江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年4月7日)

2024-04-07 12:45:17 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一)          2024.4.7

       「見て喜び、見て信じる信仰」 ヨハネ20:19~29

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第一の日曜日を迎えました。先週は、2023年度の2回目のイースターでした。清水馨子さんが洗礼を受けられ、幼子のように喜びを体いっぱいに表現され、見ている私たちもうれしくなりました。清水さんの信仰の歩みの祝福の為お祈り下さい。午後からの愛餐会も久しぶりに良き時、楽しい時を持つことができました。

 2024年度の最初の礼拝です。この年度も、毎週の礼拝を通して、聖霊様の導きと神の言葉、聖書の言葉を通して神様からの恵みをたくさんいただきたいと思います。

今日から吉武神学生が青葉台教会では2回目の派遣神学生としてご奉仕して下さいます。吉武神学生の健康が守られ、ご奉仕が祝福されますようにお祈り下さい。

 2024年度の最初のみ言葉は、ヨハネによる福音書20章19節から29節を通して、「見て喜び、見て信じる信仰」と題してお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、いつもの挨拶から

 19節を見ると、「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」とあります。「週の初めの日の夕方」とは、日曜日、イエス様が復活された日の夕方です。「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。」のです。20章18節では、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とありますので、イエス様の墓が空っぽであることやイエス様が復活されたことを聞いた弟子たちは、信じなかったのでしょう。弟子たちは、ユダヤ教の指導者たちを恐れていたのでしょう。イエス様の次は自分たちが捕まるにではないか、と。どこにも行けず、ただじっとして自分を守るしかない状況をイエス様はご存じだったでしょう。恐れに満たされている弟子たちの真中に立って、「あなたがたに平和があるように」と言われたのです。復活されたイエス様が最初に語られた言葉は、ヘブライ語では、「シャローム」、ギリシャ語では「エイレーネ」という日常的な言葉です。ユダヤ人たちが、日常で使用する挨拶の言葉、「おはよう。こんにちは。こんばんは」という言葉で、特別な言葉ではありませんでした。復活という特別な出来事、驚くべきことでしたが、イエス様は特別な言葉は語られませんでした。イエス様は、弟子たちと共に過ごしていた時と同じ言葉で、以前と同じように挨拶の言葉をかけられたのです。弟子たちは、あの頃のイエス様の懐かしい声で、いつもの挨拶の言葉をかけられて安心したでしょう。また、「あなたがたに平和があるように」という言葉は、挨拶の言葉だけに限らず、この時は、恐れに満たされている弟子たちに、「もう心配する必要はない。大丈夫。」という意味も込められていたのだと思うのです。イエス様は、イエス様の復活の事を聞いても信じないで弟子たちを、ユダヤ人を恐れている弟子たちを叱ったり、信仰のふがいなさを責められたりはされませんでした。挨拶と励ましの言葉をかけられ、十字架の傷を見せられ、弟子たちに喜びを与えられたのです。

 現在、日常的な生活というものは、危ぶまれる時代です。戦争、地震、その他の自然災害、人間関係のもつれ、新型コロナ感染症後の精神的な、肉体的な後遺症などがあり、世界中にこの普通の日常が失われています。新型コロナ感染症は、日常の私たちの挨拶を失わせました。ステイホームで、誰とも顔を合わさず、挨拶さえかわせない。まさに、この時の弟子たちの姿のようです。その弟子たちに、いつものように、いつもの言葉で、「こんばんは」とイエス様は語られたのです。イエス様の十字架刑での死という苦しみと痛みと絶望の中で、復活のイエス様を見、挨拶の言葉をいただいたのです。 

20節を見ると、「そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。いつものような挨拶と共に、十字架につけられた時のイエス様の手とわきの傷を見て、弟子たちは、確かに十字架刑で死んだイエス様の傷が、死の力に打ち勝たれて復活したことの証拠となったことを見て確信して喜んだのです。本来、栄光のからだは、「聖なる、汚れのない」(エフェソ5:27)と聖書が語るように、復活のイエス様には傷がないはずです。しかし、イエス様はあえてその傷を残しておかれたのには、全人類の罪のための愛の傷であることを示し、確かに十字架で死なれたことのしるしなのです。私たちは、突然の病の宣告や手術や治療、突然の人間関係の破綻、将来に対する不安など、日常を揺るがす様々な苦しみや悲しみ、痛みを突然に経験し、普通の生活ができない状況に立たされることがあります。イエス様は私たちの全ての事をご存じです。そのような私たちに近づき、寄り添い、声をかけて下さるのです。「おはよう。こんにちは。こんばんは」そして、「もう心配する必要はない。大丈夫。」と言って下さり、喜びを与え、慰め、励まし、支えて下さるのです。このごく普通の状態というものが、どれほど私たちにとって、価値あるものであるかということ、普通である、日常的である、何ら変わらない日々の歩みは、私たちにとっては幸せなのです。そのことを思うです。

 二、私たちはイエス様に遣わされて福音を示す

 23節には、「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」」とあります。イエス様は、もう一度「あなたがたに平和があるように。」と普段の挨拶の言葉かけられたのは、苦しみと悲しみに満たされている世界に、弟子たちを派遣するための「あなたがたに平和があるように。」という言葉でした。イエス様は前提として「父がわたしをお遣わしになったように」、父なる神様が子なるイエス様をこの地上に遣わされたように、「わたしもあなたがたを遣わす。」と弟子たちもイエス様に遣わされるのです。新しい日常生活において、私たちもキリスト者として、イエス様に遣わされるのです。必ずしも遠い所に行くことを意味しないでしょう。また、新しい場所に行くというのでもないのでしょう。いつもと同じ場所で、いつもしているように、同じことをすることであったとしても、イエス様に遣わされる所が、新しい日常となるのでしょう。いつもの場所で、いつも合う人と、変わりは何もなくても、イエス様がそこに使命を与えておられる時、そこは新しくされるのです。新年度で、今までとは違う場所、いつもと違うことをしたり、今までに会ったことのない人々との関係であっても、イエス様に遣わされるのですから、平和が、平安が、安心があるのです。

 イエス様はご自分を通して、父なる神様を見るようにと語られました。イエス様が私たちをこの世に遣わされるのは、キリスト者である私たちを通して、この世の人々がイエス様を見るようになるためだと思うのです。イエス様の全生涯というものは、父なる神様から遣わされた者としての生涯でした。私たちキリスト者としての生涯は、イエス様の弟子たちのように、イエス様に遣わされた者としての生涯なのだと思うのです。

 22節には、「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」」とあります。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(創世記2:7)とあるように、弟子たちは、聖霊によって新しく生まれた者として、イエス様に遣わされた者として使命を果たすように召されたのです。23節には、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」」とあります。教会を通して、イエス様の十字架を通して、罪の宣言がなされますが、教会が罪人を受け入れなければ、罪の赦しがないので罪はそのまま残り、罪が赦されていないので、神様の裁きを受けることになるのです。ですから、誰も教会を、十字架と復活、福音、つまりイエス様を通らなければ、神の子とはされないのです。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)と聖書は語ります。

 この言葉は、聖書の告げられた所に従って、神様の権威をもって罪の赦しの宣言をすることが委ねられました。教会は、イエス様ご自身の権能である罪の赦しと裁きを委託されている共同体です。洗礼と礼拝でその権能が執行されます。それは、私たちに人間の判断や力で、誰かを罪人と決めつけたり、裁いたり、赦すということではないのでしょう。聖霊によって、権能を与えられた共同体の働きとして、罪の赦しとさばきが執行されるのです。このような大きな任務は、イエス様が父なる神様から授かったように、この任務が、イエス様によって弟子たちに与えられ、教会に与えられたのです。私たち人間にとって、最も大切なことは、神様の前で罪が赦されて、罪から解放されることです。ですから、福音、イエス様の十字架と復活を通して、全ての人に与えられることを教会は、キリスト者は伝えるのです。

 三、聖書の言葉を聞いて信じる者になる

 24節には、「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」とあります。24節の原文には、「トマス、十二弟子のひとりなのだが、」という表現で始まっているようです。この表現は、イエス様を銀貨30枚で裏切ったイスカリオテのユダを紹介する書き出し方や表現は、基本的には同じようなのです。「イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」(ヨハネ6:71)ですから、「十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。」という表現は、あまりよくない状況を示しているようです。トマスが他の弟子たちと一緒にいなかったということが問題となるのです。なぜ、他の弟子たちと一緒にいなかった理由を聖書は記していません。トマスという人は、その場の空気を読めない人、KYの人でした。他の人と共に行動するのが苦手だったのかも知れません。10人の弟子たちが恐れて、家の中に閉じこもっていても、トマスは一人で自由に外に出る勇気があったとも言えます。トマスがいない時、他の10人がいる時にイエス様は復活されたご自身を現わし、聖霊を与え、弟子たちを遣わすと宣言されれたのです。

 トマスが家に戻ると25節にあるように、「わたしたちは主を見た」と10人の弟子たちは、次々に喜びに満たされて語り続けたのです。トマスは自分だけが蚊帳の外で、他の弟子たちのような喜びを与えられないで、寂しく、辛く、いやな思いをしたのでしょう。他の弟子たちと同じ経験をして喜びに満たされたかったのです。10人の弟子たちが、確信を持って「わたしたちは主を見た」と言うのですから、本当なのでしょう。しかし、トマスは、25節の後半では、「トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ってしまったのです。トマスは、イエス様の復活を信じられなかった。疑ったのです。

 26節には、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。」とあります。日曜日から数えて日曜日なので、8日目に、トマスも共にいた11人の弟子たちの間に立ち、イエス様は前と同じように、「あなたがたに平和があるように」と語られました。1週間前の10人の弟子たちのように、かつて共におられた時と同じように、その声で「シャローム」と挨拶されて、トマスは喜んだのでしょう。1週間前の弟子たちと同じ経験、喜びをトマスにも与えられたのです。27節を皆さんと共に読みましょう。「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」」 1週間前に、トマスが「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言った言葉をイエス様はご存じでした。知っていたのに、トマスを叱ったり、責めたりするのではなくて、トマスが言ったとおりの事、ひどい事です。そのことをするようにと言われたのです。このイエス様の言葉で、イエス様の自分に対する深い愛を感じたのです。このお方は、自分を差別したり、自分だけを愛さなかったり、自分いない時に現れると自分はそう思ったけれども、そうではない。私を大切に思い、私のためにだけ、来て下さった。私の気持ちを思いをよくわかって下さるお方だと感じたのです。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とは、「わたしたちは主を見た」というその言葉を信じる者となることが大切であることを示されたのです。トマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。

疑うということは悪い事のように感じられますが、始めから信じない人は疑いもしません。信仰があるから疑いが起こると言えます。私たちも信仰があるから、苦しみや悲しみを経験する時、神様の愛を疑うことがあるのです

 本来、信仰とは聞いて信じることだと聖書は語ります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)。29節には、「イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」」とあります。「わたしを見たから信じたのか。」とありますが、マグダラのマリアも、他の10人の弟子たちも、復活のイエス様を見て信じました。トマスもイエス様を見て信じました。それなのに、「見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのです。それは先ほどの「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」という言葉に関係していると思います。弟子たちの言葉を聞いて信じることは、見て信じること以上に幸いだということです。私たちは、復活のイエス様を見て信じるということはできません。ですから、この言葉は、トマスに語られたと同時に、私たちに語られたものです。私たちは、マグダラのマリアや弟子たちの証言、つまり聖書の言葉を通して、イエス様の十字架を復活を信じることができ、救いに預かることができるのです。弟子たちもトマスも、復活のイエス様を見て喜び、見て信じたのです。そのことをイエス様は否定されないのです。しかし、私たちにはイエス様を見ることはできないので、見ないけれども、聖霊の助けと聖書のことばを通して信じることができるのです。それは、本当に幸いなのです。

 Ⅲ結論部

 罪のない神の子であるイエス様が、十字架にかかって死なれたということは、私たち人間がとてつもなく罪深く救いようのない、どうしようもない存在であることを示しています。私たちがイエス様の十字架を見るということは、自分がいかに罪のただなかにいたという現実を認め嘆くことです。本当に自分の罪に対して、心から絶望した者にこそが、イエス様の復活を心から喜べるのだと思うのです。トマスは疑い深い、頑固な人でした。しかし、イエス様は彼を愛し、近づき、寄り添って下さり、信仰告白へと導かれました。私たちの家族や友人が、どんなに頑固でも、疑い深くても、救われそうになくても大丈夫。イエス様は、家族を友人を愛して愛してやまないのです。イエス様が自分を愛しておられることを知り、感じたら、「わたしの主、わたしの神よ」という信仰告白が与えられるのです。今、神様に対して疑いがあるかもしれません。祈りがなかなか聞かれない状況、苦しいや悲しみが解決しない現実のゆえに、神様の愛を感じないがゆえに、疑いのこころがあるのでしょう。イエス様は、トマスのひどい言葉、傷口に塩を塗るような言葉、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」という言葉をそのまま受け入れて下さり、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われるのです。あなたの神様に対するひどい言葉も態度もイエス様は受け入れておられるのです。疑ってもいいのです。信仰があるから疑うのですから、そのことをイエス様はよくわかっておられるのです。先週のイースター礼拝で、清水馨子さんが洗礼を受けられました。本当に、幼子のように喜んでおられる姿を見て、喜びと感謝の言葉を聞いてとてもうれしく感動しました。私たちは、そのよう見て聞いて、喜ぶと同時に、見ないけれども、見えないけれども聖書の言葉を通して、聖霊様の導きを通して、今どのような状況に立たされようとも、苦しみや悲しみがあろうとも、イエス様は私を愛し、寄り添い、全てを受け入れておられることを感謝し、信じたいのです。

この週もイエス様が共におられ、あなたを愛し守り支えられます。疑いの子事があるならば疑いながらでも、イエス様に目を留めて、イエス様に信頼して、イエス様に全てを委ねて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年3月31日)

2024-03-31 16:24:08 | Weblog

日曜礼拝(イースター)       2024.3.31

          「マリアなぜ泣くの」 ヨハネ20:1~18

 

 Ⅰ導入部

 イースターおめでとうございます。イエス様が死から蘇られたことを記念する復活日、イースター礼拝です。全世界の教会でイースター礼拝が持たれ、イエス様の復活を覚え、心からの賛美と礼拝がささげられています。今日は桜の花も開花しているようです。イエス様の復活、イースターにふさわしい季節です。教会学校では、4年ぶりでしょうか。きのこ公園での野外礼拝と卵探しがされて、子どもたちも桜の花を見ながら、イエス様の復活の象徴の卵を探して楽しんでいることでしょう。第二礼拝後には、清水馨子(けいこ)さんの洗礼式が執り行われます。イエス様のよみがえりのイースターの日に罪に死にイエス様と共によみがえり、新しい命に生きることになる清水馨子さんの洗礼式と信仰生活の祝福のために心から祈りたいと思います。

