江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2012年12月30日)

2012-12-30 13:43:38 | Weblog

年末感謝礼拝(降誕後第一)   2012.12.30

         「感謝が満ちあふれる」 ルカ19:1~10

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第五日曜日、12月最後、年末感謝礼拝となりました。クリスマスの全ての行事も、愛する皆様のお祈りとご奉仕により祝福のうちに終えることができました。本当にありがとうございました。イエス様の誕生を心からお祝いすることができました。少々疲れ気味の方々もおられるでしょうか。神様の癒しと守りがありますようにお祈り致します。

 先週のキャンドルサービスで、「見上げてごらん夜の星を」という坂本九さんが歌った歌を私が歌いました。フルコーラスで歌ったので、子どもたちからは「なが~い」と言われました。皆さんも、「いつ終わるか、いつ終わるのか。まだ歌うのか?」というような顔をしておられ、皆さんの顔を見ていたら何か引きつっている方々が多くおられました。「よかった」と言って下さる方々もおられましたが、みんなが内心「長いな~」と感じられたようです。ですから、その後のメッセージの内容よりも歌の印象が強すぎたようですね!来年はもう少し短くしたいと思いました。

 25日、クリスマスの日、家庭集会の後、竹内昇兄を病院に訪問しました。今の病院に転院された時よりも顔色は良いように思いました。今、お孫さんの万智さんが来ておられますよ。うれしいですね。早く元気になって一緒に礼拝できるといいですね、とお話しして、「きよしこの夜」を家内と歌いましたが、歌っている間に気持ちがよくなられたのか、グーグーと眠ってしまわれました。これが本当に安心、安息、神様による恵みだと思いました。前回病院を転院された時、お孫さんの万智さんを教会に誘いたいと竹内姉が言っておられ、お祈りしておりましたが、間もなく教会に来られ、万智さんが毎週礼拝に集っておられることは、入院中の竹内兄にとっては、大きな喜びであり、自分になり変わって礼拝に出席してくれていること、きっとわかっておられ感謝しておられることだと思います。

 明日で、2012年も終わります。皆さんのこの1年はどのような年であったでしょうか。1年、12ヶ月、365日、いろいろな人生があったことだと思います。初心貫徹という言葉がありますが、新年この1年の抱負や期待を持って始められたことでしょう。やりたいと思われたことを全うできたでしょうか。初めに決心した事を最後まで貫き通すということはやさしいことではありません。私たちは、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンとして、キリスト者として、初心貫徹することができたでしょうか。時には、人間関係を壊さないようにと、伸縮自在な妥協のものさしを何度も使ったことかも知れません。

「きれいごとでは生きてはいけない。聖書の通りに生きるのは無理」と、損得中心の利害関係を持ち出したのかも知れません。そのような生き方である私たちであっても、出エジプトしたイスラエルの人々の不信仰な、つぶやきの多い、この世の、見えるところにしか立てない彼らの必要を満たし、導かれたお方は、イエス様は、私たちをも見捨てることなく、無視することなく、この1年間共におられて、私たちの必要を満たし、重荷を負い、導いて下さいました。本当にイエス様の愛と恵みは大きいものです。

 さて、この1年間は感謝の多い一年でしたか、それともつぶやきや不満の多い1年だったでしょうか。私たちは、この年の最後の礼拝において、年末感謝礼拝というのですから、ルカによる福音書19章1節から10節を通して、「感謝に満ちあふれる」という題で、お話ししたいと思います。感謝を持ってこの1年を締めくくりたいと思うのです。

 

 Ⅱ本論部

 一、こんな私にも及ぶイエス様の限りない愛の深さ

 ルカによる福音書19章はおなじみのザアカイのお話です。エリコの町では嫌われ者、ユダヤ人でありながらローマの側について、ユダヤ人から金を巻き上げ、苦しめているザアカイ、自己中心で、冷血な人間であった彼は、イエス様に出会い、イエス様と交わり、イエス様に愛され、受け入れられて自分の財産を半分は貧しい人々にささげる。そして、不正をしてごまかした人々には4倍にして返すという告白をしたのでした。

 8節を皆さんと共に読みましょう。「ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。」何故、このような告白ができたのでしょうか。お金にしか興味がなかった。お金のためなら何でもするというザアカイのこの告白はまことに驚くべきことです。

 5節から7節まで共に読みましょう。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」」ザアカイはイエス様にぜひ会いたいと思い願いました。ですから、道端にあふれた人々のゆえに、イエス様を見ることができなかったので、彼はいちじく桑の木に登りイエス様を見ようとしたのですが、木に登っているザアカイにイエス様は語られたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」イエス様を信じ、信心深い生き方をしてきた者ではない。神様から遠く離れていた者、愛とか恵みということから最も離れている自己中心的なザアカイの家に、彼の家にこそ泊まりたいとイエス様は願われたのです。すごいことですね。

 この1年間、クリスチャンとして何か神様に申し訳ないような生き方しかできなかったという方がおられるかも知れない。聖書を読むこともままならない。祈ることも形だけというようなこともあったでしょう。神様のことを思うことも少なかったということがあるかも知れない。とするならば、イエス様がザアカイに「あなたの家に泊まりたい」と言われたように、最もあなたの心の中に泊まりたい。宿りたいと願っておられるということを知っていただきたいと思うのです。

 求道中の方々も、なかなか信じられない。受け入れられない。この世と教会との間で戦いがある。こんな自分はふさわしくないというような事を思っておられるならイエス様は、あなたにだからこそ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「あなたの心に宿りたい」と願っておられるのです。そのことを覚えて感謝しようではありませんか。

二、イエス様と共にある幸せ(喜び)

 クリスマス礼拝の後、祝会において「降誕劇」が行われました。関西弁を話す人々、つまりかつて関西に住んでいた人々の「玉ちゃんず劇場」でした。平木姉が関西弁を話されるというようなことは以外でしたね。何か吉本新喜劇ではありませんが、降誕劇のセリフを関西弁で準備して下さり、練習もしないでぶっつけ本番でありました。まあ、関西弁を話して演技している方はいいのですが、見ておられる方々が、その関西弁の表現を理解できたかどうかと心配しておりましたが、意外と笑っておられたので理解しておられたのでしょう。関西の芸人たちが東京に進出してきて、テレビなので関西弁が多く話され、普段から耳慣れておられるからなのでしょうね。これからは、関西以外の出身の方々が、九州弁とか東北弁の降誕劇が次回は見られるのかも知れません。劇を演じた方も観客も共に喜び、感謝し、楽しんだことでした。

 間もなく100歳になられる桜井道江姉が礼拝と祝会に出席されておられ、とても嬉しく思いました。なかなか普段は礼拝にはおいでにはなれませんが、出席して下さったことは本当にうれしいことであり感謝なことでした。桜井姉は、「私の若い頃は、時代的にクリスマスを喜び、楽しみ、感謝することなんかできませんでした。でも、こうして楽しいクリスマス、喜び、感謝するクリスマスはいですね。」とお話し下さいました。

 ザアカイは、時の人、誰もがイエス様のそば近くにおりたいと願う魅力的な人、共に過ごしたいと願う方から、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われ、ザアカイは喜んで自分の家に迎え入れ、大宴会、大パーティーを開き、イエス様の一番近い所で、イエス様と交わり、イエス様のお話しを聞き、至福のときを持ちました。幸せな時間、楽しい時間、喜びの時間を過ごし、人生の中で、自分がこんなにも微笑み、声を出して笑うという素晴しい時を持ったことはかつてなかったことでしょう。

 ザアカイはイエス様と共にある人生の喜びを感じていました。だからこそ、イエス様を知らずにいた頃の自分、自己中心的で、自分以外不幸になっても何とも思わない罪深い自分の姿が、イエス様と共にある喜びと感謝が多くあればあるほど、自分の心にある罪を感じたのではないでしょうか。そして、自分のできることを悔い改めと共に告白したのだと思うのです。

