江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2020年6月28日)

2020-06-29 21:25:21 | Weblog

主日礼拝

2020.6.28

「主はわたしの泣く声を聞かれた」

 詩篇6篇(新共同訳)

 

Ⅰ導入部

  • みなさん、おはようございます。最初にお祈りをします。

 

Ⅱ本論部

一.神への疑い

  • 本日読まれた詩篇第6篇は、ダビデというイスラエルの王が書いたとされている詩、賛美歌ですが、それは彼が「苦しみ」のなかにあったときに書かれたのではないかということが、この詩を読むときに分かります。

 

  • 3節をご覧ください。ちなみに、口語訳・新改訳という訳の聖書ですと、節がずれているので、これから私が言う節から1引いて聞いていただいたいと思います。
  • 新共同訳では3節、口語訳・新改訳では2節に、「主よ、癒してください」とあります。6節を見ると、「死の国へ行けば」、「陰府に入れば」などとあり、「死」についての言及がありますので、おそらくダビデは死の危険、死の恐怖を感じる何らかの病、病気にかかっていたのではないかと想像することができます。
  • 7節に、「夜ごと涙は床に溢れ」とあり、「夜ごと」というのは「毎晩」という意味ですので、長い期間にわたって病のなかにあった、病気だったのではないかと思われます。

 

  • 新型コロナウイルス感染症の流行拡大が再び世界的に起こっています。特に日本では警戒ムードはほとんどなくなっているようにも思いますが、まだまだ油断はできません。秋以降の第二波への懸念もあります。
  • 新型コロナウイルス感染症はもちろん感染しやすいという課題もさることながら、もし症状が出た場合、たとえ軽症であったとしても、本当に辛い。私のアメリカの友人で軽症だった方が本当にきつかったと言っていましたから、やはりなりたくはないですね。
  • ダビデが、どのような病にあったのかは分かりませんが、この祈りは、新型コロナウイルス感染症の患者の方の祈りとも重なるのではないかと思うのです。

 

  • そして、実は、ダビデにとっての苦しみは、病だけではなかったということもこの詩を読むときに分かります。
  • もちろん病は苦しかったでしょう。しかし、彼にとっての苦しみの「本質」は病ではなかった。ダビデの苦しみの真ん中にあったこと、それは、神が分からなくなっていたことでした。神が分からなくなっていたことでした。

 

  • 2-4節を、もう一度お読みします。

 

6:2 主よ、怒ってわたしを責めないでください/憤って懲らしめないでください。

6:3 主よ、憐れんでください/わたしは嘆き悲しんでいます。主よ、癒してください、わたしの骨は恐れ

6:4 わたしの魂は恐れおののいています。主よ、いつまでなのでしょう。

6:5 主よ、立ち返り/わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく/わたしを救ってください。

 

  • ダビデはこう考えていました。神は、私に怒っているから、この病になったのだ。私が何か罪を犯して、神を憤らせた、激しく怒らせた。神が私を責めているのだ。
  • 3節には、ダビデの骨が恐れているとあります。ここで「恐れ」ているとされていることばは、「悩む、苦しむ、うろたえる」という意味もある言葉です。
  • これは、病によって骨が痛んでいたという意味である可能性もありますが、それほどまでに、骨にまで恐れ、悩み、苦しみが浸透しているほどに、苦しみが深いという意味ではないかとも言われます。
  • 4節には、ダビデの「魂」が、「恐れおののいてい」るとあります。これは、全人格的に苦しいということです。心も、体も、そして霊的にも苦しい。
  • ダビデは神さまに問いかけるのです。「主よ、いつまでなのでしょう。」主よ、いつまでですか。あなたは慈しみ深い方ではないのですか。だったら私を助けてください。そのようにダビデは叫ぶのです。
  • ダビデは、神さまが分からなくなっていました。神さまが果たして慈しみ深い方であるのか、愛の方であるのか。それとも、怒り、自分を罰する神であるのか、分からなくなっていたのであります。

 

  • 私たちにも、このときのダビデと同じような状況に置かれることがあります。苦しみを経験する。病を経験する。死の危険に、恐れのなかに置かれる。もちろん、ようやく落ち着いてきたように見えますが、新型コロナウイルスは、まさに私たちを、この世界を、このときのダビデと同じ状況に置いたわけです。
  • そして、病のなかに、死の恐怖のなかに置かれるとき、さらに新型コロナウイルスは、経済をも破壊したわけですが、この先の人生が見えなくなった、経済的な恐れを経験されている方も、このなかにいらっしゃるかもしれませんが、そのような苦しみを、恐れを経験するとき、あるいは、アメリカのアフリカンアメリカンの差別の問題がクローズアップされていますが、あまりにも悲惨な状況を目にするとき、神さまが分からなくなることが、私たちにもあると思うのです。
  • このように叫ばざるを得ないときがある。「主よ、いつまでなのでしょう」。主よ、いつまでですか。あなたは慈しみ深い方ではないのですか。だったら私を助けてください。

 

  • このなかには、クリスチャンの方も、そうでない方もいらっしゃると思いますが、クリスチャンは、信じています。愛なる神が、この世界に存在している。神は、気まぐれで、人間を苦しめるためにこの世界を造ったのではない。心を込めて、素晴らしい世界としてこの宇宙を造られた。罪が入り、痛んでしまってもなお、この世界をあきらめておられない。
  • クリスチャンは頭では分かっているはずです。私たちが苦しみに遭っても、病気になっても、それが神の罰であるとは限らない。神さまはすべてのことを働かせて、益としてくださる。最善を成し遂げてくださる。
  • でも、どこかで、思ってしまうことがある。ふっと疑いを覚えることがある。神などいないのではないか。いるとしても、愛なる神では、慈しみ深い神ではないのではないか。私に意地悪をしているのではないか。そのように、疑うことが、神さまが分からなくなることが、神を信じる信仰者であっても、あると思うのです。

 

  • 8節に「わたしを苦しめる者」、9節に「悪を行う者」、11節に「敵」とあります。それは、病のなかでの敵、それは弱っているダビデを、今がチャンスだとばかりに、攻撃しようとしていた人々かもしれません。
  • あるいは「あなたが病気になったのは、神に見捨てられたからだ」と、ダビデを責める人々がいたのかもしれません。ただでさえ苦しいのに、人から責められる。
  • もちろん、ダビデ自身のなかでも、このような思いもあったでしょう。私が何か罪を犯したから、このような苦しみに遭うのではないか。なぜ神は、このような事態を止めてくださらないのか。
  • 魂が恐れおののき、「主よ、いつまでなのでしょう」と、そのように叫ばざるを得ないような現実が、私たちの前にも広がっているのではないかと思うのです。

 

二.正直に祈ることを待っておられる神

  • さらに、6節を見ると、驚きの言葉が登場します。6節をご覧ください。

 

