日曜礼拝(三位一体後第十五) 2017.9.24
「もしもわたしが苦しまなかったら」 詩篇119:71
Ⅰ導入部
おはようございます。9月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。
先週の第二礼拝が終わり、牧師室にいますと柳楽姉から船越兄が入院して、今日もつかどうかと連絡がありました、と電話をしながらお話しして下さいました。これから壮年会の例会で江上師への質問コーナーでお話ししなければならないし、それが終われば、福岡の九州聖会に行かなければならない。一瞬、どうしたらいいかと躊躇しましたが、すぐに行きます、とお伝えし、壮年会長の小園兄に今から船越兄のところへ行きますので、壮年会遅れます、と伝えて、船越兄が入院された鴨居病院に向かいました。日曜日の午後は、車が多くて渋滞にはまり、時間がかかりましたが、このことにも神様のみ心があると信じて病院に行くと、ちょうど船越姉がホームの車で到着し、病室でお会いすることができました。酸素のマスクをつけられて、苦しそうにしておられました。
コリントの信徒への手紙Ⅱの4章16節から18節をお読みし、お祈りさせていただきました。そして、すぐに教会に戻ると壮年会は終わっていて、昼食をとり、九州へ向かいましたが、夕方に船越兄が天に召された、とメールで知らされました。
告別式の日程の事が気になっておりましたが、北部斎場が工事中ということで、今週の水曜日に告別式の日程が決まり、私も九州聖会を終えて、帰り、告別式の備えをすることができました。船越兄はNHKのお仕事をされていた時は、世界中を飛び回っておられましたが、晩年、病を患い、困難と弱さの中におられました。3週間前の9月1日に、船越兄姉のおられるホームを訪問し、しばらくお交わりをさせていただきました。そして、聖書を開き、祈り、「いつくしみ深き」を共にさんびさせていただきました。それが今は最後の思い出となりました。私たちは誰もが、いつかは死を経験しなければなりません。船越兄は、イエス様を救い主と信じて、イエス様の復活の恵みにも預かりました。今や神様のふところにあり、全ての重荷から解放されて安らいでおられることでしょう。私たちも兄弟がもたれた同じ信仰を持たせていただきたいと思います。
今日は、詩篇119編71篇を通して、「もしもわたしが苦しまなかったら」という題でお話ししたいと思います。来年の青葉台教会創立50周年の記念行事のひとつで、10月3日の火曜日に、群馬県にあります星野富弘さんの美術館を訪問するのですが、今日は、星野富弘さんの信仰姿勢を通して、神様を見させていただきたいと思うのです。
Ⅱ本論部
一、マイナスがプラスになる
星野富弘さんは、群馬県の中学校体育教師の時、模範演技で生徒の前で宙返りをして、演技を失敗して、首から落ちてしまいます。落ちた時に、ボキッという音が聞こえたそうです。首から下の感覚が全くなくなりました。苦しい闘病生活の中で、友人から手渡された聖書を通して、神の言葉を通して、イエス・キリスト様に出会い、救われるのです。
星野富弘さんの詩画集に共通していることは、制限されていることの中に気が付く祝福、何かを失うことによって得た、気づかされた恵み、失うということによって、大切なものを知るということだと思います。星野さんは、自分の思い通りに動けないという制限の中に恵みを見つけるのです。星野さんの詩画集の中には、一輪の花や野の草が描かれています。星野さんが絵を書く時、一輪の花や野の草をじっと集中して見ることによって、描くものを正確に見て描けるのだそうです。ですから、ただ花を見る時と、絵を書く時にじっと見る時とはちがうものがあるのです。星野さんは花や草の絵を書く時、先入観を持って見るのではなく、画用紙に向かって真っ白な気持ち、先入観を持たないで向き合わないと、花にそっぽを向かれると表現しています。あの花はこういう花だと先入観を持って見て描くと奥行きのない作品になるのだそうです。神様が創造された野の花は、花びら一枚、無駄なものは何一つなく、付け加えるものは何もなく、取り外すべきものは何もなく、完璧な作品なのです。
星野さんは、このことから私たちも、人を見る時に先入観をもって人を見ることがあるのかも知れない。あの人はああいう人だから、いつもそうだからと。このように先入観をもって人を見てしまうと、その人の素晴らしさが見えないし、そっぽを向けられることがあると花を通して教えられることがあると言っておられます。
