江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2020年12月6日)

2020-12-06 19:28:43 | Weblog

アドベント第二礼拝          2020.12.6

そこに愛はあるんか」 マタイ1:18~25

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第一日曜日を迎えました。アドベントの第二の礼拝です。新型コロナ感染者増加の中にありますが、会堂に集い、あるいは、ご家庭でのライブ礼拝を通して共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 毎年ですと、女性会のクリスマスがあり、駅前キャロルが昨日行われて、と話すのですが、今年は女性会のクリスマスも駅前キャロルも中止で、何かいつもとは違う流れの中でのアドベントを迎えております。

 いつもの12月、師走と言えば、クリスマスや新年を迎えて活気づいている季節です。しかし、新型コロナウィルス感染者の増加や医療のひっ迫で、不要不急の外出の制限願いが出されたり、飲食店の営業時間の時短要求が出たりと、クリスマスでお祝いするとか、年末年始に実家や故郷に帰って家族と過ごすという事も躊躇しなければならない事態です。ある意味では、一年で一番楽しめる季節に、じっと何もしないで、我慢して新年を迎えるという寂しい、辛い2020年だと思います。そのような状況で、私たちは、救い主イエス様の誕生に目を留めたいと思います。救い主の誕生だから、喜ばしいことか、というと、そうではない苦しみを経験した人物が今日登場するヨセフでした。今日は、マタイによる福音書1章18節から25節を通して、「そこに愛はあるんか」という題でお話しします。

 

 Ⅱ本論部

 一、愛するがゆえに

 今日はイエス様の父として選ばれたヨセフの話です。聖書は、19節でヨセフの事を「正しい人であった」と紹介しています。リビングバイブルでは、「神の教えを堅く守る人」とあります。詳訳聖書には、「まっすぐな人」とあります。ヨセフは、律法に忠実な人、厳格な人、神様とのかかわりにおいて義しい人、曲がったことの嫌いな人と言えます。

 彼の職業は大工であったと言われますが、仕事においても人格においても真面目な人であったのでしょう。違う見方をすれば、ヨセフは偉大なダビデ王の子孫です。ダビデの子どもたち、子孫はイスラエルの王になった者もあり、偉大なダビデ王の子孫が大工であるという事は随分落ちぶれたという見方もできるかも知れません。聖書は、救い主はダビデの子孫からと預言し、ヨセフもマリアもダビデ王の子孫であったのです。

 ダビデ王家の子孫であったヨセフは、大工として汗を流し、つつましい生活を送っていたと言えます。そして、神様が救い主の母としてマリアを選ばれたように、大工として真面目に働き、律法にも忠実なヨセフを救い主の父として選ばれたのです。家柄としては申し分ないヨセフでしたが、大工として普通の生活をしていたのです。

 聖書は、18節で「イエス・キリストの誕生の次第」として、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」

と記しています。先週の受胎告知でも、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」(ルカ1:35)と天使が告げた言葉と同じです。

 19節には、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。リビングバイブルには、「婚約を破棄しようと決心しました。しかし、人前にマリヤの恥をさらしたくなかったので、ひそかに縁を切ることにしました。」とあります。婚約は結婚と見なされ、1年間の期間をおいて一緒に住むようになるようですが、一緒に住む前に、マリアが身ごもっていることがわかったのです。ヨセフは律法に忠実な人であり、厳格な人、神様とのかかわりにおいて義しい人、曲がったことの嫌いな人でしたから、ひそかに縁を切ろうと決心したのです。

 律法には、他の男と関係を持った娘をめとることは禁じられていました。また、このまま婚約を続ければ、マリアは不貞を犯したということで、周りの人々から責められ訴えられるのです。ヨセフがマリアを訴えたら、彼女は石打の刑で処刑されるというのが律法の定めだったのです。

 ヨセフは、「マリアのことを表ざたにするのを望まず」とあります。新改訳聖書には、「さらし者にはしたくなかった」とあります。律法に忠実で正しい人であったヨセフは、マリアを愛するがゆえに、婚約をひそかに解消して、縁を切って分かれる決断をしたのです。それは、二人が遠く離れて二度と会えないことを意味していました。婚約破棄の事はマリアには内緒で済ませるつもりでいたのです。そして、この決断は、自分が愛し、大切に思っていたマリアを失う事になるのです。ヨセフの決心やこれからの行動は、愛のゆえなのでしょうか。そこに愛はあったのでしょうか。

 

 二、用いられることの痛み

 ヨセフは一人悩みました。マリアの妊娠は、マリアへの不信、怒り、恨みを生み出したのかも知れません。ひそかに縁を切ろうとしたことは、マリアを信じることができなかったからかも知れません。マリアは、天使から「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と告げられたことをヨセフに言わなかったのでしょうか。ルカによる福音書を見れば、天使が「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六ヶ月になっている。」(ルカ1:36)と聞いて、エリサベトの所に行ったので、ヨセフに言えなかったのでしょう。聖書は、「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。」(ルカ1:56)とありますので、そこで妊娠が発覚したのでしょう。マリアは、エリサベトの家に三ヶ月いたと言えば、ヨセフの疑いもなかったのかも知れません。今の時代のように、すぐに連絡ができない時代でしたから、相手の状況をなかなか知ることができなかったのでしょう。マリアの妊娠という現実の前に、ヨセフは苦しみ悩み、絶望を感じ、マリアとひそかに離縁しようと決心したのです。そのように苦しんでいたヨセフにも告げられるのです。

