日曜礼拝(三位一体21主日) 2023.10.29
「神の恵で信仰が覚醒する」 マタイ4:1~11
Ⅰ導入部
おはようございます。10月の第五日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。3週間ぶりの御無沙汰です。昨日は、青葉台教会創立55周年記念のコンサートが持たれ、ユーオディア・アンサンブルの6名の方々の素晴らしい演奏に、安らぎのひと時、恵みの時を持ちました。お祈りして下さった方々、参加して下さった方々に心から感謝致します。
10月31日は何の日でしょうか。ハロウインでしょうか。この世は、まさにハロウィンの様相ですね。わたしが行きつけの湯けむりの里には、ハロウィンの飾りがあります。ローマ・カトリック教会では、11月1日を「諸聖人の日」として守られてきました。「諸聖人の日」は、古くは「万聖節」とも言われ、亡くなった聖人たちを記念する日です。英語では、「オール・セインツ・デー」と言い、別名「ハロウ・マス」とも言うようです。「ハロウ」は、「聖なるものとする」という意味で、「マス」とは、お祭りを意味します。クリスマスのマスです。「ハロウ・マス」とは、「聖なるものとする祭り」という意味です。この「ハロウ・マス」の前夜イブが、「ハロウ・イブ」訳すと「ハロウィン」です。「ハロウィン」は、キリスト教の行事ではなく、ドゥルイッドというケルト人の土俗宗教の祭りです。ケルト人の暦の新年は、11月1日から始まり、その前夜日本で言えば大みそかの夜、ここでは10月31日には、死んだ人の霊が家族の許に帰って来ると信じられており、その時同時に、悪い霊や魔女が出て来て悪さをするので、この夜に仮面をかぶったり、野菜をくり抜いて作ったランタンに火を灯したりして、魔除けにする習慣が生まれたと言われているようです。私が言いたいのは、10月31日はハロウィンではなく宗教改革記念日だということです。ここまで来るのに長かったですね。マルチン・ルターが1517年10月31日に教会の扉に95箇条の意見書を提示し、カトリック教会の免罪符制度の乱用を批判すると共に、信仰の意味を問いかけたのでした。私たちは、宗教改革を覚え、自らの信仰を見つめ、さらなる信仰の向上を目指したいと思うのです。
今日は、マタイによる福音書4章1節から11節を通して、「神の恵で信仰が覚醒する」という題でお話し致します。
Ⅱ本論部
一、試練にあっても神様の守りの中にある
マルチン・ルターは、宗教改革の三大原則として、「聖書のみ」、「信仰義認」、「万人祭司」を示しました。「聖書に返れ」と聖書の言葉の大切さを示しました。今日の箇所は、イエス様が聖書の言葉を大切にされたことが記されています。4章の前、3章の最後は、イエス様がバプテスマのヨハネから洗礼を受けられ、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(3:17)という声が天からあったことが記されています。4章のサタンの誘惑はイエス様が聖霊を受けられ、聖霊に満たされ、父なる神様から、愛する子、神の子としてのお墨付きをいただいた後に、霊に導かれて荒れ野に行ったと4章1節は語ります。新約聖書一日一章で、榎本保郎先生は、「だから私たちも、現実の生活の中で試みを受けたとしても、それは悲しいことでも、恥ずかしいことでもない。試みを悲しみ、恥ずかしがるのは、聖書のメッセージからはずれている。」と語っておられます。その通りだと思います。
私たちが、聖霊に満たされていたら誘惑に合わないということではないということです。聖霊に満たされていても誘惑はあるし、聖霊様が誘惑を受けることを肯定するのです。ヨブ記には、神の使いたちの集まりに、サタンも参加し、ヨブの財産を奪うこと、ヨブの体を傷つけることを神様に願い、神様はそれを許されたので、ヨブは試練を受けることになりました。ヨブは、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ記1:1)とあります。イエス様の試練も、私たちが受ける試練も、神様の知らないことではないということです。
イエス様は、誘惑を受けるために、霊に導かれて荒れ野に行きました。これから公生涯に入る時、神の子として歩む、救い主として歩む時、ふさわしいかどうかのテストを受けられたということでしょうか。救い主としての資格があるのかということです。アブラハムは、神様から一人息子のイサクをささげよという神様の言葉に忠実に従い、信仰のテストに合格しました。イエス様は、40日間断食されたのです。偉大な指導者モーセは、十戒をいただくために、シナイ山で40日間断食しました。ノアの洪水は、40日間雨が降り続きました。イスラエルの民は、40年間荒野をさ迷いました。エリヤは、イゼベルの脅しに40日間さ迷いました。「40」という数字は、苦しみの時、試練の時、あるいは、神様の導きを待つ期間といえます。旧約聖書では、「断食」は、悔い改めの時や嘆き悲しむ時に行われたものでした。断食の目的は、祈りに専念するためだと言えるでしょう。2節の最後には、「空腹を覚えられた。」とあります。神の子が空腹を覚えられるはずがありません。しかし、イエス様は100%神様であり、100%人でありました。イエス様は、食べなければ、断食すれば空腹にもなる肉体を持っておられたのです。何も食べなくてもへっちゃらというのではないのです。このように、40日間の断食のゆえに、精神的にも肉体的にも、最も弱った時にサタンは攻撃する、誘惑するというのです。ペトロの手紙一5章8節には、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」というみ言葉があります。
