江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2017年9月24日)

2017-09-24 12:17:42 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十五)     2017.9.24

    「もしもわたしが苦しまなかったら」  詩篇119:71

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第四日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。

先週の第二礼拝が終わり、牧師室にいますと柳楽姉から船越兄が入院して、今日もつかどうかと連絡がありました、と電話をしながらお話しして下さいました。これから壮年会の例会で江上師への質問コーナーでお話ししなければならないし、それが終われば、福岡の九州聖会に行かなければならない。一瞬、どうしたらいいかと躊躇しましたが、すぐに行きます、とお伝えし、壮年会長の小園兄に今から船越兄のところへ行きますので、壮年会遅れます、と伝えて、船越兄が入院された鴨居病院に向かいました。日曜日の午後は、車が多くて渋滞にはまり、時間がかかりましたが、このことにも神様のみ心があると信じて病院に行くと、ちょうど船越姉がホームの車で到着し、病室でお会いすることができました。酸素のマスクをつけられて、苦しそうにしておられました。

コリントの信徒への手紙Ⅱの4章16節から18節をお読みし、お祈りさせていただきました。そして、すぐに教会に戻ると壮年会は終わっていて、昼食をとり、九州へ向かいましたが、夕方に船越兄が天に召された、とメールで知らされました。

告別式の日程の事が気になっておりましたが、北部斎場が工事中ということで、今週の水曜日に告別式の日程が決まり、私も九州聖会を終えて、帰り、告別式の備えをすることができました。船越兄はNHKのお仕事をされていた時は、世界中を飛び回っておられましたが、晩年、病を患い、困難と弱さの中におられました。3週間前の9月1日に、船越兄姉のおられるホームを訪問し、しばらくお交わりをさせていただきました。そして、聖書を開き、祈り、「いつくしみ深き」を共にさんびさせていただきました。それが今は最後の思い出となりました。私たちは誰もが、いつかは死を経験しなければなりません。船越兄は、イエス様を救い主と信じて、イエス様の復活の恵みにも預かりました。今や神様のふところにあり、全ての重荷から解放されて安らいでおられることでしょう。私たちも兄弟がもたれた同じ信仰を持たせていただきたいと思います。

今日は、詩篇119編71篇を通して、「もしもわたしが苦しまなかったら」という題でお話ししたいと思います。来年の青葉台教会創立50周年の記念行事のひとつで、10月3日の火曜日に、群馬県にあります星野富弘さんの美術館を訪問するのですが、今日は、星野富弘さんの信仰姿勢を通して、神様を見させていただきたいと思うのです。

Ⅱ本論部

一、マイナスがプラスになる

星野富弘さんは、群馬県の中学校体育教師の時、模範演技で生徒の前で宙返りをして、演技を失敗して、首から落ちてしまいます。落ちた時に、ボキッという音が聞こえたそうです。首から下の感覚が全くなくなりました。苦しい闘病生活の中で、友人から手渡された聖書を通して、神の言葉を通して、イエス・キリスト様に出会い、救われるのです。

星野富弘さんの詩画集に共通していることは、制限されていることの中に気が付く祝福、何かを失うことによって得た、気づかされた恵み、失うということによって、大切なものを知るということだと思います。星野さんは、自分の思い通りに動けないという制限の中に恵みを見つけるのです。星野さんの詩画集の中には、一輪の花や野の草が描かれています。星野さんが絵を書く時、一輪の花や野の草をじっと集中して見ることによって、描くものを正確に見て描けるのだそうです。ですから、ただ花を見る時と、絵を書く時にじっと見る時とはちがうものがあるのです。星野さんは花や草の絵を書く時、先入観を持って見るのではなく、画用紙に向かって真っ白な気持ち、先入観を持たないで向き合わないと、花にそっぽを向かれると表現しています。あの花はこういう花だと先入観を持って見て描くと奥行きのない作品になるのだそうです。神様が創造された野の花は、花びら一枚、無駄なものは何一つなく、付け加えるものは何もなく、取り外すべきものは何もなく、完璧な作品なのです。

星野さんは、このことから私たちも、人を見る時に先入観をもって人を見ることがあるのかも知れない。あの人はああいう人だから、いつもそうだからと。このように先入観をもって人を見てしまうと、その人の素晴らしさが見えないし、そっぽを向けられることがあると花を通して教えられることがあると言っておられます。

植物というのは、花もつぼみも葉っぱも、明るい方を見るようです。星野さんは、そのことから、「もっと明るい所を見ようよ。光に目を向けよう。」と誘われているような気がするとも言っておられます。星野さんが、怪我することなく、あのまま体育の教師を続けていたら、忙しくしていて、花をじっと見るというようなことはなかった。大切なことに気づくことはなかっただろう。動くことができないというのは、制限であるけれども、大切なものに気づくことができたことは感謝なことであったと言っておられます。

私たちも何かを制限される、動けない、何かをすることができない。そのようなことを経験することがあります。けれども、その制限があるからこそ、見えてくるもの、気づくことがあるです。

 

二、重荷はイエス様のもとへ

星野さんの詩画集には、お母さんのことがよく出てきます。星野さんは、自分が怪我をして身動きできなくなって、お母さんの愛を強く感じたのです。愛というのは、何もない時よりも、制限されたり、愛している対象が困れば困るほどに、かきたてられるものだと思うのです。愛というのは、相手と一体化し、愛する人の悩みは自分の悩みとなるのです。愛する人の夢は自分の夢になるのです。星野さんのお母さんにとっては、息子の苦しみは自分の苦しみとなり、息子のためにできることは何でもしたのです。