 今日は、ヨハネによる福音書20章1節から18節を通して、「マリアなぜ泣くの」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様の遺体が盗まれた

 復活されたイエス様が、最初にご自身を現わされたのは弟子のペトロやヨハネではなく、また母マリアでもなく、マグダラのマリアであったことをヨハネによる福音書は語ります。

マグダラのマリアについては、「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」(ルカ8:2)と聖書が紹介しています。マリアの人生は七つの悪霊によって、苦しみと悲しみ、痛みの人生でした。家族からも友人からも見捨てられ、生きていること自体苦しみの連続だったことでしょう。しかし、そんな彼女がイエス様に出会い、七つの悪霊を追い出していただき、人生が一変したのです。この時から、マグダラのマリアは、イエス様を信じ、イエス様に従い、イエス様に仕える人生へと変えられたのです。いつもイエス様の権威ある、愛あるお話に感動し、奇跡のみ業に心躍らせ、まことにイエス様が救い主、神様の子であることを信じたのです。そのお方が、犯罪人として十字架につけられ、マグダラのマリアは、十字架の下でイエス様の苦しみと死を見届けました。マグダラのマリアにとって、イエス様の死は信じられないこと、受け入れられないことでした。イエス様が納められた墓を確認したマリアは、安息日(土曜日)が終わるのを待って、1節にあるように、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」と、少しでも早くイエス様のご遺体に香油を塗ってさしあげたいと墓に急いだのです。すると、「墓から石が取りのけてあるのを見た。」のです。マリアの頭の中では、大変なことが起こった。イエス様のご遺体が盗まれたと判断しました。自分一人で解決できないので、イエス様の弟子たちの所に急いで知らせるのです。

2節には、「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」」とあります。マリアは、墓の中を見ずして、墓の入口の石が取りのけてあるのを見ただけで判断しました。イエス様は、時の人、多くの人々に慕われるのと同時に、ユダヤ教の指導者たちからは嫌われ、憎まれていたので、イエス様の遺体にまでも傷つけることをするのではないか、そのためにイエス様の遺体を盗んだ。あるいは、当時墓場荒らしがあって、イエスの遺体を盗んだと考えたのでしょう。イエス様の死は悲しいことですが、ご遺体を見て、イエス様を思う、イエス様を偲ぶことが、マリアにとっては少しでも慰めになるのでしょう。今のマリアにとっては、イエス様の遺体が,遺体そのものだけが何よりも大切な存在となっていたのです。

 マリアからの知らせを受けた弟子の様子はどうかというと、3節から8節に、「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。ペトロとヨハネは年齢が違い、ヨハネの方が速く走り、先に墓につきましたが、墓の中をのぞいて、亜麻布が置いてあるのを見ただけで、中には入りませんでした。遅れてペトロが到着し、墓の中に入って、亜麻布が置いてあるのを見たのです。「亜麻布が置いてある」というのは、「折り目正しく」置いてあったということのようです。ですから、イエス様の遺体が盗まれたということは考えられない。杉下右京さんなら状況をよく調べて、「イエス様はよみがえられたのだと思いますよ」と言うのでしょうか。亜麻布の置かれた状況からは、蘇えられたイエス様がご自分で折り目正しく置かれたのでしょう。イエス様は几帳面な方だったのでしょうか。

 

 ニ、神様の目で、イエス様の目で物事を見る

8節には、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。20章1節から8節までには、「見る」という言葉が4回出てきます。1節「マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」と5節「身をかがめて中をのぞくと」の見るは、「クレポウ」というギリシャ語で「ただ単に見る」という意味です。マリアもヨハネも注意深く墓を見たのではなく、なにげなく、ただちらっと見ただけでした。マリアは、ちらっと見て石が取りのけてあるのを見てイエス様の遺体が盗まれたと早合点したのです。6節「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。」の見るは、「セレイオウ」というギリシャ語で「注意深く見る、調べる」という意味があるようです。ペトロは、注意深く見ましたが、理解できなかった。わからなかったのです。8節「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」の見るは、「エイドン」というギリシャ語で、「見て、理解する。」という意味があるようです。ヨハネが、「亜麻布が(押し目正しく)置いてある」という今自分が見ているものが何の意味を持つのかを理解できたのです。リビングバイブルには、「私もあとから入り、この有様を見て、イエスが復活なさったことを信じました。」とあります。9節には、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」とあります。ヨハネはイエス様の復活を信じましたが、詳訳聖書には、「彼らは聖書の「彼は死人のうちからよみがえらなければならない」ということばをまだ知らなかった。」とあります。この時点では聖書のイエス様の蘇りについて知らなかったのです。ペトロとヨハネは帰って行きましたが、マグダラのマリアは帰りませんでした。11節には、「マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、」とあります。「マリアは墓の外に立って泣いていた。」とあります。

私たち人間は、あきらめられないことや受け入れがたい現実に遭遇する時、悲しみのあまり涙する。泣くのです。イエス様の十字架刑の下で、愛するイエス様が苦しみ、痛んでおられるひどいお姿を見続けていたマグダラのマリアは、イエス様が亡くなられたこと死なれたということを頭では理解していたのでしょう。けれども、お慕いし愛するイエス様の現実の死を受け入れることがなかなかできない、ましてイエス様の遺体がどこにもないのでマリアは泣いていたのです。マリアが、悲しみの中で泣くということ、泣けるということは、生きていることの証しなのかも知れません。マリアは、イエス様が十字架にかけられ死なれたこと、そして、イエス様の墓が空であることを知っていました。しかし、そのことをなかなか受け入れることができませんでした。愛するイエス様のご遺体が墓にない事を悲しんでいたのです。死という現実の前には、なすすべが何もないことを痛感して泣いていたのです。マリアはイエス様の遺体が墓にない事を悲しみます。今のマリアには、イエス様の遺体が全てでした。マリアは泣きながら墓の中を見ました。

12節、13節には、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」」とあります。マリアは、天使たちを見ても畏れませんでした。眼中になかったのかも知れません。天使たちは、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と問いました。泣いている理由を聞かれていると思い、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」とマリアは答えました。「わたしの主」という表現は、マリアのイエス様に対する思いの大きさがわかります。天使たちはマリアの泣いている理由を聞いたのではないでしょう。ルカによる福音書24章、5節、6節には「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。」と天使が語っています。イエス様は復活して生きておられるのに、「婦人よ、なぜ泣いているのか」ということなのです。私たちも、様々な苦しみや悲しみ、痛みを経験する時、イエス様は生きておられるのに、死んだままのイエス様であるかのように、悲しみすぎる、苦しみすぎるということはないでしょうか。

 

 三、イエス様の方に向きを変えるとき

 14節には、「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。心から恋い慕うイエス様が背後に立っておられるのにマリアは気が付きませんでした。マリアが見ていたものは、遺体となられたイエス様を誰かが取り去った、という空の墓でした。悲しみ、苦しみの涙によって、心が支配されていました。マリアは、死の世界、墓の方へと引き寄せられていたのです。そのために、本当に見るべきもの、イエス様に目を注ぐことができないでいたのです。私たちも信仰生活の中で、あまりの苦しみや悲しみ、痛みによって、イエス様が確かにそばにおられるのに、共におられるのにもかかわらず、イエス様の存在に気が付かないということがあるのかも知れません。何があろうとも、私たちの状況がどのようにマイナスであっても、イエス様は私たちのそばに共にいて下さるのです。

イエス様は、マリアの涙や悲しみや苦しみを誰よりも知っておられました。15節には、「イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」」とあります。イエス様は、マリアがなぜ泣いているのか、誰を探しているのか、よくわかっておられました。この問いは、「あなたが探しているのは、死に打ち勝った私ではないか」とマリアに投げかけておられるように思うのです。また、「なぜ泣いているのか。」とは、「なぜ泣く必要があるのか」ということで、「もう泣く必要はないのです」と、イエス様の復活は紛れもない事実だということです。ですから、天使も、イエス様も、同じように「なぜ泣いているのか。」と問うたのです。

マリアは、イエス様が墓の管理人だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と言ったのです。「わたしが、あの方を引き取ります。」というマリアの心からの気持ちを聞いて、イエス様はうれしかったでしょう。16節には、「イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」とあります。イエス様は、マリアの名前を呼ばれました。聖書の中で、神様が名前を呼ぶと言うことは、その人の生き方を新しくするということを示しているようです。「モーセ」と呼ばれた神様は、モーセにエジプトで奴隷状態にあったイスラエルの民をエジプトから解放するという新しい使命を与えられたのです。「サウロ」と呼ばれたイエス様は、後のパウロに、律法に生き、キリスト者を迫害する生き方から、新しくイエス様の福音を伝える伝道者として召されたのでした。イエス様は、マリアの名前を呼んで、イエス様の復活によって新しい生き方があることを示されたのです。マリアは自分の名前を呼ばれて、振り向いて、「ラボニ」と答えたのでした。マリアとイエス様は名前を呼ぶだけで心が通じたのでしょう。イエス様は以前共に歩んでいた時のように、「マリアム」と呼ばれ、マリアもいつもイエス様を呼んでいたように「ラボニ」と答えたのです。あのかつてのように、イエス様にいつもも呼ばれた名前で、マリアはイエス様だと気がついたのです。

 マリアは、死んだと思っていた。遺体がどこかに持ち去られたと思っていた愛するイエス様が目の前にいたので、おもわずしがみついたのでしょう。17節には、「イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」」とあります。「わたしにすがりつくのはよしなさい。」とは、マリアが女性だからとか、マリアが嫌いだからということではありません。イエス様はやがて父なる神様の元に帰られます。ですから、その時には、以前の同じように、イエス様のお姿を見て、イエス様の声を聞いて、イエス様のお体に直接触れるということはできなくなります。今のマリアは、イエス様の遺体がなくなり、パニックになるほどイエス様を慕っているので、今目の前におられるイエス様をもう二度と離すまいとしがみつきたくなるのですから、特にマリアには、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言わざるを得なかったのでしょう。やがて、弟子たちもマリアも、イエス様が父なる神様の元に行くことで聖霊が与えられて、神様との新しい関係に入ることができるのです。イエス様は、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方」と言われ、聖霊を通して、父なる神様は、人間の私たちとっても父となり、神となると宣言されたのです。

 18節には、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とあります。マリアはイエス様にすがりたいだろうけれども、イエス様が復活されたことを一時も早く伝える使命を受けたのです。

 

 Ⅲ結論部

 マリアは、天使からもイエス様からも「なぜ泣いているのか。」と声をかけられました。しかし、マリアの悲しみはなくならず、涙は止まりませんでした。マリアが絶望の象徴である墓に目を留めている限り、どのような言葉も、励ましもマリアには力にはならなかったのです。しかし、マリアと親しく呼ばれていた名前で呼ばれて、振り向いてイエス様に目を留めた時、イエス様の存在に気付いた時、マリアは喜びに満たされたことでしょう。私たちもイエス様がそばにいるのにもかかわらず、苦しみの場所、悲しみの場所、痛みの場所だけを見ていることはないでしょうか。もしそうならば、人々の励ましの言葉も、聖書の言葉も励ましにはならないのです。私たちが問題の場所、悲しみ苦しみの場所から目を離して、イエス様に目を留める時、イエス様の存在を認める時、私たちは平安と安心をいただくことができるのです。イエス様は、「今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(ルカ6:21)と言われました。私たちは、苦しみのゆえに、悲しみのゆえにただ泣くのではなくて、どんな時にもイエス様が共におられることを信じて、イエス様の前で泣くことが,イエス様の前で嘆くことが、信仰の出発点になるのではないでしょう。「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」(ルカ7:13)と聖書は語ります。イエス様を信じている私たちも、信仰者の私たちも、様々な試練に遭遇する時、嘆き、悲しみ、涙を流します。私たちは、試練だけを見るのではなく、試練を通して、神様のみ業を見せて下さるイエス様がいつもそばに、背後に、共におられることを信じて、イエス様に目を留めてこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年3月24日)

2024-03-24 12:43:48 | Weblog

日曜礼拝(棕櫚の主日)       2024.3.24

          「神の渇き」 ヨハネ19:16~32

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第四の日曜日を迎えました。棕櫚の主日、イエス様がエルサレムに入城した日であり、受難週の始まりの日です。今日も愛する皆さんと共に会堂に集い、あるいは、ユーチューブを通して共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。桜の開花情報も、開花日が遅れており、今週は受難週で来週のイースターあたりに桜が満開になるとイースターらしい、蘇りの季節を感じるように思います。来週は、復活の喜び、イースター礼拝ですが、復活の前には、イエス様の十字架の苦しみ、十字架の死を通らなければなりません。今日は、ヨハネによる福音書19章16節から30節を通して、「神の渇き」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様の十字架につながる者になる

 17節には、「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」とあります。イエス様は自ら十字架を背負い、十字架刑場であるどくろ(頭骸骨)と呼ばれる場所、ヘブライ語ではゴルゴタ、ラテン語訳(ウルガタ訳)で、カルバリという場所に向かいました。礼拝の最初に「カルバリの十字架」という賛美を歌いましたが、「どくろ山の十字架」とか「頭蓋骨の山の十字架」とはなんかしっくりきません。現在この場所には、聖墳墓教会が建てられているようです。イエス様は総督官邸からゴルゴタまで、約1キロ、現在ビアドロローサと名付けられた道、巡礼者がイエス様の苦しみを覚えながら歩く通りを十字架を背負い歩かれたのです。ビアドロローサとは、ラテン語で「苦難の道、悲しみの道」という意味があるようです。イエス様は、罪人が背負うべき十字架、その十字架を罪なきイエス様が自ら背負われたのです。マタイ、マルコ、ルカによる福音書には、イエス様は昨晩からの裁判と鞭打ち、いばらの冠のゆえに、肉体が衰弱して途中倒れてしまい、クレネのシモンが無理やり十字架を担がされたことを記しています。ヨハネによる福音書は、クレネのシモンについては全く触れていません。ヨハネによる福音書は、イエス様が神の子であり、罪人に赦しを与える救い主を示すために、人間イエス様の弱さをあまり示しません。ゲッセマネの園のイエス様の苦しみの様子や十字架上の7つのことばの、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)という言葉を示してはおりません。ヨハネによる福音書は、人間イエス様ではなく、神の子としての神性を示しているのです。

