江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2016年8月28日)

2016-08-28 20:35:57 | Weblog

2016年8月28日 青葉台教会(聖日礼拝)

 

聖書:列王記上17章8節ー24節『神の言葉に生きる』

 

序論

おはようございます。

8/11-/13まで関東地区ティーンズキヤンプがあり、青葉台からたくさんの子供達が参加されました。お祈りをありがとうございました。私はそのまま8/14ー17まで夏期休暇後半を頂きまして、沖縄に行ってきました。3日間天候にも恵まれ、南国の海の美しさ、沖縄人の少し気の長さなど感謝でした。一昨年、イスラエルツアーのメンバー達と、ツアーに参加した40歳のくらいの若い牧師先生の教会を訪ねました。形式的な形にとらわれず、カフェのような落ち着いた、オシャレなセンスのいい教会で感銘しました。ご家族との交わりはあっという間に過ぎ去り、学ぶところがたくさんあり、出会えたことを感謝したひとときでした。お祈りを有難うございました。

(お祈りいたします。)

 

神学生数年目の時、1年間ほどある方がよく目をかけて下さいました。その方は、週に1・2回、たくさんのご飯とおかずを紙袋に入れて、私のところに届けてくれました。課題に追われ、料理など作る時間さえ惜しみ、食べない選択まで視野に入れていた私にとって、まさにカラスのような働きをされる人です。手作りのご飯、おかず、時にはデザート、お菓子など。一人暮らしで、栄養も偏り気味の私には、本当に養われていることに心から感謝しました。人はご飯を食べなければ、生きていくことができません。しかし、肉体だけでは朽ちてしまいますが、霊的な面でも養われないといけないのです。今日は、列王記上17章8節ー24節「神の言葉に生きる」と題して、語らさせていただきます。

 

本論Ⅰ 背景

・アハブの罪

アハブ王は北イスラエル王国で、治世は22年間でした。北王国の最も最悪な王として聖書には「アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」と3度にわたって記されています。こんなにも悪いやつはいないと言っているのです。アハブ王の罪とはなんでしょうか。大きく分けると3つありました。1つ目は、異教の王の娘イゼベルを妻としてめとったこと。2つ目は、イゼベルと結婚することで、故国であるフェニキヤとカナンの宗教バアル礼拝を崇拝し、大々的にイスラエルに導入したこと。3つ目は、アハブ王は、真の神の預言者をたくさん迫害し、多くの預言者を殺害してきたのです。

 

アハブ王は前の章16章30−33において、「ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。バアル神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。」アハブ王はイゼベルと結婚して以来、

数々の罪を犯し、出エジプト20章において十戒の第1と2を破り、さらに、足を踏み入れて続けて歩んできたわけであります。「あなたには、わたしをおいてほかの神があってはならない。あなたなはいかなる像も作ってはならない。」という神様のお約束を見事に無視していくのです。

 

 

ここで皆さんに、バアルとアシュタロテの神を紹介いたします。

・バアルの神

バアルの神は天候を支配する神とされ、すなわち雨を与える神とされていました。アシュタロテの神は、動物、植物に生命を与える神。すなわち、肥沃、多産、愛、快楽の神としてカナン人の間で崇められていました。アハブ王の治世に預言者として活躍したのが、ティシュべ人エリヤです。

預言者エリヤは、こう言いました。171節 わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私が告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」

イスラエルが危機的状態にあった時、神がモーセやサムエルなど預言者を立てられたように、北イスラエル王国が危機的な状態の時、モーセたちのように偉大な預言者エリヤを召されたのです。聖書を見ますと、エリヤは異教の神バアルに立ち向かい、勇気と信仰、情熱を兼ねていました。

エリヤは、アハブ王が北イスラエル王国にバアルの神を大々的に取り入れ、いつしかバアルの神をなんとも思わなくなってしまった人々を見て、抗議し、アハブに戦いを挑むのです。

この飢饉は、アハブの治世に対する神さまの裁きでありました。雨期と豊穣の源であると信じられていたバアルの神礼拝への大きな挑戦でもあります。こうして、エリヤが予言してから、飢饉が始まったのです。エリヤは、神様からアハブ王のところへ行けと召し出され、飢饉が起こると予言すると、すぐ逃亡するような形になるわけです。「ここを出てヨルダンの東のほとりにあるケリトの川のほとりに身を隠せ。」今日、その場所は分かっていません。けれども、身を隠せるほど人里離れた場所があったことが想像できます。神様はエリヤに約束をされました。「わたしはカラスに命じて、そこであなたを養わせる。」人間的ないろんな思いがあったことだと思います。でもエリヤは「あなたを養うから」と約束して下さった神の言葉だけを信じて従ったと思うのです。神さまの言葉に通りに従ったエリヤは、不思議なことに朝夕ごとに幾羽かのカラスによってパンと肉を与えられ、川の水を飲み、神様から養われるのです。

 

出エジプト16章ではやっとイスラエルの民がエジプトの国を出発した民を率いて、荒野に着いた時、水不足で民は不平不満を言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって死んだ方がましだった。あの時は、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹一杯食べられたのに。」食べ物がないと不平不満を言うと、神様は、毎朝パンを天から降らせ、夕方にはうずらを飛ばせて不従順な民に対して40年間も養って下さったことを思い出します。