6:6 死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず/陰府に入れば/だれもあなたに感謝をささげません。

 

  • ここは非常に難しい箇所です。これを普通に事実として読むと、死んだ後には神さまに感謝しないのか、天国がないのか、と思うかもしれません。
  • 確かに、ダビデの時代には、イザヤ書などの預言書や、新約聖書ほどは、天の御国、新天新地のことは書かれていません。なので、ダビデは、知らなかったのではないか、あるいは誤解していたという解釈もあります。あるいは、これはあくまでも霊的な死、あるいは地獄を意味していて、ダビデは自分が救われなくなることを恐れていたと取る解釈もあります。
  • 非常に難しいですが、いろいろと調べて、私が個人的に一番しっくり来た解釈はこれです。それは、ここには、ダビデが、それほどまでに死ぬことを恐れていたということが現れている。死にたくない。その思いが、ことばになったものなのではないかという解釈です。

 

  • クリスチャンは、もちろん死んだ後にも、何の心配もいらない、イエスさまの十字架の血潮のゆえに、すべての罪が赦されていて、必ず、主が天の御国に、新しい天、新しい地に導いてくださると信じています。でも、弱さのゆえに、時々、ふっと怖くなるときもあるのです。
  • もちろん、私たちは信じています。死を越えるときにも、何も心配いらない。逆に、現実があまりにも苦しいときには、できればすぐ天の御国に行きたいと思うときさえある。
  • でも、少なくとも、私には、時々ふっと疑いが来るときがある。信仰が弱くなるときがある。特に、悲惨な出来事を前にするとき、災害や事件が起こったとき、新型コロナウイルス感染症の流行拡大のなかで、突きつけられた。死はいつやってくるか分からない。

 

  • ダビデは、苦しみのなかにありました。病を苦しみ、神に疑問を抱くゆえに苦しみ、また死への恐れゆえに苦しんでいました。
  • ここで注目したいのは、これらの苦しみについて、私たちは、ダビデの祈りから知ったということであるということです。詩篇6篇はダビデの祈りであるとされていると言いましたので、当たり前じゃないかと思われるかもしれませんが、この祈りのなかに、ダビデの苦しみがはっきりと表されているのです。
  • ということは、ダビデはそれほどまでに正直に、またリアルに、自分の苦しみをことばにし、祈った、叫んだということです。
  • ここに大切なメッセージがあります。これは詩篇からメッセージするなかで、私が何度も強調していることですが、聖書が語る神は、私たちが正直に祈ることを待っておられる。神は、あなたが正直に祈ることを待っておられる。

 

  • これは何度かお話ししていることですが、私は詩篇が大好きなんですね。大好物なんです。それは、詩篇を読むと、え?こんな祈り祈って良いの?っていう祈りがたくさんあるんですね。これは専門用語で「呪いの詩篇」と呼ばれるのですが(すごい名前ですよね)、神さま、なぜですか?あいつを殺してください!復讐してください!という祈りがあります。
  • 昔は、私もこういうところは読み飛ばしていた。でも、あるとき、こう聞いたんですね。そのような祈りが、なぜ聖書に残ったか。それは、こう祈って良いからだ。主は、私たちが正直に祈ることを求めておられるのだ。

 

  • ダビデは正直に祈りました。正直に、神さまに文句を言いました。自分のなかにある怒り、恐れ、不安を正直に吐き出した。
  • 詩篇6篇は暗い詩篇です。私は、だからこそこの詩篇が大好きです。なぜなら、この世界には苦しみが満ちているからです。私たち自身の人生でもそうです。苦難のなかにある私たちの家族、友人、そして教会の兄弟姉妹がいます。また、この社会に、この世界に、苦しみは満ちている。
  • 大切なのは、その苦しみを、見つめることです。見ないふりをするのではない。その苦しみと向き合うことです。それをことばにすることなのです。
  • そのときに、私たちは涙を流すでしょう。余計に苦しむかもしれない。時には、神さまが分からなくなるかもしれない。恐れを覚えて、怖くなるかもしれない。でも、それでも、私たちの苦しみを見つめるそのとき、私たちは正直に祈ることができるのです。そして、正直に祈るなかで、私たちは奇跡を経験するのです。

 

三.与えられる平安

  • 最後に、9節からをご覧ください。

 

6:9 悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き、

6:10 主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。

 

  • 涙をもって、祈るなかで、ダビデは不思議な確信を得ます。「主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。」(くりかえす)
  • ダビデは、このときまで、苦しみのなかで、神さまが遠く離れているような感覚を覚えていたと想像できます。苦しみのなかで、疑いのなかで、神さまが遠く離れているように感じていたことでしょう。
  • でも正直に祈るなかで、この祈りは主に聞かれていると確信させられた。主は、わたしの泣く声を聞かれた。主は、わたしの泣く声を聞かれた。わたしの嘆きを聞かれた。主はわたしの正直な祈りを受け入れてくださったという確信が与えられたのです。
  • おそらく、まだ状況は変わっていなかったでしょう。でも、不思議な安心を得た。心が平和に満たされた。

 

  • そして、最後に、11節。

 

6:11 敵は皆、恥に落とされて恐れおののき/たちまち退いて、恥に落とされる。

 

  • その平安のなかでダビデは気づいたのです。敵たちは恥に落とされる。敵たちが、苦しみは、ダビデの罪のせいだと言っていたとすると、敵たちが恥を受けるということは、そうではなかったのだということが明らかにされる日が、やがて来るのだということです。
  • すべてが明らかなる。苦しみの意味が分かり、苦しみが終わる日が必ずやってくる。

 

  • 列王記によると、ダビデは、長寿を全うしていますから、彼が病を得ていたとするとですけれど、癒されたのでしょう。でも、やがて彼は死を迎えました。私たちも、やがては死を迎えます。
  • しかし、聖書が約束しているのは、私たちは、やがてよみがえるのだということです。ヨハネ黙示録にあるのは、私たちの死の先にあるのは、涙が拭われ、もはや死もなく、叫びも、痛みもない、新しい世界である。それを、イエスさまが、あの十字架と復活によってもたらしてくださり、私たちは朽ちない体をもってよみがえり、永遠に、喜びをもって生きる。

 

  • これは以前もお話ししたことがあるかと思いますが、私は映画やドラマを観るのが好きです。最近は、特にドラマにハマっていて、特に銀行や会社モノが好きでよく観ているのですが、私がちょっと変わっているのは、ドラマの一話を観て、まずおもしろいかどうかを確認して、ちょっと観たら、インターネットでそのドラマを調べて、最後にどうなるかを確認するのです。
  • あくまでも最後にどうなるか、だけです。途中を詳しく観てしまうと面白くないので。でも、最後が分かっていると、安心して観られるのです。いろんなことが起こる。でも、最後にはこうなるんだということが分かっているので、安心して、ドキドキワクワクすることができる。涙を流すことができる。

