主日礼拝(復活後第二) 2009.4.26
「弱さの極み」 Ⅱコリント12:1-10
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。4月の第四主日を迎えました。16連休や12連休のゴールデンウィークのお休みに入った方々もおられることでしょう。皆さんにとりまして良き休暇となることを願います。
今日は、「弱さの極み」と題してコリント信徒への手紙12章1節から10節を通してお話したいと思います。コリント信徒への手紙12章9節のみ言葉は、昨年の教会の年間のみ言葉でした。この箇所からのメッセージをしていないことに気がついて、今日の午後総会で新しいみ言葉が掲げられることになるので、昨年の年間のみ言葉ではありますが、この箇所を選ばせていただきました。
Ⅱ本論部
⒈何を誇るのか
12章の1節の最初に、「わたしは誇らずにいられません。」とあります。皆さんには、誇るべき事、自慢することがあるでしょうか。音楽的な才能、能力的な才能、身体的な才能、アメリカ大リーグのイチロー選手は、日本の最多安打張本氏を抜き日本で1番になりました。身体的には自慢できる多くのものを持っているのでしょう。人と比べて何かを多く持っている。大きな何かを持っている。珍しいものを持っていると持ち物で自慢できるものもあるでしょう。あまり人が経験できない事を経験したということも自慢できるでしょう。パウロも言いました。「わたしは誇らずにいられません。」と。
コリントの信徒への手紙10章10節では、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」とありますが、パウロに関してそのように言う人々がいたのです。また、11章では偽使徒たちが現れ、コリントの教会を混乱させていたのです。ですから、パウロはイエス様に立てられた使徒として主張する必要がありました。それで、11章22節からは、パウロがどのように使徒として苦労してきたのかを語っています。「苦労してきたことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過し、餓え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント12:23-27)
パウロはイエス様を伝えるために多くの苦しみを経験してきました。命をかけて福音を伝えてきたのです。神様の守りと導きがありました。けれども、パウロの宣教には、苦しみも痛みもなかったというわけではないのです。
パウロには誇るべきこと、自慢できることが多くあったでしょう。家柄、学んだ内容、誰に学んだということ、多くの人々に福音を伝えたこと、多くの教会を建てあげたこと、異言が語れること、預言の賜物等その他もいろいろとあったでしょうが、彼はそれらのことを誇りませんでした。パウロはここで、14年前に第三の天にまで上げられた、つまり特別な霊的な体験をしたことを一人の人を知っていますと自分自身のことを話します。4節には、「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」と語ります。特別な経験です。特別な人にしか経験できないことでしょう。そのような特別な経験こそ、誇れるべきでしょう。けれども、パウロは5節の後半で、「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」と語ります。パウロは11章30節でも、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」と語っています。
私たちは、自分に誇るべき事、自慢できる事があっても誇らない。自慢しない事がよいことだと考えます。その通りでしょう。けれども、何を誇るかということであって、全く誇らないということではないように思うのです。私たちも、パウロのように自分の弱さを誇りたいものです。
⒉与えられたとげ
6節と7節Aを共に読みましょう。「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの掲示された事があまりにもすばらしいからです。」
パウロが特別の体験を誇ったとしても嘘ではないのです。けれども、その体験の素晴らしさに、ものすごさに過大評価する人がいるので、誇らないとパウロは言います。素晴らしい経験、祝福というものは、時には、こちらはそうではなくても、相手には自慢話に聞こえる事があります。青葉台教会はいろいろな面で祝福されています。ですから、教会の現状をお話しすると、こちらはただ現状をお話ししているだけですが、小さな教会や地方の教会で戦っている方々には、自慢話や誇りに聞こえるかも知れません。ですから、あまり数や規模等のお話よりも苦労する面や戦いの面をお話しするのです。別に、嘘を言っているわけではありませんし、輪をかけて話しているのでもないのです。パウロは、自分自身の体験があまりにも大きく、素晴らしいものなので、どのように話しても、遠慮して話しても聞く相手には、すごい事で、自慢げに聞こえてしまうということを懸念したのだと思うのです。
