2016年8月28日 青葉台教会(聖日礼拝)
聖書:列王記上17章8節ー24節『神の言葉に生きる』
序論
おはようございます。
8/11-8/13まで関東地区ティーンズキヤンプがあり、青葉台からたくさんの子供達が参加されました。お祈りをありがとうございました。私はそのまま8/14ー17まで夏期休暇後半を頂きまして、沖縄に行ってきました。3日間天候にも恵まれ、南国の海の美しさ、沖縄人の少し気の長さなど感謝でした。一昨年、イスラエルツアーのメンバー達と、ツアーに参加した40歳のくらいの若い牧師先生の教会を訪ねました。形式的な形にとらわれず、カフェのような落ち着いた、オシャレなセンスのいい教会で感銘しました。ご家族との交わりはあっという間に過ぎ去り、学ぶところがたくさんあり、出会えたことを感謝したひとときでした。お祈りを有難うございました。
(お祈りいたします。)
神学生数年目の時、1年間ほどある方がよく目をかけて下さいました。その方は、週に1・2回、たくさんのご飯とおかずを紙袋に入れて、私のところに届けてくれました。課題に追われ、料理など作る時間さえ惜しみ、食べない選択まで視野に入れていた私にとって、まさにカラスのような働きをされる人です。手作りのご飯、おかず、時にはデザート、お菓子など。一人暮らしで、栄養も偏り気味の私には、本当に養われていることに心から感謝しました。人はご飯を食べなければ、生きていくことができません。しかし、肉体だけでは朽ちてしまいますが、霊的な面でも養われないといけないのです。今日は、列王記上17章8節ー24節「神の言葉に生きる」と題して、語らさせていただきます。
本論Ⅰ 背景
・アハブの罪
アハブ王は北イスラエル王国で、治世は22年間でした。北王国の最も最悪な王として聖書には「アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」と3度にわたって記されています。こんなにも悪いやつはいないと言っているのです。アハブ王の罪とはなんでしょうか。大きく分けると3つありました。1つ目は、異教の王の娘イゼベルを妻としてめとったこと。2つ目は、イゼベルと結婚することで、故国であるフェニキヤとカナンの宗教バアル礼拝を崇拝し、大々的にイスラエルに導入したこと。3つ目は、アハブ王は、真の神の預言者をたくさん迫害し、多くの預言者を殺害してきたのです。
アハブ王は前の章16章30−33において、「ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。バアル神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」アハブ王はイゼベルと結婚して以来、
数々の罪を犯し、出エジプト20章において十戒の第1と2を破り、さらに、足を踏み入れて続けて歩んできたわけであります。「あなたには、わたしをおいてほかの神があってはならない。あなたなはいかなる像も作ってはならない。」という神様のお約束を見事に無視していくのです。
ここで皆さんに、バアルとアシュタロテの神を紹介いたします。
・バアルの神
バアルの神は天候を支配する神とされ、すなわち雨を与える神とされていました。アシュタロテの神は、動物、植物に生命を与える神。すなわち、肥沃、多産、愛、快楽の神としてカナン人の間で崇められていました。アハブ王の治世に預言者として活躍したのが、ティシュべ人エリヤです。
預言者エリヤは、こう言いました。「17章1節 わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
イスラエルが危機的状態にあった時、神がモーセやサムエルなど預言者を立てられたように、北イスラエル王国が危機的な状態の時、モーセたちのように偉大な預言者エリヤを召されたのです。聖書を見ますと、エリヤは異教の神バアルに立ち向かい、勇気と信仰、情熱を兼ねていました。
エリヤは、アハブ王が北イスラエル王国にバアルの神を大々的に取り入れ、いつしかバアルの神をなんとも思わなくなってしまった人々を見て、抗議し、アハブに戦いを挑むのです。
この飢饉は、アハブの治世に対する神さまの裁きでありました。雨期と豊穣の源であると信じられていたバアルの神礼拝への大きな挑戦でもあります。こうして、エリヤが予言してから、飢饉が始まったのです。エリヤは、神様からアハブ王のところへ行けと召し出され、飢饉が起こると予言すると、すぐ逃亡するような形になるわけです。「ここを出てヨルダンの東のほとりにあるケリトの川のほとりに身を隠せ。」今日、その場所は分かっていません。けれども、身を隠せるほど人里離れた場所があったことが想像できます。神様はエリヤに約束をされました。「わたしはカラスに命じて、そこであなたを養わせる。」人間的ないろんな思いがあったことだと思います。でもエリヤは「あなたを養うから」と約束して下さった神の言葉だけを信じて従ったと思うのです。神さまの言葉に通りに従ったエリヤは、不思議なことに朝夕ごとに幾羽かのカラスによってパンと肉を与えられ、川の水を飲み、神様から養われるのです。
出エジプト16章ではやっとイスラエルの民がエジプトの国を出発した民を率いて、荒野に着いた時、水不足で民は不平不満を言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。」食べ物がないと不平不満を言うと、神様は、毎朝パンを天から降らせ、夕方にはうずらを飛ばせて不従順な民に対して40年間も養って下さったことを思い出します。
