江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年7月21日)

2024-07-21 17:06:39 | Weblog

聖霊降臨節第10主日礼拝説教                                                      2024年7月21日

満山 浩之

『隔ての壁を打ち破る』

 エフェソの信徒への手紙 2章11節〜22節

 皆さんは「隔ての壁」と言ったらどんなことを思い浮かべるでしょうか。

目に見える物で言えば、隣の家との壁、家を囲う壁、歴史的にもドイツのベルリンの壁などがあります。目に見えない壁というのもあります。それは、言葉の壁、文化の違いという壁、人種差別という壁、貧富の差という壁、また話していて心が通い合ってないなって感じる壁など、目には見えないけれど、なんか隔たりがあって、壁を感じるなってことも少なくはないと思うのです。

 私も17年前にブラジルへ独りで渡った時、そのような壁を感じていました。地球の裏側に行くので、言葉が違えば文化も違って、考え方も当たり前ですが違ったのです。その時に何か目には見えない、物凄く分厚い隔ての壁を、感じていました。でも、そのブラジルで生活していく中で、その分厚い隔ての壁が、どんどんとなくなっていくのを感じたのです。その理由がクリスチャンとなった今、ようやく理解できるようになったのです。なぜなら、彼らブラジル人は、イエスさまを救い主として信じて受け入れて、それに従って人生を歩んでいる人たちが、実に多いからです。

 それは、今日の説教題でもある『隔ての壁を打ち破る』そのお方を信じて、

 そのお方に従って歩んでいる人が多かったからです。今日の箇所を通して、どのようにその「隔ての壁を打ち破って」いくのか、皆さんと一緒に見ていきたいと思います。この手紙を書いたパウロは、まずエフェソにいるイエスさまを信じる者たちに、「心に留めておきなさい」と言います。これは「思い出して欲しい」という意味に置き換えることもできる言葉です。エフェソの教会の人々は、ユダヤ人ではない「異邦人」と呼ばれる人々です。この言い方も「隔ての壁」を造っている一つの要因なのですが、ユダヤ人は、神さまから選ばれた誇り高き特別な民族なんだ、という意識がとても強かったのです。

 旧約聖書時代、神さまはまずはユダヤ人であるイスラエルの民を選び出し、   神さまの教えを与え、神さまに従って生きるようにと導かれました。そのことが伝統的に、ユダヤ人の体に染み付いていたのです。そしてユダヤ人からしたら、神さまは彼らユダヤ人にしか祝福の約束を与えず、ユダヤ人にしか神さまとの契約も結ばずにいる、と思い込んでいたのでした。なぜなら、ユダヤ人であるイスラエルの民に、律法という神さまに従うための道標が、当時のリーダーであるモーセを通して、神さまから彼らに与えられていたからです。

 でも、異邦人であるエフェソの人々は、そのようなものはありませんし、むしろ知らなかったのです。本当の神さまがどういうお方なのか、神さまはいるのだろうか。他にも神さまはいるのではないだろうか、と本当のことを知らずにいたのです。それは私たちも同じだと思うのです。日本に生まれ、日本で育ち、日本の文化や風習に馴染んでいく。それが当たり前の中で、イエスさまを信じること、この世を造られた唯一の神さまを信じて歩むこと。それは簡単ではなかったはずです。でも、聖霊の働きによって導かれた私たちは、日本の伝統や考え方はあるけれど、この世の本当の真理を知った時、喜びと祝福に満ち溢れたと思うのです。なぜなら、私たちを造って下さったのは、神さまであって、神さまなしでは、私たちは存在もすることができなくて、生きていくこともできない、ということを知ったからです。そして、そんな私たちを愛し続けてくださっているお方が、私たちをいつも支え続けてくださっている、という感謝が心から湧いてくるのです。確かに今日の箇所の12節にありますように、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、 この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」

それは私たちにも当てはまることではないでしょうか。この世の人生は自分で道を切り開いていくしかない。物事がうまく進まなかったら、運が悪かっただけ。何かにしがみ付きたいが、何にしがみついたら良いかわからない。とりあえず、占いや良いと思われている何かを参考にやってみる。もう人生が分からなすぎて、将来が不安で仕方がない。目標も希望もなく、神さまという存在すら知らない、神さまのいない世の中に生きていると考えた方も、少なくはないはずです。私もその一人でした。でも、本当の神さまを知り、自分自身がこの世に生かされている意味を知り、救い主イエスさまを信じて受け入れた時、この世が神さまの数多くの恵みに満たされていて、愛が注がれているのだと、神さまなしでは生きることは出来ないのだ、と知ることが出来たのです。

 創世記1章にこうありますよね。

「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」

創世記2章には「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」

 この手紙を書いたパウロは、イスラエルの民と呼ばれたユダヤ人たちが、口では神さまを敬い、神さまから与えられた律法に従っていると言いながら、心は神さまから遠く離れてしまっていることを、誰よりもよく知っていました。なぜならパウロ自身、聖書の御言葉を間違って解釈し、イエスさまを信じる者の群である教会を迫害し続けてきたからです。ですから、イエスさまに出会い、心から変えられたパウロは、同胞であるユダヤ人が救われることを、何よりも強く祈り求めていたのです。自分たちには神さまの約束があり、神さまに選ばれた民なのだと口で言っておきながら、実際には、神さまから与えられている律法を守らず、神さまの御心に背いた生活をしていたユダヤ人たちがいたのです。それにもかかわらず、彼らは自分たちの置かれた立場を誇りに思って、他の民族を「異邦人」と呼んで、心の底では神さまのない民として、「異邦人」を見下していたのです。でも神さまは、この世にイエスさまという救い主をお送りくださいました。イエスさまが十字架の上で死ぬことによって、その流された血によって、神さまから遠く離れていた異邦人も、神さまに選ばれて近いと思われていたユダヤ人も、神さまに近付くこと、神さまと共に歩むことができるようにされたのです。神さまの目からしたら、ユダヤ人も異邦人も関係ありません。一人の人間として、神さまの可愛い、愛しの、愛する子なのです。ただ争ったり、差別したり、仲間外れにしたりしているのは、人間の身勝手な考えなのです。それは、神さまの御心とは遥かにかけ離れたことです。

その罪深い者が、私たち人間なのです。ある人を見た目で判断してしまったり、自分は偉いのだ、と自分が一番だと考えてしまう、そのようなものに満たされやすい、陥りやすいのが私たち人間ではないでしょうか。ですから、人間と人間との「隔ての壁」を作り出しているのは、実は私たち人間の身勝手な考え方なのです。それによって、神さまとの「隔ての壁」も、私たちが知らず知らずのうちに作り出してしまっていたのです。その絶望へと導く、望みをなくさせる「隔ての壁を打ち破る」ために、この世に来られたのが、救い主のイエスさまなのです。神さまの子として、罪が一切ない、何も悪いことをしていないのにもかかわらず、すべてを受け入れて、十字架の死を受け入れ、ご自身の命を犠牲にしてでも、神さまと人間との和解、人間と人間との平和を確立できるようにしてくださったのです。このようにして、「二つのものを一つにする」その神さまの御計画は、実現して行ったのです。

 「隔ての壁」を自らつくる、他と「敵対する心」は、イエスさまの十字架によって、葬り去られました。今では、ユダヤ人でもなければ、異邦人でもありません。ただそこにいるのは、「新しくされた一人の人間」なのです。私たち人間は、このことを心から信じるだけです。イエスさまを心から受け入れて、信じて従っていくだけです。もう手の届くところに、「平和」という宝は転がっています。それを手に取って、心に携えて日々を歩んでいくだけです。

私がブラジルで感じた「隔ての壁」というのは、自分自身が作り出しているものであったと、今日の説教をつくっている時に気付かされました。「言葉が通じないから、俺の気持ちなんてわからないだろう」「文化が違うし、考え方が違うから、分かり合えなくて当然だ」そのように自分自身で彼らとの「隔ての壁」をつくってしまっていました。でも、彼らは今日の聖書の御言葉に生きている人たちでした。「日本人もブラジル人も関係ない。」「我々は神さまに生かされているただの一人の人間であって、皆神さまの家族なのだ。」そのような思いで、私に接してくれていたのです。そのことを知ることができた今、私は喜びで満ち溢れています。ぜひ私たちも、神さまとの和解、人間と人間との平和を確立してくださった、すべての「隔ての壁を打ち破って」くださったイエスさまを信じる者として、神さまの愛する子である、周りの様々な人たちと接していこうではありませんか。そこに本当の平和が生み出されることを信じて確信して、今週も歩んで参りましょう。

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日曜礼拝(24年7月14日)

2024-07-14 12:30:31 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第七)    2024.7.14

         「神様の憐れみと人間の怒り」ヨナ書3:1~4:11

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第二の日曜日を迎えました。金曜日は、久しぶりに涼しい夜でエアコンを使用せずに眠ることができました。しかし、昨日は晴れてまた暑くなりました。温度さに体がついて行かないという方々もおられるのでしょう。夏本番はこれからですので、体調に気をつけながら、イエス様に支えていただきながら、霊的な部分、魂も信仰も神様に守られて歩ませていただきたいと思います。

 今日は、先週の続編ですが、ヨナ書3章と4章を通して、「神様の憐れみと人間の怒り」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、滅びではなく救いを与える神様

 魚のお腹にいたヨナですが、神様が魚に命じてヨナは陸地に吐き出されました。3章1節には、「主の言葉が再びヨナに臨んだ。」とあります。神様のニネベに行け、というご命令に従わず、逃げたヨナに対して、神様は再び臨まれたのです。使命を与えようとされるのです。2節には、「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」とあります。1章2節で語られた言葉と同じです。神様が同じ使命のために、同じ言葉で命じられた預言者は、ヨナの他には誰もおりません。神様は、再び同じ使命を託されるのです。このことは、神様の深い憐れみによるものです。神様に再び語りかけられたヨナは、3節を見ると、「ヨナは主の命令どおり、直ちにニネベに行った。」とあります。神様の深い憐れみを受けたヨナは、「行った。」と簡単に書いてありますが、ヨナが魚に吐き出された場所からニネベまでは、千キロ以上の距離があったと言われていますから、飛行機もない、スピードの出る船もない時代、何十日もかけての危険な旅であったことが予想されます。ヨナは神様の命令に、「直ちにニネベに行った。」のです。神様の「再び」という憐れみを経験した者は、「直ちに」という行動になるのだと思うのです。しかしヨナの心は、相変わらず異邦人が救われることは考えられず、ニネベの人々が滅びることを願っているのです。ですから、ニネベまでの遠い距離は、さらに辛い旅だったと考えられます。3節後半には、「ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。」とあります。4節には、「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」とあります。ヨナのメッセージは、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」という、とても短い、単純な内容でした。滅びの宣告、罪の指摘だったのでしょう。聖書は、私たち人間には罪があることと罪があるままだと滅びると伝えています。悔い改める者には、神様に立ち返る者には、神様の憐れみがあることを伝えています。

 教会に初めてきた人が、説教で「あなたは罪人だ」と語られて憤慨して帰って行ったという話を聞いたことがありました。教会に行くこと自体、礼拝に出席すること自体、ハードルが高いのに、「あなたには罪がある」ということには、勇気のいることでしょう。事実は事実として伝える必要がありますが、「あなたには罪がある」という前に、「神様はあなたを愛しておられる」という宣言が必要だと思います。晴佐久神父が語る、「あなたは救われています。」ということが大切なのだと思います。

 「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」とヨナは、そう信じて、そうなることを願いながらニネベの町を一日かけて回りました。「ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかった。」とありますが、ヨブは1日でやめてしまいました。ヨナはやる気をなくしたのでしょうか。そうではありませんでした。驚くべきことが起こったのです。

 二、神様の憐れみにすがる

 5節には、「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」とあります。ヨナの思いとは反対に、何とあの残虐な民族、アッシリアの首都ニネベの人々は、異邦人でありながらも、ヨナの1日の宣教によって、「神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」とあります。ヨナにとっては、想定外な出来事が起こりました。ありえない事でした。6節には、「このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、」とあります。リビングバイブルには、「ニネベの王は、ヨナが語っていることを聞くと、」とあります。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」というヨナの宣教の言葉を聞いた王は、「王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し、」と悔い改めたのでした。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」と宣教したヨナに対して不審者呼ばわりしたり、捕まえたり、民衆が悔い改め、神様を信じたことをやめさせるように呼びかけたのではなくて、7節から9節「王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」」としたのです。人間の側の断食や悔い改めによって、神様の滅びを免れることができるかどうかはわからないことをニネベの王はわかっていたのです。けれども、「ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。」と、神様の憐れみに期待したのです。10節には、「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」とあります。「彼らが悪の道を離れたこと」を新改訳聖書第三版では、「彼らが悪の道から立ち返るために努力していること」とあります。イスラエルの敵国アッシリア帝国の首都ニネベの人々は、異邦人であり、生けるまことの神様を知らない人々であり、どのように悔い改めたらいいのかわからなかったのでしょう。しかし、彼らは異邦人なりに努力をして悔い改めたのです。ヨナが語る神様を正確には知らない。救いの何かもわからない。けれども、彼らは自分たちの罪を悔いて、神様を信じたのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10:13)と聖書は語ります。また、盲人バルテロマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください。」とイエス様に対して叫び続けました。イエス様は、盲人バルテマイに、「あなたの信仰があなたを救った。」と宣言し、目を見えるようにされました。イエス様に「わたしを憐れんでください。」と叫び続けた姿勢、努力したこと、イエス様の名を呼び求めたバルテマイを救って下さったのです。私たちは、こうしてこうして、このように信じたら救われると救いを何か、杓子定規にしなければ救われないと考えてしまうように思うのです。でも、神様の憐れみは私たちが考える以上に大きなもの、深いものであるということです。神様は御自分への知識のない異邦人にも、神様の前に悔い改める者、神様を見上げる者、神様の名を呼ぶ者に憐れみをかけ救って下さるのです。聖書の神様の知識のないの日本人に対する神様の憐れみに期待したいのです。