 

  • クリスチャンは、この世界についても、最後はどうなるかを知らせているのです。クリスチャンであっても、苦しみを経験します。そして、クリスチャンは、すべての苦しみに意味があるということはわかっています。それはすごいことです。でも、どんな意味かということが、苦しみの意味が分からないことの方が多い。
  • しかし、終わりの日、イエスさまがもう一度この世界に来られるその日、すべての出来事の意味が分かる。すべての苦しみは必ず終わる。そのことを知っているから、安心して、ドキドキワクワクすることができる。涙を流すことができる。
  • 最後のシーンに至るまでは、苦しみの意味など分からないことだらけでしょう。信仰者であっても、神さまに疑いをもつことだってある。でも、それでも私たちは、終わりにある希望を見つめながら、正直に祈りながら、そしてその祈りを、泣く声を、聞いてくださっている主とともに、イエス・キリストのもとに何度も何度も戻らされながら、この世の旅路を歩んでいきたい。
  • 主は、わたしの泣く声を聞かれた。祈りのなかで、必ず主はあなたに平安を与えてくださる。

 

  • 主はあなたを今日も招かれているのです。正直に祈ることへと、そしてその祈りのなかで平安を味わい、希望をもってこの先の見えない生涯を歩むことを。その招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝(2020年6月21日)

2020-06-21 12:03:02 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第二) 2020年6月21日

権力に勝る神の愛と力」使徒言行録12:11~25

Ⅰ導入部

おはようございます。6月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝します。本日からライブ礼拝で各家庭での礼拝をしつつ、会堂に集まっての礼拝、第一、第二、第三礼拝を再び開始いたしました。会堂では、50名を超えないように、席には指定がなされております。教会に来られた時、検温され、消毒、そして、マスクの確認、会堂での一定の距離を保ちながらの礼拝となっております。いろいろな事柄を配慮しつつ、気をつけながらも心からの礼拝をささげたいと思います。

今日は父の日です。新型コロナウィルス感染の影響で母の日はライブ礼拝でした。今日も大方ライブ礼拝で一部の方々が会堂に集まっての礼拝となっております。いつものようにサラリーマン川柳(2020年度)をご紹介したいと思います。

健康はアプリとサプリで管理する(13位) ジジババも子育て参加ワンチーム(25位)

欲しいのは100年安心妻の愛(26位) アレクは何科の草と孫に聞き(29位)

AIを部長と呼ぶ日がすぐそこに(48位) 飯はいいそういう前に飯はない(79位)

帰宅中 から受注パパウーバー(82位) 紙減らせその指示がまず紙で来る(83位)

部下のため言ってるやつほど俺のため(85位)

居場所なく近所のベンチでテレワーク(92位)

我が家では最強スクラム妻・娘(1位) 割り勘も新入社員はペイでする(2位)

令和婚 逃して目指すは 五輪婚(3位)

私の感想は、あまりおもしろい、アハハと笑えるような内容はなかったように思います。

新型コロナウィルス感染の影響で厳しい生活、状況を強いられている中で、なかなか笑えるようにはならない状況なのかも知れません。しかし、アブラハムとサラには、神様の約束で子どもが与えられると言われながらも、なかなか与えられないで自分本位の行動で苦しみましたが、神様はイサク、笑いという名前をつけた子どもを与えて下さり、苦しみや悲しみを通りましたが、笑わせて下さったのです。神様は、どのような時にも共におられ、大丈夫だと言って下さるのです。そして、必ず笑わせて下さるお方なのですから、その約束のゆえに笑顔で歩めたら感謝です。

今日は、使徒言行録12章11節~25節を通して、「権力に勝る神の愛と力」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、あとは祈るしかない

私たちは、ペンテコステ礼拝の時から使徒言行録を開いております。聖霊によって教会が誕生し、多くの人々がイエス様を信じていきました。エルサレム教会は、ユダヤ人中心の教会でしたが、ステファノの殉教により、エルサレムに迫害が起こり、弟子たち以外の人々はエルサレムから離れ、福音を語り、ペトロを通して異邦人にも神様の救いのみ業と聖霊が与えられることが示されました。そして、異邦人中心のアンティオキア教会が誕生しました。

12章は、エルサレム教会の話です。ヘロデ王(ヘロデ大王の孫、洗礼者ヨハネの首をはねたヘロデ・アンテパスの息子、イエス様を十字架につけた時のヘロデ王の甥)は、キリスト教徒は律法を守らず、神殿を冒涜しているとファリサイ派を中心にユダヤ人たちの間に広まっていたことを察知したので、彼は権力をもって教会を迫害し、イエス様の弟子の一人のヤコブを処刑したのです。この行為がユダヤ人たちに喜ばれたので、ヘロデ王は気をよくして、教会の中心的なペトロに手を伸ばして捕らえ投獄したのです。そして、教会の中心的な指導者ペトロを処刑することによって、さらなるユダヤ人たちの支援を得ようとしたのです。

聖書には、「除酵祭の時期」とありますが、過ぎ越しの祭りで、多くの人々がエルサレムに集まっているので、人々の前にペトロを引き出して、見世物的な裁判をして、処刑することによって、多くのユダヤ人たちに、ユダヤの教会に対するヘロデの熱心さを示そうとしたのでした。ヘロデ王、権力を用いて、群衆操作のためにスケープゴート(他人に罪を負わせていけにえになる者)として、ペトロを選んだのです。ペトロが有罪か無罪かということは一向に関係なく、ペトロは確実に、100%殺されるので、そこから助ける手段は何もなかったのです。絶体絶命の状況でした。万事休すでした。このように、国家権力が教会をおしつぶそうとしていたのです。

12章の5節には、「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とあります。リビングバイブルには、「教会では、そのあいだ中、「ペテロをお守りください」と熱心な祈りを神にささげていました。」とあります。言語や英語では、「教会では」の前には、「しかし」という言葉があります。

ヤコブが殉教し、ペトロまで捕らえられ、厳重な監視のもと、ペトロの命さえも取り去られようとしていた。しかし、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」という祈ることしかできなかったのです。

先日テレビで、新型コロナウィルス感染の影響で商売をしている方々、特に飲食店には、客がなかなか以前のように来てくれない。消毒をし、座席を少なくし、シールドを用意し、といろいろとやってはみた。しかし、何の手立てもできない。もう後は、「祈るしかない」

ということを示していました。祈るしかない。しかし、誰に祈るのかです。教会では、天地宇宙を創造された全能の神様に祈りをささげたのです。

 

二、教会の祈りと神のわざ

12章11節には、「ペトロは我に返って言った。「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」とあります。ペトロは、処刑される前夜、主の天使によって、二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間にいて、戸口では牢を見張る兵士がいるという状況で、

