江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年2月26日)

2023-02-27 09:39:24 | Weblog

「目を覚ましていなさい」マタイ24:32-44     神学生 吉武 良司

 今日は、携挙についてお話をします。なぜ携挙の話をするかと言いますと、今その前に起こる前兆がほぼ実現しているからです。終末論になりますが、絶望ではなく、希望のお話です。先週の水曜日から受難節に入りましたが、イエス様が十字架で苦しまれたのちに死なれて復活された希望と同じです。私たちのすべての罪をイエス様が贖って下さり、復活によって神様の栄光が現わされました。信じた人たちすべての罪が赦され、永遠の命が与えられました。言葉では言い表せないほどの大きな希望と恵みです。この事を思い巡らせながら受難節を過ごして行きたいと思います。

 マタイ24:6―8に「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」これは、イエス様が十字架に架けられる数日前に、オリーブ山で弟子たちに語られた、終末の徴です。必ず起こると言っていますが、現実に今戦争も飢饉も地震も起こっています。しかし、終わりではなくこれは、産みの前の苦しみの始まりと言っています。赤ちゃんが生まれる前の陣痛です。苦しみの後には、その苦しみをはるかに超えた希望と喜びがあるのです。

 少しだけ最近のニュースを取り上げます。ロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争が24日で1年が経過し2年目に突入しました。今ウクライナ東部への攻撃が激化しています。ロシアが掌握しようとしているのは、東部ドネツク州のバフムトや東部ハルキウ州です。建物が破壊されて、ほとんどの住民がここでの生活が出来なくなりました。先週21日にプーチン大統領は演説で、ウクライナが西側諸国と戦争の準備をしていたので、ロシアはそれを止めようとして侵攻したのだとウクライナ侵攻を正当化しました。両軍の死傷者は、この一年間で、ウクライナで10万人、ロシアで20万人を超えました。死者は毎日500人を超えています。プーチンはこれからも侵攻を続けると言っていました。終息どころか、ウクライナ支援国からの兵器と戦車の供与も決まり、さらなる激化が予想されます。悲しすぎるので、必ずそのあとには希望があると考えたいです。6日にはトルコとシリアで大地震が発生しました。21日には2回続けて大地震が起こり、死者が5万人を超えました。日本でも今後100%発生すると言われている南海トラフ地震は、今回のトルコ、シリア大地震の震度マグニチュード7.8を超えるマグニチュードが最大9.1で、津波は最低で5メートル以上というデータが気象庁から出ていました。赤道ギニアでは史上初のマールブルク病の発生が確認されました。ウィルス性出血熱で致死率88%の感染症です。これらすべて、人間には予測不可能な出来事です。コロナウィルスもオミクロン株が変異を続けているそうなので、まだ油断出来ません。新たな猛威が急速に次から次へと襲って来ています。携挙もいつ起こるか予測不能ですが思いがけない時に来ます。まず携挙とはどのようなものであるかを、頭に思い描いて置きたいと思います。

 Ⅰテサロニケ4:16―17に書いてあります。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれている死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」携挙という言葉は聖書には出て来ません。天に引き上げられる事を携挙と言っています。ギリシャ語で、ハルパゾーと言って、一瞬にして奪い取られて行く事を意味します。どういう事かと言いますと、天使の声とラッパが鳴り響く音が聞こえたら、それが携挙の時の合図です。イエス様が天から空中までくだって来ます。死んで先に天国に帰られたクリスチャンがまず復活して、次に地上にいるクリスチャンが雲に包まれて空中に一瞬で引き上げられます。引き上げられると空中で、先に天国に帰られたすべての人たちとまた会えるのです。さらにはイエス様といつまでも一緒にいられるのです。これこそが希望です。みんなとまた会えるのでワクワクしますね。 

 この事は、いつ起こるかは聖書にも書いてありませんが、神様の御計画ですから必ず起こります。この時はイエス様が地上までは降りて来られないので、空中再臨と言われます。その時がいつ来てもいいように目を覚まして、準備をして置かなければなりません。今日の聖書箇所の32節の「いちじくの木から教えを学びなさい。枝がやわらかくなり、葉がのびると、夏の近づいたことが分かる。」ここで、イエス様は、いちじくの木の譬えにより、弟子たちに終末の出来事について語りました。

 いちじくはイスラエルを象徴しています。夏と終末のヘブル語は夏がカイツで終末がケーツと言います。ヘブル語はイスラエルの言語です。文字がクフ、ユッド、ツァディという3文字で語根が同じです。イエス様は、終末を絶望ではなく夏の収穫という希望として示しています。これはイスラエルの回復を意味しています。いちじくの収穫期は、夏から始まります。マタイ21章にも、いちじくの木の譬えがあります。この時はイスラエルの霊的状態を示すために、いちじくの木を枯れさせてしまいます。そして、弟子たちに、信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが出来る。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。と教えられました。イエス様はすべてにおいて、絶望で終わらせないのです。

 33節以降で、これらすべての事を見たなら、すなわち、戦争や地震などを見たら、終末の時が近づいていると悟りなさいと言っています。そして、天地が滅びても、神様の言葉は永遠に残ると言っています。天地が滅びるのは艱難時代の最後です。携挙の時には天地は滅びないので、ここまでは携挙ではなく再臨の事を言っています。戦争というと旧約聖書のエゼキエル書に出て来るエゼキエル戦争も携挙の前に起こる戦争です。僕が青葉台教会に来て、最初の奨励でお話したところです。今日は後半の戦争の結末までの話です。