 18節には、「そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。」とあります。イエス様が十字架につけられた時、右と左に犯罪人も十字架につけられたました。三本の十字架は全世界を表わす象徴のようです。三本の十字架の右か左のどちらに立つのかということです。ルカによる福音書には、三本の十字架、イエス様と二人の犯罪人の事が記されています。一人の犯罪人は、「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」(ルカ23:29)と言いましたが、もう一人の犯罪人は、初めは同じように言っていたようですが、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」十字架上の七つの言葉の最初の言葉を聞いて考えを変え、「すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」」と自分の罪を認め、イエス様には罪がない事、つまり神であることを認めました。そしてイエス様に、「「わたしを思い出してください」と願い、それに答えてイエス様は、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と宣言されたのです。三本の十字架は全世界を象徴しています。この世の「」という漢字は、三本の十字架があり、真中の十字架に右側の十字架はつながっており、左側の十字架は真中の十字架につながることなく、下に流れているのです。自分の罪を認め、イエス様を神様と信じてイエス様につながった犯罪人は楽園に導かれ、イエス様に暴言を吐き、悔い改めなかった犯罪人はイエス様とつながらず滅んだということなのでしょう。

 19節、20節には、「ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。」とあります。よく聖画のイエス様の十字架の上には、「INRI」と書かれていることがあります。ラテン語の「JESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM」の頭文字「INRI」です。実際には、罪状書きは、ラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語で書かれていました。ラテン語はローマが用いていた支配者の言葉、ギリシャ語は当時の世界で広く使われていた共用語、ヘブライ語はユダヤ人の言葉でした。

 

 二母を思い、母を委ねるイエス様

 23節から24節には、「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、/「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。」とあります。ローマの兵士たちは、イエス様の着物を分け合いました。イエス様の着物を分け、くじ引きしたことには、ローマの兵士の意思を超えた神様のご計画がありました。旧約の預言には、「彼らはわたしの服を分け合い、/わたしの衣服のことでくじを引いた」とあるのです。ローマの兵士たちは、自覚していないのですが、聖書の預言が成就したのです。詩篇22編19節には、「わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く。」とあります。 

 25節には、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」とあります。一般の人が、十字架の下に立つことが許されていた公開処刑だったのでしょう。母マリアは、傷だらけの、血まみれの状態で、うめき苦しむ息子の姿をまじかで見上げていたのです。その心境はどのようなものだったのでしょうか。母マリアもまた、胸を刃物で突き刺されるような悲しみと痛みだったのでしょう。

両親はイエス様が誕生して、清めの期間が過ぎて、イエス様を主に献げるために、エルサレムに来た時、シメオンという人は、幼子イエス様を見てマリアに、「シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」」と言ったのでした。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と十字架の下での母マリアの姿でした。

 「その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。」と4人の女性がおりました。「母の姉妹」とは誰の事でしょうか。他の福音書には、「その中には、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母がいた。」(マタイ27:56)とあり、また「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。」(マルコ16:1)ここには「サロメ」とあります。

「母の姉妹」とは、サロメであり、ゼベダイの子ら、つまりヤコブとヨハネの母となり、イエス様と弟子のヤコブとヨハネはいとこ同士ということになります。リビングバイブルには、「十字架のそばには、イエスの母マリヤ、おば、クロパの妻マリヤ、マグダラのマリヤが立っていました。」とあります。

 26節、27節には、「イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。」とあります。イエス様は、なぜ愛する弟子、つまりヨハネに母マリアをゆだねたのでしょうか。ヨセフがそこにいたからでしょうか。母マリアは、未亡人でしたがイエス様以外にも子どもはいました。「この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。」(マタイ13:55-56)ですから、男の子4人もいるのですから、他の子どもたちが生活の面倒はみることができた。しかし、イエス様は、ヨハネに母マリアを委ねたのです。ヨハネによる福音書7章5節には、「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」とあり、イエス様の兄弟たちは、イエス様を信じていなかったのです。イエス様は、御自分を信じていない兄弟たちに、母マリアを委ねることはしなかったのです。(イエス様が復活して兄弟たちも信じたようです) それで、先ほどのヨハネとイエス様はいとこ同士ですから、母マリアはヨハネの叔母にあたるので、イエス様は安心してヨハネに、母マリアを委ねたのです。そして、ヨハネは母マリアを自分の家に引き取ったのです。十字架のもとで、新しい人間関係が生まれたのでした。

 

 三、イエス様の渇きが私たち潤い

 28節には、「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」とあります。「のどが渇いた」という言葉は、日常生活の中で私たちはよく使います。今孫と一緒に住んでいますが、孫はよくママに「のどが渇いた」と言います。よく言います。夏の暑い日が続く中で、私たちものどが渇く経験をします。ここでイエス様が言われた「渇く」という言葉は、肉体の奥底から、魂の奥底から発せられた言葉なのでしょう。十字架刑により、両手両足を釘で打たれ、いばらの冠をかぶせられ、出血により水分が奪われ、極限の渇き、十字架刑というその姿勢より呼吸困難になり、口を大きく開くので渇きが生じる。ですから、「渇く」というのは、肉体的な苦しみでありました。肉体的な渇きと共に霊的な渇きがイエス様にはありました。

十字架上の7つの言葉の一つ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫ばれ、父なる神様との交わりが全く断たれた中での、子なるイエス様が父なる神様を慕い求める渇きであったのでしょう。「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め/わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは/乾ききった大地のように衰え/水のない地のように渇き果てています。」(詩篇63:1)

 「渇く」という言葉はヨハネによる福音書では重要な言葉です。4章13節、14節には、「イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」」とあり、7章37節、38節には、「「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」」とイエス様は言われたのです。渇いている者に水を与えられるお方、永遠の命に至る水を与えて下さるお方が、十字架の上で、「渇く」と叫ばれたのです。「「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。」というのは、旧約聖書に記されている神様の救いの約束が、イエス様の十字架によって実現したこと、イエス様が渇くことで、私たちと父なる神様との和解の道が整ったのです。

 私たちを深い所から潤して下さるイエス様が「渇く」と言われました。徹底的に渇かれ、6時間に及ぶ十字架刑の為の衰弱や脱水という肉体的な渇き以上に、父なる神様との断絶というイエス様にとっては、極限の苦しみ、霊的なうえ渇きを経験されたのです。この「渇く」という言葉は、旧約聖書の「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩篇22:2)「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」(詩篇22:16)から来ているようです。十字架の上で罪のないお方が、父なる神様から裁かれ、渇いて、渇いて、渇ききって、罪と死の中に打ち捨てられたのです。父なる神様から引き離されることが、子どもが母親から引き離される時の悲しみと苦しみの叫びのように、「父とわたしはひとつである」と言われた父なる神様から引き離されることが、イエス様の渇きの根源だったのです。このイエス様の渇きのゆえに、イエス様が罪と死の中に打ち捨てられたからこそ、私たちは潤されるのです。私たちは、イエス様の十字架での身代わりの死と復活を通して、罪の赦しときよめ、死んでも生きる命、永遠の命の恵みが与えられるのです。

イエス様の渇くという叫びに、ローマ兵は酸い葡萄酒を差し出し、イエス様はそれを受けて、「人はわたしに苦いものを食べさせようとし/渇くわたしに酢を飲ませようとします。」(詩篇69:21)、「成し遂げられた」(テテレスタイ)と言い、頭を垂れて息を引き取られたのです。「成し遂げられた」とは、負債が完了したということです。請求書に、テテレスタイという印章が押された用紙が見つかっているようです。イエス様は、ここで全人類の全ての罪に対する負債を支払ったと宣言されたのです。

 「頭を垂れて息を引き取られた。」の「頭を垂れて」は、「枕によりかかる」という意味があるようです。全ての事が完成した。イエス様の十字架の苦しみと死で、全てが終わった、と枕によりかかるように、眠るように息を引き取られたのです。それは、私たち一人ひとりのためであることを深く覚えて、感謝したいのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様の十字架の姿は、英語のWという文字で表せるようです。WつまりWATER,

水です。世界の3分の2は海です。水分です。私たち人間の体は、およそ3分の2が水分です。体重の60%から70%が水分のようです。私たち人間は、食物がなくても何日かは生きれるようですが、水分が不足すると命の危険にさらされます。医者は患者が脱水症状になるとすぐに点滴をして水分を補給します。一般的には、成人は1日の2ℓ水分をの体外に出しているようで、同じ2ℓを補給しなければなりません。私たち人間の体は、ある意味で、常に渇いていて、水分を求めているのです。イエス様は、神であり罪のないお方なのに、十字架の上で肉体的に霊的に、極限の渇きを経験されました。そして、その渇きが聖書の言葉の実現、救いの完成につながっているのです。私たちも日々、渇きを経験します。渇きを経験するたびに、イエス様が私のために渇いて下さったことを覚え、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」」、「「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」言われたイエス様のもとで潤いを得たいのです。この週もこのお方が、イエス様が共におられて、私たちの渇きを癒して下さいます。受難週のこの週、イエス様の十字架の苦しみを覚えると共に、その先には復活の望みがあることを覚えて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年3月17日)

2024-03-17 15:27:04 | Weblog

イエスさまの怒り   マタイ21:12~17  24,3,17

 

 本日の聖書箇所は、受難週の時の話です。4福音書すべてにあり、神殿での重大な出来事としてよく知られていた話だったと思います。宮清めともいわれている箇所です。

イエスさまは、神殿で話をしたり説教をしたりしているので、突然なぜ、この時にこんなことをしたのだろうという気がします。

 ユダヤ人は、律法と神殿をとても大事にしていましたし、選民意識の象徴でもあったのです。

神殿は、神さまと出会い、祈り、交わるところであり、罪が赦されるところとだと思われていました。BC160年ごろ、ユダヤを支配していた、シリアのセレウコス朝アンテイオコス4世が、割礼や安息日を守ることを禁止し、神殿に偶像をつくり、豚や不浄な動物を、いけにえとしてささげたことがありました。ユダヤ人は、マカバイを頭として、これに武力をもって抵抗して勝利したことがありました(続編マカバイ記)。神殿を汚されると、死を恐れず抵抗するほど大事にしていたのです。

 

 さてイエスさまは、子ろばに乗ってエルサレムに入場後に神殿に入っていきます。境内に入ると物を売り買いしている多くの商売人が目に入ります。この場所は異邦人の庭と言われている場所です。異邦人や罪人が入ることができるのは、ここまでというところです。

12節で、いきなり売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛を倒した。ヨハネでは、縄でむちを作り羊や牛を追い出し、両替えの金をまき散らしたとあります。かなり激しい怒りの行動で、イエスさまにふさわしくないような行動です。何に対して怒っていたのでしょう。この商人たちの様子は、以前に神殿に来た時も見ていたはずです。この商売人は、なにを扱っていたかを考えると、両替人は、神殿にお参りする人が、神殿税を納めるには「ツロの銀貨」で納めなければならないので、ギリシャの通貨しか持ってないような人のために両替えする人が必要だったのです。また犠牲のささげものの牛、羊、ハトなどは傷のないものをささげると決まっていたので遠くから来る人は、持ってくることができないのでここで買わざるを得ないのです。イエスさまもこのことは、十分に知っていたでしょう。彼らの商売を邪魔したところで神殿を清めることにはならないのです。またこの場所はかなり広い場所なので、大規模にやっていたのであれば大騒ぎになり、アントニア要塞のローマ兵が見張っているので、すぐ来るはずですが、そのようなことがなかったようなので、これは一部のところで象徴的な行動としてイエスさまは行ったのだと思います。怒りの先はこれらの商人たちにではなく、ほかにあったのです。

 

 そのあとイエスさまは言うのです。13節「わたしの家は、祈りの家とよばれるべきである。それを強盗の巣にしている」と。私の家と言ってます、自分が神であると宣言しているのです。だからそこは祈りの家だと言っているのです。イザヤ書56:7に「わたしは、彼らを聖なる私の山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。わたしの家は祈りの家と呼ばれる。」とあります。エレミヤ7:11に「わたしの名によって呼ばれるこの神殿は強盗の巣とみえるのか。そのとおりわたしもそう見える」とあります。イエスさまはこの言葉を念頭におかれて言ったのだとおもいます。

 

 そのあとで、イエスさまは、14節で、「目の見えない人や足の不自由な人たちがそばに寄ってきたので、癒された」とあります。これらの人はこの先の宮に入ってはならないとされた、社会的弱者です。また子供たちまでが叫んで、「ダビテの子にホサナ」と言ったとあります。15節で、「祭司長たちや律法学者たちは,その業を見て腹を立てた」とあります。彼らは、弱者を顧みないだけでなく、しいたげていたのです。さらに膨大な犠牲のささげものも私物化し、神殿税の徴収や、商売人の売り上げもピンハネしていたのです。祭司長はじめ祭司集団の地位まで総督に賄賂を贈ったりして買い取っていたのです。いわば神殿貴族と言われるようになっていたのです。これを「強盗の巣」と言ったのだとおもいます。イエスさまの怒りの対象は彼らだったのです。

 

 話が変わりますが、2週間ほど前に知り合いの女性からわたしに、突然 1冊の本が送られてきました。「隣人を愛するということ」という書名でした。私の主人の出版社で出した本です。ぜひお読みくださいという手紙が添えてありました。だれか個人の証かなと思って置いておいたのですが、先週、寝床でよんでびっくりしました。それは、第2次大戦時の米国で、日系人が敵国扱いをされ、財産、仕事を奪われ、家を追われ、強制収容されたときに、国全体で反日感情が強い中で、日系人を助け収容所に食べ物、衣類等を提供したことや子供の学校の面倒を見たこと、さらに大戦終了以後も仕事の世話や、生活支援をしたことの記録でした。その人たちはクエーカーというプロテスタントに属する人たちでした。その方々がフレンズ奉仕団を形成し活動したのです。クエーカーは、非暴力の提唱、良心的兵役拒否、平和主義を唱え続けている人たちです。戦後の荒廃した日本に対し食糧援助の中心になって援助(ララ支援)してくれたのもこの人々だったそうです。クエーカーというと日本人では、新渡戸稲造や、上皇さまの英語の教師をしてくれたヴァイニング夫人、それに普連土学園を思いうかべます。とても感激な本で、クエーカーの人々の日系人への支援活動のことを初めて知りました。本当の弱っている人達への、隣人愛を実践した人たちですね。ぜひ皆さんにも読まれることをお勧めします。

