2025.3.16青葉台教会奨励
「主イエスよ、来てください」ヨハネの黙示録22:6-21
吉武良司
青葉台教会最後の奨励の日となりました。おととしと今回で2回の派遣を受け容れて頂きまして皆様には心より感謝申し上げます。おととし6回今回6回で計12回の奨励の機会を与えられました。この経験でひとつわかった事があります。それは、私が話をする事に向いていないと言う事です。毎回緊張して最後まで慣れる事はありませんでした。神様はなぜこんな者を選ばれるのか、「むごいお方だな」と毎回思っていました。
最後ですので、皆様からのリクエストもあり、聞かれていない方もいらっしゃると思いますので、少し詳しくなぜ神学校に入ったのかをお話します。昨年の「還暦の証」でお話しました通り、私が受洗後も神様に背いていた事は皆様ご存じの事と思います。神様はそういう者を選ばれるようです。
私は、サラリーマンを33年間していましたが、56歳の時に会社の健康診断で要精密検査と診断されました。精密検査を受けると食道に癌になる前の異形成という状態が見つかりました。その前から胸部に圧迫感があり、体重も15キロ減りました。この異形成が原因かと思っていましたが違いました。その時既に肺と胸骨の間にある胸腺という臓器が悪性腫瘍になっていました。それが大きくなっていて、その後に起こった尿路結石のCT画像に写っていました。
すぐに呼吸器外科に回されて数週間後にダビンチというロボット遠隔操作による手術をしました。腫瘍は右の肺にも浸潤していました。右の肺の一部も切除して無事に手術が終わったはずでしたが、縫合した後に内部で出血が始まりました。執刀医が呼び戻されて縫合した所をまた開いて止血処置が始まりました。2時間経っても出血は止まりませんでした。執刀医はあきらめて、付き添いから家に帰った妻に電話をしました。「ご主人助からないかも知れません」と。
麻酔が切れて意識が朦朧としている中で私は神様に「僕をどうするつもりですか」と聞いてみました。そして意識がなくなりました。さて私はどうなったでしょうか。翌朝目を開けると真っ白な世界が見えました。これが天国かと思いましたが病室の天井でした。まだ地上にいました。この時神様は私を生かして牧師にさせるつもりだったように思います。
次に肺を切った所が炎症になり、水が溜まって肺炎になりました。ちょうどコロナ禍で肺炎のまま退院させられました。普通に呼吸が出来ないので会社に部署替えを申し出ましたが空きがありませんでした。休職期間が過ぎても呼吸が回復しなかったので退職を決めました。回復するまでに半年程かかりました。次の仕事を探し始めるとちょうど民間のバス会社が乗務員を募集していて応募しましたが採用されませんでした。静かな仕事は他になかなかありませんでした。そんな時に声が聞こえました。「牧師があるだろ」という声でした。その時は全く気にもせずに仕事探しを続けていました。
日に日に妻の顔が悲しい表情に変わって行きました。私は勝手に妻が心配してくれていて「回復するまでゆっくり治してね。私が働くから心配しないでね」とドラマのような世界を描いていましたが、現実は大違いでした。「これからの生活どうするの」でした。要するに「すぐに働け」と言う事です。
その時2回目の声が聞こえました。「だから牧師があるだろ」でした。もう逃げられないと覚悟しました。すぐに「牧師になるには」をネットで調べました。そこで初めて神学校に行かないと牧師になれない事を知りました。鬼嫁と娘に「牧師になるのに神学校に行こうと思う。退職金と癌保険などで4年間の生活は出来る」と説明すると何のためらいもなく「牧師はいいじゃない」と返事が返って来ました。そして神学校に入学しました。この時は青葉台教会で追い込まれる運命にあるとは知る由もありません。
ところが、またしても現実は計画通りに行きませんでした。神学校の4年間持つはずの貯蓄はリフォームなどで2年半で底を尽きました。家の中で飼っていた犬のゴールデンレトリバーや猫やフェレットで妻の親の家ですがボロボロになっていました。今妻は介護ヘルパーのパートで支えてくれています。鬼嫁ではありませんでした。そして更なる支えが与えられました。食道の異形成が昨年癌になっていて、どん底状態の時に2回目の癌保険が下りたのと、60歳になり年金繰り上げ受給が出来ました。神様のご計画は先の先まで緻密に立てられていました。
私は神様に選ばれてしまいましたので、話に向いていようがいまいが従うしかありません。なぜなら、神様はイエス様を最もむごい十字架に架けられました。イエス様は肉を裂かれ、私たちの身代わりとなって痛みと苦しみを負って下さり、私たちのすべての罪を贖って下さいました。その苦しみを思う時、従うしかありませんでした。そして、むごい十字架の死を超えて復活の希望を与えて下さいました。神様の栄光が現わされるためには時にはむごい事も通らなければ成就しないのだと思います。
今日は、最後の奨励ですから新約聖書の最後の書の黙示録の最終章から語らせて頂きます。10節に、この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。と書いてあるからです。前回のユダの手紙と同様に、今私たちは既に緊急事態に既に突入しています。マタイとルカの福音書に終末の徴が書いてあります。ルカの方で見てみます。
イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とかいうが、ついて行ってはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そしてさらに、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。と書いています。今その通りの事が現実に起こっています。
終末の出来事で100%信頼出来る書物は聖書だけです。テレビやインターネットの嘘の情報に惑わされないように気を付けなければなりません。聖書に書かれている事は100%成就しますが、2つの事がまだ成就していません。一つは、おととしの最初の奨励でお話しましたエゼキエル戦争です。それはロシアとイランとトルコの連合軍が北からイスラエルを攻撃して始まる戦争です。
エゼキエル書38章の16節、お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。
ゴグというのはロシアの首長の事ですが、今のプーチンの時なのかはわかりません。この戦争は神が首長の顎に鉤のフックをかけて連れ出してイスラエルを攻撃します。その日に大地震が起こり地上のすべての人間は震え上がるのです。イスラエルが勝利して、連合軍は全滅します。神様がイスラエルの神を知らしめるための戦争なのです。今ロシアはイスラエルで発見されたガス油田の資源を狙っているのには間違いありません。エゼキエル戦争の成就の条件は既に整っています。もう一つ成就していないのはエルサレム神殿の再建ですが、ユダヤ人の団体が石の切り出しなどの準備を進めています。
12節でイエス様は、見よ、私はすぐに来ると言っています。報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いると言っています。これが最後の審判です。この最後の審判の時までが救いの猶予期間となります。13節のわたしはアルファでありオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり終わりであるというのは、イエス・キリストが初めの創造主であり、支配者であり、終わりの審判主であり、すべての決定権を持った王の王であると言っています。14節の自分の衣を洗い清める者は幸いであるというのは、再臨までにすべての人類に悔い改めてほしいとの願いです。すぐに来ると言いながら2000年が経ちましたが、イエス様は全人類の救いのために2000年も忍耐しておられるのです。しかし、イエス様が明けの明星として夜明けを告げ知らせる時はもうそこまで来ています。
私たちキリスト者は、イエス様がいつ来られても慌てない準備をしていなければなりません。終末の危機の中で誘惑に陥る事や信仰を投げ出しそうになったりする事もあるかもしれません。人間は危機の中で無力さに気付きます。こんな時だからこそ私たちは、お互いに励まし合い、いつも喜び、絶えず祈り、どんな事にも感謝したいのであります。そして、まだイエス様を知らない人たちのためにも祈りたいのであります。聖霊の力が届きますように。聖書と出会いますように。そして救われますように。
そして20節を見ます。最後はイエス様を待望する祈りで終わります。今日のタイトルの「主イエスよ、来てください」はアラム語で「マラナ・タ」と言います。アラム語は当時のユダヤ人が話していた言葉です。旧約聖書のヘブライ語の仲間のようなセム語族の言語です。イエス様もアラム語を話されていました。マラナ・タは、新約聖書の中で、Ⅰコリント16章22節の一箇所にだけ、そのままギリシャ語として残りました。
主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。です。初代教会ではこのマラナ・タが挨拶の言葉としても「おはよう」「こんにちは」などのように使われていました。ヘブライ語から新約聖書で使われるようになった「アーメン」や「ハレルヤ」は日本人の間でもお馴染みですが、「マラナ・タ」はあまり馴染みがないように思います。今日一番お伝えしたいのがこの「マラナ・タ」です。
世の終わりの日には、イエス・キリストが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られ、選ばれた人たち、救いに与かる者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。使徒言行録の1章11節には、復活されたイエス・キリストが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになると告げた事が語られています。
イエス・キリストがもう一度この世においでになる事がこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会はイエス・キリストがもう一度来て下さる事、即ち再臨を待ち望みました。パウロも、最も早くに書かれたとされるⅠテサロニケの信徒への手紙1章10節でこのように語っています。更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。「御子が天から来られるのを待ち望む」、それが教会の信仰なのです。その信仰から生まれた祈りが「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」なのです。
