主日礼拝
2020.12.13
「Go To Jesus」
詩篇12篇(新共同訳)
Ⅰ導入部
- みなさん、おはようございます。このようにして本日もみなさんとともに礼拝を捧げることのできる恵みを心より感謝いたします。
- 祈りをもって、このメッセージを始めさせていただきます。…
- アドベント第3週になりました。いよいよ、クリスマスが近づいています。私は1月から、詩篇から順番に語ってきましたが、アドベントの説教でも、詩篇を語るかどうかということは悩みました。
- しかし、この詩篇を読むなかで、この詩篇から、クリスマスの恵みを聴くことができましたので、今回も詩篇12篇から、「Go To Jesus」と題して、クリスマスのメッセージを語っていきたいと思います。
Ⅱ本論部
一.苦しみのなかで祈る
- この詩篇12篇も、これまでの詩篇と同様、「苦しみ」のなかにあるときの、1節によればダビデの詩であると考えられています。
- 先ほど申し上げたように、この一年、私は毎月の礼拝説教のなかで、詩篇1篇から順番に1篇ずつ語らせていただきましたが、どれも非常に重い詩篇でした。
- 当然、1月に詩篇を語り始めたときは、まさかこんな1年になるとは思いもしませんでしたが、新型コロナウイルス感染症の流行拡大は、私たち全員の人生に何らかの影響を与え、もちろん人によって差はあるかと思いますが、「苦しみ」を与えてきたのではないかと思います。
- もちろん、コロナとは関係なく、この一年、さまざまな苦しみを経験された方もいらっしゃることでしょう。この一年間あなたが経験した苦しみを思い浮かべながら、2節からの御言葉に耳を傾けていただきたいと思います。
- 2節、「主よ、お救いください」。主よ、助けてください。この状況から救ってくださいと、ダビデは祈り求めることから、この詩は始まっていきます。
二.偽りのことばと傲慢のことば
- ダビデが、どのような状況のなかにいたのということは、この詩の続きを読むと分かっていきます。2節の続きからをお読みします。
12:2 主の慈しみに生きる人は絶え/人の子らの中から/信仰のある人は消え去りました。
12:3 人は友に向かって偽りを言い/滑らかな唇、二心をもって話します。
- ダビデが直面している状況のなかで、問題とされているのは、「ことば」であります。「ことば」でるわけですが、まず問題となっているのは「偽りのことば」です。
- 2節にある「主の慈しみに生きる人」あるいは「信仰のある人」の対義語、すなわち逆のことばは、3節にあります、「滑らかな唇、二心をもって話」す人です。
- 「滑らかな唇」って何やねん?と思われるかもしれませんが、これは別の翻訳ですと「へつらいの唇」となっています。つまり良いことばっかり言っている。褒め言葉を語るかもしれない。滑らかに、ペラペラと話している。でも、実際は「二つの心」つまり、本音と建前を使い分けて、「偽り」を語っている。
- もちろん、この社会においては、偽りを語り続けるならば、罰を受けます。政治の世界も、ビジネスの世界も、あるいは友人関係であっても、嘘がバレたなら、その人の信頼は地に落ちます。それは神様がそのようにこの世界を造られ、今も神様が造られた「良さ」、良い部分が残っているからです。
- 興味深いのが、2節の「信仰のある人」は、別の聖書の翻訳ですと、「誠実な人」となっています。信仰は誠実さをもたらすのです。クリスチャンは、人一倍誠実であることを求められているわけです。
- しかし、ダビデの目の前には、平気で、その友にさえ嘘をつく人たちがいた。バレなきゃいい。嘘をついてでも、騙してでもこちらが得すればいい。もちろん、場合によっては計画的ではなく、とっさに嘘をつくケースもありますが、それがバレないように、嘘に嘘を重ねる。仮に嘘がバレても、「あれはそういう意味じゃなかった」と言い訳をして、誠実さとは程遠い生き方を選び取っている。
- そのような現実は、私たちのなかにも、あるいは私たちが生きるこの世界にも確かに存在しますし、ダビデが生きる時代もそうだったわけです。「偽りのことば」が問題になっている。
- もう一つ、ここで問題となっているのが、「傲慢なことば」であります。続く4節からをご覧ください。
12:4 主よ、すべて滅ぼしてください/滑らかな唇と威張って語る舌を。
12:5 彼らは言います。「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない。」
- ここでは、そのような「滑らかな唇」と「威張って語る舌」がセットになっています。傲慢な、高ぶる言葉を語る。5節によれば、「舌によって力を振るおう」、ことばによって状況をコントロールしてやろう。
- 確かに、ことばというものには力があります。ことばによって、人を励まし、喜ばせることができます。しかし同時に、だますこともできます。人を深く傷つけることができます。現在は指一本で人を殺せる時代だと言われますが、スマートフォンで書いたそのことばで、人を絶望の淵に叩き落とすことができます。