 

 さて話を戻しますと、私の家は祈りの家と呼ばれるとは、どういうことでしょうか。神殿を搾取構造にし、礼拝も形式化し、こころが真に神さまに向いていない状態を批判したのでしょう。イエスさまは、利益などの偶像と決別し、真に神に立ち返り、正義と公正が行われることを願っていたのだと思います。ヨハネ2章で、イエスさまは、神殿を壊してみよ、3日で建て直して見せると言っています。神殿とは自分のことだったのです。復活されたイエスさまこそ真の神殿であり聖所だといったのです。ヨハネ4章でも「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます」とも言っています。真の礼拝がささげられていない神殿にはいないと言っているのです。このことは私たちにも問いかけていることです。神さまに礼拝がささげられていなければ、教会という建物には神はいないということでもあります。教会にきて習慣的に礼拝をささげるだけで、神さまにキチンと向き合っていなければ、そこにはイエスさまは、いないということです。2,3人と集まり真に祈ればイエスさまはそこにいるともいっています。私たちも、礼拝に出ることは、神さまに出会い、祈り、交わることだと思いつつ真の礼拝をささげたいものです。祈ります。

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日曜礼拝(24年3月10日)

2024-03-10 12:49:05 | Weblog

日曜礼拝(受難節第四)       2024.3.10

          「裏切りと愛」 ヨハネ13:21~35

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第二の日曜日を迎えました。受難節の第四日曜日になります。寒さの中にも、桜の開花の日が3月後半になりそうだということで、もう春がそこまで来ているという感じです。受難節の中で、イエス様の十字架の苦しみを覚え、私たちの罪のために尊い血を流し、命をささげて下さった愛を思いつつ、その先には復活の望みがあります。今日は、受難節の中にあって、復活を記念とする日曜日です。心からの感謝と賛美をもって礼拝をささげたいと思います。 明日は、3月11日です。東日本大震災が起こり13年が経ちます。13年が経過しましたが、さらなる神様の回復とお守りをお祈りいたしますし、今被災の中にある能登地震の被害者の方々のために祈りをささげたいのです。

 今日は、ヨハネによる福音書13章21節から35節を通して、「裏切りと愛」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、裏切りの心には誰にでもあること

 今日の個所は、先週と同じ最後の晩餐の席での出来事です。13章の前半では、イエス様は、御自分の愛を示すために、弟子たちの一人一人の足を洗われたのです。13章11節では、「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。」とあり、裏切る者が誰かを知っておられたのです。イエス様が、弟子たちを「この上なく愛し抜かれた。」中で、イスカリオテのユダの裏切りをヨハネによる福音書は伝えるのです。

 イエス様は、ユダの名前は出しません。裏切りの予告をされるのです。21節には、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」」とあります。「心を騒がせ」は、新改訳聖書第三版では、「霊の激動を感じ」とあり、リビングバイブルには、「込み上げる霊の悲しみを抑え、」とあります。約三年半、イエス様は弟子たちと寝食を共にし、神様の働きをしてきたのです。仲間である弟子にイエス様は裏切られるのです。愛する者に裏切られるのです

イエス様が心騒がせているのは、自分の恐れや不安の為ではなく、ユダを心から愛しているので、そのユダがイエス様から離れ、滅びようとすることに無関心ではおれないのです。

愛する弟子に裏切られるのですから、イエス様は、心を騒がせたのです。霊の激動を感じ、こみ上げる霊の悲しみを抑えるようにして、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と裏切りの予告をされたのです。愛する者を失うことは、本当に辛く悲しい事でが、愛する人に裏切られるということはまた、とてもつらく悲しい事です。イエス様は、ユダを心から愛していたので、ユダの裏切りはとてつもなく、悲しく辛い事でした。イエス様が食事の席で立ち上がり、弟子たちの足を洗われた出来事に弟子たちは、驚きましたが、イエス様の裏切り者の予告には、さらなる驚きと不安があったのです。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」という12人の弟子の中で裏切り者がいるというのです。相棒というドラマがありますが、一つの部屋に数人が集められ、「この中に犯人がいます。」と杉下右京さんが話す場面のようです。

22節には、「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」とあります。ユダも他の弟子たちの顔を見たのでしょう。マタイによる福音書26章22節には、「弟子たちは非常に心を痛めて、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」とあります。ルカによる福音書22章23節には、「そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。」とあります。弟子たちは、まさか自分ではとか、議論したということは、誰もが裏切り者になり得るということを自覚していることを示しているようにも思えるのです。

 23節から25節には、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、」とあります。弟子のヨハネは、イエス様の右隣に席があったようですので、ペトロが「だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。」のです。その名前がイエス様の口から発せられた途端に、ペトロは、その弟子に馬乗りになり攻撃したでしょう。もしかしたら殺してしまうのかも知れません。ペトロも、この後イエス様を知らないと裏切ることになるのですが。

 イエス様は、大事な最後の晩餐の席で、どうして弟子たちが不安になるような発言をしたのでしょうか。イエス様には裏切り者のユダを断罪するつもりはありませんでした。イエス様の衝撃的な発言は、人間である以上、誰にでも裏切りということがあるのだ、ということを示しているように思うのです。他の平行個所では、「主よ、まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めた。」とありましたから、ユダ以外の弟子たちも、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」という言葉によって、自分の心にもイエス様を裏切るかも知れないという思いがあったということでしょうか。そして、私たちにもそのような思いが潜んでいないとも限らないこと、人間の弱さを私たちも持っていることを覚えたいと思うのです。

 二、私たちにはイエス様の愛を受ける自由も拒む自由も与えられている

 ヨハネの問いにイエス様は答えます。26節です。「イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。」とあります。「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」とありますが、過ぎ越しの食事の中で、ハロセットと呼ばれるもので、レンガを表す色を出すために、リンゴやナッツ、蜂蜜などを入れ、そこに種なしパンを入れ、それをユダに渡されたのです。この行為は、犯人を見つけるというものではないようです。食事の主人が、パン切れを浸して客に与えることは人間に対して行う最も栄誉のあることでした。また、イエス様がユダにパン切れを差し出したのは、「裏切る思いを知っている」ということで、命を捨てるほどに、あなたは大切な人という意思表示のようで、「あなたはわたしの兄弟、わたしはあなたのために喜んで死にます。」という意味があるようです。ユダに対するイエス様の愛の現れだと思うのです。

 また、「浸す」という言葉は、ヨセフの兄弟たちが、ヨセフが獣に殺されたことにするということで、「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。」

(創世記37:31)とあり、「殺してその血に着物を浸した。」という「浸す」で、殺され、血を流すことを指しているようで、ユダの裏切りがイエス様を十字架の死に至らしめるのであることを指しているようです。27節には、「ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。」とあります。イエス様が差し出したパン切れは、ユダが受け取るか、受け取らないかを問うていました。最後のチャンス、ファイナルアンサーでした。イエス様のもとにとどまる可能性を残されたのです。ユダがパン切れを受けたことは、イエス様の愛と悔い改めを拒み、裏切るということを選んだということです。

 「サタンが彼の中に入った。」とあります。ユダの裏切りは、サタンの働きでした。しかし、ユダは、「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。」(ヨハネ12:6)とあるように、お金に対する執着心がユダの弱さであり、会計係を任されていましたが、預かったお金をごまかして、自分のものにしていたのです。ユダの弱い所に、サタンが付け込んだのでした。ユダの思いは、イエス様がイスラエルの王として君臨し、自分はその弟子として高い地位につき、経済的な祝福が与えられるということだったでしょう。しかし、イエス様の関心は、弱い人々や貧しい人々、病める人々でしたので、ユダの思いは満足できずに、イエス様が自分とっては、役に立たない存在だと判断したのです。ユダは、イエス様を裏切りますが、ユダから見れば、むしろ自分こそイエス様に裏切られて、夢や希望を台無しにされた被害者だという思いで一杯だったでしょう。太宰治の「駆け込み訴え」という小説は、ユダの目からイエス様を描き、ユダの満足いかないイエス様の態度や言葉に、自分が裏切ることにするのでした。

 イエス様は、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言われました。イエス様は「とどまりなさい。」と言って、ユダの手をつかんで、とどめませんでした。ユダの裏切りを甘んじて受けようとするイエス様の決意なのでしょう。人間には、神様の愛を受け取る自由も拒否する自由も与えられているのです。イエス様は無理やり従わせようとはなさいません。ユダが自分の意思でご自分のもとにとどまることを望んでいたのでしょう。イエス様の言葉は、他の弟子たちには意味が分からず、ユダに用事を頼んだぐらいに思っていたのです。30節には、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」とあります。イエス様の命がけの最大の愛に対して、それを拒み去って行くことが暗闇、夜なのです。

 三、イエス様に愛されたように愛し合う

 新共同訳聖書の31節の前には、「新しい戒め」という表題があります。新しい戒めは、ユダが出て行った後に語られたものです。30節に「夜であった。」とありますが、単に時刻を表したものではなく、光がない時、全てが闇に閉ざされる時、希望がなく、目標や目的が失われるのです。十字架を前にして、そういう暗闇を迎える所で、イエス様は弟子たちに語られるのです。私たちも、暗闇や絶望を経験する時があります。しかし、そのような絶望を経験する時にこそ、聞くべき言葉があるのです。そのような時でしか、味わえない恵みというものが確かにあるのです。祝福の時にも失う命があり、失意や病気、絶望の中にこそ輝く命が確かにあるのです。

 31節、32節には、「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」とあります。「栄光」とは、与えられるもの、受けるものであるということです。栄光は、自分自身で獲得したり、奪い取るというものではありません。父なる神様が、御子イエス様によって、栄光を受けられ、御子イエス様は父なる神様によって、栄光をお受けになるのです。父なる神様と御子イエス様は、栄光を与え合う関係にあるということです。栄光を受けるとは、罪を背負う十字架につけられれるということです。

 34節、35節には、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」」とあります。イエス様は、互いに愛し合うことを「新し戒め」と言われました。今までにも愛するということはあったでしょう。レビ記19章18節には、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」とあります。イエス様は、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われたのです。先生であり、主であるお方が、弟子たちの足を洗うという形で愛されたように、「あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われるのです。しかし、私たち人間には、もともと愛はありません。イエス様が十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下って新しい時代を開いて下さいました。だからこそ、私たちはイエス様が私たちを愛して下さったように、私たちが愛し合う世界が訪れたのです。それは神様の恵みなのです。私たち人間の側の努力ではなく、神様の業である十字架を通して神様に愛されていること、イエス様に愛されていることを知る時に、おのずと隣人を愛せるように神様が導いて下さるのでしょう。愛さなくてはならないと努力するのではなく、イエス様に出会い、イエス様に触れられる時、イエス様の愛が私の上に注がれていることを感じるとき、私たちは隣人を愛さずにはおれなくなるのです。イエス様は、ご自分を裏切るユダをどこまでも愛されました。裏切られても裏切られても、イエス様は愛さずにはおられないお方なのです。相手の態度で変わるお方ではありません。その愛でイエス様はユダを見つめ、その愛で私たちを見つめていて下さるのです。この愛で愛されていることを信じ、感じて私たちが愛し合うならば、私たちがイエス様の弟子であること、イエス様を信じる者であること、クリスチャンであることを知るようになるとイエス様は約束されたのです。「あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認める」と口語訳聖書や新改訳聖書は記してあります。ユダの裏切りは、イエス様にも弟子たちにも、この後大きく影響するのでしょう。ペトロの裏切りも、他の弟子たちが逃げてしまうことも大きなことです。しかし、それがどのように大きなものであっても、神様の愛、イエス様の愛の前には小さなものに過ぎないのです。私たちは自分の罪深さ、弱さ、醜さを痛いほどに感じますが、それ以上に、神様の愛の深さ、愛の大きさ、愛の広さを強く体験したいと思うのです。

 Ⅲ結論部

 ユダの心は、サタンに支配されていたので、イエス様の洗足の出来事、仕え合うという教えを聞いた時、余計に心が離れたようにも思うのです。これ以上ついていけないという思いがあったのでしょう。「サタンが彼の中に入った。」とはそういう意味もあるのでしょう。イエス様は、ユダを愛するがゆえに心を騒がせる中、ユダを責め、問い詰めることもなく、出て行かせたのです。イエス様は、愛する者にそむかれるという苦しみを味わう中で、ユダが再び帰ってくる余地をあちこちに残しておられたのです。かつてクリスチャンであった人々は、信仰から離れ、教会から離れている方々が多くおられます。イエス様は、その方々がイエス様から離れて行かれたことを苦しみ味わわれました。ご自分の尊い血を流し、命をささげたことに痛みを覚えておられるのでしょう。しかし、イエス様は、その方々をなお愛し続け、愛し抜かれるお方なのです。イエス様は、今も、いつまでもあなたを待っておられるのです。

 弟子たちの群れは、この世と変わらない裏切りや世的な祝福を願った集まりでした。聖い人たちの集まりではありませんでした。しかし、この世の集まりと違うのは、イエス様がそこにおられた。イエス様が中心におられたということです。キリスト教会は聖人の集まりではありません。そこには、この世と同じような、つまずきやえこひいきや分裂や裏切りさえもあるのかも知れません。裏切りというは、仲の悪い者同士や敵対する間には存在しないのです。信頼関係があり、愛のある所に裏切りは存在するのです。

 私たちは、ユダのように、自分の思い通りにならないこと、祈りが答えられないこと、祝福されないことで、イエス様を必要ないと切り捨ててしまうのでしょうか。たとえ私たちがイエス様を切り捨てようとも、イエス様の愛は変わらずに私たちに注がれ続けているのです。イエス様はそんな私たちをさえ、愛してやまない、この上なく愛し抜かれるお方なのです。何があっても、このイエス様の愛を疑わないでいたいのです。何があろうとも、絶望を経験しようとも、イエスの愛を信じて、愛をいただいて、互いに愛し合う者として生き、愛し合うことを通して、キリスト者であることを多くの人々に認めていただきたいのです。私たちはイエス様に愛されていること、私たちはイエス様に愛されるために生まれたことを覚えて、信じて、イエス様と共に今週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(24年3月3日)

