日曜礼拝(イースター) 2024.3.31
「マリアなぜ泣くの」 ヨハネ20:1~18
Ⅰ導入部
イースターおめでとうございます。イエス様が死から蘇られたことを記念する復活日、イースター礼拝です。全世界の教会でイースター礼拝が持たれ、イエス様の復活を覚え、心からの賛美と礼拝がささげられています。今日は桜の花も開花しているようです。イエス様の復活、イースターにふさわしい季節です。教会学校では、4年ぶりでしょうか。きのこ公園での野外礼拝と卵探しがされて、子どもたちも桜の花を見ながら、イエス様の復活の象徴の卵を探して楽しんでいることでしょう。第二礼拝後には、清水馨子(けいこ)さんの洗礼式が執り行われます。イエス様のよみがえりのイースターの日に罪に死にイエス様と共によみがえり、新しい命に生きることになる清水馨子さんの洗礼式と信仰生活の祝福のために心から祈りたいと思います。
今日は、ヨハネによる福音書20章1節から18節を通して、「マリアなぜ泣くの」という題でお話し致します。
Ⅱ本論部
一、イエス様の遺体が盗まれた
復活されたイエス様が、最初にご自身を現わされたのは弟子のペトロやヨハネではなく、また母マリアでもなく、マグダラのマリアであったことをヨハネによる福音書は語ります。
マグダラのマリアについては、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8:2)と聖書が紹介しています。マリアの人生は七つの悪霊によって、苦しみと悲しみ、痛みの人生でした。家族からも友人からも見捨てられ、生きていること自体苦しみの連続だったことでしょう。しかし、そんな彼女がイエス様に出会い、七つの悪霊を追い出していただき、人生が一変したのです。この時から、マグダラのマリアは、イエス様を信じ、イエス様に従い、イエス様に仕える人生へと変えられたのです。いつもイエス様の権威ある、愛あるお話に感動し、奇跡のみ業に心躍らせ、まことにイエス様が救い主、神様の子であることを信じたのです。そのお方が、犯罪人として十字架につけられ、マグダラのマリアは、十字架の下でイエス様の苦しみと死を見届けました。マグダラのマリアにとって、イエス様の死は信じられないこと、受け入れられないことでした。イエス様が納められた墓を確認したマリアは、安息日(土曜日)が終わるのを待って、1節にあるように、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」と、少しでも早くイエス様のご遺体に香油を塗ってさしあげたいと墓に急いだのです。すると、「墓から石が取りのけてあるのを見た。」のです。マリアの頭の中では、大変なことが起こった。イエス様のご遺体が盗まれたと判断しました。自分一人で解決できないので、イエス様の弟子たちの所に急いで知らせるのです。
2節には、「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」」とあります。マリアは、墓の中を見ずして、墓の入口の石が取りのけてあるのを見ただけで判断しました。イエス様は、時の人、多くの人々に慕われるのと同時に、ユダヤ教の指導者たちからは嫌われ、憎まれていたので、イエス様の遺体にまでも傷つけることをするのではないか、そのためにイエス様の遺体を盗んだ。あるいは、当時墓場荒らしがあって、イエスの遺体を盗んだと考えたのでしょう。イエス様の死は悲しいことですが、ご遺体を見て、イエス様を思う、イエス様を偲ぶことが、マリアにとっては少しでも慰めになるのでしょう。今のマリアにとっては、イエス様の遺体が,遺体そのものだけが何よりも大切な存在となっていたのです。
マリアからの知らせを受けた弟子の様子はどうかというと、3節から8節に、「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。ペトロとヨハネは年齢が違い、ヨハネの方が速く走り、先に墓につきましたが、墓の中をのぞいて、亜麻布が置いてあるのを見ただけで、中には入りませんでした。遅れてペトロが到着し、墓の中に入って、亜麻布が置いてあるのを見たのです。「亜麻布が置いてある」というのは、「折り目正しく」置いてあったということのようです。ですから、イエス様の遺体が盗まれたということは考えられない。杉下右京さんなら状況をよく調べて、「イエス様はよみがえられたのだと思いますよ」と言うのでしょうか。亜麻布の置かれた状況からは、蘇えられたイエス様がご自分で折り目正しく置かれたのでしょう。イエス様は几帳面な方だったのでしょうか。
ニ、神様の目で、イエス様の目で物事を見る
