年末感謝礼拝(降誕後第一) 2012.12.30
「感謝が満ちあふれる」 ルカ19:1~10
Ⅰ導入部
おはようございます。12月の第五日曜日、12月最後、年末感謝礼拝となりました。クリスマスの全ての行事も、愛する皆様のお祈りとご奉仕により祝福のうちに終えることができました。本当にありがとうございました。イエス様の誕生を心からお祝いすることができました。少々疲れ気味の方々もおられるでしょうか。神様の癒しと守りがありますようにお祈り致します。
先週のキャンドルサービスで、「見上げてごらん夜の星を」という坂本九さんが歌った歌を私が歌いました。フルコーラスで歌ったので、子どもたちからは「なが~い」と言われました。皆さんも、「いつ終わるか、いつ終わるのか。まだ歌うのか?」というような顔をしておられ、皆さんの顔を見ていたら何か引きつっている方々が多くおられました。「よかった」と言って下さる方々もおられましたが、みんなが内心「長いな~」と感じられたようです。ですから、その後のメッセージの内容よりも歌の印象が強すぎたようですね!来年はもう少し短くしたいと思いました。
25日、クリスマスの日、家庭集会の後、竹内昇兄を病院に訪問しました。今の病院に転院された時よりも顔色は良いように思いました。今、お孫さんの万智さんが来ておられますよ。うれしいですね。早く元気になって一緒に礼拝できるといいですね、とお話しして、「きよしこの夜」を家内と歌いましたが、歌っている間に気持ちがよくなられたのか、グーグーと眠ってしまわれました。これが本当に安心、安息、神様による恵みだと思いました。前回病院を転院された時、お孫さんの万智さんを教会に誘いたいと竹内姉が言っておられ、お祈りしておりましたが、間もなく教会に来られ、万智さんが毎週礼拝に集っておられることは、入院中の竹内兄にとっては、大きな喜びであり、自分になり変わって礼拝に出席してくれていること、きっとわかっておられ感謝しておられることだと思います。
明日で、2012年も終わります。皆さんのこの1年はどのような年であったでしょうか。1年、12ヶ月、365日、いろいろな人生があったことだと思います。初心貫徹という言葉がありますが、新年この1年の抱負や期待を持って始められたことでしょう。やりたいと思われたことを全うできたでしょうか。初めに決心した事を最後まで貫き通すということはやさしいことではありません。私たちは、イエス・キリスト様を信じるクリスチャンとして、キリスト者として、初心貫徹することができたでしょうか。時には、人間関係を壊さないようにと、伸縮自在な妥協のものさしを何度も使ったことかも知れません。
「きれいごとでは生きてはいけない。聖書の通りに生きるのは無理」と、損得中心の利害関係を持ち出したのかも知れません。そのような生き方である私たちであっても、出エジプトしたイスラエルの人々の不信仰な、つぶやきの多い、この世の、見えるところにしか立てない彼らの必要を満たし、導かれたお方は、イエス様は、私たちをも見捨てることなく、無視することなく、この1年間共におられて、私たちの必要を満たし、重荷を負い、導いて下さいました。本当にイエス様の愛と恵みは大きいものです。
さて、この1年間は感謝の多い一年でしたか、それともつぶやきや不満の多い1年だったでしょうか。私たちは、この年の最後の礼拝において、年末感謝礼拝というのですから、ルカによる福音書19章1節から10節を通して、「感謝に満ちあふれる」という題で、お話ししたいと思います。感謝を持ってこの1年を締めくくりたいと思うのです。
Ⅱ本論部
一、こんな私にも及ぶイエス様の限りない愛の深さ
ルカによる福音書19章はおなじみのザアカイのお話です。エリコの町では嫌われ者、ユダヤ人でありながらローマの側について、ユダヤ人から金を巻き上げ、苦しめているザアカイ、自己中心で、冷血な人間であった彼は、イエス様に出会い、イエス様と交わり、イエス様に愛され、受け入れられて自分の財産を半分は貧しい人々にささげる。そして、不正をしてごまかした人々には4倍にして返すという告白をしたのでした。
8節を皆さんと共に読みましょう。「ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。」何故、このような告白ができたのでしょうか。お金にしか興味がなかった。お金のためなら何でもするというザアカイのこの告白はまことに驚くべきことです。
5節から7節まで共に読みましょう。「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」」ザアカイはイエス様にぜひ会いたいと思い願いました。ですから、道端にあふれた人々のゆえに、イエス様を見ることができなかったので、彼はいちじく桑の木に登りイエス様を見ようとしたのですが、木に登っているザアカイにイエス様は語られたのです。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」イエス様を信じ、信心深い生き方をしてきた者ではない。神様から遠く離れていた者、愛とか恵みということから最も離れている自己中心的なザアカイの家に、彼の家にこそ泊まりたいとイエス様は願われたのです。すごいことですね。