 三、ヨナ、神様の深い愛を信じなさい

 4章1節には、「ヨナにとって、このことは大いに不満であり、彼は怒った。」とあります。神様の言葉を預かる者が、憐れみを示される神様に対して、非常に不愉快になって、怒り、神様に訴えるということがあっていいのでしょうか。「このことは」とは、「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」ということでしょう。リビングバイブルには、「ところが、この主の計画変更にヨナはひどく腹を立て」とあり。ヨナの怒りは、神様がニネベの都を滅ぼすことを、「宣告した災いをくだすのをやめられた。」ことでした。2節には、「彼は、主に訴えた。「ああ、主よ、わたしがまだ国にいましたとき、言ったとおりではありませんか。だから、わたしは先にタルシシュに向かって逃げたのです。わたしには、こうなることが分かっていました。あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」とあります。ヨナは言うのです。こうなることは、初めからわかっていたと。神様はそういうお方だから、神様の命令に従いたくはなかったのです。リビングバイブルには、「ニネベの人々を滅ぼす計画も、簡単に取りやめることになるだろうと、わかっていました。」とあります。ヨナの逃亡の本当の原因はここにありました。ヨナは、ニネベの人々が滅びることを望んでいたのです。神様がその滅びを思い直されることを認めることはできないのです。3節には、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも死ぬ方がましです。」とあります。ニネベを救済する神様の考えに同意できないヨナは、自分の命を代わりに犠牲にする覚悟があると言います。イスラエルの正義が守られためには、たとえ神様でも物申すというヨナの強い姿勢があります。神様のニネベに対する憐れみが、これほどはっきりと示されているにもかかわらず、預言者であるのに、神様の言葉に、その思いに同意すること、従うことができないのです。4節には、「主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」」とあります。新改訳聖書には、「あなたは当然のことのように怒るのか」とあります。

 5節には、「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日射しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした。」とあります。ヨナは小屋を建てて、何が起こるか見極めようとしました。「命を懸けます」と言ったもので、神様が自分の言い分を受け入れて下さるのではないかと思ったのかも知れません。6節には、「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ。」とあります。ヨナの思いを汲んで下さったように、ヨナのためにとうごまの木を生えさせ、エアコンのように快適さを与えられたのです。ヨナの不満は消えたのです。ヨナは、神様の自分に対する配慮をニネベを滅ぼして下さるに違いないと信じる事柄でした。しかし7節を見ると、「ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。」とあります。とうごまの木は、大きな葉を持ち、暑くなると非常に早く成長するようです。その早い成長は、茎に少しでも傷がつくと枯れるという性質を持っているようです。8節には、「日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるよう命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」とあります。一日にして枯れたとうごまの木、今度は照りつける太陽と焼けつくような東風でヨナは、熱中症になってしまったのでしょう。死を願うのです。海に投げ出された自分を魚によって生かして下さった身なのに、死を願うのです。9節、10節には、「神はヨナに言われた。「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」彼は言った。「もちろんです。怒りのあまり死にたいくらいです。」すると、主はこう言われた。「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」とあります。ヨナは単純な真理がわかりません。ニネベの都の人々が、どんなにわかっていなくても、罪ある人々でも、彼らもまた神様が創造された存在であり、その存在理由だけで神様は愛しておられるということなのです。異邦人とは、ユダヤ人以外の人々という意味でありますが、「真の神様を知らない人々」という霊的な意味も含まれた言葉です。「「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。」(Ⅰテモテ1:15)とパウロは言いました。神様はイエス様を通して、罪人を救われるのです。罪ある私たちが裁かれるのではなく、罪のないイエス様が私たちの身代わりに十字架にかかり、裁かれ尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さり、墓に葬られましたが、三日目に蘇り、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さるのです。

右も左もわきまえぬ人間」つまり、罪を犯した私たちを神様は愛して下さるのです。

 Ⅲ結論部

 ヨナ書は、神様の「惜しまずにいられるだろうか。」という問いかけで終わっています。それは、私たちに問いかけられているものなのでしょう。あなたはどうなのか。ヨナのようなに赦せない人がいるのか。受け入れられない人がいるのか。裁いている人がいないか。私たち自身に問いかけられています。ヨナはニネベの人々が神様に愛されることを、憐れみを受けることを嫌いました。悪い事をして裁かれて当然の人々が祝福されることを喜べないのです、神様のお心は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)ということです。ヨナの宣教は、自分の思いを超えてニネベの人々に、悔い改めと救いを与えました。私たちは、信じさせようとして語るのではなくて、救って下さるのは、神様なので、相手がどのように頑固であろうと、救われるように見えなくても、悪い人にでも、神様の愛を、福音を、イエス様の十字架と復活を通して与えられる恵みを語る者とさせていただきたいのです。憐れみ深い神様は、私たちと同じように、まだ神様を知らない家族を、友人を憐れみ愛して下さるのです。イエス様を信頼してこの週も歩みましょう。

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日曜礼拝(24年7月7日)

2024-07-07 15:19:09 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第六)    2024.7.7

         「悪い奴ほどよく眠る」ヨナ書1:1~2:3

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。7月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。毎日暑い日が続いておりますが、皆さんはいかがでしょうか。熱中症は屋外よりも屋内のほうがかかりやすいようです。家の中にいても、水分をこまめに飲んで、冷房で部屋を涼しくしてお過ごし下さい。今日から日曜日午前の7時から早朝礼拝が始まりました。これからも暑くなりますので、朝の早い時間、昼間よりは少し涼しい時間に、早朝礼拝で共に礼拝をささげましょう。

 今日は、7月7日七夕です。七夕は、織姫と彦星が年に一度再会する日と考えられています。七夕は五旬節のひとつで、縁起の良い陽数とされる奇数が重なる7月7日の夕べに行われるため七夕の節句というようです。笹を用いて行事をすることから、別名笹の節句と呼ばれているようです。そもそも、中国で誕生した織姫と彦星の七夕伝説と、織姫にあやかって機織りや裁縫の上達を願う「乞巧奠(きっこうでん)」という行事が日本に伝わったのは奈良時代。これに日本古来の「棚機女(たなばたつめ)」という伝説などが結びついて、平安時代に宮中行事になりました。七夕が年中行事として庶民に浸透したのは江戸時代のことです。年に一度しか会えないという伝説は、悲しいものですが、私たちは、週に一度礼拝を通して神様に出会い、愛する方々と共に礼拝をささげることができますことを本当にうれしく思います。私たちは、短柵に願いを書かなくても、神様に祈りを通して願うことができるのです。祈りを通して、互いに神様の祝福を祈り合いたいのです。

 今日は、ヨナ書1章1節から2章3節を通して、「悪い奴ほどよく眠る」という題で、お話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、神様の愛が分からないヨナ

 1章1節には、「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ。」とあります。列王記下14章25節には、「主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナ」とあります。ガト・ヘフェルは、ゼブルン族の割り当ての地にあり、イエス様の育ったナザレの町から数キロにある地のです。ヨナは、北イスラエルの預言者であり、イスラエルのために預言を行い国が大きくなることを預言しました。数ある預言者の中で、その働きを放置して、逃げたのはヨナだけでした。2節には、「「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」」とあります。ニネベは、最初の権力者ニムロドによって建てられた町でした。3節を見ると、「しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とあります。預言者とは、神様の言葉に忠実に従って行動する人です。この度も、ヨナは神様の事をニネベの人々に伝える者として、神様のご命令を受けたのです。けれども、ヨナは、神様のご命令、ニネベに行くことから逃れようとニネベとは正反対のタルシシュに向かったのです。ニネベはイスラエルから東方の約900㎞離れた所です。東京から福岡県ぐらいの距離です。タルシシュは、スペイン南部にある町で、当時の世界の地の果ての西方の町で、イスラエルから約4000㎞の場所にある町でした。ニネベの町とは正反対の遥か遠い場所に行こうとした。放蕩息子が父の元からはるか遠い場所に行きましたが、それ以上の距離のある場所に逃げようとしたのです。ヨナは、どうして神様のご命令に従わなかったでしょうか。ヨナは、なぜアッシリアの首都ニネベの町の人々、異邦人に語らなければならないのかと感じたのでしょう。ヨナ以外の預言者たちは、イスラエルやユダに対して、つまりユダヤ人に対して語っている。預言者オバデヤは異邦人にも語りましたが、それは、裁きと破壊を語るように命じられたのでした。預言者ナホムは、ニネベが破壊されることを預言しました。ヨナは同じニネベについてですが、ニネベの人々が悔い改めて、救われるようにと遣わされるのです。異邦人が救われることは、ユダヤ人のヨナにとっては理解できないことでした。また、アッシリアという国は、残虐な国民で、アッシリアが強くなったのは、征服する時に残虐な行為を行い、周囲の国に見せしめとしたのです。ですから、周囲の国の人々は、恐怖によって降伏したのでした。そんな国の首都ニネベに行けと言われる神様のお心が、ヨナには理解できなかったのです。それは、神様がヨナ、ユダヤ人を愛しておられるように、異邦人をも愛しておられるということなのです。

 二、神様の懲らしめではなく、神様の導き

 神様は、ヨナに敵に神様の憐れみを伝えるようにということでした。イエス様が言われた「迫害する者のために祈れ」ということでしょう。ニネベの町には、12万人以上いたと4章の最後に記されています。そんな大勢の所に行って、「悔い改めなさい」という勇気がなかったのでしょう。ユダヤ人には語れても、異邦人には語りたくなかったのです。

 3節には、「主から逃れようと」という言葉が2回繰り返されています。新改訳聖書では、「主の御顔を避けて」とあります。創世記3章には、アダムとエバが神様のご命令を破った時、神様が園の中を歩く音が聞こえた時、「アダムと女が、主なる神の御顔を避けて」(創世記1:8)とあるのと同じです。罪を犯した者、神様のご命令を破った者、神様に従えない者は、神様の顔を避けるようになるのです。今、あなたは神様の顔を避けるようなことがあるでしょうか。

 ヨナは、ヤッファという港町に着くと、「ヤッファに下ると、折よくタルシシュ行きの船が見つかったので、船賃を払って乗り込み、人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とあります。グッドタイミングでした。ヨナにしてみたら、こんなタイミングで、タルシシュ行きの船があって、「神様の御心はニネベではなく、タルシシュ行きなのではないか」と思わせるような状況だったのです。確かに、神様の時というものがあります。神様はタイミングよく、困っていたら助けが与えられたということがあります。神様のタイミングは勿論あります。しかし、タイミングだけで考えるなら、ヨナのタルシシュ行は神様の御心、神様の導きということになります。それをタイミングだけで、神様の導きとしてしまってはいけないのです。やはり、聖書の言葉、神様の言葉に聞くということです。神様の言葉は、御心は、「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」でしたから。神様の言葉を差し置いて、タイミングや状況を優先してはならないことを聖書は私たちに示しているように思うのです。ヨナは、大きな船、人ごみの中に隠れて、神様から逃げようとしました。「人々に紛れ込んで主から逃れようと、タルシシュに向かった。」とありますが、どのように多くの人ごみの中に埋没しようとも、神様の目から隠れることなどできないのです。4節、5節には、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」とあります。神様は、「大風を海に向かって放たれた」のでした。原文では、「そのとき主は、海に大きな風を投げつけた」とあります。神様のお心が現れているような表現です。神様から逃げたヨナに、神様が「大風を海に向かって放たれた」のです。神様のヨナに対する懲らしめとも考えられます。神様の言葉を語る務めを担っている預言者が、その使命を全うしないで、神様から逃げたのですから、神様に懲らしめられても仕方のない事です。しかし、これは、神様の懲らしめではなくて、ヨナを預言者として、神様の言葉を語る使命を実行させるための、神様の愛の導きだと思うのです。私たちも、神様のお心が理解できないで、神様に従えない時があります。神様の働きを放棄してしまうことがあります。そのような時、神様の懲らしめのような悪い事、病気になるとか、勉強や仕事がうまくいかないとか、人間関係が悪くなるということがあります。でも、それは神様の懲らしめではなくて、神様が私たちに再び、神様の尊い働きに戻すための導きであることを私たちは覚えたいのです。

 三、弱さの中でこそ神様の力が働く

 船乗りたちは、嵐のために恐れて、自分の信じる神様に助けを求め、積み荷を海に投げ捨てました。助かるための何らかの努力をしていたのです。一方、ヨナはというと、「しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」と聖書は語ります。今日の説教題は、この箇所から「悪い奴ほどよく眠る」とつけました。「悪い奴ほどよく眠る」とは、1960年に公開された日本映画、黒澤明監督の作品です。公団の汚職で死に追いやられた父の復讐を果たそうとする男(三船敏郎主演)の姿を描いた作品です。真の悪人ほど、罪や罰を逃れて、淡々と生きているものだ、ということなのでしょう。悪人というほどではないでしょうが、まさに、ヨナの姿と重なりました。6節には、「船長はヨナのところに来て言った。「寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。」」とあります。ヨナこそ、預言者として、このような大変な時こそ、神様に助けを求める存在なのです。それを、船長から言われてしまうのです。7節を見ると、「さて、人々は互いに言った。「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。」そこで、くじを引くとヨナに当たった。」とあります。くじを通して、災難はヨナのせいであることがわかりました。人々は、ヨナの仕事や住所、どこの国や民族の出身かを問いただしました。9節、10節には、「ヨナは彼らに言った。「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。」

人々は非常に恐れ、ヨナに言った。「なんという事をしたのだ。」人々はヨナが、主の前から逃げて来たことを知った。彼が白状したからである。」 ヨナは、ヘブライ人で天地を創造された神様を畏れる者で、その神様から逃げてきたことを告白し、人々は非常に恐れたのです。ヨナは、預言者として恥ずかしい経験をしました。私も、30年以上も前に、阪神高速道路で、制限時速60キロを105キロで走って、パトカーにつかまり、パトカー乗り、尋問されました。その時、「ご職業は」と聞かれて、「自由業」とは言わずに、「キリスト教の牧師です」と答えました。すると警察官は、「とてもいそいでおられたのでしょうね」と急にやさしくなりました。そして、プロテスタントとカトリックの違いを聞かれて、説明した覚えがありましたが、牧師として恥ずかしい経験でした。

 人々は、ヨナを「どうしたらいいか」と尋ね、12節には、「ヨナは彼らに言った。「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」」とあります。そんなことはできないと船を陸に戻そうとしましたが、海が荒れてどうしようもないので、

人々は、「ああ、主よ、この男の命のゆえに、滅ぼさないでください。無実の者を殺したといって責めないでください。主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから。」と言って、ヨナを海に放り込んだのです。すると、荒れ狂っていた海は静まったのです。16節には、「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」とあります。

 ヨナが神様のご命令に従わないで、神様から逃げたために、多くの人々の命が危険にさらされました。ヨナも預言者として恥ずかしい経験をしました。ヨナのこの世に対する恥ずかしい経験ではありましたが、その失敗や問題を通しても神様は、「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、誓いを立てた。」ということが起こりました。リビングバイブルには、「人々は主の前に恐れ、いけにえをささげて、主に仕えることを誓いました。」とあり、「主を畏れ」とは、神様を信じる者になったのです。ヨナの失敗、恥ずかしい事を通しても、神様はみ業を起こされたのです。私たちのキリスト者としてのこの世における失敗や恥ずかしい事を通しても、神様は神様のみ業をなさるお方であることを覚えたいのです。