助け出されました。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門もひとりでに開いて、ある通りを進んでいくと天使はいなくなったのです。ペトロは、夢か幻かというような感じでしたが、彼は我に返り、「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。」と言ったのです。

教会では、全能なる神様に祈りがささげられていました。このような状況からのペトロの救出は、人間の知恵や力では無理で、不可能な事なのです。「神には何でもできる」と言われる神様に祈りがささげられました。

神様はペトロの命をヘロデ王から守って下さいました。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とありますから、祈りの結果でしょうか。教会で祈りがあったので、ペトロは助け出されたのでしょうか。確かにそうですが、ペトロがヘロデ王から助けられたというみ業は、教会の熱心な祈りの力というよりも、あくまでも、神様のみ心、神様の力のみ業であって、人間の熱心な祈りの力ではないということです。教会での熱心な祈りが神様を動かしてペトロを助け出されたのでしょうか。本来、祈りとは、神様をある目的のために動かす手段なのでしょうか。神様は、人間の祈りによって、熱心さに心動かされ、かり出させられ、働かせられて何かを行って下さるというのでしょうか。私たち人間の祈りの熱心さや祈りの長さや祈りの真剣さによって、神様がその祈りに答えて下さるというのではなく、神様の救いのみ業というものは、神様の自由な、その恵みによって、神様の愛と憐れみによって、神様が必要と判断され、神ご自身が誰かの意見や思いによるのではなく、神様ご自身の決断によってなして下さるのです。神様の答えは、祈りの答えは、人間がコントロールして答えられるものではないのです。

ペトロがヘロデ王の権力から救い出されたのは、教会での熱心な祈りがされたからというよりも、むしろ、神様がペトロを助けることを必要と判断され、よしと決断されたからこそ起こった出来事なのです。

祈りというのは、祈りを通して私たち人間が、神様の前に立ち、あるいは座り、心を神様に向けて、神様に願いや思いを聞いていただき、神様のみ声、み言葉、お心を聞こうとする交わりの中で、対話の中でこそ、神様の恵みを受け、恵みに預かることができるということなのです。先ほどから言っているように、神様は、私たちの熱心な祈りによってかり出されて、祈りに答えて下さるというのではないのだけれども、私たちが神様を思い、神様を信頼して祈ることを、願い求めることを待っておられるのです。その祈りを喜んでおられるのです。神様ご自身の自由なご判断によって、決断によって、その祈りに応答しようとしておられるのです。

5節の「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」という言葉と、12節の「そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」という祈りの間に、ペトロが救出されたという内容があるということは、この出来事は、教会の祈りに挟まれた形で、神様の大いなる救出の助けがあったということは間違いのないことなのです。

私たちの祈りが神様を動かすというのではないですが、祈りがささげられるところに、神様のみ業が行われるのです。だからこそ、私たちも祈りたいのです。

三、信じたいけれども信じられない

神様によって助け出されたペトロは、祈りがささげられている家、ヨハネの母マリアの家に行き、門をたたきました。すると、ロデという女中が出てきて、ペトロの声だとわかると、「喜びのあまり」とあるように、興奮してでしょうか、戸を開けもしないで、家の中にいる人々に、ペトロが門の前に立っていると告げたのです。すると、人々は、「あなたは気が変になっている」と言ったのです。しかし、彼女は本当だと言い張りましたが、人々は、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出したのです。ペトロが戸を叩き続けたので、開けて見るとそこにペトロがいたので、非常に驚いたのでした。

5節にあるように、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」のです。リビングバイブルには、「教会では、そのあいだ中、「ペテロをお守りください」と熱心な祈りを神にささげていました。」とあるように、ペトロの救出を祈り願っていたのです。ですから、ロダからペトロが門の前にいると聞いたら、「神様ありがとうございます。ペトロを救出して下さり感謝します。」というはずですが、「あなたは気が変になっている」とそんなことはあるはずがない、と言ったのです。熱心な祈りがささげられたでしょう。ペトロを救出して下さいと真剣な祈りがささげられたでしょう。しかし、熱心に、真剣に祈りながらも、祈っている祈りが聞かれるはずがないという信仰なのです。

「それはペトロを守る天使だろう」と言いましたが、リビングバイブルには、「それなら、きっとペテロについている天使だ。とすると、ペテロは殺されたに違いない」とありますから、ペトロは殉教したに違いないということなのです。祈っていた人々はヤコブが殉教したように、ペトロも殉教するのだと信じていたように思うのです。

ペトロがヘロデ王に捕らわれたという厳しい状況では、「たとえ神様でも無理だ。できないだろう」というような思いがあったのです。厳しい現実の前に立たされる時、私たちも彼らと同じように、「いくら神様でも無理だ。できない。」と思うことはないでしょうか。

ですから、教会での熱心な祈りというものは、ある意味では不信仰な祈り、不完全な祈り、自分勝手な祈り、神様を信じ切れない祈り、あきらめの祈りでもあったといえるのです。しかし、神様は、ペトロを助けて下さったのです。先ほど話しましたように、たとえ私たちの祈りが、100%絶対に信じて祈り、完全な祈り、完璧な祈り、あきらめない祈りだから答えて下さったというのではないのです。私たちが、不完全で、不信仰で、欠けだらけの、信じ切れない、あきらめムードの祈りではあっても、神様はそのような祈りを待っていて下さり、喜んで下さり、そのようなどうしようもない祈りの中で、神様ご自身の決断により、恵みのゆえに、神様の恵みに預からせて下さるのです。だから、私たちも堂々と祈ることができるのではないでしょうか。祈りを妨げようとする、私たち自身の不信仰や弱さとの戦いが祈りでもあるのです。私たちは不完全だからこそ、イエス様は、イエス様の名によって祈ることを教えられたのです。イエス様の十字架の死と復活の力により、神様の愛と力により、私たちの罪を赦して下さり、神様の恵みの内に置いて下さるのです。その憐れみのゆえに恵みのゆえに、神様の力によって私たちは祈ることができるように思うのです。たとえ、私たちがどのような所に立たされても、絶望の場所でも、イエス様にあって希望を持ち、希望のゆえに、私たちはイエス様の名によって祈ることができるのです。

Ⅲ結論部

 ヘロデ王は、定められた日、皇帝の誕生日の日と言われている日、自分の演説で人々から、「神の声だ。人間の声ではない」と言われて、自分を神様と同等と考えたゆえに、神様に栄光を帰さなかったゆえに、主の天使に打たれて死んだのです。ヘロデ王が見ていたのは、人間の支配、人間の力、権力だけで、神様を見るという事がなかったのです。