エリヤのその時の思いはどうだったでしょうか。アハブ王から逃亡しているので、身を隠す=命を狙われている。何日間ぐらいいればいいのだろうか。食べ物は?エジプトの時とは異なり、どうやって生きていくのか。と着いた晩、考えたかもしれません。でも、神様は、ちゃんと目を注いでおられ、カラスを用いて養われ、困難をも乗り越えさせてくださるのです。しかし、しばらくすると干ばつによって、ケリト川の水も涸れたのです。預言者だから水があるというわけでは何のです。神の命令で、今度はシドンの南にあるサレプタへ行き、移住することとなったわけであります。

 

本論Ⅱ

・やもめ女性に希望

神に従ってシドンに向かう、預言者エリヤ。シドンは、異邦人の国、アハブ王の妻イゼベルの故国です。サレプタの町は、ツロとシドンの間にあり、地中海に面した港町で、バアルの本拠地でした。エリヤがサレプタまで逃亡したとき、選民イスラエルは誰もかくまってくれるだけの信仰者はいません。エリヤをかくまってくれるやもめの女性は、なんと異教の国の民でした。シドンはなんと命を狙っているかもしれないアハブ王の妻イゼベルの故国。しかも、そこでやもめの世話になれ!とおっしゃるのです。

 

エリヤが神様から「シドンのサレプタに行きなさい」と言われた時、王妃イゼベルの故国だということは知っていたでしょう。拒むこともできたと思います。でも、カラスを通して養われた神様への信仰は、水が涸れても、エリヤの内なる信仰の水は潤っていたでしょう。だからこそ、命を狙っているかもしれない、王妃の故国でも行くことが可能だったと思うのです。

サレプタに着くと薪を拾っている一人のやもめに出会います。エリヤは「水を飲ませてください。」「パンも一切れ手に持って来てください。」と頼むと、やもめはこう言ったのです。「私には焼いたパンなど、ありません。壺の中に、一握りの小麦粉と瓶の中にわずかな油だけがあるだけです。」そのやもめは「1握りの粉とわずかな油で食べ物を作り、死ぬのを待つばかりですと答えました。」貧しさと飢饉のために、親子心中しようとしてたわけです。そんな哀れな親子に対して、こう言ったのです。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりに死なさい。だが、まず、それで私のために小さいパン菓子を作って、私に持って来なさい。」

「なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで壷の粉は尽きることなく、瓶の油は無くならない。」

やもめは、その御言葉をきいて希望が与えられたのか、愛する息子と死を覚悟しなければならないという状況の中で、飢饉を起こされたイスラエルの神、主に不満を言うのではなく、神様の奇跡を信じて、エリヤの言った言葉どおりにしたのです。14節、15節は最もクライマックスの節だと思います。

 

この世的に見ると、カラスややもめは正直頼りのない、力のない、常識的に考えにくい存在です。でも神様が働かれる時、カラスややもめのような低く想像もつかないような手段を用いて、神の栄光を現されるのです。生活の極限まで追い詰められ、たった1握りの小麦粉とわずかな油しかないやもめ。しかし、彼女は、イスラエルの神主の約束を固く信じ、行動に移した結果、一人の信じる行動が奇跡を生み、神に養われ、神の祝福を受けるのです。

主がエリヤによって告げられたみことばの通り、粉と油は尽きることなく、彼女もエリヤも、彼女の家の者も、幾日も食べ物に困りませんでした。しかし、この後、彼女の息子が重病にかかり、亡くなってしまったという苦しみあい、エリヤの必死なとりなしの祈りで息子は生き返るのです。

イスラエルに偶像を持ち込んだイゼベルの出身地に住むこのやもめは、バアルでもアシュラでもなく、イスラエルの神を信じたのです。信じて行動を起こすることき、神の御業が起こるので

。カラスの養いもやもめの養いも、やもめに起きた着せきも全て、神の言葉に従い、そこに生きたからなんです。

 

適応

神様の御心は最もしたくない、行きたくない、できれば避けたいと思うことを通らなければならないことがあります。しかし、そこには、神様の計り知れない大きなみわざを体験することができる恵みがあります。預言者エリヤもこのやもめもそのみわざを体験し、やもめの女性は「主のことばは真実です」と告白までしているのです

神の目から見て希望なし、現実にも生きる力もないそんな弱いやもめでさえも、神様は何かを通して必要とされておられます。神様は、従う者を助けるために働かれ、神の御業を体験するために、私たちは神様の御言葉を聞き、神様に日々養われ、力を得ることが大切です。

エリヤにとってはカラスを通され、異教地に住むやもめは神様が預言者エリヤを通して語られ、尽きることのない神のみわざの体験と恵みと祝福を得ました。神様に養われて生きるとは、神様とつながりを持つことだと感じます。神のみ言葉をいただき、祈ることもそうですし、ひとりになって、神様との時間を持つこともそうです。また、養われている人と交わることで、神様の養われている幸いを感じる手段となると思います。ぜひ、神様の言葉に養われ、生かされながら、力を得て今週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2016年8月21日)

2016-08-21 15:05:23 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十三主日)    2016.8.21

信仰のスイッチオン」 エルテル記4:10~16

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。8月の第三日曜日を迎えました。この夏、蝉の泣き声が暑さを増します。朝早くから一生懸命、この夏の季節にしか生きることのできない蝉は、精一杯鳴いて存在を現しています。つくつくぼうしが鳴き始めましたから、暑い夏も後半戦を迎えているように思います。お盆の休みには、それぞれに旅行されたり、お休みになって、今日の礼拝を迎えていることだと思います。今日も、こうして共に集まり、心を合わせて、心を一つにして、心注ぎだして私たちの救い主イエス・キリスト様を礼拝できますことを心から感謝いたします。