私たちは、どんなに備えても、信仰的に恵まれようとも、聖霊に満たされようとも、誘惑は避けられないことを覚え、誘惑を受けることは、不信仰でも、悲しいことでも、恥ずかしいことでもない、ということを覚え、神様の守りの内にあることを信じて歩みたいと思うのです。
二、神の言葉で戦うイエス様
サタンの誘惑が始まります。3節です。「すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」」とあります。リビングバイブルには、「ここに転がっている石をパンに変えてみたらどうだ。そうすれば、あなたが神の子だということがわかる。」とあります。サタンは、「神の子なら」とイエス様を誘惑しました。洗礼を受け、聖霊を受け、父なる神様から「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というお墨付きをいただいたイエス様に、「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」とサタンは誘惑しました。この誘惑は、私たちにとっては何の意味にもなりません。なぜならば、私たちは石をパンにすることは絶対にできないからです。しかし、イエス様には可能なのです。イエス様にできることを誘惑してきたのです。イエス様が、転がっている石をパンに変えるなら、パンは生きる力を生み出す源であり、イエス様が確かに神の子であるとの最高の証明になるのです。また、御自分の空腹を満たすことができるのです。一石二鳥です。サタンは、自分のために神の力を使えと誘惑しました。イエス様は、4節で、「イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」」とあります。イエス様は、パンで生きることを肯定されました。ただ、「人はパンだけで生きるものではない。」パンだけあればよいとは言われないのです。物質的なものが満たされ、権威が与えられ、多くの友人がおり、たくさんの楽しみがあり、健康であっても幸せではない、という人々がたくさんおります。それは、「人はパンだけで生きるものではない。」ということでしょう。イエス様は、パンを肯定しながら、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われたのです。「と書いてある。」というのは、イエス様が旧約聖書の申命記8章3節の言葉、「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」という聖書の言葉を引用されたのです。出エジプトしたイスラエルの民は、マナというパンで養われましたが、それは、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」ということなのです。
するとサタンは、5節,6節です。「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える』/と書いてある。」」とあり、サタンは、イエス様を神殿の屋根に立たせて、飛び降りたら、天使たちが守って無事に舞い降りることができる。人々があっというパフォーマンスを見せたら、神の子としての証明になる。しかも聖書にそう書いてある、と誘惑しました。サタンも、「と書いてある。」と旧約聖書の詩篇91篇11節、12節、「主はあなたのために、御使いに命じて/あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。彼らはあなたをその手にのせて運び/足が石に当たらないように守る。」を引用したのです。イエス様が聖書を引用したので、サタンも聖書を引用したのです。サタンも神様の言葉、聖書を知っているということです。イエス様は、この誘惑に対して、7節で、「イエスは、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」と言われた。」とあります。イエス様は、「とも書いてある」と再び、申命記6章16節の言葉、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない。」と答えられたのです。飛び降りたら、守って下さるかどうかを試してから信頼するということではないと言われたのです。イエス様は、聖書の言葉をとても大切にし、イエス様ご自身、聖書の言葉に生かされていたということがわかるのです。いざという時のためには、私たちは、日々聖書の言葉、神の言葉に触れ続けるということを大切にしたいと思うのです。
三、楽な道ではなく、十字架の厳しい道を選ばれたイエス様