今までは、この世のものばかり見てきた。この世のものは変わる。年が改まり、カレンダーも変わる。ドラマも主役は変わり、日本の政権も主役が変わり、歴史の主役も変わります。市場も変わり、流行も変わり、全てのものが変わる。時が変わり、状況が変わり、お金の価値も変わり、人も、関係も変わっていく。だからこそ、見えるものに足場を置いていたザアカイは人生が狂っていた。地位があり、権力があり、お金持ちであっても幸せではなかったのです。そのザアカイが、救い主イエス様と交わり、この方と共にあることの幸せを体験し、このお方を信じて従う決心をしたのだと思うのです。聖書は語ります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)

私たちは、この1年間いろいろなことを経験したことでしょう。この世のもの、変わり行くものに心も思いもかけてきたかも知れませんが、私たちは変わるものに自分の足場を置くのではなくて、いつまでも変わらないお方、イエス様に足場を置いて新しい年を迎えたいと思います。

 

三、あなたは救われている

 毎年、12月には、京都の清水寺で今年の世相を表わす漢字一文字が紹介されます。今年の漢字一字は第一位は「」でした。932年ぶりに日本の広範囲で観測された金環日食、6月には21世紀最後となる金星の太陽面通過、8月には金星食を観測。また、世界一の自立式電波塔として、金字塔を打ち立てた東京スカイツリーの開業、ロンドンオリンピックで、金メダルを筆頭に日本史上最多の38個のメダルを獲得。iPS細胞の研究で、山中教授が金メダルに等しいノーベル賞受賞。金(きん)というよりも日本はやはり金(かね)と呼んだほうがふさわしいのかとも思います。経済不況、国の借金などお金にまつわる問題も多くありました。年金資産運用に関連した詐欺事件の発生。生活保護費の不正受給問題。消費税増税を中心とした財政問題。東日本大震災の復興予算の使途をめぐる問題とお金にまつわるものがありました。

 ザアカイも金(かね)の亡者(もうじゃ)でした。お金には魅力があります。お金があれば何でも買えるというような錯覚を持ってしまう。経済力は人を傲慢にもするでしょう。気持ちも大きくなり、太っ腹にもなる。また、お金のために悪いことでもしてしまう。お金で解決しようとする。ザアカイはそのような人生を送ってきた。お金があるから安心と言うよりも不安の方が多くあったのではないでしょうか。ですから、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したザアカイの心には、お金のために心配することはなくなっていたのではないでしょうか。お金に勝るものはないと考えていたザアカイが、お金では解決できない。心の問題にイエス様を通して解決できたのです。ザアカイは変わりました。全く別人になったのです。

 9節と10節を読みましょう。「イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 ザアカイは、素晴しい告白をしました。では、このような告白をしたから救いが来たと言われたのでしょうか。勿論、それもあるでしょう。ザアカイは、アブラハムの子だからとイエス様は言われました。アブラハムはユダヤ人にとっては信仰の父と言われる人です。神様はアブラハムを祝福されました。彼は祝福の基となりました。そして、神様が約束された祝福は、ユダヤ人にも与えられました。ですから、ザアカイは、神様から遠い存在ではありましたが、すでに神様の恵みの中に置かれていたのです。神様の愛の中に置かれていたのです。神様の目には、すでに覚えられていたのです。

アブラハムの祝福をいただけるのは、ユダヤ人だけなのでしょうか。パウロという伝道者は、ガラテヤの信徒への手紙3章7節から9節で次のように語っています。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」

 ですから、異邦人である私たちも、いや全世界の人々にアブラハムの祝福が適用されるのです。私たち一人ひとりの上にも神様の愛と恵みがいつも注がれているのです。神様に背を向けている私、この世にことばかりに心向いている私、神様から一番離れた所にいると感じている私にも、神様の救いのみ業、愛のみ業、恵みのみ業、祝福のみ業が与えられるのです。そのことを覚えて感謝し、喜びたいと思うのです。

そのためにイエス様は、私たちの身代わりに十字架にかかって御自分の命を犠牲にし、私たちの受けるべき苦しみを受け、裁きを受けて下さったのです。ここにこそ、神様の、イエス様の愛があるのです。

 私たちは、2012年を終わろうとしています。この1年、いいことが何もなかった。悪いことばかりに思いがいきますが、良いこともいっぱいあったはずです。感謝できることもたくさんあったはずです。それを忘れているか。気がついていないのだと思うのです。「数えてみよ、主の恵み」と賛美しましたが、イエス様は多くの恵みをこの1年間与えて下さいました。そのことを忘れることなく、覚えて感謝をささげたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 コリントの信徒への手紙第二の4章15節には、「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」という言葉があります。「感謝の念に満ちて」という言葉を口語訳聖書も新改訳聖書も、「感謝が満ちあふれ」という言葉で表現しています。

 私たちのこの1年は、神様に守られた、イエス様に導かれた感謝に満ちあふれた1年でした。マイナスに見える事もあった。けれども、神様は必ずプラスにして下さった。そしてこれからして下さる。痛みもあった。それが意味のある痛みとなり、痛みと持つことの大切な教えとなった。共感できる宝物となった。神様を信じる者、イエス様を信頼する者は、そのような歩みであったので、感謝にあふれる1年であった。 そして、やがて来る2013年も、このお方がいつも共におられ、私たちを支え、導いて下さるので、2013年の1年も、感謝に満ちあふれる1年であることが約束されているのです。

 聖書は語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)

 私たちの信じる神様は、イエス・キリスト様は、マイナスさえも益とするお方、痛みさえも益とするお方、問題も課題も、悪いと思える事柄全てを、ご自身が介入されて、共に働いて下さって、すべてのことを益にして下さるのです。このお方と共に、2013年もスタートしましょう。

 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」

(Ⅰテサロニケ5:16-18)

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日曜礼拝(2012年12月23日)

2012-12-23 14:29:59 | Weblog

クリスマス特別礼拝(第四)   2012.12.23

         「歴史上最大の出来事」 ルカ2:8~20

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。クリスマスおめでとうございます。ローソクに4本火が灯りました。2012年のクリスマス礼拝を迎えました。イエス・キリスト様が私たち、一人ひとりのためにお生まれ下さったことを皆さまと共に感謝を持って分かち合いたいと思います。今日、教会の礼拝に初めておいでになられた方々もおられます。本当に、ようこそおいで下さいました。教会の敷居はとても高いと言われますのに、本当に勇気をふりしぼって来て下さり感謝です。「来たらこっちのもの。いや、そうではありません。」取って食べようなんてそんなことはありません。神様の恵みがあなたの上に豊かに降り注ぐことを心から願い祈ります。また、久しぶりにおいでになった方々、歓迎します。クリスマスにしか来られない方々、1年ぶりの御無沙汰です。心から歓迎します。また、来年のクリスマスにぜひ、来て下さいね。信徒さんの御家族の方々もおいでになっていると思います。いつも、信徒の奥さんや御主人、お子さん、おじいちゃん、おばあちゃんを快く日曜日に礼拝に出席させて下さり本当にありがとうございます。ご家族の協力がなければできないことです。本当にいつもありがとうございます。今日は皆さんに出会えて本当にうれしいです。イエス様もきっと私以上に喜んでおられることでしょう。

先週の日曜日は、衆議院議員の選挙投票日でした。皆さんも、重き1表を投じられたことだと思います。当日、テレビやラジオにかじりついて選挙結果を確認されたのではないでしょうか。自民党の圧勝、民主党の歴史的な大敗北という結果でした。すでに新政権への準備がなされ、進められています。聖書には、上に立つ者のために祈るように勧めていますので、私たちは立てられた日本の指導者たちのために祈り続けたいと思います。

韓国では、韓国の歴史上初めての女性の大統領が選ばれました。韓国は男性優位の社会であると思いますが、その韓国で女性が大統領に選ばれたということは、これからの韓国に大きな変化があるように思います。新しい韓国の船出に期待し祈りたいと思います。

また、地震のニュースも多くあります。これから大きな地震が起こる可能性が大きな確立であると専門家は言います。ある意味では、いろいろな意味で、歴史の変化の時を私たちは迎えているように思うのです。そのような時代に、私たち一人ひとりが今生かされていることを覚え、私たちを愛し、私たちを救い、導かれるイエス・キリスト様にしっかりと目を留めて、イエス様に信頼して、従って歩ませていただきたいと思います。