- また、人間は、どのようなことばをかけられてきたかということで人格が形成されていくと言われますが、ことばは人を幸せにも、また痛めつけることもできるのです。
- ここに描かれているのは、そのようなことばの力を自分のために利用しようとする人々です。「自分の唇は自分のためだ」と、自分の唇は神様のものではない。自分たちのものである。「わたしたちに主人などはない」。神さまは自分たちの主人ではないと、まさに「傲慢なことば」が語られる。
- さらに、この詩篇の最後の8節には、このようにあります。
12:9 主に逆らう者は勝手にふるまいます/人の子らの中に/卑しむべきことがもてはやされるこのとき。
- 「卑しむべきことがもてはやされている」。むしろ、悪を行うと、もてはやされる。そのような状況のなかで、ますます「勝手にふるま」う人々が増えていく。
- このように、「偽りのことば」と「傲慢なことば」とが、支配する世界に、ダビデは置かれていました。
- 偽りのことばと傲慢なことばとが支配する世界。実はそれは、イエス・キリストが、あのクリスマスの夜に生まれた世界もそうでした。
- イエス様がお生まれになった時代、ユダヤを治めていたのはヘロデという王様でした。彼のもとに、東の国から博士たちがやってくる。そして、こう言うのです。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
- ヘロデ王はそれを聞いて、不安を抱いたと聖書に書いています。ヘロデ王は自分の権力が脅かされるのではないかと考え、恐れを覚えました。イエス様が生まれることになっているのはベツレヘムだということを調べた上で、博士たちに対して、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言います。
- しかし、これはご存知の通り、大ウソで、本当は自分の代わりに王になるとされているその子を抹殺しようとしているのです。実際、その後博士が戻ってこないことが分かると、ベツレヘム周辺にいる一才以下の男の子を皆殺しにする命令を下します。文字通り、その傲慢なことばが、人を殺すのです。
- 自分の利益のためなら、偽りを語ることも、嘘をつくことも厭わない。そして、自分こそがその王の地位にあるべきであり、そのためなら何を犠牲しても構わないという傲慢。そのような王が君臨する世界に、イエス・キリストは生まれたのです。
三.ことばが人となった〜Go To Earth〜
- ここでもう一度詩篇に戻りましょう。偽りのことばが、傲慢なことばが、支配する世界のただなかで、詩人は、ダビデは、このようなことを語ります。6節からをご覧ください。
12:6 主は言われます。「虐げに苦しむ者と/呻いている貧しい者のために/今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
- ダビデは言うのです。「主は言われます」。ここでダビデは、主のことばに注目します。偽りのことば、傲慢なことばに満ちている世界のただなかで、神のことばに耳をすますのです。
- 主は言われるのです。「苦しむ者」が、「貧しい者」がいる。彼らは「呻いている」。あるいは嘆いている。そのような者たちに、彼らが「あえぎ望む救いを与えよう」。彼らが求めている、慕い求めている、「救い」を与えようと主は語られるのです。
- この詩篇の冒頭の2節で、「主よ、お救いください」とダビデは叫んでいました。その叫びに、主は答えてくださった。「今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」
- イエスさまがお生まれになった時代も、先ほど申し上げたように、ヘロデの支配下で、あるいはヘロデの背後にいて、軍事力を背景にして重い税金を取り立ていたローマ帝国の支配の下で、人々は苦しんでいました。このクリスマスの季節は、北半球では、寒く、また冬ですから、夜が長い、暗闇の深い季節です。
- クリスマスという季節は、実は自死、自殺者が一番多い季節だと言われます。寒くなり、夜が長くなり、気持ちが落ちてくる。一方、街は華やかで、道行く人々は幸せそうで、自分とのギャップを感じる。そのようななかで絶望してしまう人々が多いそうです。
- 世界で最初のクリスマスの夜も、世界を暗闇が覆っていた。この詩篇と同じように、2節にあったように、「主よ、お救いください」と人々は叫び求めていた。
- その叫びに、もちろん主は、聖書のなかで、何度も助けを、救いを与えてくださいました。しかし、あのクリスマスの夜、主は「主よ、お救いください」という人々の叫びに、究極の答えを与えてくださったのです。主は立ち上がってくださった。具体的な行動を起こしてくださったのです。その独り子であるイエス・キリストを、この世界に送ってくださったのです。
- 本日のタイトルはGo To Jesusです。みなさんはGo Toしていますか?Go ToトラベルやGo To Eatを使われた方もいらっしゃると思いますが、Go To Jesusはしているでしょうか?
