江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年4月28日)

2019-04-28 17:09:49 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一)      2019.4.21

      「アイ(愛)を止めるな」 ヨハネ21:15~23

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第四日曜日になりました。今日も、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。

昨日からゴールデンウィーク、怒涛の10日間の休みが始まりました。皆さんはどのような休みを過ごされるのでしょうか。予定のない方々が6割もおられるとニュースでありました。良き休みと交わりが与えられますことをお祈りいたします。

今日は、平成最後の礼拝式です。来週は、令和最初の礼拝式となります。ある意味では、今日の礼拝式と来週の礼拝式は歴史的な、記録に残る礼拝式となるのでしょうか。私たちにとっては、毎週の礼拝が自分自身にとっても、歴史的にも大切な礼拝だと思います。

先週は、イ-スター礼拝式、復活祭の礼拝式でした。主がよみがえられたことを記念する大切な、喜びの礼拝でした。経田輝邦兄が洗礼を受けられました。また、野田勝昭兄、川田寿美子姉が入会され、新しい方々を青葉台教会に迎え入れることができて感謝でした。

ペンテコステ礼拝にも、洗礼者や入会者が起こされたら感謝だと思います。

今日は、ヨハネによる福音書21章15節から23節を通して、「アイ(愛)を止めるな」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、イエス様はあなたを大切に思っている

イエス様は、十字架につけられ死なれ、葬られましたが三日目によみがえられました。イエス様は、ご自分がよみがえられたことを弟子たちに示されました。そして、今回三度目になります。ペトロは、イエス様の裁判の時、イエス様の仲間だと言われて、それを三度否定してしまいました。ですから、ペトロはイエス様がよみがえられて自分の目の前に現れても、目を合わすことができなかったでしょう。イエス様がよみがえられたことは、嬉しいのには、嬉しいのだけれども、素直に喜べないペトロだったのだと思うのです。

イエス様がよみがえられたという事実は、イエスの弟子たちには大きな喜びであったはずです。しかし、ペトロにとっては、自分の犯した過ち、イエス様を三度否定したという事実は、ペトロ自身を苦しめていたのです。

私たちも失敗することがあります。やってはいけないことをやってしまうことがあります。一度失敗したら、もう、立ち直ることはできないと、失敗しないように、過ちを犯さないように、私たちは気をつけるのです。しかし、私たちは、どんなに注意をして、気をつけていても、失敗する者なのです。ヤコブの手紙3章2節には、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」という言葉があります。どのように立派に見える人も、いろいろな役職や肩書を持っていても、失敗しない人はいないのです。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」と聖書が語る通りなのです。

一度失敗してしまうと、立ち直るのには時間がかかります。周りの目が気になりますし、失敗したという事実、過ちを犯したという事実に、目も思いも注がれて、後悔ばかりが心を支配するように思うのです。

ペトロは後悔の連続だったでしょう。彼は、よみがえられたイエス様の前に、ひれ伏して、「イエス様ごめんなさい!」と泣き叫んだり、「これからは、あなたに忠実に従います。」と誓ったという事はありません。ですから、イエス様に出会うたびに、イエス様の事を考えるたびに、ペトロの心は痛み、張り裂けそうになっていたのです。そして、イエス様は、そのことをよくご存知でした。そして、ペトロを癒そうとして下さるのです。

弟子たちが、イエス様の準備された食事を終えると、イエス様は個人的にペトロに話されるのです。ここで、ペトロは、イエス様がよみがえられてから、初めて目を見ることができたのではないでしょうか。イエス様もペトロの目をしっかり見て語られたのです。「ヨハネの子、シモン」と。イエス様のペトロの呼び方は、親しい中ではあまりしない呼び方のようです。かしこまった呼び方なのです。それは、イエス様が最初にペトロに会った時の呼び方でした。「イエスは、彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)という意味」と呼ぶことにする」と言われた。」(ヨハネ1:42)「ケファ」とはアラム語で、ギリシャ語では「ペトロ」です。イエス様は、いつもは「ペトロ」と親しい関係で呼んでおられたのですが、この時は、そうではなかったのです。あの最初出会った時、あの時を思い出せ、と言わんばかりに、いつも呼んでいるペトロという名前ではなく、ヨハネの子シモン、とペトロの本名を呼ばれたのです。そして、いつもと違う呼び方で自分の名前を呼ばれたシモンも何かを感じていたのではないかと思うのです。

イエス様は、あなたの名を親しい仲間としての名前で呼ばれるのでしょうか?それとも、改まった、かしこまった呼び方で、あなたの名を呼ばれるのでしょうか?

 

二、私を愛しているか、とイエス様に問われ、使命が与えられる

イエス様は、ヨハネの子、シモンと呼ばれ、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねられたのです。日本人の年を重ねた男性は、奥様から「わたしのこと、愛してる。」と問われると、気恥ずかしくて、言葉を濁したり、笑ってごまかすという事が多くあるのではないでしょうか。最近の若い男性は違うかも知れません。すごい、直球の質問でしょう。その質問をイエス様は、あえてペトロにしたのです。それは、彼自身が語った言葉からきているのだと思います。

イエスは、弟子たちがご自分を裏切ると言われた時、ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と言ったのです。みんなが、他の弟子たちがつまずいても、私だけは違う。つまずかないと宣言したのです。

ペトロは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われて、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは、イエス様に「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われて、「はい」と答えたのです。しかし、この「はい」という答えと、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った時の、絶対に裏切らない、という自信に満ちていた時の思いとは違うのです。ですから、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。この言葉は、自分がイエスを愛するということが、自分の自信や頑張り、努力や思い込みで愛するということではなくて、「わたしがあなたを愛するのは、あなたがわたしを愛して下さって、あなたが愛を教えて下さったからこそ、あなたからいただいた愛、それをわたしは持っています。だから、わたしがあなたを愛していることは、あなたが知っておられるのです。」ということだと思うのです。ペトロがイエス様を愛するというのは、イエス様に愛されているからなのです。

ペトロは、二度、三度、「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」と問われて、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」答えたのです。