三番目の誘惑は、8節、9節です。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。」とあります。1と2番目のサタンの誘惑は、「神の子なら」、それを実行することで、神の子の証明となるという、自分を守るために、神の力を使えという誘惑でした。3番目は、頭を下げれば、全てのものを与えると言いました。サタンの誘惑は、イエス様を十字架につけさせないことでした。十字架の苦しみをしないでも、全てを与えるから、そうなれば何でもできる。全てを支配し、人々を幸せにできる。サタンの最も恐れていることは、イエス様の十字架と復活を通して、罪の赦しと永遠の命が与えられることでした。イエス様にとって、公生涯を始めるにあたって、神の子として歩むにあたって、全てを与えられ、支配者として、人々を幸せにできるならという誘惑はあったのかも知れません。その誘惑に対して、10節です。「すると、イエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ』/と書いてある。」」イエス様は、また、申命記の6章12節の言葉、「あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。」という言葉を引用されました。「退け、サタン。」という言葉は、マタイによる福音書16章23節で、イエス様が、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することを言った時に、ペトロが「そんなバカな」とイエス様の十字架と復活を否定した時に、ペトロに対して、「サタン、引き下がれ。」とイエス様が言われたのです。サタンがイエス様の十字架と復活を否定したように、ペトロもイエス様の十字架と復活を否定して、サタンに成り下がってしまったからでしょう。イエス様は、サタンそのものに、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、/ただ主に仕えよ」とみ言葉、聖書の言葉で対抗し、勝利したのです。11節には、「そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」とあります。イエス様は、サタンからの誘惑に勝利して、十字架に向かわれるのです。イエス様は、父なる神様を試して、自分の思いや願いを優先することによって、父なる神様の恵みを確かめることなく向かわれた十字架の死なのです。私たち罪人を愛し、私たちの罪を赦すために、私たちの罪を赦し贖うために、罪のない清いイエス様が、私たちの身代わりに、父なる神様から裁かれ、罰を受け、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで墓に葬られ、三日目に甦らされて、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの犯す全ての罪を赦し、清め、義とし、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さるのです。イエス様は、サタンの誘惑に勝利されたからこそ、十字架と復活が現実のものとなり、私たちの罪が神様の恵みによって赦されたのです。
Ⅲ結論部
マルチン・ルターは、宗教改革に着手して10年後、彼は精神的にも、肉体的にも、信仰的にも疲れてしまいました。カトリック教会の勢力は反撃に転じ、当時はやりのペストで長女が病死し、ルター自身もサタンの誘惑に圧倒され、神経衰弱に陥りました。その時、詩篇46篇「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない/地が姿を変え/山々が揺らいで海の中に移るとも海の水が騒ぎ、沸き返り/その高ぶるさまに山々が震えるとも。大河とその流れは、神の都に喜びを与える/いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る。万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。」に励まされ、「神は我らが固き砦」という賛美を作りました。宗教改革の進軍歌とも呼ばれているようです。実際は祈りの歌であったようです。先ほど讃美しました新聖歌280番です。「神はわがやぐら わが強き盾。苦しめる時の 近き助けぞ。おのが力 おのが知恵を頼みとせる 陰府のおさもなどおそるべき」ルターもまた、厳しい宗教改革者としての歩みの中で、サタンの攻撃、誘惑に遭いましたが、神の言葉、聖書の言葉で立ち上がることができたのです。
イエス様も、ルターも聖書の言葉、神の言葉でサタンの誘惑に勝利しました。私たちも同じです。神様の言葉で生きるのです。「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とイエス様が、申命記の言葉を引用されたように、旧約の時代も新約の時代も、神の言葉、聖書の言葉で生きるのです。「聖書のみ」とルターは言いました。聖書の言葉は、恵みです。別の言い方では「恩寵のみ」という表現があります。ただ、神様の恵みによってのみ、私たちは生きる者となるのです。十字架と復活とは言い換えれば、神様の愛と恵です。私たちは、イエス様が十字架につくほどに、神の子であるお方が死んで下さるほど、私たちは神様に愛されているのです。私たちは、神様の恵みによって生きるのです。私たちの信仰は、神様にどれほど愛されているのか、どれほどの恵みが与えられているのかを知る時、信じる時、私たちの信仰は覚醒されるのです。神様の言葉に押しだされて、神様の愛と恵みに触れて、私たちの信仰は、今までにない喜びと感謝に生きる者と変えられていくのです。そのことを覚えると同時に、愛の主、恵みの主であるイエス様が、共におられ、私たちがサタンの誘惑に遭おうが、苦しみや痛みの中に置かれようが、イエス様の愛と恵みは変わらずにふり注いでいることを信じて、感謝して、この週も歩んでまいりましょう。