星野さんが入院されていた時、首から下の感覚がありませんので、尿のコントロールができませんでした。尿道にカテーテルで尿を出すのですが、カテーテルの管が細いので、よくつまったそうです。そうなると、膀胱(ぼうこう)がパンパンにはれ上がります。しかし、痛みを感じないので、全身に汗が出るようになり、心臓がバクバクする。そこで、ナースボタンを押して呼ぶわけですが、ナースも忙しくてなかなか来てくれない。もうどうしようもなくなってしまった時、お母さんが尿を出す管を口にくわえて吸い出したのです。そして、カテーテルのつまりを取り除いてくれたそうです。尿が出なかったら大変なことになっていた。このようなことまでしてくれるのは、お母さん以外にはいない。お母さんの愛を強く感じた瞬間だったのです。

また、星野さんは9年間入院していたわけですが、ずっと首の下から全く動かない、何も感じないという状態でいると、体調は安定してくるのですが、そうなると考えることが多くなる。あの事故(生徒の前での模範演技の失敗)がなかったらとあの時の事を後悔するのです。あれがなかったら、自分の人生は変わっていた。模範演技なんかしなければよかった。体育教師にならなければ、模範演技もしないでこんなことにはならなかった。教師になるために群馬大学の教育学部に合格したけれども、合格しなければこんなことにはならなかった。落ちていればよかった。器械体操を高校から習ったけれども、器械体操なんか習わなければよかった。器械体操をするようになったのは、体が元気だったからで、体が弱ければ器械体操なんか習わなかった。体が弱ければよかったのに。彼は、みじめでどん底の状態をゴールとして考えた時、今までの人生が、あの事故に行きつくための今までの人生だと思い込んでしまった。限りなくさかのぼって後悔の連続であったそうです。ずっとさかのぼって、行きついた所は、自分は生まれてこなければよかったという結論に達して、お母さんがどうして自分を生んだのかという、生まれてこなければよかったというのが心の重荷だったのです。

星野さんは、生きることが重荷でした。それは、自分が生きていればお母さんに大きな負担をかけるからです。自分が生きている限り、お母さんに迷惑をかける。本来ならば、自分が稼いでお母さんに楽をさせるのが普通。親孝行できる。けれども、自分がこのような状態で生きているのは、親不孝なのです。そのように重荷を負っていた自分が、ある聖書の箇所を見た時に、自分の事を示されたように感じたそうです。「神様がたった一度だけ

この腕を動かして下さるとしたら 母の肩をたたかせてもらおう 風に揺れる 

ぺんぺん草の実を見ていたら そんな日が 本当に来るような気がした

 

三、イエス様も苦しまれた

その言葉とは、マタイによる福音書11章28節の言葉です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」有名な言葉です。みなさんの中にも、この言葉に出会って、慰められた、励まされた、救われた、教会に行くきっかけになったという人もおられるかも知れません。

今日の聖書の箇所は、詩篇119篇71節です。「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。」 新改訳聖書には、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあります。口語訳聖書では、「苦しみに会ったことは、わたしに良い事です。」とあります。リビングバイブルには、71節、72節として、「結局、神様から懲らしめられたことは、この上ない幸いだったのです。おかげで、はっきり目をおきてに向けることができました。このおきてこそ、山と積まれた金や銀より価値あるものと思えます。」とあります。

イエス様は、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ14:15)と言われました。愛する者の命令には、喜んで従うということを語ると同時に、私は、戒めを守るということとイエス様を愛することが同じこととして記されているように思うのです。苦しみに会うことによって、掟を学んだということは、苦しみを通してイエス様の愛に触れた。苦しみに会って、イエス様の愛がわかったということになるのではないでしょうか。

今日の説教題は、新聖歌292番の「もしもわたしが苦しまなかったら」という歌の題をそのままを説教題にしました。この歌は、水尾源三さんの詩にメロディーをつけたものです。もしも、水野源三さんが苦しまなかったら、イエス様の愛を知ることはできなかった。そして、イエス様の愛を伝えることができなかった。神様の深い愛を苦しむことを通して、自分自身にも多くの人々にも現れなかった、という信仰の詩です。

もしも私が苦しまなかったら 神様の愛を知らなかった

もしも多くの兄弟姉妹が苦しまなかったら 神様の愛は伝えられなかった

もしも主なるイエス様が苦しまなかったら 神様の愛はあらわれなかった

水野源三さんは幼いころに、高熱が出て瞬き以外の事は何もできなくなった。そのような苦しみの中で、12歳の時に聖書に出会い、13歳の時にイエス・キリスト様を救い主として、自分の心に迎え入れて救われ瞬きを通して、神様の愛を多くの人々に伝えました。

悲しみよ」という詩があります。「悲しみよ 悲しみよ 本当にありがとう お前が来なかったら 強くなかったら 私は今どうなっていたか 悲しみよ 悲しみよ 

お前が私を この世にはない大きな喜びが 変わらない平安がある 

主イエスのみもとに つれてきてくれたのだ

 

