江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2018年5月20日)

2018-05-20 12:21:39 | Weblog

ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)  2018.5.20

火事場の馬鹿力?」 使徒言行録2:1~13

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

今日は、ペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝です。クリスマス、イースター、と並んでキリスト教会において大切な日です。イエス様が復活して40日目に天に帰られ、その日から10日目に、イエス様からの聖霊を受ける、という約束を信じて祈り待ち望む120名の人々の上に、聖霊が与えられた記念すべき日です。

先週は、塚本良樹先生が、欠けたイスカリオテのユダの代わりに12弟子の一人を選び12使徒を整えて、そして、120名が祈り備えたことを数字に込められた意味についてお話しくださいました。

今日は、聖霊が与えられた12弟子を初め、聖霊を受けた人々が聖霊を通してキリストの証人となったことを見させていただきたいと思います。

今日の説教題は、「火事場の馬鹿力?」です。「火事場の馬鹿力」とは、「火事のときに、自分にはあると思えない大きな力を出して重い物を持ち出したりすることから切迫した状況に置かれると、普段には想像できないような力を無意識に出すこと」のたとえというように説明しています。追い詰められた時、本来あると思えない力を発揮すること。火事場のクソ力とも言えます。オリンピックやいろいろな競技で、薬を使って興奮状態にしていつもより力を発揮させるということもあります。

イエス様が天に帰られ、不安になった弟子たちは、祈りの中で恍惚状態になり、追い詰められて発揮したのがペンテコステなのでしょうか。それは、まったく違うものです。

今日は、人間の側の何かではなく、神様の側によって力づけられた弟子たちの姿をみさせていただきたいと思うのです。

 

Ⅱ本論部

一、神の時、神の側からの働きかけ

イエス様は弟子たちに、「ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるからである。」(使徒1:5)と言われました。

先ほど、4名の教会学校の生徒の方々が洗礼を受けられました。水による洗礼です。

クリスチャンの方々は、滴礼であれ、全身礼であれ水による洗礼を受けられているはずです。しかしイエス様は、聖霊による洗礼を受けると約束されたのでした。イエス様の約束の言葉をただ握りしめて、信じて祈り待ち望んだ人々の上に、聖霊が与えられたのです。

 私たちナザレン教団の信仰の流れにあるジョン・ウエスレーという人は、洗礼を受けた後、第二の回心ということを強調しました。聖霊に満たされた経験、聖霊による取り扱いを受けた経験を強調しました。まさに、ペンテコステのわざだと思います。

 2章1節には、「五旬祭」とあります。口語訳聖書や新改訳聖書では、「五旬節」とあり、

ギリシャ語で50(ペンテコステ)を意味するものです。過ぎ越祭から50日目に行われる祭りで、七週の祭り、小麦の収穫を祝う祭りで、七週つまり、49日を経過して50日目ということです。

 2節には、「突然」とあります。突然とは、偶然ということではありません。五旬祭の日、イエス様が復活されたから50日目に、神様の側の事として激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、家中に響いたとあります。私たちも台風シーズンには、激しい風の音を聞くことがあります。けれども、激しい風の音ではなく、激しい風の吹いてくるような音なのです。それと同時に、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまったのです。人間には、何も感じないというのではなく、風のような音が聞こえ、炎のような舌が見えたのでした。そこに、神様の働きを感じられる。見えるというものがあったということなのです。これらの現象の後に、120名の人々が聖霊に満たされたのです。聖霊に満たされたことがわかるしるしとして、「霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」のです。

詳訳聖書には、聖霊に満たされを「聖霊が彼らの魂に徹底的に浸透し」と付け加えています。聖霊に満たされることにより、自分の勉学や努力を超えて、神様の力により自分の知らない国の言葉を語り出したというのです。その語り出した内容は何かというと、「神の偉大な業」つまり、十字架と復活のことだったのです。聖霊に満たされた人々は、圧倒的な腕力や奇跡を行ったのではなく、神様の偉大な業、イエス様の十字架と復活、つまり、福音を語ったのです。私たちは、福音を語ることを恥ずかしく思ったり、恐れたりするかも知れません。しかし、聖霊に取り扱われる時、私たちは福音を語る者とされるのです。

 

二、聖霊が信仰を告白させてくださる

イエス様は、天に帰られる前に弟子たちに、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)と言われました。その言葉を信じて祈り待ち望んだ120名の人々に聖霊が降り、力が与えられました。そして、彼らはあらゆる国から集まっていた人々に、福音、イエス様の十字架と復活を語ったのです。

私たちには、罪があります。罪があるままだと永遠の滅びに向かいます。けれども、神様は私たちを愛して、私たちの罪を赦して下さるために、神の子イエス様を人間の世界に送られました。これが、クリスマスです。そして、イエス様は神様の愛を語り、貧しい人々や弱い人々を慰め、罪ある者を受け入れ、そして、人間には罪の問題を解決できないので、罪のないお方、イエス様が人間の罪の身代わりに十字架にかかって下さり、神様の裁きを受け、尊い血を流し、命を与えて下さいました。その死によって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。イエス様は十字架で裁かれ、死なれました。墓に葬られましたが、三日目によみがえられたのです。それが、イースターです。そして、ご自分がよみがえられたことを40日に渡り、証明して、天にお帰りになったのです。これが、昇天です。イエス様が天に帰られてから10日目に、聖霊が与えられ、聖霊が与えられることを祈り待ち望んでいた120名の人々が聖霊に満たされて、自分たちの知らない外国の言葉で福音を語ったのでした。それが、ペンテコステです。