- クリスマスはChrist Mas(ミサ)、すなわちキリストを礼拝する日です。イエスのもとに行く日です。そしてそれは生き方です。クリスマスという生き方があるのです。教会で、キリストを礼拝し、そこから祝祷をもって遣わされる日常のなかで、キリストを礼拝し続ける。キリストを覚え、キリストに祈り、キリストを頼って生きること、それがGo To Jesusであると思うのですが、実はまず、Go Toしてくださったのは、Go To Earth、しかも全然お得じゃない、あらゆる犠牲を払ってこの世界に来てくださったのがイエスさまだった。
- イエスさまは、特にヨハネの福音書において、「神のことば」であると言われます。ことばが人となった。イエスさまという人物が、「ことば」とは不思議な気もしますが、それはこういう意味であると言われます。
- 神さまは、ことばでこの世界を造られました。この世界を見ると、特に美しい自然を見ると、神さまがどれだけこの世界を愛しておられるかが分かるのです。
- 神さまは、アダムとエバが、人類が反逆した後も、「帰ってこい」「あなたを愛している」と語られ続けました。この6節のことばもそうです。イスラエルの民に語っているのです。苦しむ人・貧しい人はもちろん、「偽りのことば」「傲慢なことば」を語る者たちさえ向かっても語っているのです。「あなたを愛している。あなたを救いたいんだ。あなたを変えたいんだ。」
- 旧約聖書のなかで、神さまは何度も何度も、イスラエルの民に、そしてイスラエルの民を通して、全世界に、何度も語ってきました。「わたしはあなたを愛している。あなたを救いたいんだ。あなたを変えたいんだ。」
- そして、「わたしはあなたを愛している。あなたを救いたいんだ。あなたを変えたいんだ。」という神さまの思いが、神のことばが、最もはっきり現れているのが、イエスさまという存在である。
- ご自分のたった独りの子どもを、この世界に送るほどに、あなたを救うために、ご自分のたった独りの子どもを与えるほどに、あなたを愛している。あなたを救いたい。この子にあなたの罪を背負わせ、十字架にかけることで、あなたを救う。復活の命、永遠の命を与える。あなたの人生を変える。
- そして、イエスさまはもう一度来られる。今はアドベントとして、クリスマス、つまりイエスさまが最初に来られた日を待ち望んでいますが、私たちは第二のアドベントを生きている。つまりイエスさまがもう一度来られる日、すべての苦しみから解放され、新しい天、新しい地に迎え入れられるその日がやってくるのだ。
- このような神さまの想いが、神さまのメッセージが、神のことばが、イエスさまというお方を見るときに分かるのです。
- 7節では、「主の仰せ」、つまり主のことばは「清い」のだ。「土の炉で七たび練り清めた銀」、それは最高級の銀です。どんな宝も及ばない最高の価値ある存在がイエスさまである。
- 8節、「主よ、あなたはその仰せを守り/この代からとこしえに至るまで/わたしたちを見守ってくださいます。」神のことばは、偽りのことばでも、傲慢なことばでもない。それは誠実なことばである。神さまは絶対に約束を破ることがない。だから大丈夫なんだとダビデは歌っているのです。
Ⅲ結論部
- 偽りのことば、傲慢なことばが支配する世界のなかで、それでも神のことばを聞こうとして、ご自身のもとに来る人を、イエスさまは絶対に見捨てることはありません。「今、わたしは立ち上がり/彼らがあえぎ望む救いを与えよう」と今もあなたを招いておられるのです。
- だから、Go To Jesus、今日も私たちはイエスさまのもとに来ました。イエスさまを礼拝するために、Go To Jesusしたのです。これから始まる一週間、ひょっとしたら、偽りのことば、傲慢なことばに傷つけられるかもしれない。あるいは、私たちがそのようなことばを語ってしまうかもしれない。
- 大切なのはそれに気づくことであります。もし、それに気づいたならば、私たちは急いで、このお方を拝みに行きたい。クリスマス、キリストを礼拝する生き方に戻り続けていきたい。永遠のことば、神のことばが人となったイエス・キリストに、誠実なことば、謙遜なことば、私たちを愛し、救い、造り変えることのできる方に、祈りながら、頼りながら、それぞれの場所に遣わされていこうではありませんか。お祈りしましょう。