 Ⅲ結論部

 星野富弘さんは、病院のベッドの上で、聖書を開いてマタイによる福音書11章28節の言葉、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」という言葉に触れた時に、なぜか懐かしい思いがしたそうです。それは自分が高校生の時、家の裏に十字架のお墓があり、その十字架の縦の所に、「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません。」(文語訳)という聖書の言葉に出会っていたのです。教会が一つもない場所で、聖書の言葉に高校生の時に触れていたのは不思議なこと。もしかすると、自分が神様という存在を全く知らない時から、将来大きな試練に会うことを神様は知っておられて、私のために、この聖書の言葉を用意して前もって見せていて下さったのではないか。自分の人生を振り返ると不思議なことが多くあった。素晴らしい本や素晴らしい人々との出会いがあった。私を生かそうとする力が働いていて、私を守り、助けていて下さったのではないか。そのようなことが分かったそうです。

 私たちも、信仰生活の中で、苦しみを経験します。嘆きを経験します。痛さを経験します。けれども、そのこともご存知であるお方は、私たちを愛して、私たちを救うために、人となって人間の世界に来てくださいました。それがイエス・キリスト様です。天地宇宙を創造された神様と私たち人間との間を取り持つために、神であるお方が人となって来て下さったイエス様は、私たちの罪を赦し、魂を救うために、十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。その犠牲によって、私たちの罪のためになだめの供え物となって下さり、イエス様の十字架の死を見て、神様は私たちの全ての罪を赦して下ったのです。そして、イエス様が死んで葬られ、三日目によみがえることにより、私たちにもよみがえりの命、復活の命を与えて下さいました。私たちは永遠に生きるのではありません。必ず死を迎える時が来ます。船越兄は85年の生涯を全うされ、神のもとに召されました。イエス・キリスト様の十字架と復活によって、私たちにはゴールが与えられているのです。死を通して復活があるように、私たちは現実に苦しみに会います。けれども、それらの苦しみや痛みを通して、神様の愛に触れるのです。神様の深い愛を体験することができるのです。この週もイエス様を信じて、イエス様を信頼して歩みましょう。

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日曜礼拝(2017年9月17日)

2017-09-17 12:45:14 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十四)     2017.9.17

    「神様は本当におられるのです」  マタイ6:25~34

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝いたします。

今日は、人間が作った神ではなく、人間を造られた神様は、本当におられるということを見たいと思います。今日は、マタイによる福音書6章25節から34節を通して、「神様は本当におられるのです」という題でお話ししたいと思います。

Ⅱ本論部

一、全てのものを創造されたお方がいる

今日の聖書の箇所は、イエス様が山上で話されたお話しです。大変有名なお話しです。

イエス様は、この話しを誰に対してしたのでしょうか。25節を見ると、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。」とありますが、心配している人、悩んでいる人、心が乱れている人に対して語られたことなのです。今日、礼拝が終わって何を食べようかと思い悩んでいる人はいるでしょうか。今日の教会のお昼は、炊き込みご飯ですから、心配いりませんね。

私たちは、いろいろなことに思い悩み、心配することが多くあります。とするならば、今日の聖書の箇所は私たち一人ひとりに向かって語られていることだと思うのです。

イエス様は自然界を見なさいと言われたのです。

26節には、「空の鳥をよく見なさい。」とあり、27節には、「野の花がどのように育つか、注意して見なさい。」とあります。ただ、空の鳥をぼーっと見るのではなく、よく見るのです。野の花が育っているのをただ見るというのではなく、注意して見なさいと、イエス様は言われたのです。私たちは自然界をみることによって、唯一真の神様を知ることができるのです。イネ科の植物にトウモロコシがありますが、好きな方もおられるでしょう。JFの会で、上芦別教会を訪問した時に、トウモロコシを出してくださいました。とてもおいしかったです。トウモロコシは人間にとっておいしいものですが、害虫にとってもおいしいものです。トウモロコシには天敵がいるのです。夜盗(よとう)虫というそうです。夜盗(よるぬすむ)虫と書きます。昼間の間は地面に潜り込んでいるのですが、夜になると出てきてトウモロコシの葉っぱをむしゃくしゃと食べるのです。そして、トウモロコシは葉っぱを食べられてしまうと実はならないのです。今は、農薬でこの夜盗虫を駆除するのです。けれども、農薬のない時代もあったわけですが、トウモロコシは全滅しなかった。それは、夜盗虫にも天敵がいるのです。それは、寄生蜂(きせいほう)という蜂です。寄生蜂は、夜盗虫というイモムシの体の中に卵を産み付ける。そして、夜盗中の中で孵化(ふか)すると、夜盗中の内部をむしゃむしゃ食べて、大きくなるだけなったら、夜盗虫の中から出てくる。

では、この寄生蜂は夜盗虫をどうしてキャッチするのか。トウモロコシには、においはないそうです。夜盗中にもにおいがない。けれども、夜盗虫がトウモロコシの葉を食べる時、トウモロコシの葉の成分と夜盗中の唾液(だえき)がブレンドされて、化学反応して、その時に寄生蜂を呼び込むフェロモンそっくりのにおいにかわるそうです。手の込んだシステムです。これは、初めから、そのように造られている。始めから設計されているということです。虫の生態を知りつくしていないとこのようなシステムはできない。このように私たちは、自然界に目を注ぐと、すべての事をご存知の神様が創造されたことを知ることができるのです。

 