しかし、三度目に「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」と問われた時、「悲しくなった」と聖書は記しています。三度目にとあるように、それは、ペトロ自身が、愛するイエス様、先生、主であるお方を、三度も知らないと完全に否定したことにあるように思うのです。ですから、ペトロは、三度目の答えの時、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えました。 ペトロは悲しくなったのです。自分がイエス様を知らないと言ってしまったという最大の汚点、失敗、このことのゆえに、今まで苦しんできたのです。イエス様は、その傷に触れるかのように、三度問われました。しかし、このことはペトロに必要な事だったのです。

イエス様は、弟子であるのに、イエス様を三度も知らないと言ってしまったペトロの否定を、三回もと覚えて、恨んで、ペトロの傷を深めようとして、3度問われたのではありません。あなたは確かに、わたしを知らないと否定したのは事実だ。しかし、その失敗は、もう赦しているよ。もう、心配しなくていいのだ。覚えていなくていいのだ。私は、あなたの失敗を、過ちを、赦しているという意味で、3度問われたのだと思うのです。それが、たとえ、5回でも、10回でも、百回でも、千回でも、イエス様は、私たちにも、あなたの失敗や過ち、罪は、私が解決した。あなたは、立ち直って、やり直しができるのだと、言われるのです。イエス様は、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と、ペトロに新しい使命を与えられたのです。そして、イエス様は、私たちにも、新しい使命を与えておられるのだと思うのです。

 

三、イエス様にだけ目を留め、イエス様の言葉に従う

イエス様は、最初と2回目は、アガペーの愛、犠牲的な愛で「愛しているか」と問われましたが、ペトロは、「わたしがあなたを愛している」の愛は、フィレオー、人間の愛で愛すると答えています。

すると、イエス様は3度目には、フィレオーの愛で、人間の愛で「愛しているか」と問われました。そして、ペトロはフィレオーも愛で愛すると答えているのです。イエス様のアガペーの愛とペトロのフィレオーの愛とは大きな違いがあります。そのことはよく言われますが、イエス様が、ヨハネによる福音書13章13節にある、「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない。」の「愛」は、アガペーではなく、フィリオーの愛が使われているのです。ですから、ペトロがイエス様に「わたしがあなたを愛している」の愛を、フィリオーの愛で愛するというのは、まんざらでもないように思います。

イエス様は、ペトロに羊、小羊の世話をする、飼うようにと命令されました。それは、羊飼いとして羊を守る、育てる、つまり、教会の群れを養うようにと命令されました。イエス様は、ヨハネによる福音書10章11節では、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。そして、その言葉の通りに、私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さったのです。そして、ここでペトロに羊を飼う、つまり、良い羊飼いとして、羊のために命を捨てることを示すのです。

18節を共に読みましょう。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 行きたくない所とは、ペトロや弟子たちにとっては、十字架でした。そこに、十字架に連れて行かれる、ということを示しているのです。

ペトロは、最後の晩餐の席で、「主よ、どこへ行かれるのですか。」とイエス様に尋ねた時、イエス様は、ペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(ヨハネ13:36)と言われましたが、それこそ、「行きたくないところへ連れて行かれる。」という十字架の苦しみを現しているようです。ペトロはローマで、逆さ十字架にかかって殉教したと言われているのです。19節には、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」とあります。ペトロの死の予告と、死を通して栄光を現すこと、どのような最後であれ、イエス様に従うことを示されたのです。

20節に、「ペトロが振り向くと」とイエスの愛しておられた弟子、つまり、ヨハネがついて来たので、ペトロは「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」と尋ねたのです。自分の将来が、不吉だったので、ヨハネの事が気になりました。ペトロとヨハネは年が離れていたと言われていまが、仲の良い関係であったようです。最後の晩餐でも、ペトロはヨハネに、イエス様を裏切ると者とは、誰のことを言っておられるのかをイエス様に尋ねさせたり、イエス様がよみがえられた、と女性たちから聞いた時、一緒に墓まで走ったり、使徒言行録では、二人は一緒に神殿に参り、足の悪い人を癒したりと共に行動することが多いので、良い関係だったのでしょう。ヨハネの事が気になったのです。ペトロとしては、良かれと思って、ヨハネの事を聞きましたが、イエス様は、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」ペトロに言われました。

何を言いたいかというと、「仲の良いヨハネの事は気になるだろうが、それは、ペトロおまえが気にすることではない。ヨハネのことは私が考えているので、あなたはわたしに従えばいいのだ。」ということです。私たちは、人の事がとにかく気になります。特に仲の良い人、大切な人、愛する人が気になりますが、人の事はイエス様に任せて、あなたは私に従えばいいのだ、人を見るのではなく、私を見るのだ、と言われたのです。私たちは、人を見るのではなく、私たちの罪のために十字架にかかり、身代わりに死んで下さり、よみがえられて今も生きておられるイエス様に目を留めて、イエス様に従っていきたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

ペトロは、イエス様を知らないと3度も否定して心に大きな傷を持ち、苦しんでいました。イエス様は、神様のアガペーの愛、犠牲的な愛で包んで下さり、癒して下さり、やり直しさせて下さったのです。救い主、イエス様にあっては、私たちは失敗しても、過ちを犯しても、罪を犯しても、立ち直れないのではなく、やり直しのきく人生を歩むことができるようになったのです。あなたの過去がどのようなものでも、イエス様の十字架と復活、福音によって、私たちはイエス様を信じて、罪赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられ、イエス様と共に歩む人生、イエス様に従って生きる人生、やり直しのできる人生と導かれているのです。何と幸いな事でしょうか。

私たちは、私たちの状態がどのようであっても、私たちがどんな人間であっても、イエス様はそのままの私を、そのままのあなたを丸ごと受け止め、愛で包んで下さり、あなたの傷を癒して下さるのです。

イエス様は、最後の晩餐の席でも、「信仰が大事だ」というのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合うこと」を命令され、復活してペトロに、「信仰があるのか」と問うたのではなく、「わたしを愛しているか」と問われたのです。私たちは、イエス様から愛をいただいて、愛をやめては、止めてはならないのです。この週もあなたを愛してやまないイエス様と共に、全てを委ねて歩んでまいりましょう。

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イースター礼拝(2019年4月21日)

2019-04-21 14:48:11 | Weblog

イースター特別礼拝        2019.4.21

      「イエス様と二人三脚」 ルカ24:13~35

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。津田姉妹、見ておられますか。ユーチューブを見ておられる方々とも、一緒に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。

