主日礼拝(受難節第三主日) 2008.2.24
「いちばん大切なもの」 マルコ12:41-44
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2月の第四主日、受難節の第三主日の礼拝を迎えました。
2008年も1月が行き、2月も逃げていきます。春ももうそこまで来ているように思います。
昨日は、ユーオディオ結成20周年の讃美集会がありました。演奏と讃美とても恵まれたコンサートでした。柳瀬佐和子姉が作曲された「あしあと」の演奏と讃美の時、神様の愛と恵みに満たされて、
「神様の愛されている」ことの喜びを深く感じました。参加された方々もおられると思いますが、同じように神様に愛されていることの素晴らしさに深く感動されたのではないでしょうか。
今年は特にナザレン教団の教職の方々も多く来られていました。私の隣は石田先生ご夫妻でした。ユーオディアとナザレン教団は、三軒茶屋教会の地下室をユーオディアへお貸しする契約を正式に結び、これからナザレン教団のいろいろな集会へ参加して下さるのだと思います。続けてユーオディアの働きのため、柳瀬兄弟姉妹の働きのために祈り、献げていきたいと思います。
さて、今日のメッセージの聖書の箇所は、マルコによる福音書12章41節から44節です。やもめの小さな献金、精一杯の献金、信仰の伴った献金を通して、「いちばん大切なもの」と題してお話したいと思います。
Ⅱ本論部
⒈人に見せる献金
今日の聖書の箇所は、ナザレン教団の教案誌「希望」の来週のメッセージ箇所、マルコ14:41-44と平行箇所の(ルカ21:1-4)となっています。成人科の方々は、来週もう一度この箇所から学ぶことになります。
マルコによる福音書12章40節を共に読みましょう。「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受ける。」 38節からは、イエス様は律法学者、宗教者たちの見せかけの態度ややもめの家、貧しい者、弱い者を食い物にしていると非難しています。本来、神様の愛と恵みを語り、弱い者、貧しい者を励まし、助けるべき者たちが、見せかけの信仰、実のない信仰であると厳しくイエス様は語られました。イエス様は特に、社会的に最も弱い立場にある女性、やもめに対する愛情を持っておられたようです。希望誌では、久保木先生が、それは、イエス様の母マリアが夫ヨセフを早くに亡くして、やもめであったためであると語っておられます。
41節を共に読みましょう。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちたちがたくさん入れていた。」 詳訳聖書には、「イエスは、さいせん箱の反対側にすわって、群衆がさいせん箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちたちが多額の金を投げ入れていた。」とあります。 エルサレムの神殿には、聖所を中心に祭司の庭、イスラエルの男子の庭、婦人の庭、異邦人の庭がありました。異邦人の庭と婦人の庭の境にある美しの門を入った所には、ラッパ形の13個の献金箱(賽銭箱)が置かれていたようです。そこに皆、献金を献げたのです。使徒言行録3章には、美しの門の所に置かれた男性が物乞いをしている箇所がありますが、それはちょうどこの場所で、皆が献金をささげる所だったのです。そこに、金持ちたちが金を入れたわけですが、詳訳聖書では「金を投げ入れる。投げ入れた。」とあります。金持ちというのは、祭司長であり、律法学者であり、長老たちでしょう。彼らの献金は、人に見せるためのものでした。
イエス様は、次のような ことを語られたことがあります。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたがたは、施しをするときには、偽善者たちが人にほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1-4)
律法学者やファリサイ派の人々は、自分がこんなにたくさん献げているとラッパを鳴らすように、目立つように、見せるようにするので、神様からの報いを得られないとイエス様は言われたのです。
私たちは、献金に対して、奉仕に対して、愛に対してどのような献げかたをしているでしょうか。人に見せるためですか。自分の行いを通して称賛を得るためですか。人にですか。神様にですか。
イエス様は、群衆が賽銭箱に金を入れるのを見ておられた、とありますから、私たちがどのように献げているのかを見ておられるのです。人ではなく神様、イエス様を気にしたいと思います。
⒉イエス様の目
42、43節を共に読みましょう。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」」 詳訳聖書には、「そこに貧乏にあえいでいるやもめがやって来て、銅貨(最少額の貨幣)二枚を入れた。これは両方合わせて一コドラントに当る。イエスは弟子たちをみもとに呼び寄せて言われた、「真実(確かに)私はあなたがたに言う。このやもめは、貧乏にあえいでいるのだが、(彼女は)さいせん箱に入れたほかのだれよりも多く入れた。」」とあります。