二、人間は神様の形に似せて創造されたので価値がある

イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。」、「野の花がどのように育つか、注意して見なさい。」と言われました。神様は、創世記1章で天地宇宙、動植物を創造されたことが記されています。そして、その中でもっとも素晴らしい存在が人間なのです。神様は人間を創造された後に、はなはだよかった、と言われたのです。26節の最後には、「あなたがたは、鳥よりも価値ある者ではないか。」とあります。リビングバイブルには、「まして、あなたがたは、天の父にとって鳥よりはるかに価値があるのです。」とあります。神様はいろいろなものを造られましたが、神様の作品の中でもっとも素晴らしいのが私たち人間なのです。なぜなら、神様は私たち人間を神様のかたちに似せて造られたからです。人格あるものとして造られたのです。

女性会の時にもお話ししたのですが、ビクトール・エミール・フランクルというオーストリア人の精神科医、心理学者がいます。「夜と霧」の著者です。彼は、アウシュビッツの収容所に家族と共に入れられて、彼だけが生還しました。そして、彼は、自分のクリニックを開設しました。そこで働いていたナースは、素晴らしい人で、「ナース」になるために生まれてきたと思われるほどに気が利く人でした。しかし、彼女が病気になり、第一線で働けなくなりました。彼女は、「私は多くの患者さんに仕えてきました。でも、今は何もできなくて役に立たなくなった。これでは生きている意味がない。」と言い落ち込むのです。その時、フランクルは彼女に言いました。「あなたのその人生観は、あなたが半生をささげて、仕えてきた患者さんたちに生きる意味を奪い取ることになりませんか。あなたが仕えてきた患者さんは、何もすることができないという状態でした。何もすることができない人は価値がない、何の役にも立たないというあなたの人生観は、患者さんから生きる意味を奪い取る事になりませんか。」と言ったのです。

私たちは、あれができる、これができると競い合います。けれども、最後には何もできなくなる時がくるのです。明日は敬老の日です。今日は第二礼拝後には、高齢者の方々への祝福の祈りをさせていただきます。病気になったり、年を重ねると何もできない、何の役にも立たないということになると人間の価値がなくなるのでしょうか。人間を根拠にして人間の価値を保とうとしても限界があります。人間になぜ価値があるのかというと、それは、何かができるとか、良い成績を残したとかいうことではなくて、私たちは神様の形に似せて創造されているからなのです。私たちがどのように年を重ね、何もできなくなり、人に役に立たない者だと自分が思ったとしても、あなたは神様の形に似せて創造されたので、価値があるのだということを信じていただきたいと思うのです。

 

三、全ての事は神様を経由して起こっている

32節を共に読みましょう。「それらはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたに必要なことをご存知である。

リビングバイブルにはこのようにあります。「ほんとうの神様を信じない人たちのまねをしてはいけません。彼らは、このような物がたくさんあることを鼻にかけ、そうした物に心を奪われています。しかし、天の父は、それらがあなたがたに必要なことは、よくご存じです。

聖書は、神様が私たちに何が必要なのか、その必要なことを知っていて下さるとあります。この神様を信頼して生きるということは、思いわずらいからの解放になります。

壷井栄という小説家、児童作家がおられました。家庭小説である「柿の木のある家」とか「二十四の瞳」が有名です。「二十四の瞳」は映画化されて有名になりました。彼女の学歴は小学校卒業のみです。彼女は。女流文学賞を受賞しました。また、壷井栄児童文学全集があります。

彼女は、小豆島のしょうゆ樽職人の家に生まれました。彼女の子ども時代はとても貧しい家庭だったようです。食べ物のあまりない時代に、お母さんはおやつにお豆をくれたそうです。豆を炒って、豆の入った袋の中に無造作に手を入れて、自分と姉に一掴(つか)みずつ手のひらにおいてくれるのです。姉は、妹の方が絶対多い。どうしていつも妹ばっかりよくするのか。栄さんは、いやお姉ちゃんの方が絶対に多いと喧嘩になるのです。食べ物の恨みは恐ろしいとよく言います。すると、お母さんが、「数えてごらん」と言うので、数えてみると、姉は25粒、栄さん25粒でどちらも同じ数。数えていたわけではないのに、姉も妹も同じ豆の数だったそうです。壷井栄さんは晩年に、このような詩を書いています。「母の手は公平、親切、争いを静め、満足を与える」

世の中には不公平なことがたくさんあります。しかし、お母さんを経由して自分の所に来たものは、いつも公平、いつも親切、いつも間違いがなく、争いを静める。私たちが生活していく中で、私たちの周りには、不公平なことや、いやなことや残念なことが多くあります。けれども、私たちの上には、いつも、真実に世界を治めておられるお方がいて、世界を支配しておられる神様は、私たち一人ひとりの必要をよくご存知であり、私たちの身の上に、最善に、最もよきものを備えて下さるのです。

私たちの目には、不幸に思えることさえも、つらいと思えることさえも、悲しい出来事さえも、絶望と感じることさえも、神様の手を経由して起こっていることなのです。神様の許しのもとで私たちの人生の身の上に起こることは、最善未満のなにものでもないのです。このことを私たちが本気で信じるならば、苦難の時、絶望を経験する時、立ち直ることができるのではないでしょうか。

天の神様は、私たち一人ひとりを創造して下さいました。私たちを創造された神様は、私たちを造りっぱなしではないのです。私たちを愛して、生かして、私たちに何が必要なのかを全てご存知であって、私たちに必要なものを、最も良きものを与えようと待ち構えておられるお方なのです。

 