今日、4名のお友だちが洗礼を受けられました。洗礼を希望される方々には必ず質問するのですが、4名にもたずねました。「自分の心の中に罪があることがわかる?」そうすると、4名のお友だちは、「わかる」と答えました。「その罪のために、イエス様が十字架にかかって下さったことがわかる?」と尋ねると、「わかる」つまり、「信じる」と答えられたのです。洗礼を受ける資格はこの二つです。聖書を創世記から黙示録まで読んだ、とか、祈りが何時間でもできるとか、礼拝を休まないで教会に来ているとか、たくさんの献金をした、とかいうことが、洗礼を受ける資格ではありません。

自分の心の中に罪の性質があることを正直に認め、その罪の身代わりにイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを感謝し、信じること、それが洗礼を受けることできる資格なのです。そして、自分の心の中に罪があることを認めるということは聖霊の働きなのです。そして、自分の罪の身代わりイエス様が十字架にかかって死んで下さったことを信じることができるのも聖霊の働きなのです。ですから、自分の罪を認め、その罪のためにイエス様が十字架にかかって下さったことを感謝できる、信じることができる人は洗礼をお勧めしたいと思います。

 

三、聖霊がキリストの証人として私たちを用いる

ここ数日、アメリカンフットボールの悪質タックルというのがメディアを騒がせています。スポーツも勝負ですから、やはり勝ち負けには真剣になります。ですから、チームの志気を高めるために、「相手をぶっ潰せ。やっつけろ」という表現で、感情的に高ぶらせて、勢いを与えて、頑張らせるというのは、どのスポーツにもあるのかも知れません。しかし、反則や相手にけがをさせるというのは、また、話が違います。

信仰的な面においても、賛美を通して、祈りを通して、感情的になり、自分の霊的なものを高めて、高揚させて、自分の信仰が、霊性が高められて、頑張るというようなものがないわけでもありません。

私は、関西の神学校にいた時は、やはり、霊的な感動、大きな声で祈り、机をたたいて祈る。神の霊が、神の力が自分に与えられて、信仰的な力が与えられていくというものも経験しました。別に悪いわけではありませんが、何かそのように導いていくようなものがあり、大喜な声で祈るので声がかれてしまう。力強く祈るので汗が流れる。そのようなことで一生懸命な事柄を通して、頑張った感があったのも感じられました。

神様の力が働いて、サムソンのように力強い働きができるというものもあります。モーセのように、神の奇跡が次から次へとなされるということもあります。まさしく、神の働き、神の力です。

しかし、イエス様が弟子たちに語られた、「あなたがたは力を受ける。」の力は、勢いとか力というよりも、福音を語る力、イエス様を証しする力でした。炎のような舌が現れ、一人一人の上にとどまったというのは、福音、神の言葉を語る力、イエス様を証しする力、証人となる力だったのです。

ですから、自分を鼓舞して感情的に高揚し、力が与えられたかのような力というものではありません。火事場の馬鹿力というような、追い込まれた状況で、思いもよらない力を発揮するというような人間の側の力ではない。神様から与えられるものなのです。

福音書を見ると、ペトロを代表とする弟子たちは、自分の事しか考えない自己中心的な人間であり、ただ、イエス様について行くことで、そばにいることで、良い事を経験できる。将来、右大臣、左大臣になりたいというこの世の出世と何ら変わらないものを望み、少しでも自分に不利になると思えば、イエス様を見捨てる。平気でイエス様を切ってしまう。否定してしまう者たちでした。しかし、彼らが、自分の力や感情的な何かではなく、神様からの取り扱い、聖霊に満たされて、彼らは変えられるのです。14節からはペトロの説教が示されていますが、そこには、人間的な思惑とか自分の力や感情云々ではなくて、聖霊に満たされて、神の偉大な業を語っても、「新しいぶどう酒によっている」と批判されても、冷静で、落ち着いて、聖霊に満たされて聖書の言葉を引用し、イエス様の十字架と復活を語り、自分たちが、そのことの証人であると力強く語ったのです。まさに、イエス様が語られた、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」という言葉が実現したのです。そして、これからますます聖霊に満たされて、イエス様の証人として、多くの人々に福音を伝える者となるのです。それは、彼らが聖霊に満たされ、神の霊に導かれて歩んだからなのです。

聖書は聖霊を私たちに与えると約束しています。私たちも、自分の力や経験、頑張りで信仰生活を歩むのではなくて、神様に全幅の信頼を置いて、聖霊の導きの中で、聖霊に満たされて歩ませていただきたいと思うのです。

Ⅲ結論部

私たちは、神様を信じた。イエス様を信じたと言っても弱い者です。聖書を読んでも、祈りをささげても、自分の力や感情の高まりで、力強い信仰生活を送れるわけではありません。ある程度は、力強い歩みができたとしても、長続きしないし、かえって、反動で落ち込んでしまうように思うのです。ですから、自分の力を奮い立たせて頑張る。自分を信仰ある者、力あるも者ように思い込ませて頑張るのではなくて、小さく、弱い、足りない者ではあるけれども、このような罪深い者のために、その愛によって、私の罪の身代わりに十字架かかり、死んで下さり、また、よみがえり、その復活の力、イエス様が天に帰られることを通して約束された聖霊に満たされて、いつも、イエス様に信頼し、イエス様の言葉に励まされて、福音を語らせていただくことで、神様の力を現させていただきたいと思うのです。それが、聖書の約束している聖霊の力に満たされることなのです。