 エゼキエル書38:8に「多くの日の後、お前は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う。それは、長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。」今の平穏なイスラエルに敵対国が攻撃を始めます。最初の奨励で、エゼキエル戦争は、ロシア連合国が、イスラエルを攻撃する戦争とお話しましたが、色々調べると、マゴクという言葉をロシア連合国と断言出来ませんでしたので、敵対国がイスラエルを攻撃するに訂正します。申し訳ありませんでした。

 今のイスラエルの状況は、1948年5月14日の建国から約80年が経ち、離散したユダヤ人たちが戻って来ています。今は約670万人のユダヤ人が平穏に暮らしています。エゼキエル書の預言の通りになりました。2009年から発見されている地中海東部の海底ガス油田は、イスラエルの今後120年分の埋蔵量と言われています。欧州のガス供給源は脱ロシアから今後はイスラエルへと期待されています。経済大国となり、IT技術でも最先端を行き、農業先進国で、軍事力も中東最大にまでなりました。核兵器も公表していませんが90発持っています。ロシアとアメリカはそれぞれ5000発以上保有していて、全保有数の9割を占めています。核断絶からは、ほど遠い現実です。

 2020年の8月13日にアメリカのトランプ前大統領が間に入って、イスラエルと今まで敵対していたアラブ首長国連邦との国交正常化のために、アブラハム合意を締結しました。アブラハムという名前が付けられたのは、アブラハムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖であり、二人の息子の一人イサクはユダヤ民族でもう一人のイシュマエルはアラブ民族で、その共通の父祖であることから名前が付けられています。この合意は、イスラエルとアラブ諸国が敵対国から攻撃されないための準備とも言えます。この合意で飛行機もアラブ上空を飛行出来るようになりました。来月からは成田空港からの直行便も始まるようです。

 エゼキエル戦争の結末は、エゼキエル書38章18節から39章に書いてあります。どこかがイスラエルを攻撃するその日に、神の怒りが激しく燃え上がり、その日にイスラエルに大地震が必ず起こる。海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這うすべてのもの、地上のすべて人間が震え上がり、山は裂け、崖は崩れ、すべての城壁が倒れる。同士討ちが始まり、疫病と流血によって裁かれ、その軍勢と共にいる多くの民に、大雨と雹と火と硫黄を上から注ぐ。神の偉大さが示され、神が主である事を知る。次に、敵対国の総首長を北の果てからイスラエルの山々に来させ、すべての軍隊と共にいる民と共にイスラエルの山の上で倒し、あらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食になる。猛禽とは、鋭い爪と嘴を持つ鳥類の総称です。

 次に、イスラエルの中のよく知られている場所に敵対国の軍隊のお墓が出来ます。そこにすべての軍勢が埋められ、埋め終わるとそこに、軍勢という意味のハモナという名の町が出来ます。ハモナという名前の町が出来た時が、エゼキエル戦争の終わりという事になります。神様はヤコブの繁栄を回復し、イスラエルを憐れみ、すべてのユダヤ人をイスラエルに集めます。その時彼らは、彼らの神、主である事を知り、神の霊がイスラエルの家に注がれて、神様から選ばれた民であるユダヤ人が、紀元70年にローマに攻撃されて、エルサレムが陥落し、神殿が破壊されてから、約2000年の時を経て神様に立ち返る時がようやく到来しました。いちじくの木の譬えにあったイスラエル回復の時です。

 今の時代は、この戦争の様子も、全世界がリアルタイムで見る事が出来ます。これも預言の通りです。その意義として世界中の人々が神様の栄光を見て信じて、多くの人々が救われるチャンスが与えられました。終末は終わりという絶望ではなく、希望であり、励ましと祝福をもたらす神様の壮大な計画でした。7年の艱難時代の後は、イエス様が再臨され、エルサレムの新しい神殿に住まわれて地上を統治します。それが千年王国の時代です。その後に地上最大の戦争が起こり、最後にあるのが新天新地です。争いも痛みも罪もない神の御国です。この事は新約聖書の最後のヨハネの黙示録に書かれています。

 聖書箇所に戻ります。36―39節は、ノアの箱舟の話をされました。ノアの箱舟は陸地で造られていたので、見た人々から馬鹿げているとさげすまれていました。それでもノアは舟を造りながら人々に必ず洪水が来ることをきっと伝えていましたが、舟に乗ったのはノアの家族と動物だけでした。神様から洪水の時が示され、箱舟の扉を閉めた瞬間から40日40夜雨が降り続いたのでした。信じなかった人々は普通に生活をしていて、洪水にさらわれるまで気付かずに、すべての人々が滅ぼされました。イエス様も突如来られます。

 40-41節で「畑の二人の男のうち一人は連れて行かれ、一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、一人は残される。」ここは、普通に生活しているクリスチャンの事を言っていますが、信仰の無い者が地上に残されるイメージがあります。だとすると人間は皆罪人なのですから、全員が残されるはずです。不安になるのではなく、残された者は、艱難時代を耐え、福音を宣べ伝えるために選ばれた者と考えます。一人でも多くの人が救われるための希望です。苦しい時にこその希望です。ヨハネ3:16に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このように一人も滅ぼしたくないのが神様のみこころです。そのみこころに応えて、その愛と恵みをしっかり受け止めたいと思います。しかし、人間は傲慢になり、必ず罪を犯します。そういう生き物です。その時は悔い改めて、そのたびに「お赦し下さい」とお祈りするしかありません。

 42―44節「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」イエス様は、いつ来られるか分からないというよりも、いつ来られてもいいように用意をしておきなさいと忠告されています。天使の声とラッパの音が聞こえた時に眠っていたら目を覚ましましょう。