この婦人は、レプトン銅貨二枚をささげました。1デナリオンは128レプトン、64クァドランスにあたるようです。1デナリオンを1万円とすると1レプトンは78円になります。2レプトンは156円で、1クァドランスは156円です。律法学者や祭司長たちは、1万円、5万円、10万円を見せびらかすように、賽銭箱(献金箱)に投げ入れました。けれども、貧しいやもめは、156円をささげました。コンビニのおにぎり1個の額でしょう。100円のおにぎりよりもちょっといいおにぎりが食べられます。
榎本保郎先生は、マルコ12章41節から44節の平行箇所のルカによる福音書21章1節から4節の1日1章で、次のように書いておられます。「ある人が献金の大きさはささげた額ではなく、残した額によって決まるのであると言ったが、大きな教訓を与える言葉だと思う。この寡婦は生活費全部をささげたのだから、残るものは全くない。だからこれほど大きいものはない。そこでイエスは、神の前に「誰よりもたくさん入れたのだ」と言われたのである。 献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。いかに敬虔な思いを持ってささげても、信仰の伴わない献金は、どぶへ捨てるようなものである。この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰告白であったから尊い。 確かに献金はささげた額によらず、残した額によるとは真実であるが、そうすると人間の善行というか、わざによって神が喜ばれたり、喜ばれなかったりするように思われてくる。イエスがここで大切なこととして教えようとされたもう一つのことは、金持ちは投げ入れ、女は入れと書かれているところにある。つまり、金持ちはこれ見よがしに人前にささげたというか、人に誇ってささげた。それに対してレプタ二つをささげた寡婦は、こっそりとささげたという面があるのではないかと思う。」
金持ちたちは、人に見てもらおうとして、人前で献金し、ラッパを吹き鳴らして献金し、右手のすることを左手に知らせるようにして献金しました。それに比べて、貧しいやもめ女は神様の前に献金し、人に知られないようにそっと献金し、右手のすることを左手に知らせないように献金したのです。
この婦人の行為、心からの献金に対してイエス様は、わざわざ弟子たちを呼び寄せて言われたのです。ここで、この婦人の行為を、姿勢を、信仰を示さずにはおれなかったのです。この婦人の行為に尊いものを見られたのです。この婦人の献金は誰よりも多い。弟子たちの考え、見方は表面に現れている数を見るということでした。5千人の男の人を養うには200デナリオンのパンがあっても無理。
ですから、金持ちが多く捧げることに対して、「すごいな~。たくさん献金してるな!」という見方だったと思います。けれども、イエス様は、見せ掛け、見えるものではなく、見えないもの、形には表れない姿勢、信仰を問われたのです。156円をささげたこのやもめの女は、他に何万円をささげた人よりも多く入れた。計算では出てこない答えでした。
私たちは、弟子たちのように目に見えるもの目を奪われていませんか。頭で計算できる事しか信頼していませんか。イエス様の見方は、神様の捕らえ方は違うのです。
⒊恵みに対する応答として
44節を共に読みましょう。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 彼女の持てる全ては、2レプトン、1クァドランス、156円でした。それなのに全部ささげました。半分の1レプトン、2分の1クァドランス、78円でも良かったのではないでしょうか。 78円では何も買えない。今はそうでしょう。
私が小学生の頃だったでしょうか。10円でたこやきが10個食べられました。10円焼きというお好み焼きが1枚食べられました。ロケットパンが10円で1本食べられたのです。ですから、時代的なことを配慮に入れると78円でも十分食べられたのです。156円あるともう十分食べられました。半分の78円でも残しておくと生活には助かったはずなのです。それなのに彼女は生活費全部をささげたのです。
希望誌の中高科では土肥千保先生が、「生活費をすべて献げたこの貧しいやもめは、自分の生きる根拠を、お金にではなく神に見いだしていたのである。生活費のすべてを献げたとは、お金に頼っている者には見いだせないであろう、計り知れない感謝に生きていたがゆえであり、自分自身を献げきったしるしである。」と書いておられました。 聖書には、「貧しいやもめ」とあります。貧しいということは辛いことでしょう。苦労が多くあるでしょう。多くの必要が満たされるようにと祈ったことでしょう。満たされないままだったでしょう。貧しさは相変わらずでした。子どももいたかも知れません。生活費ですから、他にも使い道がいくらでもあったでしょう。けれども、彼女はすべてを神様にささげたのです。ささげたかったのです。ささげずにはおれなかったのです。神様の大きな恵みに対する応答だったでしょう。
イエス様が十字架につけられる前に、ベタニアのマリアはイエス様の足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐいました。イエス様の弟子たちは、「何と言う無駄使いだ。300万円で売れるような高価な香油なのに。それを貧しい人々に施せ!」と文句を言いました。300万円という高価な香油です。しかし、マリアは兄弟のラザロを死からよみがえらせて下さったイエス様の愛と恵みに応答してささげました。本当ならもっともっとささげたい。これ以上に高価なものがあればそれをささげたいと思ったでしょう。イエス様の大きな恵みに対して喜んでささげたのです。
2レプトン、1クァドランス、156円をささげたやもめ女は、額が少ないから全部ささげられたのでしょうか。そうではないと思います。
1万円あったら1万円ささげたでしょう。5万円あったら5万円ささげたでしょう。100万円あったら100万円を全部ささげたのだと思うのです。神様の愛に対して、神様の恵みに対して全てをささげたのです。イエス様はそのことを知っておられたのでしょう。だからこそ、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言われたのだと思うのです。
今日のメッセージは、だから私たちも何も残さず全てを捧げましょう、と言うのではありません。
「皆さん、今日の献金では財布ごと全部入れて下さい。」ということを入っているのではありませんし、言うつもりもありません。私たちは大きな神様の愛と恵み、憐れみと赦し、癒しに対してどのような応答をしているでしょうか、ということなのです。
神様は私たち一人ひとりを愛しておられます。だからこそ、私たちを罪から救うためにイエス・キリスト様をこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかかって苦しみの極みを経験され、神様に裁かれ、身代わりに死んで下さったのです。そのことによって私の罪が赦されたのです。神様の大きな大きな愛と恵みをいただいたのです。その大きな愛と恵みに私たちはどのようにお答えしているのでしょうか。私たちは献金もしたいです。奉仕もしたいです。時間もささげたいです。しかし、何よりも神であるきよいお方、イエス様が御自分の体を張って私たちを罪から解放して下さったのですから、私たちも私自身をささげていきたいと思うのです。
Ⅲ結論部
ザアカイの生涯は、お金を儲けること、お金を貯めることが生きがいでした。ですから、お金のためなら何でもしたのです。その彼が、全財産の半分を貧しい人々に施す。不正をしていたら4倍にして返す、という驚きの告白をしました。それはお金よりももっと大切なものを見いだしたからです。お金には変えられない、素晴らしいものを得たからなのです。それからのザアカイは、貧しい生涯だったかも知れません。けれども、幸せな生涯でした。神様と共に歩む人生、お金ではなく神様に信頼していく人生、神様が導かれる人生、神様の業を体験する人生、神様の恵みに応答する人生へと変えられたのです。
私たちはどうでしょうか。まだ見えるものにのみ頼っている人生でしょうか。経済的な必要が満たされない。病が癒されない。物事がうまくいかない。人間関係の糸がからみすぎてうまくいかない、と嘆いていませんか。神様は、イエス様は、経済的な必要が満たされないということの中に、必要なものを示そうとしておられるのです。病が癒されないということの中に、神様のみこころがあるのです。人間関係の困難さに神様のくすしきみ業があるのだと思うのです。たとえ見えるところがどうであろうと神様は、そのことをプラスに祝福に変えて下さるのです。み子イエス・キリスト様を私たち一人ひとりのためにささげて下さったように、私たちの人生を、神様と共にある人生を祝福して下さるのです。
私たちが小さい、少ないと思っても神様は誰よりも多く入れたと見てくださるのです。やもめの献金、2レプトンは、1クァドランスは、156円は人間の目には何の評価もされないような小さなものです。誰の目にも留まらないようなものでしょう。しかし、イエス様の目には、神様の目には、この人間の世界で、見向きもされないような存在、小さな私に、あなたに目を留めて、尊い者と見て下さるのです。小さな信仰を認めて下さるのです。小さなささげものを誰よりも多くささげたと評価して下さるのです。私たちはイエス様の十字架の愛と恵みに答えて、喜びと感謝をもって精一杯のささげものをしたいと思います。精一杯に奉仕をしたいと思います。いちばん大切な神様の救い、恵みを与えられた者として、私自身を思い切ってささげていきたいと思うのです。
「いちばん大切なもの」 マルコ12:41-44
Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2月の第四主日、受難節の第三主日の礼拝を迎えました。
2008年も1月が行き、2月も逃げていきます。春ももうそこまで来ているように思います。
昨日は、ユーオディオ結成20周年の讃美集会がありました。演奏と讃美とても恵まれたコンサートでした。柳瀬佐和子姉が作曲された「あしあと」の演奏と讃美の時、神様の愛と恵みに満たされて、
「神様の愛されている」ことの喜びを深く感じました。参加された方々もおられると思いますが、同じように神様に愛されていることの素晴らしさに深く感動されたのではないでしょうか。
今年は特にナザレン教団の教職の方々も多く来られていました。私の隣は石田先生ご夫妻でした。ユーオディアとナザレン教団は、三軒茶屋教会の地下室をユーオディアへお貸しする契約を正式に結び、これからナザレン教団のいろいろな集会へ参加して下さるのだと思います。続けてユーオディアの働きのため、柳瀬兄弟姉妹の働きのために祈り、献げていきたいと思います。
さて、今日のメッセージの聖書の箇所は、マルコによる福音書12章41節から44節です。やもめの小さな献金、精一杯の献金、信仰の伴った献金を通して、「いちばん大切なもの」と題してお話したいと思います。
Ⅱ本論部
⒈人に見せる献金
今日の聖書の箇所は、ナザレン教団の教案誌「希望」の来週のメッセージ箇所、マルコ14:41-44と平行箇所の(ルカ21:1-4)となっています。成人科の方々は、来週もう一度この箇所から学ぶことになります。
マルコによる福音書12章40節を共に読みましょう。「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受ける。」 38節からは、イエス様は律法学者、宗教者たちの見せかけの態度ややもめの家、貧しい者、弱い者を食い物にしていると非難しています。本来、神様の愛と恵みを語り、弱い者、貧しい者を励まし、助けるべき者たちが、見せかけの信仰、実のない信仰であると厳しくイエス様は語られました。イエス様は特に、社会的に最も弱い立場にある女性、やもめに対する愛情を持っておられたようです。希望誌では、久保木先生が、それは、イエス様の母マリアが夫ヨセフを早くに亡くして、やもめであったためであると語っておられます。
41節を共に読みましょう。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちたちがたくさん入れていた。」 詳訳聖書には、「イエスは、さいせん箱の反対側にすわって、群衆がさいせん箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちたちが多額の金を投げ入れていた。」とあります。 エルサレムの神殿には、聖所を中心に祭司の庭、イスラエルの男子の庭、婦人の庭、異邦人の庭がありました。異邦人の庭と婦人の庭の境にある美しの門を入った所には、ラッパ形の13個の献金箱(賽銭箱)が置かれていたようです。そこに皆、献金を献げたのです。使徒言行録3章には、美しの門の所に置かれた男性が物乞いをしている箇所がありますが、それはちょうどこの場所で、皆が献金をささげる所だったのです。そこに、金持ちたちが金を入れたわけですが、詳訳聖書では「金を投げ入れる。投げ入れた。」とあります。金持ちというのは、祭司長であり、律法学者であり、長老たちでしょう。彼らの献金は、人に見せるためのものでした。
イエス様は、次のような ことを語られたことがあります。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたがたは、施しをするときには、偽善者たちが人にほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1-4)
律法学者やファリサイ派の人々は、自分がこんなにたくさん献げているとラッパを鳴らすように、目立つように、見せるようにするので、神様からの報いを得られないとイエス様は言われたのです。
私たちは、献金に対して、奉仕に対して、愛に対してどのような献げかたをしているでしょうか。人に見せるためですか。自分の行いを通して称賛を得るためですか。人にですか。神様にですか。
イエス様は、群衆が賽銭箱に金を入れるのを見ておられた、とありますから、私たちがどのように献げているのかを見ておられるのです。人ではなく神様、イエス様を気にしたいと思います。
⒉イエス様の目
42、43節を共に読みましょう。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」」 詳訳聖書には、「そこに貧乏にあえいでいるやもめがやって来て、銅貨(最少額の貨幣)二枚を入れた。これは両方合わせて一コドラントに当る。イエスは弟子たちをみもとに呼び寄せて言われた、「真実(確かに)私はあなたがたに言う。このやもめは、貧乏にあえいでいるのだが、(彼女は)さいせん箱に入れたほかのだれよりも多く入れた。」」とあります。
この婦人は、レプトン銅貨二枚をささげました。1デナリオンは128レプトン、64クァドランスにあたるようです。1デナリオンを1万円とすると1レプトンは78円になります。2レプトンは156円で、1クァドランスは156円です。律法学者や祭司長たちは、1万円、5万円、10万円を見せびらかすように、賽銭箱(献金箱)に投げ入れました。けれども、貧しいやもめは、156円をささげました。コンビニのおにぎり1個の額でしょう。100円のおにぎりよりもちょっといいおにぎりが食べられます。
榎本保郎先生は、マルコ12章41節から44節の平行箇所のルカによる福音書21章1節から4節の1日1章で、次のように書いておられます。「ある人が献金の大きさはささげた額ではなく、残した額によって決まるのであると言ったが、大きな教訓を与える言葉だと思う。この寡婦は生活費全部をささげたのだから、残るものは全くない。だからこれほど大きいものはない。そこでイエスは、神の前に「誰よりもたくさん入れたのだ」と言われたのである。 献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。いかに敬虔な思いを持ってささげても、信仰の伴わない献金は、どぶへ捨てるようなものである。この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰告白であったから尊い。 確かに献金はささげた額によらず、残した額によるとは真実であるが、そうすると人間の善行というか、わざによって神が喜ばれたり、喜ばれなかったりするように思われてくる。イエスがここで大切なこととして教えようとされたもう一つのことは、金持ちは投げ入れ、女は入れと書かれているところにある。つまり、金持ちはこれ見よがしに人前にささげたというか、人に誇ってささげた。それに対してレプタ二つをささげた寡婦は、こっそりとささげたという面があるのではないかと思う。」
金持ちたちは、人に見てもらおうとして、人前で献金し、ラッパを吹き鳴らして献金し、右手のすることを左手に知らせるようにして献金しました。それに比べて、貧しいやもめ女は神様の前に献金し、人に知られないようにそっと献金し、右手のすることを左手に知らせないように献金したのです。
この婦人の行為、心からの献金に対してイエス様は、わざわざ弟子たちを呼び寄せて言われたのです。ここで、この婦人の行為を、姿勢を、信仰を示さずにはおれなかったのです。この婦人の行為に尊いものを見られたのです。この婦人の献金は誰よりも多い。弟子たちの考え、見方は表面に現れている数を見るということでした。5千人の男の人を養うには200デナリオンのパンがあっても無理。
ですから、金持ちが多く捧げることに対して、「すごいな~。たくさん献金してるな!」という見方だったと思います。けれども、イエス様は、見せ掛け、見えるものではなく、見えないもの、形には表れない姿勢、信仰を問われたのです。156円をささげたこのやもめの女は、他に何万円をささげた人よりも多く入れた。計算では出てこない答えでした。
私たちは、弟子たちのように目に見えるもの目を奪われていませんか。頭で計算できる事しか信頼していませんか。イエス様の見方は、神様の捕らえ方は違うのです。
⒊恵みに対する応答として
44節を共に読みましょう。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 彼女の持てる全ては、2レプトン、1クァドランス、156円でした。それなのに全部ささげました。半分の1レプトン、2分の1クァドランス、78円でも良かったのではないでしょうか。 78円では何も買えない。今はそうでしょう。
私が小学生の頃だったでしょうか。10円でたこやきが10個食べられました。10円焼きというお好み焼きが1枚食べられました。ロケットパンが10円で1本食べられたのです。ですから、時代的なことを配慮に入れると78円でも十分食べられたのです。156円あるともう十分食べられました。半分の78円でも残しておくと生活には助かったはずなのです。それなのに彼女は生活費全部をささげたのです。
希望誌の中高科では土肥千保先生が、「生活費をすべて献げたこの貧しいやもめは、自分の生きる根拠を、お金にではなく神に見いだしていたのである。生活費のすべてを献げたとは、お金に頼っている者には見いだせないであろう、計り知れない感謝に生きていたがゆえであり、自分自身を献げきったしるしである。」と書いておられました。 聖書には、「貧しいやもめ」とあります。貧しいということは辛いことでしょう。苦労が多くあるでしょう。多くの必要が満たされるようにと祈ったことでしょう。満たされないままだったでしょう。貧しさは相変わらずでした。子どももいたかも知れません。生活費ですから、他にも使い道がいくらでもあったでしょう。けれども、彼女はすべてを神様にささげたのです。ささげたかったのです。ささげずにはおれなかったのです。神様の大きな恵みに対する応答だったでしょう。
イエス様が十字架につけられる前に、ベタニアのマリアはイエス様の足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐいました。イエス様の弟子たちは、「何と言う無駄使いだ。300万円で売れるような高価な香油なのに。それを貧しい人々に施せ!」と文句を言いました。300万円という高価な香油です。しかし、マリアは兄弟のラザロを死からよみがえらせて下さったイエス様の愛と恵みに応答してささげました。本当ならもっともっとささげたい。これ以上に高価なものがあればそれをささげたいと思ったでしょう。イエス様の大きな恵みに対して喜んでささげたのです。
2レプトン、1クァドランス、156円をささげたやもめ女は、額が少ないから全部ささげられたのでしょうか。そうではないと思います。
1万円あったら1万円ささげたでしょう。5万円あったら5万円ささげたでしょう。100万円あったら100万円を全部ささげたのだと思うのです。神様の愛に対して、神様の恵みに対して全てをささげたのです。イエス様はそのことを知っておられたのでしょう。だからこそ、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言われたのだと思うのです。
今日のメッセージは、だから私たちも何も残さず全てを捧げましょう、と言うのではありません。
「皆さん、今日の献金では財布ごと全部入れて下さい。」ということを入っているのではありませんし、言うつもりもありません。私たちは大きな神様の愛と恵み、憐れみと赦し、癒しに対してどのような応答をしているでしょうか、ということなのです。
神様は私たち一人ひとりを愛しておられます。だからこそ、私たちを罪から救うためにイエス・キリスト様をこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかかって苦しみの極みを経験され、神様に裁かれ、身代わりに死んで下さったのです。そのことによって私の罪が赦されたのです。神様の大きな大きな愛と恵みをいただいたのです。その大きな愛と恵みに私たちはどのようにお答えしているのでしょうか。私たちは献金もしたいです。奉仕もしたいです。時間もささげたいです。しかし、何よりも神であるきよいお方、イエス様が御自分の体を張って私たちを罪から解放して下さったのですから、私たちも私自身をささげていきたいと思うのです。
Ⅲ結論部
ザアカイの生涯は、お金を儲けること、お金を貯めることが生きがいでした。ですから、お金のためなら何でもしたのです。その彼が、全財産の半分を貧しい人々に施す。不正をしていたら4倍にして返す、という驚きの告白をしました。それはお金よりももっと大切なものを見いだしたからです。お金には変えられない、素晴らしいものを得たからなのです。それからのザアカイは、貧しい生涯だったかも知れません。けれども、幸せな生涯でした。神様と共に歩む人生、お金ではなく神様に信頼していく人生、神様が導かれる人生、神様の業を体験する人生、神様の恵みに応答する人生へと変えられたのです。
私たちはどうでしょうか。まだ見えるものにのみ頼っている人生でしょうか。経済的な必要が満たされない。病が癒されない。物事がうまくいかない。人間関係の糸がからみすぎてうまくいかない、と嘆いていませんか。神様は、イエス様は、経済的な必要が満たされないということの中に、必要なものを示そうとしておられるのです。病が癒されないということの中に、神様のみこころがあるのです。人間関係の困難さに神様のくすしきみ業があるのだと思うのです。たとえ見えるところがどうであろうと神様は、そのことをプラスに祝福に変えて下さるのです。み子イエス・キリスト様を私たち一人ひとりのためにささげて下さったように、私たちの人生を、神様と共にある人生を祝福して下さるのです。
私たちが小さい、少ないと思っても神様は誰よりも多く入れたと見てくださるのです。やもめの献金、2レプトンは、1クァドランスは、156円は人間の目には何の評価もされないような小さなものです。誰の目にも留まらないようなものでしょう。しかし、イエス様の目には、神様の目には、この人間の世界で、見向きもされないような存在、小さな私に、あなたに目を留めて、尊い者と見て下さるのです。小さな信仰を認めて下さるのです。小さなささげものを誰よりも多くささげたと評価して下さるのです。私たちはイエス様の十字架の愛と恵みに答えて、喜びと感謝をもって精一杯のささげものをしたいと思います。精一杯に奉仕をしたいと思います。いちばん大切な神様の救い、恵みを与えられた者として、私自身を思い切ってささげていきたいと思うのです。