 週報の報告にありますように、18日の木曜日に谷山恵子姉が天に召されました。一週間前の11日木曜日に、谷山姉の娘さんから電話がありました。私は、ティーンズキャンプが千葉であり、参加者を送迎して、すぐに教会に戻っていたので、電話を受けることができました。娘さんの話しでは、「母が教会に行きたいと言っております。そして、江上先生に会いたいと言っております。」ということで、ではすぐに行きますということで、家内と共に病院にかけつけました。病室に入ると、谷山姉は、にこっと笑顔で迎えて下さいました。とても良い笑顔なので、二人の娘さんたちは、「あら、こんないい顔して!」と言われました。しばらくお話しして、詩編23編のみ言葉を読みました。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」イエス様が共におられて、谷山姉を守られることをお祈り致しました。この交わりが、谷山姉との最後のお交わりとなりました。94年間の尊い生涯でありました。谷山姉のご家族の上に、神様の豊かな慰めがありますようにお祈りしていただきたいと思います。

 さて、今日はエルテル記4章10節から16節を通して、「信仰のスイッチオン」という題でお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、命をかけて神様に従う

 エルテル記の4章は、エルテル記のクライマックスと言われる章だと思います。

 エステルとは、英語では「エスター」、ヘブライ語では「ハダッサ」と示し、それはユダヤ人名であり、エステルはペルシャ名で、ペルシャ語では「星」という意味があるようです。エステテックサロン(略してエステ)という言葉をよく目にしたり、耳にしたりします。美しさには必要な事だと信じてエステに行く方もおられるでしょう。このエステとエステルが関係あるのではないか、とも考える人がいるようですが、定かではありません。大変美しかったエステルの名にちなんでエステ、エステティックサロン(美容のための施設)というのも関係があるようにも思います。エステル記には、神様とか神様の言葉がいっさい出て来ない書です。けれども、聖書として選ばれた理由は、神様のみ業がはっきりと示されているからだと思います。

エステルは、ペルシャの王クセルクセス(アハシュエロス)の王妃となりました。王の前の王妃ワシュティが王に従わなかったために王妃の座を追われたため、王妃選びがなされ、その中に、ユダヤ人モルデカイの養女エステルも王妃選びに出て、王妃に選ばれたのでした。ディズニー映画のシンデレラのようですね。私は、シンデレラは、エステル記からヒントを得て作成したのではないかと思うのです。

当時、クセルクセス王(アハシュエロス王)に用いられたのがハマンという人物でした。ペルシャでは、ナンバー2のハマンでした。ですから、ハマンの前では、ひざまずいて敬礼をしたのです。けれども、エステルの養父モルデカイは、ハマンの前では、ひざまずかず、敬礼もしなかったのです。ですから、ハマンはモルデカイを嫌い、憎みましたそして、モルデカイがユダヤ人であるということを知り、モルデカイ一人を罰するのではなく、ユダヤ人を全滅しようと、王に願い、王からの承諾をもらい、ユダヤ人を根絶することとなったのです。

そのようなお触れ書きが出され、モルデカイもユダヤ人も悲しみました。モルデカイは、衣服を裂き、粗布をまとって灰をかぶり、叫び声をあげたのです。そして、モルデカイが、王宮のエステルの事の重大さを知らせ、王に寛大な処置を願ってもらいたいと伝えたのでした。

その返事が、今日の聖書の箇所です。エステルは、王に呼ばれないで勝手に王宮の内庭近づく者は死刑に処せられるという決まりがあり、エステルは30日お召がなく、王の所には言っておらず、会話もしていないので、王の様子や考えがわからない。ただ、ひとつ王が金の笏を差し伸べると死を免れることができるけれども、どうなるかわからないのです。

そのような内容を受けたモルデカイは言うのです。13節から14節です。「モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるに違いない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。

モルデカイはエステルに厳しく言い放ちます。娘として育てたのですから、かわいいはずです。できるものなら、王宮という特別の場所にいるエルテルだけは助けたいと思うのが親の心でしょう。しかし、モルデカイの生き方は、神様のために生きる、神様の目的のために生きるということであり、そのように生きて来たのです。そして、自分の娘であるエステルに、神様の目的、ユダヤ人救済のために、自分を捨てて行動せよ、ということなのです。そして、そのように自分を捨てるチャンス、それが、あなたが王妃となった理由だというのです。このエステルの生き方は、イエス様の生き方でありました。イエス様は言われました。

わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24-25)

モルデカイの厳しいと思える言葉にエステルは答えるのです。エステルもまた、モルデカイの信仰を受け継いでいたでしょう。彼女は、自分のために3日間断食をして祈ってほしいことを伝え、「定めには反することではありますが、私は王のもとに参ります。このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」と応答したのです。エステルは、今自分の立場として、イエス様が語られたように、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と王妃として彼女にしかできない自分の十字架を負うとするのです。

 

 二、この時のために今のあなたがいる

イエス様は、十字架にかかられる前の夜、ゲッセマネの園で祈られました。そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて行き、祈ってほしいと願いました。このイエス様とエステルには、通ずるものがあるように思うのです。