 先ほど、今の時代は、全世界の事がリアルタイムで見られる時代と話しましたが、情報には偽物もあります。今流行りの異端宗教も正しい情報を遮断して、不安を煽り、巧みに洗脳します。今私たちに求められる事は、自分が惑わされないための見極める目と人を惑わさないための真の愛を持つ事です。不安な時代だからこそ、イエス様から愛されているように隣人を愛し、出会うすべての人を大切にして生きて行きたいと思います。信頼出来るのは聖書の御言葉のみです。目を覚ますべき答えが聖書に書いてあります。その箇所を読んで終わりたいと思います。マタイ25:31-40です。新共同訳では50ページ下の段左からです。お読みします。 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えているのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』これが、目を覚ますべき最も大切な隣人愛です。

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日曜礼拝(23年2月19日)

2023-02-20 10:30:13 | Weblog

降誕節第9主日礼拝説教                                                                                  2023年2月19日

満山 浩之

『何をするかではない。これに聞け』

マタイによる福音書 17章1節〜13節

 

 私たちはこの世を生きている中で、自分自身は一体何をしたいのか、悩むことがあります。私には一体何が出来るであろうか、何が自分に合っているだろうか、何をしたら良いの分からないことがあります。特に、就職活動などを経験した人は分かると思います。大学へ行ったことのある方、または今、行っている方もいるでしょう。また将来、何かしらどこかで働くことを考えている方もいるでしょう。その時の就職活動で、まず自己分析というものを行って行きます。この自己分析というのは、自分の特徴を理解するために、これまでの経験や考え方を振り返って整理することです。自己分析をしておくことで「自分の仕事選びの軸」と、「自分自身のこと」を明確にすることができるのです。

 実は、私も就職活動経験者なのです。私は小さい頃からサッカーばっかりやって来て、サッカーだけで進学して、海外ですがプロまで昇り詰めたと思っている方が多いと思いますが、実は大学生の時に、就職活動をして内定を1社、勝ち取っているのです。自分自身は何が出来るのか、何が得意なのか、何に生きがいを感じられるのか、苦しみました。もうよく分からなかったです。まだクリスチャンではなかったので、特にです。

 自分がこの世に生きている意味、何で生まれて何で生かされているのか。聖書の語る神、イエス・キリストの存在を知るまで、私は何も知りませんでしたし、考えたこともなかったのです。しかし、聖書は語ります。

「神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。」(詩編32:10)

この世の全てを造られ、私たち人間をも造って下さった神は、私たちを神のかたちにかたどって創造されたのです。その私たち人間に命の息を吹き入れて、生きる者として下さったのです。しかし、私たちはこの世に生まれ、神によって生かされているのにも関わらず、そのことを知らず、神を無いものとし、神を蔑ろにして生きてしまっているのです。それを聖書は、罪と呼んでいます。この罪は、元々は的外れという意味があります。神から離れて生きている、的を射ていない生き方をしている、的外れな生き方をしているのが、私たち人間なのです。だから、私たちは悩み、生きる意味を見失い、途方に暮れてしまうのです。しかし、この命の源である神に信頼する者は、慈しみに囲まれる。つまり、この神の無限の愛に包まれるということです。

 神はこの世の全ての人、誰一人として漏れることなく、全人類が命を与えて下さっている神に信頼して、この世を歩んで欲しい、神がそれぞれに与えられているご計画、神の考え、神の思いに沿って日々を過ごして欲しい、人間本来の姿でこの世を生きてほしい、このように思っておられます。ですから、その罪の中を歩むことなく、悩みが多い的外れな生き方ではなくて、神という的を射た生き方、神と共に歩む道を開いて下さったのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)

その独り子がイエス・キリストであって、全ての人を救うために、この世に誕生して下さったのです。全ての人が救われるために、命をも犠牲にささげるために、私たちが受けるべき罰を身代わりとなって受けてくださるために、十字架の上で死なれたのです。

 この刑は最も酷い刑だと言われています。死ぬ直前まで鞭で痛めつけられ、頭にはイバラの冠を、そして手には釘を刺され、全体重を手に貫かれた釘によって引き裂かれそうになりながら、十字架の上で息絶えるまで、放置される。しかし、神の独り子であるイエス・キリストは、神のご計画にとことん従うお方でした。罪という永遠の滅びから救われ、永遠の命を得られるために、この世に来て、その神のご計画に沿った生き方をされたのが、イエス・キリストなのです。

 ですから今日の5節で「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と、神の声が雲の中から聞こえたのです。このイエス・キリストは死から完全に復活されて、今も天で生きておられるお方。このイエス・キリストを受け入れて、心から信じて、この世を歩んでいく。それによってあらゆる罪は救われて、永遠の命を得ることができ、神と共に生きる人生のスタートです。神が思っておられる人間本来の生き方、的を射た生き方のスタートとなるのです。

 そのイエス・キリストが、十字架へ向かって進んでおられる場面が、今日の箇所です。神の独り子イエス・キリストでさえ、やはり少しは不安があったのかもしれない。神からのご計画の確信を得るために、神に確認するために、高い山に登られて、雑音が一切ないような静かな場所へ行かれました。同じ場面が記してあるルカによる福音書では、「祈るために山に登られた」(ルカ9:28)とありますので、祈るためにイエス・キリストは高い山に登られたのです。

 十字架へ向かう前に、神に耳を傾けようとされた。それは、ご自分が神の御心を行なっているかどうか、寸分の疑いがないまでに確かめるためです。まず神に尋ねてでなければ何事もされなかったイエスは、神の指示なしには、最大の決断を決行されることはありません。祈りの内容は記されてはいませんが、きっとこうでしょう。「これは、神が私にさせようとすることであろうか」。この問いに対する答えを、イエスは人里離れた山の斜面から、神から得ようとされたのです。