この週もイエス様が共にいて下さり、聖霊を与え、聖霊で満たし、私たちをイエス様の十字架と復活を通して、与えられる救いのみ業を紹介する者となりたいと思うのです。

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日曜礼拝(2018年5月13日)

2018-05-13 19:20:29 | Weblog

主日礼拝(復活後第七)

2018.5.13

十二という数字に込められた意味

使徒言行録1:12-26

導入部

 みなさん、おはようございます。祈りをもって、このメッセージを始めていきたいと思います。お祈りしましょう。

 

祈り

 愛する天のお父様。あなたの尊い御名をあがめ、心より賛美いたします。

 本日、このように、この場所で、ここにいらっしゃるお一人ひとりとともに、礼拝を捧げられていることを、心より感謝します。

 私たちはあなたが必要です。あなたの助けなしでは無理です。だからこそ、このように礼拝を捧げられることを、心より感謝致します。目には見えませんが、あなたがここにおられることを信じ、あなたに期待をします。

 ただいま、聖書が開かれました。あなたが、聖霊さまにあって、導いて、書かせてくださった、このいのちのことばを、神のことばを、あなたの思いを、私たちが本当に悟ることができますように。どうか、私たちの心を照らしてください。

 弱き者が、取るに足らない者が、あなたに立てられたゆえに語ります。準備の中であなたが助けてくださったことを信じます。どうか今も、助けてください。憐れんでください。あなたの心を、あなたが教会に語りたいことを、忠実に語ることができますようにしてください。

 今日は江上先生は、浦和教会でご奉仕にあたっておられます。どうか、先生の上に、そして浦和教会の礼拝の上にあなたの助けがありますように。

 また今日ここに来たくても、来ることができなかった兄弟姉妹もおられます。あなたがその場所にあって、あなたとの深い交わりを与えてくださいますように。

 あなたに、ただあなたに期待し、また感謝をして、私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。

 

質問

 最初にみなさんに質問をしたいと思います。みなさんに質問をしたい。みなさんは、好きな数字はありますか?好きな数字はなんですか?

 

 ちなみに、私は、44という数字が好きです。何でやねんと思われるかもしれません。日本では、4は死を意味するとして、避けられる。それにも関わらずなぜ私が44が好きかというと、「よしき」、両親がつけてくれたこの名前のーちなみに今日は母の日ですね。私もあとで母に電話したいと思いますが、両親がつけてくれた、私の名前の、「よし」が44だからです。ちょっとどうでもいい話でしたが、みなさんは好きな数字はあるでしょうか?ラッキー7が好きだとか、自分の誕生日の数字が好きだとか、あるいは「特にありません」という方もいらっしゃると思います。

 

 実は、聖書のなかにも、神さまが特別に扱っている数字があります。それは、神さまが好きな数字と言っても良いかもしれませんが、それが十二という数字なのです。

 本日の説教のタイトルは、「十二という数字に込められた意味」という、少々不思議なタイトルをつけさせていただきました。

 十二という数字は私たちが普段生きているなかで、よく目にする数字であります。一年は十二ヶ月で、午前午後それぞれ十二時間で、一時間は六十分、一分は六十秒ということで、十二の五倍です。星座や、干支など、歴史のなかで、世界中で、十二という数字はたくさん登場していくのですが、それは月が地球を一年間にほぼ十二回転することから来ているそうです。 

 一方、聖書において、十二という数字が大切にされているのは、イスラエルの部族が十二あったからです。そして、それゆえに「使徒」という、イエスさまが最も近くに置かれた弟子たちが、十二人でなければならなかった。

 今日は、そのことの素晴らしい意味を、十二という数字に込められた神さまの愛を、ご一緒に見ていきたい。そして神さまの素晴らしさをご一緒に礼拝していきたいと願っています。

 

本論部

一.祈りつつ、待つ

 先週私たちは、「わたし待つわ」という、いつものように非常に面白いタイトルのもと、イエスさまが十字架にかかり、復活して、天に昇られた。その直前、エルサレムを離れずに、聖霊が注がれるのを待ちなさい。人間の力ではなく、神さまの力に頼って生きていくために、祈って、待ちなさい。「待っていた」弟子たちがいたのだということを、江上先生を通して学びました。

 今日読まれた箇所の直後、使徒言行録2章で、いよいよその約束通り、弟子たちに聖霊が注がれます。来週は、そのことを記念する「ペンテコステの日」という、教会の記念日ですので、そのことはまた江上先生が語ってくださることと思いますが、2章に向かう途中、彼らが「待っていた」間、何をしたのかということが、本日の箇所には描かれています。聖霊さまが注がれるのを待っている間、彼らがしたことが二つありました。

 

 一つは、祈ることでした。1:13-14をご一緒にお読みしましょう。

 

1:13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。

1:14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

 