7節BCを共に読みましょう。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」 パウロも人間です。やはりパーフエクトではありません。ですから、大きな体験、ものすごい経験をしたわけですから、思い上がるようなことも出てきたのかも知れません。
私たちは、特別な経験や人より秀でた事に関してほめられると、「そんなことはありません。それほどでも」とは言いますが、うれしいことです。心くすぐられるように思います。それが変になると本当に、高慢、傲慢になってしまうのです。 パウロは、自分自身が特別な体験をしたがゆえに、思い上がらないように「わたしの身に一つのとげが与えられました。」と言いました。
この「とげ」についてはいろいろな事が言われています。霊的な誘惑、パウロの直面する反対や迫害、肉欲の誘惑とも言われますが、やはり身体的なものであったであろうと言われます。てんかんであったとか、はげしい頭痛持ちであっとも言われます。また、パウロはダマスコ途上で復活の主に出会い目が見えなくなったという体験から目が悪かったのではないかと言われています。ガラテヤの手紙4章15節には、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」とあります。また、パウロはマラリヤ熱に慢性的に侵されていたのではないかとも言われています。どのような病であれ、「一つのとげ」と表現したのですから、肉体に突き刺すような痛み、一度痛みが起これば、のたうちまわるような痛みであったのです。
旧約聖書にヨブ記があります。ヨブという人物は、聖書には「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」とあります。10人の子宝に恵まれ、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産があり、東の国の一番の富豪だと聖書は記しています。このヨブは、彼の正しさゆえに、信仰のゆえに苦しみを経験します。サタンが子供たち、財産を奪い取ること、ヨブの肉体に苦しみを与えることを神様から許されて、ヨブは1日にして全ての財産と子どもたちを失い、自分の体に大きな痛みが与えられたのです。ここからヨブの苦しみが始まりました。ヨブはサタンによって打たれたのです。パウロのとげも、サタンから送られた使いなのです。
特別な祝福、才能、そのようなものを与えられた人々には、また別の痛みや苦しみ、その人にとっての辛いことがあるのではないかと思うのです。イチロー選手も人からうらやまれるような才能や地位、お金があるでしょうが、また別に、彼にしかわからない痛みや苦しみがあるのだと思うのです。
先日、スマップというグループのメンバーの一人が、酒に酔って公然ワイセツ罪で逮捕されました。日本中や他の国でも支持されるその人も、地位もあり財産もあり、将来も約束されている彼でも、やはり彼にとっての苦しみや痛みがあるのではないかと思うのです。私たちも、それぞれに何か、苦しみや痛み、問題を抱えているのではないかと思うのです。
⒊弱さの中でこそ発揮されるキリストの力
8節を共に読みましょう。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」 私たちは、自分の苦しみ、痛みが取り除かれるように神様に祈ります。当然です。水曜日の祈り会でも、毎週病の中にある方々の痛みがなくなるように、癒されるようにと祈り続けています。当然、パウロも主に祈ったのです。パウロは宣教に命をかけていました。イエス様の十字架と復活を語ることがパウロの使命でした。ですから、病のために福音が語れないということはパウロの一番の痛み、悲しみだったのです。では、サタンから送られたとげを離れ去らせて下さるようにと言うパウロの祈りは聞かれたのでしょうか。
9節を共に読みましょう。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 痛みの中にあるパウロ、痛みが取り除かれてもっと福音のために働きたいと願うパウロ、とげの苦痛から開放して欲しいと願うパウロに対してイエス様は、「わたしの恵みはあなたに十分である。」と言われたのです。恵みと訳されている言葉を詳訳聖書では、「厚意、愛のこもったいつくしみ、あわれみ」とも訳しています。神様の恵み、厚意、愛のこもったいつくしみ、あわれみは足りているというのです。十分だと言うのです。ここにイエス様と私たちとの食い違いがあります。私たちは、痛みも苦しみも全てが取り去られることが十分である、足りていると考えます。けれども、イエス様は、今のその状態、痛みを抱えたままの私、問題のただ中にある私、苦しみや悲しみを背負っているそのままの私が、神の恵みが十分足りていると言われるのです。