エステルの祈りは、「このために死ななければならないのでしたら、死ぬ覚悟でおります。」という祈りでした。リビングバイブルには、「そのために死ななければならないのでしたら、いさぎよく死にましょう。」とあります。イエス様は、ゲッセマネの園で、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」(マルコ14:36)と祈られました。「御心に適うこと」とは、父なる神様が考えられた人間の唯一の救いの方法は、イエス様が十字架で死ぬということです。ですから、イエス様は、「十字架で死にます」ということを言われたのではないでしょうか。

エステルは、みこころのままにと祈ったのです。3日間の断食とは、イエス様が十字架で死んで3日間墓に葬られたことに通じます。全くの沈黙。ただ、全能なる神に求める以外に、このお方に信頼する以外には方法がないのです。エステルは、ユダヤ人たちのとりなしの祈りに支えられて、神様への信頼をもって、勇気をもって王の元へ行きました。そして、王が金の笏を述べたので、エステルは知恵を持って対処し、ハマンの悪だくみを王に話し、ハマンは処罰され、ユダヤ人の命は守られたのです。

エステルがクセルクセス王(アハシュエロス王)の王妃となっていなければどうなっていたのでしょうか。ユダヤ人は全滅していたことでしょう。けれども、エステルは、王妃として導かれ、最大のピンチで、信仰が試され、揺さぶられましたが、モルデカイやユダヤ人たちのとりなしの祈りとモルデカイから教えられてきた、神の目的のために生きるということを実践したのです。

この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」このモルデカイの言葉は、彼女を動かしました。この時のために、今自分は王妃という立場が与えられている。そして、その立場を生かす最大のチャンスが今である。そして、そのためには、命を捨てて、命を懸けて望まなければならないことだったのです。どこまでも、自分を今まで導き、王妃という立場を与え、王に願い事をできるユダヤ人は自分しかいないことをエステルは理解し、信仰を持って受け止めたのです。命を懸けて一歩踏み出したのです。

 

 三、祈りは力である

 エステルは、とてつもなく大きな事をしたように思いますが、ただ、信仰を持って一歩進んだだけにすぎません。ハマンのユダヤ人全滅という陰謀に対して、今自分が王妃として置かれた立場にあって、自分のできることをしただけなのです。王妃として王様に近づけるのは、ユダヤ人としてはエステルただ一人だったのです。彼女は別に特別なことはしていません。しかしそこには、信仰を持って命がけで、神様に信頼した一歩だったのです。

エステルは、勿論信仰を持って命がけで王の前に出たのですから素晴らしいです。しかし、エステルではなく、神様がエステルを通して王様にハマンの陰謀を示したのです。

 私たちも、自分の今の対場があります。中学生は中学生として、高校生は高校生、大学生は大学生、社会人は社会人、または、それぞれに与えられた役職や権利等があると思います。その与えられたものは、隣人のために、神様のために用いることができれば幸いです。また、神様もそれらのものを用いることを願っておられるのだと思います。

 モデルカイがエステルに語った、「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか」のように、今あなたが立てられているそこで、あなたのできることを信仰を持ってしていくならば、神様がそれを祝福して、豊かにあなたを用いて下さるのです。与えられた1デナリオンを地に隠してしまうのではなくて、与えられたものを用いるのです。

 私たちが、神様を信じていても、この世の力や人間に恐れをなすことがあります。また、病のゆえに、恐れてしまうことがあります。そのような時は、エステルがユダヤ人にお願いしたように、祈りがあります。エステルは、恐れがありました。殺されるかもしれないという状況も考えたでしょう。そのような恐れに支配されないように、ユダヤ人のために、自分の今置かれた自分の立場を神様が与えられたこと、今までも神様が導き、助けて下ったように、今回も守り助けて下さることを信じて行けるように、神様を信頼できるように、祈りの要請、祈りで支えてもらったのです。

 初代教会の人々が、牢獄に捕えられた時、教会ではペトロのために祈りが捧げられたと聖書は記しています。祈りは力です。祈りは私たちを強めます。祈りは神様のみ業を引き出すものです。私たちも、日々祈りを捧げています。病の中にある人、困難の中にある人、手術を受ける人、受験する人、様々な状況の中にある人のために祈るのです。そして、祈りに支えられて主のみ業が行われるのです。私たちは、お互いのために祈り合うものでありたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 エステルは、モルデカイに「この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」と言われて、信仰のスイッチが入りました。私たちは、困難や苦しみ、悲しみや痛みを通して、神様を見上げ、真剣に神様と向き合うという信仰のスイッチが入る時があるのです。11日の木曜日に、谷山姉は「教会に行きたい。江上先生に会いたい」と娘さんに言われました。今まで遠慮して言えなかった。言わなかったのかも知れません。しかしそこで信仰のスイッチが入ったのです。そして、良き交わりが与えられ、姉妹の笑顔に娘さんたちは癒されたのです。神様を信じる信仰者の姿勢を垣間見ることができたのです。私たちは弱い者ですが、信仰のスイッチが入る時があるのです。今こそ、あなたの信仰のスイッチが入る時、それが今ではないでしょうか。

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日曜礼拝(2016年8月14日)