Ⅲ結論部

壷井栄さんは、「母の手は公平、親切、争いを静め、満足を与える」という詩を作りましたが、私たちにとっては、「神様の手は公平、親切、争いを静め、満足を与える」となるのです。

天の父なる神様は、私たちに必要なことを全てご存じなのです。私たちに、いつも最善のことをなさるのです。私たちを創造し、支え、守って下さる神様を知らないと自分で自分を過剰に守ろうとして生きてしまうのではないでしょうか。この神様から離れて生きることを罪というのです。その神様から離れた私たち人間を救うために、私たちの罪を赦し、魂に救いを与え、永遠の命を与えるために、イエス様が人となって、この地上に来て下さり、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流して下さり、命をささげて下さいました。イエス様が私たちの罪のために、なだめの供え物となって下さり、そのなだめの供え物であるイエス様が流された血とその死を父なる神様が見て、その十字架の死を通して、神様が安心して、罪ある人間を赦して下さるのです。

私たちを創造された神様は、私たちを創造した以上は、私たちに必要なものを知り、私たちに必要なものを与えて下さるのです。今、現実に目の前に経験している状況の中で、その出来事が、私たちの目には、たとえ不幸に思えることがあっても、つらいと思えることがあっても、悲しい出来事さえも、絶望と感じることさえも、私たちを愛し、私たちのために十字架にかかるほどの愛を示された神様の手を経由して起こっていることならば、困難の中にある私たちと神様が共におられ、その状況を最善以下にはなさらないのです。私たちが今経験しているすべての事が、神様の許しのもとで私たちの人生の身の上に起こっているとするならば、私たちが、その苦しい状況のままで、絶望を経験したままで終わることなど絶対にあり得ないのです。

パウロは言いました。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6~7)

私たちと共におられる神様は、本当の神様であり、この神様は生きて働かれるお方なのです。このお方が、この週も共におられ、あなたの全ての必要をご存知であり、その必要に答えようとして下さるのです。このお方が共におられること、そして全ての事が神様の手を経由して起こっていることを信じて、イエス様を信頼して、歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2017年9月10日)

2017-09-10 12:36:57 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十三)     2017.9.10

    「かゆい所に手が届く」  マタイ20:1~16

Ⅰ導入部

 おはようございます。9月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。先週の礼拝は大変暑くて、汗びっしょりでした。朝夕が涼しくなって、冷房を弱くしていて、会堂が暑いのかと思っておりましたら、礼拝後に柳楽兄が「会堂のクーラーが故障していました。」と言われて、納得、「暑いはずだ。」と思った次第です。

 昨日も暑い日でありました。残暑厳しいですが、今日は会堂のクーラーも直って、暑さからも守られて礼拝をささげることができますことを感謝いたします。

 私たちの信じる神様は愛の神様です。この神様、天地宇宙を創造し、私たち一人ひとりを創造して下さいました。そして、私たちに、この世界にあるものを通して、喜び、感謝して生きるように、いろいろなものを備えていて下さるのです。

今日は、マタイによる福音書20章1節から16節を通して、「かゆい所に手が届く」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、誰でも同じように恵みを受ける

 今日の聖書の箇所はぶどう園で働く人々の同労時間が違うのだけれども、多く働いても、少なく働いても、同じ賃金であったということです。この世においては、長い時間には、それに見合うだけの賃金が与えられるわけです。働いた分だけの、その時間に見合うだけの賃金が当然もらえるわけです。仏教の世界では、カルマという思想があります。良い行為には良い結果が訪れ、悪い人には悪い結果が訪れる。なんでこんなひどいことが自分の身に起こるのか。それは、あなたがひどいことをしたから。いや、そんなひどいことをした覚えがないのですが、それは、あなたが前世においてひどいことをしたので、前世では加害者なので、現世では被害者となっているんです。良いものは良い人に、悪いものは、悪い人とに来る。人間と言うのは、それぞれ自分に見合ったものが与えられるのです、というのが、カルマの思想です。因果応報です。

 けれども、聖書に示された神様は、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)とあるように、良い人にも悪い人にも等しく与えて下さるというのです。人間の思いをはるかに超えているのです。

 今日登場するぶどう園の主人は、最後に来た労働者、たった1時間しか働かなかった人にも、朝早くから働いた人と同じように、1日の賃金分の1デナリオンを与えたのです。

 私たちが今いただいているものは、私たちの行為や生き方に見合うだけのものをいただいているのでしょうか。そうではありません。神様が私たちに与えていて下さるのは、私たちの努力や頑張りで与えられているのではなくて、愛なる神様が一方的に、無条件で与えていて下さるのです。

 本来ならば、1時間しか働かなかった者たち、しかも。片付けぐらいの簡単な仕事であって、働いた本人たちも、そんなにいただけるはずがない、と思っていた彼らに、1日の労度賃金の1デナリオンが与えられたのです。それは、主人の思いだったのです。神様は私たち一人ひとりを愛して、必要なすべてのものを与えて下さるのです。

 

 二、人間の理解できない神様の大きな愛

 最後の者たち、たった1時間しか働かなかった者たちが、1デナリオンをもらったので、朝早くから汗を流してがんばった人々は、自分たちも1デナリオンしかもらえなかったので、主人に文句を言いました。12節を共に読みましょう。「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いするとは。」 ぶどう園の主人の思いを理解することはできないのです。