 イースターおめでとうございます。全日本、全世界のキリスト教会でイースターの礼拝がささげられています。牧師の在住していない教会で、イースターの礼拝、復活の礼拝が豊かに祝福されることを祈ります。

 先週、受難週において聖餐礼拝式、聖金曜日礼拝をささげました。イエス様が木曜日に最後の晩餐において弟子たちと共に守られた聖餐の恵みに、同じ木曜日に持つことができ、いつもの聖餐式とは違う、心新たに、イエス様の思いを感じながらの、幸いな聖餐式を持つことができました。金曜日は、朝に聖金曜日礼拝を持つ予定でしたが、故門田美佐子姉の葬儀が入り、葬儀が聖金曜日の礼拝となったように思います。夜は、聖金曜日礼拝式で、学園教会の久米先生から教えていただいた司式を通して、イエス様の十字架の聖書の箇所を読みつつ、十字架の賛美を歌いつつ、イエス様の十字架を忍び、イエス様の十字架が私の罪のためであったということを深く感じる礼拝となりました。

 イエス様は、十字架で私たちの罪の身代わりに死なれました。神であるお方が、罪のないお方が、罪の結果、死が入り込んで来たという罪の罰を受け、死を経験されたのです。けれども、イエス様は三日後、死からよみがえられたのです。そして、イエス様の復活を信じる者に、同じ復活の命、よみがえりの命を与えて下さるのです。

 聖金曜日に、門田美佐子姉の葬儀を通して、姉妹はご自分の死を通して、イエス様の十字架を示して下さり、やがてイエス様の復活をご自分の死と復活の信仰を通して、私たちにイエス様の復活の恵みを示して下さいました。そのような意味では、聖金曜日が、さらに特別な日となりました。

 さて、今日はイースター礼拝です。今日は、ルカによる福音書24章13節から35節を通して、「イエス様と二人三脚」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様を遮(さえぎ)るものが何かありますか

 今日の箇所は、イエス様が十字架で死んで、墓に葬られてから三日目によみがえられた日の午後の話です。エルサレムから約11キロ離れたエマオという村へ向かっていた弟子たちの話です。エマオとは、「温かい井戸、温泉」というような意味があるようです。ここには、二人の弟子とあります。イエス様を神の子と信じる者、今でいえばクリスチャンの二人の話です。12弟子とは違う弟子です。一人の名前はクレオパという人物です。エマオ途上の出来事は、多くの画家が題材にしています。二人の男性の弟子の姿がイエス様と共に歩んでいます。今回、説教の準備の中で、この二人は、一人はクレオパですが、もう一人はクレオパの妻ではなかったか、というような事柄もありました。ある画家は、男女の弟子の姿を描いているそうです。二人の弟子としか書いてありません。男性二人とは書いておりません。女性だからこそ、名前が記されていないということもあるのかも知れません。聖書には、どちらとも書いてありませんが、夫婦であったということも考えられないわけではないのです。

 この二人にイエス様が加わったのです。二人の間にイエス様が割り込んで来たのです。

イエス様の弟子ですから、イエス様の事はよくわかっています。その姿も、その声も、その雰囲気も、イエス様の品位ある、格式のある姿を、弟子である彼らは見過ごすはずがありません。しかし、聖書は、「目は遮(さえぎ)られていて」(16節)とあります。「遮(さえぎ)る」とは、「しっかり捕まえる。握って離さない。」というような意味があるようです。イエス様がそばにいるのだけれども、他の何かが彼らをしっかり捕まえていたのです。イエス様が横にいるのにもかかわらず、他の何かを握って離さないでいたのです。だから、彼らの目が遮(さえぎ)られて、イエス様だとはわからなかったのです。その何かとは、イエス様が十字架にかかって死んでしまわれた、という事実のゆえに、何の希望も、期待も持てない。先行きのない、絶望と悲しみで満たされていたのです。21節には、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」 わたしたちというのは、12弟子も、その他の弟子たちもでしょう。イエス様がイスラエルをローマの支配から解放して下さる政治的なメシアとして考えていたということです。仕事も、家族も、全てを捨ててイエス様にかけ、イエス様に従ってきたのは、政治的なメシアとして、イエス様に期待していたからです。ですから、イエス様が十字架にかけられて死んだ、という事実は、弟子たちにとって、それは、自分たちの将来がなくなった。希望が持てなくなった。自分の人生をかけて来たことが無駄になったということなのです。

 私たちもイエス様がいつもそばにおられるのに、横にいて下さるのに、まるでイエス様がいないかのように過ごしていることはないでしょうか。この弟子たちは、イエス様の復活を女性たちから聞いても信じられませんでした。それは、仕方のない事かも知れません。しかし、私たちは、聖書を通してイエス様の復活を知り、復活を信じているのです。それなのに、仕事や勉強、人間関係がうまくいかない、失敗ばかり、何も成功しない。経済的にも大変、体も病気や痛みで苦しい。これらの事柄に捕まえられて、これらの苦しみを握って離さないので、目が遮(さえぎ)られて、イエス様がそばにおられることがわからないでいることはないでしょうか。

 

 二、あなたの顔はどのような顔をしていますか

 17節で、イエス様が、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられて二人は、「暗い顔をして立ち止まった。」と聖書は記しています。「暗い顔」とは、マタイによる福音書6章16節には、このような言葉があります。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」 リビングバイブルには、「やつれた顔」とあります。顔に彼らの思いが丸出しにされているのです。イエス様の権威ある言葉や奇蹟の業に大きな期待をかけ、イエス様に自分の人生をかけ、従ってきたことが、イエス様の死で水の泡と消えたのです。今までの努力もがんばりも報われない結果となってしまったので、彼らの顔は沈んでいたのです。やつれていたのです。私たちの顔は、いろいろな表現があります。笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔、いろいろあるでしょう。顔色をうかがうと言います。相手の顔を見て、笑顔なら安心しますが、怖い顔をしていると、緊張します。顔はいろいろな、私たちの状態を表すように思います。

