江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2020年10月25日)

2020-10-27 07:49:34 | Weblog

ヘブライ人への手紙5:1~10  イエスさまは、大祭司  10、25

  • ヘブライ人への手紙(以下、ヘブル書)は、新約の中では、なじみにくい手紙かもしれません。著者も、はっきりしません。この手紙の内容は、多くの神学者が指摘しているように、興味深く、素晴らしいものがあります。英国の新約の神学者として、著名なB・リンダースはこの著者を、パウロ、ヨハネに匹敵する新約の3大神学者と呼んでいます。この手紙は、当時のローマ帝国でキリスト者の迫害があり、ユダヤ教に逆戻りする可能性のあるユダヤ人等の改宗者の群れに、キリスト者として新たな確信をもって、留まるようにすすめる目的をもって書かれたとも言われています。

 

  • イエス・キリストは、一言で言ったらどんな人なのと問われたら何とこたえるでしょうか?ヘブル書では、「イエス・キリストは、大祭司」だととらえ、明確に言っています。このようにはっきり言っているのはこの書だけです。よくイエス・キリストは「預言者であり、祭司であり王でもある」という言い方をされます。ヨハネ17章の、イエスさまの長い祈りは「大祭司の祈り」と言われています。パウロは、わたしたちの「とりなしをする人」という言い方をしています。(ローマ8:34)

 

  • 大祭司とは、どのような資格をもった人でしょうか?大祭司というと、モーセの兄アロンや、イエスさまを十字架に送った、カイアファなどを思い浮かべます。著者は、本日の聖書箇所で、大祭司には4つの資格が必要だと述べています。まず、1節で大祭司とは、①人間のなかから選ばれた人間であること ②罪のための供え物やいけにえを捧げる、次に2節で ③無知な人、迷っている人を思いやることができる。そして、4節で④神から召されているという4点の資格を備えている人だと言っています。さて、イエスさまは、この資格に当てはまるでしょうか。一点目、神であり人であるイエスさまは、人としてこの世に来られた人間です。2点目では、大祭司アロンは、人であるので、まず自分の罪のために、いけにえをささげてから、人々の罪のためのささげものをする必要がありました。イエスさまは、罪を犯したことがない人なので、自分の罪のためにささげものをする必要がなく、人々の罪のため、ただ一度、十字架に自分自身をいけにえとしてささげたのです。このことで、私たちは、罪の清めと赦しがあたえられ、もう罪の清めのためのささげものは必要なくなったのです。3点目では、イエスさまは、人として弱さを身にまとっているから人を思いやることができるのです。そして4点目は、5節にあるように「あなたは、私の子、わたしは今日あなたを生んだ」(詩2:7)と父なる神に、神の子と宣言されこの役に任命されたのです。イエスさまは、4点の資格をすべて備えているのです。別の言い方をすると、イエスさまの十字架と復活の出来事を大祭司の役割と、著者はとらえているのです。

 

  • 6節、10節にあるメルキゼデク(義なる王)というのは、聖書にあまりでてこなく、聞きなれない名ですが、アブラハムを祝福した神の祭司として創世記14:19~20にでてきます。彼は、サレム(エルサレム)の王で、父もなく、母もなく,系図もなく、また生涯の初めも命の終わりもなく、神の子に似たものであって永遠の祭司ですと言われています。詩篇110:4にも、あなたは永久の祭司メルキゼデクとあります。イエスさまもメルキゼデクと同じように永遠の大祭司だと言っているのです。(7:3)レビ族に継承されるアロンの大祭司とは異なります。

 

  • 7節でイエスさまは、人間として生きておられたとき、「激しい叫び声をあげ、涙を流しながら父なる神に祈った」とあります。十字架への道は、大変な苦悩であったと思います。最後の日の前の晩のゲッセマネでの祈りは、そのことをあらわしています。

  イエスさまは、御子でもあるのに、人々の罪の贖いのため、ご自身をささげる使命に従順に従ったのです。「できることならば、この杯をわたしから過ぎ去らしてください。しかし、私の思いのままでなく、み心のままにしてください」と、血の滴るような祈りのなかで、神のみ心を聴き、従順に従ったのです。自分の思いではなく、み言葉に聴き従ったのです。

6、  三浦綾子さんの本に次のような話が出ていました。 細川ガラシャ、玉子を信仰に導いたとされる、佳代という女性がいました。なぜそんなに涙が出るまで、祈るのかと玉子から聞かれたとき、彼女はこう答えています。「この祈りを神におききとどけいただかねばと切に切に思うとき、汗も涙も出るものでございます。人様に少し難しいことをお頼みするさえ、私どもは必死であります。まして聖なる神におすがりいたしまするには、心を清めて、切に切にお祈りいたさねばなりませぬ。」

  私たちも、神さまは私たちの祈りを聞いてくださっているという確信を持ちつつ汗をかくような祈りをしたいものです。

7、

そしてイエスさまは、十字架につけられて死に、3日目に復活し、よみがえり天に昇り、主のお建てになった聖所、真の幕屋で大祭司として仕えており、父なる神の右の座に永遠についておられるのです。そして、完全なものとなり、ご自分に従順であるすべての人の永遠の救いの源となる大祭司となったのです。ただ一度、イエスさまがご自身をささげたことにより、私たちの罪は永遠に贖われたのです。救いは永遠に全うされたのです。

 イエスさまは、わたしたちと同様に多くの試練に会われたので、私たちの弱さに同情できない方ではない。わたしたちは、このとりなし手に、憐れみを受け、恵にあずかって、時宜にかなった助けを頂くために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

「わたしが、道であり、真理であり、命である。私を通らなければだれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)。と言ってくださっているのですから。

コメント

日曜礼拝(2020年10月18日)

2020-10-19 22:46:23 | Weblog

主日礼拝

2020.10.18

「瞬間的無神論」

詩篇10篇(新共同訳)

 

Ⅰ導入部

  • みなさん、おはようございます。このようにして本日もみなさんとともに礼拝を捧げることのできる恵みを心より感謝いたします。
  • 祈りをもって、このメッセージを始めさせていただきます。…

 

  • 本日のタイトルは「瞬間的無神論」というものです。すごいタイトルをつけたな…と思われた方もいらっしゃったかもしれませんが、「無神論」というのは、この詩篇第10篇を理解する鍵となる概念です。
  • この説教を聞いておられる方のなかに、クリスチャンではない方で、「自分は無神論者」だと言う方も、いらっしゃるかもしれません。
  • ただし、「神など絶対にいないんだ!」と強く確信しているという方は、おそらく少数派だと思います。神の存在については、「いる」ということも、また「いない」ということも完全には証明できませんから、逆に「いない」と信じるためには、強い信念というか、信仰が必要です。

 

  • おそらく、多くの方は、「神様ってのはいるかもしれないけれど、どんな神であるか分からないし、普段意識していないんですよね」という方が多いのではないかと思います。
  • そして、実は、信仰者であっても、神を信じると決意したクリスチャンであったとしても、神を意識しない瞬間がある。神が存在しないかのように生きる瞬間が、「瞬間的無神論」に陥る瞬間がある。
  • そのことの恐ろしさと、そしてそれを超えて貫かれる神の愛と力を歌うのが、今日読まれた詩篇10篇なのです。

 

Ⅱ本論部

一.悪に向かわせる「瞬間的無神論」

  • それでは、早速この詩篇10篇の1、2節をご覧ください。

 

10:1 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。

10:2 貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。

 

  • 詩人は、神に向かって叫びます。「主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか」。
  • 詩篇9篇と同じく、詩人は苦難のなかにいました。特に、2節にもあるように、「神に逆らう傲慢な者」と呼ばれる敵の存在が目の前にあるゆえに、詩人は神に向かって叫び、祈るわけです。
  • この「神に逆らう傲慢な者」、別の翻訳ではストレートに「悪者」あるいは「悪しき者」となっていますが、そのような敵の姿が、3節以降では、このように描かれています。
  • 3節からをご覧ください。

 

10:3 神に逆らう者は自分の欲望を誇る。貪欲であり、主をたたえながら、侮っている。

10:4 神に逆らう者は高慢で神を求めず/何事も神を無視してたくらむ。

10:5 あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い。彼の道はどのようなときにも力をもち/自分に反対する者に自分を誇示し

10:6 「わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない」と心に思う。

10:7 口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠す。

 

  • この詩によると、「神に逆らう者」は、「自分の欲望を誇」っている。正当化している。
  • そして、「貪欲であ」る。口では神を賛美しながら、実は心のなかで主を「侮っている」。その意味では、神をバカにしている、逆に呪っているとも言えるわけです。
  • 4節の「何事も神を無視してたくらむ」ということばは、別の翻訳ですと、「『神はいない。』これが彼の思いのすべてである」となっていますが、神がいるとどこかで思っていたとしても、あるいは口先では「神を信じている」と言っていても、あたかも神などいないかのように、神を無視して生きている。
  • そして、そのような思いを持ちながら、悪を行っていても、成功している。詩人は言うのです。5節「あなたの裁きは彼にとってはあまりにも高い」。あなたの裁きは無力なのではないですか。
  • さらに、6節にはこのようにあります。「『わたしは揺らぐことなく、代々に幸せで/災いに遭うことはない』と心に思う。」悪を行ったとしても、全然問題はない。裁かれることはない。幸せに生きることができる。7節にあるように、「口に呪い、詐欺、搾取を満たし/舌に災いと悪を隠」していても、どうせバレない。

 

  • この詩篇を読みながら、私が思い出したのは、新約聖書に描かれるイエスさまを十字架につけた宗教指導者たちの姿です。
  • 彼らは、ユダヤ教の指導者であるということは、おそらく当初は、神さまを畏れ、神さまに従いたい、神さまのために人に仕えたいと想いを持っていたと思われます、もちろん最初からそんなこと全然思わずに、ただ宗教的・政治的特権が欲しいと思ってそのような職についた人もいたかもしれませんが、純粋な想いで、その職についた人たちもいたでしょう。
  • しかし、自らのプライドが、妬みが、あるいは富に目が眩むことによって、新約聖書に描かれているように、あたかも神など全く信じていないかのような思い、言葉、行動に向かっていくのです。自分の欲望に従い、高慢になり、口では呪いのことばを吐き、暴力に向かっていった。しかも、それに気づいていない。自分を正当化して、全然問題はないと考えていたと思われる。

 

  • もちろん、私たちが、これほどまでにあからさまに神を無視し、悪事を行うことは、なくはないかもしれませんが、あまりないと思います。神がいると信じている場合、その神が願われないこと、悲しまれることを堂々と行うことはないでしょう。
  • しかし、頭では神がいると分かっていても、神を全く意識しない瞬間は、神を無視してしまう瞬間は、私たちにもあると思うのです。もちろん、どこかで神を意識している。しかし、自分の感情の方を優先し、神が悲しむような思いや言葉や行動に向かっていくならば、自分の欲望・貪欲の方を優先しながら、それでも大丈夫。神の裁きなどありえない。悪を多少行ったとしても全然問題ないと無意識に考えてしまうことがあるのではないかと思うのです。

 

  • もちろん、私たちはイエス・キリストの十字架の犠牲によって罪赦されています。あるクリスチャンではない学生に、イエス・キリストの十字架の意味を伝え、どんな罪でも赦されるのだということを語ったときに、その子が「じゃあやりたい放題ってことじゃないですか」と言ってきたことがあります。
  • もちろん、結果的に、私たちの弱さゆえに罪を犯したとしても、どんな罪であっても赦すほどに十字架は重い。でも、それは、だから何をやっても良いという意味ではない。
  • むしろ、私たちのために、十字架で命を捨てるほどに、私たちを愛してくださった方を思えば、その方が悲しむような思いを、言葉を、行動を選びとることなどできないはずである。
  • しかし、私たちには、そのような神への想いが、ふっとなくなる瞬間がある。神を無視して、悪に向かってしまう瞬間が、私たちにもある。「瞬間的無神論」の症状は、悪に向かう心であるのです。

 

二.恐れに向かわせる「瞬間的無神論」

  • 瞬間的であっても、無意識に神を無視するとき、私たちは悪に向かってしまうことがあると申しましたが、もう一つ「瞬間的無神論」がもたらす症状があります。それは「恐れ」です。私たちが「瞬間的無神論」に陥るとき、「恐れ」がもたらされる。
  • 続く8節からをご覧ください。

 

10:8 村はずれの物陰に待ち伏せし/不運な人に目を付け、罪もない人をひそかに殺す。

10:9 茂みの陰の獅子のように隠れ、待ち伏せ/貧しい人を捕えようと待ち伏せ/貧しい人を網に捕えて引いて行く。

10:10 不運な人はその手に陥り/倒れ、うずくまり

10:11 心に思う/「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と。

 

  • 11節は、新改訳聖書ですと、悪人のセリフになっているのですが、ここは両方ありうるんですね。新共同訳では、神を無視する悪人たちの暴力により、苦しみに遭っている人のことばであると解釈されていますが、そうだとすると、苦しみのなかで、その人は、心の中でこのように言っているわけです。「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」。
  • 確かに、冒頭でも、この詩篇10篇を書いた詩人はこのように歌っていました。

 

10:1 主よ、なぜ遠く離れて立ち/苦難の時に隠れておられるのか。

10:2 貧しい人が神に逆らう傲慢な者に責め立てられて/その策略に陥ろうとしているのに。

 

  • 言葉を失うほどの苦しみを前にするとき、悪が栄えるとき、私たちには神が分からなくなることがあります。
  • この人は、悪人たちと違って、神を無視するわけではなく、「神がいない」とまでは言いません。しかし、このように言うのです。神は「遠く離れて」いる。主は「遠く隠れて立」っておられる。「神はわたしをお忘れになった」。そのように思うわけです。