この1年間、クリスチャンとして何か神様に申し訳ないような生き方しかできなかったという方がおられるかも知れない。聖書を読むこともままならない。祈ることも形だけというようなこともあったでしょう。神様のことを思うことも少なかったということがあるかも知れない。とするならば、イエス様がザアカイに「あなたの家に泊まりたい」と言われたように、最もあなたの心の中に泊まりたい。宿りたいと願っておられるということを知っていただきたいと思うのです。
求道中の方々も、なかなか信じられない。受け入れられない。この世と教会との間で戦いがある。こんな自分はふさわしくないというような事を思っておられるならイエス様は、あなたにだからこそ、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」「あなたの心に宿りたい」と願っておられるのです。そのことを覚えて感謝しようではありませんか。
二、イエス様と共にある幸せ(喜び)
クリスマス礼拝の後、祝会において「降誕劇」が行われました。関西弁を話す人々、つまりかつて関西に住んでいた人々の「玉ちゃんず劇場」でした。平木姉が関西弁を話されるというようなことは以外でしたね。何か吉本新喜劇ではありませんが、降誕劇のセリフを関西弁で準備して下さり、練習もしないでぶっつけ本番でありました。まあ、関西弁を話して演技している方はいいのですが、見ておられる方々が、その関西弁の表現を理解できたかどうかと心配しておりましたが、意外と笑っておられたので理解しておられたのでしょう。関西の芸人たちが東京に進出してきて、テレビなので関西弁が多く話され、普段から耳慣れておられるからなのでしょうね。これからは、関西以外の出身の方々が、九州弁とか東北弁の降誕劇が次回は見られるのかも知れません。劇を演じた方も観客も共に喜び、感謝し、楽しんだことでした。
間もなく100歳になられる桜井道江姉が礼拝と祝会に出席されておられ、とても嬉しく思いました。なかなか普段は礼拝にはおいでにはなれませんが、出席して下さったことは本当にうれしいことであり感謝なことでした。桜井姉は、「私の若い頃は、時代的にクリスマスを喜び、楽しみ、感謝することなんかできませんでした。でも、こうして楽しいクリスマス、喜び、感謝するクリスマスはいですね。」とお話し下さいました。
ザアカイは、時の人、誰もがイエス様のそば近くにおりたいと願う魅力的な人、共に過ごしたいと願う方から、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と言われ、ザアカイは喜んで自分の家に迎え入れ、大宴会、大パーティーを開き、イエス様の一番近い所で、イエス様と交わり、イエス様のお話しを聞き、至福のときを持ちました。幸せな時間、楽しい時間、喜びの時間を過ごし、人生の中で、自分がこんなにも微笑み、声を出して笑うという素晴しい時を持ったことはかつてなかったことでしょう。
ザアカイはイエス様と共にある人生の喜びを感じていました。だからこそ、イエス様を知らずにいた頃の自分、自己中心的で、自分以外不幸になっても何とも思わない罪深い自分の姿が、イエス様と共にある喜びと感謝が多くあればあるほど、自分の心にある罪を感じたのではないでしょうか。そして、自分のできることを悔い改めと共に告白したのだと思うのです。
今までは、この世のものばかり見てきた。この世のものは変わる。年が改まり、カレンダーも変わる。ドラマも主役は変わり、日本の政権も主役が変わり、歴史の主役も変わります。市場も変わり、流行も変わり、全てのものが変わる。時が変わり、状況が変わり、お金の価値も変わり、人も、関係も変わっていく。だからこそ、見えるものに足場を置いていたザアカイは人生が狂っていた。地位があり、権力があり、お金持ちであっても幸せではなかったのです。そのザアカイが、救い主イエス様と交わり、この方と共にあることの幸せを体験し、このお方を信じて従う決心をしたのだと思うのです。聖書は語ります。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13:8)
私たちは、この1年間いろいろなことを経験したことでしょう。この世のもの、変わり行くものに心も思いもかけてきたかも知れませんが、私たちは変わるものに自分の足場を置くのではなくて、いつまでも変わらないお方、イエス様に足場を置いて新しい年を迎えたいと思います。
三、あなたは救われている
毎年、12月には、京都の清水寺で今年の世相を表わす漢字一文字が紹介されます。今年の漢字一字は第一位は「金」でした。932年ぶりに日本の広範囲で観測された金環日食、6月には21世紀最後となる金星の太陽面通過、8月には金星食を観測。また、世界一の自立式電波塔として、金字塔を打ち立てた東京スカイツリーの開業、ロンドンオリンピックで、金メダルを筆頭に日本史上最多の38個のメダルを獲得。iPS細胞の研究で、山中教授が金メダルに等しいノーベル賞受賞。金(きん)というよりも日本はやはり金(かね)と呼んだほうがふさわしいのかとも思います。経済不況、国の借金などお金にまつわる問題も多くありました。年金資産運用に関連した詐欺事件の発生。生活保護費の不正受給問題。消費税増税を中心とした財政問題。東日本大震災の復興予算の使途をめぐる問題とお金にまつわるものがありました。