皆さんが私の膝のために祈っていただき、本当にありがとうございます。随分とよくなってまいりました。11月は、もう痛みと歩行困難で大変苦労しました。思いように動けないという情けなさ、辛さ、せつなさを経験しました。でも、その事自体が今、痛みと困難の中にある方々のことを強く覚え、痛みを共に感じる恵みとなりました。感謝です。

 

Ⅱ本論部

一、神様の思いの先は

 全世界の救い主の誕生は、野宿をしながら、夜勤の仕事、羊の群れの番をしていた羊飼いたちのもとに告げられました。ユダヤ人は、自分たちの今の苦しみや辛さから開放してくれる救い主を待ち望んでいました。けれども、今日、その救い主が誕生することなど、誰も予想していなかったのだと思います。当然、羊飼いたちもそうでした。いつものように、いつもの場所でしょうか。いつもの働きについていた彼らでした。今か今かと待ち望んでいた彼らに、救い主の誕生の報告がなされたのではありませんでした。サプライズでした。神様のサプライズ、神様の恵みは、私たちが備えて、待ち望んでいるというよりも、いつものように普段の生活の中で、いつもの働き、いつもの勉強、いつもの生活の中で起こされるように思うのです。何の変哲もない、変わらない日常生活の中に、神様のサプライズ、恵みがあることを覚え、私たちは今自分に与えられている環境の中で、生活の中で、その責任ある、委ねられた働きを、学びをいつものようにしていきたいと思うのです。

 救い主の誕生の報告は最初に、羊飼いたちに知らされました。羊飼いは、救い主誕生の報告を一番に受ける資格のある人々だったのでしょうか。

 ユダヤ人社会は律法、聖書の教えを学び、それを忠実に守ることを原則としていました。けれども、羊飼いたちは、その仕事の性質上、礼拝を守ることや定期的に祈りをささげること、献げること、聖書の言葉を守ることなど、全く出来ませんでした。ですから、ユダヤの指導者たちからは、一般のユダヤ人から見れば、不真面目な、だらしない、規則を守らない人間、社会ののけ者、あるいは、日本的に言うならば、落ちこぼれの、社会的弱者と言われる立場の人々であったのです。

 神様は、全ユダヤ人が待ち望む救い主の誕生をユダヤの指導者たちには告げませんでした。教師や祭司長という偉い人々には告げませんでした。社会的に地位のある人や金持ち、肩書きのある人々には伝えませんでした。社会の中で、人々から変な目で見られ、悪いレッテルを貼られていた羊飼いたちに喜びの知らせが届いたのです。最も目立たない、目立つはずのない彼らにこそ、焦点があわされた。フォーカスされた。それがクリスマスなのです。

 選挙が終わり、自民党が一躍目立つようになりました。また、惨敗した民社党にも焦点が当てられています。テレビの世界でもスポーツの世界でも、一握りの目立つ人々は、栄華をわがものにしていますが、現代風に言えば、そのような人々の所には、喜びの知らせは届きませんでした。神様の心は目立つところではなく、目立たない所にこそあるのです。

 2012年が終わろうとしているこの時、何もいいことがなかったと落ち込んでいる人がいるでしょう。この1年間病いと闘い、苦しみ過ごしてきたけれども、治らない。悪化した。先のことが心配。来年は大丈夫だろうかと心配している人もいるでしょう。経済的に大変な1年を送り、来年も期待できない。もっと厳しくなることが予想されるという人もいるでしょう。であるならば、聖書的に見るならば、そのような人にこそ、救い主の誕生の知らせ、喜びの知らせがまず届くのではないでしょうか。

聖書は、羊飼いたちのところに天使が導かれ、喜びの知らせがあったことを正確に記しているのです。

 

二、思いがけない救い主のしるし

 10節から12節まで皆さんと共に読みましょう。「天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」

クリスマスの降誕劇には、天使と羊飼いは定番の役ですが、普段の生活の中で羊飼いと天使は全くの別物と言えます。天使は神の使いですから、信仰的な生活ができていない羊飼いには程遠いといいますか、縁がないのです。けれども、神様はその縁のない羊飼いに、真っ先に天使を送りました。ですから、羊飼いたちは驚きました。ビックリしたのです。神の裁きがあると感じたのかも知れません。恐れ戸惑う彼らに天使は、「恐れるな」と語ったのです。

クリスマスのメッセージは、この「恐れるな」です。私たちはいろいろなものを恐れます。人を恐れ、過去自分のしてきた行為や言葉を恐れ、現代の現実の問題に恐れ、将来、未来のまだ見ぬ姿に恐れます。また、経済や教育、医療の問題に恐れるでしょう。現代は、恐れと不安でいっぱいなのです。ですから、神様は、羊飼いたちに語られたように、私たちにも「恐れるな」とまず語られるのです。

その内容は、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。

大きな喜びを告げました。全世界の全ての人々にとっての大きな喜びです。それは、お金でも、健康でも、地位でも肩書きでも、裕福さでもない。私たちがたとえ、どのような立場や状況にいても、私たちの人間の世界に神が介入された。救い主が誕生したということでした。ユダヤ人が、長い間待ち望んだ救い主が今日誕生したのです。そして、救い主のしるしは、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」ということでした。

映画やテレビであるならば、救世主ですから、力強さとかきらびやかさとか威厳さ、経済力、圧倒的な力とか、そのようなもの、ある意味では誰もが、その救世主のしるしに納得のいくものでしょう。けれども、聖書が示す救い主のしるしとは、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」であると言うのです。全ての人々が納得のいかないような、あきれてしまうような。信じがたいようなしるしでした。

羊飼いたちは、自分たちが社会的な弱者であるということ、ユダヤ人社会からははじき出された者、嫌われ者、そのように感じていたでしょう。小さいことや少ないこと、守れないことがバカにされるような状況で救い主のしるしが、自分たちと同じ、餌箱に寝かされた赤ちゃん、最も貧しく、弱々しく、頼りのない存在、それこそが救い主だという天使の報告を彼らは信じたのです。そして、天の大軍勢の賛美が、彼らの心に確信を与えました。

羊飼いたちは、急いでベツレヘムへ向かいました。とにかく、彼らは急いだのです。物事には、急いではいけない時と急がなければならない時があると思います。落ち着いて行動するということは大切な事です。慎重であることは素晴しいことです。けれども、羊飼いたちは急ぎました。何故急いだかと言うと、全世界の救い主が誕生したからです。羊飼いたちが待ち望んでいた救い主が生まれたからです。彼らにとっては、最も大切なことだったからです。彼らにとってはゴールと言える出来事。人生の救い主、それがわかったので急いだのです。どうでもいいことではなく、急ぐ必要があったのです。彼らは、天使が告げた通りであった光景を見たのです。この光景は、私たちの目の前にも、今日開かれているのです。私の、そしてあなたの救い主、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と聖書が語る救い主に私たちも出会っているのです。

 

三、キリスト様の宿る所とは

2012年があと10日もすれば終わり新しい年が来ます。2013年を前にして、私たちはどうでしょうか。期待と希望でいっぱいでしょうか。政治も教育も医療の問題も、山済みです。自分個人の事柄に関しても不安や心配が多くあるように思うのです。だからこそ、救い主は、そのような私たちのために誕生されたのです。そして、私たちの心の問題、罪の問題を解決する為に、私たちの身代わりに十字架にかかって死んで下さったのです。イエス様が私たちの身代わりに死んで下さることによって、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられたのです。そのためにイエス様は、クリスマスに誕生されたのです。

今、クリスマスに最もふさわしくないと思える場所、思える人々にこそ、クリスマスが訪れることが、神様の願いであり、意志であり、みこころなのです。

先週は、膝の調子もだいぶよくなりましたので訪問させていただきました。丸山茂樹兄は、寝たきりの状態でした。リハビリがこれからあるということで、聖書を読んでお祈りさせていただきました。この困難の中にこそ、イエス様が望んでくださるようにと。田中和子姉は、ホームにおられますが、足も弱く、最近はふらつきがあり、教会へは来ることができません。ですから、私たちの訪問をとても喜んで下さり、安心しましたと言って下さいました。クリスマスの賛美歌を共に歌い、お祈りしました。屋上の景色がいいということで共に見学させていただきました。スカイツリー、東京タワー、新宿の都庁が見えて、「いいですねえ」思わず声が出ました。私たちが今、その光景を見ているように、神様は田中さんを見ておられますと家内が話していました。