植物というのは、花もつぼみも葉っぱも、明るい方を見るようです。星野さんは、そのことから、「もっと明るい所を見ようよ。光に目を向けよう。」と誘われているような気がするとも言っておられます。星野さんが、怪我することなく、あのまま体育の教師を続けていたら、忙しくしていて、花をじっと見るというようなことはなかった。大切なことに気づくことはなかっただろう。動くことができないというのは、制限であるけれども、大切なものに気づくことができたことは感謝なことであったと言っておられます。
私たちも何かを制限される、動けない、何かをすることができない。そのようなことを経験することがあります。けれども、その制限があるからこそ、見えてくるもの、気づくことがあるです。
二、重荷はイエス様のもとへ
星野さんの詩画集には、お母さんのことがよく出てきます。星野さんは、自分が怪我をして身動きできなくなって、お母さんの愛を強く感じたのです。愛というのは、何もない時よりも、制限されたり、愛している対象が困れば困るほどに、かきたてられるものだと思うのです。愛というのは、相手と一体化し、愛する人の悩みは自分の悩みとなるのです。愛する人の夢は自分の夢になるのです。星野さんのお母さんにとっては、息子の苦しみは自分の苦しみとなり、息子のためにできることは何でもしたのです。
星野さんが入院されていた時、首から下の感覚がありませんので、尿のコントロールができませんでした。尿道にカテーテルで尿を出すのですが、カテーテルの管が細いので、よくつまったそうです。そうなると、膀胱(ぼうこう)がパンパンにはれ上がります。しかし、痛みを感じないので、全身に汗が出るようになり、心臓がバクバクする。そこで、ナースボタンを押して呼ぶわけですが、ナースも忙しくてなかなか来てくれない。もうどうしようもなくなってしまった時、お母さんが尿を出す管を口にくわえて吸い出したのです。そして、カテーテルのつまりを取り除いてくれたそうです。尿が出なかったら大変なことになっていた。このようなことまでしてくれるのは、お母さん以外にはいない。お母さんの愛を強く感じた瞬間だったのです。
また、星野さんは9年間入院していたわけですが、ずっと首の下から全く動かない、何も感じないという状態でいると、体調は安定してくるのですが、そうなると考えることが多くなる。あの事故(生徒の前での模範演技の失敗)がなかったらとあの時の事を後悔するのです。あれがなかったら、自分の人生は変わっていた。模範演技なんかしなければよかった。体育教師にならなければ、模範演技もしないでこんなことにはならなかった。教師になるために群馬大学の教育学部に合格したけれども、合格しなければこんなことにはならなかった。落ちていればよかった。器械体操を高校から習ったけれども、器械体操なんか習わなければよかった。器械体操をするようになったのは、体が元気だったからで、体が弱ければ器械体操なんか習わなかった。体が弱ければよかったのに。彼は、みじめでどん底の状態をゴールとして考えた時、今までの人生が、あの事故に行きつくための今までの人生だと思い込んでしまった。限りなくさかのぼって後悔の連続であったそうです。ずっとさかのぼって、行きついた所は、自分は生まれてこなければよかったという結論に達して、お母さんがどうして自分を生んだのかという、生まれてこなければよかったというのが心の重荷だったのです。
星野さんは、生きることが重荷でした。それは、自分が生きていればお母さんに大きな負担をかけるからです。自分が生きている限り、お母さんに迷惑をかける。本来ならば、自分が稼いでお母さんに楽をさせるのが普通。親孝行できる。けれども、自分がこのような状態で生きているのは、親不孝なのです。そのように重荷を負っていた自分が、ある聖書の箇所を見た時に、自分の事を示されたように感じたそうです。「神様がたった一度だけ
この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう 風に揺れる
ぺんぺん草の実を見ていたら そんな日が 本当に来るような気がした」
三、イエス様も苦しまれた
その言葉とは、マタイによる福音書11章28節の言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」有名な言葉です。みなさんの中にも、この言葉に出会って、慰められた、励まされた、救われた、教会に行くきっかけになったという人もおられるかも知れません。
今日の聖書の箇所は、詩篇119篇71節です。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」 新改訳聖書には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。口語訳聖書では、「苦しみに会ったことは、わたしに良い事です。」とあります。リビングバイブルには、71節、72節として、「結局、神様から懲らしめられたことは、この上ない幸いだったのです。おかげで、はっきり目をおきてに向けることができました。このおきてこそ、山と積まれた金や銀より価値あるものと思えます。」とあります。