 イエス様の二人の弟子も、「暗い顔」をしていたのです。自分の願いや思い通りにならない状況の落ち込んでいたのです。

 彼らの話の中心は、ナザレのイエス様の事、イエス様は民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした、と言っています。彼ら自身が、イエス様のそばで権威ある言葉に教えられ、感動し、イエス様の奇跡の業に興奮していたのですが、彼らにとって、イエス様は預言者の一人でした。ペトロは、生ける神の子だ、と告白しましたが、クレオパは預言者だと言いました。このお方が十字架にかかって死んでしまわれたのです。これが、彼らが暗い顔をしていた理由です。

 イエス様の十字架の死で終わりなら、それは、絶望です。希望もありません。金曜日には、故門田美佐子姉の葬儀が行われました。聖金曜日の正午、イエス様が十字架につけられた時間帯でした。イエス様の十字架の死が全てなら、私は、葬儀で、ただ悲しいだけです。希望も未来も見出せません、としか語れないのです。しかし、イエス様は、死んでよみがえられたのです。23節にあるように、「イエスは生きておられる」のです。

 安息日が終わり、女性たちがイエス様の身体に香油を塗りに行ったところ、イエス様の遺体がない。イエス様は生きておられる、と天使から聞いた。それを、女性たちは弟子たちに伝えたのです。しかし、弟子たちはイエス様の復活の事を聞いても信じられなかったのです。「『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」にとどまっていたのです。

 25節から27節まで、共に読みましょう。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

 イエス様は、聖書全体を解き明かして下さったのです。私たちは、どのような時も、特に苦しい時、悲しい時、聖書に目を向けたいと思うのです。

 

 三、あなたの顔も変えられるのです 

 イエス様は、二人にご自分が今話しているイエスだ、とは言われませんでした。それが、信じることの一番手っ取り早いことです。しかし、そうなさらなかった。復活という信じられない出来事、それは、復活を信じる前に、聖書に記されているので、聖書に目を向けるべきであることを聖書自身が私たちに語っているように思うのです。

 二人の弟子は、イエス様に聖書全体を解き明かしていただいても、イエス様であることがわかりませんでした。イエス様は、エマオの村に近づきましたが、なおも先に行こうとしたのですが、二人は、もう日も傾いているので、一緒に泊まるように無理に引き留めたのです。イエス様は泊まる家に入り、一緒に食事の席に着き、パンと取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いたのです。これは、最後の晩餐の席でイエス様がされたことと同じです。

この時、二人の目が開け、イエス様だとわかった、と聖書は記しています。み言葉と同時にパン裂き、聖餐式を大切にするということを示しているように思うのです。

 カトリック教会では、聖餐式のない礼拝はありませんが、プロテスタント教会では、聖餐式のない礼拝は存在します。プロテスタント教会、私たちの教会もそうですが、聖餐式の回数はカトリック教会に比べると少ないです。私たちは、聖餐式をもっと大切にしてもいいと思います。しかし、聖餐式を大切にするということだけではなく、聖書は、礼拝も、祈祷会も、教会の営みの中に復活の主は共におられるという事を示しているように思うのです。ですから、私たちは、聖書を読むだけにとどまらず。教会で行われる様々な集会や営みに出席することを通して、目が開かれていくのです。私たちは、礼拝を通して、祈祷会を通して、教会学校を通して、その他の集会や行事を通して「主が生きておられる」ということを知るのです。そのように目が開かれるのです。

 二人がイエス様だとわかると、イエス様の姿は見えなくなりました。イエス様が見える必要がなくなったからでしょう。イエス様が復活した、生きておられるという事を信じることができたからです。彼らは言います。32節を共に読みましょう。「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」

 共に歩いておられたお方がイエス様だとわかった時、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と感じたのです。今から考えると、イエス様の聖書全体の説明の時、心燃えていた。あの時燃えていた。そして、そのことがわかった今も、心が燃えている。イエス様を認めた瞬間、過去の出来事の中にイエス様が共におられたことを認めることができるのです。彼らの今の顔は、暗い顔つきではなく、喜びと期待にふくらむ輝いた顔であったに違いないのです。

私たちのどのようなつらい経験も、苦しい事も、悲しい事も、そこにイエス様は共におられた、そして、今も共におられるということを信じる時、認める時、喜びに感謝に変えられるのではないでしょうか。私たちの顔も輝くことができるのです。

 イエス様の十字架の死というものは、弟子たちとっては、あってはならない事、あってほしくない出来事でした。しかし、イエス様の苦しみも、十字架上で流された血潮も、裂かれた体も、死なれたことも、神様の偉大な救いのご計画の中で起こったことなのです。

 私たちは、イエス様を信じていても、祈っても、苦しい事や悲しい事を経験します。イエス様が共におられるのなら、このような経験はしないのにということを経験します。私たちが苦しみや悲しみ、絶望を経験するのは、イエス様が共におられないのではなく、神様の偉大な救いのご計画の中にあることなのです。私たちが経験することで無駄な事はひとつもありません。神様は、今の苦しみを、悲しみを納得し、意味あるものとして下さることを信じることができるようにして下さるのです。「イエスは生きておられる」まさしく、これなのです。

 

 Ⅲ結論部

 二人の弟子は、「心は燃えていた」と言いました。燃えていたという言葉は、言語では「燃やす、ランプに火をつける」という意味があります。その受け身の形です。自分の力や頑張りで燃えるのではなく、イエス様の言葉で、イエス様の働きで、聖霊の導きで私たちは心が燃やされるのです。

 今日はイースターです。経田さんが洗礼を受けられます。天に召された経田姉妹、奥様の、ゆるぎない信仰を見て、洗礼を受けたいと願わされました。また、二名の兄弟姉妹の入会式があります。私たちの教会に新しい方々が加わり、私たちはますますイエス様にあって心燃やされたいと思うのです。

 イエス様は私たちと共におられます。イエス様と二人三脚で歩むのです。今日の話で言えば、三人四脚になるでしょうか。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とイエス様は言われました。あなたが一人であってもイエス様はあなたと共におられるのです。イエス様は死んでよみがえられ、生きておられるのです。この週も、よみがえりの主イエス様と二人三脚で歩んでまりましょう。

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日曜礼拝(2019年4月14日)

2019-04-14 14:53:48 | Weblog

主日礼拝(棕櫚の日曜日)

2019.4.14

ふしぎな王様

ルカによる福音書19:28-40(新共同訳)

 

導入部

   みなさん、おはようございます。最初にお祈りをしたいと思います。心を合わせてください。…

 