 

  • もちろん、私たち信仰者は、頭では分かっています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。
  • すべてのことが、どのような出来事が起こったとしても、それは必ず最善に用いられる。もちろん、どんな意味があるかなんて分からないことばかりです。でも、必ず意味がある。そして、やがてイエスさまが再び来られるとき、その意味が分かる。

 

  • 私たち信仰者は、頭では分かっている。神は言われたのです。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ13:5)。
  • 私たちの目から見れば、どれほど状況が最悪でも、どれほど理不尽に見えたとしても、それは神が私たちを見捨てた証拠ではない。神は、あなたのすぐそばにおられる。

 

  • このような真理は、もちろん、立ち止まって、よくよく考えてみれば、思い出せるのです。
  • しかし、苦しみのなかにあるとき、あまりにも苦しいとき、ふっと忘れてしまうことがある。神がおられるということを、神が今もあなたの傍らにおられ、あなたを覚え、あなたを助けてくださっているということを忘れ、私たちは恐れ惑ってしまう。「瞬間的無神論」は、「恐れ」へと向かわせるのです。

 

三.神の正義の実現

  • この詩篇10篇の作者は、大きな苦しみのなかで、神が分からなくなるなかで、恐れのなかで、このように叫びました。
  • 恐れを振り払うかのように、心にやってくる「瞬間的無神論」を振り払うかのようにこう叫んだのです。12節。

 

10:12 立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。

 

  • 11節で、この詩篇10篇の作者は、「神はわたしをお忘れになった」と言っていました。大きな苦しみのなかで、神はもう忘れておられるのかと思うなかで、正直に叫ぶのです。「忘れないでください」と。
  • 神学的には、理屈の上では、神が忘れるわけはありません。その意味で、この祈りは間違っています。不信仰な祈りです。
  • そして、もっと言うならば、正直な祈りです。いつも言っていることですが、私は詩篇が大好きなんですね。それは、詩篇には正直な祈りが満ちているからです。この祈りも、正解ではないです。しかし、正直なのです。自分の疑いを、「瞬間的無神論」に陥ってしまうその心を、正直にさらけだしているのです。

 

  • そして、正直に捧げられる祈りのなかで、詩人の心は確信へと向かっていきます。13節からをご覧ください。

 

10:13 なぜ、逆らう者は神を侮り/罰などはない、と心に思うのでしょう。

10:14 あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます。不運な人はあなたにすべてをおまかせします。あなたはみなしごをお助けになります。

 

  • 11節で、この詩篇10篇の作者は、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」と言っていました。
  • しかし、ここで確信するのです。「あなたは必ず御覧になって/御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださいます」。
  • 主は「必ず御覧になって」おられる。目の前の現実だけを見れば、そう思えなかったとしても、必ず主は、この現実を見ておられ、「御手に労苦と悩みをゆだねる人を/顧みてくださ」る。
  • 14節の最後に「あなたはみなしごをお助けになります」とありますが、主は確かに、具体的な助けを与えてくださる方です。ここにおられるみなさんも、そのような経験をされたことがあると思います。私たちは主がしてくださった良いことほど忘れてしまうことがある。
  • もちろん、全てが自分の思い通りになるわけではありませんが、確かに状況を変えてくださることがある。そのことを思い起こすゆえに、15節。

 

10:15 逆らう者、悪事を働く者の腕を挫き/彼の反逆を余すところなく罰してください。

 

  • 主はやがて、必ず正義を成し遂げてくださる。続いて16節。

 

10:16 主は世々限りなく王。主の地から異邦の民は消え去るでしょう。

10:17 主よ、あなたは貧しい人に耳を傾け/その願いを聞き、彼らの心を確かにし

10:18 みなしごと虐げられている人のために/裁きをしてくださいます。この地に住む人は/再び脅かされることがないでしょう。

 

Ⅲ結論部

  • 私たちには、日々を歩むなかで、神を忘れ、神が悲しむ思いやことば、行動に、悪に向かってしまうことがあります。あるいは、神がすべてを最善としてくださることを、神が絶対にあなたを見捨てないということを忘れ、恐れ惑ってしまうことがあります。
  • この詩篇10篇は、そのようなときに、正直に、自分の疑いを、悪に向かおうとするその心を、「瞬間的無神論」に陥ってしまうその心を、正直に神にさらけだすことへと招いている。
  • そのままで良いのです。どんなにドロドロした思いでもあっても、それを正直に主に差し出すそのなかで、「立ち上がってください」「忘れないでください」と祈るそのなかで、祈るなかで、目の前の現実にもかかわらず、主は不思議な確信を与えてくださるのです。主は、私たちの祈りに「耳を傾け/その願いを聞き」、私たちの「心を確かにし」てくださる。
  • 「主は世々限りなく王」である。永遠の王である。どんな苦しみも、死ぬことさえも超えて、すべてを支配しておられる王である。

 

  • 今週も、いや、今日この礼拝が終わったその瞬間にでも、私たちは「瞬間的無神論」に陥ってしまうことがあるでしょう。神を忘れ、神が悲しむ思いやことば、行動に、悪に向かってしまうことがあるでしょう。神がすべてを最善としてくださることを、神が絶対にあなたを見捨てないということを忘れ、恐れ惑ってしまうことがあるでしょう。
  • 大切なことはそのことに気づくことであります。主がともにいてくださるということに気づかせていただけるように祈ることです。私たちは忘れるのです。ですから大切なことは忘れまいとするのではなく、思い出し続けることです。そのときに、主は必ずあなたを助けてくださるのです。
  • だから、私たちは、安心して、たとえ「瞬間的無神論」に陥ってしまうことがあろうとも、主とともに、それぞれの場所に遣わされていきたいのです。この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
コメント

日曜礼拝(10月11日)

2020-10-11 16:43:13 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十八)  2020.10.11

神様の恵みは人が期待しない所に現れる」 ヨハネ1:43~51

Ⅰ導入部

おはようございます。10月の第二日曜日を迎えました。今日もご家庭でのライブ礼拝、会堂に集っての礼拝ですが、共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

先週の8日㈭と9日㈮に、神奈川県立あおば支援学校から3名の生徒と1名の先生が来て下さり、会堂やアパルームの清掃等をして下さいました。2名の男子と1名の女子で、共に労された三浦姉、鈴木美登里姉、佐藤博子姉、家内と共に清掃の奉仕をして下さり、子どもたちの純粋な心、行動に接して、私たちは本当に楽しく、良き時を持たせていただきました。会堂の机や床や窓の清掃して下さいました。何となくきれいに感じませんか。また、聖書と新聖歌を綺麗にして下さいました。1階のドアや窓、地下室など掃除して下さいました。これからもあおば支援学校と良き関係を築きたいと思います。お祈りに感謝します。

今日は10月第二日曜日、ナザレン日です。世界中の162カ国にナザレン教会は存在し、250万人の信徒の方々がおられるようです。日本は68教会、来年1教会が増える予定です。ナザレン日とは、ナザレンの創立を記念する日と言えます。1895年10月、アメリカ、ロサンゼルスで第一ナザレン教会が結成されました。ナザレン教会の日本宣教は1908年の10月です。ナザレンの名称は、イエス様が「ナザレの人と呼ばれる」ということに基づいているようです。詳しくは、教団のホームページをご覧ください。

今日は、ヨハネによる福音書1章43節から51節を通して、「神様の恵みは人が期待しない所に現れる」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、イエス様との出会いから始まる信仰の物語

ヨハネによる福音書1章の後半は、イエス様との出会いを通して、イエス様の弟子になる人々の様子が記されています。人生は出会いで決まる、とよく言われる通りです。徴税人ザアカイもイエス様との出会いを通して、人生が変えられた人物でした。洗礼者ヨハネの弟子であったアンデレは、師のヨハネの「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と聞いて、イエス様について行き、「どこに泊まっておられるのですか。」と問うと、イエス様は、「来なさい。そうすればわかる」と言われ、アンデレはついて行って、イエス様と共に泊まったのでした。アンデレはイエス様を救い主と信じて、翌日兄弟のシモンに、「わたしはメシアに出会った。」と言って、シモンをイエス様の所に連れて行ったのです。イエス様はシモンにケファ(ペトロ)という名前をつけられました。

イエス様はフィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と召されると、フィリポは従ったのです。フィリポは、アンデレとペトロと同じベトサイダの出身でした。イエス様に出会ったフィリポは、アンデレがシモン・ペトロにしたように、ナタナエルに出会って、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言ったのです。リビングバイブルでは、最初に「私たちはメシアにお会いした」とあります。ナタナエルはカナの出身(ヨハネ21:2)でした。ガリラヤという地方に、ベトサイダ、カナ、ナザレという町がありました。

アンデレもシモン・ペトロも、フィリポもナタナエルもイエス様に出会うのです。そして、人生が変えられるのです。私たちもどこかでイエス・キリスト様に出会い、クリスチャンになったのです。イエス様に出会うとは、礼拝に出てメッセージを聞いたり、聖書を読んで福音(イエス様の十字架と復活)を知り、自分の罪のためにイエス様が死んでよみがえられたことを信じて救われるということでしょう。

アンデレのように自ら進んで教会に行ったり、聖書を読んだという人もおられるでしょう。しかし、多くの方々は、だれかに紹介されたり、導かれたりして、イエス様に出会ったのだと思うのです。先にイエス様に出会い、イエス様を救い主と信じる私たちは、アンデレやフィリポのように、イエス様を友人や知人、家族に紹介したいと思うのです。

 

二、来て、見なさいと招きましょう

フィリポがナタナエルに「メシアにお会いした」とイエス様を紹介した時、ナタナエルは答えました。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。リビングバイブルには、「ナザレだって!」ナタナエルはびっくりしました。「あんな所から、すぐれた人物など出るはずがない。」とあります。ナタナエルは、カナ出身でナザレのことをよく知っていたでしょう。ナタナエルの出身地カナと同じガリラヤ地方にあるナザレですが、マタイによる福音書4章15節には、「異邦人のガリラヤ」という言葉があります。ガリラヤ地方は、BC

8世紀にアッシリアに侵略され、ユダヤ人は捕虜としてアッシリアへ連れて行かれ、アッシリア人が植民地としてここに移住したために、ガリラヤ人には混血の血が混じり、ユダヤ地方に住むユダヤ人からは「異邦人のガリラヤ」と言われて軽蔑されたようです。ですから、ガリラヤは差別や偏見を受けた場所なのです。また、ユダヤ地方のユダヤ人からは、田舎者というイメージがあり、ガリラヤの言葉には独特のなまりがあったようです。イエス様が大祭司の家で裁判を受けていた時、ペトロは大祭司の中庭まで行き、裁判の成り行きを見ようとしていた時、女中から「あなたもガリラヤのイエスと一緒にいた」(マタイ26:69)と言われ否定し、また、他の女中が、「この人はナザレのイエスと一緒にいました」(マタイ26:71)と言われ、それにも否定して、しばらくして、そこにいた人々が、「確かに、おまえもあの連中の仲間だ。言葉遣いでそれがわかる。」(マタイ26:73)と言われ、ペトロはそれも否定したのでした。リビングバイブルには、「いや、おまえは確かにあの男の弟子の一人だ。隠してもむだだ。そのガリラヤなまりが何よりの証拠だ。」とあります。エルサレムにいるユダヤ人たちからすれば、ペトロの言葉遣いは、ガリラヤ特有のなまりがあったのです。

また、ガリラヤ地方は政治的にも中央からの支配が届かない所であったので、ローマ支配に反抗する支援者が出る地とも言われていたようです。AD6年には,ガリラヤのユダの大反乱があったのです(使徒言行録5:37)。また、ヨハネによる福音書7章52節には、「よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」とあります。

また聖書の預言によれば、救い主はガリラヤから出るのではなくベツレヘムから出るという預言(ミカ5:1)。があります。このようにナタナエルは、「ナザレ」と聞いて、ナザレのイエスと言われたイエス様、ガリラヤのナザレの町から救い主が出るはずがないと思ったのです。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったナタナエルに、フィリポは、そんなことを言わないで、イエス様は救い主なのだから信じなさいと怖い顔をして迫ったのではありませんでした。彼は、ナザレの人イエス様を否定的に見るナタナエルに、「来て、見なさい」と言ったのです。この言葉は、イエス様がアンデレに言った言葉でした。「来なさい。そうすればわかる」という言葉ですが、英語ではどちらも、「Come and see」「来て、見なさい」となっています。

伝道の本質は、イエス様との出会いです。そして、教会はイエス様を知らない人が、イエス様と出会う場所です。私たちは、イエス様や教会、聖書、信仰に偏見や思い違いをしている人と議論するのではなく、その人をイエス様との出会いに導けるといいと思います。

 

三、イエス様はあなたを見ている

ナタナエルは、フィリポの導きに従ってイエス様の所に行きました。ナタナエルとフィリピの関係が良かったからだと思います。私たちは、イエス様を紹介したい人との関係をよくしておくことが大切な事だと思います。

イエス様は、ご自分に近づいてくるナタナエルを見て、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」と言われました。「まことのイスラエル人。この人には偽りがない。」とは、血筋、純血の生粋のイスラエル人ということや律法の定めに従い、割礼を受け、様々な規定を守り、イスラエル人としての希望と誇りを持って歩んでいる人ということもあるでしょう。ナタナエルという名前は、「ナタン、与える」、「エル、神」ということで「神が与える」という意味があります。

また、ナタナエルが、特に立派な、信仰深い人ということもあるでしょうが、神様が選び、ご自分の民として招いておられる人、血筋によるイスラエル人という以上に、やがてのナタナエルが、神様から遣わされた救い主であるイエス様を信じ、イエス様に従って行く人となる。ナタナエルが信仰者となり、イエス様の弟子となることを予告しておられる言葉が、「まことのイスラエル人。この人には偽りがない。」の言葉で示されているように思います。