ザアカイも金(かね)の亡者(もうじゃ)でした。お金には魅力があります。お金があれば何でも買えるというような錯覚を持ってしまう。経済力は人を傲慢にもするでしょう。気持ちも大きくなり、太っ腹にもなる。また、お金のために悪いことでもしてしまう。お金で解決しようとする。ザアカイはそのような人生を送ってきた。お金があるから安心と言うよりも不安の方が多くあったのではないでしょうか。ですから、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」と告白したザアカイの心には、お金のために心配することはなくなっていたのではないでしょうか。お金に勝るものはないと考えていたザアカイが、お金では解決できない。心の問題にイエス様を通して解決できたのです。ザアカイは変わりました。全く別人になったのです。
9節と10節を読みましょう。「イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」」
ザアカイは、素晴しい告白をしました。では、このような告白をしたから救いが来たと言われたのでしょうか。勿論、それもあるでしょう。ザアカイは、アブラハムの子だからとイエス様は言われました。アブラハムはユダヤ人にとっては信仰の父と言われる人です。神様はアブラハムを祝福されました。彼は祝福の基となりました。そして、神様が約束された祝福は、ユダヤ人にも与えられました。ですから、ザアカイは、神様から遠い存在ではありましたが、すでに神様の恵みの中に置かれていたのです。神様の愛の中に置かれていたのです。神様の目には、すでに覚えられていたのです。
アブラハムの祝福をいただけるのは、ユダヤ人だけなのでしょうか。パウロという伝道者は、ガラテヤの信徒への手紙3章7節から9節で次のように語っています。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」
ですから、異邦人である私たちも、いや全世界の人々にアブラハムの祝福が適用されるのです。私たち一人ひとりの上にも神様の愛と恵みがいつも注がれているのです。神様に背を向けている私、この世にことばかりに心向いている私、神様から一番離れた所にいると感じている私にも、神様の救いのみ業、愛のみ業、恵みのみ業、祝福のみ業が与えられるのです。そのことを覚えて感謝し、喜びたいと思うのです。
そのためにイエス様は、私たちの身代わりに十字架にかかって御自分の命を犠牲にし、私たちの受けるべき苦しみを受け、裁きを受けて下さったのです。ここにこそ、神様の、イエス様の愛があるのです。
私たちは、2012年を終わろうとしています。この1年、いいことが何もなかった。悪いことばかりに思いがいきますが、良いこともいっぱいあったはずです。感謝できることもたくさんあったはずです。それを忘れているか。気がついていないのだと思うのです。「数えてみよ、主の恵み」と賛美しましたが、イエス様は多くの恵みをこの1年間与えて下さいました。そのことを忘れることなく、覚えて感謝をささげたいと思うのです。
Ⅲ結論部
コリントの信徒への手紙第二の4章15節には、「すべてこれらのことは、あなたがたのためであり、多くの人々が豊かに恵みを受け、感謝の念に満ちて神に栄光を帰すようになるためです。」という言葉があります。「感謝の念に満ちて」という言葉を口語訳聖書も新改訳聖書も、「感謝が満ちあふれ」という言葉で表現しています。
私たちのこの1年は、神様に守られた、イエス様に導かれた感謝に満ちあふれた1年でした。マイナスに見える事もあった。けれども、神様は必ずプラスにして下さった。そしてこれからして下さる。痛みもあった。それが意味のある痛みとなり、痛みと持つことの大切な教えとなった。共感できる宝物となった。神様を信じる者、イエス様を信頼する者は、そのような歩みであったので、感謝にあふれる1年であった。 そして、やがて来る2013年も、このお方がいつも共におられ、私たちを支え、導いて下さるので、2013年の1年も、感謝に満ちあふれる1年であることが約束されているのです。
聖書は語ります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」(ローマ8:28)
私たちの信じる神様は、イエス・キリスト様は、マイナスさえも益とするお方、痛みさえも益とするお方、問題も課題も、悪いと思える事柄全てを、ご自身が介入されて、共に働いて下さって、すべてのことを益にして下さるのです。このお方と共に、2013年もスタートしましょう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
(Ⅰテサロニケ5:16-18)