8節には、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。20章1節から8節までには、「見る」という言葉が4回出てきます。1節「マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」と5節「身をかがめて中をのぞくと」の見るは、「クレポウ」というギリシャ語で「ただ単に見る」という意味です。マリアもヨハネも注意深く墓を見たのではなく、なにげなく、ただちらっと見ただけでした。マリアは、ちらっと見て石が取りのけてあるのを見てイエス様の遺体が盗まれたと早合点したのです。6節「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」の見るは、「セレイオウ」というギリシャ語で「注意深く見る、調べる」という意味があるようです。ペトロは、注意深く見ましたが、理解できなかった。わからなかったのです。8節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」の見るは、「エイドン」というギリシャ語で、「見て、理解する。」という意味があるようです。ヨハネが、「亜麻布が(押し目正しく)置いてある」という今自分が見ているものが何の意味を持つのかを理解できたのです。リビングバイブルには、「私もあとから入り、この有様を見て、イエスが復活なさったことを信じました。」とあります。9節には、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。ヨハネはイエス様の復活を信じましたが、詳訳聖書には、「彼らは聖書の「彼は死人のうちからよみがえらなければならない」ということばをまだ知らなかった。」とあります。この時点では聖書のイエス様の蘇りについて知らなかったのです。ペトロとヨハネは帰って行きましたが、マグダラのマリアは帰りませんでした。11節には、「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、」とあります。「マリアは墓の外に立って泣いていた。」とあります。
私たち人間は、あきらめられないことや受け入れがたい現実に遭遇する時、悲しみのあまり涙する。泣くのです。イエス様の十字架刑の下で、愛するイエス様が苦しみ、痛んでおられるひどいお姿を見続けていたマグダラのマリアは、イエス様が亡くなられたこと死なれたということを頭では理解していたのでしょう。けれども、お慕いし愛するイエス様の現実の死を受け入れることがなかなかできない、ましてイエス様の遺体がどこにもないのでマリアは泣いていたのです。マリアが、悲しみの中で泣くということ、泣けるということは、生きていることの証しなのかも知れません。マリアは、イエス様が十字架にかけられ死なれたこと、そして、イエス様の墓が空であることを知っていました。しかし、そのことをなかなか受け入れることができませんでした。愛するイエス様のご遺体が墓にない事を悲しんでいたのです。死という現実の前には、なすすべが何もないことを痛感して泣いていたのです。マリアはイエス様の遺体が墓にない事を悲しみます。今のマリアには、イエス様の遺体が全てでした。マリアは泣きながら墓の中を見ました。
12節、13節には、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」」とあります。マリアは、天使たちを見ても畏れませんでした。眼中になかったのかも知れません。天使たちは、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いました。泣いている理由を聞かれていると思い、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」とマリアは答えました。「わたしの主」という表現は、マリアのイエス様に対する思いの大きさがわかります。天使たちはマリアの泣いている理由を聞いたのではないでしょう。ルカによる福音書24章、5節、6節には「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。」と天使が語っています。イエス様は復活して生きておられるのに、「婦人よ、なぜ泣いているのか」ということなのです。私たちも、様々な苦しみや悲しみ、痛みを経験する時、イエス様は生きておられるのに、死んだままのイエス様であるかのように、悲しみすぎる、苦しみすぎるということはないでしょうか。
三、イエス様の方に向きを変えるとき
14節には、「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。心から恋い慕うイエス様が背後に立っておられるのにマリアは気が付きませんでした。マリアが見ていたものは、遺体となられたイエス様を誰かが取り去った、という空の墓でした。悲しみ、苦しみの涙によって、心が支配されていました。マリアは、死の世界、墓の方へと引き寄せられていたのです。そのために、本当に見るべきもの、イエス様に目を注ぐことができないでいたのです。私たちも信仰生活の中で、あまりの苦しみや悲しみ、痛みによって、イエス様が確かにそばにおられるのに、共におられるのにもかかわらず、イエス様の存在に気が付かないということがあるのかも知れません。何があろうとも、私たちの状況がどのようにマイナスであっても、イエス様は私たちのそばに共にいて下さるのです。
イエス様は、マリアの涙や悲しみや苦しみを誰よりも知っておられました。15節には、「イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」」とあります。イエス様は、マリアがなぜ泣いているのか、誰を探しているのか、よくわかっておられました。この問いは、「あなたが探しているのは、死に打ち勝った私ではないか」とマリアに投げかけておられるように思うのです。また、「なぜ泣いているのか。」とは、「なぜ泣く必要があるのか」ということで、「もう泣く必要はないのです」と、イエス様の復活は紛れもない事実だということです。ですから、天使も、イエス様も、同じように「なぜ泣いているのか。」と問うたのです。