 私たちはどうでしょうか。私たちは「私は何がやりたいか」と自分自身に尋ねます。しかし、イエスは常に「神は私が何をすることを望まれるか」と尋ねるのです。イエス・キリストは常に、ご自分の知恵や力に頼らずに、神の御心のみを行うお方です。このイエス・キリストの特質というのは、罪がないことですが、それはまさしく、イエスご自身は神の意志以外を持たれなかったということです。同じ場面を記しているルカによる福音書では、イエスは、旧約聖書の律法を人間にもたらしたモーセと、預言者の中で最も偉大な人物エリヤと、「最期について」語り合っていたと記してあります(ルカ9:31)。これには深い意味があります。この言葉はギリシャ語では「エクソド(・)ス」「外へ出て行くこと」、また「この世を去ること、死ぬこと」両方の意味があるのです。イスラエル民族が、奴隷として囚われていたエジプトから出て、未知の世界である砂漠を彷徨い、やがて約束の地に至るという特別な出来事を指しています。この「エクソド(・)ス」、英語では「エクソダス」は、人類の歴史の中で起こった最も冒険的な旅、つまり全民族がただただ神に頼って、見知らぬ世界に踏み出したことを示すのです。これはまさしく、イエスがこれからされようとすることでした。神に対する全面的な信頼を持って、イエスはエルサレムにある十字架を目指して、波乱を予期しつつ旅立とうとされるのです。その旅には、危険がひそみ、十字架という最も酷い刑が待っていますが、最後には栄光に輝く時が来ます。人類で最も優れた律法者モーセと預言者エリヤが、イエスの正しさを保証したばかりでなく、神の声そのものがイエスに聞こえて、イエスが正しく神の道を歩いていること、また、その歩みを続けるべきことを指示したのです。

 このようにイエスは、大いなる確信を胸に、ご自分が与えられている使命を、神からのご計画、御心に従っていこうと最終決心をされたのです。

 私たちは先のことが分からないと、つい不安になってしまいます。この先の自分はどうなってしまうのだろうか、将来が不安で不安で生きていけるだろうか、と。しかし、今日の箇所でもイエスは言われます。「恐ることはない。」 私たちの命の源である神はこう言われます。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け。」私たちは恐れやすいし、迷いやすいし、悩みやすい、とても弱い生き物です。ですが神は私たちを愛し、見捨てることなく、いつも心に留めて励まし続けて下さっています。

「恐ることはない」と。

 私は5年前に牧師となり、藤沢に遣わされています。小さい頃からずっとサッカーをしていたこともあり、サッカーミニストリーをしていきたいと、サッカーを通して救い主イエス・キリストを伝えていきたいと考えています。しかし、それがどのようなやり方なのか、どこでなのか正直分かりません。色々試してみて、まだ明確な答えがありません。上手く行きそうなこともあれば、ダメになってしまった話もあります。不安や恐れ、悩みは数多くありますが、常に神の声に聞き、御心が何なのか、神は何を私にさせたいのか、祈りながら耳を傾けています。新しいことを始めるとき、未知の世界に飛び立とうとするとき、将来を思うとき、私たちは不安や恐れに押しつぶされそうになります。しかしイザヤ書で神は語られます。

 「恐ることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。

 勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」(イザヤ41:10)

私たちは自分一人で頑張る必要はないのです。命を与えて、この世に生きる者として下さっている神に全てを委ねれば良いのです。背後には大いなる力を持つお方が、不可能なことは一切ない、全知全能の神がおられるのです。このお方を心から信じ、そしてすべてを委ねて、今週一週間も、そして、これからの日々を過ごして参りましょう。

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日曜礼拝(23年2月12日)

2023-02-12 12:29:12 | Weblog

日曜礼拝(公現後第六主日)      2023.2.12

神様の私たちへの願い」 Ⅰテサロニケ5:16~18

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、イエス・キリスト様を賛美し礼拝できます事を心より感謝致します。

 私が青葉台教会で次にメッセージさせていただくのは、3月9日です。今年のレント(受難節)は22日㈬から始まります。3月9日は、受難節の中にあります。そして、4月9日がイースター(復活祭)となります。1年で最も寒い季節にレントが始まります。私たちは、そのことを覚えたいのです。

2月14日はバレンタインデーです。愛を告白する日、愛をチョコレートに乗せて告白する。思いを伝えるのです。私たちは、イエス・キリスト様に何を通して、どのような形で、イエス様の愛に対してお答えすればよいのでしょうか。私たちは、イエス様の思いに答えたいと思うのです。今日はテサロニケの信徒への手紙第一5章16節から18節を通して、「神様の私たちへの願い」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、数や時間ではなく生き方

16節には、「いつも喜んでいなさい。」とあります。喜ぶということは、私たちの人生には多くあります。しかし、「いつも」となると、どうなのだろうかと思われる。17節には、「絶えず祈りなさい。」とあります。私たちのクリスチャン生活において、祈りは呼吸のようなもので大切なものであることがよく言われます。私たちは、クリスチャン人生において、祈るということは多くあります。多くの祈りをささげます。しかし、「絶えず」となると、どうなのだろうかと感じるのです。18節の前半には、「どんなことにも感謝しなさい。」とあります。私たちの人生には、感謝することが多くあります。しかし、「どんなことにも」となると、果たして感謝できるのだろうかと感じるのです。