徳末セツ姉は、ニコニコしてとてもほがらかで良い顔をしておられました。しっかりとクリスマス賛美歌を共に歌い、み言葉を読み、お祈りしました。お祈りが終わると「アーメン」と大きな声で言われました。本当にニコニコの笑顔が印象的でした。

谷山姉は、前回訪問した時は、圧迫骨折のために寝たきりでありましたので、「どうかな。回復されたかなあ?」と思っておりましたら、「今日はデイサービス」ということで、下におりておられるとのこと、食堂でお話しをということで進むと、少し前を誰かが歩いておられる。何と谷山姉でした。「えっ!歩いておられる。」と驚きました。すごい、精神力と体力だと思いました。まだ、少し痛むようですが、「先生の膝の痛みとどうか」と私の膝のことも心配して下さっていました。谷山姉はとてもキレイなお声でクリスマスの賛美歌を歌ってくださいました。共に心を合わせて祈りました。 返り際には、もうここでいいでよという声を制して、玄関の外のところまで見送って下さいました。本当に、お元気になってうれしかったです。

梶原真兄は、眼をつぶって寝ておられました。顔色はとてもよくて平安でありました。手を置いてお祈りさせていただきました。ここにこそ、この場所にこそ、兄弟にこそ、イエス様の恵みの良き知らせが伝えられ、祝福されるようにと。

昨日はキャロリングで船越兄姉を訪問し、御自宅で賛美し祈らせていただきました。桜井姉のお宅も訪問し、賛美させていただきました。時間的にまだ訪問できていない方々もまた、訪問させていただきたいと願っております。どうぞ、教会になかなかおいでになれない方々を覚えてお祈り下さい。

ある意味では、教会へも来ることができない。クリスマスのプログラムに参加できない方々です。けれども、本来のクリスマスの意味は、このように弱っている人々、何も出来ないと思われる人々、目立たない人々、寂しさを感じている人々、いろいろなシワ寄せがきている方々の所にこそ、まことのクリスマスがあるのだと思うのです。

勿論、教会はクリスマスの一番目立つところでしょう。教会でのクリスマスの諸集会に多くの人々と共にイエス様のお祝いをしたいと思います。と同時に、そこにおいでになれない方々も、そここそが、ふさわしく思えない場所が、ふさわしいと思えない自分こそが、神様の目に留まるところであることを知ってほしいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

今日、教会に初めておいでになった方々も、自分とは場違いな所だと感じておられるかも知れません。教会は、清い人、真面目な人、正しい人、愛のある人、やさしい人の集まりではありません。自己中心的な人、罪ある人、問題のある人、愛のない人、やさしくなれない人、人をなかなか受け入れられない人の集まりです。だからこそ、私たちには救い主が必要なのです。神様が必要なのです。愛の神様、御自分の命を投げ出してまで、罪ある私、愛のない私、やさしくなれない私、問題だらけの私に成り代わって、十字架の上に身代わりに罰を受け、苦しみ、死んで下さった。このお方の愛が私たちには必要なのです。

2013年は、どのような年になるのか誰もわかりません。巨大地震が来るとか、経済不況が来るとか、いろいろと言われています。けれども、約2000年前に人間の世界に、神が人となって介入されたクリスマス、「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」という人類の歴史上最大の出来事が起こりました。そして、この出来事以上のことは起こりません。もうすでに、救い主は誕生し、救いの道が示されているのです。何も心配することはない。恐れることはない。大丈夫。イエス様がいつも共におられます。いつも、どこでも、誰とでも、あなたのそばにいつも、イエス様が共におられますから大丈夫なのです。このイエス様に信頼して、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2012年12月16日)

2012-12-16 13:22:22 | Weblog

日曜礼拝(アドベント第三)   2012.12.16

        「ドタバタ劇の始まり始まり」 ルカ2:1~7

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを思い、神様に感謝致します。ローソクに三本火が灯りました。来週は、いよいよクリスマス礼拝です。

 先週の木曜日には、JoyJoy親子のクリスマス会がありました。親子とスタッフを合わせると50名近くの人々がアパルームに集まり、とても楽しい時を持ちました。私は、JoyJoy親子の会が始まって以来、初めてではないでしょうか。初めから終わりまで参加しました。本当に、スタッフの方々が、祈り、準備し、子どもたちのために、お母さんのために一生懸命です。それがわかるからこそ、ママたちもまた来られるのでしょうね。本当に素晴しい働きだと思います。ぜひ、皆さん一度は見学に来て下さい。

 子どもたちを見ているといろいろですね。走り回る子ども、じっとしている子ども、いろいろな性格があります。お母さんを見ているとやはりいろいろな方がおられる。積極的な方、消極的な方、目立つ方、目立たない方といろいろです。子どもも大人も目立つ方に気をとられて、何か積極的でないことや活動的でないことを悲観したり、他の子と比較して、子育てに悩むということがあるのかも知れません。

 JoyJoy親子の会は、キリスト教の保育園と全く同じことをしています。素晴しい宣教の働きです。これからもぜひ応援して、お母さんたちが神様に頼って子育てできるように、同じ悩みを持つ者同士、お互いに励まし合いながら、支え合いながら、神様に助けを求めていくことができるような援助ができるようにと思うのです。また、信仰に導かれる方が起こされることも願います。ぜひ、スタッフとしてお手伝いいただけたら感謝です。

 このような言葉に出会いました。「子育ては未来創造事業」。子どもたちを通して未来を創造する。今、育てている子どもたちが日本の、そして世界の未来を創造する。そのような尊い働きということでしょうか。そのような素晴しい働きをお母さんたちはしている。この話をするのを当日、忘れていたのです。残念でした。

 さて、今日は、ルカによる福音書2章1節から7節を通して導かれました。今日の説教題は、「ドタバタ劇の始まり始り」と看板にはありますが、本当は「ドタバタ劇の始まり始まり」で「」が抜けてしまし、「」抜ぬけな題に、間抜けな話しになってしまいそうです。

 

 Ⅱ本論部

 一、クリスマスは神様が働かれる時

 この個所は、降誕劇の大切な場面のひとつです。ヨセフとマリアがベツレヘムに到着し、宿屋を訪ね、主人に断られるも、妊娠中で、もう生まれそうだということで、部屋はないが家畜小屋なら空いている、ということでそこに宿を取る。そして、イエス様が誕生するということです。定番の場面ですね。

 先週の第一礼拝ではお話ししたのですが、女性会のクリスマスで、その場の抽選で配役を決め、降誕劇をいたしました。幼稚科の降誕劇の台本と衣装で行いました。案外、会衆も役者たちも、思ったよりも楽しいものでした。私は、教会学校育ちですので降誕劇のヨセフ役をやったこともあります。私たちの頃は、羊はあまり目立ちませんでしたが、最近の降誕劇は羊が目立つようになってきたようにも感じます。羊は来週に登場しますが。

 ヨセフとマリアには、共に聖霊による妊娠であることを告げられ、神様の言葉を信じて、マリアは自分の身に起こることを受入れ、ヨセフはマリアを妻として受け入れました。

 ルカによる福音書2章1節には、「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。」とあります。「その頃」とは、いろいろあるのでしょうが、マリアの出産が近づいた頃なんでしょう。そのような時に、住民登録の勅令が出たのです。

 今日は、衆議院選挙の投票日です。礼拝前に済ませた方もおられるでしょうし、礼拝を終えて投票する方もおられるでしょう。各自に与えられた1表の重みを胸にたずさえ、投票したいと思うのです。若い方々もぜひ、投票して下さい。

 最初、投票日が23日になるかも知れないとテレビ等で放されていました。「えっ、23日?クリスマス礼拝の時じゃない。そんな!」と思いました。そのような時に選挙の投票?クリスマス時期に選挙、あまりないことかも知れません。駅前クリスマスの時、その時間帯は選挙カーが来ないようにと配慮もあったというのですから、それなりの常識や配慮を持っておられることに安心しました。朝から晩まで選挙カーが回っています。イエス様の誕生を祝うクリスマスが近づく、その頃、選挙があったというのは偶然でもなければ、人間の作為等というよりも、神様の深い配慮がそこにあるのだと思います。全てのことは神様の許しなくして、なされる、あるいは選ばれるということはないのですから。