2024-03-03 12:39:16 | Weblog

日曜礼拝(受難節第三)       2024.3.3

         「劇的な最後の晩餐」 ヨハネ13:1~17

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第一の日曜日を迎えました。2024年も3月を迎えました。1月は行き、2月は逃げ、3月は去るのでしょう。月日の経つのも早いもので、2024年も、あと302日を残すにもとなりました。私たちは、受難節を迎えてイエス様の十字架の苦しみを日々覚えながら歩んでいます。しかし、今日は復活を記念する日、喜びの日ですから、受難節の中には数えられません。十字架の先にある復活の恵みを覚えて、み言葉に目を留めたいと思います。今日はヨハネによる福音書13章1節から17節を通して、「劇的な最後の晩餐」と題してお話いたします。

 Ⅱ本論部

 一、人間的な弟子を最後まで愛されるイエス様

 洗足の記事は、ヨハネによる福音書だけに記されているものです。また、ヨハネによる福音書には、マタイ、マルコ、ルカのよる福音書にある聖餐式の制定の記事はありません。 

1節には、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。先週は、イエス様が「人の子が栄光を受ける時が来た。」と語られて一粒の麦が地に落ちる、つまり、ご自分の命をささげるということを見ました。イエス様は、「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と3年と少しの間、共に歩んで来た弟子たちとの最後の食事に望みます。「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあり、この3年と少しの間、イエス様は、イエス様の言葉や行動をなかなか理解できない弟子たちを愛してこられましたが、この最後の時までイエス様は弟子たちを愛し、愛し抜かれるのです。2節には、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあります。悪魔、サタンは、ユダの横にいて手取り足取りして、イエス様を裏切らせるのではありません。「イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあるように、心に、思いに、誘惑を与えて実行させるのです。ユダの心には、サタンによってイエス様を裏切る考え、思いを抱かせていたので、ユダの心は揺れていたのでしょう。

3節を見ると、「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、」とあります。「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと」とありますが、新改訳聖書第三版には、「父が万物を自分の手に渡されたこと」とあります。イエス様は、父なる神様から万物を治める権威を委ねられたのです。イエス様は、この権威をもって弟子たちを権威者として教えたというのではなく、弟子たちを愛し抜かれ、弟子たち一人ひとりの足を洗うという行動をされるのです。ルカによる福音書22章24節には、「また、使徒たちの間に、自分たちのうちで誰がいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」とあります。最後の晩餐の席でさえも、弟子たちの話題は、「誰がいちばん偉いか」ということでした。この話題は、常に弟子たちの間で論争されていたようです。ですから、弟子たちの中には、足を洗うという行動はありませんでした。弟子たちの中には、しもべの役、奴隷の役、足を洗うという役を進んで行う者は、誰もいませんでした。イエス様は、いつも愛すること、仕えることを教え、実践してこられましたが、イエス様の弟子たちは、イエス様の権威ある言葉や力ある業を見た多くのイスラエルの人々と同じように、イエス様は、ローマの圧政から解放してくれる政治的な救い主として捉えていたように、弟子たちもまた、自分たちの先生であるイエス様の権威ある言葉をそばで聞き、力ある業をまじかで見ていたので、イエス様を政治的な救い主、王として期待し、自分たちは、イエス様に仕える最高幹部として立つことを夢見ながら、誰が一番偉いのか、誰がイエス様の左右に立つのかと、日々議論していたのです。イエス様の十字架を前にしての苦しみ、悲しみ、痛みをよそに、弟子たちは自分たちの名声、権威を望んでいたのです。実に権威を与えられたイエス様は、与えられた権威を用いて何かをするというのではなく、権威とは正反対の行動に出るのです。

 二、謙遜の背後に傲慢があるペトロの姿

 4節、5節を見ると、「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」とあります。過ぎ越しの食事をし、歓談の中、イエス様は弟子たちが思っても見なかった行動に出ました。食事の席から立ち上がられると何をするかと思いきや、上着を脱がれました。「上着を脱ぎ」の「脱ぐ」という言葉は、普通服を脱ぐには使用しない言葉、原語ではティセミーという言葉が使用されています。他の個所では、この言葉はイエス様が命を捨てるの「捨てる」という表現で使われているようです(ヨハネ10:11.15.17.18)。ヨハネは、イエス様が上着を脱ぐという時、この言葉(ティセミー)を用いることによって、すでにイエス様の十字架を暗示させているように思うのです。ここにある「手ぬぐい」とは、日本にある短いものではなく、奴隷が腰に巻くと長く垂れるようなものでした。「手ぬぐいを取って腰にまとわれた。」とは、奴隷の姿になられたということです。「それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」とあり、イエス様は奴隷と同じ姿となり、奴隷と同じやり方で弟子たちの足を洗われたのです。

 食事の席に招かれた人は、入り口で奴隷に足を洗ってもらって家の中に入ります。足を洗う仕事は奴隷の仕事でした。イエス様は、「父が万物を自分の手に渡されたこと」を知りながらも、奴隷の姿で、奴隷がするように弟子たちの足を洗われたのです。神であるお方が、最も低くなられたのです。弟子たちはびっくりしたことでしょう。衝撃的な出来事でした。イエス様に足を洗っていただく弟子たちの思いはどのようなものだったでしょうか。

 6節から8節を見ると、「シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」とあります。ペトロは、他の弟子たちがイエス様に足を洗われるのをじっと見ていたのでしょう。自分の番になって、先生であるイエス様が弟子の自分の足を洗うことを拒否します。イエス様は、ペトロがイエス様の行動に対して理解できないでいることを分かったうえで、

わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのです。「私の行動が今は理解できないけれども、後でわかるから私の行動を受け入れるように」ということなのでしょう。けれどもペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」とイエス様が自分の足を洗うことをきっぱりと拒否するのです。今理解できなくても、納得いかなくても、イエス様の行為を受けるべきでした。するとイエス様は、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのです。水で足を洗うとか洗わないで、イエス様との関係がなくなってしまうことが決まるとはどういうことなのでしょう。イエス様は、洗うという行為に大切な意味を込められていたのだと思うのです。

 三、問題のある者、罪ある者を変わらずに愛されるイエス様

 私たちは、神様、イエス様の行為を素直に受け入れているのでしょうか。ペトロの「わたしの足など、決して洗わないでください」という言葉には、ペトロの謙遜という傲慢な思いがあるように感じるのです。自分の足はイエス様に洗ってもらう必要はない。私たちは、自分の醜い部分、見せたくない部分は自分で何とかしようとします。自分の事は自分で解決できるという考えが心に潜んでいるのです。教会は、清い人、聖人の集まりだと思っている人もいるようです。初めて教会に来た人や求道中の方々にはそう見えるようです。教会の顔は信仰的、霊的に見えるのかも知れません。しかし、教会はむしろ罪人の集まりなのです。私たちは、問題があるままで、罪を持ったままでイエス様の前に出ることが赦されているのです。あるがままの私をあるがままでイエス様は愛して下さるのです。教会とはそういう場所なのです。背伸びする必要もなく、良く見せる必要もないのです。もう少し、聖書を学んでからとか、もう少し教会生活を送ってからとか信仰が成長したらと考える必要はないのです。私たちは、イエス様の行為、十字架と復活によって罪が赦されるということを素直に受け入れ、信じたいと思うのです。

 ペトロは足を洗わなければ、イエス様との関係がなくなると聞いて、9節を見ると、「そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」とあります。洗うことがイエス様との関係を深めるなら、「全身お願いします。」とイエス様との関係の最高のレベルを求めたのです。10節、11節には、「イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。」とあります。イエス様は、水浴した者は、足だけ洗えばよいと言われました。水浴とは、神様に立ち返り、イエス様の属する者、クリスチャンになる洗礼を示しています。洗足は、キリスト者として生きる中で、日々犯す過ちや罪を悔い改めて、イエス様に告白し、洗われることを示しているようです。水浴した弟子たちは、ユダを除いて神様から清いと言われたのです。イエス様は、ユダを分け隔てなく、差別することなく、他の弟子たちと同じようにユダの足を洗われたのです。イエス様は、ユダを最後まで愛し通されたのでした。イエス様はユダにされたように、罪深い私たち、弱い私たち、自己中心的な私たちを愛して下さる。この上なく愛し続けて下さるのですから、そのままの姿で、ありのままの姿でイエス様の所に行こうではありませんか。

 12節には、「さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。」とあります。「上着を着て」の「着る」(ランバノー)という言葉は、他の個所では「得る」と訳されている言葉です。先ほどの上着を脱ぎの「脱ぐ」は、「捨てる」という意味で、イエス様は十字架で命を捨てること、上着を「着る」という行為はイエス様の復活を示していると言えるようです。

 Ⅲ結論部

 イエス様の弟子たちの足を洗うという行為は、弟子たちへの模範として行われました。15節には、「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」とあります。イエス様は弟子たちが、「誰がいちばん偉いのか」と論じ合う中で、奴隷の立場となって弟子たちの足を洗われたのです。本来、天の御座におられるお方が、神であるお方が、その地位や立場の痕跡を見えないほどにして弟子たちに仕えられたのです。イエス様は弟子たちが、イエス様の模範に従って生きていくようにと最後の最後で身をもって教えられ、見せられたのです。

 イエス様はペトロに、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。ペトロや他の弟子たちには、イエス様の洗足の行為の意味が全く分かりませんでした。理解できませんでした。しかし、「後で、分かるようになる」と言われたのです。本当に大切なものは、時間をかけないとわからないものなのです。聖書の言葉も、神様のなさることも、そういう面があるのだと思うのです。私たちはイエス様の十字架と復活を信じます。神様の深い愛を信じます。けれども、私たちが経験する事柄の中には、神様の愛を感じられないことがあります。神様に文句をいいたいと思う出来事を経験します。苦しい事、悲しい事、辛い事を経験します。神様を信じます、と簡単には言えない出来事が確かにあるのです。弟子たちのイエス様の洗足の意味が理解できたのはイエス様が復活し、イエス様が天に帰られ、聖霊が与えられてからでした。人間の考えや思いでは理解できないのです。聖霊の導きと助けがないとわからないのです。イエス様が十字架と復活を通して私たちを愛していて下さることは理解でき信じることができます。その愛を私のための愛として、信じていきたいのです。イエス様の愛をいただいて、その愛を隣人に実践する時、イエス様の模範のように、隣人に仕えていく時、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたイエス様の言葉を信じて、今の痛みや苦しみ、絶望さえも、私たちのことを一番わかっておられるイエス様にお任せしていきたいのです。神様に全てを委ねていきたいと思うのです。

 私たちの今の痛みを苦しみを、悲しみを誰よりも知っておられるイエス様は、今もあなたの傍らにおられます。ですから、この週もイエス様に全ての重荷を委ねて、イエス様の前に重荷をおろして、イエス様に支えられて歩んでまいりしょう。大丈夫。イエス様はあなたを大切に思っておられ、あなたを深く愛していて下さるのです。

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日曜礼拝(24年2月25日)

2024-02-25 12:36:52 | Weblog

日曜礼拝(受難節第二)       2024.2.25

         「一粒の麦として来られた救い主」 ヨハネ12:12~26

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第四の日曜日を迎えました。もう2月の最後の日曜日です。

2月14日の灰の水曜日から受難節・四旬節が始まりました。今年のイースターは、3月31日ですから、前日の3月30日までの日曜日を除く40日間が受難節、四旬節です。日曜日を除くのは、日曜日は復活を記念する喜びの日ですから、6回の日曜日を除く40日をイエス様の十字架の苦しみを覚えて、好きなものを断ったり、悔い改めの期間として過ごします。今年の受難節は、ヨハネの福音書からお話ししたいと思います。今日は、ヨハネによる福音書12章12節から26節を通して、「一粒の麦として来られた救い主」と題して、お話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、誤った救い主の歓迎

 12節、13節には、「その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」」とあります。過ぎ越しの祭りを控えて、エルサレムの町は巡礼のために集まってきた人々で一杯でした。

12節の前の11節には、死んだラザロを蘇らせたイエス様を多くの人が見に来たこと、イエス様だけではなく、よみがえらされたラザロを見るためであること、祭司長たちは、ラザロの蘇りで、多くのユダヤ人がイエス様を信じるようになったので、ラザロをも殺そうと考えていることなどが記されています。その翌日、祭りに来ていた多くの群衆は、イエス様がエルサレムに来られると聞いて、自分たちが待ち望んでいた救い主であると歓迎するのです。17節、18節には、「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである。」とあります。歓迎した群衆とは、ラザロの復活を見た人々、その証を聞いた人々、過ぎ越しの祭りに来ていた人々を合わせた群衆がイエス様を歓迎したのです。死人を蘇らせたという事実は、多くの人々に救い主としての権威づけになったのでしょう。群衆は、「なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。」とあります。「なつめやしの枝」「棕櫚の枝」は、植物学上では、背が高く成長し(15m~30m)、一度に多くの実をつけることから、昔から「繁栄、豊穣」の象徴とされてきました。荒野のような過酷な環境下でも、深く根を張り、強い生命力を発揮して育つために、フェニックス(不死鳥)と呼ばたようです。日本では、松竹梅にあたる縁起の良い植物と言えます。エゼキエル書40章から43章には、神殿の入口から本殿至聖所に至る道筋になつめやしが登場し、神殿全体の周りになつめやしの木が彫刻されていて、なつめやしの木は御国の神殿を指し示し、そこにお迎えするメシアとしてのイェス様を表していると考えられるようです。また、なぜなつめやしの枝かというと、BC164年の出来事から来ているようです。当時のイスラエルは、異教徒に支配され、ギリシャの神ゼウスの像が、エルサレムの神殿に置かれていたようです。それはユダヤ人にとっては、神殿を冒涜されているという堪え難い屈辱でした。しかし、BC164年にマカベヤのユダという人物が、戦いに勝利してエルサレムを異教徒から奪還し、神殿を清めて神様に再び奉献したのです。このことを記念して神殿奉献記念祭が行われるようになりました。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。」(ヨハネ10:22)と聖書は記します。

その時、人々はなつめやしの枝を振って喜び祝いました。なつめやしの枝を振るという行為は、エルサレムが異邦人の支配から解放されたことを喜ぶという意味があるようです。今、ローマ帝国に支配されていたイスラエルが、ローマに勝利して神の民ユダヤ人を解放してくれるイスラエルの王を待ち望んでいた群衆が、イエス様を大歓迎したのです。

 「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、/イスラエルの王に。」と群衆は叫びました。ホサナとは、イスラエルの民がエルサレムに巡礼するに時に用いた詩篇118編25節から出てくるヘブライ語の「ホーシーアー・ナー」(主よ、今どうぞ救ってください。)がバビロン捕囚時代アラム語を話すようになったため「ホーシャナー」というアラム語になり、後にギリシャ語で「ホサナ」になったようです。次第にその言葉の意味は変わって「万歳」というようなほめたたえる歓喜の言葉として用いられるようになったのです。