 20節、21節には、「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」

 一緒に住めるというバラ色の人生からマリアの妊娠という奈落の底に突き落とされたヨセフでしたが、夢を通して天使が語るのです。恐れていた、おののいていたヨセフに、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と宣言されました。天使の「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」という言葉に戸惑っているマリアに、「マリア、恐れることはない。」と宣言されたように、ヨセフにも「恐れるな」と宣言し、マリアとの決別を決心したヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。」と言われたのです。そして、その理由を、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」と言われたのです。マリアの妊娠は、男性との関係ではなく、聖霊による、神の力によるものなのです。

男の子が生まれるのでイエスという名前を付けること、これもマリアに告げられたことでした。しかし、「この子は自分の民を罪から救うからである。」という内容は、マリアには告げられず、ヨセフだけに語られた内容でした。

 マリアもヨセフも救い主誕生に用いられた人物でした。「用いられた」という言葉は聞こえはいいですが、実際、悩み苦しむのです。神様が人間の世界に直接介入するという状況で、救い主誕生という驚くべき、素晴らしい神の業ですが、そのために用いられたマリアもヨセフも苦しみ悩み、痛みを経験するのです。マリアは、具体的に身ごもるのですが、

ヨセフにとっては、全く自分の知らない所での事柄に、戸惑い、マリアに対して怒りや恨み、憎しみがわいていたでしょう。マリアを信じることができなかったのですが、そのようにマリアの事を思って苦しんでいたヨセフに語られ、神様の偉大な業を伝えたのです。

 私たちも神様に用いられることがあります。しかし、それは、華やかさや誰もが認めるような出来事だけにではなく、用いられるがゆえに、苦しみ、悩み、痛みを経験することがあるのです。しかし、その苦しみや悲しみ、悩みや痛みは無駄になることはないのです。必ず益になり、祝福をもたらすものになるのです。そのことを信じたいのです。

 

 三、神であり人であることが救い主の証拠

また、天使はマリアが男の子を生むということは、旧約聖書にすでに預言されていたことであることを示すのです。22節、23節です。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」

 インマヌエルとは、イザヤ書7章にある、当時のユダの王アハズに語られたものです。神様に信頼するお方であることを神様自らが証しする一つのしるしとしてつけられた呼び名で、「神は我々と共におられる」という意味があります。この言葉は、共にあるという状態だけを意味するのではなく、「神性と人性が共にある存在」という意味で、神様と人が一つになったというユニークな存在のしるしであって、そのしるしは、「おとめが身ごもって男の子を産む。」ということです。

 フィリピの信徒への手紙では、2章6節~8節には、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあるように、イエス様は神様としての在り方を捨てて、全く人として歩まれました。その歩みは、貧しい者、弱い者として歩まれました。貧しく、弱い者だからこそ、父なる神様に頼らなければならない存在として生きられたのです。神の国を伝える言葉も奇跡の業も、全て父なる神様の語られる通りに、ご命令される通りに忠実に従われたのです。人として人間の世界に遣わされたイエス様は、父なる神様に信頼して生きる模範となられたのです。そして、父なる神様のみこころは、イエス様が全人類の罪の身代わりに十字架にかかり、十字架で裁かれ、血を流し、命をささげることでした。死ぬことだったのです。しかし、死んで葬られたイエス様は三日目によみがえり神であることを示されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、永遠の命、死んでも生きる命が与えられたのです。人類の罪の身代わりになれるのは、人であり、神であるという存在のイエス様だけなのです。

 ヨセフに語られたのはまさにこの事、「この子は自分の民を罪から救うからである。」ということなのです。

 

 Ⅲ結論部

 ヨセフがマリアの妊娠に対して苦しんだ、悩んだことは、ヨセフがマリアを愛し、大切にしていたということだと思います。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」ということは、そこに愛があったのです。このようにマリアに対する、そして、マリアの身ごもったイエス様に対するヨセフの愛が、神様に対する忠実な従順が、イエス様の父なる神様への忠実な従順につながっているような気がします。イエス様の誕生も、イエス様の十字架と復活も、そこに神様の愛があったのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネ4:10)「そこに愛はあるんか」という説教題ですが、「ここに愛がある」のです。イエス様の愛で私たちは今も愛されているのです。私たちも神様の愛に触れて、神様の愛に押し出されて、ここに愛があるとイエス様を紹介したいのです。このクリスマスの時期にイエス様の愛を紹介したいのです。この週もイエス様に愛されていることを覚えて、感謝して過ごしてまいりましょう。

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