主日礼拝
2020.6.28
「主はわたしの泣く声を聞かれた」
詩篇6篇(新共同訳)
Ⅰ導入部
- みなさん、おはようございます。最初にお祈りをします。
Ⅱ本論部
一.神への疑い
- 本日読まれた詩篇第6篇は、ダビデというイスラエルの王が書いたとされている詩、賛美歌ですが、それは彼が「苦しみ」のなかにあったときに書かれたのではないかということが、この詩を読むときに分かります。
- 3節をご覧ください。ちなみに、口語訳・新改訳という訳の聖書ですと、節がずれているので、これから私が言う節から1引いて聞いていただいたいと思います。
- 新共同訳では3節、口語訳・新改訳では2節に、「主よ、癒してください」とあります。6節を見ると、「死の国へ行けば」、「陰府に入れば」などとあり、「死」についての言及がありますので、おそらくダビデは死の危険、死の恐怖を感じる何らかの病、病気にかかっていたのではないかと想像することができます。
- 7節に、「夜ごと涙は床に溢れ」とあり、「夜ごと」というのは「毎晩」という意味ですので、長い期間にわたって病のなかにあった、病気だったのではないかと思われます。
- 新型コロナウイルス感染症の流行拡大が再び世界的に起こっています。特に日本では警戒ムードはほとんどなくなっているようにも思いますが、まだまだ油断はできません。秋以降の第二波への懸念もあります。
- 新型コロナウイルス感染症はもちろん感染しやすいという課題もさることながら、もし症状が出た場合、たとえ軽症であったとしても、本当に辛い。私のアメリカの友人で軽症だった方が本当にきつかったと言っていましたから、やはりなりたくはないですね。
- ダビデが、どのような病にあったのかは分かりませんが、この祈りは、新型コロナウイルス感染症の患者の方の祈りとも重なるのではないかと思うのです。
- そして、実は、ダビデにとっての苦しみは、病だけではなかったということもこの詩を読むときに分かります。
- もちろん病は苦しかったでしょう。しかし、彼にとっての苦しみの「本質」は病ではなかった。ダビデの苦しみの真ん中にあったこと、それは、神が分からなくなっていたことでした。神が分からなくなっていたことでした。
- 2-4節を、もう一度お読みします。
6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。
6:3 主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ
6:4 わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。
6:5 主よ、立ち返り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。
- ダビデはこう考えていました。神は、私に怒っているから、この病になったのだ。私が何か罪を犯して、神を憤らせた、激しく怒らせた。神が私を責めているのだ。
- 3節には、ダビデの骨が恐れているとあります。ここで「恐れ」ているとされていることばは、「悩む、苦しむ、うろたえる」という意味もある言葉です。
- これは、病によって骨が痛んでいたという意味である可能性もありますが、それほどまでに、骨にまで恐れ、悩み、苦しみが浸透しているほどに、苦しみが深いという意味ではないかとも言われます。
- 4節には、ダビデの「魂」が、「恐れおののいてい」るとあります。これは、全人格的に苦しいということです。心も、体も、そして霊的にも苦しい。
- ダビデは神さまに問いかけるのです。「主よ、いつまでなのでしょう。」主よ、いつまでですか。あなたは慈しみ深い方ではないのですか。だったら私を助けてください。そのようにダビデは叫ぶのです。
- ダビデは、神さまが分からなくなっていました。神さまが果たして慈しみ深い方であるのか、愛の方であるのか。それとも、怒り、自分を罰する神であるのか、分からなくなっていたのであります。
- 私たちにも、このときのダビデと同じような状況に置かれることがあります。苦しみを経験する。病を経験する。死の危険に、恐れのなかに置かれる。もちろん、ようやく落ち着いてきたように見えますが、新型コロナウイルスは、まさに私たちを、この世界を、このときのダビデと同じ状況に置いたわけです。
- そして、病のなかに、死の恐怖のなかに置かれるとき、さらに新型コロナウイルスは、経済をも破壊したわけですが、この先の人生が見えなくなった、経済的な恐れを経験されている方も、このなかにいらっしゃるかもしれませんが、そのような苦しみを、恐れを経験するとき、あるいは、アメリカのアフリカンアメリカンの差別の問題がクローズアップされていますが、あまりにも悲惨な状況を目にするとき、神さまが分からなくなることが、私たちにもあると思うのです。
- このように叫ばざるを得ないときがある。「主よ、いつまでなのでしょう」。主よ、いつまでですか。あなたは慈しみ深い方ではないのですか。だったら私を助けてください。