   教会暦、教会のカレンダーによれば、本日は「棕櫚の日曜日」と呼ばれる記念日です。

   これは、イエスさまが王であるということを覚える日です。今週木曜日の「最後の晩餐」、そして金曜日の「受難日」、つまりイエスさまが十字架にかかられた日、そして日曜日の「イースター」、イエスさまの復活の前に、イエスさまがエルサレムに王として、王様として来られた。そのことを記念する日曜日が、本日の「棕櫚の日曜日」なのです。

   「棕櫚」、すなわちなつめやしの枝を手に持った人々が、イエスさまを賛美した。棕櫚は、王様への賛美のために使われたそうで、だからこそ「棕櫚の日曜日」と呼ばれるのですが、この日、エルサレムに入られたイエス・キリストという王様は、「ふしぎな王様」でした。ふしぎな王様でした。

   この王様は、どのような意味でふしぎな王様なのか。そのことをご一緒に確認して、この方を、イエスさまをご一緒に礼拝してきたいと願っています。

 

本論部

一.ろばの子に乗った王様

   さて、イエスさまが、ふしぎな王様であることの第一の理由は、この方が、ろばの子に乗った王様であるからです。ろばの子に乗った王様であるから。

 

   イスラエル中を旅してこられたイエスさまは、いよいよ王として入城するために、エルサレムに向かわれていました。そしてエルサレムに入る直前、イエスさまは、二人の弟子に、不思議な命令を下される。

   28節から31節までをもう一度お読みしたいと思います。

 

19:28イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。

19:29そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、

19:30言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。

19:31もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」

 

   この箇所は、本当に不思議な箇所ですよね。この後には、イエスさまが言われた通りのことが起こる。これを見て、「いやいや、イエスさまは、ろばの子の持ち主と事前に打ち合わせをしてたのではないか?」と言う人もいますが、そこはイエスさまですから、不思議なみわざというか、奇跡を行ったとしましょう。

   それもすごいのですが、ここでは、それ以上に不思議なことが起こっているわけです。イエスさまが言うとおりのことが、そのとおり起こったこと以上に不思議なこと、それは、イエスさまが、エルサレムに入城するのに選ばれたのが、なんと「ろばの子」であったということです。

 

   今も昔も、普通、王様が乗る者と言えば馬です。馬は、ろばよりもはるかに大きくて、堂々としていて、カッコいい動物です。こどもの国に行ったらいますが、カッコいいですよね。

   現代でも、王様というのは高級車に乗るものです。5/1に新天皇が即位して、10/22に神道の儀式をもった後に、パレードが行われる予定ですが、かなりの良い車に乗るそうですね。オープンボディに改造されたトヨタセンチュリーで、8000万円ほどかかるとのことです。

   イエスさまも、王様であるなら、馬くらい乗るだろうと思いきや、あるいはせめて普通のろばに乗るかと思いきや、なんと、子ろばに、ろばの子に乗られたのです。

   お世辞にもカッコいいとは言えない、正直ダサい。弱っちい。今で言えば、ママチャリに乗ってるみたいなもんですよ。

   当時、ろばは庶民の乗り物であったと言われます。イエスさまは、ろばの子をあえて選ばれた。ここに、この方の不思議さ、不可思議さがあります。

 

   では、なぜイエスさまは、あえてろばの子など選ばれたのでしょうか?ここにはっきり書かれているわけではありませんが、まさにこのことはイエスさまがどのような方であるかを表していると思うのです。

   ろばの子は小さいので、イエスさまがろばの子に乗って、群衆のなかを進むと、イエスさまが見えなくなったのではないかという指摘もあります。ろばの子に乗ると、まわりに立っている人々と同じ高さになる。同じ目線くらいになる。

   普通の王様は、馬に乗って、上から群衆を見下ろし、君臨します。以前もお話ししたかと思いますが、私の友人から聞いた話で、その方のお父様が、まだクリスチャンではないときに、初めて教会に来たとき、もう行きたくないと仰られたそうなんですね。どうして?と聞いたところ、このように言われたそうです。「教会に来ると、何かクリスチャンじゃない私を見下して、上から目線で『ここまで上がってこいよ』と言われているような感じがした。」

   クリスチャンであっても、弱く、愚かですので、時に誰かを見下してしまうことがあるかもしれない。しかし、イエスさまは、違う。私たちを見下して、上から目線で「ここまで上がってこいよ」と言うのではなく、むしろこの地上に下ってきて、私たちと同じ目線まで、降りてきて、共に歩んでくださる。

   また、馬は速いですが、ろばは、特に子ろばはゆっくり歩きます。「焦ることないんだよ」って言って、ゆっくり歩むために、あえてろばの子を選ばれたのではないかと思うのです。

 

二.裏切り者の賛美を受け入れる王様

   実は、メシアが、キリストが、救い主が、王様が、ろばの子に乗って来るというのは、実は、旧約聖書のゼカリヤ書に書かれていたのですが、この時点では、弟子たちはそれには気づかなかったということが、ヨハネの福音書には書かれてあります。

   弟子たちとしては、「え?イエスさまろばの子を選んだの!?」みたいに、ちょっとおかしいなあ、不思議だなあと思ったのかもしれませんが、彼らは、それでも大喜びで、イエスさまとともにエルサレムに入っていきます。35節をご覧ください。

 

19:35そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。

19:36イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。

19:37イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。

19:38「主の名によって来られる方、王に、/祝福があるように。天には平和、/いと高きところには栄光。」

 

   自分たちの服をろばの子にかけること、そして服を道に敷くことは、当時の文化においては、その人を王と認める行為です。

   弟子たちは、イエスさまを王として受け入れます。そして、賛美をしました。37節によると、自分たちがこれまで見てきたあらゆる奇跡のゆえに、イエスさまの力あるわざを見たゆえに、高らかに賛美を歌いました。

   ここだけを見ると、素晴らしい情景ですね。しかし、この後のストーリーをたどっていくと、弟子たちはイエスさまが十字架にかかられる前の晩、イエスさまを裏切り、イエスさまを見捨てて逃げたということが分かります。