 保坂兄のご友人が牧師となりブログを書いておられ、保坂兄がFACEBOOKで紹介して下さっていました。「ある教会の教会学校のクリスマスで、前半ゲームや楽しいこと、そして、後半にお話し。ある男の子も参加したのですが、母親が前半のゲームが終わった時、その子を連れに来て家に帰ってしまった。先生方はがっかりした。けれども、その子は、その後教会に導かれ、洗礼を受けて救われた。大事なのは、聖霊が触れられるかどうかということ」を書かれていました。聖霊様は触れて下さる。たとえ、それが人間的に問題に見える状況でも、マイナスでも聖霊様が触れられるとみ業が起こる。反対に、条件が全て整ったと思える状況でも、聖霊様が働かれないと触れられないと何も起こらない。本当にそうだと思います。その男の子は、後に洗礼を受け、クリスチャンになり、やがて献身し、神学校に行き、牧師となり、自分の経験をブログに書いておられるのです。

 今年のクリスマスに、聖霊様が豊かに働いて下さることを期待したいと思うのです。

 

 二、胎児イエス様も共に苦しまれたからこそ

 ヨセフは、最初身重のマリアの体のことを心配してマリアを同伴することをためらったのかも知れません。けれども、周りの人々からあまりよく思われない妊娠、一緒になる前に妊娠したという事実からもう出産近くになり、マリアに対する周囲の目のことや体のことを考え、何かあったらと、やはりマリアと共にいること、マリアも一緒に行くことが大事だと考えたのでしょう。ヨセフはマリアを同伴させました。けれども、マリアと共にする旅は大変だったでしょう。一人では自分の計画した通りに、自分の思い一つで行動できる。けれども、ヨセフはマリアの体調や状況に合わせて、マリアの目線で、マリアのおなかの子のためには何が一番かを考えながらの、ゆっくりゆっくりの旅ではなかったかと思うのです。マリアはマリアでヨセフが自分を愛を持って配慮し、思いやる、その心に感謝し、自分の喜びを言葉で表情でヨセフに表現したのだと思うのです。

 先週は、JoyJoy親子のクリスマス会がありました。お母さんは、子ども相手に毎日、24時間子育てです。本当に大変な仕事です。自分の計画どおりには行きません。でかけようと思ったら熱が出ていたとか、もどしたとか、機嫌が悪くなるとか、もう大変です。JOYJOY親子の会だけではありませんが、お母さん方がほっとできるような、子どもを置いて自分を見つめることができるような計画ができたらいいと思うのですが、どうでしょうか。

 教会には、赤ちゃんも子どもも、青年、主婦、壮年、婦人、ご老人と幅広い年齢の方々がおられるので、みんなが自分の思い通りにしようとしても物事は進みません。お互いがお互いを思いやり、相手の喜ぶことを考える。まさにキリストの愛に生きる群れ、本当に素晴しいと思います。

 ヨセフとマリアの二人旅は、過酷なものだったでしょう。ナザレからベツレヘム(120km~140km)に上って行ったとさらっと書いてありますが、それは大変な旅でした。「マリア」という映画には、その状況が描かれていました。二人がベツレヘムに着いた時は、遅くなっていたでしょう。どこの宿屋も満員だった。満員とは書いてありませんが、満員だったでしょう。だから、空いている部屋を探すというよりも、どこでもいいから休む所がないか。泊めてくれる所はないか、というのをヨセフは探し回ったのではないでしょうか。

 ユダヤから遠い東方の学者たちを星で導いたように、あるいは、羊飼いに天使を通して教えたように、神様はヨセフとマリアを空いている宿屋には導かれませんでした。ヨハネによる福音書1章11節にあるように、「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」という言葉が象徴しています。

 マリアは辛かったでしょう。しんどかったでしょう。いやだなあと何度も感じたのかも知れない。その思いは、お腹の中にいたイエス様にも伝わっていました。自分のお父さんとお母さんが自分のために苦労している、その思いや言葉や感じをイエス様はお腹の中でじっと感じていたのです。ですから、イエス様はお腹の中でも、人の苦しみや痛みやいやだなあと感じることを経験して下さっていたのだと今回感じたのです。

 

 三、あなたの全てを知った上で

 皆さんと共に、6節、7節を共に読みましょう。「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

 全世界の救い主の誕生なのに、その誕生がこれなんです。この有様でした。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」と。

 マリアは、10ヶ月ほど前に、「「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と告知され、驚きましたが、その言葉を受け入れました。いと高き神の力、生まれる子は聖なる者、神の子と言われる。神の子。救い主を宿す。救い主を産む。どんなことになるのだろう。現代流に言えば、セレブの出産じゃないですか。日本でも皇室で、子を宿されたといえば大変な騒ぎです。イギリスでもそうでしょう。

 マリア自身が、救い主を産むということをどのように感じていたのかはわかりませんが、

「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」というような出産は、全く予想してはいなかったでしょう。 泊まる部屋もない。暖かい暖(だん)もない。出産のために必要なものは何も用意されていない。また、その出産を期待して待つ、喜ぶ友人も同僚も全くいなかったのです。そこには、神様に示され、導かれ、神様に用いられるヨセフとマリアの二人と、そしてこの誕生を導かれる神様ご自身がおられました。

 全世界の救い主は、静かに、貧しく、この世に誕生されたのです。全人類の罪を背負い、十字架で死ぬ為に誕生されたイエス様には、最もふさわしい誕生であったのです。

 私たちは、クリスチャンになったら、何かいいことがある。神様の祝福があると願います。勿論、神様はそのように導いて下さいます。けれども、苦しみや痛みをも経験します。

 神様を信じているのですから、もう少しお守りください。もう少しランクを上げて、極上のお守りをとも祈りたくなることがあります。詩篇を見ると、ダビデは、叫んでいます。「来て下さい。助けて下さい。祈りを聞いて下さい」と。

 ヨセフもマリアも「こんなはずではなかった」と思うようなベツレヘムへの旅、出産であったのかも知れません。救い主の誕生なのですから、もっとスムーズに、キレイに、スマートにとも思います。でも、神様の深いお心は、「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。」ということなのです。救い主の誕生劇は、「ドタバタ劇の始まり」のように感じたのです。

 私たちは、クリスチャンとしてスマートな信仰をと願います。堅実な信仰生活を歩めるようにと思いますが、なかなかそうは行きません。二歩前進三歩後退のように、マイナスが多くなっているようにも感じます。でも、イエス様は、そのマイナスを経験されたのです。私たちの弱さも、醜さも、問題点も全てイエス様はわかっておられるので。だから、背伸びする必要はありません。人に良く見せる必要もないのです。

 先週の金曜日には、三浦文子文学読書会がありました。「続氷点(下)」からの学びでした。こんな内容です。「・・・陽子さん、わたしは孤児院に預けられ、二つの時に育児院に移されて、四つの時までそこに育ちました。その頃、相沢の父母が、高木先生を通して、私をもらってくれたのです。父母はわたしをもらう時、私の身の上を一切知った上で、こういったそうです。「子どもに恵まれない親と、親に恵まれない子どもです。似合いの親子ではありませんか。」つて。・・・相沢の父も、やはり人にもらわれて育ち、その親が大そうよい人で、幸せだったのだそうです。それで、子どものない父は、なるべくかわいそうな事情の子どもを、もらおうとしたらしいのです。だから私は幸せでした。」

 私たちは、神様の前にも人の前にも、そして自分の前にも醜い、どうしようもないものです。けれども、その私の全てのことを知った上で、イエス様は私を愛して下さったのです。神様を受け入れない自分を知った上で、あるいは、クリスチャンと言えでも、どうしようもない、これでもクリスチャンという私の全てを知った上で、私を愛し、十字架に命を投げ出して下さったのです。そこに神様の深い、大きな愛があるのです。

 

 Ⅲ結論部

 私たちは、自分の人生の中でスムーズに、順調に行かないことが多くあります。でもそれでいいのです。勉強も、仕事も、子育ても、介護も、信仰も、ドタバタ劇でいいのではありませんか。そのドタバタとする中にも、神様の守りと支えがあるのです。あせったり、怒ったり、驚いたり、がっかりしたり、泣いたり、痛んだりするその中にこそ、神様の守りがあり経験できるのだと思うのです。