マリアは、イエス様が墓の管理人だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と言ったのです。「わたしが、あの方を引き取ります。」というマリアの心からの気持ちを聞いて、イエス様はうれしかったでしょう。16節には、「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」とあります。イエス様は、マリアの名前を呼ばれました。聖書の中で、神様が名前を呼ぶと言うことは、その人の生き方を新しくするということを示しているようです。「モーセ」と呼ばれた神様は、モーセにエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから解放するという新しい使命を与えられたのです。「サウロ」と呼ばれたイエス様は、後のパウロに、律法に生き、キリスト者を迫害する生き方から、新しくイエス様の福音を伝える伝道者として召されたのでした。イエス様は、マリアの名前を呼んで、イエス様の復活によって新しい生き方があることを示されたのです。マリアは自分の名前を呼ばれて、振り向いて、「ラボニ」と答えたのでした。マリアとイエス様は名前を呼ぶだけで心が通じたのでしょう。イエス様は以前共に歩んでいた時のように、「マリアム」と呼ばれ、マリアもいつもイエス様を呼んでいたように「ラボニ」と答えたのです。あのかつてのように、イエス様にいつもも呼ばれた名前で、マリアはイエス様だと気がついたのです。
マリアは、死んだと思っていた。遺体がどこかに持ち去られたと思っていた愛するイエス様が目の前にいたので、おもわずしがみついたのでしょう。17節には、「イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」」とあります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」とは、マリアが女性だからとか、マリアが嫌いだからということではありません。イエス様はやがて父なる神様の元に帰られます。ですから、その時には、以前の同じように、イエス様のお姿を見て、イエス様の声を聞いて、イエス様のお体に直接触れるということはできなくなります。今のマリアは、イエス様の遺体がなくなり、パニックになるほどイエス様を慕っているので、今目の前におられるイエス様をもう二度と離すまいとしがみつきたくなるのですから、特にマリアには、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言わざるを得なかったのでしょう。やがて、弟子たちもマリアも、イエス様が父なる神様の元に行くことで聖霊が与えられて、神様との新しい関係に入ることができるのです。イエス様は、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方」と言われ、聖霊を通して、父なる神様は、人間の私たちとっても父となり、神となると宣言されたのです。
18節には、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とあります。マリアはイエス様にすがりたいだろうけれども、イエス様が復活されたことを一時も早く伝える使命を受けたのです。
Ⅲ結論部
マリアは、天使からもイエス様からも「なぜ泣いているのか。」と声をかけられました。しかし、マリアの悲しみはなくならず、涙は止まりませんでした。マリアが絶望の象徴である墓に目を留めている限り、どのような言葉も、励ましもマリアには力にはならなかったのです。しかし、マリアと親しく呼ばれていた名前で呼ばれて、振り向いてイエス様に目を留めた時、イエス様の存在に気付いた時、マリアは喜びに満たされたことでしょう。私たちもイエス様がそばにいるのにもかかわらず、苦しみの場所、悲しみの場所、痛みの場所だけを見ていることはないでしょうか。もしそうならば、人々の励ましの言葉も、聖書の言葉も励ましにはならないのです。私たちが問題の場所、悲しみ苦しみの場所から目を離して、イエス様に目を留める時、イエス様の存在を認める時、私たちは平安と安心をいただくことができるのです。イエス様は、「今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:21)と言われました。私たちは、苦しみのゆえに、悲しみのゆえにただ泣くのではなくて、どんな時にもイエス様が共におられることを信じて、イエス様の前で泣くことが,イエス様の前で嘆くことが、信仰の出発点になるのではないでしょう。「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(ルカ7:13)と聖書は語ります。イエス様を信じている私たちも、信仰者の私たちも、様々な試練に遭遇する時、嘆き、悲しみ、涙を流します。私たちは、試練だけを見るのではなく、試練を通して、神様のみ業を見せて下さるイエス様がいつもそばに、背後に、共におられることを信じて、イエス様に目を留めてこの週も歩んでまいりましょう。