旧約聖書において、神様から「イスラエル」という名前をいただいたのが、イサクの子どものヤコブという人でした。創世記32章12節には、「その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」」とあります。

ナタナエルは、イエス様が自分の事を「まことのイスラエル人。この人には偽りがない。」と言ったので、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と聞いたので、イエス様は、

わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われて、ナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」と信仰告白をしたのです。ユダヤ人は、いちじくの木の下で、聖書を読んだり、黙想したりしたようです。イエス様はナタナエルの神様に対する信仰も知っておられたのです。

ナタナエルは、フィリポから「救い主、ナザレのイエス」に会ったと聞いて、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とイエス様が救い主であるということを否定しました。しかし、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と聞いて、「あなたは神の子です。」と告白したのです。

それは、イエス様が自分を見ていたという単純な事ではなくて、イエス様が神として、全ての事を知っておられる。ナタナエル自身の全てを見通しておられるお方であることを悟ったのだと思うのです。イエス様は言われました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」と言われました。ナタナエルがこれから信仰者として、イエス様の弟子として、経験する神様のみ業を示していると思います。そして、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」と言われました。先ほど、ヤコブは神様から「イスラエル」という名前をいただいたと言いましたが、ヤコブがエサウの暗殺計画から逃れて、野宿した時、夢を見たのでした。聖書には「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。」(創世記28:12)とあります。イエス様の言葉は、ヤコブの夢を思い出させ、天と地をつなぐものとして示されたことだと思います。

イエス様こそ、神であられたお方なのに、神の位を捨てて人となり、地の人となられた。そして、全人類の罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、尊い血を最後の一滴まで流し、その命をささげられた。死んで下さったので、私たちの全ての罪は赦され、イエス様が死んでよみがえられることにより、私たちは清められ、永遠の命、復活の命が与えられました。そして、イエス様は天に帰り、聖霊を私たちに与えて下さり、天と地をつなぐお方となられたのです。そのことの証人となるということだと思うのです。

これからナタナエルは、イエス様の弟子となり、イエス様と共に神様の働きに携わり、イエス様の十字架と復活、召天、ペンテコステの目撃者となるのです。ナタナエルという名前はあまり出て来ませんが、バルトロマイと同一人物であろうと言われています。ナタナエルは、フィリポの導きでイエス様に出会い、救われ、信仰者、イエス様の弟子となりました。おそらく彼も自分が経験したように、イエス様を知らない人々をイエス様に紹介したと思うのです。そこから、伝道、宣教が始まるのだと思うのです。

 

Ⅲ結論部

ナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言いました。こえは、多くの人々が感じたことだろうと思います。人間が期待しなかったナザレのイエス様こそ、全人類の救い主となられたのです。私たち自身も、期待されない者だと感じるかも知れません。しかし、神様は人間が期待もしない場所を恵みの場所、神様が働く場所とされているのです。イエス様を否定したナタナエルを見ていて下さっていたのです。日本の99%は、イエス様を知らなかったり、否定しているでしょう。しかし、イエス様は、その99%の人々を見て知っていて下さるのです。私たちは、そのような人々をイエス様のもとへ、教会へと招く役目が与えられているのだと思うのです。

ナザレン教団は、この誰もが期待もしなかった、目にもとめなかった「ナザレのイエス」から来ている名前です。このナザレン教団こそ、神様の恵みを語る教団、日本の宣教の拡大のために神様が立てられ、用いられる教団なのです。

ナザレン教団の一員とされていることを感謝しながら、この週もイエス様が私たちを見つめておられること、共におられることを感じ、神様の豊かな恵みを注いでおられることを信じて歩んでまいりましょう。

コメント

日曜礼拝(2020年10月4日)

2020-10-04 16:33:37 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十七) 2020.10.4

      「捨て身で生きる」 ヨハネ12:20~26

Ⅰ導入部

おはようございます。10月の第一日曜日を迎えました。2020年度の半分が終わり、後半が始まりました。2020年としては、あと三ヶ月となりました。今日も会堂に集まり、また、ご家庭でのライブ礼拝として、共に礼拝をささげることのできる恵みを感謝致します。

先々週からマウスシールドを使って説教を語らせていただいております。2週間前、初めてマウスシールドをつけていたのですが、上下が逆で白い線が上に来て、何とも見ていて違和感があった方も多くいたようですが、誰も何も言って下さいませんでした。先週の塚本先生は正常でした。最初なので、白い線が上に来ても下に来てもわからなかったと思いますが、私は何とも説教原稿が見辛くて、何故かと思っていたら上下が逆でした。その光景を見たい方は、9月27日の礼拝のユーチューブをご覧ください。しっかりと証拠があります。

さて、今日はヨハネによる福音書12章20節から26節を通して、「捨て身で生きる」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

  • 福音(イエス様を売る)のセールスマン

20節には、「祭りのとき」とありますが、この祭りは過ぎ越しの祭りです。イスラエルでは最も大切な祭りです。旧約時代、エジプトで奴隷状態で苦しんでいたイスラエルの民を指導者モーセを通して、神様がエジプトを脱出させて下さった時、羊を殺し、家の鴨居にその血を塗ったイスラエルの民の男子の初子は死にませんでしたが、鴨居に血を塗っていないエジプト人の男子の初子は、家畜の初子さえもみな死んでしまいました。その出エジプト脱出を記念して神様が血の塗られた家を過ぎ越しされたことを覚え、神様の偉大な出来事を覚える祭りでした。この祭りには、ユダヤ人だけではなく、異邦人(ギリシャ人)も来ていたようです。「何人かのギリシャ人がいた。」とあるとうりです。このギリシャ人(異邦人)は、ユダヤ教に改宗した人々で、過ぎ越しの祭りを祝うために、エルサレムに来ていたものと思われます。

そのギリシャ人は、イエス様の弟子のフィリポに、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」とお願いしたのです。なぜ、フィリポだったかと言うと、フィリポという名前はギリシャ名のようです。また、フィリポはベトサイダ出身で、ベトサイダの近くにはギリシャ人居住区があったようで、フィリポとの何らかの関係があったのかも知れません。とにかく、ギリシャ人たちは、そのギリシャ語の名前のためか、近くにいて何らかの関係があって、フィリポにお願いしやすかったのかも知れません。フィリポは、そう願われてアンデレに話して、アンデレとフィリポの二人はイエス様にギリシャ人との間を取り持ったのです。

アンデレとフィリポは、どちらもガリラヤのベトサイダ出身でした(ヨハネ1:44)。アンデレは、ペトロをイエス様に紹介したり、5つのパンと2匹の魚を持つ少年を紹介したり、今回ギリシャ人を紹介しています。フィリポは、イエス様に召された時、ナタナエルをイエス様に紹介しました。来週はこのところからお話しします。また、アンデレが5つのパンと2匹の魚を持つ少年を紹介する前に、イエス様は、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられ、フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう。」と答えたのでした。

アンデレもフィリポもイエス様を人に紹介したいという願いを持っていた人たちでしょう。フィリポは、アンデレにギリシャ人の願いを告げ、アンデレとフィリポは二人でイエス様の所にギリシャ人を連れて行きました。私たちは、イエス様や教会や聖書に心開いている人に対してアンデレやフィリポのような思いを持ちたいと思うのです。私たちは、いろいろな立場があり、趣味もあり、故郷があり、まだ神様を知らない人々とイエス様との間を取り持つ役目があります。そのために、私たちの生まれや経験したことや立場が豊かに用いられるのです。

 

二、神の時が来た

イエス様は、ギリシャ人がイエス様にお目にかかりたいと聞かれて、ギリシャ人を紹介されて語られました。23節です。「イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。」 イエス様は「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われました。ヨハネによる福音書2章では、婚宴でぶどう酒がなくなった時、イエス様の母マリアさんが世話役の1人で、イエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と言った時、イエス様は、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」(ヨハネ2:3-4)と言われました。また、ヨハネによる福音書7章6節で、「わたしの時はまだ来ていない。」と言われました。8節でも、「まだ、わたしの時が来ていないからである。」と言われました。イエス様の兄弟から「イエス様のことを公にし、自分を世にはっきり示しなさい」と言われた時、語られた言葉です。また、ヨハネによる7章30節には、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。」とあり、同じ8章20節には、「イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」とあります。

これまでは、「イエスの時がまだ来ていなかった」とイエス様ご自身が、聖書自身が語っていましたが、ここ12章、イエス様がエルサエムに入城して、受難週の中で、イエス様は、金曜日の十字架を見据えてでしょうか、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われました。

「わたしの時、イエスの時」という時という言葉は、原語では、「クロノス、カイロス、ホーラ」という言葉を使います。「クロノス」とは、時の流れや期間を表します。長い間とかしばらくの間、時期を言います。「カイロス」とは、定まった特定の時を指します。特別の意味を持つ時、神の決定的な働きが行われる。「が満ち、神の国は近づいた。」(マルコ1:15)と言うように。「ホーラ」とは、ある特定の出来事を伴った時のしるしを意味する言葉です。

人の子が栄光を受ける時が来た。」の時は、ホーラという言語が使われています。イエス様は、この時をご自分が栄光を受ける時、全人類の罪の身代わりに十字架について死ぬことを示されたのです。

 

三、一粒の麦として生きる

12章24節を共に読みましょう。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。

イエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われ、一粒の麦の話をされました。一粒の麦になるということは、死ぬという事です。死ぬという事は、私たち人間には遅かれ早かれ必ず起こることです。私たちは、確実に死ぬと言う事なのですが、私たちは何のために生きて死ぬのかということです。イエス様の生涯は、父なる神様に忠実に従う生涯、聖書の言葉に忠実な生涯でしたが、その目的は全人類の罪の身代わりに、死ぬということです。神であり、そして人である罪のないご自身が、罪深い私たちの身代わりに死に、墓に葬られ、よみがえられるということです。人であり、神であるお方が、聖なる神の子が、神の位を捨てて人間の姿になり、裁かれ、尊い血を最後の一滴まで流し、ご自身の命をささげられたのです。死ぬはずのない神であるイエス様が、人間の罪を背負い罪となられ、裁かれたのです。そのことにより、私たちの過去、現在、未来の全ての罪が赦され、魂が救われ、イエス様がよみがえることにより、私たちは清められ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。

一粒の麦は、地に落ちて」とありますが、どこに落ちたかと言うと、私たちの内にだと思います。イエス様の死と私たちを結びつけようとしておられます。一粒の麦であるイエス様を、自分の内にいただいた者は、自らも一粒の麦となることが望まれ、私たちはイエス様を信じてイエス様と結ばれて生きるのです。そして、私たちも一粒の麦として実を結ぶ者とされるのだと思うのです。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」とあります。厳密には、麦の種は死んで目を出すのではなく、種の命はそのままに、形を変えるのです。ですから、麦が実を結ぶのに、死はないのです。ここで「死ななければ」と言われている死とは、一粒の麦が一粒のままであり続けようとすることを放棄するということを意味しているのではないでしょうか。自分の願望、自分の意見、自分の計画、自分の何かというものを押し通すのではなく、自分の何かを潔く放棄する生き方を指し示しているように思うのです。

 私たちは、やはり夫婦の間で、兄弟の間で、友人との間で、自己主張を押し通すことにより、いろいろな問題が起こっているように思います。イエス様が神の位を捨てられた人となって現れ、ご自分の権威や力を主張するのではなく、最も弱い者、小さな者になられたことを思い、私たちも自己主張に死んで、相手を生かす者として歩みたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

「自分の命を愛する者は、それを失う」と、ここでも自分を押し通すことの警告があり、26節では、「わたしに従え」と言われるのです。フィリポは、イエス様から「従いなさい」と召されてイエス様に従いました。私たちは、私たちのために命をささげて下さったイエス様に従いたいと思います。イエス様の言葉に従いたいと思うのです。

ある人は、従うのも、従わないのも自分の自由だと言われるのかも知れません。山で遭難した人は、レスキュー隊が必要です。レスキュー隊が遭難者を見つけると必ず言うそうです。「もう大丈夫だ。私について来なさい。」と。その時、遭難者は、あなたに従うか従わないかは私の自由だと言う人は存在しないでしょう。私たちは滅びに向かっている遭難者と同じです。その私たちにイエス様は、大丈夫だ。私について来なさい、と今日言われるのです。私たちは、自分の思い通りの人生ではなく、イエス様が私たちの一番良いことを考えておられ、最善に導いて下さるのですから、イエス様についていこうではありませんか。神様の前に捨て身、自分ではなくイエス様を信頼した歩みをしたいと思うのです。

 

コメント

日曜礼拝(2020年9月27日)