 11名の「使徒」たち、そして「婦人たち」と呼ばれている女性の弟子たち、「イエスの母マリア」、そして「イエスの兄弟たち」の姿が見えます。

 ヨハネの福音書によると、イエスさまの兄弟たちはイエスさまの生前、イエスさまのことを信じてはいなかったと書かれています。

 家族にイエスさまを伝えるのは難しいですよね。イエスさまですら、生前は家族全員が信じていたわけではなかったとすると、少し慰められますが、イエスさまの兄弟たちは、イエスさまが死んで、よみがえられた後、イエスさまを信じ、弟子たちの群れに加わり、一緒に祈っていた。15節を見ると、合計で百二十名ほどの弟子たちが一緒に祈っていたということが分かります。 

 

二.イスラエルと使徒の特権と責任、失敗と回復

 祈っていくなかで、ペトロが気づかされ、そして実行したことがありました。それが、彼らが、聖霊さまが注がれるのを待ちながら為した二つ目のことですが、それは、「使徒」を追加し、十二という数字を回復することだったのです。

 

 最初に少し触れましたが、イスラエルにとって、十二というのは特別な数字でした。なぜなら、イスラエルという民族が十二の部族から成り立っていたからです。

 イスラエルは、神さまに特別に選ばれた民族でした。だからこそ、旧約聖書のほとんどがイスラエルのことについて書かれてある。そして旧約聖書の申命記には、彼らは、他の民族よりも小さくて、ちっぽけな民族だったと書かれてあります。それにもかかわらず、神さまの一方的な恵みによって、彼らは選ばれた。その意味で、彼らには、特権が与えられていました。

 

 彼らの特権責任でもありました。イスラエルに特権が与えられたのには理由がありました。それは、彼らを通して、イスラエルを通して、全世界を祝福するということだった。それが彼らに与えられた責任だった。

 たまに誤解されますが、イスラエルというのは、自分たちさえ良ければ良いというのではない。彼らを通して、全世界が祝福されるために、彼らは特別に選ばれたのです。

 

 でも、ご存知のように、イスラエルの人々はその責任を果たすことはできませんでした。彼らは失敗を繰り返した。旧約聖書がこれほど分厚いのも、イスラエルがそれほどたくさんの失敗を繰り返してきたからだとも言われます。

 彼らは、神さまの愛を何度も何度も裏切り続けてきた。イエスさまの時代には、神さまに従おうとしている人々もいたことにはいたのですが、そうなると逆に、他の人々を見下し、さばきまくっていた。

 

 しかし、、、神さまはそんなイスラエルを見捨てなかった。イスラエルを諦めなかった。回復をしたいと願われた。そのために、選ばれたのが十二人の使徒たちであったわけです。

 彼らがなぜ十二人だったのか。なぜ十二人の使徒が選ばれたのか。それは、イスラエルが十二の部族から成り立っていたからです。イスラエルを回復するために、彼らは選ばれた。

 

 使徒たちと、イスラエル民族の姿は本当に重なるんですね。使徒たちもまた、イエスさまに特別に選ばれましたが、それは彼らがすごい人々だったからではありませんでした。それは特権でした。そして、その特権責任だった。イスラエルと同じように、彼らを通して、全世界が祝福されることが、彼らに与えられた責任でした。

 しかし、聖書、特に福音書が語っているのは、彼らもまた、失敗を繰り返したということです。イエスさまが十字架にかかる前には、彼らは高慢でした。自分たちが弟子であることを誇りに思い、人を見下していた。でも、十字架にかかられるときには、使徒たちはイエスを見捨て、逃げました。イエスさまの最も近くにいて、イエスさまが心から愛し抜いた、それにもかかわらず、彼らはイエスさまを裏切った。十二という数字に込められた特権責任を、彼らは果たすことができなかったのです。

 

 しかしですよ、幸いなことは、聖書が語る神は、何度でも回復を与えてくださる神である。諦めない方である。一度失敗をしたらもうアウトだという神であれば、弟子たちのストーリーはここで終わっていました。

 そうではない。もし私たちの神が、一度失敗をしたらもうアウトだという神であれば、私はここに立っていません。皆さんも今日教会に来られなかったでしょう。失敗をしたとしても、また戻ってくる時に、愛しているから、それを赦し、回復を与え、また使命を与える神であるから、彼らは、そして私たちは集まることができたのです。

 

三.回復を信じるか?

 しかし、使徒たちの中に、回復を、赦しを信じることができなかった人物が一人いた。それが、イスカリオテのユダという人物でした。この人は、イエスを裏切り、イエスを30枚の銀貨で売った人物です。後に、彼は、このことを後悔し、自殺をしてしまったと言われています。

 もちろん、ユダがしたことは、悪です。彼は、イエスさまに失望して、あるいは金に目がくらんで裏切った。大きな罪を犯した。でも、それは他の使徒も同じでした。もちろんやったことの種類や詳細は違うかもしれない。でも、裏切ったという事実は変わらないわけです。使徒たちの共同体は、十二という数字の意味を回復するはずであった使徒たちの共同体は、「裏切り者の共同体」だったのです。

 

 そして、イエスさまは、そのような彼らを、どこまでも愛し抜かれました。ヨハネの福音書には、イエスさまがユダをも愛し抜いたということが書かれています。イエスさまがユダを「友」と呼び、ユダの足をも洗われたということが書かれています。

 しかし、他の使徒たちとユダが、決定的に違ってしまったのは、ユダは諦めてしまったのです。もう自分は赦されないと諦め、自ら命を絶ってしまった。イエスさまの愛を、十字架の重さを、赦しの深さを舐めてしまっていた。これは悲劇です。赦しを、回復を信じられないことは悲劇です。

 

 私がアメリカ留学中に出会った学生で、こんな方がいました。彼はキリスト教と全く関係がない家庭で育ち、アメリカで初めて教会に来ました。そこで、メッセージのなかで、「人間は罪人である」ということを聞いたときに、どう思ったと思いますか?

