様

 13節を見ると、「イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」とあります。イエス様の話を聞きたいと群衆がイエス様の側に集まってきました。いつものことです。14節には、「そして通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」とあります。イエス様はカファルナウムとガリラヤ湖畔を往復しておられたので、レビが収税所に座っている姿を何度も見ていたのでしょう。「アルファイの子レビ」とは、マタイのことです。カファルナウムは、ガリラヤ湖畔の町で、エジプトからダマスコに至る街道筋で、通行税の税関のある交通の要所でもありました。レビは、通行税を徴収するために座っていたのでしょう。

 レビの仕事の徴税人は、同胞ユダヤ人から税を集め、支配国ローマに納める働きをしていました。ローマに支配されていた植民地として生きる民として、神様から選ばれた民だという自負心のあったイスラエルの人々にとっては、屈辱的なことでした。徴税人は売国奴と呼ばれ、外国人(異邦人)と頻繁に接触するために宗教的に汚れているとされていました。社会の中で軽蔑され嫌われていました。徴税人は、雇い主であるローマ帝国から給料をもらっていませんでした。徴税人は、税金を取り立てる権利をローマから与えられた人たちで、徴税権を得る見返りに、ローマが要求する税額を集めるという立場でした。ですから、ローマから要求される税額さえ納めれば、それ以上集めた税額は全て自分の収入になるという制度でした。ある徴税人たちは、決められていた税額よりも多くの税を徴収して、その差額を自分の懐に入れていたようです。徴税人はそのように考えられていました。

 しかし、徴税人は、徴税人になるためには、集める予定の税金をローマに前払いしていたようです。もし徴収できなければ借金を負う事になり、それが重なれば牢に入れられたり、奴隷として売られるということもあったようです。ですから、ある徴税人の立場は弱く、それに付け込まれるということおあり、大儲けする人はごく一部の人のようです。徴税人の多くは、自分から望んでその職についたのではなく、他に職を見つけられなかった人たちであり、社会の末端に位置づけられていたということもあるようです。

 徴税人は、敵国に協力する者と見なされ、社会的には地位を失い、罪人と呼ばれる人たちと同じように、共同体では居場所を失っていたのです。徴税人は罪人と見なされ、神様からは遠い存在であり、救いようのない人間と見なされていました。徴税人の職に就いていたレビ自身も、そのように自分をみていたのでしょう。その徴税人であるレビをイエス様はご覧になって、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さったのです。私たちは、キリスト者として自分を見る時に、神様から遠い存在と感じたり、自分はキリスト者としてダメだと思い、神様に見捨てられているかのように感じることがあるのかも知れません。しかし、イエス様は、レビに声を掛けられたように、そのように弱い、どうしようもない私たちにも、「わたしに従いなさい」と今日、今、声をかけて下さるのです。

 

 二、罪人と共に食事をされるイエス様

 レビは、「彼は立ち上がってイエスに従った。」と聖書は語ります。ペトロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネもイエス様に、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と声をかけられ、すぐにイエス様に従いました。ペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネは、また漁師に戻ることはできました。イエスが復活されて、ガリラヤに戻り、漁をしたことを聖書は語ります。しかし、レビは、おそらく徴税人には戻れないのでしょう。彼は全てを捨ててイエス様に従ったのです。

 15節には、「イエスがレビの家で食事の席に着いておられたときのことである。多くの徴税人や罪人もイエスや弟子たちと同席していた。実に大勢の人がいて、イエスに従っていたのである。」とあります。レビは、自分がイエス様の弟子となったことを多くの人と分かち合うために、食事会にイエス様と弟子たち、徴税人や罪人と言われている人々を招いたのです。「罪人」とは、犯罪人というだけではなく、もっと広い意味で、羊飼い、外国人(異邦人)、遊女も罪人と言われていました。律法を従いたくても、従えない人たちがたくさん含まれていました。徴税人の中には、自らの意志で悪い事をしていた人もいたのです。意識的に罪を犯してきた人たちでした。そのような人々が、レビの家に招かれていたのです。そして、そのような人々がイエス様に従っていたのでした。

 16節を見ると、「ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。」とあります。共に食事をするということは、その人と同じ考えや価値観を持っていること、仲間であることを意味していたようです。ですから、ファリサイ派の人々にとっては、徴税人や罪人と食事を共にすることなど考えられないことだったのです。ファリサイ派とは、当時のユダヤ教のグループで、律法や決まり事を厳格に守る人たちでした。彼らは律法だけではなく、自分たちの日常生活にも様々な決まりを作っていました。彼らは、それらを厳格に守り、正しい人となり、神様の救いを得ようとしたのです。それと共に、決まりを守らない人たちと分離して、社会的に排除しようとしていたのです。徴税人や罪人と、交わる、食事をするということは本来許されていないことだったのです。