 Ⅲ結論部

 2章1節には、「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」とあります。ヨナは、この嵐が自分の神様に従わなかったことであることを理解して、人々に海の放り込むように言いました。それは、自分の死を覚悟していたということです。預言者として、神様のご命令を無視して、逃げた自分は預言者として、神様の言葉を語る者としては失格者、ダメな預言者で死んで当然だと思っていた。しかし、神様は違いました。「主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。」のです。神様はヨナを守られたのです。ヨナにはまだ使命があったのです。ヨナはあきらめても神様はあきらめないのです。「ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」とあります。パウロも、復活のイエス様に打倒され、三日間、目が見えず、食べも飲みもしない日を過ごしたのです。ヨナも三日間魚の腹の中にいました。「腹の中」の「腹」は「母の胎」を意味する言葉のようです。魚の腹の中で、新しい命が宿る。腹の中から新しいヨナが、生まれ出ることを意味しているのです。魚の腹の中は、「深い淵、滅びの穴、苦悩、闇と死の陰、黄泉、海の深み」を意味し、その中にヨナは置かれたのです。しかし、その中からヨナは新しくされるという希望があるのです。イエス様は、マタイによる福音書12章39節、40節で、「イエスはお答えになった。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」」と語り、御自分の十字架の死と埋葬に関して語られました。イエス様は全人類の罪の身代わりに十字架で死んで三日間墓に葬られたのです。救い主なるお方が、墓の中におられた。罪を負われたのです。しかし、それで終わったのではなく、三日目に復活され罪と死に勝利されたのです。私たちは、イエス様の十字架の死と復活を通して、全ての罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。

 2節、3節を見ると、「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。苦難の中で、わたしが叫ぶと/主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると/わたしの声を聞いてくださった。」とあります。ヨナは自分の神様に対する態度で死を覚悟しました。けれども、神様は巨大な魚を通して助けて下さった。もう自分は神様に祈れないと思ったでしょう。しかし、神様から逃げる自分を、失敗した自分を、預言者としてふさわしくない自分を神様は目を留め守って下さった。その神様の愛に触れて、祈りをささげることができたのです。神様に従えないような預言者として風上にもけない自分を助けて下さった。神様から逃げて、神様から目を話していた目で、神様を見上げたのです。神様の深い愛に触れたのです。10節には、「救いは、主にこそある。」と告白しているのです。ここから新しい預言者ヨナが誕生するのです。11節には、「主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。」とあり、ヨナは預言者として再び立つのです。

 ヨナは、自分には何もよきものはありませんでした。預言者としてふさわしいものは何一つない。神様に責められる事柄ばかりです。しかし、ヨナの弱さや失敗、恥ずかしさを通しても、神様はご自身のためにみ業を起こし、救われる者を起こされるのです。もう誰もヨナを預言者として認めなくても、神様は認め、その働きに再び召されるのです。

 私たちは、キリスト者としての信仰生活を送っています。しかし、家族や友人、知人の前で、「それでもクリスチャンか」と言われるような、思われるように失敗をしたり、神様の顔に泥を塗るような経験があり、キリスト者として恥ずかしい経験をすることもあります。与えられた奉仕を放棄したり、信仰から逃げたりすることもあります。自分で自分をキリスト者として、認めず、落ち込み、悶々とすることがあります。けれども、神様は、私たちを神の子として認め、私たちをキリスト者として回復させ、新しい歩みをさせて下さるのです。ヨナが告白したように、「救いは、主にこそある。」のです。私たちの信仰云々や努力や頑張りではないのです。何もできなくても、失敗ばかりでも、弱くてもいいのです。神様は私たちと共におられ、私たちを支え導き、守られるのです。逃亡者ヨナをいつも守り導かれたように、私たちが神様に目を留めず、背を向け、逃げ出しても、神様は私たちをつかんでいて下さるのです。神様の愛に触れさせて下さり、ヨナがそうであったように、神様を見上げ、神様に祈る者とさせて下さるのです。祈りの答えは、祈る人にはわかるものだからです。大丈夫。神様はあなたがどうであれ、あなたと共におられます。今週も、イエス様に目を留めて、イエス様を信頼して、イエス様に全ての重荷を委ねて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年6月30日)

2024-06-30 13:11:43 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第五)    2024.6.30

         「どんな所も恵みの場所となる」使徒16:25~34

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第五の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。今日で2024年も半分が終わります。あと半年で2024年も終わります。残された半年の間、神様の導きと助けの中を歩んでいきたいと思います。

 先週は、塚本良樹先生が詩篇19篇を通して、自然の中に神様の存在が豊かにあることを示して下さいました。信号待ちの間、何かを待つ少しの間、スマホを見るのではなく、神様の創造の御業、空を見上げましょうと語って下さいました。スマホを見る時間と、神様を見上げる時間どちらが多かったでしょうか。私たちは、今日も神様に、神様のお言葉に目を留め、耳を傾けたいと思うのです。今日は、使徒言行録16章25節から34節を通して、「どんな所も恵みの場所となる」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、どんな状況も環境も、賛美と祈りを妨げることはできない

 パウロとシラスが、どうして牢の中にいるのかというと、パウロが女奴隷から霊を追い出したことからでした。女奴隷の主人たちは、霊による占いによって金儲けをしていましたが、霊が出た女奴隷は占いができなくなり、金儲けの道が断たれました。主人たちは、パウロとシラスを高官たちに引き渡し訴えました。「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」(16:20-21)と。パウロとシラスは、キリスト者であるというのではなく、ユダヤ人であるがゆえに、苦しめられたのです。群衆までが、パウロとシラスを責め立てて、公職にある高官たちは、取り調べもせず、群衆を満足させるために、二人の衣服をはぎとり、鞭打たせ牢に入れたのでした。

 パウロとシラスは、命がけでイエス様を伝えたということとは、全く関係なく、ユダヤ人差別による投獄であり、苦しみでした。人を救ったために、人を守ったことのゆえに、良い事のために苦しむというのなら、その苦しみを少しは理解できるのでしょう。自分の苦しみや痛みの価値と意味が関係しているなら、少しは堪えることもできるのでしょう。けれども、パウロとシラスの苦しみや痛み、投獄は、価値と意味と全く結びつかない不当な苦しみ、理不尽なことでした。私たちが、信仰生活の中での多くの苦しみや痛みというのは、価値や意味と直接は結びつかないことにおいて、苦しむのではないでしょうか。

 25節には、「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」とあります。「真夜中ごろ」というのは、闇がより一層深まる時です。パウロとシラスの状況をよく表す言葉です。真夜中、牢の一番奥から聞こえてきたのは、パウロとシラスが神様を賛美する声と祈りの声でした。「真夜中ごろ」というのは、「真夜中になるまで」と訳されることがあります。パウロとシラスは、牢に入れられた時から、真夜中になるまで、ずっと、賛美と祈りを続けていた。礼拝していたということになります。無実の罪で、理不尽にもローマの市民権を持つ者は、民主的な人権で取り扱われるシステムがあるのにもかかわらず、裁判にもかけられず、弁明さえもできず、理不尽な方法で鞭打たれ、投獄された状況の中で、つぶやきと呪いとあきらめの声だけがこだましている牢において、暗闇の牢が神様を賛美する場所、祈りの場所、礼拝の場所となったのです。つぶやいたところで、人を呪ってみても、あきらめたところで、状況は何も変わらない。誰が悪いのかと原因を突き止めても、犯人が分かっても、苦しみはなくなるものではないのです。しかし賛美と祈りには、状況を一変させる力があるのです。

 「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」とあります。つぶやきと呪いとあきらめの声だけがこだましている牢で、賛美や祈りは信仰ある者にはいいでしょうが、信仰のない囚人たちには、ただの雑音になりかねない。他の囚人から、「うるさい、黙れ。」と言われても仕方のない事です。しかし、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」というのが現実でした。囚人たちは、今まで生きてきて一度も聞いたことのない賛美、祈りの声だったでしょう。囚人たちは、賛美と祈りの言葉の意味も何も分からなかった。しかし、「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。」のです。聞いたことのないヘブライ語の賛美と祈りを「聞き入っていた。」、好んで聞いていたのです。パウロとシラスの賛美と祈りには、人が生きるためにとても大切な真理があったのでしょう。そのようなことを思わせる福音の響きというものが伝えられたのです。私たちの神様にささげる賛美や祈り、礼拝が、家族や知人、友人に理解できなくても、神様は「聞き入っていた。」ということを起こして下さるのですから、私たちは神様に向けて賛美と祈り、礼拝をささげ続けたいのです。

 二、賛美と祈りは力となり、神のみ業を起こす

 パウロとシラスは、苦しみと痛みの中で、理不尽な状況の中で、どうして神様を賛美し、祈ること、礼拝することができたのでしょうか。パウロとシラスに問うてみるなら、次のような回答があるように思うのです。「私たちにとって、牢の中でも外でも、どこででも神様を賛美し、祈り、礼拝するように、同じように、賛美し、祈り、礼拝しているだけのことです。たとえ、このように投獄されても、私たちが神様に賛美すること、祈ること、礼拝することを妨げるものは何もないのです。神様と私たちを隔てるもの、引き離すものは何もないのです。環境がどのように変わろうとも、私たちは、いつもしているように、神様に賛美をささげ、祈り、神様を礼拝するのです。」と。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:35)、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39)とパウロはローマの教会に語っています。

 パウロとシラスにとっては、自分たちの苦しみや痛みの意味があるかないかということは、たいして重要な事ではなかったのかも知れない。意味は神様が知っておられるならそれでいいのでしょう。パウロとシラスにとって、大切なことは、牢の中であろうと外であろうと、環境がどのようであろうとも、自分たちの存在は、神様の前にあるということです。神様がパウロとシラスと共におられるという事実なのです。パウロとシラスが、理不尽に取り扱われようとも、不当な苦しみを経験しようが、投獄されても、最悪な環境でも、神様に目を留め、賛美し、祈り、礼拝することができたのです。

 26節には、「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」とあります。パウロとシラスの祈りに神様は答えて下さいました。大地震によって、「たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」のです。27節には、「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。」とあります。

看守にとっては、牢の戸がみな開いているということは、囚人が逃げたことを意味し、人生の終わりを意味するものでした。看守は、逃げた囚人の代わりに責任を取らされることになり、囚人全員が逃げたとなると死刑になるほかはないのです。だから、自害しようとした。28節には、「パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」とあります。囚人が全て逃げてしまったと思った。死ぬしかない。そう思い、自害しかけた。しかし、パウロの言葉でとどまります。29節、30節を見ると、「看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、

二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」」とあります。看守にとっては、何が何かわからない。声のするパウロの所に行き、「パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し」たのです。ここに囚人であるパウロとシラスと看守の立場が逆転したのです。看守には、パウロとシラスの神様に対する賛美の声や祈りの声が聞こえていたのでしょう。そのような神とは全く関係がないと思っていた。看守は、その神様と今向き合うようになるのです。牢の戸がみな開いて、囚人が誰一人も逃げていない状況を「良かった」の一言では済まされないのです。この現実の前に、神の前にひれ伏した。パウロとシラスは、犯罪人ではなくて、神の使いのように感じられたのでしょう。神様は神様の方法で、み業を起こされるのです。パウロとシラスの祈りは神様の前に届いていたのです。私たちが、どのような悪い状況や劣悪な環境に置かれていても、そこで祈る祈りに神様は聞いていて下さるのです。

 三、福音と伝え、福音によって家族は救われる

 「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」という看守の問いに、パウロとシラスは答えるのです。31節です。「二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」」と。「あなたも家族も救われます。」というのは、家族の中で、一人がイエス様を信じれば、他の家族も自動的に芋ずる式に救われるということではないでしょう。家族の中で、私は救われたのに、私の夫は、妻は、親は、子どもはなかなか救われない。この聖書の言葉は真実ではないと考えている方々もおられるのでしょう。

「家族も救われます。」というのは、イエス様を信じる信仰に基づいて、家族を形成する時に、家族も救われるということでしょう。自分一人だけの信仰、一人よがりの信仰ではないということです。キリスト者である私たちが、教会の礼拝に出席している時、教会に行っている時、信仰のない家族、キリスト者ではない家族は寂しい思い、辛い思いをしてはいないでしょうか。私たちが、キリスト者としての信仰生活が送れているのは、守られているのは、家族の我慢や寂しさ、礼拝や教会に行くことを認め、それを許してくれている家族の努力の上にあることを知っているでしょうか。認めているでしょうか。自分の礼拝生活、教会生活が守られていることを家族に感謝しているでしょうか。家族を愛し、大切にしているでしょうか。私たちが、キリスト者としての信仰生活は、家族の支えや家族の思いに支えられていることを決して忘れてはならないのです。こんなにも祈っているのに、うちの家族は、聖書も読まないし、礼拝にも来ないし。ダメです、とレッテルを張ってしまっていることはないでしょうか。そのような一人よがりの信仰は、「囚人たちはこれに聞き入っていた。」ということは起こらないのでしょう。私たちは、家族の支えがあってこそ、初めて自分の信仰が守られていること、支えられている事を家族に感謝したいのです。

 私のために十字架で死んで下さったイエス様は、家族一人ひとりのために死んで下さり、蘇られたのです。イエス様の十字架と復活、福音を通して私たちが救われたように、私たちの家族もイエス様の十字架と復活、福音によって必ず救われるのです。ですから、家族に福音を伝えるならば、家族は救われるのです。だから、家族に福音が伝わるように、私たちができることをやりたいのです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」というみ言葉は、真実であり、その通りになのです。看守と家族は、イエス様の十字架と復活、福音を通して救われ、洗礼を受けることができたのです。イエス様を信じるだけで救われるのです。イエス様や神様の事を、聖書に書いてあることを全て理解しないといけないということではありません。そもそも、信仰というものは、自分が神様のことを全て理解し、納得した上で信じるということではないのです。イエス様を信頼することであり、イエス様に自分の事をお委ねし、自分を預けることなのです。

34節の後半には、「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」とあります。このことは、私たちにも起こることだと聖書は語るのです。私たちは、疑わないで、家族にどうしたら福音を伝えることができるのか、聖霊の導きと兄弟姉妹の助けによって、実行できるように、共に手を携えて歩んでいきたいと思うのです。