- このなかには、クリスチャンの方も、そうでない方もいらっしゃると思いますが、クリスチャンは、信じています。愛なる神が、この世界に存在している。神は、気まぐれで、人間を苦しめるためにこの世界を造ったのではない。心を込めて、素晴らしい世界としてこの宇宙を造られた。罪が入り、痛んでしまってもなお、この世界をあきらめておられない。
- クリスチャンは頭では分かっているはずです。私たちが苦しみに遭っても、病気になっても、それが神の罰であるとは限らない。神さまはすべてのことを働かせて、益としてくださる。最善を成し遂げてくださる。
- でも、どこかで、思ってしまうことがある。ふっと疑いを覚えることがある。神などいないのではないか。いるとしても、愛なる神では、慈しみ深い神ではないのではないか。私に意地悪をしているのではないか。そのように、疑うことが、神さまが分からなくなることが、神を信じる信仰者であっても、あると思うのです。
- 8節に「わたしを苦しめる者」、9節に「悪を行う者」、11節に「敵」とあります。それは、病のなかでの敵、それは弱っているダビデを、今がチャンスだとばかりに、攻撃しようとしていた人々かもしれません。
- あるいは「あなたが病気になったのは、神に見捨てられたからだ」と、ダビデを責める人々がいたのかもしれません。ただでさえ苦しいのに、人から責められる。
- もちろん、ダビデ自身のなかでも、このような思いもあったでしょう。私が何か罪を犯したから、このような苦しみに遭うのではないか。なぜ神は、このような事態を止めてくださらないのか。
- 魂が恐れおののき、「主よ、いつまでなのでしょう」と、そのように叫ばざるを得ないような現実が、私たちの前にも広がっているのではないかと思うのです。
二.正直に祈ることを待っておられる神
- さらに、6節を見ると、驚きの言葉が登場します。6節をご覧ください。
6:6 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。
- ここは非常に難しい箇所です。これを普通に事実として読むと、死んだ後には神さまに感謝しないのか、天国がないのか、と思うかもしれません。
- 確かに、ダビデの時代には、イザヤ書などの預言書や、新約聖書ほどは、天の御国、新天新地のことは書かれていません。なので、ダビデは、知らなかったのではないか、あるいは誤解していたという解釈もあります。あるいは、これはあくまでも霊的な死、あるいは地獄を意味していて、ダビデは自分が救われなくなることを恐れていたと取る解釈もあります。
- 非常に難しいですが、いろいろと調べて、私が個人的に一番しっくり来た解釈はこれです。それは、ここには、ダビデが、それほどまでに死ぬことを恐れていたということが現れている。死にたくない。その思いが、ことばになったものなのではないかという解釈です。
- クリスチャンは、もちろん死んだ後にも、何の心配もいらない、イエスさまの十字架の血潮のゆえに、すべての罪が赦されていて、必ず、主が天の御国に、新しい天、新しい地に導いてくださると信じています。でも、弱さのゆえに、時々、ふっと怖くなるときもあるのです。
- もちろん、私たちは信じています。死を越えるときにも、何も心配いらない。逆に、現実があまりにも苦しいときには、できればすぐ天の御国に行きたいと思うときさえある。
- でも、少なくとも、私には、時々ふっと疑いが来るときがある。信仰が弱くなるときがある。特に、悲惨な出来事を前にするとき、災害や事件が起こったとき、新型コロナウイルス感染症の流行拡大のなかで、突きつけられた。死はいつやってくるか分からない。
- ダビデは、苦しみのなかにありました。病を苦しみ、神に疑問を抱くゆえに苦しみ、また死への恐れゆえに苦しんでいました。
- ここで注目したいのは、これらの苦しみについて、私たちは、ダビデの祈りから知ったということであるということです。詩篇6篇はダビデの祈りであるとされていると言いましたので、当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、この祈りのなかに、ダビデの苦しみがはっきりと表されているのです。
- ということは、ダビデはそれほどまでに正直に、またリアルに、自分の苦しみをことばにし、祈った、叫んだということです。
- ここに大切なメッセージがあります。これは詩篇からメッセージするなかで、私が何度も強調していることですが、聖書が語る神は、私たちが正直に祈ることを待っておられる。神は、あなたが正直に祈ることを待っておられる。
- これは何度かお話ししていることですが、私は詩篇が大好きなんですね。大好物なんです。それは、詩篇を読むと、え?こんな祈り祈って良いの?っていう祈りがたくさんあるんですね。これは専門用語で「呪いの詩篇」と呼ばれるのですが(すごい名前ですよね)、神さま、なぜですか?あいつを殺してください!復讐してください!という祈りがあります。
- 昔は、私もこういうところは読み飛ばしていた。でも、あるとき、こう聞いたんですね。そのような祈りが、なぜ聖書に残ったか。それは、こう祈って良いからだ。主は、私たちが正直に祈ることを求めておられるのだ。
- ダビデは正直に祈りました。正直に、神さまに文句を言いました。自分のなかにある怒り、恐れ、不安を正直に吐き出した。