2020-09-27 12:41:35 | Weblog

主日礼拝
2020.9.27
「苦しみを生きる歌」
詩篇9篇(新共同訳)
Ⅰ導入部
• みなさん、おはようございます。このようにして本日もみなさんとともに礼拝を捧げることのできる
恵みを心より感謝いたします。
• 祈りをもって、このメッセージを始めさせていただきます。…
Ⅱ本論部
一.苦しみのなかでの賛美
• 本日読まれた詩篇第9篇について、多くの研究者が指摘しているのが、おそらくこの次の詩篇10篇と
もともと一つであったのではないかということです。
• 詩篇9篇と10篇は多くの語彙、単語を共有しており、これは詩篇9篇を一読していただいてお分かり
いただいたかと思いますが、両者ともに、詩人が大きな苦しみのなかにあったときの祈り、「苦しみ
を生きる歌」であります。
• 冒頭にある「ムトラベン」という謎の言葉も、諸説ありますが、「子どもの死」という意味であると
いう説があります。
• この詩全体を読むと、敵、特に異邦人の存在が描かれていますから、そういう意味ではないのではな
いかという学者もいますが、「ムト」というのが「死」という意味であるのはおそらく間違いないよ
うです。
• 「死」というのは、残された者にとって、大きな悲しみ、苦しみもたらすものです。
• 実は、先週日曜日は、私は、私が高校生まで生まれ育った神戸の母教会、出身教会で説教奉仕をして
きました。
• 本来であれば、7月に行って、結婚のご報告をしようと思っていたのですが、熱を出してしまい、コ
ロナではなかったものの、念のため外出自粛をしていたので、神戸行きが叶わず、今回行ってきたの
ですが、実は私の母教会の牧師の奥様がまだ50代前半なのですが、ガンを患い、もう長くはないと
いうことで自宅に移られるタイミングで、私が行くことで、牧師夫妻は二人でゆっくり時間を過ごす
ことができた。でも、先週木曜日の夜に、突然天に召されました。
• 私の中高生の時代から、本当にお世話になった方で、もう地上では会えないと思うと本当に寂しいで
す。もちろん、やがて終わりの日、新しい天、新しい地が完成するとき、もう一度会える。でも、悲
しいです。
• 誰かが死ぬというのは、残された者たちにとっては苦しいことです。悲しいことです。詩篇9篇はそ
のような状況のなかで読まれた、歌われたと考えられる、まさに「苦しみを生きる歌」であります。
• しかし詩篇9篇は、そのような冒頭のことばや、詩全体の雰囲気にもかかわらず、驚くべき言葉で始
まっていきます。2節からをご覧ください。
9:2 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
9:3 いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。
1 / 5
• これだけ読むと、あたかも苦しみになど遭っていないかのように見えます。喜びに満ちた賛美を歌っ
ているかのようにさえ見える。
• 2節にあります「驚くべき御業」という表現は、多くの場合、神さまの創造のみわざ、そして神さま
の救いのみわざを指して用いられる表現です。
• 神さまがこの世界を造られ、今も支配されている。今も、この世界を保っておられる。
• もちろん、いま目の前には苦しみがある。しかし、この状況は神さまが私たちを見捨てたゆえではな
い。神さまは愛以外の動機で何もなさらない。
• そして、歴史のなかで何度もご自分の民を救ってくださった神は、イエス・キリストの十字架と復活
によって救いの道を開いてくださった神は、今も必ず私たちを救ってくださる。
• 私たちの想像を超えた方法で、私たちを助け、必ず終わりには新しい天、新しい地に導いてくださ
る。
• だから、「心を尽くして主に感謝をささげ」るのだ。神さまの「驚くべき御業をすべて」あえてこと
ばにして、一つ一つ「語り伝え」ようではないか。
• この方は、「いと高き神」である。わたしは、この状況にもかかわらず、「喜び、誇り、御名をほめ
歌」うのだと賛美するのです。
• みなさんは、苦しみに遭うと、どうなりますか。
• 私は苦しいときには、ただ愚痴や不平不満を言ってしまうことがあり、愛する妻には大変迷惑をかけ
ています。「はあ、もうダメだ…」みたいに言ってしまうことも多いのですが、もちろんそのような
恐れや悲しみ、怒りなど負の感情を正直にことばにして、それを祈ることは大切なことです。
• あるいは、その苦しみから解放してほしい、救ってほしい。そのように祈ることも、この後の出てき
ますが、とても大切です。
• しかし、注目したいのは、詩篇9篇は、まず主を賛美することから「苦しみに生きる歌」を始めてい
るということです。
• 苦しみに遭うとき、あえて立ち止まり、神さまのみわざを思い起こす。この世界を造られ、今もこの
世界を支配され、保持しておられ、救いのみわざをなしてくださった。そしてやがて必ず完全な救い
のみわざをなしてくださる神に心を向けること。
• 目の前の状況ではなく、永遠に心を向ける。そのことを苦しみのなかで歌うということへと私たちを
招くことから、この詩篇9篇は始まっていくんですね。
ニ.事実と祈りの連鎖
• 4節からの、「苦しみに生きる歌」の特徴は、神さまについての事実を確認しながら祈る、願うとい
うことです。神さまについての事実を確認しながら祈り、願う。
• 4節から9節までをお読みします。
9:4 御顔を向けられて敵は退き/倒れて、滅び去った。
9:5 あなたは御座に就き、正しく裁き/わたしの訴えを取り上げて裁いてくださる。
9:6 異邦の民を叱咤し、逆らう者を滅ぼし/その名を世々限りなく消し去られる。
9:7 敵はすべて滅び、永遠の廃虚が残り/あなたに滅ぼされた町々の記憶も消え去った。
2 / 5
9:8 主は裁きのために御座を固く据え/とこしえに御座に着いておられる。
9:9 御自ら世界を正しく治め/国々の民を公平に裁かれる。
• 神は、歴史を支配しておられ、これまでも、高慢に悪を行う国々を滅ぼしてこられたのだから、必ず
やがて正義をなしてくださる。
• この世界を造られ、救いのわざをなしてくださる神は、正義の方であると、神さまについての事実が
確認された上で、10節をご覧ください。
9:10 虐げられている人に/主が砦の塔となってくださるように/苦難の時の砦の塔となってくださる
ように。
• あなたは正義の方ですよね。創造と救いをなしてくださった方ですよね。だったら、「虐げられてい
る人」を、その「苦難のとき」に、「砦の塔」として守ってくださいよ。そのように、4-9節で確認
した事実を前提として、祈りが、願いが歌われていくわけです。
• 続く11節からでは、もう一度神さまについての事実を確認します。
9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
9:12 シオンにいます主をほめ歌い/諸国の民に御業を告げ知らせよ。
9:13 主は流された血に心を留めて/それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはな
い。
• 主を信頼し、尋ね求める人は見捨てられることはない。そのような素晴らしい方なのだから、賛美さ
れるべきであり、全世界中の人々に告げ知らされるべき方である。
• 主は必ず正義をなしてくださる。貧しい人、苦しむ人の叫びを忘れることはない。その事実ゆえに捧
げられる祈り、願いが、14-15節。
9:14 憐れんでください、主よ/死の門からわたしを引き上げてくださる方よ。御覧ください/わたし
を憎む者がわたしを苦しめているのを。
9:15 おとめシオンの城門で/あなたの賛美をひとつひとつ物語り/御救いに喜び躍ることができます
ように。
• ここでは、「死の門」と「シオンの城門」が対比されています。「死の門」というのは、死ぬほど
の、深い苦しみに直面している状況を言います。「シオン」というのはエルサレムのことです。神の
都の城門で、喜びの場所で、賛美の歌を歌うことができるように、神の救いに喜び踊ることができる
ようにと歌われるのです。
• あなたは、ご自身を信頼し、尋ね求める人を見捨てない。そのような素晴らしい方、賛美されるべき
方、全世界中の人々に告げ知らされるべき方であるのだから、必ず正義をなし、貧しい人、苦しむ人
の叫びを忘れることはない方なのだから、この状況から救うことのできるお方であるのだから、憐ん
でください!もう一度賛美を歌い、救いの喜びを感じることができるようにしてくださいと祈りが、
願いが歌われる。
• 16節からは、再び、神についての事実、すなわち悪が滅ぼされることを確認しています。
3 / 5
9:16 異邦の民は自ら掘った穴に落ち/隠して張った網に足をとられる。
9:17 主が現れて裁きをされるとき/逆らう者は/自分の手が仕掛けた罠にかかり〔ヒガヨン・セラ
9:18 神に逆らう者、神を忘れる者/異邦の民はことごとく、陰府に退く。
• 「ヒガヨン・セラ」というのも諸説ありますが、「セラ」という詩篇によく登場する言葉も謎です
が、おそらくなんらかの区切りであろうとされ、「ヒガヨン・セラ」はより長い区切り、長い沈黙
だったのではないかという説もあります。
• 苦しみのなかで、沈黙して、神さまがいかなる方であるのかを思い起こすのです。19節をお読みしま
す。
9:19 乏しい人は永遠に忘れられることなく/貧しい人の希望は決して失われない。
• この状況のなかでも、それでも主に信頼しようとするあなたを永遠に忘れない方がいる。あなたの希
望は決して失われない。
• 私は苦しいとき、よく歌います。賛美を歌います。特に、神はいかなる方であるのかということを歌
う歌を歌います。今回も、私の母教会の牧師の奥様が亡くなり、苦しみのなかで、私は歌いました。
歌い続けました。すると、そこに深い慰めがやってくるのです。苦しみのなかでしか分からない慰め
を経験しました。
• 苦しみのなかを生きる歌がある。「苦しみを生きる歌」は、神がいかなる方であるのかを、この状況
にもかかわらず歌い続ける歌であるということを、ぜひ覚えていただきたいと思うのです。
三.自らが人間に過ぎないことを
• 最後に、20-21節を読んで終わりにしたいと思います。この詩全体を踏まえて、ダビデが最後に歌っ
たことばです。
9:20 立ち上がってください、主よ。人間が思い上がるのを許さず/御顔を向けて異邦の民を裁いてく
ださい。
9:21 主よ、異邦の民を恐れさせ/思い知らせてください/彼らが人間にすぎないことを。〔セラ
• 21節は、もちろん、敵がこうなりますようにという祈りです。しかし、私自身、この詩を読むとき、
この歌は私自身に向けられている祈りであるように思わされたのです。
• 私たちは人生のなかで、たくさんの苦しみを経験します。あなたはこれまで、あるいは今、どのよう
な苦しみを経験されているでしょうか。
• 苦しみの種類は、人によって異なりますが、苦しみのなかにいるとき、私は知るのです。私たちは思
い知らされる。私たちは「人間にすぎない」。
• 私たちは、もちろん苦しみたくはありません。苦しみは避けたいものですし、苦しみを避ける努力を
するのは大切なことです。しかし、結果的に、避けられない苦しみがある。そのなかで、私たちは知
ることができる。私たちは「人間にすぎない」。
4 / 5
• だから、この方に頼るしかない。そうすると、この方に頼ることのできる、この方をもっと近くに感
じる、この方と共に生きることのできる人生は最も幸せな人生であることが分かる。
• それまでは、もっと違うことが幸せだと思っていた。もちろん他の幸せも否定する必要はない。しか
し、最も幸せなことは、この方をもっと近くに感じ、依り頼み、この方の愛のうちを歩むことである
から、私たちは歌うことができるのです。11節をもう一度お読みします。
9:11 主よ、御名を知る人はあなたに依り頼む。あなたを尋ね求める人は見捨てられることがない。
• 私の母教会の牧師と先日、話したときも、本当に苦しいなかで、不思議と、神さまをもっと近くに感
じていて、それが本当に嬉しいのだと話してくれました。
• 私たちは苦しみのなかを生きながら、このように、ダビデとともに、イスラエルの民とともに歌うこ
とができるのです。最後にもう一度2-3節をお読みします。
9:2 わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/驚くべき御業をすべて語り伝えよう。
9:3 いと高き神よ、わたしは喜び、誇り/御名をほめ歌おう。
• これからも、私たちは苦しみを経験するでしょう。苦しみを生きていくことでしょう。それでも、私
たちは口を閉ざすことなく歌い続けることができる。
• このお方が、かつてなしてくださった「驚くべき御業」を、やがてなしてくださる「驚くべき御業」
を、歌い続け、祈り、願い続ける歩みへと、「苦しみを生きる歌」を歌うことへと、あなたも招かれ
ている。
• この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
5 / 5

コメント

日曜礼拝(2020年9月20日)

2020-09-20 15:34:56 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十五) 2020.9.20

      「神様の愛に応答せよ」 ヤコブの手紙4:1~10

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第三日曜日を迎えました。今日も礼拝堂に集い、あるいは、各家庭でライブ礼拝を通して、共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

明日は、敬老の日です。本日、礼拝後には高齢者の方々の祝福の祈りをさせていただく予定です。長い人生を送って来られた方々、甘いも酸っぱいも経験された方々だと思います。戦争や地震や災害、様々な経済的な困難など、長い人生には多くの苦しみや戦いを経験なさったことだと思います。

しかし、2020年、100年に一度を言われる新型コロナウィルス感染によって、世界は、日本は今までに経験したことのないような様々な状況を経験しています。長生きしてこのような困難を知らなかったほうがよかったと感じられる方々も多いことでしょう。人生何が起こるかわからない事態を晩年に経験なさっておられる方々が、高齢者と言われる方々だと思います。しかし、長い人生の中で、イエス・キリスト様に出会い、救いが与えられたということ、イエス様を信じて信仰生活を歩んで来られたということは、本当に素晴らしいことだと思います。日本でクリスチャンとして生きて来たことの中には、イエス様を救い主と信じる者にしか理解できない苦しみや困難を経験されてきたことだと思うのです。

高齢者として、肉体的な弱さや自分の思い通りにならない歩みにも、イエス様が共におられることの幸い、感謝を今生きておられることと思います。思うように外に出かけられない、礼拝においでになれない、ライブ礼拝さえも見られないという状況で、共におられるイエス様を信じて、信頼して生きる、聖書を読み、祈る日々の中に、何が起ころうとも動じない芯の強い信仰の歩みをされておられる高齢者の方々の信仰を、イエス様はご覧になり、喜んでおられるのだと思います。そして、イエス様は、課題や弱さを抱えて生きる高齢者の方々に、さらに強く寄り添って、支え、励まして下さることを覚えて、祈りたいと思うのです。

今日は、ヤコブの手紙4章1節から10節を通して、「神様の愛に応答せよ」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、自分の内側と外側から来る誘惑