 イエス様の人生は、救い主として、その肩書きや権力、力を見せびらかせる生き方ではなく、そうできるのに、その生まれは「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」あり、大酒飲みの大食漢とバカにされ、多くの人々、また弟子たちからも見捨てられ、裏切られ、十字架への苦しみへの道、ドタバタ劇ではありませんが、そんなんでいいの、という人生だったではありませんか。

そのイエス様は、今の私たちの決して平坦ではない。浮き沈みの多い、後退の多い、倒れることもあり、落ち込むこともある。痛みに耐え切れず、愚痴が多くなる。上を見ないで下ばかり見る。そんな私たちをイエス様は一心に見つめて下さり語られるのです。「ドタバタでいいよ。大丈夫。私があなたと共にいてあなたを守る。あなたのその気持ちは私がよくわかる。大丈夫。きっと私はあなたを支える。」そう言われるイエス様と共にこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2012年12月9日)

2012-12-09 13:39:04 | Weblog

日曜礼拝(アドベント第二)   2012.12.9

 

        「大丈夫私に任せなさい」 マタイ1:18~25

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。12月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを思い、神様に感謝致します。ローソクに2本火がともりました。クリスマスが足音を立ててそこまできています。

 先週の金曜日には、青葉台教会の女性会のクリスマス会がありました。最近礼拝に来られた方々や久しぶりに来られて方々もおられ共にイエス様の誕生をお祝いいたしました。植木姉の素晴しい賛美あり、各グループの紹介あり、プレゼント交換もあり、そして、お弁当は美味しいサンドイッチ、バーガーでした。今年の目玉はと言いますと、「たまちゃんず劇団」の降誕劇でした。たまちゃん劇団というぐらいですから、私が団長なのですが、劇団員はだれもいない劇団でした。ですから、三浦姉が考えて下さったのですが、参加者の中から抽選で、降誕劇の役が決まるというわけです。そして、私が抽選するのですが、とても緊張しました。また、会衆の皆さんも自分がどの役かに当るかもしれないという恐怖感、いや期待感で緊張しておられました。

 ヨセフは私で、マリアは何と大江美知姉でした。二人とも足腰の弱いヨセフとマリアでした。天使、羊飼い、羊、宿屋の主人、東方の博士達と役が決まり、一度練習して本番に臨みました。衣装と台本は幼稚科のものを借りたので、衣装は当然、体に合わないので、前でピンで止めて、何とかそれらしく見せたので、思ったよりも良い降誕劇ができたと思いますし、思った以上に会衆の皆さんにも受けていたようです。役をした方々も、「一度はやってみたかった」という方もおられて、楽しく演ずることができました。平木姉が、羊役でしたが、会衆には一番受けていたように思います。何年か前、中出潤一先生が、神学生の頃、青葉台教会の奉仕で、アラフォーのパパたちと降誕劇をしたように記憶していますが、中出潤一先生が羊の役で一番いい所を持っていってしまった。一番受けていたのが印象的でしたが、今回の女性会のクリスマスも羊が一番受けていたように思います。

 この降誕劇は、おそらく毎年の恒例となり、また来年はメンバーを変えての降誕劇が見られそうです。いつも教会学校のクリスマスで幼稚科さんの降誕劇を見ているだけですが、自分が役をすることでまた、イエス様の降誕がより近くになったような気がします。今日は、第二礼拝では、パプアニューギニアのナザレン教会の牧師先生、ジョセフ・コラ先生がメッセージして下さいますので、私は第一礼拝のみとなります。今日は、マタイ1章18節から25節を通して、ヨセフについて「大丈夫任せなさい」という題でお話ししたいと思います。ヨセフは、このクリスマスの時期のみしか登場しない人物ですから、今年もヨセフの事を覚えたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、人間にはわからない神様のみ業

 18節の後半を見ると、「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」 当時ユダヤでは、婚約とは日本と違って、もう夫婦として認められていました。ですから、一緒になっていても夫婦として世間体には見られていたのです。聖書は、二人が一緒になる前に、身ごもったと記しています。世間体には夫婦として見られるのだから、別にいいんじゃないの、と現代の人々は言うかもしれません。けれども、ユダヤでは、一緒になる前に、たとえ婚約をしていて夫婦として認められていても、身ごもるとなると、問題となりました。結婚相手のヨセフ自身が知らないのですから、マリアは姦淫をしたということになるのです。

 ヨセフもそのような思い、離縁してマリアを内密にさらせようとしたのです。けれども、聖書は、人間の何かではない。「聖霊によって」と知るされています。マリアの妊娠は、聖霊による、神様御自身の意思と力によるものだったのです。

 先週も、マリアに対して天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と語ったように、聖霊がマリアに降るのです。聖霊により救い主をみごもるのです。人類の歴史の中で、今までになかった出来事でした。神の子が人間の女性を通して生まれる。それは、神であるお方が、また人として生まれるということでした。当事者のマリアは、先週ルカによる福音書1章で見ましたように、驚きの内容でしたが、自分の身に起こることが、あまりにもビックリの出来事でしたが、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、自分にとっては、信じがたいような、ビックリの内容を受け止めたのです。

 夫婦ですから、マリアだけが理解し納得していては問題が起こります。ですから、神様は天使を夫であるヨセフの元に遣わすのです。夫婦の間で、同じ思いになれる、一つの目的に向かって一致するということは、何よりも大切なことだと思います。聖書には、夫婦の関係を、「妻は夫に仕え、夫は妻を愛する」ということを示しています。それが夫婦関係には大切なことだからです。マリアは、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と、自分をはしため、奴隷として神様に仕えるということを決心しているように、当然、夫であるヨセフに仕えることができていた人物だと思うのです。

 今度は、ヨセフが「愛する」ということができるかどうかを試されるように思うのです。私たちも聖書が示す夫婦の関係、隣人との関係、そして神様との自分との関係を大切にしたいと思うのです。

 

 二、ひとりで苦しまなくてもいい

 19節を皆さんと共に読みましょう。「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」 聖書にはいろいろな訳があります。私たちが使っているのは新共同訳聖書といって、カトリックとプロテスタントの共同のものです。以前、青葉台教会で使用していた新改訳聖書というものもあり、私が最初手にしたのは口語訳聖書です。私が礼拝でよく引用するのはリビングバイブルといって、現代の人々にわかりやすい言葉で書かれています。今日紹介させていただく聖書は、

コテコテ大阪弁訳聖書」というものです。前置きには、「さあ~寄ってんか見てんか、そこのお兄さんやお嬢はん。世にも珍しい、コテコテの「関西弁、大阪弁訳、新約聖書」」でっせ。わてら日出ずる国の人間ちゅうんは、聖書なんか読むコト滅多にあらへんよltyて、一丁大阪弁で呼んでみたろと思ったんが事のはじまりや。ほいで、聖書(マタイ福音書)を、わてら難波男どもが大阪弁で翻訳したろうということになりよったんですわ。」

 前置きが長くなりましたが、18節の前に見出しは、「イエス・キリストはんが生まれはれましたで~の巻」とあり、19節は次のように訳しています。「夫のヨセフはんは、正しい人やったさかい、マリアはんのことを世間にさらすことを望まんかったから、黙って縁を切るつもりやった。」 「男は黙って何とかビール」という宣伝が受けましたが、男はごちゃごちゃ言い訳しないで、黙って決断する。行動する。それが男らしさと言われたように思います。ヨセフもかなり前の人間ですから、ひそかに、つまり誰にも知られないように、誰にも相談することもなく、マリアのために、マリアを愛していたが故に、マリアの妊娠、姦淫ではないけれども、そう思ったので、姦淫によってみごもったということを黙って自分一人の胸の中におさめて、離縁しようとしたのです。それが彼の愛でした。

