「目を覚ましていなさい」マタイ24:32-44 神学生 吉武 良司
今日は、携挙についてお話をします。なぜ携挙の話をするかと言いますと、今その前に起こる前兆がほぼ実現しているからです。終末論になりますが、絶望ではなく、希望のお話です。先週の水曜日から受難節に入りましたが、イエス様が十字架で苦しまれたのちに死なれて復活された希望と同じです。私たちのすべての罪をイエス様が贖って下さり、復活によって神様の栄光が現わされました。信じた人たちすべての罪が赦され、永遠の命が与えられました。言葉では言い表せないほどの大きな希望と恵みです。この事を思い巡らせながら受難節を過ごして行きたいと思います。
マタイ24:6―8に「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」これは、イエス様が十字架に架けられる数日前に、オリーブ山で弟子たちに語られた、終末の徴です。必ず起こると言っていますが、現実に今戦争も飢饉も地震も起こっています。しかし、終わりではなくこれは、産みの前の苦しみの始まりと言っています。赤ちゃんが生まれる前の陣痛です。苦しみの後には、その苦しみをはるかに超えた希望と喜びがあるのです。
少しだけ最近のニュースを取り上げます。ロシアのウクライナ侵攻から始まった戦争が24日で1年が経過し2年目に突入しました。今ウクライナ東部への攻撃が激化しています。ロシアが掌握しようとしているのは、東部ドネツク州のバフムトや東部ハルキウ州です。建物が破壊されて、ほとんどの住民がここでの生活が出来なくなりました。先週21日にプーチン大統領は演説で、ウクライナが西側諸国と戦争の準備をしていたので、ロシアはそれを止めようとして侵攻したのだとウクライナ侵攻を正当化しました。両軍の死傷者は、この一年間で、ウクライナで10万人、ロシアで20万人を超えました。死者は毎日500人を超えています。プーチンはこれからも侵攻を続けると言っていました。終息どころか、ウクライナ支援国からの兵器と戦車の供与も決まり、さらなる激化が予想されます。悲しすぎるので、必ずそのあとには希望があると考えたいです。6日にはトルコとシリアで大地震が発生しました。21日には2回続けて大地震が起こり、死者が5万人を超えました。日本でも今後100%発生すると言われている南海トラフ地震は、今回のトルコ、シリア大地震の震度マグニチュード7.8を超えるマグニチュードが最大9.1で、津波は最低で5メートル以上というデータが気象庁から出ていました。赤道ギニアでは史上初のマールブルク病の発生が確認されました。ウィルス性出血熱で致死率88%の感染症です。これらすべて、人間には予測不可能な出来事です。コロナウィルスもオミクロン株が変異を続けているそうなので、まだ油断出来ません。新たな猛威が急速に次から次へと襲って来ています。携挙もいつ起こるか予測不能ですが思いがけない時に来ます。まず携挙とはどのようなものであるかを、頭に思い描いて置きたいと思います。
Ⅰテサロニケ4:16―17に書いてあります。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれている死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」携挙という言葉は聖書には出て来ません。天に引き上げられる事を携挙と言っています。ギリシャ語で、ハルパゾーと言って、一瞬にして奪い取られて行く事を意味します。どういう事かと言いますと、天使の声とラッパが鳴り響く音が聞こえたら、それが携挙の時の合図です。イエス様が天から空中までくだって来ます。死んで先に天国に帰られたクリスチャンがまず復活して、次に地上にいるクリスチャンが雲に包まれて空中に一瞬で引き上げられます。引き上げられると空中で、先に天国に帰られたすべての人たちとまた会えるのです。さらにはイエス様といつまでも一緒にいられるのです。これこそが希望です。みんなとまた会えるのでワクワクしますね。
この事は、いつ起こるかは聖書にも書いてありませんが、神様の御計画ですから必ず起こります。この時はイエス様が地上までは降りて来られないので、空中再臨と言われます。その時がいつ来てもいいように目を覚まして、準備をして置かなければなりません。今日の聖書箇所の32節の「いちじくの木から教えを学びなさい。枝がやわらかくなり、葉がのびると、夏の近づいたことが分かる。」ここで、イエス様は、いちじくの木の譬えにより、弟子たちに終末の出来事について語りました。