「夜と霧」を書いたビクトル・フランクルは、強制収容所の自分自身の体験を語っています。極限状況の中で、どんな人が生き残れるのか。若くて、元気で、頑強な人なのか。収容所の中で、生き残ることのできる秘訣は、「その人が未来に対する希望を持っているかどうか」だと彼は言っているのです。私たちは、自分という人間的なものが、未来に対する希望ではなくて、命を投げ出してまで私たちを愛して下さるイエス様に対する希望なのです。

榎本保郎先生は、一日一章の中で、「しかし」という言葉から、「教会はあきらめなかった。信仰とはあきらめないことである。あきらめるのは、すでに罪である。あきらめるということほど大きな不信仰はない。全地全能の神を信じるとは、どんな状態にあってもあきらめないで、望みを持って生きていくという事である。それが信仰である。どこに望みがあるのか。神にあって望みを持つのである。アブラハムは、「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。(ローマ4:18) 望み得ない状況に逆らって、望み信じたのである。なぜか。それは死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じていたからである。死んだらもう何の望みもない。決定的である。しかし、その死人を生かす神がおられる。神は無から、原因のない所から結果を生み出される。それが創造の神である。初代の教会はこの世的には全く弱かった。しかし、望み得ない時にもなお望みつつ信じる強さを持っていた。教会はこの世に対して弱くても一向に差し支えない。しかし、望み得ない時になお望みに生きる強さを決して失ってはならない。大事なことは、神をどのように信じて生きているかである。」と言っています。

いつの時代にも権力ははびこります。しかし、どのような権力にも勝る十字架と復活を通して与えられる神様の大きな愛と力を私たちは日々祈りの中で、経験することができるのです。この週も、個人の祈りと祈祷会を大切にし、祈りの中に自分の身を置いて過ごしていきたいと思うのです。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝(2020年6月14日)

2020-06-14 12:25:53 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第一) 2020年6月14日

今までに経験したことのない神の愛を味わう」使徒言行録10:9~28

Ⅰ導入部

おはようございます。6月の第二日曜日を迎えました。今日もライブ礼拝という形で礼拝をささげることができますことを感謝致します。それぞれの家庭での礼拝も、少しは慣れて来られたでしょうか。ライブ礼拝は、教会まで行かないで、家庭で持つことができるので時間的余裕ができて良いという意見や、やはりライブ礼拝よりも教会に集い、生での礼拝がよいと感じる方々もおられるでしょう。

皆さん、今日は何の日かご存知ですか。知らないのが当たり前ですが、今日は私の誕生日です。今日で63歳になります。いつも、愛する皆さんのお祈りとお励ましを感謝致します。また、年をひとつ取りますので、お祈りでお支え下されば感謝です。

今日は、使徒言行録10章9節から28節を通して、「今までに経験したことのない神の愛を味わう」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、ユダヤ人ペトロと異邦人コルネリウス

使徒言行録10章は、カイサリアにいたコルネリウスというイタリア隊の百人隊長に、神の天使が現れ、ヤッファにいるペトロを招くようにとの導きに、コルネリウスは、すぐに二人の召し使いと側近の部下をヤッファに送ったのです。

コルネリウスとペトロは何の関係もなく、面識もありませんでした。コルネリウスは、ローマ人でユダヤ人から見れば異邦人でした。ペトロはユダヤ人ですから、二人の間には、選民ユダヤ人と異邦人という歴史的にも、宗教的にも、民族的にも超えることのできないものがありました。厳格なユダヤ人は、異邦人と絶対に接触しないというだけではなく、たとえユダヤ人であっても、律法を守らないユダヤ人とは接触はしなかったようです。ユダヤ人は、律法を守らない人を客に迎えることも、自分がその人の客になるということもありませんでした。

コルネリウスは、ローマ人、異邦人でしたが、信仰心熱く、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた人でした。けれども、異邦人には変わりのないことでした。そのコルネリウスに神様は目を留めて下さり、異邦人の救いに導かれるのです。

コルネリウスとペトロが何の備えなしに、出会うならば、二人は関係を持つことはできないのです。特に、ペトロの側には、ユダヤ人としての生き方の問題がありました。

9節からは、ペトロについて記しています。コルネリウスからの使いがヤッファの町に近づいた時、ペトロは祈るために屋上に上がりましたが、空腹のために、食事を待つ間、ペトロは我を忘れた状態になり、天が開き、大きな布のような入れ物が四隅でつるされ、地上に下りてくるのを見ました。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていたのです。

ユダヤ人には、神様からの命令で、穢れたものとそうでないものという区別がありました。食物規定なるものがあり、食べて良い物と食べてはならない物があったのです。そして、ユダヤ人は、神様のご命令、教えのゆえに忠実に守っていたのです。特にユダヤ人は、穢れたものとされているものからは分離して生きていたのです。それが、食物だけではなく、民族に対しても、人に対しても偏見を持っていました。それがユダヤ人以外の異邦人に対するものです。神様は、ペトロに穢れた動物に関して神様のお心、みこころを示されるのです。

 

二、驚くような神の宣言

13節には、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がしました。しかし、ペトロは14節で、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と言っています。ユダヤ人が穢れた動物だと避けてきた動物を屠って食べるようにという声に対して、ペトロは、今までの人生で「食べたことがない。口にしたことがない」ので、「とんでもないことです」と拒絶したのです。ユダヤ人としては当然の対応でした。モーセの律法から言えば、穢れている動物ですから。ペトロの宗教的感情から絶対に食べることはできないのです。

ペトロは、イエス様の弟子となり、イエス様のそばで神様のことを聞き、神の愛に生きるという教えを受け、イエス様の十字架と復活、召天、ペンテコステを経験して、イエス様を救い主として信じてはいても、キリスト者として生きてはいても、彼はユダヤ人であり、神の民として選民ユダヤ民族という自覚とアイデンティティー(自己が環境や時間の変化にかかわらず、連続する同一のものであること。主体性。本人に間違いない事)を保って生きるということが彼にとっては、重要な意味を持っていたのです。

ペトロは、穢れた動物を屠ることを拒否しました。すると、15節にあるように、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」という声が聞こえたのです。

ユダヤ人が神様の命令で固執に守ってきた穢れたものから分離するという生き方に、神が清めた物を清くないと言ってはならない、と神様は言われたのです。神の救いが、ユダヤ人だけではなく、異邦人に広げられていくことの神のみこころが示されているように思います。

 旧約の時代は、救われるためには律法を守るという事が必要でした。モーセを通して与えられた律法を持っていたのはユダヤ人だけだったので、救いはユダヤ人に限られたものであると考えられていました。しかし、新約の時代になり、神の子イエス様が人間の世界に来られ、父なる神を示し、全人類の罪の身代わりに十字架にかかり、葬られ、よみがえられることにより、イエス様の十字架と復活を信じる信仰によって救いが与えられました。

ですから、救われるのはユダヤ人だけではなく、ユダヤ人が穢れていると嫌っていた異邦人にも救いの恵みが与えられるという神からの言葉(神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。)なのです。