 いろいろな苦しみに会う時に、ひとりというのは辛いものです。内容が内容だけに誰にも相談できない、ということがあるかも知れません。こんなこと恥になるから、はずかしい事だから相談できないと自分ひとりで苦しむということがあるかも知れません。でも、私たちにはたとえ、誰に話すことが出来なくても神様に話すことができます。神様ならどんな事でも聞いて下さいます。私自身にとって不名誉なことでも、恥ずかしいことでも、とんでもないと思われる内容でも、黙って愛を持って聞いて下さり、私たちの辛い心の内を、みじめさを、情けさを誰よりも理解し、受け入れて下さるのです。ヨセフは何故、神様に祈らなかったのかともふと思ったのですが、聖書を読んでいると祈っていたんだと思わされました。皆さんと共に20節を共に読みましょう。

 「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」「このように考えていると」とありますが、口語訳聖書や新改訳聖書は、「思い巡らしていた」とあります。詳訳聖書は、「熟慮していると」とあります。いろいろと訳はありますが、ヨセフは、ダビデ王の子孫ですから信仰者だったでしょう。当然、マリアの今回のことを何度も何度も祈ったのではないかと思うのです。だから、神様は夢でヨセフに語られたように思うのです。

 

 三、ねんごろな神様の導き

 20節を「コテコテ大阪弁訳聖書」では、「ほいで、そんなことを考えとると、神はんの使いが現れて言いやった。「ダビデはんの血筋のヨセフはん、あんさんは怖がらずにマリアはんを嫁にせんとあかんがな。マリアはんの腹の子は、聖霊はんが授けはったもんやさかい。」」とあります。「マリアはんを嫁にせんとあかんがな。」という訳は、天使がヨセフを叱咤激励(しったげきれい)しているように思うのです。

 神様は、マリアだけではなく、夫であるヨセフにも天使を送り、マリアの妊娠は、聖霊の働き、神様ご自身の力であることをはっきりと示して下さったのです。そして、生まれてくる子どもの名前さえもイエスとつけるようにと天使は語りました。そして、生まれてくる子どもが何ものなのかをも語りました。「この子は自分の民を罪から救うからである。」と。マリヤの宿している子どもが、ただの子どもではない。民を罪から救うという、ユダヤの全ての人々が待ち望んでいる救い主であることを示していました。そして、今、マリアが聖霊によって身ごもっているということが、預言者を通して言われていることが実現するためであったと、旧約聖書の言葉をも示したのです。

 皆さんと共に、23節を共に読みましょう。「「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」 「コテコテ大阪弁訳聖書」では、「「見んかいな。おなごが産気づいて子を産みよるやろ。ほいで、その名をインマヌエルはんとも呼ばれるんやで。」そん名前はな、「神はんがいっつも、わいらと一緒におるで」という意味なんや。」と。

 神様は、マリアのことで一人悩み苦しんでいるヨセフに、これでもか、これでもかと、彼の疑いを、ひとつひとつ取り除き、神様御自身の業であることをはっきりと示されたのです。「大丈夫、私に任せなさい」と言われているように感じるのです。このように、神様のねんごろな導きで、ヨセフは決心し行動するのです。24節には、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ」とある通りです。神様は、ヨセフに「大丈夫、私に任せなさい」と語られたように思いますし、ヨセフも神様の導きを受入れ、マリアに対して「大丈夫、私に任せなさい」と彼女を励まし、力強く導いて行ったのだと思うのです。神様は、ヨセフにされたように、困難や悩み、苦しみの中にある私たち一人ひとりにも、み言葉を示し、励まし導いて下さるのです。

 

 Ⅲ結論部

 ヨセフは、いやだなあと思うこと、マリアが姦淫をしたということを神様の愛を通して、マリアが妊娠したという状況は変わらないけれども、マリアを受け入れました。もしかしたら、私たちも今、いやだなあと思うことがあるかもしれない、受け入れたくないという状況に立たされているかも知れない。私たちは、今年のクリスマスに、「いやだなあ」と思っていることにチャレンジしたらどうでしょうか。なぜなら、神様が、イエス様が「大丈夫、私に任せなさい」とおっしゃるのだから、トライしてみましょうよ。きっと、神様が支えて下さるし、守って下さるし、素晴しい未来が用意されているから。いやだなあ、受け入れたくないなあと思っている所に、尽きない喜びの秘密が隠されているのです。それを信じてチャンレンジしてみましょう。ヨセフを見習いたいと思うのです。

 私は牧師ではありますがあまり伝道的な牧師ではありません。家内はいつもトラクトや集会案内を持ち歩いて、チャンスがあれば渡しています。恥ずかしい話しですが、私は得意ではありません。「牧師なのに、そんなんでええのかよ」と思います。今年、膝を痛めて針に通うようになりました。先生と1対1になります。そうだ、針の先生にクリスマスの案内チラシを渡そう。そう思って先週の火曜日に、変える間際に、「実は、私は青葉台一丁目にある青葉台ナザレン教会の牧師です。よかったらクリスマスの集会においで下さい。」と勇気を出してお誘いしました。すると先生「私は小学生の時、教会に行ったことがあります。」と言われましたし、江田教会のゴスペルかジャズでしたかの集会にも行ったことがあるということでした。「そうですか、牧師さんですか。」と言われました。来られるかどうかはわかりませんが、お誘いできたことは本当にうれしかったです。

 苦手と思うことが私たちにはあります。納豆が苦手でしたが克服しました。一つひとつ神様が導いて下さいます。この週も、イエス様が「大丈夫、私に任せなさい」とおっしゃるのですから、イエス様に全てをお任せし、委ねて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2012年12月2日)

2012-12-02 19:44:54 | Weblog
      日曜礼拝(アドベント第一)   2012.12.2
        
        「イエスの母マリア」 ルカ1:25~38

 Ⅰ導入部
 おはようございます。12月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。12月は師走。先生が走ると書きますが、
私は先生と言われる者のひとりですが、今膝の痛みのために走ることはできません。マイペースでこの月を歩ませていただきたいと思います。
 皆さんが私の膝のためにお祈りをありがとうございます。先週の日曜日の夜から少し良くなったような気がします。きっと、皆さんが祈って下さったからだと思います。月曜日には、鍼灸院に行ってまいりました。人生最初の鍼灸でした。岩井兄弟姉妹のご自宅のすぐ近くにある場所でした。足と指の先から血を出して血行を良くし、背中や首、膝に針を刺し、お灸で温めていただきました。少しはよくなりましたが、数回通う必要があるようです。先週に比べて随分とよくなりました。早く普通に歩けるようになりたいと強く願い祈っております。
 先週の月曜日から水曜日まで、掛川のヤマハリゾートで、教職者養成のための学びをしてまいりました。今回の学びはリニューアルリーダーシップということで、特に仕えるということを学びました。膝の痛みを抱えての仕える事の学びは私自身にはとても意味がありました。勿論、健康で元気な状態で聴いても恵まれたと思いますが、セミナー中も、脈が打つのと同時にズキズキと膝に痛みを覚えながらの学びでしたので、イエス様の十字架の苦しみが強く迫り、イエス様の死を前にしても仕える姿勢を特に学び、「ああ、膝の痛みは、この学びのためであったのだ!私が謙遜になってこの学びを自分のものにするため、痛みを通してよりよく学ぶためであった」ことがわかりました。
 共に学んでいる先生方や指導して下さる先生方にご心配をおかけしましたが、膝の痛みが与えられていることも無駄ではない事をはっきりと知ることができました。けれども、ヤマハリゾートは広いので、レストランも研修会場も宿泊場所もかなり歩いての移動、階段もあり苦労しましたが、痛みの中にある方々を覚える大切な時ともなりました。皆さんの祈りに支えられ、良き学びをすることができました。感謝です。
 2012年もあと一カ月です。クリスマスシーズン到来です。この月、教会がクリスチャンが頑張らないといつ頑張るのと言うことです。一人でも多くの人にチラシを通し、ホームページを通して、クリスマスの案内をし、導きましょう。クリスマスは教会へ、ではなく、クリスマスは青葉台ナザレン教会へ、を愛言葉に、神様の導きと祝福を期待して共に証ししていきたいと思います。
 さて、アドベント第一日曜日は、ルカによる福音書1章26節から38節を通して、「イエスの母マリア」と題してお話ししたいと思います。


