聖霊降臨節第10主日礼拝説教 2024年7月21日
満山 浩之
『隔ての壁を打ち破る』
エフェソの信徒への手紙 2章11節〜22節
皆さんは「隔ての壁」と言ったらどんなことを思い浮かべるでしょうか。
目に見える物で言えば、隣の家との壁、家を囲う壁、歴史的にもドイツのベルリンの壁などがあります。目に見えない壁というのもあります。それは、言葉の壁、文化の違いという壁、人種差別という壁、貧富の差という壁、また話していて心が通い合ってないなって感じる壁など、目には見えないけれど、なんか隔たりがあって、壁を感じるなってことも少なくはないと思うのです。
私も17年前にブラジルへ独りで渡った時、そのような壁を感じていました。地球の裏側に行くので、言葉が違えば文化も違って、考え方も当たり前ですが違ったのです。その時に何か目には見えない、物凄く分厚い隔ての壁を、感じていました。でも、そのブラジルで生活していく中で、その分厚い隔ての壁が、どんどんとなくなっていくのを感じたのです。その理由がクリスチャンとなった今、ようやく理解できるようになったのです。なぜなら、彼らブラジル人は、イエスさまを救い主として信じて受け入れて、それに従って人生を歩んでいる人たちが、実に多いからです。
それは、今日の説教題でもある『隔ての壁を打ち破る』そのお方を信じて、
そのお方に従って歩んでいる人が多かったからです。今日の箇所を通して、どのようにその「隔ての壁を打ち破って」いくのか、皆さんと一緒に見ていきたいと思います。この手紙を書いたパウロは、まずエフェソにいるイエスさまを信じる者たちに、「心に留めておきなさい」と言います。これは「思い出して欲しい」という意味に置き換えることもできる言葉です。エフェソの教会の人々は、ユダヤ人ではない「異邦人」と呼ばれる人々です。この言い方も「隔ての壁」を造っている一つの要因なのですが、ユダヤ人は、神さまから選ばれた誇り高き特別な民族なんだ、という意識がとても強かったのです。
旧約聖書時代、神さまはまずはユダヤ人であるイスラエルの民を選び出し、 神さまの教えを与え、神さまに従って生きるようにと導かれました。そのことが伝統的に、ユダヤ人の体に染み付いていたのです。そしてユダヤ人からしたら、神さまは彼らユダヤ人にしか祝福の約束を与えず、ユダヤ人にしか神さまとの契約も結ばずにいる、と思い込んでいたのでした。なぜなら、ユダヤ人であるイスラエルの民に、律法という神さまに従うための道標が、当時のリーダーであるモーセを通して、神さまから彼らに与えられていたからです。
でも、異邦人であるエフェソの人々は、そのようなものはありませんし、むしろ知らなかったのです。本当の神さまがどういうお方なのか、神さまはいるのだろうか。他にも神さまはいるのではないだろうか、と本当のことを知らずにいたのです。それは私たちも同じだと思うのです。日本に生まれ、日本で育ち、日本の文化や風習に馴染んでいく。それが当たり前の中で、イエスさまを信じること、この世を造られた唯一の神さまを信じて歩むこと。それは簡単ではなかったはずです。でも、聖霊の働きによって導かれた私たちは、日本の伝統や考え方はあるけれど、この世の本当の真理を知った時、喜びと祝福に満ち溢れたと思うのです。なぜなら、私たちを造って下さったのは、神さまであって、神さまなしでは、私たちは存在もすることができなくて、生きていくこともできない、ということを知ったからです。そして、そんな私たちを愛し続けてくださっているお方が、私たちをいつも支え続けてくださっている、という感謝が心から湧いてくるのです。確かに今日の箇所の12節にありますように、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、 この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」
それは私たちにも当てはまることではないでしょうか。この世の人生は自分で道を切り開いていくしかない。物事がうまく進まなかったら、運が悪かっただけ。何かにしがみ付きたいが、何にしがみついたら良いかわからない。とりあえず、占いや良いと思われている何かを参考にやってみる。もう人生が分からなすぎて、将来が不安で仕方がない。目標も希望もなく、神さまという存在すら知らない、神さまのいない世の中に生きていると考えた方も、少なくはないはずです。私もその一人でした。でも、本当の神さまを知り、自分自身がこの世に生かされている意味を知り、救い主イエスさまを信じて受け入れた時、この世が神さまの数多くの恵みに満たされていて、愛が注がれているのだと、神さまなしでは生きることは出来ないのだ、と知ることが出来たのです。