 Ⅲ結論部

 パウロとシラスの置かれた場所は、牢の一番奥の明かりが全くない最悪の場所でした。場所だけではなく、理不尽な理由で、鞭打たれ、全身が鞭打ちの傷で痛んでいたのです。自分たちを訴えた女奴隷の主人や裁判もせずに鞭打たせ投獄した高官や、何も知らずに自分たちを責め立てた群衆を憎み、呪い、胸の内を吐き出すことはできました。環境も状況も最悪でした。しかし、パウロとシラスは、「それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」(使徒言行録5:41a)とあるように、パウロとシラスはイエス様の理不尽な不当な十字架の痛みと苦しみを思うと感謝が溢れて来たのではないでしょうか。迫害者パウロのために、罪あるシラスのために、罪のない神の子イエス様が、無実のために、十字架で父なる神様に裁かれ、、尊い血を流し命をささげて下さった。イエス様の苦しみと痛みのゆえに、今の自分がいる。こんな者が、イエス様と同じ苦しみを受けていること、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」とあるように、賛美と感謝、祈りが自然と口から出てきたのでしょう。環境は関係ありません。今の状況がどうだこうだは、関係ありません。今あなたの置かれた所が、自分にとっていやでも、苦しくても、最悪でもイエス様がそれを許しておられるということです。イエス様が、あなたの苦しみと痛みを知っておられるということです。大丈夫、今あなたの置かれた場所が、どんなに辛く見えても、イエス様に、イエス様の愛に、イエス様の十字架と復活に目を留め、イエス様を思う時、どんな場所も恵みの場所であることが分かり、感謝と讃美があなたの口から発せられるのです。さあ、今週も安心してイエス様に全てをお任せして、信頼して、イエス様がいつも共におられることを信じて歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(24年6月23日)

2024-06-23 16:45:57 | Weblog

主日礼拝

2024年6月23日

あなたに語りかける神

詩篇19篇(新共同訳)

 

1導入部

みなさん、おはようございます。一言、お祈りをします。…

今年の1月以来の奉仕になりますので、はじめましての方もいらっしゃるかと思います。最初に自己紹介をしたいと思います。塚本良樹と申します。私は、2018年から2021年3月まで、この教会で青年担当牧師、ユースパスターとして奉仕していました。本当にお世話になりました。また、この教会で結婚式を挙げさせていただきまして、本当に感謝しています。今はだいたい年に2回のペースで来させていただき、ご奉仕させていただいています。

さて、私がこの教会にいたときから、詩篇を連続して語らせていただいていました。前回は18篇でしたので、今日は19篇から語らせていただきたいと思っています。

 

2本論部

一 あたなに語りかける神

本日のメッセージのタイトルは「あなたに語りかける神」としました。あなたは、今、神様の声が聞こえているでしょうか。物理的に、肉声として、聞いたことがある、今聞こえているという方もいらっしゃるかもしれませんが、私を含め、物理的には聞いたことがない、聞こえていないという方が多いかと思います。それでも、物理的な肉声ではなくとも、神様は、今日もあなたに語りかけているのだ、というのが今日みなさまに覚えて帰っていただきたいことです。

神様が、今日(こんにち)あなたに語りかける方法、神様の語り方が、今日読まれた詩篇には描かれています。それは、第一に、被造物、つまり神様に造られたこの宇宙、自然界、そして私たち人間を通して。そして、第二に、律法、つまり聖書のことばを通して、神は、今日あなたに語られている。そのことをご一緒に確認していきたいと思います。

 

二 被造物を通して語られる神

それでは、早速1節からをご覧ください。なお、この前の詩篇でもそうでしたが、新共同訳は前文から1節と数えますので、新改訳・口語訳の聖書をお持ちの方は一つずれますので、ご注意ください。

 

19:1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】

19:2 天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。

19:3 昼は昼に語り伝え/夜は夜に知識を送る。

19:4 話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても

19:5 その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向かう。そこに、神は太陽の幕屋を設けられた。

19:6 太陽は、花婿が天蓋から出るように/勇士が喜び勇んで道を走るように

19:7 天の果てを出で立ち/天の果てを目指して行く。その熱から隠れうるものはない。

 

 ここでダビデは言います。「」は「神の栄光」、つまり神の素晴らしさを「物語」っている。「」は、神さまの素晴らしさを語る説教者、メッセンジャーのような存在である。そして、「大空」は、神の「手の業」、つまり神の力、もっと言えば、神さまが造られた創造の素晴らしさを「」している。「大空」は、神のみわざを示す伝道者のような存在だと言います。

 「昼は昼に」「夜は夜に」という表現は、「一日中」という意味があるそうです。私たち人間は、夜は寝ますが、「」は、「大空」は、太陽は、月は、24時間365日、神さまの素晴らしさ語っていると言うのです。しかも、「話すことも、語ることもなく/声は聞こえなくても」とあります。物理的には、肉声では何も聞こえません。でも、「その響きは全地に/その言葉は世界の果てに向か」っている。そして、そこから、世界の果てから、「太陽」が昇るとき、「花婿」が、結婚式のために出ていくように、戦いに勝利した「勇士が喜び勇んで道を走るように」、太陽は喜びとともに昇っていると言います。

 7節の最後に、「その熱から隠れうるものはない」とあります。太陽は、この世界、全体を照らしています。クリスチャンであっても、そうでなくても、善人でも悪人でも、太陽の恩恵を受けない人はいません。神様の愛が、太陽を通して、全世界の人に注がれているのだと言うのです。

 

三 スマホから目を上げて、自然を見てほしい!

 確かに、私たちは、自然を見ると、天を、大空を、太陽を、月を、星を、あるいは大自然を見るとき、神さまを感じることができます。神さまってすごいな、って思う。私は学生時代にネパールという国に行ったとき、ヒマラヤ山脈のふもとで、山々を見上げたとき、不思議と、「ああ、神さまがおられる。神さまってすごいな」って思った。実は、そこで、神さまに人生を捧げたいと思わされたのですが、クリスチャンでなかったとしても、人間を超えた何かを感じると思います。

ヒマラヤみたいな分かりやすい大自然、美しい自然を見るときだけではなく、みなさんは日々、どれくらい自然を見て、そのなかで神さまを感じておられるでしょうか。私たち家族が住んでいる多摩ニュータウンは、自然豊かなところで、我が家も森の中にあるのですが、駅まで向かう道の途中、全然変わらない信号があるのですが、信号待ちをするとき、木々を見ると、神さまが造られた自然の美しさに感動すると、妻が言っていました。

私は信号待ちの間スマホを見てしまうことが多いので、あまり気づかないのですが、ぜひ、今週スマホから目を上げて、天を、大空を、太陽を、月を、星を、木々を、見つめていただきたいのです。そのとき、神さまがそれらを通して語っていることが聞こえると思うのです。

 

四 イエスを通して現された神の愛は聖書を通してしか分からない

 このメッセージの後、賛美するのが、「輝く日を仰ぐとき」という賛美ですが、その賛美の1、2番では、まさに、自然界を通して、月や星、雷、そして森のなかの鳥の音、山、谷間に流れる川を通して現される神さまの素晴らしさ、偉大さが謳われています。

この曲の3番では、このように謳われています。「御神は世人(よびと)を愛し 一人の御子を下(くだ)し 世人の救いのために 十字架にかからせたり」。この宇宙を、世界を造られた神は、この世界を、私たち一人ひとりをあまりにも愛するゆえに、独り子であるイエス・キリストをこの世界に送られ、十字架にかからせられた。

当たり前のことですが、そのことは、いくらこの自然を見ていても分かりません。空をじっと見ていたら十字架が映ってきたということが、絶対にないとは言いませんが、基本的には、私たちがどうやって、イエス・キリストを通して現された神の愛、神の素晴らしさを知ることができるのか、それはこの聖書を通してです。

 

五 聖書はどのような書物か?

聖書という書物は、「神のことば」であると言われます。それは、神様が直接語ったことば、セリフが書かれているという意味もなくはないが、聖書には、神さまが直接語ったことだけが語られているのではありません。むしろ、ほとんどが物語、あるいは詩(ポエム)や手紙です。それを通して、それが聖書としてまとめられたということを通して、神様の想い、神様の心が現されている。ここ(聖書)には、神様の想い、心が詰まっている。それが形になったのがこの聖書という書物なのです。

そして、その聖書が、どのような書物であるかということが、詩篇19篇の後半で語られています。8節(新改訳・口語訳ですと7節)からをご覧ください。

 

19:8 主の律法は完全で、魂を生き返らせ/主の定めは真実で、無知な人に知恵を与える。

19:9 主の命令はまっすぐで、心に喜びを与え/主の戒めは清らかで、目に光を与える。

19:10 主への畏れは清く、いつまでも続き/主の裁きはまことで、ことごとく正しい。

19:11 金にまさり、多くの純金にまさって望ましく/蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。

 

主の律法」とありますが、これは一義的には創世記から申命記までのモーセ五書を指すと思われます。そこには、いわゆるルール・戒律も含まれますが、ほとんどは物語です。

19篇は言うのです。神の、「主の律法は完全で」、人の「魂を生き返らせ」る。「」というのは、私たちの心も体も、全人格を指すことばです。そして、「生き返らせ」るというのは、「あるべき姿に戻す」という意味がある言葉です。神さまが、人間を、ご自身のかたちとして創造されたときに意図された生き方、つまり神を愛し、人を愛する生き方に私たちを全人格的に戻される。だからこそ、そこには真の「知恵」が、「喜び」が、「」があるのです。そして、それは、何か冷たい戒めやルールではなく、私たちを励まし、喜びを与える、ハチミツよりも「甘い」、美味しいものなのだと言うのです。

 

六 聖書を読むことの意義

ここに、私たちが礼拝に集うこと、あるいは日々聖書を読むことの意義があります。もちろん繰り返しますが、この自然を見れば、神さまの素晴らしさが分かります。しかし、それと同時に、聖書を読まなければ分からない神の愛、神の素晴らしさがあるのです。

ある人が、クリスチャンではない時代、初めて聖書を読んだとき、腹が立ったという人がいます。この人は、よく分からないながらも、聖書が自分のことを罪人だと言っていることは分かった。何様?と思ったと言うのです。

聖書を読まないと、私たちは自分に問題があることを、どんな問題があるかということを基本的に知ることはできません。もちろん、聖書がなくても、自分の弱さ、欠けを知っている人もいます。でも、その場合、逆に、神が、あなたを罪あるままで、愛しておられることは、聖書がないと分からないと思うのです。

最近、あるKGKの卒業生から聞いたことですが、彼女は信仰的にダウンしていたそうです。学生時代はたくさん聖書を読む機会があった、でも今はほとんどない。忙しくて読めない。頭では神様に愛さていることがわかっている。でも、自分の弱さばかり目について元気が出ない。そこで彼女は学生時代の友人と旅行に行き、一緒にたっぷり聖書を読んだ、KGKのテキストを使って聖書研究をしたそうです。すると、神の愛を実感することもでき、大きな喜びが与えられたそうです。

聖書は、ただあなたを罪人だと責めているのではない。罪人であるという現実を認めた上で、あなたを赦し、あなたを変えたいと願っておられる神がいるということが、聖書を読むときに分かる。弱さを知っているからこそ、罪を知っているからこそ、心に染みる神のことばがある。弱い人間のために、この世界のために、神がなしてくださったこと、私たちを幸せにするために、神がこのように生きてほしいと願っていることが描かれているのが、この聖書という書物なのです。

 

七 聖書の命令を守れないときの祈り

だから言うのです。12節(新改訳・口語訳ですと11節)。

 

19:12 あなたの僕はそれらのことを熟慮し/それらを守って大きな報いを受けます。

 

そのような聖書のことばを受け取り、「熟慮」し、「それらを守」ることで、「大きな報い」がある、幸いのなかを、喜びのなかを生きることができる。

でも、私たちの実体験として、聖書の命令を守ることは、神が願っているように生きることは簡単なことではありません。よくクリスチャンではない方が、クリスチャンは立派な人だと勘違いしていることがあります。もちろん、比較的立派な方もいるので、そのように思ってくださることには感謝していますが、私を含め、クリスチャンであったとしても、クリスチャンではない方と同じように、不完全な罪人であるというのが、聖書の教えです。

だからこそ、13節(新改訳・口語訳ですと12節)からには、このようにあります。

 

19:13 知らずに犯した過ち、隠れた罪から/どうかわたしを清めてください。

19:14 あなたの僕を驕りから引き離し/支配されないようにしてください。そうすれば、重い背きの罪から清められ/わたしは完全になるでしょう。

19:15 どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない/心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。

 

 ここには、罪から清められることを、そして、罪から離れ、正しく語り、考え、全(まった)き生き方ができるようにしてくださいと願う祈りが書かれています。

 

3結論部

聖書を読むとき、私たちは知るのです。私たちが罪人であるということを。そして、そこから清められる必要があることを。そして、私たちをきよめてくださる方には、私たちを造り変えられる力があるということを、私たちは聖書を読むときに、知ることができるのです。

 「輝く日を仰ぐとき」の4番はこのような歌詞です。「天地(あめつち)造りし神は 人をも造り替えて 正しく清き魂 持つ身とならしめ給う」。

 この詩篇の前半に書かれてあったように、自然を見るとき、スマホから目を上げて、天を見上げるとき、神の素晴らしさを感じることができます。この神は、大いなる御神は、イエス・キリストの十字架の犠牲によって、あなたをきよめようと、そして、あなたを造り変えようと待ち構えておられる。神は、この朝、あなたに語られているのです。この自然を通して、そして聖書を通して語っているのです。わたしはあなたをきよめたい。あなたを造り変えたい。あなたに幸いを、どんな状況に置かれても変わらない喜びを与えたい。

今日から始まる一週間も、神様の想いが詰まったこの自然を通して、そして聖書を通して、あなたに借り続けてくださるでしょう。神の語りかけを聞きながら、赦され続け、きよめられ続け、造り替えられ続ける歩みへと、神はこの朝あなたを招いておられます。あなたに語りかけられています。この主の招きに、あなたへの語りかけに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(24年6月16日)

2024-06-16 12:48:53 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第三)         2024.6.16

           「父よ、あなたは愛だった」ルカによる福音書15:11~32

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第三の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。今日は父の日です。第二礼拝では、教会学校の子どもたちとの合同礼拝となります。母の日は、その起源がはっきりとしておりますが、父の日は、母の日があるのに父の日がないとかわいそうということで、

5月の第二日曜日が母の日なので、6月の第三が父の日ということです。私は誕生日が6月で、大体父の日前後で、誕生日と父の日が重ねられて一つになってしまうことがほとんどです。ちょっと悲しいやら切ないやらの6月を迎えております。

 「父の日川柳」というものがありますので、紹介します。

 母の日の ついでに父の日 ありがとう  大丈夫! 覚えてますよ 父の日も

 いらないよ そういいながら はずむこえ  父の汗 見えない愛が しみわたる

 無口だけ 高倉健と 似てる父   父の日は かかあ天下も 定休日

 やさしさと愛が 詰まった メタボ腹   父の日が 母の日よりも 早ければ

 今日だけは ウケテあげるよ 親父ギャグ 照れくさい 父の日過ぎて プレゼント

 欲しいのは バラより トゲのない言葉  父の日も パパの財布で お寿司屋

 