 私の別の友人で、同じくキリスト教と関係がない家庭で育って、あるとき、道端でタダで配っている聖書を手に入れたんですね。これは、ギデオン協会という団体の聖書でした。この教会でもギデオン協会に関わってくださっている方々がいらっしゃって、五月は集中贈呈月間であると伺っていて、私たちも祈りをもって支えて行きたいと思いますが、この方はタダの新約聖書を手に入れるんです。

 で、読んでみたところ、まず最初のページにいきなり見たこともないカタカナの名前が並んでいてびっくりしたそうですが、でもとにかく読み進めてみた。すると、ひとつのことが分かった。それは、この書物は、自分のことを罪人扱いしている。どうやら、私のことを罪人であると主張しているらしい。

 それでこの人はこう思ったそうです。「何様?」そんなに悪い人でもない自分のことを罪人だと言っていることに腹が立ったそうです。もちろん、彼女もその後イエス様に出会っていくのですが、こういう人もある程度いますよね。

 でも、私がアメリカで出会ったその学生は、教会で「人間は罪人である」ということを聞いたとき、「そのとおりだ」と思った。彼は人生のなかで、ずっと自分は不完全で、本当に人を愛することができない。そのような人間であることを知って、悩んでいたそうです。なので、聖書のメッセージを聞いたとき、本当にそれが真理だと分かった。

 

 でも、問題があった。彼は、自分が罪人だということは分かっても、それでも赦されるということが信じられなかった。彼は、教会で赦しということを聞いても、自分のような人間は救われてはならないと思っていたそうです。

 彼は、やがて、赦しを信じることができた。イエスさまの十字架の血はそれほどまでに重いのだということを知っていく。彼は涙ながらにそれを話してくれたのですが、でも彼のように信じることができず、ユダのようになってしまうことは、この世界で起こっていると思うのです。たくさんの方が、自分び絶望して自殺を選んでしまっている。

 

 私も、時に、自分の罪深さ、弱さを思い知らされたとき、自分は赦されないのではないかと、赦しを信じられなくなりそうになることはあります。うまくいかないとき、自分は愛されていないのではないかと勘違いしてしまうことがある。でもその時には、私たちはイエスさまの十字架の重さを舐めてしまっている。イエスさまがどれほどまでに苦しまれたのかということを忘れてしまっている。

 私たちは、罪深いまま、イエスさまのもとに行って良いのです。疑いを持ったまま、イエスさまの十字架のもとに行って良い。なぜなら、そこに、赦しが、愛が、回復があるのです。

 

 ペトロを始めとする他の使徒たちは、その回復を、ギリギリだったと思います。でも信じることができた。そこにすがることができた。

 自分もまた裏切ってしまったという事実がある以上、彼らはユダを見下したり、ユダを裁いたりはできなかったと思います。今日のこの箇所の言葉も、厳粛な事実として、厳粛に語ったと思うのです。

 ペトロが、もう一度、十二という数字を回復しようと語ったということは、自分たちは過ちを犯した。取り返しのつかないような失敗をした。イエスさまを裏切った。でも、イエスさまが、十字架にかかって、その罪を赦してくださった。この特権を与えられた。だから、もう一度、責任を、使命を担っていきたい。イスラエルに委ねられた、自分たちに委ねられた、あの特権責任を担っていきたい。担わせてください。その願いを込めて、彼らは十二という数字を回復したのです。

 

 使徒たちは話し合いをして、最後にはくじを引いて、マティアという人が選ばれ、十二という数字は回復しました。そしてその十二人の使徒を中心とした交わりに、ペンテコステの日に聖霊が降る。それは神さまのメッセージでした。あなたたちを確かに赦したよ。そして、あなたたちに、もう一度使命を与えるよ。そして、聖霊の力によって教会が生まれ、全世界に広がり、やがてそこに私たちが加えられていくのです。

 

結論部

 私たちも、日々のなかで、イエスさまを裏切ってしまうことがあると思うのです。私自身の日々の生き方を振り返るとき、イエスさまを悲しませることがなんと多いものかと思います。

 でも、日常のなかで、十二という数字を見るとき、思い出してください。十二部族から成るイスラエルは罪を犯した。十二人の使徒たちは裏切り者だった。でも、主は、回復を与えるのです。その十字架にあって、彼らを回復へと招かれた。

 私たちには十字架しか誇れるものはありません。でも、だからこそ私たちは十字架を語るのです。その愛の力によって、日々を生きていくのです。

 イスラエルを用いられたように、使徒たちを用いたように、神は教会を用いたいと願っておられる。何度失敗をしたとしても、あなたを用いたいと願っておられる。主はあなたを諦めておられない。

 十二という数字を見るとき、そこに込められた意味を、私たちに与えられた特権と、そして与えられた尊い責任を思い出し、十字架を見つめつつ、これからの1週間を共に歩んでいこうではありませんか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(2018年5月6日)