ヤコブの手紙4章1節には、「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。」とあります。あなたがたの間とは、ヤコブが手紙を書いている相手、ユダヤ人クリスチャンたちの間に、教会の中に戦いや争いがあるという事です。自分の心の中に罪があることを素直に認め、その罪の身代わりにイエス様が十字架にかかって死んで下さったこと、死んで葬られよみがえられたことを信じて、罪の赦しと魂の救い、永遠の命の恵みをいただいたクリスチャンの間に戦いや争いがあるという事です。

イエス様を救い主と信じて救われた者には、いっさいの戦いや争いはなくなるというわけではありません。人が集まる所では、どこであっても戦いや争いはあるのです。私たちは成績や環境、経済、容姿、肩書などを人と比べて、その人が自分よりもレベルが高いとか、肩書が上にいるとか、容姿がいいとなると、うらやんだり、ねたんだり、嫌な気持ちになったりするものです。そして、同級生や同期や同じ年齢となると敵対心を持つようになるのです。自分に勝ち目がないとわかると、陰で悪口や評判を落とすようなことを言ったりしてしまうのです。自分の中で戦う欲望が外側(言葉や態度)に出てきて、戦いや争いとなってしまうのです。

神様の愛を知らない人なら、そのような事があるかも知れませんが、罪を赦され新しくされた者、神様に愛されて、神様に喜ばれたい、神様の愛に答えたいと願う生き方をしているクリスチャンに、争いや戦いがあるのだろうか、という質問があるでしょうか。クリスチャンの私たちは、争いや戦いが現実にあることを知っています。私たちの内側には、まだ肉があるという事です。古い性質が残っているということです。イエス様を信じると古い性質はなくなり、全く新しくなってしまうのではないのです。自分が、自分がと言う自我、肉の性質が残っているので、欲にひかれ、そそのかされて、誘惑に陥るのです。私たちの内側に問題があることをヤコブは指摘しています。

また、クリスチャンの間に起こる戦いや争いは、私たちの内にある欲望と、もう一つの問題の要因として、世(コスモス)があるのです。ここでいう世とは、神様を抜きにした人間の世界の事です。欲望は、私たち人間の内側から仕掛けてきますが、世は私たちの外から仕掛けてくるのです。4節で、「神に背いた者たち、世の友となることが、神の敵となることだとは知らないのか。世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです。」とあります。リビングバイブルには、「この世の快楽に親しむのは、神を敵に回すことです。世の友を求めるなら、神の友にはなれません。」とあります。しかし、その世を、世にいる私たちを神様は愛して下さったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とあります。神様は、欲に支配されるような者、間違った動機で祈り求める者、世の友となり神様に敵対する者、高慢な者、そのような私たちを愛していて下さるのです。

 

二、サタンの誘惑がある

サタンは、この世にあって私たちクリスチャンを誘惑する存在です。6節には、「神は、高慢な者を敵とし」とありますが、サタン自身が高慢の罪を犯した張本人でした。神に仕える天使であったものが、神様よりも自分が上になろうとした高慢のゆえに、神様から裁かれ、地に落とされ、人間を訴え、誘惑する存在となったのでした。サタンは、神様を信じる者を、神様から離そうとする神様の敵となったのです。

成熟を目指すクリスチャンにとって、敵であるサタンの存在を意識するのか、しないのかは、結果が大きく違ってきます。サタンは、自分の姿を直接に現わさない形でいつも働きます。人をだます人は、だまそうという魂胆を持ちながらも、表面は親切そうに、やさしそうな、笑顔で近づいて来るのです。サタンは、神様を信じるクリスチャンに働きかけて、神様から、神様の愛から、神様の言葉から私たちを引き離そうとするのです。サタンの誘惑の方法は、私たちの内側にある欲望や快楽、私たちの外側にあるこの世のあらゆるものを用いて誘惑するのです。

イエス様ご自身も、サタンに誘惑されました。マタイによる福音書4章には詳しく記されています。公生涯に入る前に、イエス様は40日の断食祈祷をされました。空腹を覚えられたイエス様に、サタンは「神の子なら、石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑しました。イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と神の言葉で誘惑に勝利されました。サタンは、イエス様を聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の上に立たせて、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」と、サタンも神の言葉「神が天使に命じて足が石にあたらないようにあなたをささえる」と聖書の言葉を利用して誘惑しました。イエス様は、「あなたの神である主を試してはならない」(マタイ4:7)と神の言葉で勝利しました。サタンはあきらめずに、イエス様を高い山に連れて行き、世の全ての国々とその繁栄ぶりを見せて、ひれ伏して拝むなら、土下座するならみんな与えよう、と邪魔をしないと誘惑しました。イエス様は、「退けサタン。あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」(マタイ4:10)とみ言葉で勝利したのでした。サタンは、イエス様が神の子として持つ、その力をサタンの命令によって使わそうとし、イエス様が、仕えること、十字架で全人類の罪のために死ぬことをやめさせようとしたのです。

イエス様でさえ、サタンに誘惑されたのですから、私たちは当然といえるでしょう。サタンは私たちをあらゆる機会を通して、あらゆる事柄や境遇、状況を用いて私たちを誘惑し、神様から離そうとやっきになっているのです。

だから、ヤコブはユダヤ人クリスチャンである人々に、3つのことを示すのです。

 

三、神様の愛に気づく時の行動

7節には、「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます。」とあります。神様に服従すること、従うことを勧めます。服従するとは、「神様のもとで、与えられた身分を受け入れること」なのです。放蕩息子は、父からもらった全財産を使い果たし、食べることにも困り、自分が死を意識した時、父を思い出し、父の元に帰ります。父は、彼を見つけると走り寄り、「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。」(ルカ15:22)と命じました。彼は、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言いましたが、父は彼を息子として迎えたのです。神様は、私たちがどのように罪を犯し、失敗しようとも神の子として受け入れて下さるのです。神様が「私の子だ、神の子だ」とそう言って下さること、神様の言葉を私たちが受け入れることが、神様に服従することだと思うのです。

8節には、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」とあります。

旧約の時代は、祭司だけが神様に近づくことができました。彼らのきよめに従って手を洗い、動物のいけにえをささげてからでないと神様に近づくことはできませんでした。血を流すことなしに、罪の赦しはないからです。動物をささげ、動物の血を流し、血によってきよめられてから神様に近づいたのです。私たちは、イエス様が十字架の上で流して下さったその血のゆえに、きよめられて、神様に近づくことができるのです。ヘブライ人への手紙4章16節には、「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」と語っています。私たちは、日々ディボーションを通して、礼拝や祈祷会、学びを通して、イエス様の十字架と復活を信じて、神様に近づくことができるのです。

10節には、「主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます。」とあります。リビングバイブルには、「主の前で、自分がいかに取るに足りない存在か思い知らされる時、主はあなたがたを助け起こし、力づけてくださるのです。」とあります。神様の前にへりくだるとは、神様に従うところから始まるように思います。そして、イエス様の十字架で流された血によって、神様の前に近づくことができるのです。そして、神様の前に近づく者は、へりくだることができるのです。

イエス様の弟子のシモン・ペトロは、イエス様の言葉に従って、漁師の常識ではありえない時間に、網を降ろした時、多くの魚が獲れました。ペトロは、イエス様の前にひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)とイエス様の前にへりくだりました。

ヤコブは、「神に服従しなさい。神に近づきなさい。主の前にへりくだりなさい。」と勧めました。この3つの勧めは、神様の愛に応答することを勧めているように思います。イエス様は、「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。」(ヨハネ14:15)「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。」と言われました。イエス様を愛するとは、イエス様の言葉に従うことです。イエス様に服従することです。イエス様の愛を受け入れる者は、イエス様に近づくことができるのです。イエス様の愛によって罪赦されていることを信じる者、受け入れる者は、神様の前にへりくだることができるのです。私たちは、そのように神様の愛に応答することが、神様に従い、近づき、へりくだることなのだと思うのです。

 

Ⅲ結論部

ヤコブの手紙4章5節には、「神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、」とあります。神様がねたむと言われるのです。ゼカリヤ書1章14節には、「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど激しく愛した。」(新改訳)とあります。

アダムが土の塵で創造された時、「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)と聖書は記しています。命の息と、霊とは同義語です。人間は霊的な存在として創造されました。しかし、罪を犯して、霊的に死んだので、霊的な回復のため、イエス様の十字架の死と復活があり、聖霊の助けが与えられたのです。

イエス様を信じることは聖霊の導きであり、神様の言葉を聞くことができるのは聖霊の助けなのです。私たちを悔い改めに導かれた聖霊が、私たちがこの世を愛することに対してねたみ、私たちが神様に全てを委ね、従うことを切に願っておられるのです。熱烈な神様の愛をいただいて、私たちもこの愛に答えて、この週も歩んでまいりましょう。

コメント

日曜礼拝(2020年9月13日)

2020-09-13 12:53:32 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十四) 2020.9.13

      「口は災いの元」 ヤコブの手紙3:1~12

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは自宅でのライブ礼拝で、礼拝をささげることができますことを感謝致します。9月の中旬を迎えますが、夏に逆戻ったような暑さで、ミンミンゼミがまた元気に鳴いていました。少しは秋の気配を感じながらも、まだまだ暑さが身に沁みます。

本日は、「口は災いの元」という説教題です。人間だけに与えられた言葉を通して私たちは、自分の思いや考えを相手に伝えます。時には、その言葉で人を支え、励ましますが、時には、その言葉で人を苦しめたり、けなしたりします。人は言葉でも人を殺してしまいます。 

現代は、SNSやメール、ラインの文字で、人をいじめたり、けなしたりして、その結果自殺すると言うような事件もあります。

テレビでも目立つ政治家たちが、言葉で失敗して、大臣をやめるというようなこともあるのです。私たちは、神様から与えられた言葉に関して、聖書が語る教えに耳を傾けたいと思うのです。今日は、ヤコブの手紙3章1節から12節を通して、「口は災いの元」という題でお話ししたいと思います。

 

Ⅱ本論部

一、語る者としてふさわしく生きる

言葉は神様から人間に与えられた素晴らしい伝達能力です。旧約聖書には、ロバが口をきいたという話もありますが、特別です。セキセインコが言葉を話すというのも、人間の言葉を真似するだけで自分の気持ちを話すわけではないでしょう。ヤコブの手紙3章の前の見出しには、「舌を制御する」とあります。

1節には、「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。」とあります。リビングバイブルには、「愛する皆さん。みなが教師のようになって、人の欠点をあげつらってはいけません。自分も欠点だらけではありませんか。人よりもすぐれた判断力を持つべき私たち教師がもし悪を行うなら、ほかの人よりはるかにきびしいさばきを受けるのです。」とあります。

詳訳聖書には、「兄弟たちよ、(あなたがたの中で)大勢の人が教師(自分かってに他人を非難し、とがめだてする者)になってはいけません。あなたがたは、私たち(教師)が(他の人たちよりも)高い標準で(よりきびしく)さばかれることを知っているはずです。(このように私たちは他の人々以上に責任をとり、また、よりきびしくさばかれるのです。)」とありました。ユダヤ教のラビ(教師)と言われる人々は、信徒から最大級の尊敬を受け、ラビに対する責任は、自分の両親に対する義務よりも優先するということが実際行われていたようです。このような事がキリスト教会の中でもあり、教師に対してユダヤ教のラビに相当する地位にある人々もあったようです。

ヤコブは手紙を書き送った人々が、教師の名声と地位と名誉を欲しがっていたので、ヤコブは教師であることの責任を忘れないようにと、1節のように語ったようです。

教師とは、人の上に立つ人であり、言葉を語り、言葉を通して教える人々です。語るという事が他の人々よりも多いという事です。リビングバイブルにあるように、教師と言う立場で、「人の欠点をあげつらってはいけません。自分も欠点だらけではありませんか。」と、人を批判し、欠点を指摘する者にならないようにと指摘します。ユダヤ教のラビたちは、このように、人が律法に従わない事、守らない事、やるべきことをやらないことに対して、批判し責めてばかりいたのです。イエス様は語られました。「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネによる福音書13:13~15) 教える者、指導する者の姿勢を弟子たちに語られたのでした。人の上に立つ者、権威が与えられている者、指導する者は、上からではなく、下から仕えるという事が、大切な事だと思うのです。

 

二、私たちは度々失敗するのです

2節には、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」とあります。詳訳聖書は、前半を「私たちはみな多くの事柄においてしばしばつまずき(倒れ、過ちを犯し)ます。」とあります。私たちは、いろいろな事柄で失敗します。過ちを犯します。しかし、何といっても言葉の失敗、言葉の過ちがいかに多いことでしょう。しゃべり過ぎとか言いすぎとか表現します。

私たちも、仲の良い間柄で、言葉の言い過ぎや言葉での過ちで人間関係が悪くなるという事がよくあります。あまり話さないからという事も問題でしょうが、しゃべりすぎよりもはるかに問題はないでしょう。

旧約聖書に出て来る偉大な指導者モーセは、「わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」(出エジプト4:10)と言っています。リビングバイブルには、「主よ、私はとても口べたです。うまく話ができたためしがありません。こうしてお話ししていても、思うように物が言えません。すぐにつかえてしまうのです。」とあります。 口下手で、うまく話ができないモーセは兄アロンの助けを得てイスラエルの人々を導きました。そのモーセは、ツィンの荒野で、イスラエルの民が徒党を組んで水がないとモーセとアロンに逆らった時、モーセはイスラエルの民にこう言ったのです。「反逆する者らよ、聞け。この岩からあなたたちのために水を出さなければならないのか。」(民数記20:10)とモーセは岩を二度打ち水を出したという記事があります。神様はモーセに、「岩に向かって、水を出せと命じなさい。」(民数記20:8)と言われたのに、モーセは怒りの言葉と岩を二度打ったのです。このことによって、モーセは約束の地、カナンの地に入ることが許されなかったのです。