群衆は、イエス様をローマ帝国からイスラエルを開放してくれる救い主として歓迎したのです。

それは、イエス様の思いとは全く違うものであったのです。死人を蘇らせたというインパクトな出来事で引き付けられた人々の熱はすぐに冷めます。やがて、木曜日には、イエス様を熱烈に歓迎した群衆は、イエス様を「十字架につけろ」と叫ぶようになるのです。

 

 二、人間の欲の思いとイエス様の心の差

 群衆の熱狂に対してイエス様は、14節の前半には、「イエスはろばの子を見つけて、お乗りになった。」とあります。ろばの子に乗ってこられる王というのは、実際はありえないおかしな姿だと言えます。ろばは、通常荷物を運ぶ家畜でした。王様や兵士は馬に乗ります。ですから、ろばの子に乗って来られる王とは普通ではありません。なので、誰の目にも一目で、「この人だ」とわかる印であったのです。イエス様が誕生された時、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」(ルカ2:12)と天使は羊飼いたちに伝えました。救い主が家畜小屋の飼い葉桶に寝ている赤ちゃんだとは普通じゃありません。めったにない姿なので、しるしとなりました。エルサレム入城の時も、ろばの子は大人が乗るのには、おかしな、滑稽な、ふらふらとよろけて、今にも倒れそうな歩き方だったでしょう。そんな不格好な王様はいません。旧約聖書は、イエス様のエルサレム入城を「「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、/ろばの子に乗って。」」と預言しているのです。イエス様が子ろばに乗ってエルサレムに入城されることよって、旧約聖書の預言が成就したのです。

ろばの子に乗られたイエス様は、権力や武力によって支配するのではなく、平和の王として来られたことを示しています。武器も持たず、兵隊も伴わず、その代わりに、漁師や徴税人、女性たち、貧しい人や罪人たちを伴って行進されたのでしょう。それは、平和の王としての象徴なのです。「エルサレム」とは、「平和の町」「平和の基礎」という意味があるようです。その意味の通りに平和の王としてイエス様は、エルサレムに入城されたのです。イエス様は、群衆に歓迎されることが、祭司長やファリサイ派の人々の憎しみをさらに買う行為であることがわかった上で、あえて人々の目を引く形でエルサレムに入城されたのです。それは、イエス様の思いではなく、父なる神様の思い、旧約聖書の預言の通りにされたことなのです。

 19節には、「そこで、ファリサイ派の人々は互いに言った。「見よ、何をしても無駄だ。世をあげてあの男について行ったではないか。」とあります。「何をしても無駄だ。」とファリサイ派の人々は、あきらめ気味です。「何の益にも、何の役にも立たない。」ということでしょう。マリアがイエス様の葬りの用意として香油をイエス様の足にぬった時、イスカリオテのユダは、「無駄な行為だ」とマリアを非難しました。これが、人間の基準でしょう。有益なものや役に立つものは尊ばれて、益にならないものや役に立たないものは捨てられてしまうのです。そして、それがものだけではなく、人間に対しても適用されるという現実があります。有能な人や有益な人は尊ばれ、無力な人や無益な人はさげすまれるのです。しかし、私たちがイエス様に出会い、イエス様の十字架と復活を通して救いに導かれて、神様の存在を知り、信じるならば、全ての価値観が変えられるのです。私たちの無力さ、小ささ、弱さ、あるいは、苦しみや悲しみ、失敗さえも無益ではないということなのです。遠回りすることも、立ち止まって休むということも大切なことであると知るのです。私たちを導かれる神様は、私たちの経験する全ての事、良い事も悪い事も益として下さるということを知ることができるのです。私たちが、自分の心の中にある罪を認めて、自分が罪人であることを知って、自分は無力な、無価値な者だと思っても、神様は私たちに対して、イエス様の十字架と復活を通して、「わたしの目には、あなたは高価で貴い。」と言って下さるのです。何と感謝なことでしょうか。

 

 三、十字架で死ぬことによるイエス様の栄光

 20節から22節には、「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。」とあります。熱狂のエルサレム入城の後、ギリシャ人たちがイエス様に会いたいと願います。「お目にかかりたい」の「見る」「イデー」という言葉は、ヨハネによる福音書では。「イエス様を信仰の対象として見る」というニュアンスがあるようです。過ぎ越しの祭りはユダヤ人のものでした。しかし、異邦人でも割礼を受けてユダヤ教に改宗する人がいたり、改宗しなくても、イスラエルの神様に対する信仰を持つ人々がいたようです。それが、今回のギリシャ人たちでしょう。イエス様の奇跡のみ業を見たり、権威ある言葉を聞いても信じない人々が多くいました。しかし、このギリシャ人たちは、信仰の目をもってイエス様を見ていたのです。ギリシャ人たちは、フィリポに願いました。なぜフィリポかというと、「ガリラヤのベトサイダ出身」とあります。幹線道路が交差するガリラヤ地方は、国際商業が盛んで、多くの人々は、アラム語やギリシャ語を用いていたようです。フィリポはギリシャ名で、ギリシャ語を話すことができたのかも知れません。ベトサイダには、ギリシャ人もいたようで、フィリポを見かけたことがあったのかも知れません。フィリポは同じベトサイダ出身のアンデレに相談しました。そして、アンデレとフィリポは、イエス様の所に行くのです。

 23節には、「イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。」」とあります。イエス様は、ヨハネによる福音書において、ご自分の時について語っておられます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」」(ヨハネ2:4)、「イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている」(ヨハネ7:6) ここでは、「人の子が栄光を受ける時が来た。」とはっきりと言われたのです。イエス様は、群衆の熱烈な歓迎を受けたので、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われたのではありませんでした。イエス様に会いたいというギリシャ人をアンデレとフィリポが連れて来た時に、「人の子が栄光を受ける時が来た。」と言われたのです。その時が来たことをイエス様は、ギリシャ人が訪ねて来たことによって知られたのです。それは、これから起こること、イエス様の十字架の死が、ユダヤ人だけではなく、異邦人の救いにも関係しているからです。24節では、「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。一粒の麦が地に落ちて芽を出すという事実をその一粒の麦が死ぬと表現しておられます。一粒の麦が地に落ちて芽吹くと多くのものが実るようになります。イエス様がご自身の命を差し出して死んで、イエス様の命が失われるなら、そこから多くの人たちが、新しい命に生きるようになると言われたのです。私たち人間は、神様の息吹を、吹き入れられて造られ生きるようになりました。しかし、人間が神様を見失い、罪によって、神様と共に生きることを捨ててしまいました。その人間を神様は、再び回復させるために、新しい芽を出し、多くの実を結ばせるために、イエス様が一粒の麦となられて、地に落ちて命を捨てなければならなかったのです。私たちは自分自身を捨てることはできません。自分を捨てることのできない私たちのために、イエス様が十字架の上で裁かれ、尊い血を流し、命を捨てなければならなかったのです。私たち人間が、イエス様の死に与らなければなりませんでした。イエス様の死によって、私たちはイエス様の復活にも与るという約束をいただいたるです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は救い主として、栄光を受けるためには死ななければならないのです。イエス様が十字架にかかって死ぬことによってこそ、全ての人の救いという豊かな実が実るのです。死んで復活することによって、生きる者となるのです。イエス様の十字架の死は、イエス様の復活によって、私たちにも復活と永遠の命が与えられるという豊かな実を結ぶことができるのです。

 25節には、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」とあります。この言葉は、イエス様の十字架の死と復活によって罪赦された者、救いに与った者の新しい生き方を示しているのでしょう。「自分の命を憎む」の「憎む」と訳された言葉は、「執着しない。第一としない。」という意味があります。自分に執着しない。自分を第一にしない。他者を愛し、他sを大切にする者、イエス様の十字架と復活を通して、神様の愛に生きる者は永遠の命をいただけるのです。

26節には、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」とあります。イエス様の行く所に着いて行くのです。自分の行きたい所に行くのではないのです。自分のやりたいことをするのではありません。イエス様が命じられた所に行き、イエス様が行いさないと言われることを行うのです。自分だけを愛していたら、自己中心ならば、この働きはできないのでしょう。私たちは、イエス様の十字架と復活を信じるということは、一回限りのことではないのです。イエス様の十字架と復活を信じるということは、一生涯、その中に、十字架と復活、福音に生きるということなのです。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。」(星野富弘作)「いのちよりも大切なもの」とは何でしょうか。命よりも大切なものがあるのでしょうか。イエス様は、ご自分の命を私たちのために、私たちを罪から救うためにささげて下さったのです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」と言われました。そして、死んで下さったのです。死の先にある復活、永遠の命の恵みを指し示して下さったのです。そこまで私たちを愛しておられるイエス様の愛を感じて、この週も歩ませていただきましょう。

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日曜礼拝(24年2月18日)

2024-02-19 16:34:30 | Weblog

受難節第1主日礼拝説教(青葉台教会)                                                                 2024年2月18日

満山 浩之

『失われたものを取り戻す』

ペトロの手紙一 3章18節〜22節

皆さん、おはようございます。今年も藤沢からやって参りました。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

今回この青葉台教会に来させて頂いて、

またまた、前回来させて頂いた時と違う所があるのですが、

皆さんどこか分かるでしょうか。

 実は私、1月31日にデビューしてしまったのです。

そう、何を隠そう、39歳にして、入れ歯デビューをしてしまったのです。

 まだ介護保険も始まっていないのに。

ショックを隠しきれずにいるので、皆さんからの励ましのお言葉待ってます。

 さて皆さんは、失われたものを取り戻したいけれど、

 取り戻せないものはあるでしょうか。

私の場合は、この歯です。

 失ってしまった永久歯は、もう帰ってきません。

小さい頃からサッカーをずっとやっていて、

人一倍歯を食いしばって来たからでしょうか。

 分からないですけど、一本だけもうすでに失ってしまいました。

失われた歯は、もう2度と取り戻せない。

 何かで代用しなければならない。

それが人間というものです。

 でも、私たち人間というのは、

 失われたものを取り戻すことができるものもあるのです。

それは、神様との関係を取り戻す、ということです。

 この聖書の最初の方に、創世記という書簡があります。

その中にこう記されてあるのです。

 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(1:27)

私たち人間というのは、神様にかたどって造られたということです。

 新しい訳の聖書、聖書協会共同訳では、

「神は人を自分のかたちに創造された。

神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」とあるのです。

 そしてその少し後の方にはこのようにも記されています。

その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)

 つまり、私たちは神様のかたちに造られて、

 神様に命の息を吹き入れられて生きる者とされているということなのです。

ですので、

今このように生きていることが当たり前のように思っているかもしれないけれど、

そんなことはなくて、神様によって生かされている、それが私たち人間なのです。

 まずはこのことを心に留めておくことです。

すべてが順調な時もあれば、なかなかうまくいかない時もある。

 それが人生というものですよね。

神様があなたに特別な、あなたにしかない人生を与えられています。

 自分の理解し難いような出来事もありますけど、

 何でなんですか、何でこんなことが私に起こるのですかって、

 思うこともいくらでもあります。

でも神様は、あなたを大切で特別な存在として、いつも愛して下さっています。

 目には見えないけれど、いつも傍らにいて下さって、

 私たちが倒れないように、つまずかないように、

 悲しみに打ちひしがれて下を向き続けないように、支え続けて下さっているのです。

神様はこの世のどんな人をも、愛し続けて下さっています。

 色々な方法で、神様の存在に気付いて欲しい、受け入れて欲しいって、

 側で見守り続けておられるのです。

そのことをも心に留めておいていただきたい、そのように思うのです。

 そんな私たち人間は、神様の存在を忘れ、いや、知らずに、神様なんているのかと疑い、

 神様以外のものを神とし、それに頼って生きています。

ある人は何よりもまず、お金が大切なのだ。

 お金があれば何でもできるし、困ることなんかない、そのように考えます。

ある人は、地位や名誉、世の中での立ち位置、

周りの人と比べて人よりも上に立ちたいと願う。

 そのために日々仕事をし、切磋琢磨して頑張っている。

決して悪いことではないですが、動機に問題がある。

 またある人は、恋人さえいれば、人生のパートナーさえいれば、

 他のものは何もいらない、そのように考えます。

ある人は、SNSのいいね!の数さえ多ければ、

投稿した再生回数が多ければ多いほど、私には価値があるのだ、

すごいだろ、まるで有名人と、自慢げに誇りを持っている。

 そのことは悪いことではないですが、動機がそれだけだと心配です。

これらのことだけを、自分の心の支えにしていたら、

人はいつか音を立てて崩れていきます。

 いい事ばかりではないのが、私たちの人生です。

絶対に失わないものなどありません。

 それらが失われてしまった時に、絶望のどん底に落とされたような、

 もうお先真っ暗と思わせるような状況に陥ってしまうでしょう。

神様から離れてしまう私たちは、人間本来の生き方が分からなくなってしまうのです。

 私はどう生きて行ったら良いのか、何を求めたら良いのか、

 人生の意味は何なのか、もうブレブレの状態になってしまうのです。

でも、そんな私たちにも希望があることを聖書は記しています。

 私たちにとって絶対に無くならないものがあるのです。

絶対に失わないものがあるのです。

 それがイエス様の愛です。

神様の独り子であられるイエス様が、神様から離れてしまっている私たちを、

神様との関係を失ってしまっている私たちを、

回復させるためにこの地上に来られたのです。

 この世のすべての人が神様との関係を取り戻すために、

 何も罪を犯していない正しいお方であるイエス様が、

 あなたのために十字架で一度だけ苦しまれました。

命を懸けて、あなたのために死んで下さった。

 この世の全人類の罪のために、誰一人として漏れることのないすべての人のために、

 十字架で死んで下さったイエス様です。

これは一度だけて良いのです。

 一度だけ罪を全部背負って、何も悪いことをしていないイエス様が、

 人々の罪が全て赦されるように死んで下さった。

しかも苦しみながら、あと一回鞭で打たれたら死んでしまうくらい鞭で打たれ、

血を流されて、手には釘が打たれ、全体重をその釘で支えるくらいの十字架刑です。

 最も苦しいと言われていた死刑のやり方です。

なぜそこまでされるのか。

 神様のかたちに造られた私たちが、神様との関係を取り戻す、

 失われていた神様との関係を回復させるためです。

18節にありますように、「あなたがたを神のもとへ導くため」だからです。

 当時の人たちは日々、祭司によって、犠牲をささげてから、

 罪の悔い改めをしていました。

ですから、毎日のように、神様に背を向けてしまったこと、

神様を無視してしまったことなどをすべて告白し、

祭司が犠牲のものをささげて赦されるものとされていました。

 罪を犯すたびに犠牲をささげなければならなかったのです。

でもイエス様の犠牲による死というのは、全き犠牲、完全なる犠牲なので、

一度きりで十分なのです。

 その十字架の死によって、すべてが赦されるのです。

ヘブライ人への手紙7章27節にこのように記されてあります。

 「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、

 次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。

というのは、このいけにえはただ一度御自身を献げることによって、

成し遂げられたからです。」(ヘブ7:27)