2018-05-06 12:57:18 | Weblog

日曜礼拝(復活後第五)        2018.5.6

わたし待つわ」 使徒言行録1:1~8

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。5月の第一日曜日を迎えました。ゴールデンウィークの休みも今日で終わりになります。いろいろな所においでになって、いろいろな経験やいろいろな方々との交わりをされた方々もおられるでしょう。どこにも行かずにご家庭で過ごされた方々もおられるでしょう。いずれにしても、私たちは、ゴールデンウィークの最後の休みの日、日曜日にイエス様の体である教会に共に集い、共に礼拝することでひとつとされていること、礼拝を持ってこの休みを終えることができますことを感謝したいと思います。

 今日は、「わたし待つわ」という題で、使徒言行録1章3節から8節を通して、お話し致します。

 「待つ」ということは、私たち全ての者が日常の生活で経験していることです。私たちは、職場や学校に行く時にバスや電車を待ちます。買い物でレジの前で待ちます。高速道路で、料金支払いのため待ちます。ゴールデンウィークでは、どこに行っても待たされた。一番経験したのが待つことだった、と感じておられる方がおられるかも知れません。待つということは、私たちが毎日の生活の中で経験していることです。

 毎日の経験の中で待つということと、少し違って特別な事柄のために待つということを経験することがあります。妊娠している女性は、赤ちゃんを産むためには約十か月が必要です。私は十か月も待てない、と言っても二か月や三か月では産めないのです。十か月待つのです。また、病気などで手術した経験のある方々は、体を以前にように動かすためには、回復するために待つ必要があります。ですから、待つことなしにはあり得ないのです。

 イエス様は、弟子たちに待つということを命じられました。そのことを共に見てまいりましょう。

 Ⅱ本論部

 一、今置かれた場所があなたの居場所

 イエス様が十字架にかかって死に、三日目によみがえられて弟子たちを驚かせました。イエス様は、何度かご自分が十字架で死んで三日目によみがえられることを話していたにも関わらず、弟子たちにはそのことには関心がなかったのです。ペトロはイエス様を三度知らないとイエス様との関係を否定して完全にノックアウトされました。しかし、イエス様はペトロの信仰を回復し、新しい使命を与え、他の弟子たちにも励ましを与えられました。イエス様が死んだ時、弟子たちの将来は終わったと思われた。イエス様について来たことを後悔したのかも知れない。イエス様に人生をかけ、イスラエルの復興の期待もイエス様の死で夢と消えたのです。しかし、イエス様の復活で弟子たちの将来に光が差し、希望が与えられました。イエス様は復活されてから40日にわたり神の国について話されたので、弟子たちはますます期待が膨らみ、イスラエル復興のために自分をささげたい、イスラエル復興のために働きたいと思わされ、はやる気持ちを抑えられなかったのです。

 イエス様は、食事の席で語られました。4節、5節のカッコの言葉です。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」イエス様は弟子たちに。エルサレムから離れない事、父の約束された聖霊を待つことを命じ、聖霊による洗礼を授けられることを話されたのです。

 エルサレムとは、田舎者の弟子たちにとっては都会です。イスラエルの中心的な場所です。田舎者にとっては住みにくい場所であったでしょう。ペトロはあなたの言葉でガリラヤの者であることがわかる、と言われました・言葉にもなまりがあったのでしょう。弟子たちは、できるなら自分たちの故郷ガリラヤに帰りたいと思ったことでしょう。

 NHKの朝の連続小説の「半分、青い」というドラマは田舎者のすずめという主人公が東京に出て漫画家になるというお話しのようですが、いよいよ今週から東京での生活が始まるようです。そこには、大都会東京に慣れていない主人公の苦労が描かれることでしょう。

 弟子たちにとって、エルサレムは都会で住みにくいという理由よりも、エルサレムは自分たちの弱さや失敗の目立った場所でした。ペトロにとっては、大きな失敗のゆえに、そこにはおりたくない、できるだけ離れたい場所であったでしょう。勿論、イエス様が十字架刑にされた場所、不吉な場所であり、いやな思いのする場所でした。そのエルサレムを離れるな、とイエス様は言われたのです。そして、待つ理由は、父の約束されたもの、聖霊を待つということです。なぜなら、待つことで聖霊による洗礼(バプテスマ)を授けられるというのです。弟子たちは、自分たちにとって。エルサレムは居心地の悪い場所ですが、イエス様の言葉に従うのです。

 私たちも、居心地の良い場所ではなく、居心地の悪い場所、いたくない場所、避けたい場所にとどまれ、といわれると困ってしまいます。けれども、イエス様は私たちを困らせるためでも、いじめるためでもなく、その場所で神様の力が働く、聖霊の豊かな導きを通して、驚くべきみ業をなさろうとしておられるのです。今、あなたの立たされている場所はどのような場所でしょうか。

 

 二、神の時(神のみ業)を信じて待つ

 弟子たちは、イエス様の復活で勢いずき、40日に渡るイエス様の言葉と復活の確証、神の国についてのお話を聞いて、さらなる勢いで、イエス様に尋ねるのです。共に読みましょう。6節のカッコです。「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」 リビングバイブルには、「弟子たちはわくわくしながら、」とあります。弟子たちの期待感がわかります。弟子たちにとって、神の国とはイスラエルの国を建て直すこと、イスラエルの復興でした。そして、イエス様の右大臣、左大臣といった役職につくことでした。その弟子たちの質問にイエス様は答えられました。7節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。」 6節と7節には、「時と時期」という言葉があります。ギリシャ語の時には2種類あると言われています。一つは、クロノスという言葉で、「時計の針が一秒ごとに同じ速さで進んでいくような連続した時間」詳訳聖書では、「時がもたらすもの(時の中に起こる諸事件)」と訳しています。