創世記1章にこうありますよね。
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」
創世記2章には「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」
この手紙を書いたパウロは、イスラエルの民と呼ばれたユダヤ人たちが、口では神さまを敬い、神さまから与えられた律法に従っていると言いながら、心は神さまから遠く離れてしまっていることを、誰よりもよく知っていました。なぜならパウロ自身、聖書の御言葉を間違って解釈し、イエスさまを信じる者の群である教会を迫害し続けてきたからです。ですから、イエスさまに出会い、心から変えられたパウロは、同胞であるユダヤ人が救われることを、何よりも強く祈り求めていたのです。自分たちには神さまの約束があり、神さまに選ばれた民なのだと口で言っておきながら、実際には、神さまから与えられている律法を守らず、神さまの御心に背いた生活をしていたユダヤ人たちがいたのです。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた立場を誇りに思って、他の民族を「異邦人」と呼んで、心の底では神さまのない民として、「異邦人」を見下していたのです。でも神さまは、この世にイエスさまという救い主をお送りくださいました。イエスさまが十字架の上で死ぬことによって、その流された血によって、神さまから遠く離れていた異邦人も、神さまに選ばれて近いと思われていたユダヤ人も、神さまに近付くこと、神さまと共に歩むことができるようにされたのです。神さまの目からしたら、ユダヤ人も異邦人も関係ありません。一人の人間として、神さまの可愛い、愛しの、愛する子なのです。ただ争ったり、差別したり、仲間外れにしたりしているのは、人間の身勝手な考えなのです。それは、神さまの御心とは遥かにかけ離れたことです。
その罪深い者が、私たち人間なのです。ある人を見た目で判断してしまったり、自分は偉いのだ、と自分が一番だと考えてしまう、そのようなものに満たされやすい、陥りやすいのが私たち人間ではないでしょうか。ですから、人間と人間との「隔ての壁」を作り出しているのは、実は私たち人間の身勝手な考え方なのです。それによって、神さまとの「隔ての壁」も、私たちが知らず知らずのうちに作り出してしまっていたのです。その絶望へと導く、望みをなくさせる「隔ての壁を打ち破る」ために、この世に来られたのが、救い主のイエスさまなのです。神さまの子として、罪が一切ない、何も悪いことをしていないのにもかかわらず、すべてを受け入れて、十字架の死を受け入れ、ご自身の命を犠牲にしてでも、神さまと人間との和解、人間と人間との平和を確立できるようにしてくださったのです。このようにして、「二つのものを一つにする」その神さまの御計画は、実現して行ったのです。
「隔ての壁」を自らつくる、他と「敵対する心」は、イエスさまの十字架によって、葬り去られました。今では、ユダヤ人でもなければ、異邦人でもありません。ただそこにいるのは、「新しくされた一人の人間」なのです。私たち人間は、このことを心から信じるだけです。イエスさまを心から受け入れて、信じて従っていくだけです。もう手の届くところに、「平和」という宝は転がっています。それを手に取って、心に携えて日々を歩んでいくだけです。
私がブラジルで感じた「隔ての壁」というのは、自分自身が作り出しているものであったと、今日の説教をつくっている時に気付かされました。「言葉が通じないから、俺の気持ちなんてわからないだろう」「文化が違うし、考え方が違うから、分かり合えなくて当然だ」そのように自分自身で彼らとの「隔ての壁」をつくってしまっていました。でも、彼らは今日の聖書の御言葉に生きている人たちでした。「日本人もブラジル人も関係ない。」「我々は神さまに生かされているただの一人の人間であって、皆神さまの家族なのだ。」そのような思いで、私に接してくれていたのです。そのことを知ることができた今、私は喜びで満ち溢れています。ぜひ私たちも、神さまとの和解、人間と人間との平和を確立してくださった、すべての「隔ての壁を打ち破って」くださったイエスさまを信じる者として、神さまの愛する子である、周りの様々な人たちと接していこうではありませんか。そこに本当の平和が生み出されることを信じて確信して、今週も歩んで参りましょう。