2016-08-15 10:36:04 | Weblog

ルカ 10:25~37 すべてのことをそのまま受け入れる

                          2016,8,14

 1、明日は、終戦記念日で戦後71年目です。71年間平和であった日本ですが、何となく世界の動きが不気味になってきているように感ずるのはわたしだけでしょうか。

  英国のEU離脱、北朝鮮のミサイル、米国の大統領選挙、フランス、トルコのテロ等いままで考えもしなかったことが続いています。また、いまや世界の難民申請者は昨年には約2500万人に達しています。ひとつの国の人口に等しい人が難民になって世界に押し寄せているのです。アフガニスタン、シリア、ソマリヤからが多いそうです。

  先般、ギデオン協会の国際大会がアメリカでありました。そのときのメッセージをし

  た米国のバブテスト教会のDr.Catt牧師がいっていました。自分の教会では、非白人65%、20か国の人が集っていると、驚きですね。

 

2、さて今日の此の箇所は、イエス様の譬えの一つで、“善いサマリア人の譬え”としてよく知られている話で、すでに皆さんもご存じのはなしです。ルカにのみある話です。

  律法の専門家がイエス様を試みようとして「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのでしょうか」と問います。かれは律法の答えを知っているのです。イエス様は、彼の心を知っており、律法には何と書いてあるかと問い返します。それに彼は応えざるを得ず「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」と答えます(申6:5、レビ19:18)。3つの愛、「神への愛、自己への愛、隣人への愛」ですね。イエス様はいじわるにも、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命がえられる。」とこたえます。とてもできないことがわかっていて、そういっているのであります。自分と同じように他人を愛することなどはできないのであります。

 

3、さらに、律法の専門家は、イエスさまに問うたのにこたえさせられたので、さらに「私の隣人とは誰ですか」とイエスに問います。当時のユダヤ人は、隣人とは律法に従い同胞ユダヤ人と思っていますので、わかって問うているのです。これに対する答えが今日の箇所(30~35節)で、直接答えないで譬えでこたえているのです。

 この隣人という言葉は、通常の日本語にはないものではないでしょうか?広辞苑をひいてみますと、隣近所に住む人とあります。これでは全く意味が通じません。そのあとに隣人愛とは、①キリスト教で神の子たるべき同類の者への愛、②身近な人々への愛と書いてあります。だいぶ違う意味になります。隣人というのはクリスチャン用語でしょうね。

 

4、譬えに登場する人物は4人です。祭司、レビ人、サマリア人、強盗にあい半殺しにあった人です。はなしは、あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗にあい、服をはぎ取られ、なぐりつけられ、半殺しにされたところから始まります。エルサレムからエリコは約20km、1日で行ける距離です。エリコには祭司やレビ人が多く住んでいました。エルサレムは海抜700m、エリコは海面下400m、約1100mの高低差があるところです。よく強盗が出る所だったそうです。

 

5、そこにまず、祭司が通りかかります。倒れている同胞をみるが、それを避けるようにして道の向こう側を通り過ぎ去っていきます。同じように次に来た下級祭司とでもいうレビ人も同じように倒れている人を助けることなく、さけるようにして向こう側の道を通っていきます。祭司(8000人いた)、レビ人(1万人いた)とも、エルサレムにある神殿に仕える人々で、交代で年1~2か月、神殿に奉仕をしていた。このときも其の奉仕が終わって自宅に帰るときだったと思われます。この譬えを聞いていた人々は、日ごろ偉そうにしている祭司たちが、同胞を助けないのをさげすんでいたかもしれません。しかし、祭司たちは、清めることを非常に重んじていたので、半殺しの人に近づいたら血がつくかもしれないと思ったかもしれません。レビ記21に「死のために身を汚してはならない」とされていたからです。この姿は、他人ごとではなく、わたしたちも同じことをしていないでしょうか?駅や路上で倒れている人をみて、すぐ助けるでしょうか?今日は、急いでいるのでとか、騒ぎに巻き込まれるのは嫌だからと、向こう側をとおりすぎることはないでしょうか!祭司、レビ人の姿は私たちの姿でもあるのです。

 

 6、3番目の人が、半殺しの人を救うことを期待されて登場します。聖書は3というのが好きでエースが登場しますね。それがサマリア人だったのですね。通常ユダヤ人はサマリア人とは交際もしないし、話もしないなかです。接すると汚れると思っていたようです。これを聞いていたユダヤ人は居心地の悪い思いで聞いていたでしょう。

  このサマリア人が、そこに来ると、“憐れに思い”(断腸の思いにかられて、とか、はらわたを突き動かされて)近寄って傷に油と葡萄酒をそそぎ、包帯をし、自分のロバに載せ、宿屋に連れて行き介抱し、翌日にはさらに宿屋の主人に銀貨をわたし、介抱をたのみ、足りなければ帰りに払うとまで言ったのであります。とても普通では考えられない行為です。しかも何のみかえりも求めないで、自分の持っているものを差し出した、本当の隣人愛であり、一方的恵みともいえる行為です。

 

 37節で、イエスさまは、律法の専門家にききます。倒れていた人の隣人は誰かと。かれは不承不承、サマリア人とは言わず、その人を助けた人ですというのです。イエス様はそれを聞き、あなたも同じようにしなさいと答えているのです。この話をこの通り読むと怪我した人、困っている人を助けなさいという善行の勧めになります。まさに“善きサマリア人”の話になります。ここではそんなことをいっているのでしょうか?此の箇所の前後(72人の弟子の派遣とマリア、マルタの話)の文脈からみてそうではないと思います。