 そして、これらのことが三度あったのです。神様が念を押されたのです。

三、福音によって全ての者は救われる

私たちは、日本人として、日本で培われてきたもの、宗教性や民族性、価値観というものがあります。日本人とユダヤ人は似ている所もあるかと思います。ユダヤ人は、異邦人に触れたら、その穢れが自分に及ぶと忌み嫌いました。自分の清さを保つことだけに一生懸命になっていました。ですから、自分を清く保つためには、他の人から分離することを考え、それが極端にまでなったのです。

ユダヤ人は穢れから身を清めるために、水や塩を用いました。神道では、水を身にかぶって穢れを清めました。また、手を洗うこと、塩をまくという事をして穢れから身を清めようとします。

ユダヤ人は食べて良い物、ゴーシャと、食べてはいけないもの、アンゴ-シャを分けます。

昔は、日本も佛教から四つ足のものは食べてはいけない、牛も豚も食べてはいけないと言われていたので、ウサギぐらいは食べたいということで、鳥は食べてもよかったので、ウサギは獣ではない。鳥だ。長い耳を羽根に見立てて鳥ということでウサギを食べたという事のようです。ですから、ウサギは1羽、2羽と数えるようです。

 ペトロは、ユダヤ人として穢れたものに触れず、食べもしなかった。しかし、神様はそれを清めたと宣言されたのです。そして、19節、20節には、「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」と聖霊が語られ、ペトロは異邦人の彼らを迎え入れて泊まらせた、と聖書は語ります。ペトロはヤッファの兄弟たちと使いの者とともに出かけ、カイサリアに到着しました。そこには、コルネリウスと大勢の人々がいたのです。28節でペトロは語りました。

「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」と。

 ペトロは、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と神様が三度も語られた言葉を受け入れ、ユダヤ人としては今までにはなかった、異邦人を受け入れ、

異邦人を家に迎え入れ、異邦人の家に迎えられたのです。

 ペトロは、聖霊の導きでユダヤ人として今までに抱いていた価値観を転換し、ユダヤ人の常識を超えて、神様のご意思、み心を受け入れて行動したのです。そして、ペトロはイエス様を伝え、ペトロの話を聞いていたコルネリウスを初め異邦人の上に聖霊が降ったのです。ペトロと共にヤッファから来たユダヤ人たちは、異邦人の上に聖霊が降り、異邦人が異言を話し、神を賛美しているのを聞いて驚いたのです。

 神様は、ペンテコステの日、預言されていたようにユダヤ人の上に注がれた聖霊を異邦人にも与えられたのです。神様は、ユダヤ人、異邦人との区別、差別はなさらないのです。全ての人のために、全ての人の罪を赦すために、イエス様を人間の世界に送り、私たち人間の罪の身代わりに十字架にかかり、神に裁かれて尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで葬られ、復活されたのです。そのことにより、全ての人に罪の赦しと魂の救い、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。イエス様の十字架と復活を信じる者全てを救って下さるのです。それが、神様のおこころなのです。

Ⅲ結論部

コルネリウスは祈りの中で、神の天使の言葉を聞いてペトロに使いを出しました。ペトロも祈るために屋上に行き、聖霊の導きを受けました。神様は祈りの中で、語って下さるのです。聖書を読み、祈りの中に神様は導いて下さいます。私たちもペトロのように人に対しての偏見があるかも知れません。しかし、そのままではコルネリウスの使いを受け入れなかったように、神様はディボーションを通して、私たちに示そうとしておられることがあります。ですから、日々、聖書の言葉を読み、祈る中で、神様の声を聞く、聖霊の導きをいただくことが大切な事なのです。

コルネリウスは、「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」と聖書は記しています。しかし、個人的な救いを受けていませんでした。神様は、彼を宗教的に熱心なだけではなく、彼を救うためにペトロを用いられたのです。そして、ペトロを用いるために、彼の持つユダヤ人としての民族的、宗教的に間違ったところを修正して下さったのです。

神様は旧約聖書で、穢れたものに触れてはいけない、食べてもいけないと命令なさいました。ユダヤ人は、それを忠実に守りました。そのことで、自分の信仰を守ってきたのです。

神様は、ペトロに「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と三度も語られました。神様はいつ清められたのでしょうか。ヨハネによる福音書19章34節には、「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。」という言葉があります。「血と水とが流れ出た。」とあります。ユダヤ人は穢れを水で清めました。この水は、みそぎの水といえるのでしょう。イエス様の十字架の死によって、全ての人間の罪穢れは清められたのです。ペトロが、「神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」と語ったように、イエス様の十字架の死によって、全ての者が清められ、同じように救いに預かる者とされたのです。

 ペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と言いました。今までにユダヤ人以外の異邦人と交わることがなかったのです。けれども、この度は、異邦人と共に泊まり、異邦人の家に招き入れられるという経験を通して、イエス様の十字架と復活を語る時、ペンテコステの時と同じ聖霊が異邦人にも与えられるという驚き、喜びを経験したのです。今までに、ユダヤ人としか交わらなかったペトロは、自分がユダヤ人として、神様が用意された今までに経験したことのない神様の愛を味わうことができたのです。そして、この経験は素晴らしいものであり、これからペトロを通してパウロを通して、異邦人に福音が宣べ伝えられていくのです。そして、私たち日本人にも福音が伝わり、イエス様の十字架と復活を信じる信仰によって救われたのです。

 私たちにも人に対する偏見があるかも知れません。私たちは、いろいろな方々との交わり、関りを通して今までに経験したことのない神様の愛を味わうことができるのです。

 そのためにも、日々聖書の言葉に触れ、祈りを通して神様と交わる1週間を過ごしたいと思うのです。この週も、イエス様に信頼して、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜礼拝(2020年6月7日)

2020-06-07 12:31:21 | Weblog

日曜礼拝(三位一体主日)     2020年6月7日

     「神の言葉に胸キュン」 使徒言行録6:1~7

 

Ⅰ導入部

おはようございます。6月の第一日曜日を迎えました。今日も、ライブ礼拝という形ですが、場所は違っても心と思いを一つにして、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝します。先週のペンテコステ礼拝でお二人が洗礼を受けられました。村上兄と遠藤姉の信仰生活が守られ、祝福されますようにお祈りください。

先週水曜日から聖書の学びと祈り会、木曜日の学びが再開いたしました。久しぶりに愛する皆さんとお会いできて、本当にうれしく思いました。聖書の学びと祈り会は、3月から休みで、三か月ぶりの再開でもありました。それぞれに与えられた時間を有効に用いておられ、新型コロナウィルス感染の影響で不自由な生活、思うようにならない生活ではありましたが、家族との交わりが多く与えられたこと、普段できないことができたこと、教会に行くことができないからこそ、一人聖書を読み、祈るということの中に、神様との深い交わりが与えられ、信仰的に、霊的に恵まれたことをお話し下さいました。