エリヤのその時の思いはどうだったでしょうか。アハブ王から逃亡しているので、身を隠す=命を狙われている。何日間ぐらいいればいいのだろうか。食べ物は?エジプトの時とは異なり、どうやって生きていくのか。と着いた晩、考えたかもしれません。でも、神様は、ちゃんと目を注いでおられ、カラスを用いて養われ、困難をも乗り越えさせてくださるのです。しかし、しばらくすると干ばつによって、ケリト川の水も涸れたのです。預言者だから水があるというわけでは何のです。神の命令で、今度はシドンの南にあるサレプタへ行き、移住することとなったわけであります。
本論Ⅱ
・やもめ女性に希望
神に従ってシドンに向かう、預言者エリヤ。シドンは、異邦人の国、アハブ王の妻イゼベルの故国です。サレプタの町は、ツロとシドンの間にあり、地中海に面した港町で、バアルの本拠地でした。エリヤがサレプタまで逃亡したとき、選民イスラエルは誰もかくまってくれるだけの信仰者はいません。エリヤをかくまってくれるやもめの女性は、なんと異教の国の民でした。シドンはなんと命を狙っているかもしれないアハブ王の妻イゼベルの故国。しかも、そこでやもめの世話になれ!とおっしゃるのです。
エリヤが神様から「シドンのサレプタに行きなさい」と言われた時、王妃イゼベルの故国だということは知っていたでしょう。拒むこともできたと思います。でも、カラスを通して養われた神様への信仰は、水が涸れても、エリヤの内なる信仰の水は潤っていたでしょう。だからこそ、命を狙っているかもしれない、王妃の故国でも行くことが可能だったと思うのです。
サレプタに着くと薪を拾っている一人のやもめに出会います。エリヤは「水を飲ませてください。」「パンも一切れ手に持って来てください。」と頼むと、やもめはこう言ったのです。「私には焼いたパンなど、ありません。壺の中に、一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油だけがあるだけです。」そのやもめは「1握りの粉とわずかな油で食べ物を作り、死ぬのを待つばかりですと答えました。」貧しさと飢饉のために、親子心中しようとしていたわけです。そんな哀れな親子に対して、こう言ったのです。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりに死なさい。だが、まず、それで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。」
「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壷の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない。」
やもめは、その御言葉をきいて希望が与えられたのか、愛する息子と死を覚悟しなければならないという状況の中で、飢饉を起こされたイスラエルの神、主に不満を言うのではなく、神様の奇跡を信じて、エリヤの言った言葉どおりにしたのです。14節、15節は最もクライマックスの節だと思います。
この世的に見ると、カラスややもめは正直頼りのない、力のない、常識的に考えにくい存在です。でも神様が働かれる時、カラスややもめのような低く想像もつかないような手段を用いて、神の栄光を現されるのです。生活の極限まで追い詰められ、たった1握りの小麦粉とわずかな油しかないやもめ。しかし、彼女は、イスラエルの神主の約束を固く信じ、行動に移した結果、一人の信じる行動が奇跡を生み、神に養われ、神の祝福を受けるのです。
主がエリヤによって告げられたみことばの通り、粉と油は尽きることなく、彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に困りませんでした。しかし、この後、彼女の息子が重病にかかり、亡くなってしまったという苦しみあい、エリヤの必死なとりなしの祈りで息子は生き返るのです。
イスラエルに偶像を持ち込んだイゼベルの出身地に住むこのやもめは、バアルでもアシュラでもなく、イスラエルの神を信じたのです。信じて行動を起こすることき、神の御業が起こるので
す。カラスの養いもやもめの養いも、やもめに起きた着せきも全て、神の言葉に従い、そこに生きたからなんです。
適応
神様の御心は最もしたくない、行きたくない、できれば避けたいと思うことを通らなければならないことがあります。しかし、そこには、神様の計り知れない大きなみわざを体験することができる恵みがあります。預言者エリヤもこのやもめもそのみわざを体験し、やもめの女性は「主のことばは真実です」と告白までしているのです。
神の目から見て希望なし、現実にも生きる力もないそんな弱いやもめでさえも、神様は何かを通して必要とされておられます。神様は、従う者を助けるために働かれ、神の御業を体験するために、私たちは神様の御言葉を聞き、神様に日々養われ、力を得ることが大切です。
エリヤにとってはカラスを通され、異教地に住むやもめは神様が預言者エリヤを通して語られ、尽きることのない神のみわざの体験と恵みと祝福を得ました。神様に養われて生きるとは、神様とつながりを持つことだと感じます。神のみ言葉をいただき、祈ることもそうですし、ひとりになって、神様との時間を持つこともそうです。また、養われている人と交わることで、神様の養われている幸いを感じる手段となると思います。ぜひ、神様の言葉に養われ、生かされながら、力を得て今週も歩んでまいりましょう。