 今日は父の日ですですから、せめて今日だけは、今日だけはお父さんをいたわり、お父さんの喜ぶ顔を見たいものですね。私も含めて。

今日は、ルカによる福音書15章11節から32節を通して、「父よ、あなたは愛だった」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、神様と共にいる今の場所が幸せな場所

 ルカによる福音書15章1節、2節には「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」とあります。イエス様が徴税人や罪人と交わっていることに関して、批判したファリサイ派の人々や律法学者に対して15章において、イエス様は3つのたとえ話をされました。今日の個所は、3つ目のたとえ話になります。11節は、「ある人に息子が二人いた。」ということからたとえが始まります。父と兄と弟に関するお話しです。現在は少子化です。昔のように大家族はあまりないのかもしれません。牧師の中には、大家族の方々もおります。住居や教育の問題を考えると子どもを二人以上産むことに躊躇する夫婦は多くおられるのでしょう。私の孫も兄と弟、二人兄弟ですが、とても元気がよく仲がいいです。今日出てくる兄と弟は、随分とタイプが違うようです。兄はまじめですが、一癖も二癖もありそうです。弟は、表面的には不真面目で、やる気のない感じでしょうか。よくドラマに、偉いさんのダメ息子というシチュエーションがドラマではあります。12節には、「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。」とあります。どうしようもないダメ息子です。「お願いですから、お父さん早く死んで下さい。」と言っているようなものです。無茶苦茶なお願いです。聞くべきお願いではありません。弟は、父が死んだ時にもらえる自分の財産を要求しました。ユダヤ人社会では、非常識なものでした。モーセの十戒の人間に関する最初の命令は、「あなたの父母を敬え。」(出エジプト20:12)という戒めで、子どもにとっては、親とは敬うべき存在であるということです。生きている父に、「財産よこせ」と唐突に要求したのです。普通の親なら、𠮟りつけ、神様の教えを示して、財産を与えられないと、断るのでしょう。しかし、「父親は財産を二人に分けてやった。」とあります。こういう親がいるから、我儘放題で、ダメな人間になっていくのだと教育評論家からは言われそうな父親像です。父は、今まで自分が蓄えて来た財産を全て、兄と弟に与えたのです。それは、簡単な決断ではなかったのでしょう。弟の性格をよく知っている父は、そのような莫大な財産を与えたら、財産を失ってしまうだろうことは、わかっていたのでしょう。それなのに、財産を分けた。財産を失って、苦しみや悲しみ、痛みを経験することによって、学び取るべきことが必要だと父は考えていたのかもしれません。父親は、弟に言われるままに、我儘に従って財産を分けたのです。弟は、莫大な財産をもらい大喜びでした。お金に換えて、一刻も早く父の束縛から不自由な生活から逃げたいと思い、荷物をまとめて遠い国へ行きました。「遠い国」という言葉の中に、弟の父に対する心が現れているように思われるのです。できるだけ早く、父の元から離れたかったのです。恵まれた生活の中で、恵まれていること、大切にされていることに気づかずに、自分の幸せは遠い国、できるだけ父から離れた場所にあると思っていたのです。私たちも、今置かれている場所が、恵みなのに、窮屈を感じたり、物足りなさを感じたり、新鮮さを感じないという今の恵みに気づかないで、つぶやいていることはないでしょうか。神様を信じる、イエス様と共にある人生は最高なのに、窮屈さやマンネリ、違う場所にこそ、幸せがあると思っていることはないでしょうか。

 二、勇気をもって神の元へ帰ろう

 13節の後半から14節には、「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」とあります。「放蕩」という言葉の原語は、「人を滅ぼすような生活をして」という意味を持っているようです。弟のお金の使い方は、自分の魂を生かすような生活ではなく、自分の魂を滅ぼすような生活だったのでしょう。自分で稼いだのではないお金は身がつきません。「財産を無駄使いしてしまった。」と聖書は語ります。弟は、自分の行きたい所に行き、住みたい場所に住み、自分のやりたいと思った生活をし、自分の思い通りの生き方をしたのでした。しかし、その自由が、自分の思い通りの生き方が、生き生きとして充実した生き方ではなくて、自分を破滅においやる生活をしたのでした。聖書は、「人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」(ガラテヤ6:7)と語ります。弟は、自分の選んだ生き方によって、その結果を刈り取ることになったのです。財産を失った時、「その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。」のでした。食べる物はなくなり、空腹で苦しみました。15節、16節には、「それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」とあります。豚の世話をするということは、ユダヤ人の弟には、我慢ならない事でした。背に腹は代えられないということでしょうか。ユダヤ人としては、人間以下の最も恥ずかしい仕事をしたのです。父から離れた者のみじめさを現わしています。それでも、空腹は満たされませんでした。「食べ物をくれる人はだれもいなかった。」これが現実でした。お金のある時は、多くの人が近寄ってきたのでしょう。金の切れ目は縁の切れ目とお金のない弟は必要ない、意味がないのです。彼は、故郷も父も見捨てましたが、今は人々から見捨てられた存在となっていたのです。弟を心配してくれる人はいませんでした。彼は人生のどん底に落ち込み、命の危険を感じた。人は落ちる所まで落ちた時、我に返ります。

 17節から19節には、「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。」とあります。彼は、「我に返って」、父から遠く離れている自分は、本当の自分ではなかったということなのです。自分が父と共にいたことは、どんなに恵まれていたのか。父の存在がどんなに大きく大切であったのかを知りました。自分の今の惨憺たる状況は、父の元から離れことから起きたことだと気づいたのです。そして、息子としてではなく、雇人としての人生を歩もうとするのです。

 20節の最初には、「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」とあります。弟は、自分の愚かさと父の偉大さに気づいただけではなく、自分の今までの人生を悔い改めました。そして、立ち上がり、父の家に帰るのです。私たちは、もっと聖書を読んだら、礼拝に出席してから、信仰生活が充実したら、神様を信じようという思いがないでしょうか。弟は、失敗したままで、罪を犯したままで、財産を全て浪費したままで、そのままの姿で、ありのままの姿で父のもとに帰るのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエス様は、今日私たち一人ひとりに呼びかけておられるのです。

 三、神様の愛は全ての人に(あなたに)

 20節の後半には、「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。弟は、父に受け入れられるかどうか不安でした。しかし、父は姿変わりした息子を見つけ、走り寄って抱きしめ接吻したのです。「走り寄って」とありますが、ユダヤ人はいつも裾までの長い服を着ているので、走るということはしません。特に、年配者や地位の高い人が走るということは恥ずかしい事とされていました。豚の世話をし、体を洗っていない弟の体臭は、それはとても臭いものだったでしょう。父は悪臭を放つ息子を強く抱きしめ、何度も接吻したのでした。弟は、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」と言いました。そして最後の言葉、「雇い人の一人にしてください」という言葉を父は遮り、22節、23節、「しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」と言いました。良い服も、指輪も、履物も息子であること、家族であることを証明するものでした。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。」とありますが、当時の人々は、滅多に肉は食べなかったようです。肉を食べるのは、特別な時だけでした。14日は私の誕生日でしたが、私も牛肉を食べました。「肥えた子牛」は、非常に大切な時に、重要な行事の時に食べる物でした。「肥えた子牛」は、200人分ほどあったようで、父は帰ってきた息子のために、村の人々を招いて宴会を開いたのでしょう。家出して、財産を使い果たした弟に、これらのものを受ける資格はありません。自分自身で言っているように、「もう息子と呼ばれる資格はありません。」なのです。悔い改めて戻って来た者を迎え入れる場合は、まず、家に入れることを許可し、食べ物と水を与え、そまつな布袋の着物を着せ、灰をまとって悔い改め、泣いて詫び、父の前にひれ伏すべきなのに、父は破格の歓迎をしたのです。死んでいた息子が生き返ったので、あまりの嬉しさに、喜んだのです。

 25節からは兄の事が記されています。一日の仕事を終え、疲れ切った体で帰ってきた兄でしたが、27節で「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」ということを知らされます。兄は、弟に対する父の行動が全く理解できなかった。理解できないどころか、怒りと憤りとで一杯でした。兄は家に入らず、弟の帰還を喜べなったのです。父が宥めます。兄は訴えます。29節、30節です。「兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」

 兄の言葉の中には、父から利益や報酬を得るために、ある種の義務感で働いていた。父に対して、愛や喜びをもって仕えていたわけではないことがわかります。兄が父のために働く動機は報酬でした。兄は弟の事を「あなたのあの息子」と呼び、他人扱いしています。

 父は、31節、32節で、「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と言いました。父と共にいることの幸せを弟は苦しみを通して理解しましたが、兄はまだ理解していないのです。父のものは長男のものです。利益や報酬を得るために働く必要はない。弟は、死んでいた。しかし、生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだから、「祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」と兄を諭したのです。兄の弟を責めるその態度を父は叱ることも、咎めることもしませんでした。兄の怒りや言い分を聞いたのです。父は、罪を犯し、ボロボロになった弟をそのままで愛し受け入れたように、自分は正しい所に立って、失敗し罪を犯した弟を責める兄をもそのままで愛し受け入れたのです。これこそが、父の愛であり、神様の愛なのです。神様は同じように、罪をある者、罪があるのに正しい所に立って裁く者を愛して下さるのです。そのしるしとして、神の子であるイエス様を人間の世界に送り、私たちの罪の身代わりに十字架の上で裁き、尊い血が流され、命が捧げられたのです。私たちの罪の身代わりに死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目に蘇り、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さるのです。

 Ⅲ結論部

 損得勘定から考えれば、弟は好きなことやりたい放題して、困ったら父に泣きついてきた身勝手な人間です。兄は自分の父に対して真面目に働いて損をしていると感じる。しかしよく考えると、兄は父といつも共に関係を持ち続けるというかけがえのない、ある意味の富や祝福を得ていたのです。毎日の生活も安全が守られ、何も心配することなく、恐れることもなく、父から多くのものを得ていたのです。

 兄は自分が正しいと思っている。それは、律法学者やファリサイ派の人々の生き方でした。自分が正しいと思っている人は、罪ある者が赦されることを喜びません。兄は父が弟を赦したことを喜べませんでした。兄は罪を犯した弟を裁く権利があると思っていた。それは、ファリサイ派の人々や律法学者たちの考えであり、生き方でした。ですから、兄は律法学者やファリサイ派の人々、弟は徴税人や罪人を現わしているのでしょう。最初に、15章の1節と2節の「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。」ということから、たとえ話が始まりました。弟も兄も神様の前には失われた存在であることを示されたのでしょう。弟も兄も父から離れた存在なのです。全ての人間は神様から離れ、罪ある存在です。私たちは、そのことをしっかりと理解し、神様のところに帰ることが最善の道であることを確認したいのです。

 神様は私たちがどのような存在であっても、弟のように神様から離れ、自分勝手に生きて罪を犯していても、そのままで愛して下さることを知り、真面目になってから、正しくなってから、神様のもとに帰るのではなく、罪人のままで、罪あるままで、そのままの姿で神様の元に行けばいいのです。そこで、「神様助けて下さい。」と神様に心を向ければいいのです。また、キリスト者であり、神様といつも共にいる者であっても、義務感や頑張り、正しさを求め、失敗したり罪を犯している人々を裁いたり、否定するのではなく、先にキリスト者にされていることをことを感謝し、神様と共にある幸せを感謝して日々歩みたいと思うのです。神様は愛の方です。私たちがどのような状況でも、どこに立っていても、私たちを受けれ、私たちを守り、導いて下さるお方なのです。私たちは、この週も愛のお方イエス様がいつも共におられます。その恵みを恵みとして感謝して、この週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(24年6月9日)

2024-06-09 12:38:59 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第二)         2024.6.9

            「食わず嫌いではありませんか」使徒言行録10:1~23

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第二の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様に賛美と礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 皆さんには、苦手なものがあるでしょうか。私は、魚が苦手です。魚が苦手というよりも魚の骨が苦手なのです。なぜ、魚の骨が苦手なのか。それは、小さい頃に、魚を食べていて魚の骨がのどに刺さり、とても苦しんだという経験があるからです。それは、過去の小さい頃の経験ですが、今でも魚は食べられますが、骨が口に触れた瞬間に、もう食べられなくなるのです。それは、過去の経験を通して、脳がイメージとして、無意識に、一瞬に、ネガティブ感情を紐づけしてしてしまったからのようです。魚、骨、怖い、痛い、苦しいという元となる脳内にイメージが形成されたようなのです。ですから、魚という言葉を聞いたり、魚の文字を見ると、いやな気持になる。ですから、魚という全ての種類が自分にとっては、苦手でかかわりたくないというものになっているのです。

 魚ではなく、人に対して苦手な意識があるという人も多くいるのではないでしょうか。仲が悪い人、威圧的な人、性格が合わない人、様々な理由があるのでしょう。東京バーサス大阪という、そこに住んでいるという理由だけで、その人の事は何も知らないのに、敵対感情を持ったり、偏見で決めつけたりすることが多くあるように思うのです。神様に選ばれたユダヤ人は、選民意識が強く、救いはユダヤ人だけに与えられ、ユダヤ人以外の人、異邦人には与えられないと考えていました。また、ユダヤ人は汚れたものから自分を守るために、食物規定があり、汚れた動物、つまり食べてよい動物と汚れていない動物、つまり食べてよい動物が決められており、自分たちを守るために、汚れた動物を遠ざけていたのです。そして、人間に対しても行われ、異邦人を汚れたものとみなし、自分たちを守るために、交わることをさけており、それは神様のお心ではありませんでした。

 人生は出会いで決まると言われます。それは、相手を好む、愛するという関係だけではなく、敵対している関係、好意を持てない関係においても、出会いで決まるということが起こるのです。今日は、使徒言行録10章1節から23節を通して、「食わず嫌いではありませんか」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、自分の信仰が神様に覚えられていることを信じる