イスラエルの民の反逆はこの時だけではありませんでした。何度も何度もモーセやアロンに食ってかかり文句を言ったので、モーセはイスラエルの民に対する怒りのゆえに、口をすべらせ、怒りを行動に移したのです。神様の言葉をその通りに語ればよいという事がいかに困難なのかを思わされます。聖書は、「モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった。」(民数記12:3)「謙遜を柔和と訳している訳もある」とモーセの素晴らしい人格を語っています。イエス様は、「わたしは柔和で謙遜だから・・・私に学びなさい。」(マタイ11:29)と語られたように。モーセはイエス様のように謙遜で、柔和な人物だったのです。しかし、モーセも失敗したのです。怒りによる言葉の失敗は私たちも経験済みだと思うのです。怒っている時に、言葉を発すると失敗につながることを忘れないようにしたいと思うのです。

「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」と聖書は語ります。しかし、地上の誰よりも謙遜だ、柔和だと聖書が語るモーセでも失敗したのですから、私たちは当然失敗するのです。私たちは言葉で失敗しやすい者であることを自覚し、神様に助けていただきたいと思うのです。

 

三、失敗しても赦しがある

3節からは、人は舌を制御できないと語るのです。馬を御するには口にくつわをはめれば乗り手の思うままになるし、船は大きくても小さい舵で思いのままに操ると言います。しかし、馬にくつわ、船に舵で操れるけれども、人間の舌も小さな器官ではあるけれども、大言壮語するといいます。大言壮語とは、「口では大きなことを言っても実行が伴わないこと。おおぼらをふくこと。大げさな事を言う。威勢のいいこと。」とあり、口だけということでしょうか。リビングバイブルには、「同様に舌もちっぽけなものですが、使い方を誤ると、途方もなく大きな害を生じます。小さな火が大きな森林を焼き尽くします。 舌は火と同じように、悪の炎で体全体を毒し、私たちの人生を滅びと災いの炎で焼き尽くすのです。」(3:5-6)とあります。

 8節では、「しかし、舌を制御できる人は一人もいません。舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています。」とあります。リビングバイブルには、「しかし、自分の舌だけは思いどおりにできません。舌はいつでも、死の毒を吐き出そうと待っているのです。」

とあります。人間は、猛獣も扱い、意のままにしますが自分の舌はどうにもならないのです。

イエス様は、「蝮(まむし)の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる。言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタイ12:34~37)と言われました。リビングバイブルでは、37節を「あなたがたのことばしだいで、あなたがたの将来は決まります。」と表現します。心にもないことを言いましたは、通用しないという事です。

私たちは、ヤコブの手紙が語るように、この舌で神様を賛美する言葉も、神様にかたどって造られた人間を呪うのです。同じ口から賛美と呪いが出るというのです。

舌という言葉で私たちは、ペンテコステの時、イエス様の言葉を信じて祈り待ち望んだ

120名の上に、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」(使徒言行録2:3)とあるように、旧約の時代の言葉のバベルの混乱を聖霊が与えられた人々を通して、外国の言葉で福音を伝えたことを知っています。

 私たちの言葉の問題、言葉の失敗、過ちを聖霊が助けて下さるという事を聖書が示していると思います。私たちは、日々の歩みの中で、聖霊に取り扱われる歩みをしたいと思うのです。語ることにおいて失敗するなら沈黙することです。ただ、黙る、語らないというのではなく、神様の前に沈黙し、静まるということ、つまり、神様の言葉を聞くということです。毎日、聖書の言葉に触れ続け、心にみ言葉をとどめ、み言葉に養われることを大切にしたいと思います。見える場所に、み言葉を張って、毎日見て声に出すことも有益でしょう。

 また、モーセが怒りで失敗しましたが、私たちは、怒りから守られるように、感謝の人になりたいと思います。良いことも感謝しますが、悪く見えることも、その悪い事が神様によって最善に導かれることを信じて感謝したいと思うのです。み言葉を通しての神様との交わり、静まり、あるいは、礼拝を通して、神様に感謝する者となり、心に喜びと感謝に満ち溢れ、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」とイエス様が語られたように、口から溢れる良きものを心に蓄えたいと思うのです。聖霊がそのように私たちを助け、導いて下さるのです。

 

Ⅲ結論部

「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」という言葉は、私たちにとって大きな慰めです。ただの慰めではなく、私たちの過ちを、失敗を、罪を赦していただけるのです。

それは口先だけで赦されるというのではなく、神であるお方、罪のないイエス・キリスト様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、私たちに代わって、父なる神様からさばかれ、私たちの罪を赦すために、私たちに代わり尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られ、よみがえられることにより、私たちの全ての罪を赦し、魂を救い、死んでも生きる命、永遠の命、復活の望みを与えて下さったのです。

私たちは、行動においても言葉においても失敗します。過ちを犯します。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です。」と言われても、言葉だけならば何の慰めもありません。しかし、毎日のように、罪を犯し続けるような者を受け入れ、抱きしめ、慰め、愛して下さるイエス様が私たちにとっては、慰めであり喜びなのです。毎日、聖書を通して、このイエス様に触れ、イエス様と交わり、イエス様のように、言葉を通して人を慰め、励まし、支える者になりたいと思うのです。この週もイエス様が共におられます。イエス様の言葉に私たちが養われて、励まされて、強められて、私たちも神様から与えられた言葉を通して、神様を賛美し、愛する者を励まし、支える言葉をこの週も語りたいと思うのです。

コメント

日曜礼拝(2020年9月6日)

2020-09-06 12:40:19 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十三) 2020.9.6

      「やられてもやり返さない」 ヤコブの手紙1:1~18

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第一日曜日を迎えました。残暑厳しい日が続いておりますが、今日も会堂に集い、あるいは、ライブ礼拝を通して家庭での礼拝と、共に心を合わせ、心を一つにして、心から礼拝をささげることができますことを感謝致します。

9月に入り、8月には朝早くから鳴いていた蝉の声もあまり聞かなくなったような気がします。沖縄や九州地区では台風の影響で被害が出ています。神様のお守りとお支えがありますようにお祈り致します。まだ、残暑厳しいですが、秋の気配を感じるようにも思います。

さて、今日はヤコブの手紙1章1節から18節を通して、「やられてもやり返さない」という題でお話し致します。

今、日曜日の夜のドラマで、「やられたらやり返す。倍返しだ。」というフレーズで大変有名になり、視聴率もドラマの中ではトップで、特にサラリーマンの方々は、ご苦労があるのでしょう。このドラマを見て、すっきりして、力を得て月曜日の仕事につくようです。

やられたらやり返す、それが、私たち人間の思いや感情でしょう。しかし、聖書は、私たちに違う角度から語るのです。

 

Ⅱ本論部

一、僕として生きる

 ヤコブの手紙は、ヤコブという人物が、離散している十二部族(イスラエル以外にいるユダヤ人、リビングバイブルには、国外にいるユダヤ人クリスチャン)に対して書いた手紙です。このヤコブという人は、イエス様の兄弟のヤコブです。1節には、自分のことを「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」とあります。ヤコブはイエス様の兄弟なのですから「主イエス・キリストの兄弟ヤコブ」とした方が、離散しているクリスチャンユダヤ人に対しては、影響力がある。信頼性がある。イエス様の兄弟だということでインパクトがあり、手紙の内容を真剣に受け止めてくれるように思いますが、彼は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と自分を紹介するのです。

 ヤコブはイエス様の兄弟ですから、子どもの頃からイエス様と共に育ちました。大工の子どもとして、大家族の中で貧しい生活だったと思います。父ヨセフは早くに死んで、イエス様は長男として大工の仕事を引き継いでいたでしょう。イエス様が家族を養っていたともいえる。そのイエス様が30歳になると、大工の仕事をやめて、神の国について語り、弟子をつくり、従え、教祖として歩み始めた。当然、弟たちにしわ寄せがきて、弟のヤコブも仕事をしたのかも知れません。兄イエスのせいで、自分に迷惑がかかったとイエス様を恨んでいたのかも知れない。ヤコブは、イエス様を救い主として、神様から遣わされたお方として信じることはできなかったのです。福音書には、母マリアや兄弟たちがイエス様を連れ戻しに来たような記事もあります(マルコ3:31-34)。

 ヤコブは、イエス様を救い主と信じませんでした。しかし、復活されたイエス様に出会い、十字架と復活を信じて救われました。そして、彼は、使徒言行録1章にある二回座敷に集まり、祈りをささげた120名の中にいたようです。ペンテコステ、聖霊の経験をし、初代教会の誕生をも経験して、初代教会の代表者の1人として彼は立てられ用いられてきました。

 そのように神様にも用いられたヤコブは、自分を紹介するのに「主イエス・キリストの兄弟ヤコブ」と紹介するのではなく、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」と紹介しました。救い主イエス様の兄弟と言うある意味では、力ともなり、栄誉ともなるその関係を用いて何かをするように、権力や肩書を用いるのではなくて、あくまでも自分は、「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ」、神と主イエスの奴隷として神に仕えている者であることを、謙遜をもって、離散している十二部族に紹介したのです。私たちにもいろいろな肩書や関係があるでしょう。それを使っても、用いても別に問題はありません。しかし、私たちもヤコブのように、キリストの僕として、神様に仕える者として、人々に仕える者として歩みたいと思うのです。

二、神様の助けが必ずあると信じ続ける忍耐

離散している人々ですから、イスラエルにいるユダヤ人よりも、苦労や苦しみが多くあったことだと思います。並大抵な試練や困難ではなかったことでしょう。そのような人々に対してヤコブは、2節で「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と語るのです。新改訳聖書には、「私の兄弟たち。様々な試練にあうときはいつでも、この上もない喜びと思いなさい。」試練を「いつでも」喜ぶようにとあります。

口語訳聖書では、「わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。」とあります。試練を「むしろ非常に」喜ばしいことと思いなさい、と言うのです。

手紙を書きだすのに、自分の紹介の後に、「試練を喜べ」といきなり書く人はいるでしょうか。パウロは多くの手紙を書きましたが、出だしは、神様に対する感謝や、相手に対する賞賛や祈りについて書いています。最初から「試練を喜べ」とは書きません。普通は書かない事です。

私たちは、自筆で手紙を書くということは、少なくなったことでしょう。メールや携帯での機械的な文字ではあっても、やはり、お元気ですか。主の祝福を祈りますとか、まず書くでしょう。試練をこの上ない喜びとしなさい、と書いて送れば、二度と返事はかえってこないかも知れません。

ヤコブは、「試練」というものを、ただいやなもの、苦しいもの、避けて通りたいものという考え方ではなく、3節には、「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」「リビンブバイブル 行く道が険しければ、それは忍耐を養う良いチャンスとなるからです。」とあり、4節には、「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」「リビングバイブル 忍耐力を十分に養いなさい。さまざまな問題が持ち上がった時、そこから逃げ出そうともがいてはいけません。忍耐力が十分身につけば、完全に成長した、どんなことにもびくともしない、強い人になれるでしょう。」と、試練を前向きなもの、意味あるもの、私たちを成長、成熟させるものだというのです。

私たちは、苦しみや痛みを通して忍耐が与えられるというのです。パウロは、ローマの信徒への手紙5章3節から5節で、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。

希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」と言っています。苦難は希望につながると言いました。ヤコブもパウロも苦難が忍耐を生むと言っているのです。

 ヤコブやパウロのいう「忍耐」とは、ただ我慢してひたすら待つ、というような消極的なものではなく、神様は必ず助けて下さる、必ず導いて下さる、最善にして下さると信じ続ける忍耐なのです。神様が共におられるならば、なぜこのようなことが起こるのかとか、祈っても何も答えられないという状況の時、神様を疑いたくなりますが、疑うことなく、信じ続けていく忍耐なのです。それが5節から8節に記されていると思います。

 私たちの信仰生活においても、神様を信じる私たちも、神様を、神様の存在を、神様の全能を疑いたくなるような出来事を経験します。しかし、神様を神様として、何でもできる全能なるお方として、信じ続ける忍耐が必要だと聖書は今日、私たちに語るのです。

三、イエス様も忍耐された

12節には、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです。」とあります。ここでも、試練に耐え忍ぶという忍耐について語ります。

旧約聖書において、試練と言えばヨブでしょう。多くの子どもが与えられ、たくさんの家畜や財産が与えられ、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」(ヨブ記1:1)と聖書はヨブを語ります。そのヨブが、子どもたちを失い、家畜の全てを失っただけではなく、全身ひどい皮膚病になって苦しむのです。なぜ、自分が苦しむのか理解できない。苦しみの理由がわからないことこそ苦しいものはありません。自分の犯した罪で苦しむこと、自分の失敗のゆえに苦しむならば、まだ納得がいきます。しかし、ヨブは自分には落ち度はない。問題はないと神様に主張します。そして、神様が自分の訴えに答えて下さらないという苦難に遭遇します。そして、神様が答えて下さらない代わりに、ヨブの3人の友人が彼を慰めようと来るのですが、ヨブのあまりにもひどい状況に、このような苦難はヨブに罪があるから、彼が何か隠れた罪があるからに違いないと判断し、ヨブに悔い改めるようにと迫り、彼を責め続けます。しかし、ヨブは自分の正しさを、潔白を主張するのです。