この個所が示している「いつも」とか「絶えず」というのは、24時間365日というようなことなのでしょうか。一日24時間眠らず、食事もしないで、トイレにも行かず、目を閉じて手を組んで祈りをささげるということではないでしょう。心をいつも神様に向ける。いつも神様に目を留めるということでしょうか。マルティン・ルターは、「祈りが短ければ短いほど、良い祈りだ。」と言ったようです。また、彼は「私は一日に8時間祈っている。」とも言ったそうです。8時間とは一日の労働時間で、一日祈っているということでしょう。ルターには、生活そのものが祈りであったのです。神様の前で生きる生活をするということは、それが短い祈りであろうが、1日8時間祈ろうが、生活そのものが祈りとなるのです。神様の前に生きる生活は祈りなのです。

教会で結婚式を挙げられた方々は、誓約をされたことでしょう。「あなたは神の教えに従って、夫(妻)として、常に妻(夫)愛し、敬い、慰め、助けて変わることなく、その健康な時も、病の時も、富める時も、貧しき時も、いのちの日の限りにあなたの妻(夫)に対して堅く節操を守ることを約束しますか。」と問われて、「はい」とお答えになったはずです。「常に、いつも、絶えず」と問われているので、「はい」と答えられた責任は大きいものです。「いや、いつもは愛せませんよ。いつも敬い、慰め、助けることはできませんよ」とは考えなかったでしょう。結婚の喜びに頭がぼーっとして、「常に、いつも、絶えず」という言葉に気がつかなかったという人が多いのかも知れません。ここでも「常に、いつも、絶えず」とは、24時間365日という数字で表すものであるというよりも、「あなたを愛することが私の生活、あなたを愛することが私の生きがい」というような意味合いがあるように思うのです。私たちは、喜ぶこと、祈ること、感謝することが、神様を知った者の生き方であることを覚えたいのです。

 

二、イエス様を抜きにして実現しない

パウロは、テサロニケの信徒への手紙第一の1章2節で、「わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。」と言っています。2章13節では、「このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。」と言っています。パウロの神様への感謝は、「あなたがた」というテサロニケの教会の人々に対する感謝です。パウロはテサロニケ教会、信徒の方々を祈りにおいて神様に感謝しているのです。2章19節、20節では、「わたしたちの主イエスが来られるとき、その御前でいったいあなたがた以外のだれが、わたしたちの希望、喜び、そして誇るべき冠でしょうか。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」と言っています。感謝が喜びを生み出しているのです。パウロにとっては、テサロニケの教会が、信徒の方々が喜びとなっているのです。3章9節では、「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか。」と言っています。パウロは祈りにおける喜びと感謝を表しているのです。

パウロの感謝や喜びというものは、テサロニケ教会の歩み、信徒の方々の歩みが順調であり、祝福された恵まれたことからくる感謝や喜びというのではないのです。テサロニケ教会は、パウロの伝道を妨害した、迫害した人々の影響を受けていたようです。その結果、パウロはテサロニケ教会にい続けることができなくなったのです。そのように、テサロニケ教会は、痛みや苦しみ、困難の中に置かれていたのでした。そのことで、教会の人々の信仰は動揺があり、信仰的な歩みには困難がありました。イエス様を救い主と信じて救われ、歩み出した信仰生活が、その信仰が弱まり、様々な課題や問題があったのです。そのような教会、教会の人々に対して、パウロは祈りに覚え、喜び、感謝していたのです。そして語りました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と勧めたのです。厳しい状況の中に置かれたテサロニケの教会に対して、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」と語ったのには、理由がありました。それは、18節の後半にある「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」ということです。

私たちが喜ぶこと、祈ること、感謝することは、神様が私たちに望んでおられることなのです。18節の後半の言葉を直訳すると、「それが神のご意志、みこころである。」ということです。神様のご意志、みこころが、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することなのです。

私たちが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というみ言葉に接して、自分自身の内にいつも喜びがあるのか、絶えず祈っているのか、どんなことにも感謝しているのか、と探して、いつも喜ばなければ、絶えず祈らなければ、どんなことにも感謝しなければ、と無理やり実行するというものではありません。神様がそう願っておられる、神様のお心であるということをまず知らなければなりません。そのことを心にまず納めていなければならないのです。本来、この喜びや祈り、感謝というものは、私たちの内には、私たちの側にはないのです。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」というみ言葉に従って、いつも、絶えず、どんなことにもと喜ばなければ、祈らなければ、感謝しなければ、となると、このみ言葉は、私たちにとっては負担となり、重荷となり、このことを実行するのは無理だと、ただ厳しい言葉、残酷な言葉となってしまうように思うのです。これらのことは、神様の願いであり、神様のお心であり、「キリスト・イエスにおいて」と示されているように、イエス様なしには存在しない、イエス様を抜きにしてはできないことなのです。

 

三、イエス様による救いの喜び

パウロは、フィリピの信徒への手紙4章4節で、「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と言いました。「主において」つまり、イエス様において、「キリスト・イエスにおいて」喜ぶのです。「喜ぶ」という言葉は、「うれしく感じる」という意味の他に、「うれしく思い感謝する」とか、「快く受け入れる」という意味を持っているようです。「主において」喜ぶ、「キリスト・イエスにおいて」喜ぶとは、イエス様に感謝するという意味を持っているようです。