 

 7、「今日が人生最後の日だと思って生きなさい」という、小沢さんというホスピス医が書いたベストセラーになっている本があります。こんなことが書いてありました。人生の最終段階で、「人に迷惑かけるくらいなら早く死んでしまいたい」という言葉を数えきれないほど耳にしてきた。「人に迷惑をかけたくない」という思いに苦しむのは元気なときに、自分の人生をしっかり自分でコントロールしてきた人に多い。自分の行動に責任を持ち、できる限り人に迷惑をかけない様にしよう、自力でやり遂げようと思うのは、とても立派なことですが、そうした思いが、ときには自分自身をひどく苦しめることもあります。まじめで責任感が強い人、完璧主義な人、何でも自分で抱え込んでしまう人ほど、心のバランスを崩しやすいと言われるのも、そのためでしょう。しかし、生きていれば、人に頼らなければいけない瞬間が必ずやってきます。特に人生の残り時間が少なくなれば、どれほど気がかりなこと、やりたいことがあっても、自分ではどうすることもできません。また、老化や病気によって身体が思うように動かなければ、食事やトイレ、入浴さえ、自分一人ではできなくなります。他人に頼らなければ生きていけない自分を責めたりしますが、時間がたつにつれ、自分にできないことは、人にゆだねればいいのだと気づきます。そして、ゆだねることを決めた人は、必ず穏やかな表情に変わります。と語っています。

 

8、戻りますと、この倒れたユダヤ人もはじめは、サマリア人から介抱されることには、抵抗があったのではとおもいます。しかし、体が動かないと受け入れざるを得なく、ここまでも親切にされるとそんな思いも消え心から信頼し、感謝したのではないでしょうか。このサマリア人の行動は、出来そうもないことです。倒れて弱っている人に、できることすべてをささげ、寄り添い介抱したのです。ここに神さまの恵みの姿があります。このサマリア人こそイエス様で、倒れている人は私たちの姿であります。喜びのおとずれは、受けるに値しない者に全く予想もつかない仕方で突然あらわれてくるのです。まさに福音の訪れではないでしょうか。

 

9、カトリック、フランシスコ会の神父に本田哲郎という有名な方がおられます。大阪の釜ヶ崎で25年間という長い間、活動されている方です。この方が、「隣人愛とは身近な人を愛しなさいということではなく、支えや協力を必要としている貧しく小さくされている人の隣人にあなたがなって、その人を大切にしなさいという意味です」と言っています。釜ヶ崎で炊き出しをしているとき、イエス様は炊き出しをしている人の側にはいなく、それを受けねばならないほど弱い立場に立たされている、その側にいて順番を待って並んでいるのだと言っています。神は位としては最高の方です。でも、神は、いつも低みから天と地をご覧になっておられる方なのです。神の視点、視座は天の高みにあるのではなくて、地の低い所に据えられているのですと語っています。

 

10、この聖書箇所の、半殺しにあい倒れている人は、私たちのことでもあります。

 病気になった時、経済的に困窮した時、精神的にどん底まで落ち込んで生きる希望が無くなった時この姿になります。詩編33章には、「主は天から見わたし、人の子らをひとりひとりご覧になり、み座を置かれたところから、地に住むすべての人に目を留められておられます。」とあります。その私たちを見てイエス様は憐れに思い、その必要なことを、これを受けるに与えしないものに全く予想もしない仕方で突然現れてくるのであります。私たちのすべてを、そのまま受け入れてくださるのです。これがすべてを赦す福音であります。今週もイエス様に信頼し、そのみ言葉に導かれて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(20116年8月7日)

2016-08-07 12:41:44 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十一主日)    2016.8.7

よし、神の潮時だ!」 創世記40:20~41:14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。8月の第一日曜日を迎えました。毎日、34度、35度と猛暑日が続いております。一年で一番暑い月を迎えました。お互い暑さに注意して、健康が守られて、礼拝をささげることができますようにと祈ります。

 8月は6日広島、9日長崎に原爆が投下され、15日に終戦(敗戦)となり、71年が過ぎました。この8月を迎えるたびに、私たちは平和への思いがいつもよりも強くなります。私たちは、人として、クリスチャンとして、平和を願い、平和を追い求めて行きたいと思うのです。

 今日は、創世記40章20節から41章14節を通して、「よし、神の潮時だ!」という題でお話ししたいと思います。今日は、有名なヨセフ物語です。

 

 Ⅱ本論部

 一、忘れられることが恵みとなる

 ヨセフはヤコブの11番目の子どもでした。お母さんの違う兄たちでしたが、父ヤコブは自分の一番愛したラケルの子どもヨセフをどの子どもよりも大切にし、愛し、特別扱いしました。そのことにより、ヨセフは兄から憎まれ、エジプトに売られてしまいました。

 ヨセフは、エジプトの王ファラオの宮廷の役人、侍従長のポティファルの所で、一生懸命に仕え、神様が共におられてヨセフを祝福し、主人に一番頼りにされました。けれども、濡れ衣を着せられ牢屋に入れられました。しかしヨセフは、囚人となっても、忠実であり、神様が共におられ、看守長の目にかない、牢屋の世話一手を引き受けるようになりました。ヨセフは、環境が変わろうが、状況が悪かろうが、その置かれた場所で、そこにいる人々に忠実に仕えました。そのヨセフと神様は共におられて、彼のすること全てを祝福されたのです。