いちじくはイスラエルを象徴しています。夏と終末のヘブル語は夏がカイツで終末がケーツと言います。ヘブル語はイスラエルの言語です。文字がクフ、ユッド、ツァディという3文字で語根が同じです。イエス様は、終末を絶望ではなく夏の収穫という希望として示しています。これはイスラエルの回復を意味しています。いちじくの収穫期は、夏から始まります。マタイ21章にも、いちじくの木の譬えがあります。この時はイスラエルの霊的状態を示すために、いちじくの木を枯れさせてしまいます。そして、弟子たちに、信仰を持ち、疑わないならば、いちじくの木に起こったようなことが出来る。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。と教えられました。イエス様はすべてにおいて、絶望で終わらせないのです。
33節以降で、これらすべての事を見たなら、すなわち、戦争や地震などを見たら、終末の時が近づいていると悟りなさいと言っています。そして、天地が滅びても、神様の言葉は永遠に残ると言っています。天地が滅びるのは艱難時代の最後です。携挙の時には天地は滅びないので、ここまでは携挙ではなく再臨の事を言っています。戦争というと旧約聖書のエゼキエル書に出て来るエゼキエル戦争も携挙の前に起こる戦争です。僕が青葉台教会に来て、最初の奨励でお話したところです。今日は後半の戦争の結末までの話です。
エゼキエル書38:8に「多くの日の後、お前は呼び出され、また、多くの年を経た後、一つの国を襲う。それは、長く荒れ廃れていたイスラエルの山々で、そこには、剣の恐れから解放され、多くの民の中から集められた民がいる。彼らは多くの民の中から連れ出されて、今は皆、安らかに暮らしている。」今の平穏なイスラエルに敵対国が攻撃を始めます。最初の奨励で、エゼキエル戦争は、ロシア連合国が、イスラエルを攻撃する戦争とお話しましたが、色々調べると、マゴクという言葉をロシア連合国と断言出来ませんでしたので、敵対国がイスラエルを攻撃するに訂正します。申し訳ありませんでした。
今のイスラエルの状況は、1948年5月14日の建国から約80年が経ち、離散したユダヤ人たちが戻って来ています。今は約670万人のユダヤ人が平穏に暮らしています。エゼキエル書の預言の通りになりました。2009年から発見されている地中海東部の海底ガス油田は、イスラエルの今後120年分の埋蔵量と言われています。欧州のガス供給源は脱ロシアから今後はイスラエルへと期待されています。経済大国となり、IT技術でも最先端を行き、農業先進国で、軍事力も中東最大にまでなりました。核兵器も公表していませんが90発持っています。ロシアとアメリカはそれぞれ5000発以上保有していて、全保有数の9割を占めています。核断絶からは、ほど遠い現実です。
2020年の8月13日にアメリカのトランプ前大統領が間に入って、イスラエルと今まで敵対していたアラブ首長国連邦との国交正常化のために、アブラハム合意を締結しました。アブラハムという名前が付けられたのは、アブラハムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の始祖であり、二人の息子の一人イサクはユダヤ民族でもう一人のイシュマエルはアラブ民族で、その共通の父祖であることから名前が付けられています。この合意は、イスラエルとアラブ諸国が敵対国から攻撃されないための準備とも言えます。この合意で飛行機もアラブ上空を飛行出来るようになりました。来月からは成田空港からの直行便も始まるようです。
エゼキエル戦争の結末は、エゼキエル書38章18節から39章に書いてあります。どこかがイスラエルを攻撃するその日に、神の怒りが激しく燃え上がり、その日にイスラエルに大地震が必ず起こる。海の魚、空の鳥、野の獣、地の上を這うすべてのもの、地上のすべて人間が震え上がり、山は裂け、崖は崩れ、すべての城壁が倒れる。同士討ちが始まり、疫病と流血によって裁かれ、その軍勢と共にいる多くの民に、大雨と雹と火と硫黄を上から注ぐ。神の偉大さが示され、神が主である事を知る。次に、敵対国の総首長を北の果てからイスラエルの山々に来させ、すべての軍隊と共にいる民と共にイスラエルの山の上で倒し、あらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食になる。猛禽とは、鋭い爪と嘴を持つ鳥類の総称です。