「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」ということが、いつも喜ぶ、絶えず祈る、どんなことにも感謝することの根拠であることをパウロは語ります。イエス様以外の所に神様の御心を求めることを神様は私たちに望んではおられないということです。イエス様にこそ、神様の御意志、み心があるのです。神様は、私たちを罪から救うために、神であるお方を人間の姿で、この世界に送り、私たちの罪の身代わりに十字架の上で罰せられたのです。十字架の上で、私たちの罪の身代わりに、尊い血を最後の一滴まで流し、御自分の命をささげてくださったのです。死ぬはずのない神であるお方が、私たちのために死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、父なる神様は三日目にイエス様をよみがえらせて下さいました。十字架と復活を通して、罪と死に勝利し、十字架と復活を通して私たちの犯す全ての罪、過去犯した罪、現在も犯し続けている罪、将来犯すであろう罪の全てを赦して下さり、私たちがたとえいつ死んでも、死んで終わる人生ではなくて、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。

私たちは、神様がイエス様の尊い命を犠牲にしてまでも、私たち一人ひとりを愛しておられること、愛されていることを深く感謝したいのです。私たちに喜べることが何もなくても、感謝できることが何一つなくても、私たちはイエス様の十字架と復活を通して、神様に感謝することができるのです。イエス様の十字架と復活をいつも喜ぶことができるのです。私たちは、私という人間が、神様に深く愛されていることを忘れてはならないのです。私たちは、イエス様の十字架と復活神様の愛を知り、喜ぶことができるのです。

神様の愛は、私たちがどんな者であるかによって左右されるものではありません。私たちがどのように罪を犯していても、清い生活からかけ離れていても、汚れに染まっていても、そのような罪人のために、罪人の罪を赦し、救うためにイエス様が私たちの所に来て下さった。そして、イエス様の十字架と復活を通して、罪の赦しと魂の救い、永遠の命の恵みは、神様の御意であり、変わることがないのです。

 

Ⅲ結論部

私たちは礼拝において新聖歌を使用していますが、賛美歌21の479番には、「喜びは主のうちに」という賛美があります。「喜びは主のうちに 愛するイエスよ。苦しみの極みにも恵みは豊か。主に望みを置く者は、とこしえの生命(いのち)受け、救われる。ハレルヤ。生きる時も死ぬ時も、イエスから離すもの何もない。ハレルヤ。」という内容です。

喜びは私たちの内側にあるのではなく、イエス様が喜びであるのです。自分の今の状況が、自分自身の願うものではなかったとしても、イエス様にあって常に備えられているのです。悲しみや苦しみ、嘆きという現実に目を向けながらも、心をいつも主イエス様に向ける時に、私たちはイエス様を通して、イエス様によって、慰めや励ましを見出して喜ぶことができるのだと思うのです。

 私たちは、クリスチャン生活の中で、自分の与えられている状況が、改善すること、良くなることが神様の働き、神様のみ心であると考えるのだと思います。神様の祝福がある、癒しがある、恵まれる。そこにこそ喜びがある。しかし、私たちのクリスチャン生活においては、自分の思い通りに、願い通りに行かないことが多くあります。しかし、自分の思い通りにならないことの中に、自分の願い通りにならないことの中にこそ、神様が、イエス様が共におられて、私たちを守り、支え、励まし、強め導いて下さるということを信じたいのです。信じるべきなのです。苦しみが喜びに、涙が感謝に変えられるということを私たちはキリスト・イエスにおいて経験しているはずなのです。そして、これからも経験するのです。私たちの全ての生活は、イエス・キリスト様抜きにしては成り立たないのです。全ての事の中に、イエス様が働いて下さるのです。私たちは祈りの生活において、そのことを見出すことができるのです。

 パウロは、フィリピの信徒への手紙4章6節、7節で、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」とフィリピの教会の人々を励ましました。

イエス様は最後の晩餐の中で、「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(ヨハネ16:24)と言われました。イエスの名による祈りには喜びが伴うのです。イエス様の名による祈り、祈りの積み重ねには、環境や状況に左右されない感謝と喜びへと私たちを導く者なのです。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」とパウロは語りました。喜びと感謝の間には祈りがあるのです。祈りが喜びと感謝をつなぐのです。

 マザー・テレサは、次のように語ったといわれています。「生活の中でいろいろな事が入り込むので、祈れないという言い訳をする人たちがいます。そんなことはありません。祈るために仕事を中断する必要はないのです。仕事を祈りであるかのようにし続ければいいのです。」仕事を神様にささげたものとして行うということでしょうか。仕事自体が祈りとなるのです。祈りをもって仕事に取り組むのです。私たちは、この週、あなたの仕事が祈りとなるのです。子育てが祈りとなるのです。親の介護が、夫や妻の介護が祈りになるのです。入院生活が祈りとなるのです。病の治療が祈りとなるのです。そして、イエス様の名による、その祈りが、その祈りこそが、イエス様にあって喜びとなり、感謝となるのです。この週も、イエス様が共におられます。戦いの中に、苦しみや痛みの中に、悲しみの中に。だからこそ、イエス様にあって祈りをささげる歩みをしたいのです。そして、私たちが、イエス・キリスト様を通して祈ることが、喜ぶことが、感謝することが、神様の願いであり、望みであり、み心であることを覚えて歩みたいのです。

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日曜礼拝(23年2月5日)

2023-02-05 12:34:23 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五主日)      2023.2.5

神様の綿密なご計画」 創世記41:1~14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。一か月ぶりの御無沙汰です。

2023年もあと330日となりました。1月も終わりました。2月を迎え、最も厳しい季節を迎え、受験のシーズンを迎えております。受験生の健康が守られ、学んだことを発揮できるように、最善の導きが与えられますように祈ります。また、愛する皆様の健康と信仰が守られ、支えられ、礼拝の生活、信仰生活、祈りの生活が豊かに祝福されますようにお祈り致します。今日は創世記41章1節から14節を通して、「神様の綿密な計画」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、苦しみの中に共におられる神