 またヘブライ人への手紙9章28節にはこのように記されてあります。

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(ヘブ9:28)

 だた一度だけイエス様が御自分の体を献げられたことによって、

 私たちはきよめられているのです。(ヘブ10:10)

あらゆる罪から解放されて、神様と共に歩む道が開かれているのです。

 この私たちが持っているこの聖書、特に新約聖書には、

 十字架の上で、2度と繰り返す必要がないことが起こったこと、

 罪が徹底的に打ち破られたことを、この確信を持って伝えています。

この罪というのは、神様と私たち人間との間にあるべき正しい関係を妨げるものです。

 イエス様の犠牲のすべての目的は、この失われた関係を回復することなのです。

そのためだけにイエス様は十字架の上で死なれた、その役目を果たされました。

 そのためにこの世に誕生されて、地上の生活を過ごされて、

 罪ないものが罪あるもののために死なれたのです。

罪あるものである私たち人間のために、神様と関係が失われている私たちのために、

そんなの関係ないって言うことも出来る存在だけれども、心から愛を注がれて、

私たちが受けなければならない罰を身代わりとなって受けて下さった、

このイエス様の愛というのは、無限であり、

この世の考えでは絶対にあり得ないことです。

 このイエス様は、私たちを神様のもとへと導くために、この苦しみを拒むことなく、

 自らが受け入れて死なれました。

この「導く」と言う言葉は、「近づける」と言う意味のある言葉です。

 この言葉の派生語を見ていくと、「紹介する」と言う意味になります。

つまり「導く」というのは、「紹介した結果、近づく権利が与えられている」

ということになるのです。

 ですから、イエス様はこの十字架の死を通して、それを信じる者、

 イエス様の十字架での死が、この自分のためなのだ、私に神様を紹介して、

 その結果、神様に近づくことができる、神様に近づく権利が与えられている、

 神様と一緒にこれから生きていくことができる、という道を開いて下さった、

 その道を示して下さった、ということなのです。

私たちが生まれながらに失っている神様との関係を、

もうすでに、約2000年も前に、イエス様によって解決されているのです。

 神様との関係が失われている私たち人間は、

 イエス様の十字架での死を受け入れ、信じることによって、

 それを取り戻すことができるのです。

この世の中で生きていく上で、何を拠り所として生きて良いか分からない時も、

何を目的として生きていけば良いか分からない時も、

心に空いてしまった穴を何で埋めたら良いのか分からない時も、

このイエス様を心に携えて行くことさえ出来れば、

神様との関係を取り戻すことができ、人間本来の生き方が出来るのです。

 迷わずに従っていけるお方に気付くことが出来るのです。

暗闇の中を歩んでいると思っていたとしても、

明かりが灯されて、導きの中を歩むことが出来るのです。

 特に先週水曜日から始まっている受難節には、

 イエス様の十字架の死という出来事を心に強く留め、

 これからの日々を過ごして参りましょう。

人生の意味を見失っている人たちに、

一人でも多くの人たちにこの神様の御言葉が届くことを私は切に願い、

そして、一人でも多くの人たちが、この神様と共に歩む人生を送ることが出来るように、

祈りつつ、また実際に言葉にして、行動に移していきたい、そのように思います。

 私たちは、そんな神様のことを忘れてしまう時があります。

今の自分があるのは当たり前だとか、

人よりも上手く行っているから、順調にいってるからって、

ちょっと天狗になって傲慢になってしまいやすい存在です。

 いくらでも神様との関係を失うことは出来ます。

神様なんかいらないと自分勝手に生きることもできます。

 でも神様は憐れみ深い愛のお方ですから、あなたを決して離しません。

あなたは神様を離すかもしれない。

 でも神様はあなたを離しません。

ガシッと手放すことがない、見捨てることがないお方です。

 この1週間も、この神様が私たちには居て下さる。

支え続けて下さる、守り続けて下さる、導き続けて下さることを覚え、

心に留めて、これからの日々を過ごして参りましょう。

 

 

 

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日曜礼拝(23年2月11日)

2024-02-11 12:51:10 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)          2024.2.11

         「見えるようになりたい」 ルカ18:35~43

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。先週は、雪のために交通がマヒして多くの方々が大変な思いをしたことでしょう。皆さんに祈っていただきました家内の母の葬儀も無事終わりました。神戸まで車の移動でしたが、雪からも守られて感謝でした。

 「一つだけどんな願いをかなえてあげようか」と神様に言われたら、皆さんはどんなことを願われるでしょうか。愛する人が亡くなって、その人を蘇らせて下さいという願いや病気の人は、その病気が完全に癒されるようにという願い、受験や就職試験が合格するようにという願い、会社の成績が伸びること、圧倒的な経済の祝福など、様々な願いがあるのでしょう。「一つだけどんな願いをかなえてあげようか」という問いは、誰にでも理解できる単純な内容でしょう。しかし、単純ではあるのですが、深いものがあるように思うのです。この問いはある意味では宗教的なものだとも言えるのかも知れません。この問いは、私たちの人生の中で、一番大切にしているものは何かというところに心を向かわせることになります。そして、その問いに対しての答えは、私たちが、神様を信じることの理由や反対に、神様を信じないという理由にもなるように思うのです。私たちは、神様が自分の願いや祈りに答えて下さらないと神様を信じないという理由になるのではないでしょうか。

 今日は、ルカによる福音書18章35節から43節を通して、「見えるようになりたい」という題でお話いたします。

Ⅱ本論部

 一、真実な信仰告白

 35節には、「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。」とあります。エリコでは、この後あの有名なザアカイとイエス様との出会いがあり、イエス様は、その後十字架につけられるためにエルサレムに向かわれます。そのような状況の時です。おそらく、エリコに入る門のところで、この盲人は物乞いをしていたのでしょう。門は人の出入りの場所ですから、物乞いをするのには最適な場所でした。盲人であるがゆえに仕事もできずに、道端で物乞いをして生きていくしかない人生だったのでしょう。

 36節には、「群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。」とあります。イエス様のいる所には群衆が集まります。また、当時の学びのスタイルは歩きながら、先生から話を聞くというものがありましたから、イエス様の周りにイエス様のお話を聞く人がいっぱいでざわざわしていたのでしょう。目の見えない人は、目が見えない代わりに耳がよく聞こえたでしょう。いつもと違う気配や人々のざわめきや足音に、違う何かを感じたので、「これは、いったい何事ですか」と尋ねました。

 37節、38節を見ると、「「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。」とあります。「これは、いったい何事ですか」と盲人に尋ねられて、「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせました。「ナザレのイエス」とは、イエス様がナザレでお育ちになったので、イエス様の出身地を言ったというのではなく、見下した表現だったようです。イエス様が十字架につけられた時、十字架につけた罪状書きには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」とありました。この時の、「ナザレのイエス」とは、田舎者、取るに足らない者、愚かな者というような意味があったようです。ステファノを訴えた悪意ある証人たついは、「あのナザレのイエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習を変えるだろう。」(使徒言行録6:14)と汚れた者にでも触れるような言い方をしました。ですから、「ナザレのイエス」という表現は、あまりよくない呼び方のように思います。

 「ナザレのイエスのお通りだ」と盲人は聞いて、「ナザレのイエス」と叫んだのではなくて、「ダビデの子イエスよ」と表現しました。イエス様が、人々を癒しておられるという、うわさを聞いていたのでしょう。旧約聖書には、ダビデの子、つまり子孫に、イスラエルを治め、その繁栄を回復させて下さるまことの王が生まれるという預言があります。「ダビデの子」という表現は、みんなが期待し、待ち望んでいた救い主という意味があるのです。ですから、イエス様に対して「ダビデの子」と呼びかけるということは、「イエス様、あなたこそ救い主です」という信仰を表していることになるのです。この盲人は、イエス様が旧約聖書に預言されているダビデ王の子孫として生まれたメシア(救い主)だと確信していたのす。この盲人は心からの精一杯の信仰告白としての「ダビデの子イエスよ」と表現したのです。この盲人は、ナザレのイエス様こそが、救い主であることを信じたのです。

この盲人はそう呼んで、「わたしを憐れんでください」と叫んだのです。「憐れんでください」という言葉は、日ごろは私たちの間ではあまり使わない言葉でしょう。自分で自分を救えない状態であると自分が認めない限り言えない言葉だと思うのです。私たちは今、イエス様に憐れみを求めなければならない状態にあるでしょうか。

 二、切実な叫び

 盲人が突然、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫びだしたものですから、39節を見ると、「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」とあります。「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」とありますが、「先に行く人々」とは誰の事なのでしょうか。口語訳聖書や新改訳第三版では、「先頭に立つ人々」とあります。リビングバイブルには、「イエスの前を進んで来た人たち」とあります。それは、おそらくイエス様の弟子たちではなかったかと思うのです。先頭に立ってイエス様の道案内的な働きを弟子たちはしていたのでしょう。弟子たちが、目が見えないという苦しみと痛みの中で、イエス様に対して憐れみをひたすらに求めている盲人の切実な叫びに対して、イエス様が痛みと苦しみの中にある人々になさった憐れみを何度も見ていながら、黙らせようとしたというのです。

 今日の記事の前の31節から34節では、イエス様は弟子たちをわざわざ呼び寄せて、ご自分の十字架の苦しみと死、復活することを話されましたが、弟子たちには、イエス様の言っておられる内容が何もわからなかったのです。リビングバイブルには、「弟子たちには、イエスの言われることが全く理解できず、「先生はきっと、なぞをかけておられるのだろう」としか考えられませんでした。」とあります。弟子たちには、イエス様のみ業が、神様の救いのみ業がわからなかったのです。そのような弟子たちであるからこそ、救いを求める人を黙らせようとしたのでしょうか。神様の恵みをいただけないようにしたのです。しかし、これは弟子たちだけの問題ではなくて、私たちにも無視できないことであり、神様に対して、救いを求める人の声をとどめてしまうということがないように気をつけたいと思うのです。

 この盲人の38節の「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びと39節の「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫びの言葉は、同じ内容ですが、意味としては違うものがあるように思うのです。37節の「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」という叫びは、イエス様や群衆の注意をひくための普通の大声であり、39節の「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という叫びは、弟子たちが叱り、黙らせようとしたので、ますます大きな声で叫んだ。感情丸出しの、もう本能的な叫び。動物が天的に襲われて対抗するような生死をかけた叫びを表しているように思います。救い主イエス様がどこにおられるのかわからない盲人の二度目の叫びは、何としてでも自分の存在を知ってほしい。イエス様の憐れみをいただきたいという賢明な叫びであったのです。私たちも、苦しみや悲しみ、痛みや絶望を経験する時、ただの祈りではない。叫びに近い祈り。祈りにならないうめきや叫びになるのではないでしょうか。そのような切実な、心からの叫びをイエス様は絶対に無視されることはないのです。

 三、本筋を見つめる

 40節には、「イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。」とあります。イエス様は、盲人の叫び声、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」という悲痛な叫び、魂の叫びに足を止められました。そして、「盲人をそばに連れて来るように命じられた。」とあるのですが、あれっと思われませんか。盲人ですよ。イエス様が盲人のところに行ってあげたらいいんじゃあーりませんか。なんかイエス様の優しさを感じられない行動です。しかしそれは、イエス様に優しさがないというのではなくて、イエス様は盲人を招いておられるということなのです。盲人がイエス様のところに、苦労して頑張って努力してくるのではなく、「盲人をそばに連れて来るように」なのです。盲人の道案内をしてくれる人がいるということです。イエス様のところに一人で来ることのできない人を連れてくる。そういうことでしょう。そこにつながりがあります。イエス様とつながるために、それを助ける、援助する人がいる。クリスチャンである私たちは、そのような存在でありたいと思うのです。イエス様は、ただ座って、あるいは、じっと立っていて、待っていてそこにイエス様が来て下さるというのではなく、イエス様の招きに答えて、イエス様のもとに来たいのです。私たちはイエス様に招かれているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエス様は、いつも私たちを招いておられるのです。私たちは、イエス様の招きに答えて、この礼拝に来ています。イエス様の御許に来るということはとても大切なことなのです。

 41節を見ると、「「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。」とあります。「何をしてほしいのか。」という問いは、核心を突くものでした。私たちの望みには、病気の回復や癒し、人間関係の改善、あらゆる能力が与えられることがあるでしょう。「何をしてほしいのか。」ということを詳しく見ると、「わたしがあなたのためにすべきことが何かありますか。あなたは望み続み続けていますか。」ということです。イエス様には、この人がどうして見えないのか。どのような苦労をしてきたのか。なぜ、物乞いをしなければならないのかが見えていたでしょう。イエス様は、ご自分に「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び願う盲人に、何をすることが最善なのかを見ておられる。そして、盲人に「何をしてほしいのか。」と問われたのです。この盲人が、最も求めているものは何か。いつも望み続けていた本心は何かを問われたのです。彼は言います。「主よ、目が見えるようになりたいのです」。他の人と同じように、普通に見えるだけでいいのです。目が見えるようになることが本筋です。盲人ですから、「何をしてほしいのか。」と問われたら、見えるようになることが当たり前でしょう。本筋です。しかし、私たちは、この本筋を忘れてしまうのです。見失ってしまうのです。盲人だけれども、もしかしたら、生活に困らないようなお金が欲しい。いつもそばにいて助けてくれる人が欲しい。目の前の必要のためにそのような答えをする人がいるのかも知れません。しかし、それは盲人にとっては、現実的で、切実であっても根本的なことではありません。本筋ではないのです。私たちは今の自分が抱えている問題の何が根本的な事か、本筋なのかをしっかりと見つめたいのです。私たちにとっての本筋は、私たちの罪の身代わりに、ダビデの子であるイエス様が十字架にかかって死んで下さり、父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげられた。死んで下さったこと。死んで葬られましたが、三日目によみがえらされたことなのです。このイエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、義とされ、聖められ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたことなのです。盲人は、本筋、「目が見えるようになりたいのです」と答えました。私たちも自分にとっての本筋、イエス様を通して与えられる救いを大切にしたいのです。