イエス様は、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ14:15)と言われました。愛する者の命令には、喜んで従うということを語ると同時に、私は、戒めを守るということとイエス様を愛することが同じこととして記されているように思うのです。苦しみに会うことによって、掟を学んだということは、苦しみを通してイエス様の愛に触れた。苦しみに会って、イエス様の愛がわかったということになるのではないでしょうか。
今日の説教題は、新聖歌292番の「もしもわたしが苦しまなかったら」という歌の題をそのままを説教題にしました。この歌は、水尾源三さんの詩にメロディーをつけたものです。もしも、水野源三さんが苦しまなかったら、イエス様の愛を知ることはできなかった。そして、イエス様の愛を伝えることができなかった。神様の深い愛を苦しむことを通して、自分自身にも多くの人々にも現れなかった、という信仰の詩です。
「もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった
もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエス様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった」
水野源三さんは幼いころに、高熱が出て瞬き以外の事は何もできなくなった。そのような苦しみの中で、12歳の時に聖書に出会い、13歳の時にイエス・キリスト様を救い主として、自分の心に迎え入れて救われ瞬きを通して、神様の愛を多くの人々に伝えました。
「悲しみよ」という詩があります。「悲しみよ 悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら 強くなかったら 私は今どうなっていたか 悲しみよ 悲しみよ
お前が私を この世にはない大きな喜びが 変わらない平安がある
主イエスのみもとに つれてきてくれたのだ」
Ⅲ結論部
星野富弘さんは、病院のベッドの上で、聖書を開いてマタイによる福音書11章28節の言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉に触れた時に、なぜか懐かしい思いがしたそうです。それは自分が高校生の時、家の裏に十字架のお墓があり、その十字架の縦の所に、「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。」(文語訳)という聖書の言葉に出会っていたのです。教会が一つもない場所で、聖書の言葉に高校生の時に触れていたのは不思議なこと。もしかすると、自分が神様という存在を全く知らない時から、将来大きな試練に会うことを神様は知っておられて、私のために、この聖書の言葉を用意して前もって見せていて下さったのではないか。自分の人生を振り返ると不思議なことが多くあった。素晴らしい本や素晴らしい人々との出会いがあった。私を生かそうとする力が働いていて、私を守り、助けていて下さったのではないか。そのようなことが分かったそうです。
私たちも、信仰生活の中で、苦しみを経験します。嘆きを経験します。痛さを経験します。けれども、そのこともご存知であるお方は、私たちを愛して、私たちを救うために、人となって人間の世界に来てくださいました。それがイエス・キリスト様です。天地宇宙を創造された神様と私たち人間との間を取り持つために、神であるお方が人となって来て下さったイエス様は、私たちの罪を赦し、魂を救うために、十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。その犠牲によって、私たちの罪のためになだめの供え物となって下さり、イエス様の十字架の死を見て、神様は私たちの全ての罪を赦して下ったのです。そして、イエス様が死んで葬られ、三日目によみがえることにより、私たちにもよみがえりの命、復活の命を与えて下さいました。私たちは永遠に生きるのではありません。必ず死を迎える時が来ます。船越兄は85年の生涯を全うされ、神のもとに召されました。イエス・キリスト様の十字架と復活によって、私たちにはゴールが与えられているのです。死を通して復活があるように、私たちは現実に苦しみに会います。けれども、それらの苦しみや痛みを通して、神様の愛に触れるのです。神様の深い愛を体験することができるのです。この週もイエス様を信じて、イエス様を信頼して歩みましょう。