 ですから、徴税人や罪人と共に食事をしているイエス様を批判したのです。私たちも、自分と意見や話の合わない人、気に食わない人とは一線を画すということがあるのかも知れません。同じ立場に立たない人を良く思わない。交わらないということもあるでしょう。

先々週には、岐阜で日本伝道会議が持たれました。全国から千人を超える教職者や信徒の方々が集い、学び、分かち合いました。今までは、教団教派という括りが強く、偉い先生の講演や発表でしたが、今回は50歳以下の牧師たちがメインの説教、発表をされ、本当に恵まれした。日本基督教団の先生も発表され、教団教派を超えた素晴らしい集まりでした。私たちも、立場や意見は違っていてもイエス様にあって、イエス様に愛された者として、意見や立場の違う人々と交わることができればと思うのです。

 

 三、罪人を招くイエス様

 イエス様が徴税人や罪人と食事をしているのを見て、ファリサイ派の律法学者は、嫌悪感を持ち、「「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い、イエス様は17節では、「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」」とお答えになりました。イエス様が来られた目的は、罪人を招くためでした。イエス様は、罪人を悔い改めさせるために来られたのではなく、罪人をお招きになるためにおいでになったのです。罪とは、単なる個人の悪い行いというのではなく、神様との関係が破れている状態です。神様との関係に病んでいる人なのです。神様との関係や人との関係を作り育む所の愛が病んでいるのです。その破れた関係を癒し、罪から私たちの人生を救い出して、私たちに必要な医者として、神が人となられてイエス様は来られたのです。

 一般的に宗教的と考えられる生き方は、正しい人間になること、少なくとも、正しい人間を目指す人でしょう。イエス様は、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と言われました。イエス様は正しくない罪人を招かれるのです。全ての人が罪人ですから、全ての人を招いて下さるということです。

 神様の前には、自らの清さを保たなければなりませんでした。それが律法によって、定められていたことでした。ですから、ファリサイ派の人々が指摘したことも理解できます。清く保つためには、徴税人や罪人と分離する必要がありました。でも、イエス様は、平気で徴税人や罪人と何度も食事をしています。それは、ファリサイ派の人々から見れば、イエス様は徴税人や罪人の仲間であり、罪人たちと一つであるということを意味していたのです。罪人となられたということです。イエス様は、罪ある私たちを救うために、十字架にかかり、父なる神様から裁かれたのです。本来、清い、罪のないお方が、私たち罪人を救うために、罪となって下さり、十字架の上で尊い血を流し、命をささげて下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目に甦らされて、罪と死に勝利されたのです。私たちは、イエス様の十字架の死と復活を通して、全ての罪が赦され、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。罪人を招いて、罪の赦しと救い、永遠の命を与えて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、世の中で評判が悪くなった人々、見捨てられた人々、安心できる場所がなく、神様とのつながりさえ感じられない人々のために来られたのです。それは、イエス様が弱くされた人々、追いやられた人々、評判が悪くなり見捨てられた人々を見放さないで、その人々の事をひと時も忘れないで、今も変わらず愛しており、大切に思っておられるということなのです。レビは、群衆のように、積極的にイエス様とかかわりを持とうとしませんでした。自分には関係ないと思っていた。そのレビをイエス様は見ていたのです。見ていて下さったのです。私たちがイエス様と関係を持とうとしなくても、イエス様に背を向けようと、イエス様はその私を、あなたを見ていて下さり、「わたしに従いなさい」と声をかけて下さるのです。

 「アルファイの子レビが収税所に座っている」というのは、今でいえば、窓口に座っていたということでしょう。窓口にいるということは、批判をもっとも浴びせられる立場であり、冷たい視線をいつも受けなければならない立場に置かれていたということです。徴税人という立場上、職業柄、同胞ユダヤ人からは、嫌われ、白い目で見られ、ファリサイ派の人々からは罪人とレッテルを貼られ、毎日、窓口で、悪口や批判の的となっていたレビをイエス様はいつも見ておられたのです。その苦しみや悲しみ、痛みをイエス様の眼差しは見て、知って、感じておられたのです。私たちも、キリスト者ゆえに、神を信じるがゆえに、家族や友人、学校や会社関係の人々から浴びせられる冷たい視線や批判を受けることがあり、キリスト者として歩むことに疲れ、倒れそうになることもあるでしょう。そんなあなたをイエス様は見ていて下さるのです。弱いからこそ、罪を犯す者であるからこそ、病人であるからこそ、イエス様はあなたのために来られたのです。そして、あなたを愛し、支え、強めて下さり、いつも傍らに共にいて下さるのです。そのことを覚えて、「わたしに従いなさい」と日々語り掛けて下さる聖書の言葉に励まされ、イエス様を見つめて、イエス様と共に、この週も歩んでまいましょう。

 

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