 今日登場しますヨセフという人は、ヤコブを父に持ち12人兄弟の11番目の人です。

父ヤコブは、アブラハム、イサク、ヤコブの神と言われた神様に祝福された信仰継承の中に置かれた人物です。父ヤコブには、4人の奥さんがいて、一番愛したラケルという妻の子どもがヨセフです。父ヤコブは10人の兄に比べてヨセフを特別扱いし、溺愛し、ヨセフにだけ袖の長い晴着を作ってやったので、兄たちはヨセフを憎み、穏やかに話すことができなかったのです。また、ヨセフが見た、兄たちの束がヨセフの束にひれ伏したことと太陽と月と11の星がヨセフにひれ伏したという2つの夢のゆえに、兄たちはヨセフをねたんだのでした。ある日、父ヤコブに頼まれて兄たちの所にやって来た時、兄たちはヨセフを殺して夢がどうなるか見ようと考え、ヨセフを穴に入れました。その穴に入れられていたヨセフをミィディアン人の商人たちが、イシュマエル人に銀貨20枚で売ってしまい、ヨセフはエジプトに連れて行かれたのです。兄たちは、ヨセフの晴れ着に動物の血をつけてヨセフが死んだと父に告げたのです。

 ヨセフは奴隷としてエジプトに売られたのです。奴隷とは、ヨセフは他人の所有物になったということです。ヨセフは牛や家畜と同じように、ただ労働力として買われ、人格や権利、自由は認められなかったのです。ヨセフは最初、悲しみ嘆いたでしょう。しかし、神様を見上げて、神様に目を留めて、今置かれている自分の状況を神様のみ旨、み心だと信じ、そこから逃げて故郷に帰るというのではなく、今自分のいる場所こそが神様の定められた場所であると主人に仕えたのでした。聖書は、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。主がヨセフと共におられた」(39:2)と語ります。

しかしヨセフは、主人ポテファルの妻の濡れ衣、偽りの証言によって、王の囚人をつなぐ監獄に入れられました。奴隷以上に悪い囚人になりました。これまでヨセフを全面的に信頼し、信用してくれていた主人からも誤解され、処罰されます。しかし、そこでも主が共におられて、「主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。」と、ヨセフは囚人を皆任せられるまでになりました。自分の置かれた場所を主のみ心を信じて仕えたからでしょう。そこがどのような場所であり、どのように最悪に見える所でも、神様が共におられる所では、神様のくすしきみ業がおこされるのです。

 私たちがが、経験する苦しみや悲しみ、痛みを災いだと思う時、苦しみや悲しみ、痛みは私たちの心を苦しめることになります。しかし、私たちが経験する苦しみや悲しみ、痛みも神様が許された摂理、み心をだと私たちが受け入れる時、新しい道、未来が私たちの前に広がって行くのです。

 

 二、忘れられているように見えて忘れられていない

   ヨセフのいた監獄に、二人の人、給仕役の長と料理役の長が王の怒りを受けて入れられたのです。そして、二人とも夢を見ましたが、その意味がわからず沈み込んでいたのをヨセフが気づいて、話しを聞きます。そして、二人の見た夢を解き明かします。給仕役の長は三日目に復職できる。そして、料理役の長は、三日目に木にかけられる。そして、三日目にはヨセフの言った通りになりました。ヨセフは、給仕役の長に、「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」(創世記40:14-15)と言って、ヨセフは期待しました。三日たてば、自分は牢獄から出られる。大いに期待したことでしょう。想像するだけで心躍ることでした。しかし、40章23節には、「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」とあります。現実の厳しさがあります。苦しい時の神頼みではありませんが、自分の願いが答えられたら神様を忘れてしまうようなものです。ヨセフは待っても、待っても、何も起こらない状況に、落ち込んだことでしょう。けれども、奴隷としてポティフアルに売られた時も、濡れ衣で監獄に入れられた時も、主が共におられた。そして、主が共におられたことを信じたがゆえに、それがどのような劣悪な所であっても、理不尽な状況であっても、神様がそこを自分の置かれた場所と信じて仕えて来た。そのように、給仕役の長に忘れられたことは悲しいけれども、そのことさえも、神様の導きだと信じて、監獄で囚人たちに一生懸命に仕えたのではないかと思うのです。2年間忘れられたのです。忘れられるということは辛いことです。いやなことです。苦しいことです。しかし、そのことがヨセフには必要だったのでしょう。ヨセフにも人にも分からないことですが、神様にだけわかることでした。

   私たちも、人に忘れられることがあります。約束したのに忘れられたという経験があるでしょう。神様に忘れられたと感じることがあるでしょう。祈っても、祈っても祈りに答えて下さらない。何も起こらない。良くなるどころか、悪くなる一方、そのような時、私は神様に忘れられたのではないか。見捨てられたのではないかと感じることがあるのかも知れません。しかし、神様が私たちを忘れることも見捨てることも絶対になさらないのです。聖書には、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。」(ヨハネ14:18)とあり、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)と約束しておられるのです。また、「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めていると主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ29:10)とあります。

 今私たちがどのような状況にあろうとも、どこに置かれていようとも、神様は私たちに目を留め、恵みを用意しておられることを信じたいのです。

 