   日曜日にはイエスさまを王さまであると認めて、高らかに賛美しておきながら、木曜日にはイエスさまを裏切り、見捨て、逃げていった。

   このような弟子たちの姿を、私は、全然笑えないなあと思うんですね。私たちは、礼拝に集うと、日々与えられているイエスさまの恵み、私たちの人生に起こる素晴らしいこと、奇跡を見て、イエスさまがしてくださったことのゆえに、イエスさまを賛美する。

   しかし、これは毎回言っていますが、この礼拝が終わった瞬間に、あるいはこの礼拝堂を出て、家に帰ると、イエスさまの素晴らしさを忘れてしまう。

   苦しいことがあると、イエスさまを疑ってしまう。もうダメだって思ってしまう。

   日曜日には、イエスさまを賛美しながら、イエスさまに信頼して、イエスさまについていきたいって思いながら、数日が経つと、イエスさまを裏切っているかのような行動を取ってしまうことが、私にはあります。

   人間は変わりやすいんです。あるときは、熱く燃えていても、時が経つと冷めてしまう。あるときは、イエスさまを信頼していても、その次の瞬間には、イエスさまのことを忘れて、不安になって、イエスさまが悲しむような思いや言葉や行動に向かっていってしまうことが、私にはあります。

 

   イエスさまはふしぎな王様であります。普通の王様は、裏切るようなやつを、家臣にしないですよ。裏切るって分かっていながら、家来を雇わないですよ。

   しかし、イエスさまは、裏切ると分かっている弟子たちの賛美を、それでも受け入れられた。そして、裏切ってもなお、彼らを招き、彼らに力を与え、そして彼らを神さまのために、この世界のために用いるのです。

   この箇所を読むと、いつも思い出す歌があるのです。それは「私たちはロバの子です」という子どものための賛美です。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、こんな歌詞です。

 

私たちはロバの子です馬のように速く走れないライオンのような力なんかないただのちっぽけなロバの子です。

だけどあなた知っていますか?ロバが主のお役にたったことイエス様を背中にお乗せしてエルサレムにお連れしたことを。

走れなくても、強くなくてもいつもイエス様がいてくれます私たちはロバの子です神様のために、神様のために、働きます。

 

   私は自分を見ていると、カッコ悪いなあって思います。弱いなあって。力がないなあって。でも、イエスさまはろばの子を用いたんです。弱い弟子たちの賛美を受け入れ、赦し、力を与えたんです。

   イエスさまは、今のあなたを愛し、あなたの不完全な賛美を受け入れ、そしてあなたを変えてくださる。素晴らしいことのために用いてくださるのです。なんと、ふしぎな王様でしょうか。

 

三.永遠の王様

   弟子たちの賛美を聞いたファリサイ派のある人々は、このように言います。39節からをご覧ください。

 

19:39すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。

 

   彼らがなぜこのようなことを言ったのか。もちろん、確かなことは分かりませんが、一つの予想は、あまりに大騒ぎをすると、ローマ帝国の軍隊に目をつけられ、戦争になるのではないかと恐れたからではないか。そのような指摘もあります。

   それも確かに、ありうるでしょう。あとは、ガリラヤから来た田舎者の、無知な人々を見下して、そんな賛美など聞きたくない。うっとおしいと思ったのではないかという指摘もあります。

   あるいは、そもそもイエスさまが王であると信じていないから、そんな賛美など聞きたくないと思ったのかもしれません。

   いずれにせよ、イエスさまに賛美することをやめさせようとする力が存在した。イエスさまが王であることを否定しようとする力があったわけでです。

 

   本日は、教会暦によると、「棕櫚の日曜日」であると申し上げましたが、当たり前ですが、教会暦というのは、教会独自のカレンダーです。

   今は西暦2019年ですが、これももともとは教会暦でして、ADとも言われますが、これはAnno Domini、すなわち「主の年」という意味です。「主」、つまり王様であるイエスさまが生まれてから何年かという数え方ですね。

   ちなみに、紀元前のBCというのも、before Christ、キリスト以前という意味で、歴史の、世界の中心に、イエスさまがいるという立場に立ったカレンダーであります。

 

   日本は、もともとは全然違うカレンダーで動いていましたが、明治政府は、ヨーロッパ・アメリカに合わせて西暦をを導入しましたが、彼らは、それと同時に、天皇の即位から始まる「元号」による数え方を導入します。

   もちろん、元号は古代からありましたが、天皇が変わるタイミングで変わるわけではなかった。それを、西暦がキリストから始まるように、天皇から始まる数え方にしたのです。さらには、たくさんの、天皇に由来する祝日を定め、それによって、天皇が王であるのということを、日本に生きる人々に広めようとしたわけです。

   もちろん、私たちクリスチャンたちも、この日本という国の中で生きている以上、そのような日本のカレンダーを使います。おかげで今年のゴールデンウィークは10連休ですし。

   もちろん、そのようなカレンダーを用いながらも、忘れてはならないのは、私たちの王は、私たち王様は、イエス・キリストであるということです。

   かつてこの国では、イエス・キリストが王であると言うことを、イエス・キリストを賛美することをやめさせようとする力が存在しました。あのキリシタンの時代、そして戦時中、その力が牙をむいたんです。

 

   しかし、イエスさまへの賛美をやめさせようとした人々に対して、イエスさまは言われました。40節をご覧ください。

 

19:40イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

   イエスさまはまた不思議なことを言われるんですね。「石が叫び出す」とはどのような意味なのでしょうか。

   これは、イエスさまを喜びたたえる声を止めることは不可能だということです。日本では、かつて、教会が、イエス・キリストが王であると表明することを、イエス・キリストを賛美することを、やめてしまおうとした時代が、特に戦時中にありました。

   イエスさまの弟子たちも、この後、イエスさまが逮捕されると、自分たちの命も危ないと、恐れて、逃げてしまう。黙ってしまう。

 

   でも、この人たちが黙っても、石が叫ぶ。石のような自然が、この世界が、イエスさまを賛美している。なぜか、イエスさまはこの世界の、この宇宙の王であるからです。

   人々が黙ってしまっても、この世界はイエスさまを賛美している。今は、この耳にはそれが聞こえないかもしれない。この世界をイエスさまが支配されているとは思えないような現実が目の前にあるかもしれない。

   でも、それでも、この世界は、イエスさまが支配しておられる。石が、この世界が叫んでいる。そして、やがて、それがはっきりと分かる日が来る。

 