 最後には、神様がヨブに答え、ヨブは神様の事を耳で聞いていたけれども、今、この目であなたを仰ぎます、と悔い改めるのです。そして、ヨブの友人がヨブのため祈った時、神様はヨブの境遇を元に戻し、財産を2倍にして下さったのです。神様は、最初サタンとの会話で、ヨブに対して、「地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」(ヨブ記1:8)と語り、サタンは神様がヨブを祝福しているので、神様を信じているから、財産を取ったら、体に痛みを与えたら、つまり、苦難を与えたら神様を呪うはずだ、という言葉に対して、神様がヨブの財産を失わさせること、体を打つことを許されたことが始まりでした。ですから、ヨブの信仰深いこと、神様を恐れて生きているということが苦難の始まりでした。

 ヨブは財産が失われ、子どもたちが死んだこと、体全体が病で苦しむという辛い経験をしました。その上に、彼の友人がヨブを罪ありと徹底的に責める言葉と態度に苦しみました。

ヤコブはヨブについて次のように語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです。」(ヤコブの手紙5:11)

 そして、誰よりも主イエス・キリスト様は、私たちのために忍耐の限りを尽くして下さいました。罪のないお方が、私たちの罪のために、罪ありとされ、私たちの罪を罪のないイエス様が全てを負って下さり、私たち罪ある者が裁かれなければならないのに、イエス様が十字架の上に裁かれ、私たちの血が流される代わりに、イエス様の血が流され、私たちが罪のゆえに死ぬべきなのに、罪のないイエス様が尊い命をささげ死んで下さったのです。イエス様が死んで葬られ、よみがえることによって、私たちの全ての罪が赦され、清められ、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命、復活の望みが与えられたのです。

Ⅲ結論部

ヤコブはイエス様の弟でした。なかなかイエス様を救い主と信じませんでしたが、復活されたイエス様に出会い、イエス様を信じました。ヤコブは、生前イエス様が語っておられた言葉を弟子たちに聞いたのかも知れません。イエス様は、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。

喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11-12)と言われたことがありました。

ヤコブが手紙を書いている離散しているユダヤ人クリスチャンたちは、迫害にあってイスラエルを後にした人々でしょう。そのような彼らを励ましたい。その苦しみを共に負いたい。慰めの言葉で支えたい。しかし、ヤコブは自分の兄であった、救い主であったイエス様がかつて語ったであろう「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。」という言葉を受けて、イエス様を信じて信仰を持ったヤコブ自身が、離散したユダヤ人たちに、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」とイエス様の思いを胸に語ったように思えるのです。

私たちの信仰生活も、苦難があります。試練があります。しかし、苦難や試練は私たちを強め、信仰が試されることで忍耐が与えられる。どのような事を経験しようとも、必ずイエス様は共におられ、私たちを守り助けて下さる。状況がよくならなくても、必ず解決して下さる。祝福して下さる。すでに私たちの罪を赦すために、神の子である、罪のないお方が私たちに代わり裁かれ、命をささげて下さった。そのような愛を私たちは受けているのですから、イエス様が守り支え、助けて下さることを信じ続ける忍耐を与えられて、イエス様に信頼して、期待して、歩みたいと思います。やられたらやり返すという負の連鎖ではなく、やられてもやり返さないという神様の愛に触れて、この週も歩んでまいりましょう。

コメント

日曜礼拝(2020年8月30日)

2020-08-31 11:55:29 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十二) 2020.8.30

      「黙っていないで」 列王記下7:1~11

Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第五日曜日を迎えました。暑い日が続いております。残暑も厳しいです。8月最後の日曜礼拝です。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

2020年、本来ならばオリンピックが、日本で行われている予定でした。各選手は、金メダルを目指して頑張ったことでしょう。来年に延ばされましたが、果たしてオリンピックが実現できるのかどうかわからない状況です。

「沈黙は金、雄弁は銀」ということわざがあります。この言葉は、日本のことわざのように思われますが、違います。イギリスの思想家、トーマス・カーライルが語った言葉でした

(Speech is silver.silence is golden.)。「何も語らずに黙していることは、すぐれた雄弁よりも大切である」とか「沈黙を守る方が、すぐれた弁舌よりもまさる」とか「雄弁は大事だが、沈黙すべき時を心得ていることはもっと大事である」というような意味があるようです。

 日本語で、銅メダルの銅は、金と同じと書きますが、銀メダルの銀という漢字は、金よりも良いと書きます。「沈黙は金、雄弁は銀」とは、黙っているほうがいいのだ、と考えられますが、「雄弁は大事だが、沈黙すべき時を心得ていることはもっと大事である」とあったように、沈黙すべきことを心得る、つまり、語るべき時には、語るということをも指しているようにも感じるのです。今日は、列王記下7章1節から11節を通して、「黙っていないで」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、絶望の中で語られる神の言葉

当時、イスラエルの中心であったサマリアは、アラム軍に包囲され、大飢饉の状況でした。

列王記下6章においては、大飢饉のゆえに母親が自分の子どもを食べるというような悲惨な状況がありました。イスラエルの王の使者は、「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか。」(列王記下6:33)言っていますが、この言葉はイスラエルの王の言葉そのものだと思います。2011年3月11日午後2時46分東北大震災が起こりました。アエラという雑誌に、ある写真家の写真と言葉が紹介されました。そこには、「全土消滅、昭和消滅、神様消滅、独立独歩」とありました。地震の悲惨な状況を見て、神などいないと表現せざるを得なかったのだと思います。神様がいるなら、どうしてこんな事が起こるのか、と誰もが疑問を持つように思います。新型コロナ感染症もそうでしょう。

そのような厳しい状況の中で、預言者エリシャは神の言葉を語るのです。7章の1節です。「エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」と。 現実は、ろばの頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞四分の一カブが、5シェケルで売られていたのです。リビングバイブルには、「ろばの頭一つがと円、鳩の糞四分の一カブが900円」とあります。しかし、麦粉12リットルが300円、大麦24リットルが300円で売られるようになるとエリシャは、神様の言葉を語るのです。

悲惨な状況です。どこにも好転する兆しが見えない中で、絶望の中で、死を待つしかない状況の中で、エリシャは、神様の助けがある、祝福があると宣言したのです。

エリシャの言葉を聞いた王の介添えをしている侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」と言ったのです。リビングバイブルには、「たとえ主が天に窓をお作りになっても、そんなことが起こるはずはない」ときっぱりと否定しています。エリシャを通して語る神様の言葉が現実逃避に見え、絶対にあり得ない事だと言ったのです。

私たちも現在、新型コロナウィルス感染拡大の影響で精神的にも、肉体的にも、信仰的にも疲れています。感染者が増加し、先の見えない状況に、不安に満ち、恐れ、神様を信頼することが困難になっているように思います。状況がどうあれ、神様の言葉は、歴史を通して、時代が変わろうとも、聖書を通して「恐れるな、大丈夫」と語るのです。イエス様は、困難の中に私たちと共におられ、私たちを守り、支えて下さるのです。現実がどうであれ、聖書を通して語られる、神様の言葉を信頼して、信じて歩みたいと思うのです。

 

二、神の偉大なるわざ

 この大飢饉の中で、サマリアの城壁の中に入ることもできない人々がいました。それは重い皮膚病を患っている4人でした。重い皮膚病は、前の訳では「らい病」今はこの言葉は使いません。「ツァラアト」と原語で表現する聖書の訳もあります。イスラエルでは、この病気は汚れた病気とされていました。ですから、この病気になると家族や友人から隔離されて、別の場所で生活し、「汚れた者です」と大声を出して、自分が穢れていることを公にし、ただ死を待つしかない、全く希望も将来もない人生を送っていたのです。

サマリアの城壁の中では、大飢饉で大変な事になっていました。この4人は今まで、城壁の中にいる人々から物を恵んでもらって生きながらえていたのです。城壁の中にいる人々の生活があってこそ、自分たちは守られていたので、その人たちが大飢饉で何も食べることができない状況では、当然この4人も生きることはできないのです。

ですから、4人は考えました。4節には、「町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」とあります。町に入っても食料は全くない。ここに座っていても死ぬだけだ。それならば、アラムの陣営に行って食料を恵んでもらおう。たとえ殺されても、どうせ死ぬしかないのだから、と腹をくくり、アラムの陣営に行ったのです。

すると、そこには誰もいなかったのです。何故かと言うと、6節、7節に、「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」とあるとおりです。

戦いに勝利するためには、武器も兵士の人数も、馬の数も必要ありませんでした。神様は戦車の音、馬の音、大軍の音を聞かせられた、これだけでした。全能の神様、創造の神様、復活の主は、何でもできるお方なのです。私たちは、この神様を信じているのです。だから、大丈夫なのです。安心して、このお方に全てをお任せすればいいのです。

 

三、自分のできる方法で伝えたたらいい

アラムの陣営の天幕は、数多く、そこには食べ物や銀や金、衣服がおびただしくありました。バイキング料理、ビュッフェ料理のように、目の前には多くの料理が並べてあるように、4人は食べまくりました。空腹だったので、我を忘れて食べました。金や銀を、衣服を隠しました。食べて満腹して、落ち着いたら、自分たちのしていることが、良いことかどうかと疑問に思ったのでした。9節です。「彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」

アラムの陣営にある食料や、金や銀、そして衣服は、この4人が苦労して得たもの、彼らの努力の結果与えられたものではありませんでした。何の努力もなしに、与えられたものでした。サマリアの城壁の中では、未だに大飢饉のままで、飢えて死のうとしている人々が大勢いる。かつては、城壁の人々に、恵んでもらって命をしのいできた。サマリアの人々は、未だにアラムの軍勢に囲まれている。どうすることもできないと恐れ、震え、絶望している。しかし、アラムの軍隊の兵士などどこにもいない。もうすでに、逃げて、誰もいないし、食料がいっぱいある。今日は良い日なのに、自分たち4人だけが良い思いをしてもいいのだろうか。明日になるまで待っていてはならない。今も食べる物がなくて、飢えで死のうとしている人々が大勢いる。一刻も早く王家の人々に知らせようと彼らは考えたのです。

アラムの軍隊がどこにもいないということは、自分たちしか知らないのですから、別に知らせなくても誰にもわからない。自分たちは、重い皮膚病にかかり、将来もない。このように、食料や、銀や金、衣服が目の前にたくさんある。4人のものにしてしまっても、自分たちの病気の苦しみや将来がない苦しみを食料や、銀や金、様々な衣服で満足させてもかまわないのではないか、と考えても誰も文句は言わないかも知れない。しかし、自分たちは、良き知らせを知っている。自分たちのためだけに、この恵みを、祝福を使ってはならない。

彼らは、今にも飢えで死のうとしている人々、苦しんでいる多くの人々の事を思いながら、この良き知らせを一刻も早く伝えたいと王家の人々に急いで伝えたのでした。

パウロという人は、クリスチャンを迫害することが神様に喜ばれると信じて、クリスチャン撲滅のために頑張った人です。しかし、復活の主に出会って、クリスチャンの信じているイエス様が真の神様であることがわかり、イエス様の十字架と復活を信じて救われました。

そして、イエス様の福音を命懸けで伝えた人物です。彼はコリントの信徒への手紙第一9章16節で、このように言っています。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」と。

私たちは、この4人の重い皮膚病の人々が知っていた、体験した良き知らせを知っています。それは、パウロが経験した、イエス・キリスト様の十字架と復活を通して与えられる魂の救いと罪の赦し、死んでも生きる命、永遠の命、復活の望みです。私たちは罪の赦しを経験して、罪赦されたことによる平安を持っています。しかし、多くの人々は、罪を犯し、罪のゆえに苦しんでいるのです。罪の赦しを知らないで、苦しんでいるのです。そのまま放置すれば、死、滅びなのです。私たちは、救われて天国に行けます。しかし、イエス様の十字架と復活を知らない人々は、裁かれて永遠の死を経験するのです。私たちは、良き知らせを知っています。持っているのです。ですから、この良き知らせを伝えたいと思うのです。

自分がクリスチャンだと話す事が救いのきっかけにもなるでしょう。日曜日に教会に行っているということも大切です。聖書のわかりやすい内容の本を紹介したり、説教のCDを紹介したり、ライブ礼拝を紹介することも、良き知らせを伝えることになるでしょう。私たちは、自分の持っている福音を、良き知らせを自分のできる方法や仕方で、家族に、友人知人に、大切な人々に紹介したいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

この4人の良き知らせを伝えたことがきっかけになり、サマリアの町では、エリシャの言葉の通りに、食料が安く手に入り、人々は生き延びることができたのです。王の介添えをしている侍従は、「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と言いましたが、神様は思わない所から、予想もしない所から救いを与えて下さいました。そして、もう一つのエリシャの言葉、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」(7:2)という言葉の通りに、彼は門で民に踏み倒されて死んだのです。

神様の言葉を疑い、否定した侍従は裁かれました。この侍従のように、私たちは自分の思い通りに行かない時、祈っても答えられない時、健康を害し、経済的に困り、人間関係で悩んでしまう時、神様を疑ったり、不信仰になってしまうことがあります。しかし、私たちはあの侍従のようには裁かれないのです。それは、すでにイエス・キリスト様が私たちの過去、現在、未来の全ての罪をご自分の上に置かれ、罪のないお方が罪ある私たちの身代わりに十字架にかかり、父なる神様から見捨てられ、裁かれて、尊い血を最後の一滴まで流し、命をささげて下さった。死んで下さったのです。死んで葬られ、よみがえられて死に勝利されたのです。ですから、私たちは、イエス様の十字架と復活のゆえに、さばかれることはないと聖書は宣言します。私たちの罪は赦され、魂は救われ、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。私たちは、この素晴らしい福音に預かっているのです。「沈黙は金、雄弁は銀」とは言いますが、語るべき時に、語るべきことを語りたいと思うのです。「この日は良い知らせの日だ。」と重い皮膚病を患った4人は言いました。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ4:2)と聖書は語ります。私たちは自分のできる方法で福音を知らせたいと思うのです。この週もイエス様に信頼して歩んでまいりましょう。

コメント

日曜礼拝(2020年8月23日)

2020-08-24 07:40:06 | Weblog

主日礼拝

2020.8.23

「小さき者への特権」

 詩篇8篇(新共同訳)

 

Ⅰ導入部

  • みなさん、おはようございます。このようにして本日もみなさんとともに礼拝を捧げることのできる恵みを心より感謝いたします。
  • 祈りをもって、このメッセージを始めさせていただきます。…

 

Ⅱ本論部

一.地には困難がある

  • 本日読まれた詩篇8篇は、非常に美しい賛美です。2節(この詩も新改訳・口語訳の方は節がずれていますのでご注意ください)をご覧ください。「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。」
  • 私たちの神、主のお名前は、この地上のいたるところで、この世界の隅々で、力強くあがめられ、礼拝されている。
  • さらに、「天に輝くあなたの威光をたたえます」。地上だけではない。天においても、神さまの力強さ、素晴らしさが輝いていると歌う。
  • 詩篇8篇は、天と、地で輝く主の偉大さを歌うことから始まっていきます。

 

  • ここでふと思わされることがあります。この詩篇8篇を読んで疑問に思わないでしょうか。いかがでしょうか。私が、この詩に向き合うなかで、思わされたことがあります。
  • 本当に天と地で、主の偉大さは輝いているのだろうか?「そもそも論」ですが、天と地で、主の偉大さは本当に輝いているのでしょうか?