日曜日のライブ礼拝も、会堂での礼拝では言葉が聞き取りにくい状況でも、テレビにつないでみると音がよく聞こえてよかったという意見や年を重ねて教会に行くことができなくなった時、ライブ礼拝で礼拝を守ることができるということがわかって良かったという意見もお聞きしました。私たちは、会堂に集い礼拝をささげることが大きな喜びではありますが、教会に集えないからこその、新たな恵みをも発見できたのではないでしょうか。

さて、「胸キュン」という表現は、中学生や高校生の人たちがよく使う言葉でしょうか。「恋は続くよどこまでも」というドラマでは、イケメンの主役の俳優の言葉に胸キュンすると女子たちが騒いでいるというようなニュースがありました。私たちは誰の言葉に胸キュンしますか。ご主人ですか。奥様ですか。恋人ですか。神の言葉ですか。福田兄がいつも興味ある文章を紹介して下さるのですが、先日も紹介して下さいました。

「幸せになりたいの。嫌よ、あなたと別々になんて・・・そんなの私じゃないから。一生私の愛する人は貴方だから、おねがい。」これには、但し書きがあって、結婚前のあなたは右から呼んでねとありました。「幸せになりたいの。嫌よ、あなたと別々になんて・・・そんなの私じゃないから。一生私の愛する人は貴方だから、おねがい。」いいですね。胸キュンしますね。しかし、もう一つ、あれから40年左から読んでねとあります。「だからおねがい。私の愛する人は貴方じゃないから。一生なんて、そんなの私嫌よ。貴方と別々に。幸せになりたいの。」胸キュンの言葉が胸キュンではなく、残酷な言葉になっています。 

今日は、「神の言葉に胸キュン」という題で、使徒言行録6章1節から7節を通して、お話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、祝福から来る問題もある

先週はペンテコステ、聖霊がイエス様の約束の言葉を信じる者全てに与えられたことを見ました。酒に酔っているとあざける者もいましたが、ペトロは、朝だから酒によっているのではないと旧約のヨエル書の言葉を引用して、イエス様のこと、十字架と復活、福音を大胆に語りました。すると、3千人の人々が悔い改めて、福音を信じて洗礼を受けたのです。ここにキリスト教会が誕生したのです。

信じた者の群れは、全ての物を分け合い、神殿に参り、家ごとに集まり、パンを裂き、神を賛美していました。その後、ペトロとヨハネによって、生まれながらに足の不自由な男の人がイエスのみ名によって癒され、このことでペトロとヨハネは議会で取り調べられましたが、大胆にイエス様を証ししたのです。そして、二人の語った言葉により、救われる人々が男性5千人ほどあったのです。そのように救われる人々が加えられたのです。

しかし、アナニヤとサフィラの偽りの言葉で彼らが死んだり、大祭司やサドカイ派の人々のねたみにより、使徒たちは捕らえられ、脅されたりしました。聖霊によって誕生した教会でしたが、問題や迫害があったのです。

そして、今日の6章では、教会の内部に問題が起こってくるのです。6章1節には、「そのころ」という言葉があります。聖書では、新しい段階に入って行く時に使われる言葉のようです。使徒言行録1章15節にも、「そのころ」とあります。ここでは、ペンテコステ、教会の誕生とその後の働きに備えていく時に使われています。

6章1節の「そのころ」とは、教会に起こった問題とその解決を通して、7名を選ぶことにより、その後の宣教の展開のための導入となっています。ステファノ、フィリポ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選ぶことで、ステファノの殉教、迫害、フィリポのサマリア伝道、アンティオキア出身の改宗者ニコラオの名を残すことで、やがてパウロとバルナバをアンティオキア教会から宣教に遣わすことで、異邦人伝道、世界宣教へと広がっていくことの序章になるのが、今日の6章の記事なのです。

聖霊によって誕生した教会、救われる人が起こされ、この時は多くの人数、数万の規模になっていたようです。そのような教会の群れに6章1節にあるように、「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシャ語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」

という食事にかかわる問題が起こったのでした。食事、食べることに関する問題は、人生にとって生存に関わる重要な問題でした。

当時の教会には、ヘブライオンと言われるヘブライ語を話すユダヤ人とヘレニストと呼ばれるギリシャ語を話すユダヤ人がいたのです。同じユダヤ人ではあっても話す言葉が違っていたのです。ヘレニスト、ディアスポラとも表現しますが、ギリシャ語を話すユダヤ人は、長期にわたり離散の地に住んでいた人々がイスラエルの地に帰還した人々で、今はエルサレムに住んでいる人々でした。また、ペンテコステの日以降に、そのままエルサレムに留まった人々もいました。彼らは、ヘブライ語を話すユダヤ人、土着のユダヤ人、ヘブライストとは、文化的な背景が違い、ギリシャ語を礼拝で使うシナゴーグに通っていたようです。外国で日本語を話す日本人教会に行くようなものです。しかし、ペンテコステで誕生した教会は、ギリシャ語を話すユダヤ人、ヘレニストとヘブライ語を話すユダヤ人が共にいたのです。そこには、言葉以外にも文化的、教育、人生観、世界観、生活の違いがあったのです。

 

二、何を最優先するのかが問題

このような相違があったことも問題が起きた背景にはありましたが、その原因の第一は、「弟子の数が増えてきて」という教会の成長にあったのです。教会が成長して数が増えていくということはうれしいことです。そうあってほしいと願いますが、それと同時に、数が少なかった時とは違って、やはり問題が出てくるのです。当時、食事の配給は、ヘブライ語を話すユダヤ人がしていたのでしょう。日々の配給で、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが、軽んじられているという苦情をヘブライ語を話すユダヤ人たちに伝えたのです。

やもめというのは、聖書では最も弱い立場の人を指します。特に離散している場所にいたギリシャ語を話すユダヤ人たちの中に、やもめが多くいました。彼女たちが晩年になって、イスラエルの地に帰還するディアスポラのユダヤ人が多くいたのです。それは、自分が死んでエルサレムに埋葬されるためでした。ユダヤ人たちは、聖都、つまりエルサレムに埋葬された人々が最初に復活すると考えていたようです。そのように、海外にいたギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちがエルサレムに返って来ていたようです。

そのやもめたちに対する食事の配給に対して軽んじられている、差別がある、おろそかにされているというのです。詳訳聖書には、「見過ごされている」とありますので、食事の配給がなされていなかった。忘れ去られていたということでしょう。それは、大きな怒りとなります。言葉や文化や習慣に違いもあり、差別的な事はなかったのかも知れませんが、そう感じたのです。あるいは、やはり、ヘブライ語を話すユダヤ人たちは、ギリシャ語を話すユダヤ人に対して、偏見(生粋のユダヤ人は異邦人の地でいろいろと交わった者に対する見下したような考えがあった)があり、そのような思いが行動に現れたのかも知れません。とにかく、そのような苦情が寄せられたのです。