その理由は、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というのです。キリスト様の力が十分発揮される場所は、私たちの得意な所、強い所、プラスに見える所ではなくて、弱さの中、痛みの中、苦しみや悲しみの中、問題のただ中であるというのです。私たちの問題とされる所、欠点とされる所、最も弱い場所が、キリスト様の力が一番に、最も発揮されると約束されているのです。なんと感謝なことではないでしょうか。詳訳聖書には、「最も効果的に現れる」と訳しています。私の大好きなリビングバイブルの9節の訳を紹介しましょう。「そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」今では、私は、自分の弱さを喜んで誇ります。力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生き証人になりたいのです。」 治さないことで、治らないことで、そこに神様の力が働くのです。そこにこそ、神様のみ心が現れるのだと思うのです。
4月19日、先週の日曜日の朝、加藤礼子姉が天に召されていかれました。4年近く、意識のない状態が続いていました。教会では、姉妹が癒されるように、回復するように、もう一度お話しができるようにと祈り続けました。けれども、神様のお心は姉妹をご自身のみもとに引き寄せることでした。姉妹の全ての重荷を解放することでした。23日の木曜日に、告別式が執り行われましたが、感話、思い出で礼子姉のご長男がお話ししておられました。母の意識が戻ったとしたら、その痛みのゆえに、苦しみに耐えられただろうか。意識が戻らなかったというのは、痛みを感じないという神様の導きではなかっただろうか、とお話され、確かにそうだあと思いました。神様の思いとは、全ての事柄に配慮された最善の導きだと強く感じました。
私たちは、肉体を持つ者として病を経験します。病を通して痛みや苦しみを経験します。愛する者の病気の事で悲しみを経験します。そして、神様に熱心に癒しを祈り求めます。回復を求めます。けれども、神様は、その回復がさらなる痛みを増す事になるのなら、神様は回復する事をとどめられるかも知れません。加藤姉がそうであったように。その痛みは本人しかわからないのです。回復したから痛みが和らぐとは限りません。パウロにとっても、病が癒されて元気に宣教することが神様のお心ではなくて、痛みを持ちながら、重荷を負いながら、神様が共におられる事を意識し、この弱さと痛みの中にこそ、キリスト様の力が最も現されることだと信じて感謝して生きることだったのだと思うのです。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」とパウロは信仰告白したのです。私たちも、自分の最も弱い場所、痛い箇所、最も駄目だと思われる、その場所にキリスト様の力が最も働くのだと信じて歩みたいと思うのです。
Ⅲ結論部
10節でパウロは言います。「それゆえに、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 イエス様が、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と約束されたので、パウロは自分の弱さや問題に満足できました。そして、弱いからこそ、そこにキリスト様の力が働き、強くされると告白したのです。弱い者こそ、キリスト様にあってもっとも強いと言い切りました。リビングバイブルには、「すべてはキリスト様のためであることを知っているので、その「とげ」も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜んでいます。なぜなら、弱い時にこそ私は強いからです。無力であればあるほど、それだけしっかりと、キリスト様によりすがるようになるからです。」
クリスチャンになると信仰も強められて、問題も解決し、信仰生活をスーと送れると思っていませんか。勿論、そのような方々もおられます。けれども、クリスチャンになっても、自分の人格や性格がよくならない。愛が足りない。家族に証しできない。病気にもなる。苦しみや痛みが取り除かれない、と落ち込んでしまうことはないですか。クリスチャンになるということは、全ての事が解決し、病気があれば癒され、家族の問題が解決し、将来が祝福されることではありません。イエス・キリスロ様を救い主と信じて、神様と共に歩む事がクリスチャンなのです。だから、マイナスと思えることやいろいろな問題があることで、クリスチャンらしくないと思わないで下さい。パウロも祈り求めましたが、「いや治すまい」と言われました。あのような信仰者でさえ、なおらない病を持っていました。イエス様は、「しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」と言われました。直らない事が十分なのです。問題があることが、なかなかプラスにならないことが十分だと言われるのです。なぜなら、そこにこそ、キリスト様の全能なる力が最も現れるからなのです。信じましょう。
病に対して癒されるということが最終的な目的になってしまうと、パウロに与えられた主の御言葉は理解できないと榎本先生は語っておられます。神様との出会いは、私たちがその弱さや問題を認めて、私たちが全く弱くなりきれた時、イエス様を受け入れる他に何も残っていない事に気づく時に可能になるのだと思うのです。イエス様の十字架、最も弱いと見えた十字架こそ、私たちの救いの根拠となったのです。弱さの極み、それはイエス様の十字架です。そこに神様の全能の力が働き、罪の赦しのみ業が始まったのです。弱さの極み、十字架にこそ最も神様の恵みが現れる所となったのです。
「弱さの極み」 Ⅱコリント12:1-10
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。4月の第四主日を迎えました。16連休や12連休のゴールデンウィークのお休みに入った方々もおられることでしょう。皆さんにとりまして良き休暇となることを願います。
今日は、「弱さの極み」と題してコリント信徒への手紙12章1節から10節を通してお話したいと思います。コリント信徒への手紙12章9節のみ言葉は、昨年の教会の年間のみ言葉でした。この箇所からのメッセージをしていないことに気がついて、今日の午後総会で新しいみ言葉が掲げられることになるので、昨年の年間のみ言葉ではありますが、この箇所を選ばせていただきました。
Ⅱ本論部
⒈何を誇るのか
12章の1節の最初に、「わたしは誇らずにいられません。」とあります。皆さんには、誇るべき事、自慢することがあるでしょうか。音楽的な才能、能力的な才能、身体的な才能、アメリカ大リーグのイチロー選手は、日本の最多安打張本氏を抜き日本で1番になりました。身体的には自慢できる多くのものを持っているのでしょう。人と比べて何かを多く持っている。大きな何かを持っている。珍しいものを持っていると持ち物で自慢できるものもあるでしょう。あまり人が経験できない事を経験したということも自慢できるでしょう。パウロも言いました。「わたしは誇らずにいられません。」と。
コリントの信徒への手紙10章10節では、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」とありますが、パウロに関してそのように言う人々がいたのです。また、11章では偽使徒たちが現れ、コリントの教会を混乱させていたのです。ですから、パウロはイエス様に立てられた使徒として主張する必要がありました。それで、11章22節からは、パウロがどのように使徒として苦労してきたのかを語っています。「苦労してきたことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過し、餓え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。」(Ⅱコリント12:23-27)
パウロはイエス様を伝えるために多くの苦しみを経験してきました。命をかけて福音を伝えてきたのです。神様の守りと導きがありました。けれども、パウロの宣教には、苦しみも痛みもなかったというわけではないのです。
パウロには誇るべきこと、自慢できることが多くあったでしょう。家柄、学んだ内容、誰に学んだということ、多くの人々に福音を伝えたこと、多くの教会を建てあげたこと、異言が語れること、預言の賜物等その他もいろいろとあったでしょうが、彼はそれらのことを誇りませんでした。パウロはここで、14年前に第三の天にまで上げられた、つまり特別な霊的な体験をしたことを一人の人を知っていますと自分自身のことを話します。4節には、「彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。」と語ります。特別な経験です。特別な人にしか経験できないことでしょう。そのような特別な経験こそ、誇れるべきでしょう。けれども、パウロは5節の後半で、「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。」と語ります。パウロは11章30節でも、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」と語っています。
私たちは、自分に誇るべき事、自慢できる事があっても誇らない。自慢しない事がよいことだと考えます。その通りでしょう。けれども、何を誇るかということであって、全く誇らないということではないように思うのです。私たちも、パウロのように自分の弱さを誇りたいものです。
⒉与えられたとげ
6節と7節Aを共に読みましょう。「仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、また、あの掲示された事があまりにもすばらしいからです。」
パウロが特別の体験を誇ったとしても嘘ではないのです。けれども、その体験の素晴らしさに、ものすごさに過大評価する人がいるので、誇らないとパウロは言います。素晴らしい経験、祝福というものは、時には、こちらはそうではなくても、相手には自慢話に聞こえる事があります。青葉台教会はいろいろな面で祝福されています。ですから、教会の現状をお話しすると、こちらはただ現状をお話ししているだけですが、小さな教会や地方の教会で戦っている方々には、自慢話や誇りに聞こえるかも知れません。ですから、あまり数や規模等のお話よりも苦労する面や戦いの面をお話しするのです。別に、嘘を言っているわけではありませんし、輪をかけて話しているのでもないのです。パウロは、自分自身の体験があまりにも大きく、素晴らしいものなので、どのように話しても、遠慮して話しても聞く相手には、すごい事で、自慢げに聞こえてしまうということを懸念したのだと思うのです。
7節BCを共に読みましょう。「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」 パウロも人間です。やはりパーフエクトではありません。ですから、大きな体験、ものすごい経験をしたわけですから、思い上がるようなことも出てきたのかも知れません。
私たちは、特別な経験や人より秀でた事に関してほめられると、「そんなことはありません。それほどでも」とは言いますが、うれしいことです。心くすぐられるように思います。それが変になると本当に、高慢、傲慢になってしまうのです。 パウロは、自分自身が特別な体験をしたがゆえに、思い上がらないように「わたしの身に一つのとげが与えられました。」と言いました。
この「とげ」についてはいろいろな事が言われています。霊的な誘惑、パウロの直面する反対や迫害、肉欲の誘惑とも言われますが、やはり身体的なものであったであろうと言われます。てんかんであったとか、はげしい頭痛持ちであっとも言われます。また、パウロはダマスコ途上で復活の主に出会い目が見えなくなったという体験から目が悪かったのではないかと言われています。ガラテヤの手紙4章15節には、「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。」とあります。また、パウロはマラリヤ熱に慢性的に侵されていたのではないかとも言われています。どのような病であれ、「一つのとげ」と表現したのですから、肉体に突き刺すような痛み、一度痛みが起これば、のたうちまわるような痛みであったのです。
旧約聖書にヨブ記があります。ヨブという人物は、聖書には「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」とあります。10人の子宝に恵まれ、羊7千匹、らくだ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産があり、東の国の一番の富豪だと聖書は記しています。このヨブは、彼の正しさゆえに、信仰のゆえに苦しみを経験します。サタンが子供たち、財産を奪い取ること、ヨブの肉体に苦しみを与えることを神様から許されて、ヨブは1日にして全ての財産と子どもたちを失い、自分の体に大きな痛みが与えられたのです。ここからヨブの苦しみが始まりました。ヨブはサタンによって打たれたのです。パウロのとげも、サタンから送られた使いなのです。
特別な祝福、才能、そのようなものを与えられた人々には、また別の痛みや苦しみ、その人にとっての辛いことがあるのではないかと思うのです。イチロー選手も人からうらやまれるような才能や地位、お金があるでしょうが、また別に、彼にしかわからない痛みや苦しみがあるのだと思うのです。
先日、スマップというグループのメンバーの一人が、酒に酔って公然ワイセツ罪で逮捕されました。日本中や他の国でも支持されるその人も、地位もあり財産もあり、将来も約束されている彼でも、やはり彼にとっての苦しみや痛みがあるのではないかと思うのです。私たちも、それぞれに何か、苦しみや痛み、問題を抱えているのではないかと思うのです。
⒊弱さの中でこそ発揮されるキリストの力
8節を共に読みましょう。「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」 私たちは、自分の苦しみ、痛みが取り除かれるように神様に祈ります。当然です。水曜日の祈り会でも、毎週病の中にある方々の痛みがなくなるように、癒されるようにと祈り続けています。当然、パウロも主に祈ったのです。パウロは宣教に命をかけていました。イエス様の十字架と復活を語ることがパウロの使命でした。ですから、病のために福音が語れないということはパウロの一番の痛み、悲しみだったのです。では、サタンから送られたとげを離れ去らせて下さるようにと言うパウロの祈りは聞かれたのでしょうか。
9節を共に読みましょう。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」 痛みの中にあるパウロ、痛みが取り除かれてもっと福音のために働きたいと願うパウロ、とげの苦痛から開放して欲しいと願うパウロに対してイエス様は、「わたしの恵みはあなたに十分である。」と言われたのです。恵みと訳されている言葉を詳訳聖書では、「厚意、愛のこもったいつくしみ、あわれみ」とも訳しています。神様の恵み、厚意、愛のこもったいつくしみ、あわれみは足りているというのです。十分だと言うのです。ここにイエス様と私たちとの食い違いがあります。私たちは、痛みも苦しみも全てが取り去られることが十分である、足りていると考えます。けれども、イエス様は、今のその状態、痛みを抱えたままの私、問題のただ中にある私、苦しみや悲しみを背負っているそのままの私が、神の恵みが十分足りていると言われるのです。
その理由は、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というのです。キリスト様の力が十分発揮される場所は、私たちの得意な所、強い所、プラスに見える所ではなくて、弱さの中、痛みの中、苦しみや悲しみの中、問題のただ中であるというのです。私たちの問題とされる所、欠点とされる所、最も弱い場所が、キリスト様の力が一番に、最も発揮されると約束されているのです。なんと感謝なことではないでしょうか。詳訳聖書には、「最も効果的に現れる」と訳しています。私の大好きなリビングバイブルの9節の訳を紹介しましょう。「そのつど返ってくる答えは、こうでした。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」今では、私は、自分の弱さを喜んで誇ります。力や才能を見せびらかすのではなく、喜んでキリスト様の力の生き証人になりたいのです。」 治さないことで、治らないことで、そこに神様の力が働くのです。そこにこそ、神様のみ心が現れるのだと思うのです。
4月19日、先週の日曜日の朝、加藤礼子姉が天に召されていかれました。4年近く、意識のない状態が続いていました。教会では、姉妹が癒されるように、回復するように、もう一度お話しができるようにと祈り続けました。けれども、神様のお心は姉妹をご自身のみもとに引き寄せることでした。姉妹の全ての重荷を解放することでした。23日の木曜日に、告別式が執り行われましたが、感話、思い出で礼子姉のご長男がお話ししておられました。母の意識が戻ったとしたら、その痛みのゆえに、苦しみに耐えられただろうか。意識が戻らなかったというのは、痛みを感じないという神様の導きではなかっただろうか、とお話され、確かにそうだあと思いました。神様の思いとは、全ての事柄に配慮された最善の導きだと強く感じました。
私たちは、肉体を持つ者として病を経験します。病を通して痛みや苦しみを経験します。愛する者の病気の事で悲しみを経験します。そして、神様に熱心に癒しを祈り求めます。回復を求めます。けれども、神様は、その回復がさらなる痛みを増す事になるのなら、神様は回復する事をとどめられるかも知れません。加藤姉がそうであったように。その痛みは本人しかわからないのです。回復したから痛みが和らぐとは限りません。パウロにとっても、病が癒されて元気に宣教することが神様のお心ではなくて、痛みを持ちながら、重荷を負いながら、神様が共におられる事を意識し、この弱さと痛みの中にこそ、キリスト様の力が最も現されることだと信じて感謝して生きることだったのだと思うのです。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」とパウロは信仰告白したのです。私たちも、自分の最も弱い場所、痛い箇所、最も駄目だと思われる、その場所にキリスト様の力が最も働くのだと信じて歩みたいと思うのです。
Ⅲ結論部
10節でパウロは言います。「それゆえに、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 イエス様が、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と約束されたので、パウロは自分の弱さや問題に満足できました。そして、弱いからこそ、そこにキリスト様の力が働き、強くされると告白したのです。弱い者こそ、キリスト様にあってもっとも強いと言い切りました。リビングバイブルには、「すべてはキリスト様のためであることを知っているので、その「とげ」も、侮辱も、苦しみも、迫害も、困難も、大いに喜んでいます。なぜなら、弱い時にこそ私は強いからです。無力であればあるほど、それだけしっかりと、キリスト様によりすがるようになるからです。」
クリスチャンになると信仰も強められて、問題も解決し、信仰生活をスーと送れると思っていませんか。勿論、そのような方々もおられます。けれども、クリスチャンになっても、自分の人格や性格がよくならない。愛が足りない。家族に証しできない。病気にもなる。苦しみや痛みが取り除かれない、と落ち込んでしまうことはないですか。クリスチャンになるということは、全ての事が解決し、病気があれば癒され、家族の問題が解決し、将来が祝福されることではありません。イエス・キリスロ様を救い主と信じて、神様と共に歩む事がクリスチャンなのです。だから、マイナスと思えることやいろいろな問題があることで、クリスチャンらしくないと思わないで下さい。パウロも祈り求めましたが、「いや治すまい」と言われました。あのような信仰者でさえ、なおらない病を持っていました。イエス様は、「しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」と言われました。直らない事が十分なのです。問題があることが、なかなかプラスにならないことが十分だと言われるのです。なぜなら、そこにこそ、キリスト様の全能なる力が最も現れるからなのです。信じましょう。
病に対して癒されるということが最終的な目的になってしまうと、パウロに与えられた主の御言葉は理解できないと榎本先生は語っておられます。神様との出会いは、私たちがその弱さや問題を認めて、私たちが全く弱くなりきれた時、イエス様を受け入れる他に何も残っていない事に気づく時に可能になるのだと思うのです。イエス様の十字架、最も弱いと見えた十字架こそ、私たちの救いの根拠となったのです。弱さの極み、それはイエス様の十字架です。そこに神様の全能の力が働き、罪の赦しのみ業が始まったのです。弱さの極み、十字架にこそ最も神様の恵みが現れる所となったのです。