 1節と2節を見ると、「さて、カイサリアにコルネリウスという人がいた。「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長で、信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」とあります。「カイサリア」は、新しい街で、ヘロデ大王が新しく造った大港湾都市をカイサリアと名付けたのです。町には、ローマ風の劇場や競技場、水道、皇帝アウグストを祭る神殿がありました。カイサリアがローマ帝国の直轄領となってからは、カイサリアに総督と軍団が駐屯してローマによるユダヤ支配の要の町となりました。カイサリアは、ローマによるユダヤ支配の象徴的なギリシャ文化の色濃い町でした。コルネリウスは、百人隊長で「信仰心あつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた。」と彼の事を説明しています。22節では、「百人隊長のコルネリウスは、正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人です」と説明しています。2節にある「神を畏れ」とは、旧約聖書に啓示されている神様を信仰する異邦人を指しているようです。彼らは、十戒および旧約聖書の清めの規則の一部を遵守しようと努力し、シナゴーグでの礼拝に参加していました。3節、4節には、「ある日の午後三時ごろ、コルネリウスは、神の天使が入って来て「コルネリウス」と呼びかけるのを、幻ではっきりと見た。彼は天使を見つめていたが、怖くなって、「主よ、何でしょうか」と言った。すると、天使は言った。「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」とあります。午後3時の祈りの時、天使がコルネリウスに、「あなたの祈りと施しは、神の前に届き、覚えられた。」と語りました。異邦人であるコルネリウスの信仰が神様に認められたということでしょう。私たちの祈りと施し、信仰は神様の前に届いているのでしょうか。私たちの信仰は神様に覚えられているのでしょうか。私は不信仰だから、不真面目だから、私の祈りは神様に届いていない。覚えられていないと思われているでしょうか。絶対にそんなことはありません。安心して下さい。私たちは自分の信仰や祈りは、確実に神様に覚えられ、神様に届いていることを確信したいのです。ペトロ第一の手紙5章7節には、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」とあり、神様は私たちの事を覚えておられるのです。

 5節、6節には、「今、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。

その人は、革なめし職人シモンという人の客になっている。シモンの家は海岸にある。」とあります。天使は、ペトロを招くように、ペトロの今の居所を教え、コルネルウスは、すぐに二人の僕と忠実な兵士一人をヤッファに送るのです。神様は異邦人の救いのために、異邦人のコリネウスとユダヤ人ペトロを出会わせようとされるのです。しかし、二人が出会う前に、ペトロに示すべきことがあったのです。

 二、自分の価値観や偏見にとらわれない

 今ペトロのいるヤッファという町は、古い街で地中海に面した港町です。ソロモン神殿に使用されたレバノン杉は、ヤッファの港町から運びこまれました。預言者ヨナは、ニネベの町に宣教するように神様に言われた時、ニネベとは反対の場所に行こうとしたのが、このヤッファでした。ヤッファは、エルサレムと密接につながる保守的なユダヤ教主義の町でした。ペトロは、ヤッファに来る前は、リダに住むアイネアという人を癒し、その後ヤッファにドルカスという女預言者がいて、病気になって死んだのでリダの弟子たちは、ペトロを呼び、ペトロはドルカスを癒し、そのままヤッファに残り、皮なめしシモンの家に滞在していたのです。そして、神様はコルネリウスにペトロを招くように示し、使いがペトロの所に向かっていた時のことです。

 9節、10節には、「翌日、この三人が旅をしてヤッファの町に近づいたころ、ペトロは祈るため屋上に上がった。昼の十二時ごろである。彼は空腹を覚え、何か食べたいと思った。人々が食事の準備をしているうちに、ペトロは我を忘れたようになり、」とあります。

ヤッファとカイサリアは、50㎞の距離にあるようですが、距離は近くても距離以上のものがありました。日本と韓国の関係を近くて遠い国と表現しましたが、近くても文化や習慣の違いや歴史的な事柄など、距離以上の存在であるように、ヤッファとカイサリアは、距離以上の文化や習慣の違い、ユダヤ人と異邦人という近づきがたい関係がありました。ですから、神様はユダヤ人側のペトロを取り扱おうとされるのです。昼の12時、祈りの時間にペトロは屋上に上がりました。祈るためでしょう。しかし、ペトロはお昼で空腹になり、我を忘れたようになった。夢心地になったのです。ペトロの空腹を用いられるのです。11節から13節には、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。」とあります。空腹のペトロにとって、「屠って食べなさい」というのは、良いタイミングでした。机に並べられたご馳走を前に、「どうぞ、お食べ下さい」と言われたらとてもうれしい事でしょう。けれども、ユダヤ人のペトロにとっては、我慢ならない事がありました。大きな布のような入れ物の中には、「あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。」ということが大問題でした。リビングバイブルには、「中には、ユダヤ人には食べることが禁じられていた爬虫類や鳥など、あらゆる種類の動物が入っていました。」とあります。「中には」とありますから、ユダヤ人でも食べられる動物もありました。ユダヤ人には食物規定があり、食べていいものと食べてはいけないものがありました。食べてはいけないものは、汚れたものとされ、食べることは勿論のことながら、触れてもいけないのです。ユダヤ人は、自分を清くするためには、汚れたものを遠ざけていました。ここでは、食べていいものと食べてはいけないものが、混ざっていたので食べていいものさえも汚れたものとなっていたのです。ですから、ペトロには食べることができないのです。ユダヤ人としては、忠実に守り続けてきたことなのです。それがユダヤ人なのです。私たちも、日本人として大切にしているもの、大事にしてきたものがあるでしょう。キリスト者として、大切にしていること、守り続けてきたものがあるのでしょう。しかし、それが神様の御心ではないということもあるように思うのです。

 三、イエス様によって全てのものが清められた

 14節には、「しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」」とあります。ペトロは、「主よ、とんでもないことです。」と言いました。リビングバイブルには、「主よ、それはできません。生まれてこのかた、口にしたことがないものです。ユダヤのおきてで禁じられているのですから。」 とあります。食べたことがない。食べるつもりもない。考えたこともないのです。ペトロはユダヤ人として当然、自分の清さを守ろうとしたのです。ペトロは、神様の言葉ではなく、自分の思い,考え、価値観に従おうとしたのです。16節には、「こういうことが三度あり」とありますから、ペトロは三度、「主よ、とんでもないことです。」と、神様の言葉を否定したのでした。かつて、ペトロは、大祭司の庭で、「あなたもあの人の仲間だ」と言われて、3度イエス様を否定しました。それは、自分の思いや力で何とかしようとしましたが、結局はどうにもならないことを経験しました。それは肉の力であり、今回の3度の否定もペトロの肉の力、自分の価値観でした。イエス様の復活とイエス様の愛によって立ち直り、信仰に立ち返り、聖霊の満たしを受けて、神様の言葉、福音を語り、多くの人々が救われ、癒しの業をしたペトロでさえも、ユダヤ人としての価値観があり、汚れの問題に固執していたのです。旧約聖書の律法は、異邦人から区別された神の選びの民の生きる指針でした。異邦人との区別のために食物規定があり、その実践のために、異邦人の交わりに制限が加えられていたのです。

 清くないもの、汚れたものという食物規定は、律法上悪い良いというものではないのです。神様との交わりにかかわることでした。清くないと汚れていると神様と交わる事ができないのです。「主よ、とんでもないことです。」と言ったペトロには、神様との交わりに生きて来たユダヤ人として、神様との交わりが断たれてしまうことになるのです。

 15節には、「すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」」とあります。神様は、もはや旧約の食物規定が有効な時は終わったと宣言されたのです。イエス様がすでに来られたからです。イエス様の到来によって、食物規定による区別は不要になったのです。イエス様が全人類の罪の身代わりに十字架にかかり、父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。死んで下さり墓に葬られましたが、三日目に蘇り、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活を通して、ユダヤ人も異邦人も全ての人が救われ、清められ、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたのです。イエス様によって、全ての人が清められたのです。ペトロが、この幻の意味を考えているとコルネリウスからの使いが到着し、19節、20節には、「ペトロがなおも幻について考え込んでいると、“霊”がこう言った。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」」とあります。ペトロは、聖霊の導きに従い、異邦人を家に招き入れ、食事をし、共にカイサリアに出かけたのです。ペトロは、信仰の第一歩を歩み始めたのです。クロネコヤマトですね。第一歩。ペトロのこの決断が、従順が異邦人伝道への架け橋となっていくのです。私たちキリスト者に必要なのは、この第一歩なのです。

 Ⅲ結論部

 ペトロは、8章では、異邦人が救われ、聖霊を受けたことを見ていたのです。そして、彼は異邦人が忌み嫌う皮なめし職人の家にいました。神様はコルネリウスを招く前に、異邦人に対する様々な事柄をすでにペトロに経験させておられたのです。いきなりハンドルを切るのではなく、少しずつ曲がり角を曲がらせるように導かれたのです。

 ユダヤ人としての凝り固まった偏見があり、価値観があったペトロを神様は異邦人に福音を伝えるために用いられました。神様は今も、人を通して福音を伝えようとされるのです。福音を伝えるという宣教は、神様がなさることです。福音を伝えるためには、ペトロに神様の言葉に服従することを求められました。ペトロはユダヤ人として、割礼のない者、つまり異邦人は救われないと考えていた。しかしイエス様は、「すべての食べ物は清められる。」(マルコ7:19)と言われ、異邦人も神様に受け入れていただけることを教えておられました。また、天に帰られ前には、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」(マタイ28:20)と異邦人に対する救いを示しておられました。ペトロは、その言葉を聞いていたし、聖霊が思い起こさせたでしょうが、ユダヤ人としての価値観や偏見にとらわれていたのです。神様は福音を伝える側のペトロを取り扱い、異邦人に対しても、「神が清めた」と宣言され、神様がユダヤ人と同じように異邦人にも愛を注がれ、救って下さるということをペトロに理解させ、受け入れることができるように導かれたのです。28節には、「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。」とあり、34節、35節には、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」とあり、ペトロを変えて下さったのです。それは、ペトロが神様の言葉と聖霊に忠実に従ったからなのです。

 私たちは、キリスト者として、あの人は救われるけれども、あの人は救われない。というような偏見や決めつけはないでしょうか。ペトロが変えられて異邦人伝道が広がっていったように、私たちキリスト者が変えられなければ、日本の宣教、イエス様の福音は伝わっては行かないのです。宣教は、人を救われるのは神様の業です。私たちの力や努力ではありません。けれども、神様は私たちキリスト者、伝える側を用いられるのです。神様は、福音が伝えられる側の人、まだ救われいない人が神様に従う者へと変えられるということよりも、先に救われたキリスト者である私たちが、神様のみ言葉と聖霊に従う者へと造り変えられることによって、神様の愛と福音が伝えられていくことを願っておられるのです。

 さあ、食わず嫌いで、食べたことのない物を批判したり、嫌うように、人を自分の偏見と価値観で判断して、福音の前進を阻止することがないように、私たちは、この週も聖書の言葉、神様の言葉に触れて、聖霊の導きに、聖霊の声に敏感で、喜んで神様の言葉に従い、聖霊に導かれて、神様の愛と恵み、福音をたずさえて一歩前進しようではありませんか。大丈夫、愛のイエス様が、心強い聖霊様がいつも共におられますから、安心して、信頼して、全ての事をお委ねして歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年6月2日)

2024-06-02 19:32:57 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第一)         2024.6.2

            「教会に愛がないじゃないか」使徒言行録6:1~7

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。6月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様に賛美と礼拝をささげることができますことを感謝致します。

今日は三位一体主日後の第一日曜日です。三位一体主日とは、聖霊降臨後の日曜日であり、先週がそうでした。教会が父なる神様、子なる神様、つまりイエス・キリスト様、聖霊の神様という三位一体の神様をあがめ礼拝する日が、三位一体主日です。三位一体主日は、アドベントからペンテコステの半年間をイエス様の生涯に焦点を当てており、三位一体後の半年間は、イエス様の教えに焦点を当ていると言えるのでしょう。三位一体は異端とキリスト教を分ける意味を果たしています。三位一体、父なる神様、子なるイエス様、聖霊なる神様のひとつでも否定するならば、キリスト教とは言えなくなるのです。

この世の中には、違いというものがあります。昔々、ネスカフェのコーヒーの宣伝で、「違いの分かる男」ブレンドコーヒーのコマーシャルがヒットしました。コーヒー好きな人は、味にうるさいのでしょう。ラーメン好きな人は、どの店がおいしいのかを知り、足しげく通うのでしょう。理髪店でも自分の思い通りの髪形にしてもらえるとか店員さんの接客の良さとかで通うのでしょう。病院やお医者さん、自分の事を本当に親身になって治療にあたってくれる所に通うのでしょう。私は、皆さんご存じのように、スーパー銭湯、お風呂が大好きです。私は月曜日には、湯けむりの里という風呂に行って、ゆっくりします。いろいろな風呂を試して、通い詰めて湯けむりの里に落ち着きました。けれども、最近こどもの国に新しい温泉施設ができたのです。先週の月曜日に行ってみました。喜楽里(きらり)別邸という名前です。料金は割高ですが、なかなか良いお風呂でした。岩盤浴も種類も多く、食事も種類が多くて良かったですね。小学生以上が入れる、ちょっと大人な、リッチな感じがしました。風呂の専門家の私としては、違いが分かりますので、明日はどちらに行くのか悩ましい所です。キリスト教会にも違いがあり、牧師先生のキャラクターも違うので、好みの教会を選んでいくということなのでしょう。

さて、今日は使徒言行録6章1節から7節を通して、「教会に愛がないじゃないか」という題でお話し致します。違いゆえに、問題が起きたということです。

Ⅱ本論部

 ペンテコステ、聖霊の満たしを受けた弟子たちを中心に、神様の言葉が語られ、ペンテコステの日には、ペトロの説教を通して3000人が救われました。キリスト教会、初代教会が誕生したのです。使徒言行録2章41節、42節には、「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあり、2章44節、45節には、「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」とあります。3章ではペトロとヨハネを通して生まれつき足の不自由な人が癒されます。そして、癒された人と共に神殿に入り、ペトロは説教します。使徒言行録4章4節には、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」とあります。その後、ペトロとヨハネは牢に入れられ、議会で取り調べを受けますが、そこでもイエス様の証しをします。ペトロとヨハネが無学な普通の人であることを知る議会は、イエス様を証しする言葉と大胆な態度に、また癒された人がそばに立っていたので、何も言えなかったのです。議会は、イエス様の名によって語らないように脅して釈放したのです。4章32節には、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」とあります。けれども、5章では、アナニアとサフィラという夫婦が土地を売って献金したのですが、土地の代金をごまかして、いかにもすべてをささげたというような偽りのゆえに、ペトロに、「聖霊を欺いた。神を欺いた。」と言われ、アナニアは倒れて息が絶え、その後サフィラも倒れて息が絶えました。初代教会では、迫害の問題、教会外部からの問題が続きました。その後、使徒たちによるしるしと不思議な業がなされ、4章14節には、「そして、多くの男女が主を信じ、その数はますます増えていった。」とあります。それでまた、使徒たちは捕えられ牢に入れましたが、神様に助け出されて神殿で神様の言葉を大胆に語りました。使徒たちは、最高法院に立たされましたが、イエス様を大胆に証したのです。最高法院はその後、ファリサイ派のガマリエルの忠告を受けて、使徒たちを脅して釈放したのです。これが、2章から5章までの大体の内容です。5章40節から42節には、「使徒たちを呼び入れて鞭で打ち、イエスの名によって話してはならないと命じたうえ、釈放した。それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び、最高法院から出て行き、毎日、神殿の境内や家々で絶えず教え、メシア・イエスについて福音を告げ知らせていた。」とあります。ペンテコステ、聖霊の満たしによって、弟子たちを中心とした120名の人々が神様の言葉を語り、ペトロのメッセージで多くの人々が救われてきました。使徒言行録4章4節には、「しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。」とあるように、「男の数が五千人ほどになった。」とあるように、女性や子どもたちを合わせると1万人を超える大集団になっていたことがわかります。聖霊に満たされ誕生した教会でしたが、勿論、神様の大いなるみ業もありましたが、聖霊に満たされ、聖霊に導かれても、教会外からの迫害があり、また、「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。」とありますが、信者の中にはささげものを偽る者たちもいたのが現実でした。キリスト者だから問題はない。教会だから、偽りや問題はないということではないということを聖書は正直に語るのです。そして、私たちキリスト者にも、青葉台教会にも、聖霊の導きの中であっても、弱さや問題や課題はあるということをしっかりと心に留めておきたいと思うのです。