- 詩篇6篇は暗い詩篇です。私は、だからこそこの詩篇が大好きです。なぜなら、この世界には苦しみが満ちているからです。私たち自身の人生でもそうです。苦難のなかにある私たちの家族、友人、そして教会の兄弟姉妹がいます。また、この社会に、この世界に、苦しみは満ちている。
- 大切なのは、その苦しみを、見つめることです。見ないふりをするのではない。その苦しみと向き合うことです。それをことばにすることなのです。
- そのときに、私たちは涙を流すでしょう。余計に苦しむかもしれない。時には、神さまが分からなくなるかもしれない。恐れを覚えて、怖くなるかもしれない。でも、それでも、私たちの苦しみを見つめるそのとき、私たちは正直に祈ることができるのです。そして、正直に祈るなかで、私たちは奇跡を経験するのです。
三.与えられる平安
- 最後に、9節からをご覧ください。
6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き、
6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。
- 涙をもって、祈るなかで、ダビデは不思議な確信を得ます。「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」(くりかえす)
- ダビデは、このときまで、苦しみのなかで、神さまが遠く離れているような感覚を覚えていたと想像できます。苦しみのなかで、疑いのなかで、神さまが遠く離れているように感じていたことでしょう。
- でも正直に祈るなかで、この祈りは主に聞かれていると確信させられた。主は、わたしの泣く声を聞かれた。主は、わたしの泣く声を聞かれた。わたしの嘆きを聞かれた。主はわたしの正直な祈りを受け入れてくださったという確信が与えられたのです。
- おそらく、まだ状況は変わっていなかったでしょう。でも、不思議な安心を得た。心が平和に満たされた。
- そして、最後に、11節。
6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。
- その平安のなかでダビデは気づいたのです。敵たちは恥に落とされる。敵たちが、苦しみは、ダビデの罪のせいだと言っていたとすると、敵たちが恥を受けるということは、そうではなかったのだということが明らかにされる日が、やがて来るのだということです。
- すべてが明らかなる。苦しみの意味が分かり、苦しみが終わる日が必ずやってくる。
- 列王記によると、ダビデは、長寿を全うしていますから、彼が病を得ていたとするとですけれど、癒されたのでしょう。でも、やがて彼は死を迎えました。私たちも、やがては死を迎えます。
- しかし、聖書が約束しているのは、私たちは、やがてよみがえるのだということです。ヨハネ黙示録にあるのは、私たちの死の先にあるのは、涙が拭われ、もはや死もなく、叫びも、痛みもない、新しい世界である。それを、イエスさまが、あの十字架と復活によってもたらしてくださり、私たちは朽ちない体をもってよみがえり、永遠に、喜びをもって生きる。
- これは以前もお話ししたことがあるかと思いますが、私は映画やドラマを観るのが好きです。最近は、特にドラマにハマっていて、特に銀行や会社モノが好きでよく観ているのですが、私がちょっと変わっているのは、ドラマの一話を観て、まずおもしろいかどうかを確認して、ちょっと観たら、インターネットでそのドラマを調べて、最後にどうなるかを確認するのです。
- あくまでも最後にどうなるか、だけです。途中を詳しく観てしまうと面白くないので。でも、最後が分かっていると、安心して観られるのです。いろんなことが起こる。でも、最後にはこうなるんだということが分かっているので、安心して、ドキドキワクワクすることができる。涙を流すことができる。
- クリスチャンは、この世界についても、最後はどうなるかを知らせているのです。クリスチャンであっても、苦しみを経験します。そして、クリスチャンは、すべての苦しみに意味があるということはわかっています。それはすごいことです。でも、どんな意味かということが、苦しみの意味が分からないことの方が多い。
- しかし、終わりの日、イエスさまがもう一度この世界に来られるその日、すべての出来事の意味が分かる。すべての苦しみは必ず終わる。そのことを知っているから、安心して、ドキドキワクワクすることができる。涙を流すことができる。
- 最後のシーンに至るまでは、苦しみの意味など分からないことだらけでしょう。信仰者であっても、神さまに疑いをもつことだってある。でも、それでも私たちは、終わりにある希望を見つめながら、正直に祈りながら、そしてその祈りを、泣く声を、聞いてくださっている主とともに、イエス・キリストのもとに何度も何度も戻らされながら、この世の旅路を歩んでいきたい。
- 主は、わたしの泣く声を聞かれた。祈りのなかで、必ず主はあなたに平安を与えてくださる。
- 主はあなたを今日も招かれているのです。正直に祈ることへと、そしてその祈りのなかで平安を味わい、希望をもってこの先の見えない生涯を歩むことを。その招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。