次に、イスラエルの中のよく知られている場所に敵対国の軍隊のお墓が出来ます。そこにすべての軍勢が埋められ、埋め終わるとそこに、軍勢という意味のハモナという名の町が出来ます。ハモナという名前の町が出来た時が、エゼキエル戦争の終わりという事になります。神様はヤコブの繁栄を回復し、イスラエルを憐れみ、すべてのユダヤ人をイスラエルに集めます。その時彼らは、彼らの神、主である事を知り、神の霊がイスラエルの家に注がれて、神様から選ばれた民であるユダヤ人が、紀元70年にローマに攻撃されて、エルサレムが陥落し、神殿が破壊されてから、約2000年の時を経て神様に立ち返る時がようやく到来しました。いちじくの木の譬えにあったイスラエル回復の時です。
今の時代は、この戦争の様子も、全世界がリアルタイムで見る事が出来ます。これも預言の通りです。その意義として世界中の人々が神様の栄光を見て信じて、多くの人々が救われるチャンスが与えられました。終末は終わりという絶望ではなく、希望であり、励ましと祝福をもたらす神様の壮大な計画でした。7年の艱難時代の後は、イエス様が再臨され、エルサレムの新しい神殿に住まわれて地上を統治します。それが千年王国の時代です。その後に地上最大の戦争が起こり、最後にあるのが新天新地です。争いも痛みも罪もない神の御国です。この事は新約聖書の最後のヨハネの黙示録に書かれています。
聖書箇所に戻ります。36―39節は、ノアの箱舟の話をされました。ノアの箱舟は陸地で造られていたので、見た人々から馬鹿げているとさげすまれていました。それでもノアは舟を造りながら人々に必ず洪水が来ることをきっと伝えていましたが、舟に乗ったのはノアの家族と動物だけでした。神様から洪水の時が示され、箱舟の扉を閉めた瞬間から40日40夜雨が降り続いたのでした。信じなかった人々は普通に生活をしていて、洪水にさらわれるまで気付かずに、すべての人々が滅ぼされました。イエス様も突如来られます。
40-41節で「畑の二人の男のうち一人は連れて行かれ、一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、一人は残される。」ここは、普通に生活しているクリスチャンの事を言っていますが、信仰の無い者が地上に残されるイメージがあります。だとすると人間は皆罪人なのですから、全員が残されるはずです。不安になるのではなく、残された者は、艱難時代を耐え、福音を宣べ伝えるために選ばれた者と考えます。一人でも多くの人が救われるための希望です。苦しい時にこその希望です。ヨハネ3:16に「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」このように一人も滅ぼしたくないのが神様のみこころです。そのみこころに応えて、その愛と恵みをしっかり受け止めたいと思います。しかし、人間は傲慢になり、必ず罪を犯します。そういう生き物です。その時は悔い改めて、そのたびに「お赦し下さい」とお祈りするしかありません。
42―44節「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」イエス様は、いつ来られるか分からないというよりも、いつ来られてもいいように用意をしておきなさいと忠告されています。天使の声とラッパの音が聞こえた時に眠っていたら目を覚ましましょう。
先ほど、今の時代は、全世界の事がリアルタイムで見られる時代と話しましたが、情報には偽物もあります。今流行りの異端宗教も正しい情報を遮断して、不安を煽り、巧みに洗脳します。今私たちに求められる事は、自分が惑わされないための見極める目と人を惑わさないための真の愛を持つ事です。不安な時代だからこそ、イエス様から愛されているように隣人を愛し、出会うすべての人を大切にして生きて行きたいと思います。信頼出来るのは聖書の御言葉のみです。目を覚ますべき答えが聖書に書いてあります。その箇所を読んで終わりたいと思います。マタイ25:31-40です。新共同訳では50ページ下の段左からです。お読みします。 人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気の時に見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えているのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』これが、目を覚ますべき最も大切な隣人愛です。