 Ⅱ本論部
 一、何故、どうしては自分本位の生き方から来る
 皆さんと共に34節を共に読みましょう。「マリアは天使に言った。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」」 人生にはどうしてそのようなことが、という出来事が起こります。震災もそうでしょうし、いろいろな事故、問題もあるでしょう。2012年の10大ニュースと言われるものが、また紹介されることでしょう。2012年の元旦に多くの人々は、この1年の夢を見て、期待して始めたのですが、ある人にとっては苦しみの1年であったかも知れません。
 私もこれほど膝で痛むとは考えてもおりませんでした。私は神戸の神学校時代から目の痛みで苦しみ、ナザレンの神学校時代には、夏季派遣にドクターストップがかかる目の病気で苦しみました。また、ナザレン神学校時代、脊髄分離症で随分苦しみました。目と腰の痛みは長い間の付き合いでしたが、今回膝の痛みが加えられるとは思いも寄りませんでした。「どうしてそんなことが」とマリアが叫んだように、「私もどうして膝が、どうして痛むのですか」と叫びたいような気もします。
 皆さんも、「どうしてそのようなことが」と思われる事態を経験されたり、痛みを経験されているでしょう。
 マリアの驚きは、「「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」」ということでした。
恵みをいただいたということが、身ごもり男の子を産むということだったのです。マリアはヨセフと婚約していたのですが、「できちゃった婚」というのが現代には多くありますが、それとはまた違うのですが、相手が誰だかわからないというのではなくて、相手がいない妊娠ということでしょう。とにかく、まだ正式な結婚をしていないのに妊娠するということが、どうして「「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」」であり、「「あなたは神から恵みをいただいた。」」となるのでしょうか。 恵まれた方ならどうして正式な結婚前に妊娠するのでしょうか。主が共におられるというのなら、どうしてユダヤの律法を破るような仕方で、妊娠するのでしょうか。神の恵みがある。主が共にいるというのは、平安で安心で、良いことがあるということではないのでしょうか、と神様に質問したくなります。マリアも私も、「どうして」と思う事柄に対して、神様はなぜ「おめでとう、恵み」と言われるのでしょうか。

 二、神様の業であることを示して下さる
 約2000年前に、神様が人間の世界に直接介入されました。それが、救い主イエス様の誕生でした。神様が人間の姿を取って、この地上の世界、人間の世界に来るとは、人間にとっては、初めてのことでそこには不安や恐れがありました。
 金曜日には、長瀬姉のお宅で野の花会ありましたが、その時出産の話しがありました。皆さんが出産の時、どれだけ大変であったのか、女性特有の苦しみがあります。まだ見ぬわが子の誕生、そこには喜びがありますが、同時に不安や心配もあるでしょう。元気で生まれてくるのか、出産の時事故がないかなど、心配をすればきりがありません。けれども、周りの人々は、妊娠と聞けばやはり「おめでとう」と言います。妊娠と聞いて、「いや~、大変ですね。痛いですよ。苦しいですよ。やめたら、」なんていう人はいないでしょう。
 特に、神様の子である救い主の誕生、前例がない。そこにマリアの不安や恐れは当然のことでした。けれども、この誕生は暗闇の世界に、人間ではどうすることもできない人間の罪の問題に、光を与える、解決を与える為に、神の子が生まれて下さるのです。
 全世界の人々にとってはうれしい知らせではありますが、本人のマリアにとっては、戸惑いでもあったのです。
 「どうして」というマリアの問いに天使は答えました。35節から37節を共に読みましょう。「天使は答えた。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」」
 マリアが妊娠するのは、聖霊によること、つまり神様がそうなさるということです。人間の力では及ばないことが、これからマリアの身に起こるということです。神様がなそうとされることは、私たち人間には理解できないことが多くあります。マリア自身もそうでしたし、私たちも神様がマイナスと見えることや問題、痛みをそのままにされていることには理解できないことがあります。でも、それは神様がいないということや神様にはできないということではありません。神様には、私たちには理解できなくても、神様ご自身のお心で、み業を行われるのです。
 マリアは自分自身にこれから起こることに対して不安や恐れがあります。ですから、神様は不妊の女エリサベトが妊娠し、6ヶ月になっているということを示して下さいました。
不可能と思える事柄の中にも、神様のみ業は着実に進められていくのです。
 私たちにも神様のお心が見えない。わからない時があります。けれども、神様は私たちに神様のみ業を見せて下さるのです。
 
 三、神様がふさわしい者として下さる
 昨日、メッセージの準備をしておりましたら、押田姉から電話をいただきました。少しずつよくなっておられるということでした。緑内障の手術、よくなるというのではなく、悪くなることの進行をとめる手術でしたか。手術をされてから出血され、まったく見えないという状況でした。どんなに不安だったでしょう。医師の見立ては、別に悪いというのではなく、想定内ということでしょうか。出血のために見えないだけで、出血が止まれば見えるようになるということでした。けれども、安静にして、物や人にぶつかって体に衝撃を与えてはいけないということです。感染症が一番怖いということで、不安でいっぱいだと思いますが、姉妹は「ありがとうございます。本当に感謝です。お祈りに感謝します。」と言っておられました。目の現状は、それほどよくなっているわけではない。けれども、「皆さんの祈りに本当に感謝です。青葉台教会で本当に良かった。」と言っておられました。
目が癒されて良くなって、そう言うのではなく、まだ、不安や心配が多くあるのにもかかわらず、皆さんの祈りに励まされ、そして何よりもイエス様に信頼しておられるその信仰の姿勢に、神様のみ名をあがめました。
 天使はマリアに、「神にできないことは何一つない。」と言いました。そうです、神様にできないことは何もありません。それなのに、私たちの悪い状況や問題を解決されないことや痛みを取り除かれないとするならば、必ず神様の思い、別の祝福の計画があるはずなのです。
 私たちの罪を赦し、魂を救うために十字架にかかって死んで下さった愛なるお方が、私たちの祝福を幸せを考えないはずがありません。大丈夫。必ず解決を与え、祝福して下さいますから、全能の神様、愛なる神様に信頼して参りましょう。
 38節を共に読みましょう。「マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。」
 マリアは、自分が妊娠するという知らせに戸惑いました。不安になりました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」と天使に食ってかかりました。その彼女が、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と告白したのです。何が起こったのでしょうか。この変化は何でしょうか。
 これから起こることに恐れがある。律法を重んじる世界で、姦淫と思われるような妊娠、あってほしくない。そんなのいやだと思っていたけれども、それは聖霊の業、神様の業、全能なる神様が今、自分に望んでおられる。このお方に従います。このお方にかけていこう。大丈夫と言われのだから大丈夫。マリアは神様の言葉をそのまま受け入れ、自分の身に起こることを神様のみ業として受け止めたのです。
 私たちも、自分の身のこることで、「嫌だ。大変だ。困る。」というような事柄を経験します。でも、大丈夫。イエス様が共におられます。これは神様の業です。必ず祝福されます。大丈夫と言われる神様にマリアが全てを委ねて、信頼して歩んだように、私たちもイエス様に全てをお任せして歩みたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 求道中の方々が洗礼を受けるということは新しい一歩です。そこには不安や恐れがあるでしょう。でも、何も心配はいりません。十字架にかかるほどに、あなたを愛されたイエス様は、全責任を持って導かれます。イエス様が誕生されたことを記念するクリスマスに洗礼を受けられませんか。この12月にあなたにサプライズがあるように祈ります。
 マリアは、救い主イエス様の母となります。さすが、救い主の母になるだけの信仰者です。けれども、彼女の信仰は、彼女自身から出たものではなく、神様ご自身がお言葉を与え、彼女を諭し、導いたからに他なりません。彼女の信仰が素晴しいから、救い主の母としてふさわしいから選ばれたというよりも、神様は、無名の田舎の一(いち)少女を選ばれました。そして、恐れ、不安を持ち、「どうして」と食い下がるマリアを優しく導き、言葉を与えて励まし、エリザベトの例を示し、神様が何でも出来る方であることを示し、彼女の信仰を引き出されたのです。同じように、神様は、弱い、頼りのない、不安な私たちを愛し、みことばを通して導き、励まして下さるのです。そして、神様が私たち一人ひとりをふさわしい者へと変えて下さるのです。私もあなたもふさわしい者とされるのです。
 この週も、その神様が、イエス様が共におられます。大丈夫、何も心配要らない。私があなたを助け、あなたを導く。そう言って下さるイエス様に全てをお任せして、この週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。
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