Ⅲ結論部

42節には、「そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」」とあります。癒す力は、イエス様にあるというのが大前提ですが、あえてイエス様は、「あなたの信仰があなたを救った。」と言われることによって、盲人の信仰を自覚させてのです。盲人は、イエス様がダビデの子であり救い主と信じて、イエス様に憐れみを乞い、イエス様なら癒して下さると信じて叫び続けた、イエス様に対する信頼の大きさを示されたのだと思うのです。43節には、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」とあります。このお話は、盲人が見えるようなったということが結論ではありません。盲人は、目が見えるようになることが全ての原因の解決だと思っていたでしょう。しかし、イエス様によって目が見えるようになって、イエス様を見て、イエス様に出会って、最も大切なことは、見えることもそうですが、それ以上に自分の人生をお任せできるお方、従ってゆくことのできるお方、イエス様に出会い、イエス様の弟子になることだとわかったのです。ですから、「盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。」のです。私たちにとっては、今の自分の問題が、苦しみが、痛みが、苦しみが解決されることが全てではないのです。苦しみや悲しみ、痛みや絶望を通して、イエス様に出会うこと、そしてイエス様についていくこと、イエス様と共に歩んでいくことなのです。

私たちは、神様を信じていても、クリスチャンになっても、苦しみや悲しみ、痛みや問題があります。だからこそ、この盲人のように、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と祈りたいのです.叫びたいのです。うめきたいのです。私たちの祈りは、叫びは、うめきは、イエス様に届いているのです。たとえ、祈り方がわかならくても、私たちの正直な、真実な声、思い、祈りはイエス様には必ず届いているのです。私たちは、この週もイエス様に向って真実な祈りをささげていきたいのです。大丈夫、イエス様がいつもあなたと共におられ、あなたの祈りを聞き、最善のみ業をなして下さるのです。

 

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日曜礼拝(24年2月4日)

2024-02-04 12:29:52 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)          2024.2.4

         「自慢話が多すぎる」 ルカ18:9~14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。1月は行ってしまいました。2月も逃げていくのでしょう。一年で最も寒い季節を迎えましたが、先週は春の陽気の日もあり、グンと温度が下がるという日もあり、寒暖差の激しい日々を迎えております。また、インフルエンザやコロナ感染も増加しているようです。この月も健康が守られ、支えられて、信仰生活を歩ませていただきたいと思います。

 自慢話をする人の心理。自慢話ばかりする人の胸の内とはとホームページにありました。自慢話が多い人の心理1. 周囲に凄いと思われたい いつも誰かに褒められていたい人は、ことあるごとに自慢話をしがち。自慢話が多い人の心理2. 自慢をしている自覚がない 自分に自信がありすぎるタイプの人は、その自尊心の強さから、周囲の人が自慢話と捉える話し方をしてしまいがちです。自慢話が多い人の心理3. 現状に満足していない、ことあるごとにしてくる自慢話が全て過去のことばかりとありました。私たちは、自分の、あるいは、家族や関係者の自慢話をすることがあるでしょうか。

今日は、ルカによる福音書18章9節から14節を通して、「自慢話が多すぎる」という題でお話いたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様を見ず、自分と人を見る祈り

 9節には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。」とあります。詳訳聖書には、「自分を正しい(すなわち、神のみ前での正しい身分が与えられている)と信じ、(確信し)、他のすべての人をさげすんでいる(無視している)人たちに」とあります。イエス様は、誰に話しているかをはっきりと示しておられます。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」とありますが、誰にでもあるのかも知れませんね。そういう意味では、誰もがしっかりと聞く必要のあるお話です。10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。」とあります。二人の人がエルサレム神殿の宮の境内に行き祈りをささげたのです。なぜ、神殿かというとユダヤ人は一日に三回(午前9時、12時、午後3時)の祈りをささげました。そして、特に神様がおられると信じられていた神殿での祈りには効果がると考えられていたようです。どこでも祈りはできます。けれども、教会での祈りは、やはり神様を近く感じ、特に緊急の祈りやどうしても祈りたい内容は、教会に足を運んで祈りたいと思うようになりますので、教会はいつも開いていますので、ぜひ、教会堂に来て祈りをささげていただきたいと思います。

 11節、12節を見ると、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』」とあります。ファリサイ派の人は、「立って、心の中でこのように祈った。」とあります。詳訳聖書には、「得意そうに立ち、自分自身の前で(独り言で)」とあります。「心の中でこのように祈った。」とは、「心の中」とは、「自分に向かって」という意味があり、自分自身に祈った。独り言を言ったのです。心の中での祈り、つまり、人に聞かせることのできない自分を誇る本心の祈りなのです。当時、ファリサイ派の人々は、祈りの定位置があったようです。神殿の正面の聖所に一番近い所でした。立って祈るのは、神様の民としての姿勢で自信に満ち溢れていたのでしょう。その立ち方は、ちゃんとした姿勢をとり続け、胸を張って堂々として祈りをささげていたのです。このような姿勢は、律法を忠実に守っているという自信に満ちていたのです。「神様」と呼びかけ、神様への祈りです。しかしその内容は、「わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」というものです。「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者」とは、十戒が禁じている内容です。だから、モーセを通して与えられた十戒を守っています、ということでしょう。神様と祈りながら、その内容は自分の正当性、頑張りであり、人への批判です。「感謝します。」と言っており、感謝を表しています。祈りの要素の中で、感謝するということはとても大切な部分です。ファリサイ派の人は良くわかっています。しかし、その感謝は、神様への感謝ではなく、「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。」とあるように、罪人、悪い者でないことを感謝するという、感謝という言葉を表現しながらも、それは感謝ではないのです。ファリサイ派の人は、神様と呼びかけながらも、心は、思いは神様に向いていない。神様を見ていない。人しか見ていないのです。ですから、祈りの姿勢をとりながらも、神様の前には立っていないのです。神様の前に立っていないと、神様を見ていないので、自分中心になり、人と自分を比較し、自分の基準で人を裁くようになるのです。私たちにはないでしょうか。

 

 二、からくりがある見せかけの行いと真実な祈り

 また、「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」と自分が行っていることを語っています。律法が求めている断食は、年に一度の贖罪の日の断食だけでした。しかし、このファリサイ派の人は、週に二度、一年に106回の断食をしていました。それは、律法が求めるよりもはるかに多い回数でした。週二回の断食とは、月曜日と木曜日でした。なぜ、月曜日と木曜日かというと、月曜日はモーセがシナイ山に上った日と言われており、木曜日は二度目の律法を授けられてシナイ山を下った日と言われていたようです。そのように十戒、律法に関係する意味深い日の月曜日と木曜日に断食するとは、それはいかにも敬虔な人だと思わせるように、「わたしは週に二度断食し」ということです。しかし、違う角度から見て見れば、月曜日と木曜日は市場の開かれる日であったのです。月曜日と木曜日は、地方からエルサレムには多くの人々が押し寄せてきていたのです。そのような大勢の人々の前で、顔を白く塗って、いかにも断食しておりますと取り乱した様子のパフォーマンスをして、人々に見せつけ、いかに自分が敬虔なものであるのかをアピールしていたのです。彼の断食は人に見せるためであったのです。だから、週二回あえて市場のある日の月曜日と木曜日に断食をしたのです。その日にする必要があったのです。そういうからくりがあったのです。

 また、「全収入の十分の一を献げています。」と言っています。律法が求めていたのは、農作物の十分の一をささげることでした。このファリサイ派の人は、律法に定められた農作物の十分の一をささげるだけではなく、全収入の十分の一を自発的にささげていたのです。彼がいかに宗教に熱心だったかということがわかる行いでした。しかし、それも彼の信仰から出たことではなくて、人に見せるためのものであり、人から賞賛を得るためのものであり、何と敬虔な人かと思ってほしいという考えからのささげものでした。献金は信仰の現れと言われることがありますが、そういう意味では信仰的なのでしょうか。

 確かに、ファリサイ派の人の行いは、律法以上のことを実践し、誰にも真似できないすごいことには間違いないのですが、本来そのことも自分の功績ではなくて、神様の恵みであるということです。そのことをファリサイ派の人は忘れていました。

 一方徴税人はというと、13節です。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」とあります。徴税人の祈りの姿勢は、ファリサイ派の人の堂々とした祈りの姿勢に対して、

「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」とあります。徴税人は、正しい神様の前で、自分が裁かれる存在であることをよく知っていました。神様の前に、

「自分はもうダメだ。」と嘆いているのです。「目を天に上げようともせず」とは、神様に顔向けできないのです。罪を犯したアダムとエバの「主なる神の顔を避けて」(創世記3:8)ということと同じでしょう。「胸を打ちながら」とは、罪を認めて、悔い改めることを表しています。「罪人のわたし」と告白しています。神様の前では、神様の前に立てる資格はない。立てる存在ではないことがわかるのです。神様に近づけば近づくほどわかるのでしょう。彼は、「遠くに立って」聖所から遠く離れて、神様に目を向けることはできないで、「憐れんでください。」と祈りました。この「憐れんでください。」とは、口語訳聖書では、「おゆるし下さい。」とあります。詳訳聖書には、「神さま、私に(こんなに悪質な罪びとである私にも)、どうか恵みを与えて、(情けをかけ、憐れんでください。)」とあります。徴税人は、人と比べることをせず、ただ神様に向かって祈りをささげたのです。私たちの祈りはどうでしょうか。

 

 三、罪人の私を知る

 10節には、「「二人の人が祈るために神殿に上った。」とあります。「祈るために」と。そして、イエス様は二人の人の話をします。11節で、「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。」と「祈った。」あり、13節では、「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。」と、祈ったではなく、「言った。」とイエス様は話されました。どちらかと言うと、ファリサイ派の人の方が、「祈った。」というよりも「言った。」の方がふさわしいし、徴税人は、「言った。」よりも「祈った。」の方がふさわしいような気がするのですが。イエス様は言い間違えたのでしょうか。ファリサイ派の人は、形式的には祈りをささげたということでしょう。徴税人は、「『神様、罪人のわたしを憐れんでください。」と「言った。」とイエス様は表現された。徴税人は、祈りの姿勢も取らずに、いかにも祈っていますというしぐさや祈りの形式はなかった。それは、徴税人の心の底から出たうめき、叫びであったのです。だからイエス様は、祈ったとは言われず、言ったと表現されたのです。自分の罪深さと汚れに悔いながら、うめいた。叫んだのです。それは、真実な祈りと表現できるのでしょう。祈りとは、形式的に整っている。立派な綺麗な言葉を並べ立てることではないでしょう。イエス様は、そのことに気づいてほしいのだと言っているように思うのです。

14節には、「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」」とあります。ファリサイ派の人は、神様を見ずに、自分を見、他の人を見て比べて優越感に浸りました。全く祈りの形をなしていません。しかし、それは、心の中での祈りですから、人には気づかれないのです。声を出しても出さなくても、イエス様は心を見られるお方です。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル上16:7)と聖書は語ります。ファリサイ派の人がいかに律法を守り、ささげようともイエス様は知っているのです。「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷(はっか)、いのんど、茴香(ういきょう)の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。」(マタイ23:23)と語られました。

 義に一番近いと言われていたファリサイ派の人ではなく、罪人の代表者でもあるかのように言われていた徴税人が義とされて帰ったのです。罪が赦されて救われたのです。

 神様に心が向かない祈りは、心の中でつぶやきとなってしまうように思うのです。私たちは、徴税人のように、神様に向かって祈りたいのです。神様の前に立つ時、私たちは自分の罪深さに気づかされるのです。裁かれて当然の、滅びて当然の人間であることを知るだけなのです。ですから、私たちも「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」「赦してください。救って下さい。」と祈りたいのです。私たちの罪に身代わりに、イエス様が十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪は赦され、義とされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が、天国の望みが与えられるのです。それは、イエス様を見なければわからないのです。

 

 Ⅲ結論部

 今日の説教題は、「自慢話が多すぎる」という題です。ファリサイ派の人の祈りを見ていると、なんだか自慢話に聞こえ、自慢ばっかりと感じて、この題が頭に浮かびました。もう一つ頭に浮かんだのは、武田鉄矢さんのグループ海援隊が歌っていた「あんたが大将」という歌の歌詞でした。「黙っていればいいものを 酒の席とはいいながら はじまりましたね あんたの話 色々苦労もあったでしょうが 自慢話が長すぎる 泣かせた女の数ばかり 意張ってみても男の値うちあがるもんじゃないんです この世は全てチャンスなんだ うまく生きたが得なんだ 得意話がまだ続く 色々こつもあるでしょうが 手柄話が多すぎる 風に吹かれて生きてたくせに いつの間にやら悟りきり 世界はあんたの為にある僕なんか生まれがいいもので おんば日傘で大きくなって 一度苦労がしてみたいなと あんたのいやみのねちっこさ 白いまんまに手をあわせ とうちゃんかあちゃん頂きますと 涙こらえて食べたことない そんなあんたに何がわかる それを云わしてもらっちゃ なんばってん 人の心のかなしさなんか パーハップス・メ云わせてもらえばこの人の世は チャンスばかりじゃないんだよ 心に燃える小さな夢を つまずきながら燃やすこと 世渡り上手にゃえんないが 祈りつづける悲しさよ しばし手にしたあんたの出世 今夜だまってほめてあげる あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将 あんたが大将」で最後は、「ごいっしょに あんたが大将 あんたが女王 あんたが株主 あんたが班長 あんたが将軍 あんたが社長 あんたが天才 あんたが番長 あんたが大将」という歌詞です。

私たちは、ファリサイ派の人のような祈りをすることがあるのかも知れない。また、私たちは徴税人のような、祈りにならないうめきや叫びの祈りをすることがあるかも知れません。今苦しみの中にある方々はそうでしょう。それがどちらであれ、良い悪いではなく、どちらの祈りもしている私を、あなたをイエス様は見つめておられるということです。ですから、私たちは、どうであれ自分が罪深い者であることに気づきたいのです。気づかせていただきたいのです。そのためには、自分を見るのではなく、他の人を見るのでもなく、ただイエス様に目を留めるのです。十字架にかかり、私たちを愛し続けておられるイエス様を見るのです。イエス様に祈りをささげたいのです。傲慢な私も謙遜な私も、イエス様はご存じです。このイエス様が、いつも見つめておられます。この週も、イエス様と共に歩ませていただき、イエス様の名による祈りを神様にささげて歩ませていただきたいのです。

 

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