それは、多く働いたものは多く得られる。そして、少なく働いた者は、その時間に見合うものをもらうべきだ、というカルマの思想と同じです。でも、主人は違うのです。

 あるアマチュアの画家が、個展に出展するために、公園で噴水の絵をかいていました。期限が近づいていて、もう今日一日しかないということで、ラストスパートで一生懸命に噴水の絵をかいていた。すると、向こうから、あるおじさんがじっとこっちを見ている。ずっと、何分も見ている。なんかそれが気になる。時には、絵を見に来たりして、また向こうに行って、またじっとこっちを見ている。警察のように、犯人の様子をうかがうかのように、じっと見つめている。なんか気になるな。向こうへ行ってくれないかな!イライラするな。変なヤツだなあと思いつつも、絵をかきあげたのです。すると、絵を描き上げた瞬間、そのおじさんが、「書きあがりましたか?完成しましたか?」と聞いた。その画家は、「はい、書きあがりました。」と答えると、そのおじさんは小屋の中へ入って行きました。すると、噴水がすぐに止まったのです。そのおじさんは、公園を管理する人、その噴水の管理をし、時間が来たら噴水を止める係の人でした。本来ならば、もうとうに時間が過ぎていて噴水を止めなければならない。しかし、一生懸命に絵を描いている彼の絵が完成するのを待っていてくれたのです。じっと見ていたのは、絵が描き終わったかどうかを

見ていたのでしょう。このおじさんは、残業して、彼に協力してくれたのでした。そのことがわかったこの画家は、自分がおじさんに対して、イライラしたり、向こうへ行ってくれないかな、変な人だと感じたことを反省したのです。おじさんの事を迷惑だと思っていたのですが、実は迷惑をかけていたのは自分の方だったのです。立場が変わったとたんに、この画家は、おじさんに対する感謝の気持ちがわいてきたのです。

 朝早くから働いた人々は、朝早くから働いた自分たちと1時間しか働かなかった連中と同じにした、と腹を立てました。けれども、1時間しか働かなかった人は、どんなに喜んだでしょうか。朝早く働いた人たちが、1時間しか働かなかった人となるならば、ぶどう園の主人に心から感謝したことでしょう。立場が変われば、考え方も変わるのです。

 三、神様の前に立たない限りわからない

 この主人は、本人が言っているように、不当なことは何もしていません。朝早く働いた人たちとは、1デナリオンという約束で仕事をもらったのですから、彼らは1デナリオンをもらえたことは感謝なことでしょう。しかし、1時間しかはたらかなかった人々が、1デナリオンもらったということ。しかも、最初から働いた自分たちよりも先に彼らが1デナリオン銀貨をもらったので、自分たちは、もっともらえるだろうと思ったのです。

 私たち人間は、罪がなかなかわからない。特に、日本人は罪がわからないのです。罪と言うと、法律の事、犯罪の事を頭に浮かべます。ですから、自分は法律を犯していないから、違反をしていないから罪はないというのです。

葛飾北斎という人は、89年の生涯で、91回も引っ越しをしたようです。奥さんを亡くしてラスト13年で37回引越しをしている。現代のようにクロネコヤマトはありません。絵をかくのに集中していると他の事は気にならない。特に奥さんが亡くなってからは、食事は自分で作るわけではない。料理はしない。家の中に食器はない。出前か、買ってきたもの。今でいえば、コンビニ弁当、食っちゃ、ごみを捨て、食っちゃごみを捨てで、家中がゴミだらけ、ごみ屋敷になり、片付けることもしないで、引っ越す。そして、絵に集中して、家がゴミで一杯になると絵を描くスペースがなくなると引越しを繰り返したのです。彼は掃除が嫌いな人だったようです。

ある時彼が、新しい家に引越したら、なんかごみが一杯。自分も人の事は言えないのですが、それにしても汚い。人格を疑うような汚し方である。「なんだこの家は、ゴミだらけで。前の住人はなんだ掃除もしないで。」大家さんに、「この部屋はなんだ。ゴミだらけじゃないか。」大家は言いました。「前の住民はあなたですよ。」 以前いた場所を忘れていたのです。これが、北斎の最後の引越しとなったそうです。人が汚した部屋だと思っていたら、人格を疑う。なんだこの汚し方はと考える。しかし、自分の事になると芸術には犠牲がつきものだと自分には甘いのです。同じ悪いことでも人がした悪い事は、とっても悪いことで、自分がやったことは、人間としての弱さだというのです。つまり、客観的に自分の姿を見ることはできない。なぜ、罪がわからないのでしょう。それは自分が基準となっているからです。人に厳しくて自分に甘い。そして、自分に甘い自分がジャッジしているので、自分が罪人だとはわからないのです。基準は変えてはならないのです。人によって変わるものではないのです。基準は神様だと聖書は言っている。神様は外面的なことではなく、心の中の事柄を問題としているのです。とするならば、全ての人は罪人であると認めざるを得ないのです。聖書は、「罪からくる報酬は死である。」(ローマ6:33)と言っています。人間の中で死なない人はいません。死ぬとするならば、その人は罪人なのです。なぜ、人間は死ななければならないのでしょうか。それは、命の源である神様から離れたからです。神様と向き合った存在として創造されながら、この神様から離れて間違った場所にいるからなのです。

このことを聖書は、ハマルティア、的外れというのです。そして、神様から離れた的外れの場所にいる私たちを神様のもとに戻すために、私たちの罪の身代わりに、イエス・キリスト様が十字架にかかって死んで下さったのです。