私たちは、今置かれた環境が最悪でも、状況が悪くても、その場所で、そこにいる人々に忠実に仕えたいと思うのです。その環境を自分で変えようとするのではなく、神様に仕えるように、そこにいる人々に忠実に仕え、自分のできることを精一杯するならば、神様が共におられ、私たちのするべきことを祝福し、神様ご自身が道を開いて下さるのです。神様が必ず進むべき所に私たちを導いて下さるのです。

 ある時二人の人、王の給仕役の長と料理役の長が過ちを犯し、ヨセフのいる牢屋に入れられました。そして、二人ともに不思議な夢を見たのでした。夢を見た二人は、意味が解らず落ち込んでいたのですが、ヨセフは、その様子を見て事情を聞き、二人の夢の内容を聞いて、その意味を説明しました。料理役の長は、三日目に木にかけられ、給仕役の長は、三日目に元の職に復帰できるというものでした。ヨセフは、元の職に復帰できる給仕役の長に願います。「ついては、あなたがそのように幸せになられたときには、どうかわたしのことを思い出してください。わたしのためにファラオにわたしの身の上を話し、この家から出られるように取り計らってください。わたしはヘブライ人の国から無理やり連れて来られたのです。また、ここでも、牢屋に入れられるようなことは何もしていないのです。」

(創世記40:14-15)

 けれども、40章23節にあるように、「ところが、給仕役の長はヨセフのことを思い出さず、忘れてしまった。」のです。この忘れられたということも神様の導きなのです。

 

 二、無駄に見える恵みの時がある

 ヨセフには夢を解く力が与えられていました。しかし、その夢を解く力も神様から与えられたものでした。給仕役の長は、自分が仕事に復帰できたことを喜び、うれしさのあまりヨセフの事やヨセフの願いを忘れてしまったのでしょう。ヨセフは、給仕役の長が復職して1日目、2日目、3日目と待ちました。1週間して、2週間して、1か月、どこかで、給仕役の長が自分のためにファラオに話して、牢屋から出してくれることを期待しつつも、いつの間にか、あきらめてしまったのです。給仕役の長はヨセフを完全に忘れました。しかし、いつも共におられた神様はヨセフのことを忘れてはいませんでした。期待を裏切られて落ち込んでいるヨセフと共におられたのです。

 私たちの人生にも、信仰生活にもうまくいかないことがあります。自分の思い通りにいかないこと、いろいろな事を忘れられてしまうことがあります。しかし、それは神様に忘れられたのではありません。神様は絶対に私たちの事を忘れることはないのです。忘れられないのです。落ち込んでいる、がっかりしているあなたと共におられるのです。そして、忘れられたことを忘れられたままにすることはないのです。ヨセフもそうでした。

 41章の1節に、「二年の後、ファラオは夢を見た。」とあります。これなのです。ファラオが夢を見るまで2年かかったのです。いや、2年間が必要だったのです。ヨセフの期待は、1日目か、2日目か、3日目か、長くて1週間ということでしょうか。しかし、神様の時は、2年間が必要だったのです。ベストの時が、二年の後だったのです。

 この2年間で、ヨセフ自身も訓練されたことだと思います。がっかりしてやる気をなくしてしまうこともあったでしょう。しかし、そのような弱さの中で、惨めさの中で、なお神様を信じて行くこと、神様だけに頼って行くことを教えられたのだと思うのです。旧約聖書の詩編105編19節には、「主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現するときまで。」という言葉があります。リビングバイブルの、18節、19節では、「ところが、彼は牢獄につながれ、足かせや鉄の首輪をかけられたのです。しかしこれこそ、ヨセフの忍耐を試す絶好の機会となりました。」とあります。

 神の時が来るまで、この2年間はヨセフを信仰者ヨセフたらしめたのでした。私たちも、うまくいかないでがっかりしたり、失敗したり、忘れられてしまうことが現実にあります。けれども、困難や苦しみ、忍耐や弱さを経験することは、私たちを信仰者としてとして整えることになるのです。弱さの中でこそ、イエス様が最も働いて下さると信じる者とさせて下さるのです。

 ヨセフにとって、この2年間は無駄でもなく、失敗でもなく、経験すべき2年間だったのです。2年前に、給仕役の長がヨセフのことを覚えて、ファラオに紹介したとしても、ヨセフはただ、牢屋から出るだけで終わっていたのです。神様のご計画は、ヨセフが小さい時に見た夢、父も母も兄たちも、私の前にひれ伏すというエジプトの総理大臣になるということ、それが神様の導きであったので、あの時、給仕役の長にヨセフのことを忘れさせられたのは神様だったと思うのです。あの時、覚えられるよりも忘れられて良かったのです。聖書は語ります。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト3:1)と。また、「神のなさることは、すべて時にかなった美しい。」(新改訳伝道の書3:11)神様はヨセフを忘れることなく、覚え、最善に導かれたのです。そのように、神様は、あなたを覚え、忘れることなど絶対にないのです。

 

 三、神の定められた時が来る

 二年後、ファラオは夢を見たのです。不吉な夢でした。恐ろしくてたまりませんでした。聖書は、「ファラオはひどく心が騒ぎ」と記しています。ですから、エジプト中の魔術師、賢者を呼び寄せて、自分の見た夢を語りましたが、誰一人、その内容を解き明かすことのできる者はおりませんでした。