もう一つは、カイロスという言葉で、「神の時、神様の力が人間の世界に介入してくる時、決定的な時間」、詳訳聖書では、「その明確な期間、すなわち、確定した年や季節、その決定的な時刻」と訳しています。

 6節の弟子たちが言った「この時ですか」の時は、クロノスであり、7節の「時と時期」の時とはクロノス、時期はカイロスとギリシャ語では記されています。イエス様は弟子たちの、イスラエルの復興はこの時ですか、という質問に、弟子たちが思い描く神の国のように連続した時間であれ、神様の介入される決定的時間であれ、知る必要はない、と言われました。それは、弟子たちの問題ではなく、父なる神様の権威によることだと言われたのです。

 ペトロを初め、弟子たちは今まで、自分の思いや力でやって来ました。弟子たちが思い描く神の国は、イエス様、神様の考える神の国とでは大きな差がありました。弟子たちにとっては、イエス様の力を中心に自分たちの力でイスラエルを復興し、ローマ帝国からの解放を願っていたのです。しかし、神の国とは、人間の考えや力で作り出すものではなくて、神様の権威の問題なのです。神様の偉大な権威によって、その時も完成もなされていくのです。

 このことは、聖霊のバプテスマを授けられることも同じです。人間の側の考えや頑張り、力で授けられるというものではなく、神様の権威によって、神様の宣言によって聖霊が与えられるというのです。そのために、エルサレムにとどまり待てと言われるのです。私たちは、まだまだ、信仰というものを神様の権威、神様の言葉の約束よりも自分の考えや頑張り、努力に頼っているということはないでしょうか。心に手を当てて考えてみたいのです。

 

 三、十字架と復活を証しする力

 8節を共に読みましょう。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」」リビングバイブルでは、「わたしの死と復活を伝える証人となるのだ。」とあります。

 弟子たちにとっては、あまり居心地がよくない場所、いたくない場所から離れないで、そこで待つのは、彼らの上に聖霊が下るからです。聖霊によるバプテスマを受けるからです。そして、エルサレムだけではなく、ユダヤとサマリアの全土、地の果てに至るまでイエス様の証人となるためなのです。

 「あなたがたは力を受ける」の「力」というのは、何か大きなことをするとか、奇跡を行うとか、人をびっくりさせるような力というものではなく、リビングバイブルが訳しているように、「わたしの死と復活を伝える証人となるのだ。」「イエス様の死と復活を伝える」ことのできる力なのです。弟子たちが、確かにイエス様が十字架にかかって死んだこと、確かに、墓に葬られたこと、確かに三日目によみがえられたことを伝えるために力があたえられるのです。

 イエス様は私たちの罪を赦すために十字架にかかって死んで下さいました。そのことによって、私たちの罪が赦されたのです。そして、イエス様が復活されたことにより、人間の最も恐れている死に勝利し、永遠の命が与えられるという驚くべき恵みが与えられた。そのことの目撃の証人、それが弟子たちでした。ペトロは自分の力に過信して大失敗を経験しました。イエス様の愛によって立ち直りましたが、やはり、そのままではまた同じ失敗を繰り返します。だからこそ、聖霊の力が必要なのです。自分の考えや頑張り、努力でどうなるというのではなく、神の権威、神の力による聖霊の油注ぎ、バプテスマを受けずして、イエス様の十字架と復活の目撃者になれても、証人とはなれないのです。弟子たちは、イエス様の言葉に従い、エルサレムにとどまり聖霊が下ることの約束を信じて祈り待ち望み、聖霊を受けて、イエス様の十字架と復活を大胆に証しする力強い証人となったのです。私たちも弟子たちと同じように、イエス様の十字架の死と復活の証人として、約束の言葉を信じて、聖霊に満たされて十字架の死と復活を証ししたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 榎本保郎先生は、新約聖書一日一章の中で、「待つから聖霊が与えられるのではなく、聖霊が降るという約束のゆえに待つのである。」と言っておられます。

 今の私たちにとって、もしかすると家族の中にいることが、学校の教室のクラスの中にいることが、働き場所にいることが居心地の悪い事、嫌な事、辛い事かも知れません。しかし、神様はそこから離れないでと言われるのかも知れない。そこで神様はあなたの信仰を養い、あなたを祈りへと導き、あなたに信仰の武装を与えて、驚くべき神様の業を行おうとしているのです。環境がどうこうではなく、神様の権威を持って、あなたに上からの力をあたえようとしておられのです。

 「置かれた場所で咲きなさい」という本の中で次のような文章があります。「「置かれたところ」は、つらい立場、理不尽、不条理な仕打ち、憎しみの的である時もあることでしょう。信じていた人の裏切りも、その一つです。人によっては、置かれたところがベッドの上ということもあり、歳を取って周囲から役立たずと思われ、片隅に追いやられることさえあるかもしれません。そんな日にも咲く心を持ち続けましょう。・・・どうしても咲けない時もあります。

雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものになるために。」今週、私たちは置かれた場所で、困難な場所で、そこにとどまり、イエス様のみ業を、聖霊の働きを見させていただきましょう。そのために、待つことを経験したいのです。私たちには、聖霊を受けるとキリストの証人となるという聖書の約束の言葉がすでにあるのです。イエス様は、その約束を破るお方ではありません。この週も信じて待ちましょう。