 Ⅲ結論部

 14節で、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」とあります。リビングバイブルには、「私はだれにでも分けへだてなく払ってやりたいのだ。」とあります。これこそ、神様のお心なのです。すべての人を救いたい。すべての人の罪の代価を支払ってやりたいのだ、というのが、神様の本心、正直な思いなのです。

 神様は、神様の前に罪を犯し、創造主から離れた私たちを救うために、イエス・キリスト様を私たち人間の世界に送って下さり、完全な神、完全な人間としてイエス様は私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。イエス様は十字架の上で、「テテレスタイ」「完了した」と言われました。十字架の上での6番目の言葉です。テテレスタイとは、経済用語です。支払いが完了したということです。私たちにどのような罪があろうとも、負債が大きくても、十字架の上で流されたイエス様の血潮のゆえに、捧げられたイエス様の体のゆえに、私たちが受けるべき罰をイエス様が、なだめの供え物となって下さったのです。神様が十字架で苦しまれたこと、血を流し、命をささげて下さったというなだめの供え物を見て、神様は安心して罪ある者たちを赦して下さるのです。神様の赦しは、かゆい所に手が届くようなものです。最近、アンメルツというかゆみ止めの塗り薬があります。ちょっと曲がっていて、手の届かないところに塗るのですが、今までのは、ちょっと短かった。なかなか、背中の中央部分のかゆい所にとどかなかった。しかし、製品を開発して、長くなったのです。そして、背中に十分届く長さになって、背中のかゆい部分に塗ることができて、幸せになったのです。

 神様の赦しは、まさに、アンメルツが長くなったように、私たちの罪を完全に赦すことができるのです。イエス様の十字架でのお苦しみは、流された血とささげられた命は、私たちのどんな罪も完全に赦して下さるのです。

 「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」とぶどう園の主人が言ったように、罪の負債を完全に支払って下さったので、テテレスタイ、完了したのです。

 「悪くて明るいわが家」という詩を女の子が書きました。「今日、学校から帰るとお母さんが言いました。お兄ちゃんの机の上にある丸い金魚鉢を落として割ってしまった。もっと気を付けて机を拭けばよかったのに、お母さんが悪かった。お兄ちゃんが言いました。僕が昨日、金魚鉢を机の端に置いたから、僕が悪かった。私は言いました。昨日、お兄ちゃんが机の端に金魚鉢を置いたことを知っていて、あぶないなあと思ったけれども、何も言わなかった。私が悪かった。お父さんが帰ってきて、みんなの話を聞いて、金魚鉢を買う時、四角いのにしようか、丸いのにしようかと迷って、丸い方を買った僕が悪かった。私の家は、悪くて明るい我が家」 なぜ、自分が悪いと言えるのでしょうか。責められないということを確信しているからです。神様は私たちを責めようとしてはおられない。

わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」と、イエス・キリスト様を十字架につけて、私たちの罪を、負債を全て支払って下さったのです。私たちは、このような愛で愛されているのですから、感謝して、この週も歩みましょう。

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日曜礼拝(2017年9月3日)

2017-09-03 12:39:49 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十二)     2017.9.3

    「何があっても大丈夫と信じる」  ダニエル書3:13~25

Ⅰ導入部

 おはようございます。9月の第一日曜日を迎えました。暑い8月、天候不順の夏でありましたが、ここ数日は秋を感じさせるような涼しい日々が続いております。8月31日から9月1日にかけて、中高生の自殺が目立っていることをニュースで見ました。毎年夏休み明けには自殺者が多いと言われているようです。勉強や友だち同士のかかわりから解放されて過ごした日々が終わり、また、勉強や友人関係で肩に重荷がのしかかり不安でいっぱいになるのだと思うのです。自分一人で生きなければならない、頑張らなければならないと思うなら、ストレスは溜まりますし、不安と心配でいっぱいです。しかし、私たちには強い味方、私たちを守り、支え、導いて下さる愛のお方が共におり、私たちに勇気と力を与えて下さるのです。そのようなお方を知っていること、信じることができるということは、本当に素晴らしいことだと思うのです。

 私たちは、人生の中で、信仰生活の中で、全てが嫌になってしまうことがあります。不安に押しつぶされそうになることがあります。神様を信じてはいても、その信仰を破壊するかのような出来事に遭遇することがあるのです。けれども、私たちの信じる神様は、イエス・キリスト様は、いつも私たちのそばにいるのです。私たちの抱える問題を痛みを、ご自分の問題とし、ご自分の痛みとして下さり、私たちを守り導かれるのです。

 今日は、ダニエル書3章13節から25節を通して、シャデラク、メシャク、アベド・ネゴの信仰を通して「何があっても大丈夫と信じる」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、平凡な日々の中にこそ信仰を見る

 今日出てくるシャデラク、メシャク、アベド・ネゴは、ダニエルと共にイスラエルからバビロンに連れてこられました。彼らは信仰者であり、優秀であり、それ以上に、神様の御計らいによって高い地位についていたのです。2章には、ネブカドネツァル王が見た夢を解いて、王はダニエルの信じる神様、天地宇宙を創造された神様を「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない。」(ダニエル2:47)とほめたたえたのでした。そして、ダニエルをバビロンの知者の全ての上に長官として立てられ、シャデラク、メシャク、アベド・ネゴは、バビロン州の行政官に任命されたのです。