 三、全ての事を益となされる神様

 41章の1節には、「二年の後、ファラオは夢を見た。」とあります。コヘレト3章1節には、「何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」とあります。時とは、単なる時間の経過ではなくて、時には、始まり(計画)と明確な目的(完成)があります。目的を達成されるのが、時の所有者であられる神様なのです。時の王、偉大な王ファラオも、神様の御手の中に握られ、神様の目的を果たすために用いられるのです。「ファラオは夢を見た」という夢は、ヨセフを監獄から引き出し、ヨセフをエジプト全国の司にし、ヨセフの家族を救うためでした。ファラオの見た夢は、2節から7節にあるように「突然、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛が川から上がって来て、葦辺で草を食べ始めた。すると、その後から、今度は醜い、やせ細った七頭の雌牛が川から上がって来て、岸辺にいる雌牛のそばに立った。そして、醜い、やせ細った雌牛が、つややかな、よく肥えた七頭の雌牛を食い尽くした。ファラオは、そこで目が覚めた。ファラオがまた眠ると、再び夢を見た。今度は、太って、よく実った七つの穂が、一本の茎から出てきた。すると、その後から、実が入っていない、東風で干からびた七つの穂が生えてきて、実の入っていない穂が、太って、実の入った七つの穂をのみ込んでしまった。ファラオは、そこで目が覚めた。それは夢であった。」というものでした。ファラオは不安になり、エジプト中の魔術師と賢者を全て呼び寄せ、自分の見た夢を話しましたが、誰もその夢を解き明かすことができなかったのです。エジプト中が、ファラオの見た夢で騒いでいる時、例の給仕役の長がファラオに申し出るのです。9節後半から13節です。「わたしは、今日になって自分の過ちを思い出しました。かつてファラオが僕どもについて憤られて、侍従長の家にある牢獄にわたしと料理役の長を入れられたとき、同じ夜に、わたしたちはそれぞれ夢を見たのですが、そのどちらにも意味が隠されていました。そこには、侍従長に仕えていたヘブライ人の若者がおりまして、彼に話をしたところ、わたしたちの夢を解き明かし、それぞれ、その夢に応じて解き明かしたのです。そしてまさしく、解き明かしたとおりになって、わたしは元の職務に復帰することを許され、彼は木にかけられました。」

 給仕役の長は、2年前の監獄での経験を思い出しました。夢を解いた人がいた。そして、その通りになった。もしかしたら、彼ならファラオ王の夢も解き明かせるかも知れない。

14節には、「そこで、ファラオはヨセフを呼びにやった。ヨセフは直ちに牢屋から連れ出され、散髪をし着物を着替えてから、ファラオの前に出た。」とあります。もし、2年前に給仕役の長がヨセフの事を話していたら、ただ犯罪歴のある囚人として、監獄を出ることができても、奴隷として他の主人に仕えていたことでしょう。けれども、2年間忘れられることで、2年後、ファラオが夢を見た時に、給仕役の長がヨセフを思い出すことによって、ヨセフはファラオの前に召し出されたのです。これこそが、神様の御計画でした。

 私たちは、人からも神様からも忘れられると悲しく辛い思いになります。しかし、神様はヨセフを忘れておられたのではなくて、この時を備えておられた。あの時、給仕役の長は忘れてよかったのです。思い出さなくてよかった。いや、神様が思い出させなかったのです。ヨセフは給仕役の長ではなくて、神様によって推薦されたのでした。「自己推薦する者ではなく、主から推薦される人こそ、適格者として受け入れられるのです。」(Ⅱコリント10:18)とあり、リビングバイブルには、「自分を誇り、自分を推薦する人ではなく、主に推薦される人こそ、真に価値ある人です。」とあります。

 ヨセフは兄たちにねたまれ、憎まれ、殺されそうになり、エジプトに奴隷として売られたこと、濡れ衣で無罪の罪で、監獄に入れたこと、夢を解き明かしても2年間忘れられたこと、その全ての事が神様の深い綿密な御計画であったのです。辛いことも悲しいことも絶望でさえも、それは神様の御計画でした。ヨセフは周りの状況がどんなに困難であっても、苦しみや悲しみが満ちていても、その苦しみや悲しみに飲み込まれてしまうのではなくて、その中で、神様が共におられることを信じて、感じて、神様に目を留めて、前向きに、神様を信じて歩んでいたのです。

 

 Ⅲ結論部

詩篇105篇17節から21節には、「あらかじめひとりの人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ/首に鉄の枷をはめることを許された主の仰せが彼を火で練り清め/御言葉が実現するときまで。王は人を遣わして彼を解き放った。諸国を支配する王が彼を自由の身にし、彼を王宮の頭に取り立て/財産をすべて管理させた。」とあります。リビングバイブルには、「一方、ご自分の民を飢えから救うため、ヨセフを奴隷としてエジプトに送られました。ところがヨセフは牢獄につながれ、足かせや鉄の首輪をかけられたのです。神の時がくるまで、ヨセフは忍耐を試されました。彼はついに、王によって自由の身とされ、王室の全財産の管理を任されました。」とあります。ヨセフは苦しみや悲しみ、痛み、忘れられるという経験を通して、神様に取り扱われたのです。ファラオの前に立つ者として相応しい者とされたのでした。

 私たちは弱い者です。けれども、神様は私たちを救うために、神であるお方イエス様を人として、この世に遣わし、私たちが罪人として受けるべき罰を身代わりに受け、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちは罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命が与えられたのです。私たちを救うために神様はイエス様を十字架につけ、よみがえらされたのです。私たちは、このイエス様の十字架と復活を知るため、信じるために生かされているのです。

 今私たちが、困難や痛み、悲しみを経験しているなら、神様に忘れられているように感じているなら、それは、神様の私たちに対する目的があること、私たちを祝福するためであること、私たちを救うためであることを覚えて、神様を疑うのではなく、信じて、イエス様が共にいて導いて下さることを信じて、この週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。

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