 9節です。「そのとき」と聖書は語ります。この「そのとき」はとても重要な時です。まさに、「神の時」だったのです。この時に真打(しんうち)登場なのです。トリなのです。

給仕役の長は、2年前に自分と料理役の長が見た夢、不吉な夢をヨセフに説明してもらい、ヨセフが言った通りに、料理役の長は木にかけられ、自分は復職できたこと、そして、その時、ヨセフが自分のことをファラオに言ってほしいと言っていたことを思い出したのです。ファラオの見た夢によって思い出したのです。

 9節を皆さんと共に読みましょう。「そのとき、今日になって自分の過ちを思い出しました。」 給仕役の長はヨセフのことをはっきりと思い出したのです。2年前の出来事を昨日のように思い出したのです。ヨセフが夢を解き明かすことのできる人としてファラオに紹介したのです。ファラオが最も必要とした時、国中の賢者や魔術師の誰もが解き明かしのできない時、ファラオが困った時、ヨセフのことが思い出され、表舞台に登場することになるのです。この時のためなのです。2年前に、給仕役の長がヨセフのことを忘れたのは。ヨセフのことを思い出さなかったのは、この時のためだったのです。

 ヨセフは、ヨセフで、ひげをそられ、散髪され、高級な服を着せられて、ファラオの前に出され、ファラオの見た夢を聞いて、解き明かしたのです。ファラオに夢の解き明かしが、おまえにはできるそうだがと言われて、読みませんでしたが、16節には、「わたしではありません。神がファラオの幸いについて告げられるのです。」と自分ではなく、神様がなされることを証ししています。ファラオの見た2つの夢は同じ夢で、7年の豊作の後、7年の大飢饉が来るので、ふさわしい人を立て、備えるようにとヨセフはアドバイスしました。ファラオはヨセフの夢の解き明かしとその後のアドバイス、その気品と姿勢に、「このように神の霊が宿っている人は他にいない。神がそのように示されたからには、お前ほど聡明で知恵のある者は他にいない。」ファラオは言います。「お前をわが宮廷の責任者とする。」 ヨセフは一夜にして、囚人からエジプト全国の責任者、総理大臣となったのです。神様は、この時のために、ヨセフを兄たちからエジプトに売らせ、ポティファルの家で用い、ポティファルの奥さんから濡れ衣を着せられ、牢屋に追いやり、給仕役の長と料理役の長の夢を解き明かし、そして、給仕役の長に忘れさせ、ファラオが夢を見た2年後に、「そのとき」最もふさわしい時、神の時にヨセフの事を思いださせ、ファラオの前に出し、夢を解き、エジプト全国の責任者とならせたのです。全ては、この時のためだったのです。

 「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」のです。そして、

「神のなさることは、すべて時にかなった美しい。」のです。

 これらのことは、私たちの人生にも、信仰生活にも起こることを聖書は記しているのです。

 

 Ⅲ結論部

 ヨセフは、ファラオの前に立ち、夢を解き明かし、自分がエジプト全国の責任者とされた時、この苦しい2年間、忘れられた2年間の意味を知ったのではないでしょうか。常に神様が共におられたことを強く感じたのです。今まで、兄たちにエジプトに売られたことも、無実の罪で、濡れ衣を着せられ牢屋に入れられたことも、給仕役の長に忘れられたことも、腹立たしく思い、兄たちを、ポティファルの妻を、給仕役の長を恨んだのかも知れません。 ヨセフは神様に対して、「どうして助けて下さらなかったのか。守って下さらなかったのか。祝福して下さらないのか。」と文句を言い、神様に対してがっかりしてきたのかも知れません。けれども、ヨセフは、全てマイナスに見えること、苦しいこと、悲しいこと、心張り裂けるような経験も、全て神様の御手の中にあり、神様はいつも共にいて下さり、自分を守り導いておられたこと、神様は神様のご計画を着々となさっておられたことを確信したのだと思うのです。

 ですから、ヨセフは兄たちに自分の素性を明かした時、「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。」(創世記45:5) 「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」(創世記45:8)と語っているからです。

 「神のなさることは、すべて時にかなった美しい。」(新改訳伝道の書3:11)という言葉がありますが、この箇所をリビングバイブルではこう訳しています。「あらゆることには、潮時というものがあります。」まさに今日の説教題です。「神の潮時」です。

潮時というのは、「適当な時、好機チャンス」という意味があるようです。本来の意味は、「物事を行うのに、最良のタイミング」という意味だそうです。漁に出る時の潮の状況を見極め、その最も良いタイミングで船を出すことから使われるようになったのが「潮時」なのだそうです。

 神様は最も良い時に、ヨセフをファラオの前に召し出されたのです。神様は、神の時に、イエス様をこの地上に人間の姿で送り、私たちの罪を赦し、私たちの魂を救うために、神であり、罪のないイエス様を私たちの身代わりに十字架にかけられ、私たちの全ての罪をイエス様の上に置かれ、イエス様は尊い血を流し、命をささげて下さったので、私たちの全ての罪が赦されたのです。神様は、イエス様の十字架と復活のゆえに、私たちの罪を忘れられた、つまり赦されたのです。 たとえ、今私たちがどのような困難な所、寂しい所、辛い所に置かれていたとしても、大丈夫です。イエス様はあなたと共におられます。あなたのことを忘れないのです。この週も、あなたを忘れないイエスと共に歩みましょう。

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