 二、違いを認め合わずに問題が起こった

 6章1節を見ると、「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」とあります。著しい成長を遂げてきた初代教会ですが、「弟子の数が増えて」とは、信者が増えたということです。「苦情が出た」という原因は、「弟子の数が増えて」、つまり、信者の数が増えたからです。120名の祈りから始まったものが今や1万人を超える群衆となりました。キリスト者が増えることはうれしいですし、そう願います。10人の教会が、20人、30人、50人、100人になることはうれしいですし、そうなることを願い祈っておられるでしょう。しかし、人数が増えるということは、ただうれしい、良かったでは終わらないのです。「ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」と聖書は語ります。人数の問題と共に、二つの言語、言葉の壁がありました。初代教会には、ヘブライ語を話すユダヤ人。ユダヤの地に住み続けていた人々と、外国で生まれ、外国の習慣や言葉、ギリシャ語しか話せない人々がいたのです。それは言葉だけの問題ではなく、ヘブライ語を話すユダヤ人は、自分たちは生粋のユダヤ人で、先祖からの生き方、信仰を引き継いできた者という自負がありました。一方、ギリシャ語を話すユダヤ人は、外国での生活が長く、ユダヤの習慣ではなく、外国の習慣に染まり、神様に対する礼拝の姿勢も生粋のユダヤ人のように熱心ではなかったのかも知れません。ですから、ヘブライ語を話すユダヤ人は、ギリシャ語を話すユダヤ人を軽く見る、軽んじることがあっただろうし、ギリシャ語を話すユダヤ人には、やはり遠慮する。強く言えないというものがあっただろうと思うのです。「日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」とあります。おそらく、ユダヤの地元で育ったヘブライ語を話すユダヤ人たちが、中心に配給の仕事をしていたのでしょう。なので、ギリシャ語を話すユダヤ人に対する軽蔑のあるヘブライ語を話すユダヤ人たちは、やはりヘブライ語を話すやもめには、丁寧に、手厚く、配慮ある、十分有り余るほどに配給をしたのでしょう。けれども、ギリシャ語を話すユダヤ人を軽蔑し、上から目線なので、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちには、雑で、誰に配ったかもわからず適当で、思いがないので、配給にも忘れることもあり、配給の量が極端に少なかったりということがあったのでしょう。特に、弱い立場にあるやもめたちは、日々の生活ができない。家族の人数には量が少ないとか、忘れられているということを遠慮して言えないので、毎日食事の心配をしなければならないつらい状態に置かれ、そのことが苦情となって出て来たのです。怒り心頭したのでしょう。

 そのような問題が起きた時、2節の前半には。「そこで、十二人は弟子をすべて呼び集めて言った。」とあります。現在であれば、教会総会を開いたのです。この苦情の問題を使徒たちだけで考え対処したのではなく、なかったことにして黙っているということもなく、圧力で苦情の出たギリシャ語を話す人たちを黙らせたということもなく、包み隠さず、正直に、問題を問題として、「弟子をすべて呼び集めて」とあるように、信者全ての人に今の初代教会の問題、苦情が出たことを話したのです。テレビや映画には、問題が起こった時、権力やお金で隠蔽する。力で脅す。黙らせるということがよくあります。日本人は、恥の文化だと言われるように、悪い事や間違いや問題を隠して、何もなかったかのようにしてしまうということが多くあるように思います。それは、教会にもないとはいえないことでしょう。私たちは、青葉台教会は、使徒たちのように、問題を問題として、隠さず、出して、解決の道を聖霊の助けと神様の導きをいただいて歩ませていただきたいと思うのです。

 三、神の言葉が最優先されることによる全ての奉仕の祝福

2節の後半には、「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。」とあります。使徒たちは、食事の配給もしていたのでしょう。み言葉を語り、教え、様々な雑務もしていたことでしょう。信者の数が増え、手が回らなくなった。ですから、使徒たちは、忙しいから何とかしようではなくて、「神の言葉をないがしろにして」とあるように、神の言葉が第一として、最優先されることなくして食事の世話をするのは好ましくないと考えました。ですから、3節、4節です。「それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」とあるように、配給のための働き人を選ぶように提案しました。その選出の資格は、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」でした。配給の仕事だから、力があるとか、てきぱきと動けるからとか、配慮できるからとか、計算できるとか、まとめることが上手ということで選ぶことはしなかったのです。聖霊に満たされ、神の知恵を持ち、教会内外から信頼される人でした。また、「七人選びなさい。」の七の数は、半々にはならない数でした。ギリシャ語を話す人たちから苦情が出たので4名、ヘブライ語を話す人たちから3名という人間的な選出でもありませんでした。「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」という選考基準に従って選んだら、5節、6節には、「一同はこの提案に賛成し、信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほかにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈って彼らの上に手を置いた。」

とあります。この七名は、ギリシャ名の人たちばかりですから、7人ともにギリシャ語を話すユダヤ人でした。「アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」は、異邦人であってユダヤ教に改宗し、キリスト者になった人です。ヘブライ語を話すユダヤ人から見たら、「えっ、異邦人!」という人でした。人間的な何かで選んでいたら、絶対にこうならない選出です。

「一同はこの提案に賛成し」とあり、神様が選ばれたことを確信したのです。使徒たちは、選ばれた7人のために手を置いて祈りました。按手したということです。役員や教会学校の就任式に牧師が一人一人の頭に手を置いて祈るあれです。按手を受けた人々の配給の奉仕と人々に対する愛のある、配慮できる、信頼ある働きを通して、ギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちも、ヘブライ語を話すユダヤ人のやもめたちも、どちらも必要な配給を受けて解決したのです。良い配給ができたので解決したことよりも、「わたしたちは、祈りと御言葉の奉仕に専念することにします。」という第一にすべきことを第一にした結果、み言葉の奉仕を最優先した結果の解決だと思うのです。現代でいえば、使徒たちは、礼拝の奉仕者、奏楽、司会、祈り、献金、受付、掃除係、週報作成や印刷、お花、み言葉を書くこと、チャーチカフェなどの奉仕者に手を置いて祈ったということです。役員も、教会学校奉仕者も、礼拝奉仕やその他の奉仕者も、同じように「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」たちが選ばれることが神様の御心であり、今現在、それらの奉仕にあたっている人々は、聖霊と知恵と信仰に満たされ、評判の良い、奉仕にふさわしい方々なのです。

 7節には、「こうして、神の言葉はますます広まり、弟子の数はエルサレムで非常に増えていき、祭司も大勢この信仰に入った。」とあります。第一にすべきことを第一にした結果、神の言葉がさらに広まり、弟子の数、信者の数が増え、それだけではなく、「祭司も大勢この信仰に入った。」とあります。祭司は、イエス様に敵対していた人々です。イエス様の弟子たちを恨み、忌み嫌っていた人たちです。その祭司が大勢キリスト者になったのです。驚くべきことが起こりました。最初は苦情から始まりました。問題が起こったことから、人間的な考えや人間的な方法で対処したのではなく、問題の核心を見極め、第一にすべきことを第一にすることを大切にしたのでした。そして、人間的な何かで人選したのではなくて、「“霊”と知恵に満ちた評判の良い人」という、神様を愛し、み言葉を大切にし、聖霊の導きに敏感で、聖霊に忠実に従う人々を選び、ギリシャ語を話す人7人が選ばれても、批判や不満もなく、受け入れて、按手して遣わしたのでした。そこに、教会の祝福のカギがあるように思うのです。イエス様は、私たちを愛し、私たちの罪を赦すために十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られましたが、三日目に蘇られて罪と死に勝利されました。神様はイエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの全ての罪を赦し、魂を清め、義とし、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さいました。私たちも初代教会のように、人間的な何かで、信仰生活、教会生活を送るのではなくて、聖書のみ言葉に触れ、聖書のみ言葉を大切にし、聖霊の導きの中で礼拝と祈り会を大切にしていきたいと思うのです。

 Ⅲ結論部

 初代教会の中では、苦情が出ました。ギリシャ語を話すユダヤ人たちのやもめが軽んじられている。差別されている。愛のない行為があると問題が浮き彫りされました。聖霊に満たされている教会、成長を続けている教会、神のみ業が顕著に行われている教会の内部に、愛の業が欠けていました。教会に愛がなかったのです。愛の宗教と言われるキリスト教会に、イエス様の「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35)というイエス様の告別説教、イエス様の願いである「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という愛が欠けていました。そういうことは、キリスト教会において現実にあることなのです。そのことで信仰を持ちながらも、教会から、信仰から離れていくキリスト者も多くいることなのでしょう。

私たちは、現実に目を向けながらも、ただ原因や問題だけに目を奪われるのではなくて、愛のないという、その根本的な所、第一にすべきことを第一にしているのか。最優先していることは何かに目を留めて、第一の事み言葉による愛の実践と福音宣言、聖霊の導きに敏感な祈りを第一に、最優先していくことを心掛けたいのです。教会の頭は、牧師や人間ではありません。私っ体の救い主なるお方、私たちのために命をささげられたお方、命をも惜しまず私たち一人ひとりを大切にして下さるお方です。私たちはイエス様の愛に触れ続けて、愛をいただいて、み言葉に触れ、祈る一週間を送りたいのです。大丈夫、恐れることはありません。愛に溢れているイエス様がいつも共におられます。イエス様の愛に触れ続ける時、私たちもイエス様の愛で愛せるようになるのです。私たちには、教会には愛はありません。イエス様のあるのですから、イエス様の愛に触れ続けてこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年5月26日)

2024-05-26 14:53:37 | Weblog

ヨハネ15:1~7   シンプルがベスト      24,5,26

 

4月30日だったと思いますが、大リーグ、ドジャースの試合が行われていました。NHKBSで放映されていました。私は、試合開始時間に遅れてTVを見ました。もう4,5回かなと思ってみたら、まだ試合が始まってなく、蜂の大群が球場にいるので、それを除去するために遅れているとのことでした。結果として2時間遅れて試合は始まったのですが、驚いたことがありました。ひとつは待っているときに、球場に音楽が流れスクリーンに、let it be と表示され、ビートルズのその曲が流れました。その意味は、“あるがままを受け入れなさい”です。その歌詞は苦難に会っていた時に聖母マリアが現れ、何度もlet it beと言ったという歌詞です。イエスさまに全て委ねなさいという意味にとれる曲です。今日の聖書の箇所に通じます。また、球場のお客さんたちが文句も言わずじっと待っていること、let it beでした。さらにその試合が開始し たとき、蜂を処理した人が、始球式をし、皆が拍手していたこと、beとbeeをかけているのも面白かったですが、日本との違いをすごく感じ、考えさせられました。

 

  • 本日の聖書の箇所は「ぶどうの木」のたとえとしてよく知られています。福音書ではヨハネだけにある話です。先週はペンテコステでしたが、この箇所はイエスさまが、自分がいなくなった後に信仰をどう守るべきかを弟子たちに教えた告別説教です。ぶどうの木のたとえは、旧約聖書にもよく出てきます。創世記9:20~21に、ノアが箱舟を出てすぐ始めたことは「農夫となりぶどう畑を作った」とあります。1節の「わたしの父は農夫である」と通じるものがあります。イザヤ5章の、有名な「ぶどう畑の歌」という箇所にこうあります。「わたしは良いぶどうを植えた。良いぶどうが実るのを待っていたが、実ったのは酸っぱいぶどうであった。わたしが、ぶどう畑のためになすべきことで、なにかしなかったことがあるというのか。私はこれを見捨てる」とあります。イスラエルの民を、良いぶどうとして植えたのに、さらに何人もの預言者を遣わしたのに、教えに逆らって酸っぱいぶどうになったと言っているのです。イエスさまは、これらの箇所を意識して語られたのだと思います。
  • 2節で「わたしにつながっていながら実を結ばない枝は、父が取り除かれる」とあるのは、このことで、わたしと契約関係にありながら、神から離れてしまったイスラエルの民は、取り除かれると言っているのがわかります。すべての人の罪をあがなうために十字架につかれて死に、復活したイエスさまは、従わない人はもちろんですが、つながっていながら実を結ばない人は取り除かれるということをも意味しています。
  • しかし、2節の後半では「実を結ぶものは、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とあります。イエスさまは、信仰者ひとりひとりが成長し,豊かな実を結ぶことを願って手入れすると言っているのです。良い実を結ばせるためには伸び放題にするのではなく、訓練、試練をすると言っているのです。手入れ(刈り込み)は、木がより多くの実を結ぶためには必要なことです。ぶどうの木には、多くの小枝、枝が実を結ぶのを妨げています。それは切り取らねばならないものです。不必要かどうかは、見ただけでははっきりわかるわけでもありません。刈込むには勇気がいり、また痛みも伴います。手入れは、そのほかにも土を耕す、肥料を施す、消毒する等もあります。
  • 島根県の安来市に、横山大観のコレクションと日本庭園で国際的に有名な足立美術館があります。ここの日本庭園は世界一と言われています。美術館のなかから窓越しにみえる庭園の美しさは、息をのむような美しさです。この美しさを保つために、植木職人が毎日、小枝、雑草等をこまめに取り除いているそうです。

私たちの日常生活、人生も豊かにするためには、取り除いたり,剪定が必要な小枝や雑草等が多いのではないのでしょうか。小枝とか雑草とは、ガラテヤ5:20にあるように、物的なものだけではなく、偶像礼拝、敵意、争い、妬み、怒り、利己心等も表しています。これらによって必要以上に悩み、疲れていることはないでしょうか。イエスさまは、疲れている者,重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげようと(マタイ11:28)と言ってます。本当に必要なものは多くなく、イエスさまにすべてを委ねる、シンプルな生活したらいいのではないかと自分自身も感じています。