2節には、「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」とあります。12弟子たちは、「すべて呼び集めて」とありますから、信徒集会、総会なるものを開いたのでしょう。この事の問題の大きさを感じさせます。この苦情を一部の人で考えるのではなくて、教会全体の事として考えようとしたのです。また、食事の配給の事だから、そんなことは問題ではないと隠したり、この問題にふたをしたりはしなかったのです。

聖霊に満たされた後、聖霊の導きで誕生した教会でしたけれども、そこには、外部からの問題、罪の問題、教会内部からの問題と、様々な問題があるということを聖書は語ります。教会は神の教会だから、問題はないとは言いません。そこに集う人々は、問題を抱えているのです。教会には、様々な問題が起こって来るでしょう。規模の小さな教会には、小さな教会としての問題が起こるでしょう。規模の大きな教会には、大きな教会であるが故の問題が起こってくるのでしょう。必ず問題はあるのです。使徒たちは、問題が起こった時に、どこに問題の原因があるのか、を見ることができました。

ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが、食事の配給でおろそかにされた。忘れられた。軽んじられた。見過ごされたので、そうされないように努力するように徹底しよう。確実に配給されるように、名簿をつけて確認しよう。ヘブライ語を話すユダヤ人が配給の働きをしていたので、ギリシャ語を話すユダヤ人も一緒に配給しようと、その配給の仕方や協力などということに集中したのではなく、今の問題の根本的な課題、問題、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして」とあるように、神の言葉が語られることに土台が置かれるためにどうすべきかを考えたのです。この教会の問題、配給の方法とか、配給者の問題という二次的な事に一生懸命にならなかったのです。もしかしたら、日本の教会の成長を妨げているのは、教会の様々な問題が起こった時、教会が二次的な事ばかりに一生懸命になっているということが原因なのかもしれません。私たちも注意したいと思います。

12弟子たちが、問題が起こった時、神の言葉をないがしろにしない、という所に気づいたのも、聖霊の助け、聖霊に満たされ、聖霊に導かれていたからではないでしょうか。

 

三、人は良い方法を選び、神は人を選ぶ

3節には、「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。」とあります。食事の配給のために、7人を選ぶというのです。そして、7人を選ぶための理由は、4節にある「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」ということだったのです。

教会に食事の配給での苦情の問題に対する原則は、「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ということなのです。12弟子たちは、人数の少ない時から、み言葉を語ること、み言葉で教育すること、食事の配給や会計等の仕事を中心になってしていたのでしょう。救われる人がどんどん増えても、相変わらず今までしていた仕事を続けていたのです。ですから、彼ら自身が、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」とか、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」ということを言っているということは、自分たちがみ言葉に対する働きが正しく実行できていなかったということを示しているように思うのです。

だからこそ、12使徒たちが、「祈りと御言葉の奉仕に専念する」ことができるように、自分たちが今までしていた働きを7人を選んで任せることにしたのです。

7人を選び、彼らに仕事を任すという提案は、みんなが賛成したので、7人を選んだのです。リビングバイブルには、「さあ回りをよく見回して、この人と思う人を七人選んでください。」とあります。では、この7人を選ぶための条件は何だったのでしょうか。食事の事だから、料理が上手な人、コックの経験のある人、配膳が良くできる人、機転が利く人、食料を運ぶのですから力のある人、会計のために計算の良くできる人ということは考えませんでした。7人を選ぶためには、「霊”と知恵に満ちた評判の良い人」が条件でした。その仕事のために必要な経験や得意な事、何かができる、できないというような事ではなくて、聖霊に満たされた人、知恵に満ちた人、評判の良い人なのです。

聖霊に満たされたとは、イエス様にその生活の全てが支配されている人。自分の生活や仕事の全てがイエス様のみこころに導かれることを願う人、霊的な資質がある人だと思います。知恵に満ちた人とはイエス様に従い、聖霊に満ちされることによってもたらされる人のこと、実際的な能力を持つ人だと思います。評判の良い人とは、世間の聞こえがいいという程度ではなく、人をつまずかせない証された人です。

選ばれた7人は、7人ともギリシャ語を話すユダヤ人だったのです。配給のために選ばれた7人は、神様を求め、神様に仕え、神様の前にへりくだり、神様を愛している人でした。選ばれた7人は、単なる配膳係というのではなく、世話係ではなく、12弟子たちと同じようなレベルの人、「霊”と知恵に満ちた評判の良い人」であったのです。

7節には、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」とあります。使徒たちの重荷を軽くすることで、教会が教会として機能を果たすことができ、平安の内に前進したのです。特に、今までにはなかった、祭司たちの入信があったのです。この祭司たちというのは、おそらくサドカイ派の人々で、使徒たちに対してねたみを起こして迫害した人々だと思うのです。聖霊の導きに従うと、人間の思いの寄らない神様のみ業が起こされるのです。

 

Ⅲ結論部

モーセは、申命記1章9節~13節で「そのころ、わたしはあなたたちに言った。「わたしは、ひとりであなたたちの重荷を負うことはできない。あなたたちの神、主が人数を増やされたので、今やあなたたちは空の星のように数多くなった。あなたたちの先祖の神、主が約束されたとおり、更に、あなたたちを千倍にも増やして祝福されるように。しかし、どうしてひとりであなたたちの重荷、もめ事、争いを負えるだろうか。部族ごとに、賢明で思慮深く、経験に富む人々を選び出しなさい。わたしはその人たちをあなたたちの長としよう。」

と言っています。姑エテロがモーセの行動を見て、アドバイスしたことを受け入れたわけです。そのことにより、イスラエルの民もモーセも守られたのです。

今回の教会の問題は、食事の配給の苦情の問題ではなく、神の言葉が本当の意味で語られ、み言葉で養われ、み言葉による導きがなされているかどうかという教会の根本的な問題に対するものでした。私たちは、やはり神様の言葉、聖書の言葉に生かされるものです。日々、聖書の言葉を通して慰められ、励まされ、強められるのです。神の言葉に胸キュンする毎日でありたいと思うのです。

パウロは、エフェソの長老たちに、使徒言行録20章32節で、「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」と語りました。

神様は、神の言葉を通して私たちを癒します。私たちにどのように罪があり、問題があっても、私たちを愛し続けて下さるのです。私たちの罪を赦すために、イエス様が十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで下さり、葬られ、よみがえられました。そのことにより私たちの全ての罪を赦し、魂を救い、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。そして、今も、私たちに「大丈夫だ、あなたを愛している。」と聖書の言葉を通して語って下さるのです。今週も神様の言葉に触れて、神の言葉に胸キュンして歩んでまいりましょう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする