江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

2月24日 礼拝メッセージ

2008-02-25 22:01:15 | Weblog
主日礼拝(受難節第三主日)       2008.2.24
            「いちばん大切なもの」 マルコ12:41-44

 Ⅰ導入部
おはようございます。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2月の第四主日、受難節の第三主日の礼拝を迎えました。
2008年も1月が行き、2月も逃げていきます。春ももうそこまで来ているように思います。
昨日は、ユーオディオ結成20周年の讃美集会がありました。演奏と讃美とても恵まれたコンサートでした。柳瀬佐和子姉が作曲された「あしあと」の演奏と讃美の時、神様の愛と恵みに満たされて、
「神様の愛されている」ことの喜びを深く感じました。参加された方々もおられると思いますが、同じように神様に愛されていることの素晴らしさに深く感動されたのではないでしょうか。
 今年は特にナザレン教団の教職の方々も多く来られていました。私の隣は石田先生ご夫妻でした。ユーオディアとナザレン教団は、三軒茶屋教会の地下室をユーオディアへお貸しする契約を正式に結び、これからナザレン教団のいろいろな集会へ参加して下さるのだと思います。続けてユーオディアの働きのため、柳瀬兄弟姉妹の働きのために祈り、献げていきたいと思います。
 さて、今日のメッセージの聖書の箇所は、マルコによる福音書12章41節から44節です。やもめの小さな献金、精一杯の献金、信仰の伴った献金を通して、「いちばん大切なもの」と題してお話したいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈人に見せる献金
今日の聖書の箇所は、ナザレン教団の教案誌「希望」の来週のメッセージ箇所、マルコ14:41-44と平行箇所の(ルカ21:1-4)となっています。成人科の方々は、来週もう一度この箇所から学ぶことになります。
マルコによる福音書12章40節を共に読みましょう。「また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受ける。」 38節からは、イエス様は律法学者、宗教者たちの見せかけの態度ややもめの家、貧しい者、弱い者を食い物にしていると非難しています。本来、神様の愛と恵みを語り、弱い者、貧しい者を励まし、助けるべき者たちが、見せかけの信仰、実のない信仰であると厳しくイエス様は語られました。イエス様は特に、社会的に最も弱い立場にある女性、やもめに対する愛情を持っておられたようです。希望誌では、久保木先生が、それは、イエス様の母マリアが夫ヨセフを早くに亡くして、やもめであったためであると語っておられます。
41節を共に読みましょう。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちたちがたくさん入れていた。」 詳訳聖書には、「イエスは、さいせん箱の反対側にすわって、群衆がさいせん箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちたちが多額の金を投げ入れていた。」とあります。 エルサレムの神殿には、聖所を中心に祭司の庭、イスラエルの男子の庭、婦人の庭、異邦人の庭がありました。異邦人の庭と婦人の庭の境にある美しの門を入った所には、ラッパ形の13個の献金箱(賽銭箱)が置かれていたようです。そこに皆、献金を献げたのです。使徒言行録3章には、美しの門の所に置かれた男性が物乞いをしている箇所がありますが、それはちょうどこの場所で、皆が献金をささげる所だったのです。そこに、金持ちたちが金を入れたわけですが、詳訳聖書では「金を投げ入れる。投げ入れた。」とあります。金持ちというのは、祭司長であり、律法学者であり、長老たちでしょう。彼らの献金は、人に見せるためのものでした。
イエス様は、次のような ことを語られたことがあります。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたがたは、施しをするときには、偽善者たちが人にほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイ6:1-4) 
律法学者やファリサイ派の人々は、自分がこんなにたくさん献げているとラッパを鳴らすように、目立つように、見せるようにするので、神様からの報いを得られないとイエス様は言われたのです。
私たちは、献金に対して、奉仕に対して、愛に対してどのような献げかたをしているでしょうか。人に見せるためですか。自分の行いを通して称賛を得るためですか。人にですか。神様にですか。
イエス様は、群衆が賽銭箱に金を入れるのを見ておられた、とありますから、私たちがどのように献げているのかを見ておられるのです。人ではなく神様、イエス様を気にしたいと思います。


⒉イエス様の目
42、43節を共に読みましょう。「ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」」 詳訳聖書には、「そこに貧乏にあえいでいるやもめがやって来て、銅貨(最少額の貨幣)二枚を入れた。これは両方合わせて一コドラントに当る。イエスは弟子たちをみもとに呼び寄せて言われた、「真実(確かに)私はあなたがたに言う。このやもめは、貧乏にあえいでいるのだが、(彼女は)さいせん箱に入れたほかのだれよりも多く入れた。」」とあります。
この婦人は、レプトン銅貨二枚をささげました。1デナリオンは128レプトン、64クァドランスにあたるようです。1デナリオンを1万円とすると1レプトンは78円になります。2レプトンは156円で、1クァドランスは156円です。律法学者や祭司長たちは、1万円、5万円、10万円を見せびらかすように、賽銭箱(献金箱)に投げ入れました。けれども、貧しいやもめは、156円をささげました。コンビニのおにぎり1個の額でしょう。100円のおにぎりよりもちょっといいおにぎりが食べられます。
 榎本保郎先生は、マルコ12章41節から44節の平行箇所のルカによる福音書21章1節から4節の1日1章で、次のように書いておられます。「ある人が献金の大きさはささげた額ではなく、残した額によって決まるのであると言ったが、大きな教訓を与える言葉だと思う。この寡婦は生活費全部をささげたのだから、残るものは全くない。だからこれほど大きいものはない。そこでイエスは、神の前に「誰よりもたくさん入れたのだ」と言われたのである。 献金は、神への感謝のしるしであり、その感謝は、神に対する信頼から起きてくる感謝でなければならない。いかに敬虔な思いを持ってささげても、信仰の伴わない献金は、どぶへ捨てるようなものである。この寡婦の献金は、全生活が神に支えられているという彼女の信仰告白であったから尊い。 確かに献金はささげた額によらず、残した額によるとは真実であるが、そうすると人間の善行というか、わざによって神が喜ばれたり、喜ばれなかったりするように思われてくる。イエスがここで大切なこととして教えようとされたもう一つのことは、金持ちは投げ入れ、女は入れと書かれているところにある。つまり、金持ちはこれ見よがしに人前にささげたというか、人に誇ってささげた。それに対してレプタ二つをささげた寡婦は、こっそりとささげたという面があるのではないかと思う。」
 金持ちたちは、人に見てもらおうとして、人前で献金し、ラッパを吹き鳴らして献金し、右手のすることを左手に知らせるようにして献金しました。それに比べて、貧しいやもめ女は神様の前に献金し、人に知られないようにそっと献金し、右手のすることを左手に知らせないように献金したのです。
 この婦人の行為、心からの献金に対してイエス様は、わざわざ弟子たちを呼び寄せて言われたのです。ここで、この婦人の行為を、姿勢を、信仰を示さずにはおれなかったのです。この婦人の行為に尊いものを見られたのです。この婦人の献金は誰よりも多い。弟子たちの考え、見方は表面に現れている数を見るということでした。5千人の男の人を養うには200デナリオンのパンがあっても無理。
ですから、金持ちが多く捧げることに対して、「すごいな~。たくさん献金してるな!」という見方だったと思います。けれども、イエス様は、見せ掛け、見えるものではなく、見えないもの、形には表れない姿勢、信仰を問われたのです。156円をささげたこのやもめの女は、他に何万円をささげた人よりも多く入れた。計算では出てこない答えでした。
 私たちは、弟子たちのように目に見えるもの目を奪われていませんか。頭で計算できる事しか信頼していませんか。イエス様の見方は、神様の捕らえ方は違うのです。

 ⒊恵みに対する応答として
 44節を共に読みましょう。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」  彼女の持てる全ては、2レプトン、1クァドランス、156円でした。それなのに全部ささげました。半分の1レプトン、2分の1クァドランス、78円でも良かったのではないでしょうか。 78円では何も買えない。今はそうでしょう。
 私が小学生の頃だったでしょうか。10円でたこやきが10個食べられました。10円焼きというお好み焼きが1枚食べられました。ロケットパンが10円で1本食べられたのです。ですから、時代的なことを配慮に入れると78円でも十分食べられたのです。156円あるともう十分食べられました。半分の78円でも残しておくと生活には助かったはずなのです。それなのに彼女は生活費全部をささげたのです。
 希望誌の中高科では土肥千保先生が、「生活費をすべて献げたこの貧しいやもめは、自分の生きる根拠を、お金にではなく神に見いだしていたのである。生活費のすべてを献げたとは、お金に頼っている者には見いだせないであろう、計り知れない感謝に生きていたがゆえであり、自分自身を献げきったしるしである。」と書いておられました。 聖書には、「貧しいやもめ」とあります。貧しいということは辛いことでしょう。苦労が多くあるでしょう。多くの必要が満たされるようにと祈ったことでしょう。満たされないままだったでしょう。貧しさは相変わらずでした。子どももいたかも知れません。生活費ですから、他にも使い道がいくらでもあったでしょう。けれども、彼女はすべてを神様にささげたのです。ささげたかったのです。ささげずにはおれなかったのです。神様の大きな恵みに対する応答だったでしょう。
 イエス様が十字架につけられる前に、ベタニアのマリアはイエス様の足に高価な香油を塗り、自分の髪の毛でぬぐいました。イエス様の弟子たちは、「何と言う無駄使いだ。300万円で売れるような高価な香油なのに。それを貧しい人々に施せ!」と文句を言いました。300万円という高価な香油です。しかし、マリアは兄弟のラザロを死からよみがえらせて下さったイエス様の愛と恵みに応答してささげました。本当ならもっともっとささげたい。これ以上に高価なものがあればそれをささげたいと思ったでしょう。イエス様の大きな恵みに対して喜んでささげたのです。
 2レプトン、1クァドランス、156円をささげたやもめ女は、額が少ないから全部ささげられたのでしょうか。そうではないと思います。
1万円あったら1万円ささげたでしょう。5万円あったら5万円ささげたでしょう。100万円あったら100万円を全部ささげたのだと思うのです。神様の愛に対して、神様の恵みに対して全てをささげたのです。イエス様はそのことを知っておられたのでしょう。だからこそ、「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言われたのだと思うのです。
今日のメッセージは、だから私たちも何も残さず全てを捧げましょう、と言うのではありません。
「皆さん、今日の献金では財布ごと全部入れて下さい。」ということを入っているのではありませんし、言うつもりもありません。私たちは大きな神様の愛と恵み、憐れみと赦し、癒しに対してどのような応答をしているでしょうか、ということなのです。
 神様は私たち一人ひとりを愛しておられます。だからこそ、私たちを罪から救うためにイエス・キリスト様をこの地上に送り、私たちの身代わりに十字架にかかって苦しみの極みを経験され、神様に裁かれ、身代わりに死んで下さったのです。そのことによって私の罪が赦されたのです。神様の大きな大きな愛と恵みをいただいたのです。その大きな愛と恵みに私たちはどのようにお答えしているのでしょうか。私たちは献金もしたいです。奉仕もしたいです。時間もささげたいです。しかし、何よりも神であるきよいお方、イエス様が御自分の体を張って私たちを罪から解放して下さったのですから、私たちも私自身をささげていきたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 ザアカイの生涯は、お金を儲けること、お金を貯めることが生きがいでした。ですから、お金のためなら何でもしたのです。その彼が、全財産の半分を貧しい人々に施す。不正をしていたら4倍にして返す、という驚きの告白をしました。それはお金よりももっと大切なものを見いだしたからです。お金には変えられない、素晴らしいものを得たからなのです。それからのザアカイは、貧しい生涯だったかも知れません。けれども、幸せな生涯でした。神様と共に歩む人生、お金ではなく神様に信頼していく人生、神様が導かれる人生、神様の業を体験する人生、神様の恵みに応答する人生へと変えられたのです。
 私たちはどうでしょうか。まだ見えるものにのみ頼っている人生でしょうか。経済的な必要が満たされない。病が癒されない。物事がうまくいかない。人間関係の糸がからみすぎてうまくいかない、と嘆いていませんか。神様は、イエス様は、経済的な必要が満たされないということの中に、必要なものを示そうとしておられるのです。病が癒されないということの中に、神様のみこころがあるのです。人間関係の困難さに神様のくすしきみ業があるのだと思うのです。たとえ見えるところがどうであろうと神様は、そのことをプラスに祝福に変えて下さるのです。み子イエス・キリスト様を私たち一人ひとりのためにささげて下さったように、私たちの人生を、神様と共にある人生を祝福して下さるのです。
 私たちが小さい、少ないと思っても神様は誰よりも多く入れたと見てくださるのです。やもめの献金、2レプトンは、1クァドランスは、156円は人間の目には何の評価もされないような小さなものです。誰の目にも留まらないようなものでしょう。しかし、イエス様の目には、神様の目には、この人間の世界で、見向きもされないような存在、小さな私に、あなたに目を留めて、尊い者と見て下さるのです。小さな信仰を認めて下さるのです。小さなささげものを誰よりも多くささげたと評価して下さるのです。私たちはイエス様の十字架の愛と恵みに答えて、喜びと感謝をもって精一杯のささげものをしたいと思います。精一杯に奉仕をしたいと思います。いちばん大切な神様の救い、恵みを与えられた者として、私自身を思い切ってささげていきたいと思うのです。
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2月17日 礼拝メッセージ

2008-02-19 10:17:22 | Weblog
            主日礼拝(受難節第二主日)       2008.2.17
               「十字架の愛に答えて」 マルコ12:1-12

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。先週、先々週と雪が積りまして、礼拝に出席できなかった方々が多くおられるのだと思います。今日は、共に礼拝することができましたことを感謝します。
 先週、イエス様のエルサレム入城でロバの子のお話しをしました。イエス様を背中にお乗せしたので、ロバの背中には十字架があるので、動物園で見てくださいとお勧めしましたが、早速動物園へ行かれた方がおられました。ズーラシア動物園のロバの背中は、縦の線ははっきししているようですが、横の線が見にくいようです。ですから、ズーラシア動物園はさけて、他の動物園でロバの背中を見ていただけると良いのかも知れません。
 今日は、マルコによる福音書12章1節から12節を通して、「十字架の愛に答えて」という題で、お話したいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈誰かのために
イエス様は、ぶどう園の主人と農夫たちの譬の話をされました。1節を見るとこの主人は、「ぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て、」とあるように、農夫たちが働きやすいように、また利益をあげられるように。施設を整えたのです。垣を巡らしたのは、ぶどう畑を荒らす猪や、ぶどうを盗む泥棒を防ぐためのものでした。搾り場を掘るとは、できたぶどうを搾り、ぶどう汁を作るもので、前の訳では酒ぶねと訳されています。見張りやぐらは、ぶどうが熟する頃に、泥棒の見張りをするためと、ぶどう園で働く農夫の宿泊所でありました。
 この主人は、農夫たちのために働きやすい環境、休むべき所を準備して農夫たちの仕事がやりやすいように整えて旅に出ました。勉強でも、仕事でも環境が整っているということは大切な事です。勿論、環境だけが整えば全てがうまく行くというわけではありません。けれども、ぶどう園の主人が農夫のために環境を整えた、というのは、ただ仕事が効率的にいけば良いというだけではなく、農夫に対する主人の愛の心、寛大さがそこにはありました。
 中高生の皆さんは、勉強をするのが仕事、すべきことだと思います。そのために親が環境を整えたり、いろいろと世話をしたり、考えたりしてくれていることに対して感謝の心はありますか。「余計なお世話だ!」と文句を言っていませんか。「友達はもっと良い環境だ!」と自分の与えられた環境を見て、環境のせいにして勉強をしていない、ということはないでしょうか。環境のせい、人のせいにする人は大人になっても同じように、自分の環境と周りにいる人に対して感謝することはできません。今、与えられている環境が十分ではなくても、自分のためを思って、いろいろと考えて準備してくれる人がいることを感謝できたらいいと思います。
 神様は、私たちの人生に責任を持っていて下さいます。私たちの人生を導いておられます。このぶどう園の主人のように、農夫たちが働きやすいように環境を整えたように、私たちが神様に従って導かれるように整えて下さるのです。私たちの成長のために、大切な人々を周りに置いておられるのです。
 星野富広さんの詩で、「遭いたい」という詩があります。
「遠くて見えないのですか 近すぎて見えないのですか 小さくて見えないのです か 大きすぎて見えないのですか どうしたら どこへ行ったら あなたに遭え ますか」 自分の愛する人でしょうか。イエス様でしょうか。なかなか見えない。遭えない。遠いからか、近すぎだからか、小さいからか、大きすぎてか、遭えない。見えないのです。側にいるのに見えないとしたら、見るべきものを見ていないからでしょうか。神様は私たちの側に、近くに大切な人を備えておられるのではないでしょうか。
 ぶどう園の主人は、農夫たちのことを考えて備えて、農夫たちにぶどう園を任せました。経営の全てを農夫たちに任せたのです。信頼したのです。神様は、私たちの人生を私たちの意志に任せられました。どのような人生を歩むべきか。どのような方向に進むべきかをあなたを信頼してゆだねられたのです。皆さんは、自分の人生だから、自分勝手に歩んでよいと考えていますか。そこには、神様の守りと導きがあるのです。神様の守りと助けなしに生きていける人はいないのです。神様は、あなたの人生を、あなたを信頼して、あなたに任せておられるのです。神様の喜ばれる人生はどのような人生でしょうか。そのことを頭の隅っこでいいですから、忘れないでいたいと思うのです。

 ⒉私たちの罪深さ
 2節を共に読みましょう。「収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送った。」 ぶどう園の主人にとってはぶどうの収穫、最高のぶどう酒を得るということが大きな喜びでした。「ぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」た努力と苦労は、収穫によって喜びに変えられるのです。ですから、大きな期待をもって僕を送りました。どれだけ多くの収穫ができたのかが楽しみでした。喜びでした。3節を共に読みましょう。「だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。」 何と言うことでしょうか。
 ぶどうの収穫、ぶどう酒の出来上がりに大きな期待を持って送った僕たちは、何も持たないで帰ってきたのです。しかも、怪我をして帰ってきました。何が起きたのかと主人は考えたでしょう。 4節、5節を共に読みましょう。「そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。その他に多くの僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。」 どうですか? ぶどう園の主人は、農夫たちのために準備して、至れり尽くせりで彼らが働きやすいように、宿泊する場所も備えていたのに、最も喜びの収穫の時期になって、その収穫を得ようとしたら、農夫たちが主人から送られた僕たちを殴ったり、殺したりしたのです。
 この主人はなんと忍耐深いのでしょうか。最初は一人、二人と送った僕たちが暴力を受け、殺されてしまうという状況にもなお、僕を送り続けました。何人も何人も送ったのです。この農夫たちは、この主人の愛や忍耐にはふさわしくない人々でした。何度も何度も送りながら、僕たちは傷つき、命を落としていったのです。それでおも、なお農夫たちを信じて僕を送り続けたのでした。この主人の姿は神様の姿です。農夫たちはユダヤ人、送られた僕たちは預言者を指し示しています。神様はユダヤ人に多くの預言者を遣わして、悔い改めに導こうとしましたが、ユダヤ人は預言者を傷つけ、殺したのです。この農夫たちは、私たちの姿でもあるように思います。もしかしたら、神様は人を通し、聖書の言葉を通して、いろいろな出来事を通して神様に目を向けるように、神様に立ち返るようにと導いておられるのに、それを無視し続けているということはないでしょうか。罪を犯し続けているということはないでしょうか。神様はあなたが罪を犯し続けていようとも、何度も何度も僕を送られたように、忍耐しておられるのです。そして、十字架を指し示しておられるのです。
 6節から8節まで共に読みましょう。「まだ一人、愛する息子がいた。「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。「これは跡取りだ。さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」そして、息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出してしまった。」 ぶどう園の主人は、自分の愛する息子なら、僕と違って敬ってくれる。ちゃんと収穫を渡してくれると期待して愛するわが子を、この悪い農夫たちの所に送ったのです。ところが、農夫たちは主人の心とは正反対に、「主人の息子である跡取りを殺したら、ぶどう園も収穫も自分たちのものになる」とこの息子を捕まえて殺し、ぶどう園の外にほうり出しました。なんとむごいことでしょうか。    9節を共に読みましょう。「さて、このぶどう園の主人は、どうするだろうか。戻って来て農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」この箇所の平行箇所であるマタイによる福音書には、祭司長や民の長老たちにイエス様が尋ねます。「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか。」(マタイ21:40) 祭司長や民の長老たちは答えます。「彼らは言った。「その悪人どもをひどい目に遭わせて殺し、ぶどう園は、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに貸すに違いない。」」(マタイ21:41) 同じ並行箇所のルカによる福音書20章16節には、「彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません。」と言った。」とあります。 まさにこのことは、神様が一人息子のイエス様をこの地上に送られましたが、ユダヤの祭司や長老たちは、イエス様を十字架につけて殺してしまうということを指し示しているのです。

 ⒊捨てられたものが豊かに用いられる
 10節、11節を共に読みましょう。「聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのか。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。」」 この言葉は、旧約聖書の詩篇118編22節、23節の引用です。詩篇にはこうあります。「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、わたしたちの目には驚くべきこと。」 マルコによる福音書12章10節、11節をリビングバイブルにはこうあります。「あなたがたは聖書にこう書いてあるのを読んだことがないのですか。「建築士たちの捨てた石が最も重要な土台石となった。なんとすばらしいことか。主はなんと驚くべきことをなさる方か。」 この言葉は、家を建てる者が捨てた石が建物の中で最も大事な石となったということです。ユダヤでは、石で家を造るようですが、その時に、役に立つ石と役に立たない石とが分けられ、役に立たない石は捨てられるのです。ところが、役に立たないと思われた石が、建物の四隅の一番大切な土台石となったというのです。この言葉は本来イスラエル民族を指していました。イスラエル民族は、侮辱され、排斥されました、ユダヤ人は全ての人から嫌われました。また、多くの国民の僕となり、奴隷ともなりました。それにもかかわらず、イスラエル民族は神の選民でありました。イエス・キリスト様は、父なる神様から遣わされて人間の世界に来られました。けれども、人々はイエス・キリスト様を拒み、退け、ついには十字架にかけて殺しました。けれども、イエス・キリスト様はよみがえり、神であることを証明されました。
 人々が自分の欲とメンツのために、殺したイエス・キリスト様は、全世界の救い主となられたのです。私たち人間が生まれながらに引き継いでいる罪の性質、罪の奴隷である私たちを、神であるお方、罪のないお方が、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。そのことによって、罪が赦されて神様の前に義とされたのです。罪多い者にもかかわらず、イエス・キリスト様の十字架での身代わりに死によって、罪赦されて神様と共に生きるものとされたのです。
 多くの人々に捨てられ、さげすまれたイエス・キリスト様によって、私たちは救われたのです。この方以外に私たちを救うお方はいないのです。
 榎本保郎先生は、この箇所の新約聖書一日一章で次のように書いておられます。「ここに、私たちの人生、信仰は神からの借り物であることが教えられている。イスラエルの民が神に愛された選民であることは神の大きな信頼を受けているということである。同様に、私たちキリスト信者にも神の大きな期待が寄せられているのである。それだけに私たちは神から問われなければならない存在である。他の人たちより先にイエス・キリストを知り、神の愛を知らされた者は、十字架の愛にこたえてどのように生きているかという厳しい問いを受ける。神の愛を知った者とそうでない者とには、そこに大きな違いがあり、キリスト信者には大きな責任があると思う。私たちは他の人と比べて、これだけしたからと考えるのはまちがっている。私たちの信仰生活は神からの借り物であって、私のものではない。生命を私物化してはならない。イスラエルの人々がそれを私物化し、神からの問いを否定し、抹殺しようとしたのがイエスの十字架である。それをイエスは指摘されたのである。」
 私たちはイエス様を信じるということで、クリスチャンであるという理由で、聖書の言葉に従って生きようとすることによって、人から無視されたり、意地悪をされたり、軽蔑されたり、バカにされるということを経験するかも知れません。人やグループから捨てられるような経験をするかも知れません。イエス様も見捨てられました。そのことを覚えたいと思います。そして、捨てられた石が最とも大切なお方として、人類の救い主となられたように、私たちもクラスの中で、クラブ活動の中で、仕事場で、いろいろなグループの中で、最も尊い存在、最も重い存在として神様に用いられるようになるのです。そのことを忘れてはならないのです。

 Ⅲ結論部
 ぶどう園の主人は、今までの多くの僕を送りながら、彼らが殴られたり殺されたりしているのに、自分の息子を送っても殺されると予想しなかったのでしょうか。予想できたでしょう。けれども、自分の最愛の息子を送ったのです。殺されると知りながらも・・・。このぶどう園の主人は、神様のことを指しています。神様はイエス様をユダヤ人の中、人間の世界に送れば殺されるとわかっていたでしょう。いや、人間の罪からの救いのために、十字架で殺すために私たちの世界に送られたのです。イエス様は、私たちを罪から救うために、死ぬために来て下さったのです。神でありながら、罪を知らないお方でありながら、あの農夫のように自己中心で、罪を犯し続ける私たちのために、身代わりに死ぬために、神であるお方が人間の姿となって来て下さったのです。それは、私を愛し、あなたを愛しておられるからなのです。
 コリントの信徒への第一の手紙13章は「愛の章」と言われています。4節から7節までリビングバイブルでは次のように記しています。「愛はきわめて忍耐強く、親切です。愛は決してねたみません。また、決して自慢せず、高慢になりません。決して思い上がらず、自分の利益を求めず、無礼なふるまいをしません。愛は自分のやり方を押し通そうとはしません。また、いらいらせず、腹を立てません。人に恨みをいだかず、人から悪いことをされても、気にしません。決して不正を喜ばず、真理が勝つ時は、いつも喜びます。だれかを愛する人は、どんな犠牲をはらっても、誠実であろうとするでしょう。また、いつもその人を信じ、その人に最善を期待し、いのちがけで、その人を守り抜くでしょう。」
 最後に、「いつもその人を信じ、その人に最善を期待し、いのちがけで、その人を守り抜くでしょう。」とあります。ぶどう園の主人は、何度も何度も僕を送りました。そして、愛する息子をも送ったのです。それは、農夫たちに最善を期待し、愛する息子の命さえゆだねたのです。
 神様は、私たちを信じておられます。そして最善を期待しておられます。すでに、イエス様のその命をかけて私たちを罪から守って下さったのです。この神様の愛に、十字架の愛にこたえて信仰生活を歩ませていただきたいと思います。神様の日々応答するためにも、この週も聖書の言葉にふれ続けて、神様との深い交わりと祈りの生活をさせていただきたいと思うのです。
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2月10日 礼拝メッセージ

2008-02-13 19:01:12 | Weblog
            主日礼拝(受難節第一主日)       2008.2.10
               「あなたが必要です」 マルコ11:1-11

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。先週は、雪が積り多くの方々が礼拝に来ることができませんでした。雪の中を苦労しながら来られた方々の信仰の姿勢を見せていただきとても励まされました。また、ギデオンのために尊い献金を感謝致します。休んでいた方々の分以上に多くの献金がささげられたとお聞きしました。礼拝出席者が少ないので献金の事も心配しましたが、神様は驚くべきみ業を見せて下さいました。少ないという現実が、私たちの信仰を奮い立たせたのです。感謝です。
 今日は、受難節第一主日を迎えました。2月の6日の灰の水曜日に始まり、今日を含めて6回の日曜日を除いての40日後の3月23日がイースターです。受難節の期間、得にイエス様の苦しみを覚えながら過ごさせていただきたいと思います。
昨年の受難節はローマの信徒への手紙が続いておりましたので、福音書からのテキストは選びませんでした。今年は、マルコによる福音書を通して、受難週の記事の中からお話しさせていただきたいと考えております。
 今日は、マルコによる福音書11章1節から11節を通して、「あなたが必要です」という題でお話しさせていただきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 ⒈まだ用いられていないとするならば・・・
 イエス様と弟子たちは、エルサレムに近づきました。エルサレムには何のために来られたのでしょうか。それは、イエス様が十字架につくためです。一行はエルサレムに近いベトファゲとベタニアにやって来ました。ベトファゲは、イチジクの家、ベタニアはナツメヤシの家という意味があるようです。ベトファゲという村は、律法で決められていた安息日にできる旅行の範囲内にあった村でした。エルサレムからは1.6キロ以内の距離にあったのです。ベタニアの村は、過越しの祭りで巡礼者がエルサレムでいっぱいになった時の公認の宿泊所のひとつでありました。イエス様は、ベトファゲとベタニアの村に差し掛かった時に、二人の弟子を使いに出したのです。 2節を共に読みましょう。「言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのを見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」」 イエス様は御自分がエルサレムに入城するために子ろばを選ばれました。しかも「まだだれも乗ったことのない子ろば」を選ばれたのです。 
 聖書を見ますと、神様の働きのために、つまり聖なる目的のために用いられた動物は、どのような動物であっても、他の目的のために用いられたものであってはならなかったのです。民数記の19章2節には、「主の命じる教えの規定は次の通りである。イスラエルの人々に告げて、まだ背にくびきを負ったことがなく、無傷で、欠陥のない赤毛の雌牛を連れて来させなさい。」とあります。「まだ背にくびきを負ったことがなく」とありますから、誰も乗ったことがない、つまりまだ他の目的のために使われていない、ということでしょう。
 この子ろばは、まだ小さいからでしょうか、弱いからでしょうか。荷物も運べないし、人も乗せられないからでしょうか。大人のろばが働いている間、つながれていたのでしょう。その子ろばをイエス様は、用いられたのです。マタイによる福音書の並行記事を見ますと、「ろばがつないであり、一緒に子ろばがいるのが見つかる。それをほどいて、わたしのところに引いて来なさい。」(マタイ21:2)とあります。イエス様はどりらに乗られたのかというと子ろばに乗られました。このろばは子ろばの母親のようです。この母親ろばの方が、大きくて、人を乗せるのに慣れていてしっかりしているのに、子ろばに乗られました。それは、やはりまだ他の目的のために用いられたことのない、聖なる目的のためには子ろばでなくてはならなかったのです。また、イエス様のエルサレム入城については預言されていました。マルコによる福音書にはありませんが、マタイにはその預言の言葉が記されています。
 その預言はゼカリヤ書9章9節の言葉です。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」 すでに預言されていたことなので、イエス様は子ろばに乗られたでしょうが、それだけではなかったのだと思います。まだ誰も乗ったことのないろばは他にもいたでしょう。他の目的のために用いられていない子ろばも他にいたことでしょう。けれども、イエス様は「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのを見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。」とこの子ろばを使命なさったのです。
 私たちは、何もできない者だと自分のことを思うことがあるでしょう。だから、何もしていないということもあるでしょう。あなたがもし、何もしていないというならば、聖書の立場に立つと、まだ他の目的のために用いられていないということです。つまり、取り分けられたもの、聖なるものなのです。だからこそ、この子ろばのように神様の大切な御用のために用いられるのかも知れないのです。
そのために、今までとって置かれたのではないでしょうか。

 ⒉主が共にいる限り
 二人の弟子は、イエス様の言葉に従って向こうの村に行きました。そして、イエス様の言った通りに子ろばがつないであったので、子ろばをほどきました。すると、そこに居合わせた人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか。」と言いました。イエス様はこのような時のために、語るべきことを弟子たちに与えておられました。 3節を共に読みましょう。「もし、だれかが、「なぜ、そんなことをするのか」と言ったら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。」そのように言うと、許してくれたのです。弟子たちは、その子ろばをイエス様の所に連れて来たのです。そして、自分たちの上着を子ろばの背中にかけるとイエス様は子ろばに乗られました。多くの人々は、自分たちの服を道に敷き、また他の人々は葉のついた枝を道に敷いたのです。みんなはイエス様のエルサレム入城を歓迎しました。 9節、10節を共に読みましょう。「そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福あるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」」 熱烈な歓迎でした。ホサナとは、「主よ、救いたまえ」という意味があるようです。 群衆は「主よ、救いたまえ。主よ、救いたまえ」と叫んだのです。
エルサレム入城のために選ばれ、用いられた子ろばは、町中の人々が上着を脱いで地面にじゅうたんを作ってくれたのでびっくりしたのではないでしょうか。自分はいつの間にか、こんなに歓迎される有名なろばになったのか。鼻高々でした。しかし、これは誤解でした。錯覚でした。群衆は、誰もがイエス様をお乗せしている子ろばを歓迎したのではありませんでした。子ろばがイエス様を背中にお乗せしているからこそ、この小さな、平凡なろばも歓迎されたのです。このような誤解があるように思います。そこに集まっている人々が、自分に手を振っている歓迎していてくれると思ったら、自分の後ろに有名人がいたというようなことはあるのかも知れません。この子ろばは、イエス様を背中にお乗せしている限り、歓迎されるのです。イエス様をお乗せしている子ろばが、素晴らしいのではなく、子ろばに乗られているイエス様こそ、素晴らしい歓迎されるべきお方なのです。
 私たちは祈らないと凡人だけど、祈るようになると別人になるのかも知れません。イエス様が共におられるからです。私たちも子ろばのように、イエス様をお乗せしないと凡人ですが、イエス様をお乗せしてお運びすると別人になると、大川先生がメッセージで語っておられました。
 私たちは、奉仕でも何でもそうですが、いつの間にか、奉仕している自分が、頑張っている自分が偉い者のように勘違いしていることがあるように思います。奉仕を与えていて下さるイエス様、奉仕ができるように導いておられるイエス様、このお方が共におられるからこそ、守られているのです。
 あのサムソンのように、神様が離れてしまったならば、怪力サムソンではなく、ただの弱い人間なのです。私たちに与えられている成功や祝福も、私の何かではなく、神様の恵み、主が共にいて祝福しておられるということを忘れてはならないのです。イエス様が共におられ、祝福していて下さるから今の私があるのです。

 ⒊主のくびきを負おう
 イエス様は、エルサレム入城のためには、あえて小さな、弱い子ろばをお選びになりました。どうせ、エルサレムに入城するならば、馬に乗って入城する方がかっこいいでしょう。馬がなければ、歩いた方がよっぽどいいかも知れません。あえて、子ろばを選ばれたのは何故でしょうか。転ば(子ろば)ないようにでしょうか。イエス様は、子ろばを選び、子ろばに乗ってエルサレムに入城されたのです。イエス様は、未熟な、経験不足な子ろばをあえて選び用いられたのです。
 この世では、経験ある者が用いられます。経験のない者や未熟な者はテストで落とされます。けれども、神様は、イエス様は、勿論、経験ある者をも用いますが、未熟な者をあえて選び用いられるのです。
 教会の掲示板に、2008年度の奉仕者の確認ですか。奉仕のお願いの表が貼ってあります。特に礼拝では、第一、第二礼拝となって、礼拝の奉仕者を選ぶのに大変ご苦労されておられるようです。ぜひ、皆さん、礼拝での奉仕をお願いします。礼拝は受けるだけではなく、ささげるものです。「献金をささげています」と言う方もいるでしょう。献金だけでなく、祈りも、自分自身もささげたいと思います。祈りができないと敬遠する方々が多くおられると聞いています。普段祈っておられる方ならば祈れます。人前では上がるという人は、神に書いて読めばいいのです。献金の祈りも神に書いて読めばいいのです。
 先週の役員会では、青葉台教会は私たちの教会、私の教会という意識を持ちましょう、と話し合いました。もし、礼拝で一度も奉仕をしたことがないという方々は、子ろばのように用いられる器でしょう。掃除や食事の奉仕も月一度のローテーションで奉仕しておられますが、三ヶ月に一度でも、半年に一度でもできる方はしていただきたいと思います。土曜日の奉仕が中心ですが、他の曜日ならできるという方々は、ぜひお願いします。私たちの教会は、私たちで協力して支えていきたいと思います。もう、経験がないとか、未熟だからという理由で奉仕は断れませんね。経験のない、未熟な子ろばが豊かに用いられました。私は、未熟でも、経験が浅くても神様に選ばれ、豊かに用いらえることを覚えていてほしいと思います。
 イエス様は、預言の言葉の通りに、「高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。」来られました。平和の君として来られたのです。マタイによる福音書11章28節、29節には、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」とあります。 来るべき方は、王として征服者として来られたのではありません。
 「ホサナ、ホサナ、主よ、救いたまえ」と叫んだ群衆は、政治的な王、自分たちを解放してくれる王を待ち望んでいました。けれども、来るべきお方は、平和を象徴するろば、しかも子ろばに乗って入城されました。柔和で、謙遜な王、全ての人の魂に安らぎを与えるお方として来られたのです。
 私たちの罪のために、十字架に身代わりについて、私たちの罪の裁きを御自分の身に負われたのです。あの重い十字架を背負いながら、ゴルゴタへの道を歩かれたのです。私たちが負うべき十字架をイエス様が負い、私たちが受けるべき罰をイエス様が受け、私たちが死んで裁かれるはずなのに、神であり、罪のないお方が、死んで下さったのです。この十字架の恵みによって、私たちの全ての罪が赦されたのです。私たちは、イエス様のゆえに生かされているのです。

 Ⅲ結論部
 イエス様は、子ろばをほどいたら、人々に何のためにそうするのかと問われたら、「主がお入用なのです。」と答えるようにと言われました。そうです。主が用いられるのです。主の働きのために使われるのです。
 あの子ろばは、「主がお入用なのです。」と言われた時、「私は未熟者です。経験がありません。他の人を使って下さい。」と言い訳せずに、黙々と従いました。私たちの側にはいろいろな事情があります。
課題もあるでしょう。けれども、課題がなくなったら、問題が解決したら、あなたが十分に整えられたら、「主がお入用なのです。」と言われるのではありません。問題をかかえながらの、事情を持つ私たちに、主イエス様はあえて、「主がお入り用なのです。」と語られるのです。神様はあなたを必要としておられるのです。誰かが必要とされているのではなく、あなたが主の働きのために必要なのです。
高齢だから、家が遠いから、仕事が忙しいから、家族が多いから、賜物がないから、経験がないから、未熟だから、信仰が浅いから、等々の事情を訴えないで、イエス様の言葉に従っていきたいと思うのです。自分の事情も周りの事情も、全てイエス様にゆだねたらいいのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」 イエス様のもとで癒され、イエス様の与えて下さるくびきを負っていきたいと思うのです。
 コリントの信徒への手紙、第一の1章26節から29節には次のように記されています。
 「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下さげられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前では誇ることがないようにするためです。」
 ろばは、動物の中でも特に何か優れているというものはないかも知れません。像やキリンやトラのきょうに特徴もないでしょう。馬のように力強くもなく、泣き声もきれいではありません。格好もいい方ではありません。しかし、全人類の罪のために十字架につくために、エルサレム入城というとても大切な場面で豊かに用いられたのです。十字架にかかられるイエス様を背中にお乗せしたからでしょうか、ろばの背中には十字架のしるしがあるのです。
 星野富広氏の詩です。「小さな実」という題です。
「私にできることは小さなこと でもそれを感謝してできたら きっと大きいことだ」
 イエス様は、あなたを必要としています。主がお入用なのです、と今日語りかけておられます。イエス様の語りかけておられるその声を聞きののがさないためにも、この週も神様の言葉、聖書の言葉に触れて歩ませていただきたいと思います。
 私たちを生かして下さるお方がいます。そのお方の手に自分が握られている時、私たちの人生は本当に素晴らしいものになるのです。そのことをみ言葉で確認し、主との交わりの中で経験させていただきたいと思うのです。
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2月3日 礼拝メッセージ

2008-02-03 18:07:52 | Weblog
              主日礼拝(受難節前主日)       2008.2.3
                   「百分の一の祝福」 士師記7:1-7

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。2月の第一主日の礼拝、今年になって5回目の主日礼拝となりました。今日も私たちは、礼拝を大切にしたいと思います。
 今日の聖書の箇所は、士師記7章1節から7節までです。金曜日からは第二関東地区のギデオンの大会が町田で持たれました。そして、今日は青葉区近辺の教会でギデオンのラレー、証と報告が行われます。私たちの教会でも、礼拝後にギデオン協会の証と報告がありますので、よく聞いてこの働きのためにささげていただきたいと思います。ということもあり、あえて士師記のギデオンの記事を選ばせていただきました。今日は士師記7章1節から7節を通して、百分の一、1パーセントの祝福について見させていただきたいと思います。
  
 Ⅱ本論部
 ⒈人間の思いと神様の思いとは違う
 7章の1節には、「エルバアル・つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。」とあります。ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が集結してイスラエルに対して陣を敷いたので、ギデオンもイスラエルを召集して陣を敷きました。イスラエルの軍隊は、3万2千人です。それに対する連合軍は13万5千人という圧倒的な人数でした。
 ギデオンという人物は臆病な人物でした。ですから、6章では、神様がイスラエルを本当に救って下さるかどうか、羊の毛を通して2回も主に問うています。主の約束があったのはあったのですが、敵13万5千人に対してイスラエル3万2千人では、ちょっと少ない。ちょっとどころではない、余りには少ないという計算をしていたのだと思います。何とかもう何万人かせめて半分以上の7万人ぐらいにはならないかとも考えたかも知れません。数と言うものは、私たち人間にとりましては心強いものです。けれども、神様のお心は違いました。 2節をご一緒に読みましょう。「主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」」
 神様は、「民は多すぎる」と言われました。「ちょっと待ってくださいよ。神様、よ~く見てください。ミディアン人たちの軍13万5千人、私たちイスラエルの軍3万2千人、相手は1万5千人ではないですよ。民は多すぎるとは間違いではないですか。一桁間違っているのでは?」とギデオンに代わって神様に申し上げたいような気がします。私たちは、民は少なすぎると考えます。神様は多すぎる。神様はまったく逆のことを言われます。
 聖書は、時々おもしろいことを書いています。私たちが考える正反対のことを示します。新約聖書のマルコによる福音書12章やルカによる福音書21章には、「やもめの献金」について書かれています。金持ちたちが献金を入れている中で、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのをイエス様が御覧になって、イエス様はわざわざ弟子たちを呼び寄せて言われたのです。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。」と言われました。弟子たちは、金持ちたちがたくさんの献金を入れていたのを見たでしょう。けれども、やもめは最小単位の貨幣であるレプトン2枚を入れただけなので、弟子たちの目には、やもめの献金は誰よりも少ない献金でした。でも、イエス様は誰よりも多く入れた、と言われました。その理由は、「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」と言われたのです。金持ちたちは、たくさん入れても別に何の問題もありませんでした。まだまだ有り余るお金をもっているので、生活にも困らないし、将来について何の影響もなかったでしょう。しかし、やもめは持っている全ての所持金2レプトンを捧げたので、何も買えないし、何も食べることができません。将来についての不安や心配もあったでしょう。だから、その2レプトンをささげる時には、勇気と決断がいりました。自分に痛みを伴う献金だったのです。その心を、思いを、信仰をイエス様は見ておられたのです。私たちは、自分が痛いと思うほどの献げ物ができたらと思うのです。
 神様はギデオンに民は多すぎると言われた理由は、3万2千人の数で、勝利したら自分たちの力で勝ったのだと傲慢になるといけないからだ、と言われるのです。13万5千と3万2千だから、そんなふうには思わないのでは、と考えやすいものですが、やはり人間はどこまでも傲慢なのです。神様は多すぎるからミディアンを渡せないと言われたのです。
 私たちは数や見えるものに影響されます。けれども、神様は数ではないのです。私たちの心の中を見ておられるのです。あなたの心は数に支配されていませんか。見えるものに捉われていませんか。
あなたが少ない。小さいと見える事でも、神様はまだ多い。まだ大きいと言われるのかも知れません。

 ⒉共に行くべき者を示される
 神様は、民は多すぎるから恐れている者は帰るように、とギデオンに命令されました。ギデオンがそのように言うと、なんと2万2千人の人々が帰っていったのです。ギデオンは戦いのために集まっているのだから、帰る人は2、3百人ぐらいではないかと思っていたのかも知れません。それが、2万2千人三分の二以上の民が帰ったのです。驚きです。びっくりです。残ったものは1万人だったのです。敵の十分の一の数もない、なんとも頼りのない人数となってしまいました。ギデオンの顔は、蒼白(そうはく)になっていたのではないでしょうか。臆病なギデオンは「わたしが帰りたい」とも感じたのかも知れません。ギデオンは、「さあ、この1万人で対13万5千人を相手にどう戦おうかと頭をひねったでしょう。」戦い方を神様にお聞きしたいとも考えたでしょう。そのギデオンに主は語られたのです。  4節をご一緒に読みましょう。「主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」」 「ちょっと、ちょっと。神様はまだ民は多すぎる?1万人ですよ。どこが、多すぎるのですか。何を考えておられるのですか。算数が不得意なのですか。神様!」とギデオンに代わってまた質問したいような思いがします。 1万人でも少ないのに、まだ減らすのですかという絶望という思いがします。
 ある時、イエス様は12弟子を二人ずつに分けて、汚れた霊に対する権能を授けて宣教に遣わしたことがありました。その時、杖一本の他は何も持たないで宣教旅行に遣わしたのです。何ともたよりのない旅行です。食べ物もお金も持たない。下着も2枚着るな、と言われて12人は旅に出かけました。イエス様は何故、杖以外には何も持たせなかったのでしょうか。お金も十分ある。食べ物もたっぷり。下着も何枚も替えがあるとなれば神様に頼らなくても、旅行できるのです。けれども、何もないわけですから、神様に頼り、祈り、必要を神様だけに期待する。そのような訓練だったのではないでしょうか。弟子たちは、悔い改めの宣教をし、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの人々を癒したのです。すばらしい働きができました。同時に、全ての必要が与えられたのだと思います。神様だけを見て、神様に必要を求め、神様が働かれて、弟子たちは宣教旅行を無事祝福のうちに終えたのでした。私たちは、少ないと言っても、まだ1万人いるという思いがあるでしょう。神様は、その思いを徹底的にお取りになるのだと思うのです。「まだ民は多すぎる」と。
 神様は、1万人の民を水辺に導き、犬のように下で水をなめる人と膝をついてかがんで水を飲んだ人と水を手にすくってすすった人とを分けられました。そして、水を手にすくってすすった人3百人を選ばれたのです。7節をご一緒に読みましょう。「主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」」 神様は、3万2千人の民を、ここまでか、ここまでかという所まで減らされたのです。人間的な希望が、望みが、可能性がないという所まで取り去られたのです。
 今、私たちの現実はどうですか。もしかしたら、もう何の希望も望みもない。可能性がゼロだという状況にあるでしょうか。もしそうなら、神様のみ業が起ることを期待したいと思うのです。

 ⒊主が共におられるということ
 神様は、三百人をもってミディアン人を渡すと約束されました。神様は恐れるなら、敵の陣の中に行って探るように言われます。ギデオンは従者プラハと共に出かけ、敵がギデオンを恐れていること、神がギデオンの手にミディアン人とその陣営を渡されると敵が考えていることを知り、ギデオンは勇気をもって戦い、三百人で神様の約束された通りに大勝利したのです。三百人で戦ったというよりも恐れのために同士討ちを起こされたのでした。これは、神様が恐れる者は帰れと言われて2万2千人が帰りました。もし、この2万2千人は恐れていたわけですから、彼らが戦いに参加していたら、恐れのために同士討ちしてイスラエルが負けていたということも考えられるのです。また、三百人という戦いにも状況にも対処できる人々であったので、ギデオンの言うとおりに忠実に従って行動したがゆえに勝利しました。ですから、水を何の備えもなく犬のように水をなめた者や周りに気を配ることもなく水を飲んだ者たちがいたら、忠実に従うということができないで乱れていたのかも知れないのです。神様は全ての事を越えて、最善の三百人を立て、勝利させられたのです。
 また、三百人が戦ったというよりも、相手の同士討ちが勝利の決め手でした。この三百人は誰も、自分たちの戦いで勝利したとは言えないのです。神様の勝利なのです。だから、誰も誇れないし、傲慢になるはずもありません。神様は、「「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。」」と言われた通りに、自分の手で勝ち取ったとは言えない勝利を与えられたのです。
 神様は、私たちの罪を赦すためにイエス・キリスト様をこの地上にお送りくださいました。神であるお方が、私たちと同じ人間の姿となり、僕として仕えられ、私たちの罪を赦すために、ご自分は何の罪もないのにもかかわらず、罪多き私たちのために十字架で身代わりに裁かれ、苦しみ、死んで下さったのです。私たちは、ただイエス・キリスト様の十字架によってのみ罪が赦され、魂の救いが与えられたのです。わしたち人間の側は何もないのです。ただ、私の罪のためにイエス様が十字架にかかって死んで下さったということを事実として感謝して受け取っただけです。それは、私たちが、自分の力や行いではなく、また誰も誇らないためです。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって、救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」(エフェソ2:8-9)とあります。
 神様は、3万2千人から3百人というおよそ百分の一の数で勝利しました。百分の一の祝福、1パーセントの祝福と言えるのではないでしょうか。しかし、神様は3百という数で勝利したのではなく、3百人と共に神様がおられたということに意味があるのだと思います。だから2百人でも、百人でも、5十人でも、十人でも、たとえ一人でも、あのエリヤのように神様が共におられるということが最も重要なことだと思います。ギデオンと3百人と共におられた神様は、私たちとも共におられるのです。そのことを忘れてはならないのです。

 Ⅲ結論部
 私たちは、ギデオンの話を通して、神様はいつも最善をなさる方であることを知ることができました。私たち人間の側がどんなにマイナスに見えても、現実がどうであっても神様は、私たちを祝福して下さるのです。
 会堂長がイエス様の前にひざまずいて、娘が死にそうなのですぐに来て手を置いて癒して下さる様にと願いました。イエス様は会堂長の願いを聞いて出かけましたが、途中で出血の止まらない病気の女性が信仰を持って癒され、イエス様が誰が触ったのかと探しておられる。会堂長は、早くしないと娘が・・・と思っている時、「お嬢さんは亡くなりました。」と使いがきて会堂長に離しました。イエス様は、そばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい。」と言われました。会堂長は、速く来て、手を置いていただくと助かると自分の頭で、自分の可能性でイエス様を動かそうとしました。しかし、自分の考えや可能性が無くなった時、イエス様は「恐れることはない。ただ信じなさい。」と力強く語られたのです。そこから信仰が始まるのです。
 ギデオンのイスラエルの民が3万2千から1万、1万から3百と人間の思いや考え、可能性が無くなった時、そこから信仰が必要でした。神様が共におられるということと、神様の約束の言葉を握り締めることだったのです。
神様は3百人を選んだというよりも、恐れない者、状況を考え、気配りできる人が3百人だったのだと思うのです。
 私たちの今の状況がどんなに困難でも、マイナスでも、百分の一になっても、不可能でも神様が共におられるのです。神様は誰一人いなくてもみ業をなすことができるのです。しかし、弱い私たちを通して偉大な神様の業をなして下さるのです。このお方を疑うことなく、どこまでも信じ抜いて神様のみ業を共に体験させていただきたいと思います。そのためにも、この週み言葉に触れ、み言葉を通して神様に忠実に従いたいと思うのです。
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