  • 4節でイエスさまは「わたしにつながっていなさい。わたしもあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない」と言っています。さらに5節で「わたしを離れては、あなたがたは、なにもできないからである」とも言っています。わたしたちがイエスさまにつながるというのは、聖書を読み、祈り、デボーション等をすることによってできるように思います。イエスさまが、私たちにつながるということは、どういうことでしょうか?7節でイエスさまは「あなたがたが、わたしにつながっており、私の言葉があなたがたのうちにいつもあるならば、のぞむものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言っています。イエスさまの言葉、すなわち聖書の言葉が、私たちの内にいつもあることだと言っているのです。いつも、み言葉に接して、体の内に、心の中に取り込まれているということです。み言葉を知っているというだけでなく、み言葉に生きていることだと言ってもいいでしょう。わたしのあとに従いたいものは、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさいということ(マルコ8:34)と同じことです。ある意味では、イエスさまに全て委ねるという非常にシンプルなことです。最後に、6節で「わたしに、つながっていない人がいれば、集められ火に投げ入れられてやかれてしまう」とも、怖いことを言っています。黙示録20:10の火の池を思いうかべます。
  • 私たちは、let it be あるがままを受け入れなさい、というみ言葉に従い、シンプルにすべてをイエスさまに委ねて生きていきたいものです。およそ人生で起こることには、すべて意味があると受け止めてシンプルに、私に従うことが一番だとイエスさまは語っているのだとおもいます。今週もイエスさまのみ言葉に従い、み言葉に生きていきましょう。
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日曜礼拝(24年5月19日)

2024-05-19 12:54:14 | Weblog

日曜礼拝(聖霊降臨日)       2024.5.19

            「伝家の宝刀」使徒言行録1:12~14.2:1~13

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。5月の第三の日曜日を迎えました。今日はペンテコステ、聖霊降臨日です。教会の誕生日と言えます。教会の誕生日おめでとうございます。全世界の教会で、ペンテコステ、聖霊降臨日の礼拝がささげられています。クリスマス、イースターとは違い、マイナーなことですから、クリスチャンでない人々、この世では、ペンテコステおめでとうの言葉はどこにもありません。今日発行の5月の月報に書かせていただきましたが、ペンテコステ、聖霊降臨日は、この世では全く無関心です。クリスマスやイースターは、ディズニーランドでもありますし、デパートや様々なお店の商売戦線で教会以上の賑わいです。しかし、ペンテコステ、聖霊降臨日は、教会でも、クリスチャンさえも、青葉台教会でさえも、あまり見向きもしない。触れない。いやどのように祝うのかわからないというのが現実でしょう。しかし、意味としては、聖霊によって福音が語られ、救われる人々が起こされて教会が誕生したのです。心から喜びたいのです。感謝したいのです。教会学校では、教師の方々がペンテコステのスタンツ、寸劇をして、ケーキで教会の誕生をお祝いするのです。私たちもペンテコステ、聖霊降臨日を記念して、教会の誕生日を大々的にお祝いしたいのです。聖霊は炎、火ですから今日は、赤い色のものを身に着けてお越しくださいと週報でお願いしましたがいかがでしょうか。この赤の色が、ペンテコステ、聖霊降臨日を少しでも彩ること、お祝いのしるしとなればと思います。コロナも少しは落ち着いてきたのですから、来年のペンテコステは、聖霊降臨日は、大々的にお祝いできたらと思うのです。

 今日は、使徒言行録1章12節から14節と2章1節から13節を通して、「伝家の宝刀」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、今こそ心を合わせて祈る

 11人の弟子たちは、イエス様の昇天の後、エルサレムに戻りました。そして、家の上の部屋に集まりました。弟子たちは、婦人たち、ガリラヤからイエス様に仕え、従ってきた女性たち、イエス様の母マリア、イエス様の兄弟たちと心を合わせて熱心に祈ったのです。ここには、イエス様の身内の者たちがいますが、かつて彼らは、「身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。」」(マルコ3:21)とありますから、イエス様の働きに対して、「あの男は気が変になっている」といううわさに、身内の恥でしょうか。イエス様を取り押さえに来たことがあったのです。イエス様を信じていなかったということです。しかし、イエス様の十字架と復活を通してイエス様を信じたのです。そして、この祈りの輪に加わっていました。イエス様の身内がいたことはとても意味があり、集まった人々にイエス様を思い出させることになったのではないでしょうか。イエス様の弟のヤコブは初代協会の指導者になりました。

 11人の弟子たちは、イスラエルの回復という視点から、ユダが欠けた弟子の数を補充しました。12という数は、イスラエル民族を現し、大切な数字です。120名の人々が祈りを捧げましたが、12の十倍は意味のある、象徴的な数字だと思います。

 イエス様の弟子たちは、これまで心を合わせて一つになるということはなかなかできないでいたのでしょう。メンバーの中には、イスラエル万歳と国粋主義の者がいましたし、反対にローマの飼い犬とまで言われた徴税人がいました。気の荒い漁師たちもいました。奇跡の業を行い、権威ある言葉を語られるイエス様を多くの人々が支援し、集まる中、弟子たちは優越感に浸り、イエス様の弟子であることの誇りはとても大きなものでした。そんな彼らが、いつも話題にしていたのは、「弟子たちの中で誰が一番か」ということでした。人に優劣をつける生き方に、競争はあっても一致は生まれてこないのでしょう。イエス様が、共におられる時には、弟子たちは、心を合わせて一致して熱心に祈ることはなかったのだろうと思うのです。しかし、イエス様が天に昇る前に、「「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」」(使徒言行録1:4-5)、

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」

(使徒言行録1:8)というイエス様の言葉を信じて、エルサレムにとどまり、約束の聖霊、イエス様の証人となるために、聖霊をいただくために、心を会わせて熱心に祈っていたのです。弟子たちは、共に心を合わせて祈ることを通して、同じ方向を見つめ、イエス様の証人となるという同じ使命に立ち、同じ思いになることができたのです。心を合わせて共に祈る祈りは、初代教会の原動力であり、教会の力となって行ったのです。

青葉台教会にとっても、祈りは神様の働きのための原動力であり、教会の力なのです。個人の祈りは勿論の事ながら、水曜日の定例祈祷会に集い、共に心を合わせる所に、聖霊は働き、神様のみ業が起こされていくのです。教会の力となる祈祷会に共に集い、あの弟子たちのように、120名の人々のように、心を合わせて熱心に祈りたいのです。聖霊が私たちに同じ使命を与え、同じ思いとなり、神様の驚くべきみ業の原動力となることを体験させていただきたいのです。

 二、イエス様の約束の言葉の実現

 2章1節には、「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、」とあります。「五旬祭」とは、50という意味がり、過ぎ越しの祭りから50日目に行われる収穫の祝いです。過ぎ越し祭の安息日の翌日から七週を数えた翌日、50日目の七週の祭りの日です。刈り入れの祭りとも言われています。また、モーセがシナイ山で律法が与えられたのが、過ぎ越し祭から50日前後の頃、そのために五旬祭には、十戒をはじめとする神の律法が与えられた恵みを思い起こす意味がありました。旬とは、上旬、中旬、下旬の旬なので、10日と言う意味があるようです。イエス様は、過越し祭の時に十字架につけられ、イエス様が復活してから50日目、イエス様が昇天されて10日目の、そのような意味のある日に120名の人々が一つになって集まり、祈っていたのです。「五旬祭の日が来て」の「来て」は、「満ちる。成就する。」という意味があるようです。2節、3節には、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。この様子は、モーセがシナイ山に登っている時、シナイ山は、稲妻と雷鳴の轟音に包まれて、神様の栄光が山の頂で燃える炎のように見えたのです。「激しい風」とありますが、聖霊はしばしば風になぞられます。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(ヨハネ3:8)とイエス様は語られました。3節には、「炎のような舌」とありますが、炎は神様が人間にご自身を示し、人間と関わりを持とうとされる時に現わされるものです。炎によって焼き尽くされる。炎に焼かれるような体験の中で、私たちは神様に出会うのでしょう。神の山ホレブ山で、神様は燃える柴の中からモーセに語られました。4節には、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあります。聖霊の風が吹き、炎によって弟子たちは新しく生かされました。「炎のような舌」とありますから、語る力が与えられ、言葉を語る者とされ、聖霊に満たされた人々は、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」のです。

 5節、6節には、「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。」とあります。3節の言葉をリビングバイブルでは、「突然、天からものすごい音がしました。まるで、激しい風が吹きつけるような音です。それが、家全体にごうごうと響き渡ったのです。」とあります。天からのものすごい音、激しい風が吹きつけるような音、家全体にごうごうと響き渡った音に、何事かと人々が集まってきた。驚いたのは、激しい音だけではなく、「自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて」また驚いたのでした。ペンテコステは、天からの、神様の大きなみ業でした。

三、小さくても、弱くても神様に用いられる

 5節には、「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあります。11節には、「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、」とあります。「ユダヤ人」とは、外国生まれのユダヤ人でエルサレムに帰って来て住んでいた人々の事でしょう。彼らは、自分の生まれ故郷の言葉を聞いて驚いたのです。「ユダヤ教への改宗者」とは、ユダヤ教になった異邦人のことです。新約聖書では、ユダヤ人と異邦人との区別は、人種に基づくものではなく、それは宗教的なものでした。ユダヤ人ではない異邦人は、ユダヤ教に改宗すると、ユダヤ人の一員とみなされたのです。

 ですから、ここで外国語での神様の偉大なみ業を聞いたのは、みなユダヤ人だったということです。外国生まれのユダヤ人たちが、それぞれ生まれた故郷の言葉を聞きました。聖霊の働きによって、福音のもとに一つに集められていたのはユダヤ人、イスラエルの者たちだったのです。ここでは、神様の民、イスラエルの再集結が行われているのです。聖霊が降ることによって、神様の民であるイスラエルがイエス様の救いのみ業のもとに集められたのです。それが教会の誕生となるのです。最初の教会は、ユダヤ人だけの群れであったということです。この時に、世界の様々な外国語が語られたということは、新しいイスラエルというものが、ユダヤ人だけのものではなく、外国語を話す異邦人、全世界の人々に開かれたものとなったということです。

 ユダヤ教では、神様を語る時には唯一ヘブライ語だけ、語ることが許されていました。現在も、世界各地のシナゴーグでは、ヘブライ語で礼拝がささげられているようです。シナゴーグは、ウィークデーは、学校の役割も果たしヘブライ語を学ぶ場所となっています。ヘブライ語だけが、神様の事を語ることを許され、それ以外の言葉では、神様の事を語らないのがユダヤ教の伝統でした。しかし、聖霊が降ることによって、他の国の言葉で神様の偉大なみ業、イエス様の十字架と復活、福音が語られ、証されたのです。ユダヤ人たちを通して、ヘブライ語以外の言葉を通して、神様の言葉、福音が語られたのです。

 7節のカッコには、「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。」とあります。これは、単に出身地を指しているのではなく、「あのガリラヤか」という否定的な考えが背景にはあるようです。ガリラヤは中央のエルサレムから遠く、そのため神殿へ巡礼することもあまりできず、ガリラヤは経済的にも貧しく、軍事的な力もなく、信仰的にもエルサレム神殿中心から外れた、離れた所だと見られていました。様々な抑圧と搾取、差別の中で、神様の正義と神の国を待ち望む信仰が強められたいたのです。そのような信仰の土壌があったからこそ、イエス様はガリラヤで福音を宣べ伝え、弟子たちが従ったのです。ペンテコステは、このようなガリラヤの人々に聖霊が降ることによってもたらされたものでした。中央にいる力と権威を持った人々から見れば、取るに足りない地方の田舎の貧しい、無学なガリラヤの人々が外国語で神様の偉大なみ業を語ったのです。神様は、イエス様をガリラヤのナザレ出身の人として遣わされたのでした。その神様は、同じガリラヤの人たちを通して、神様の偉大なみ業を語らせたのです。ペンテコステのみ業は、このような人々を用いてなさせたのです。弱くても、小さくてもいいのです。神様はそんな人々を神様の働きのために用いられるのですから、私たちも神様のために用いられるのです。

Ⅲ結論部

 120名の人々が、イエス様の約束の言葉を信じて、期待して共に集まり心を合わせて熱心に祈りました。共同の祈り、共に集まる祈りこそが、聖霊が降ることへの準備となりました。教会の誕生への準備、宣教への備えは、神を信じる者たちが、心を合わせて祈る、共同の祈りにおいてこそなされたのです。

 弟子たち、120の名人々は、特別な教育を受けたわけでも、権力や地位が与えられたわけでもありませんでした。相変わらず、田舎者のガリラヤ人であり、普段の言葉はガリラヤの言葉、アラマイ語でした。彼らは聖霊を受けて別の人に変えられたというわけではありませんでした。特殊な能力が与えられたのでもありませんでした。彼らは、今までと何も変わらないガリラヤ人として、神様の言葉、神様の偉大なみ業を語る器として選ばれたのです。神様の選びは、人間的な思いや社会の常識とは、全く違うものです。聖書は語ります。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。」(Ⅰコリント1:27-29) 

 私たちを愛しイエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪を赦し、義とし、永遠の命を与えて下さった神様は、イエス様が昇天されて、父なる神様の右の座に着いて、信じる者に、待ち望む者に聖霊を与えて下さるのです。

 「伝家の宝刀」とは、家に伝わる大切な刀の事で、いざという場面にのみ使われる切り札と言う意味で比喩的な言葉です。最終的手段という意味でも使う場合があります。奥の手、隠し玉、必殺技、秘密兵器というような意味合いでしょうか。ここ一番と言いう時に用いる切り札です。聖霊は祈り求める120名の人々の上に注がれました。そして、聖霊に満たされた人々は、伝家の宝刀ではありませんが、神様の切り札として、豊かに用いられたのです。聖霊は神様の切り札のような意味合いがありますが、日々私たちと共におられ、私たちを支え、励まし、強め、問題のあるままで、弱いままで、小さいままでああっても、聖霊に満たされて急に力が湧くというのでもなく、特別な力で驚くようなことをするのでもなく、社会の隅においやられた田舎者の弱いガリラヤの人々が神様のみ業、教会の誕生のために用いられたように、私たちも聖霊に満たされて、聖霊に導かれて、「一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」とあるように、外国語を話すというのではありませんが、神様の働きのために、誰かのために、その人が神様に出会うために、神様は私を、あなたを神様の器として選び、神様のために用いられるようになるのです。聖霊が私たちをイエス様の証人として下さるのです。そのことを覚えて、私たちはこの週、神様の言葉に信頼して、聖霊と共に、聖霊に導かれた1週間を歩ませていただきたいのです。大丈夫、聖霊様は、イエス様はいつもあなたと共におられるのです。安心して、イエス様に全てをお委ねして歩んでまいりましょう。

 

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