   実は、ヨハネの黙示録においても、棕櫚が、ナツメヤシが登場します。開かなくて結構です。ヨハネの黙示録7:9をお読みします。

 

7:9 この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、

7:10大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、/小羊とのものである。」

 

   終わりの日、新しくなったこの世界で、なつめやしを持って、イエスさまを賛美する日が来る。そのとき、弱さが、悲しみが、取り去られ、私たちは喜びに包まれる。

   そのときまで、私たちには弱さがあり、悲しみがあります。そのような私たちと目線を合わせ、私たちのペースで共に歩んでくださる。ろばの子に乗って、弱い私たちを用いて、私たちの賛美を喜ばれつつ、永遠を共に歩んでくださる。そんなふしぎな王様を、今日も私たちは礼拝したい。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(2019年4月7日)

2019-04-07 13:39:17 | Weblog

日曜礼拝(受難節第五)     2019.4.7

 

     「後悔などあろうはずがない」 ヨハネ12:1~8

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。4月の第1曜日を迎えました。2019年度の最初の礼拝です。

私は、青葉台教会に来て18年が終わり、19年目に入ります。今年も皆さんと共に、礼拝を通して、神様のみ言葉に養われ、神様の恵みを多く経験したいと思います。

今日は、受難節の中ですので、ヨハネによる福音書12章1節から8節を通して、ナルドの香油を注いだマリアの姿を通して、「後悔などあろうはずがない」という題でお話し致します。「後悔などあろうはずがない」という言葉は、あれっ、どこかで聞いたような、ということですが、それです。

 

Ⅱ本論部

一、私は私の仕方でイエス様に仕える

ヨハネによる福音書11章には、ラザロの死とよみがえりについての記事があります。ラザロの姉妹マルタ、マリアはラザロの死を通して、深い悲しみを経験し、イエス様がそこに居合わせなかったことを心から悔いて、残念に思っていましたが、イエス様がラザロをよみがえらせて下さって、大きな慰めを与えられました。

今日の記事は、ベタニアでの話です。2節には、イエス様のために夕食が用意されたとあります。そして、マルタが給仕をし、ラザロも食事の席にいたというので、この家はマルタ、マリア、ラザロの家ではなかったと考えられているようす。ラザロをよみがえらせて下さったイエス様に対して、マルタは自分のできることで、イエス様のためにごちそうを作ることで、イエス様におもてなしをしようとしたのではないでしょうか。ルカによる福音書10章では、マルタは忙しさのあまり、また、マリアが手伝わないでいることに腹を立て、怒りを爆発したことがありましたが、今回は忙しさに追われて自分を見失うことなく、自分のできることでイエス様に精一杯仕えていたのです。

ラザロはラザロで別に話すこともなく、何もしていない。その食事の席に座っていただけでしたが、今日の箇所ではありませんが、9節には、「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。」とあるように、ラザロは死んでよみがえったという証人というだけで、存在そのものが大きな力、影響があったわけです。ラザロもイエス様に死からよみがえらされたということにおいての証人という彼でなければできない仕方で、方法でイエス様を証ししていたのです。

マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を1リトラ持って来てイエス様の足に塗りました。マリアは、自分の家にある最も高価なものをイエス様にささげたのです。これは、マリア一人のものではなく、ラザロ、マルタとの共有の財産ともいうべきものだったのかも知れません。3人で考えて、イエス様がラザロにして下さった大きな恵みに対して自分たちの精一杯の気持ちを現したのではないでしょうか。

私たちは、日々神様の恵みによって生かされています。イエス様の十字架と復活を通して、魂に救いが与えられ、罪が赦され、永遠の命の約束が与えられました。その大きな恵みに私たちも、人を見るのではなく、人のまねをするのでもなく、自分にできる自分なりの精一杯の仕え方でイエス様に仕えていきたいと思うのです。この1年、私たちも喜んで、自分のできることで、精一杯イエス様に仕えて生きる者でありたいと思うのです。

 

二、誰がなんと言っても喜んでささげる

マリアは高価な香油をイエス様にささげました。世界で最も高価な香水というものがあります。世界第5位は、フランスのキャロン・ボイビアというもので、10万円。4位は、イギリスのクライブ・クリスチャンの22万円。3位は、シャネルのグランドエクストレイトで44万円。2位は、ロンドン・ハロッズのフランキンセンスと、ミルラのブレンドで71万円。1位は、クライブ・クリスチャン、皇帝陛下の香水で1300万円、しかし、これは5カラットのダイヤモンドと18カラットの純金が入ったものだというので、香水自体ではないようです。すると、世界一高価な香油、香水はマリアがイエス様にささげたナルドの香油300デナリオン、約1年間の給料分300万円ということでしょうか。それほどに、高価なナルドの香油をマリアはイエス様にささげたのです。

なかなかできることではありません。高価であれば高価な香油こそ、少しずつ使うものです。しかし、マリアはイエス様に全てをささげたのです。聖書は、「家は香油の香りでいっぱいになった。」(3)と記しています。

マリアのあまりにも太っ腹の、大胆なささげものに文句を言う者がいました。それは、イエス様の弟子の一人のイスカリオテのユダでした。弟子たちの多くは、ガリラヤの田舎出身でした。しかし、ユダは、カリオテの出身で都会、シティーボーイでした。彼はイエス様から会計を預かっていました。12弟子の中には、徴税人マタイがいましたので会計に関しては専門家でしょう。それにもかかわらず、ユダはイエス様から会計を預かるほど、大きな信頼があったということと、会計に関しては徴税人のマタイ以上にその働きに関して有能だったのだと思うのです。

ユダは言います。5節です。「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 リビングバイブルには、「全くもったいない話だ」とあります。

一瞬のうちに注がれて、もったいないことなのです。300円だったら、ユダも見向きをしなかったでしょう。そんなにむきになることもなかった。しかし、1年分の給料となると黙ってはおけなかった。言わずにおれなかったのです。どうしてユダが、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」と言ったか、という理由を説明しています。6節です。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」 そんなに無駄にするなら、高価な香油を金に換えて、貧しい人々に施せばいいという事は、おそらく誰もが認める正当な考えでしょう。しかし、その言葉とは裏腹に、ユダは貧しい人々の事を考えて言ったのではなく、彼自身が盗人であり、金入れを預かりながら、中身をごまかしていた。つまり、自分のために使っていたということでしょう。そういう思いがあるから、マリアの純粋なイエス様に対する感謝の思いを、心を理解することができなかったのです。理解どころか腹を立てたのです。