従って「マラナ・タ」とは、イエス・キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りです。もちろん私たちは日々の生活の中で、イエス・キリストが、聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さる事を信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈る事が出来るし、イエス様はそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さいます。しかし「マラナ・タ」という祈りは、イエス・キリストの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りです。
その救いについては、Ⅰコリント15章22節から25節にあります。つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威と勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。
ここには、イエス・キリストの再臨によってこの世が終わり、キリストはすべての支 配、権威、勢力を滅ぼして、父なる神に国を引き渡されるという事が語られています。「国」とは「支配」という意味の言葉です。つまり再臨によってイエス・キリストの支配が確立し、その支配する王国が父なる神のものとなる、神の国、神の支配が完成します。それが私たちの究極的な救いです。
私たちが現在味わっている様々な苦しみ、困難、問題は、目に見える現実において、神様の恵みの力とは別の、様々なこの世の力が支配している事によって生じています。神様の恵みを見えなくする様々なこの世の力に私たちの人生は振り回され、翻弄されています。その中にあって、信仰を与えられた私たちは、イエス・キリストの十字架と復活によって神様の恵みの支配が既に確立している事を信じて生きるのです。しかし、その神様の支配は信仰によってしか分からない目には見えない隠された支配です。そこに、信仰をもってこの世を生きる私たちの苦しみがあります。
私たちはその苦しみに負けて、神様の恵みの支配を見失ってしまう事もあります。しかし、世の終わりのイエス・キリストの再臨において、今は隠されている神の支配が顕わになり、誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。そのようにして神の国が完成します。その時に、私たちの苦しみは終わります。その時、最後の敵としての死が滅ぼされます。死は、私たちの人生を脅かす最後で最大の敵です。
肉体をもって生きるこの人生は、最後にはこの死の力に屈服せざるを得ません。死こそが、私たちを最終的に支配する力であるように見えます。しかし、イエス・キリストの再臨において、その死の力が滅ぼされ、私たちにも復活の命と体が与えられるのです。そのために私たちはイエス・キリストを信じるのです。死んで朽ちて行くこの体が、新しい、朽ちない体へと変えられるのです。私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなく、イエス・キリストにおけるこの神様の恵みの力であることが、イエス・キリストの再臨において明らかになるのです。
「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」という祈りは、この事を見つめ待ち望む祈りです。私たちは、この祈りを祈りつつ、この究極的な希望をもって生きる事を許されているのです。そしてそれゆえにこそ、日々の様々な具体的な歩みにおいて、聖霊のお働きによってイエス・キリストが共にいて下さり、守り助けて下さることを信じて、祈り求める事が出来るのです。「マラナ・タ」の祈りこそ、私たちの日々の全ての祈りと、信仰による生活とを支えている土台であると言う事が出来るのです。
新約聖書は、この祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言っても良いのです。そして更にもう一つ、イエス様が「このように祈りなさい」と教えて下さった、私たちの祈りの根本である「主の祈り」の中に、「御国を来らせたまえ」とあります。神の御国は、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのです。御国の到来を待つというのは、イエス・キリストの再臨を待つ事なのです。もちろん今私たちは既に、イエス・キリストを信じる信仰において、神の国、神のご支配の下で生き始めています。
しかしそれは信仰による事で、目に見えない、隠された事です。だからこそ「御国を来らせたまえ」と祈るのです。その神の国が、イエス・キリストの再臨によって顕わになり完成します。「マラナ・タ」はその事を待ち望む祈りです。ですから私たちは主の祈りを祈るごとに、「マラナ・タ」と祈っているのであります。マラナ・タ、主イエスよ、来てください。主イエス・キリストの恵みが、すべての者と共にありますように。