 

  • 例えば、教会にいるときに、聖書を読んだり、交わりを持ったりするなかで、私たちは「神さまって素晴らしい!」と思うことがあります。
  • あるいは、大自然の中にいるときに、キリスト教は、他の宗教のように自然を神とは見做しませんが、自然は神さまの素晴らしさを現していると信じていますので、美しい景色、特に夕焼けや、木々の美しさを見たとき、神さまの栄光が、素晴らしさが輝いていると感動することがあると思います。
  • 4節にもこのようにあります。

 

8:4 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。

 

  • 8月というのは、小中高大学生にとってはキャンプシーズンです。先週は私が平日に奉仕しているKGKキリスト者学生会の夏キャンプがあったのですが、すべてオンライン、インターネネット上で行いました。学生たちは非常にクリエイティブにプログラムを作っていて、オンラインでも十分恵まれ、楽しめたのですが、それでも欠けているのは自然ですね。
  • もちろん、オンラインであっても、素晴らしい時間を過ごせたことは感謝ですが、やはりいつもであれば、長野県の松原湖という大自然のなかで行っていますので、満点の星空を見上げて、神さまを賛美できたのに…という残念さはありました。

 

  • 私たちが教会のなかにいるとき、あるいは大自然のなかにいるときには、神さまの偉大さに気づきやすい。

 

  • しかし、いかがでしょうか。日常のなかで、天と地で輝く主の偉大さが果たしてどの程度見えているかと問われれば、そうでもないのではないかと思わされる。
  • ダビデは、2節で「主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう」と歌っていますが、ここには主のお名前は「全地」に満ちていると歌っています。「全ての地」です。あなたが生きている全ての場所で、あなたは主の偉大さを見ているでしょうか。

 

  • 例えば、電車に乗っているとき、コロナのために乗ることが減ってしまったという方もいらっしゃるかと思いますが、そこにも主の御名が力強く満ちているとはとても思えない。
  • 自宅にいるときはいかがでしょうか。学校や会社にいるとき、道端を歩いているとき、そこでも、主の御名が力強く働いていると信じておられるでしょうか。私自身、主の偉大さが見えなくなるということが起こる。
  • あるいは、困難に直面したとき、それでも主の御名が力強く働いていると信じるのは簡単なことではありません。みなさんそれぞれの人生のなかで、困難が起こったときはもちろんですが、ニュースを見るとき、新型コロナウイルス感染症の患者数がまだまだ増えている。コロナの影響によって経済が大打撃を受けている。
  • 不安定な国際情勢、特に香港の状況には私自身、深い痛みを覚えていますが、この地上を見つめるとき、そこにある苦しみに、悪に、気づかされるとき、本当に「全地」に主の栄光が輝いているのだろうかと「疑い」を覚えることが、みなさんにもあるのではないでしょうか。

 

二.驚くべきことをなされる神がおられる

  • ダビデは、天と地に輝く主の偉大さを賛美した後に、このようなことを歌っています。3節をご覧ください。
  • 「幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。」

 

  • 「幼子」、「乳飲み子」そして「刃向かう者」、「報復する敵」とあります。なんとも対照的な存在が描かれていますが、ここから分かるのは、ダビデは、何の困難もない場所でこの詩を歌ったわけではないということです。
  • 彼の目の前には敵がいた。困難があった。本当に「全地」に主の栄光が輝いているのだろうかと「疑い」を覚えざるを得ない状況のなかで、彼はそれでも主を賛美していたわけです。

 

  • そして、ちょっとややこしい話をしますが、ここで書かれている「幼子、乳飲み子の口によって」ということばは、その前にある2節の「天に輝くあなたの威光をたたえます」にかかるのか、つまり「幼子、乳飲み子の口によって」、「天に輝くあなたの威光をたたえ」ているのか。
  • あるいはその後の「砦を築き」、「絶ち滅ぼす」にかかるのか、つまり「幼子、乳飲み子の口によって」、「砦を築き」、「絶ち滅ぼす」のかというのは、実は両方取れるんですね。

 

  • もし、2節の「たたえます」の方にかかるとすると、「天に輝く」主の素晴らしさは、小さな子ども、赤ちゃんの口によってたたえられている。小さな子ども、赤ちゃんの口が、主を賛美している。
  • 小さな子ども、赤ちゃんって本当にかわいいですよね。「だあだあ」と言う声で、元気な笑い声で、あるいは泣き声だとそうは思えないことも多いと思いますが、小さな子どもたちは、赤ちゃんが神さまを賛美していると歌っているのだということになります。

 

  • あるいは、もし後ろの文にかかるとすれば、「幼子、乳飲み子の口によって」、「砦を築き」、「絶ち滅ぼす」という意味となります。
  • だとすれば、そのような小さな子どもの口には、赤ちゃんの口には、つまり彼らの賛美には、すごい力があるということです。「砦」すなわち敵から守られる。あるいは、敵を滅ぼす力があるということです。
  • これは不思議な表現ですが、つまりは神さまという方は、小さな子どものような弱い存在を用いて、困難を退けることがあるのだという意味であると言われます。
  • 弱い者を通して力を現す。普通では想像できないような驚くべきことをなされるのが聖書が語る神であると語るのであります。

 

  • 弱い者、力のない者を通して力を現す神。これは私にとっても、大きな慰めですね。結婚してもうすぐ2ヶ月となりますが、あいかわらずとても幸せな日々を過ごしています。基本的にすごく幸せなのですが、よく起こるのは、自分の根深い癖というか、欠点が、相手を悲しませ、傷つけてしまうことです。自分としては、その弱さを知っていて、変わりたいと願っている。でも、なかなか変われない。
  • あるいは、目の前の状況を見て、すぐに恐れる。不安を覚える。時には恐れていることにすら気づかないほど恐れ惑ってしまう。
  • そのような私もまた、ダビデとともに歌いたいのです。「幼子、乳飲み子の口によって。あなたは刃向かう者に向かって砦を築き/報復する敵を絶ち滅ぼされます。」
  • 主は弱い者を用いて、その偉大なみわざをなしてくださる。だから、恐れなくて良い。主は驚くべきみわざを成し遂げてくださる。驚くべきことをなされる神がおられるのです。

 

三.人間に与えられた特権

  • 続く4節で、ダビデは天を見上げ、歌います。おそらく羊飼いをしていた経験からだと思いますが、このように歌います。

 

8:4 あなたの天を、あなたの指の業を/わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。

 

  • 主は、天を造られ、月を、星を造られた方である。その上で、5節をご覧ください。

 

8:5 そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。

 

  • 驚くべきことをなされる主、天を月を星を造られた主は、人間を心に留めてくださる方である。あなたを心に留め、顧みてくださる方である。だから恐れなくても良い。
  • ダビデは感動して言うのです。「人間とは何ものなのでしょう」。こんなにも偉大な方が、自分のような小さな者に、大きな特権を与えてくださった。6節からをお読みします。

 

8:6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ、

8:7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。

8:8 羊も牛も、野の獣も

8:9 空の鳥、海の魚、海路を渡るものも。

 

  • 神は、人間を素晴らしい存在として造られた。もちろん、罪の影響を受けてしまっている。しかし、神さまに造られた素晴らしさは残っている。
  • だからこそ、今もなお「使命」が与えられている。それは7節にありますが、「御手によって造られたものをすべて治める」という使命であり、特権です。
  • これは世界の始まりを描いた創世記にも書かれていることですが、「御手によって造られたものをすべて治める」という使命です。

 

  • 「治める」と聞くと、何か好き勝手やって良いというイメージがある方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書における「治める」ということは、普通の意味と大きく異なります。例えば、イエスさまは、私たちクリスチャンを、ご自分のものとされている、治め、支配していると言われますが、それは何か強権的に抑圧的に支配するということではないんですね。むしろ、あの十字架で命を捨てるほどに愛し、また世話をすることが、イエスさまが私たちを支配される方法です。
  • ちなみに、新約聖書のヘブライの信徒への手紙2:6-8では、この詩篇8篇を本当の意味で実現したのは、イエスさまであるのだということが描かれています。イエスさまのように、この世界を正しく支配する。この美しい世界を愛し、世話をする、正しく管理する責任が、人間に託された。そのような特権が歌われています。
  • だからこそ、クリスチャンこそが環境保護に責任を持って取り組む必要があるのだと言われますし、日々の仕事や勉強、教会奉仕も、この世界を正しく「治める」ために、言い換えるならばこの世界を少しでも良い世界にしていくために、イエスさまのように犠牲を払い、愛をもって誠実に取り組む必要があるのだと言われます。

 

  • それは一見難しく見えます。「いやいやそんなことできませんよ」と言いたくなるかもしれません。
  • 環境保護はもちろん難しいことですし、私たちが日々取り組む仕事、それは家事も含めてですが、最近「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマを見て、改めて家事も立派な仕事であること痛感しています。
  • 仕事や勉強、教会奉仕をするときに、それはこの世界を正しく「治める」ためであるなどととても思えない。もちろん私もそんなことを忘れてしまうこともたくさんあります。

 

  • 大切なことは、神さまの視点に立ち続けることです。神さまの視点に立って、この世界を見つめることです。
  • 自分の視点で見れば、私たちは失敗だらけだし、できることの小ささゆえに、「不全感」を覚えることばかりかもしれない。私自身も、自分のKGKキリスト者学生会の主事として働き、ユースパスターとしての働きを思うとき、それが、この世界をより良くしているなんて思えないことばかりです。失敗したなあと思うとき、なかなか成果が出ないと思うときもあります。
  • できることは小さいことかもしれない。日々の仕事、奉仕、伝道のことを考えると小さなことしかできないかもしれない。私たちの視点で見れば、それは無駄に見えるかもしれない。その意味で焦ってしまうことがある。

 

  • でも、、、神さまの視点で見れば、この宇宙を、天地を造られた主、「幼子、乳飲み子」すら用いる方からすれば、あなたの日々の小さな働きは絶対に無駄にならない。
  • この詩篇の8、9節には「羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」とあります。羊が先頭に来るのがさすが羊飼いダビデ…と思いますが、羊や牛はともかく、あとの動物なんて治められませんよね。でも、ダビデは信じたのです。自分の日々の働きが、全世界を治めることにつながっていると。どうつながっているかなんて分からない。でも、神さまが必ず私たちの日々の小さな働きを用いてくださる。
  • 主は、あなたを通して、この世界を変えたいと願っておられる。神を賛美しないように見える世界を変えたい。もっと、神さまを賛美する世界に変えたい。「全地」が主をあがめる世界に変えたいと願っている。そのプロジェクトに参加するという特権が、私たちには与えられているのです。

 

三.やがて完成する

  • 最後に、10節をお読みして終わりにしたいと思います。

 

8:10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

 

  • もちろんこの世界には、すでに神さまの御名が、力強く、満ちています。教会にも、自然のなかにも、あるいは大都市のなかで、この社会のなかで、神さまの力強さは現されている。
  • しかし、終わりの日、イエスさまがこの地に戻って来られるとき、名実ともに、主の御名が全地に満ちる日が来る。その日、私たちが、本当にこの方の力強さを知るとき、神さまの世界を変えるプロジェクトは完成し、私たちは賛美を捧げるのです。

 

8:10 主よ、わたしたちの主よ/あなたの御名は、いかに力強く/全地に満ちていることでしょう。

 

  • その時には、私たちが経験したあらゆる苦しみは終わりを迎える。そしてあの苦しみの意味が分かる。そして私たちは、イエス・キリストの十字架と復活のゆえに何も恐れる必要がなく、永遠の喜びのなかを生きる。
  • そのときを待ち望みながら、今週もそれぞれの場所で、焦ることなく、どれほど小さくとも、誠実に主のわざに励んでいきたいのです。主にあっては、私たちの労苦は無駄にならないということを、天を見上げるとき、月や星を眺めるときに、思い出していただきたいのです。

 

  • 主はあなたを今日も招かれている。この地には困難があります。しかし、天を月を星を造られた神が、驚くべきみわざをなされる神が、弱い者を用いる神が、小さき者に特権を与えてくださる神が、あなたをも用いたいと願っておられる。あなたとともに、歩みたいと願っておられる。
  • あなたは、その招きにどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
コメント