 私たちクリスチャンに対して、神様を信じない人々は、日曜日の礼拝を毎週行かなくてもとか、そんなに献金しなくてもとか。そんなに時間をささげて奉仕しなくてもと言うかも知れません。でも、私たちは、いやいや礼拝に出席したり、献金したり、奉仕をしているのではありません。イエス様の大きな恵みに対して、感謝して、喜んで時間も財も、私たち自身も神様におささげするのです。喜びなのです。感謝いっぱいなのです。

 

三、イエス様が喜ばれたささげものになる

マリアの行為に対して批判するユダにイエス様は語られました。7節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」 マタイやマルコでは、他の弟子たちも同じように批判していますから、イエス様は弟子たちに言われたのでしょう。マリアのするままにしてあげなさい、と言われました。マリアの行為を受け入れられたのです。しかも、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われました。

イエス様は、ご自分が祭司長や律法学者に捕らえられ、苦しめられ、十字架につけられて殺される、ということを弟子たちに何度か話されたことがあります。けれども、弟子たちは、その話を真剣に聞こうとしませんでした。ペトロはイエス様の十字架を否定して、イエス様から「サタン、引き下がれ」とおしかりを受けました。弟子たちは、イエス様の死とか十字架とか考えたくなかったのです。力ある奇跡を起こし、権威ある言葉を語るイエス様について行けば、自分たちもこの世的に権威や力を持つことができると期待していたのです。本当ならば、弟子たちがまず、イエス様の死を真剣に受け止め、イエス様の死のための備えをすべきでした。けれども、彼らには到底できなかったのです。

マリアは、この高価な香油を愛する兄弟ラザロが死んだ時使ってもよかったのです。また、他の何かでこのナルドの香油を使ってもよかったのです。しかし、マリアはイエス様の葬りのために取って置いた、とイエス様は言われたのです。

イエス様が、カナでの最初の奇跡、水をぶどう酒に変えられた時、世話役は、「あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」と言って花婿を称賛しました。今度は、マリアがイエス様の死の葬りのために、良き香油をイエス様の葬りのために取って置いた、とイエス様ご自身が称賛したのです。

マリアは、イエス様の頭ではなく、イエス様の足に香油を塗りました。油注がれた者とあり、王や祭司、預言者は、頭に油を注がれて任命されました。しかし、マリアはイエス様の足に塗ったのです。頭以外に香油を注ぐということは、死者に対しての行為でした。死体に香油を塗るというのは足に塗るのでしょう。マリアはイエス様の死を意識していたからこそ、頭ではなく足に香油を塗ったのです。おそらく、マリアはイエス様がご自分の十字架の預言を語られた言葉を聞いたことがあるのではないでしょうか。すぐ後にイエス様が十字架にかかるということはわからなかったとしても、イエス様の死を意識していたのだと思うのです。だからこそ、イエス様は、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。」と言われたのです。

8節でイエス様は、貧しい人々のことを軽視したのではなく、マリアが今タイムリーにささげた香油がイエス様の死の備えとなったことを示されたのでした。貧しい人々へのささげものも大切にするべきだけれども、救い主であるお方が全人類の罪のために死ぬという神様の救いのご計画、その大切な時、マリアの精一杯の、心のこもった、イエス様の死を意識した最高のささげものをイエス様は喜んで受け入れられたのです。そして、その最高のさげものに対して自分の自己中心的な考えで、否定し、責めるユダ、弟子たちを戒め、マリアの行為がいかにイエス様ご自身にとって、大きな慰めであり、力であることかを示されたのでした。

イエス様は、私の罪のために、あなたの罪のために十字架にかかって死んで下さいました。罪のないお方、十字架で裁かれるはずのない、裁かれてはいけないイエス様が、私たちの罪を赦すために、私たちに代わって十字架で私たちの罪の罰を受け、尊い血を流し、ご自分の命を犠牲とされ、私たちのために命をささげて、命を落として、私たちを救って下さったのです。死んで終わりではなく、よみがえって私たちにも死んでも生きる永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。このような大きな恵みを私たちは与えられているのです。この大きな恵みに私たちもマリアのように大きな事はできないかも知れません。自分のできる精一杯のささげものをイエス様に喜んでおささげしたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

今日の説教題は、「後悔などあろうはずがない」という題です。これは、野球人生にピリオドを打った、イチロー選手が、引退の会見で言った言葉です。あの観衆、あの人々の自分に対する歓迎、声援を見たら、「後悔などあろうはずがない」と言い切ったのです。本当に努力を重ね、いろいろな記録を打ち立ててきた人です。すごい人です。けれども、努力の足りなさを感じるかもしれない。もっとああしたかった、こうしたかったという後悔はないわけではない。しかし、そんな自分に惜しみなく拍手をお送り、たたえる観衆の姿に、その声援を見たら、「後悔などあろうはずがない」真実な言葉だと思います。

マリアは、ユダや弟子たちに、「もったいない」となじられました。自分の精一杯のささげものにケチをつけられました。精一杯の、心からの、喜んでささげたことに対するいやみは聞こえたけれども、イエス様にささげることのできる喜びに「後悔などあろうはずがない」ということだと思うのです。また、イエス様も私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを「後悔などあろうはずがない」、イエス様の愛の行為であったのです。

2019年度が、始まりました。昨年、私たちは青葉台教会の創立50周年を迎え、多くの恵みを体験しました。今年は、どのような事が起こるのかわかりません。前の岩淵兄弟の説教題のように、「何が何だかわからない」というような事も起こるでしょう。辛い経験や悲しい経験もするでしょう。失敗があるかも知れません。しかし、大丈夫です。私たちのために命をささげて愛して下さったイエス様がいつもあなたと共におられ、あなたを守り、支え、導いて下さいますから、どのようなマイナスを経験しようとも、私たちは言えるのです。「後悔などあろうはずがない」と。イエス様がそう言わせて下さるのです。私たちは、このイエス様に愛されています。この週も、私たちはイエス様と共に置かれた場所で、喜んで感謝を持ってイエス様にお仕えしていきたいと思うのです。

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