 この時から20年後のことが3章になるようです。あの時の事は、もう忘れ去られ、3章1節では、ネブカドネツァル王は、金の像を造り、その像を拝むようにという命令を出したのです。そして、この命令に従わない者は、燃え盛る炉に投げ込むと脅したのです。

20年前には、ダニエルの信じる神様を「あなたがこの秘密を明かすことができたからには、あなたたちの神はまことに神々の神、すべての王の主、秘密を明かす方にちがいない。」と言ってほめたたえたはずなのに、あの時の感動はすでに薄らいで、自分の力を、権威を見せびらかせようとする欲望が、王を支配していたのです。

私たちは、神様の素晴らしい奇跡を体験したり、神様の助けを体験して、神様を信じ、ほめたたえることがあります。けれども、いつも、いつもそのような奇跡や出来事があるわけではありません。驚くような神様のみ業を体験しようとも、何も起こらない日々の暮らしの中でも、私たちは神様を信じる信仰を養いたいと思うのです。

 

 二、人間の権威を恐れないでいい

 イスラエルから捕囚、囚人として連れてこられたダニエルや、シャデラク、メシャク、アベド・ネゴがバビロンで高い地位についたことをよく思わないカルデヤ人の何人かは、3人を何とかして、今の地位から引きずり降ろそうと考えていたので、今回の王様が金の像を造り、金の像を拝めという命令は、彼らにとって好都合なことでした。当然、シャデラク、メシャク、アベド・ネゴは、真の神を信じているので、金の像を拝みませんから、その事を告げ口するのです。

 あの3人は、王が造られた素晴らしい金の像、王様の権威の象徴である像を拝まないのです。それは、王に従わないということです。王様に反逆しているのです。このままでいいのでしょうか、と言うのでした。

 それを聞いたネブカドネツァル王は、激怒しました。自分の命令を無視した。自分の権威に従わない。反逆罪だ。王様のメンツはつぶれ怒ったのです。すぐに、3人は王の前に引き出されます。そして、王自らが尋問するのです。まず、金の像を拝まないこと、つまり、王の神に仕えていないことを確認します。そして、チャンスをやろう。音楽が聞こえたら、ひれ伏して、金の像を拝むならば許してやろう。もし、拝まないなら、直ちに燃える炉に投げ込ませる、と脅したのです。

 15節の最後の所には、「お前たちをわたしの手から救い出す神があろうか。」とあります。この言葉と同じような、似たような内容を語った人がいました。それは、イエス様を尋問したポンテオ・フィラトでした。彼はイエス様に、「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか。」(ヨハネ18:10)

と言いました。自分の権威で、自分の一言で助けることもできるし、十字架にはりつけにできる、と。

 世の権力が、信仰者をどれほど苦しめてきたのかということは、歴史が明確に示しています。恐れで、権威で信じさせるというのは、信仰とは言いませんし、私たちは、そのような権威や恐れで、信仰をするのでもないことを知りたいと思うのです。

 

 三、絶対に裏切らないイエス様を信頼する

 ネブカドネツァル王に脅された3人の反応を見てみましょう。皆さんと共に16節から18節まで共に読みましょう。「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴはネブカドネツァル王に答えた。「このお定めにつきまして、お答する必要はございません。私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、御承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」

 3人は、恐ろしい状況の中に立たされていました。人間的に見たら、拝むことで命が助けられるという逃げ道もあったでしょう。しかし、そういうことではなくて、3人は天地宇宙を創造された神、人間が作った神ではなく、天地宇宙、人間を創造された神様を信じているのです。そして、この神様以外のものは、神ではないので拝んだり仕えたりするということはできないのです。

 彼らは、はっきりと宣言しました。「私たちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。」これなんです。神様を信じるとは、このことです。神様は私を救うことができるということです。そんなことはわからないし、自信がないという私たちの側、人間の側の思いではなくて、神様は神様なので、全能なるお方なので助けることができるという、救って下さるお方に信頼することなのです。これが信仰です。 そして続けて言いました。「そうでなくとも、御承知ください。私たちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」リビングバイブルには、「どんな状況におかれても」とあります。

 「そうでなくとも」とは、「神様が助けて下さらないとしても」ということではありません。必ず助けて下さると信じているのです。ただ、その助けて下さる、救って下さるというのが、自分の考え、自分の思い、自分の思い描いたものでなくても、なのです。

 シャデラク、メシャク、アベド・ネゴは、神様を信じて歩んでいました。このような状況でも、神様を信じる信仰がありました。そのような信仰者でも試練に会うということです。信仰的に正しく、忠実に歩んでいても、試練にも会うし、命の危機にさらされることもあるといことを聖書は語るのです。そして、どのような苦しみや苦難や絶望を経験しようとも、あなたのそばには「四人目の者、神の子のような姿をしている。」とネブカデネツァル王が言ったように、イエス様が共におられるのです。あなたを守り、どのような試練からもあなたを救うのです。神様の方法で、神様の意志に基づいて。

 Ⅲ結論部

 私たちと共におられるお方は、私たちのために全てを捨てられたお方です。天の位も、神であるという権威も捨て、命を与えて下さったのです。私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さったので、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が赦され、イエス様が死んでよみがえることで、私たちに永遠の命を与えて下さったのです。

 私たちは、これほどの愛で私たちを愛しておられるイエス様が私たちを守られるのです。救われるのです。大丈夫だと言われるイエス様を信じて、この週も歩んでまいりましょう。

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