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日曜礼拝(2018年4月29日)

2018-04-29 16:05:39 | Weblog

初心者から成熟者へ

   へブル511~6:2        2018,4、29

1、                            へブル書は、1世紀、ローマの迫害下にあったユダヤ人キリスト者に向けて書かれた。過酷な弾圧に試練と艱難、絶望で信仰が弱まったりユダヤ教に戻ったりするものがいた。その人々に牧会的配慮をこめて激励,勧告したもの。著者は、パウロだ、ルカだ、アポロだと、いろいろ言われてはいるが不明である。

2、                            本日の聖書箇所では、信仰的に弱って成長していないキリスト者に向かって、いつまでも初歩の教えにとどまっていないで成熟を目指していきましょうと激励している。この激励は、こんにちのわれわれ対してもあてはまるかもしれません。受洗後、日曜日の礼拝だけが聖書にふれる機会としている状況だと同じかもしれません。よくSunday Christianと言われます

当時は、ローマの迫害(70年、エルサレム陥落)それに抵抗した衝突等(マサダ砦での抵抗)という不安な状況のなかで信仰が揺れ動いていたのでしょう。今日も、過剰な競争、効率性、金銭欲、物欲、忙しさ等のもとで信仰が揺れて、弱まっているのと同じかもしれません。

3、                            511以下では、何年たっても成長しないで、初歩の段階にとどまっている。もう教師になってもいい年数がたっているのに神の言葉の初歩を教えてもらわなければいけないような状態。だから神の御心についての素晴らしい教えを味わえないのだと言っています。わたしたちも、受洗して霊的に生まれ変わったときは霊的赤ん坊です。救われたことと、永遠の命を頂いたということで安心してしまい、信仰的に成長していないということはないでしょうか。いつまでも赤ん坊のように乳を飲んでいる状態で大人のような固い食事を食べることができない。それは耳が鈍くなっていて心がふさがっているから、善悪を見分ける感覚が訓練されていないのだと言っています。

マタイ19:16~24にでてくる、お金と神を天秤にかけた“金持ちの青年”の話

を思い浮かべます。自分の生活中心から抜けられず、信仰が現実の生活の付属物になっているのです。パウロは、お互いの間にねたみや、争い、思い煩い、人を傷つけることを言ったり、したり、人を裁いたり、陰口を言ったり愛のない行動

が絶えないなら霊的赤ん坊だと言っています(1コリ3:3)。

4、                            初歩的な教えとは、612節で、悔い改め、洗礼、祝福、復活、最後の審判の基本的教えにとどまっていることだと言っています。この教えだけにとどまっていてはだめで、これから成長して成熟した信仰者になろうと激励しています。パウロも、「あなた方が成熟したクリスチャンとなり神の御心を全うすることができるようになろう」と言っています(コロ4:12)。私たちは、神に似たものとしてつくられており、霊的に成長すれば神の御心を行うことができる。神に似た性質を持つものとしてあらゆる点で成長していけばキリストのようにされていくのです。成熟度の基準は、どれだけキリストに似たものとされているかです。

5、                            霊的成長の段階をよく新生、聖化、栄化といいます。そこに達するためには何をしたらいいのでしょうか?ペテロは、“私たちの救い主イエスキリストの恵みと知識において成長し続けなさい(Ⅱペテロ3:18)。パウロも、自分自身を霊的に整えるために鍛錬しなさい。”(1テモ4:7)。成長には時間と労力をかけて鍛錬することが必要だと言っているのです。

6、                            先日、米国に長く住んでいた友人が、米国の親の子供に対する肯定感はまねできないと話していました。自分の子供がミスしたり、試験で悪かったりしても決して怒らず、攻めもせず、次はもっと良くなるからと励まし、肯定的に接していると。3月に、教会で高橋圭子さんという方の講演会がありました。「思春期の子を持つお母さんのため」という話でした。その話のなかで、思春期までは、子供に自己肯定感を養うよう育てることが大事。そのためには、子供を生かし、前向きになれるよう励まし、良いところ見つけて声に出して言い続けることだと言っていました。さらに、親の心構えとして話を聞いてあげることが大事、人は正しいことをたくさん聞くと安心するのでなく、たくさん聞いてもらうことで安心すると言っていました。臨床心理学者として人の心の問題を扱ってきた河合隼雄先生は、問題のある人と応対するとき、「何もしないことに全力をそそぐ」と言っています。ああしたらいい、こうしたらいいという話はせず、全力で、命がけで人の話をきくということ。語り手の命の呼吸を一心にうけとめること、これが人に寄り添うことでもあると。イエス様が、いつも、ともにいることと同じですね。いま、教会ではスモール・グループ活動をしようとしています。それを進める中で、大事なことは、声の大きい人がリードし、ほとんど一人の人が話している、あるいは、人の話にいちいち意見をいうことです。これをしないことです。お互いのことをよく聞きあい、祈り合うことが鍵です。聖書にも、「聞くに早く、話すのに遅く、又怒るのに遅くなるようにしなさい」(ヤコブ1:19)とあります。

7、                            何を目指すのかそれは、キリストに似たものになることを目指すのだと。「だれでも私について来たいと思うなら自分を捨て、日々自分の十字架を負いそして私について来なさい」(ルカ9;23)。どんな鍛錬が必要なのでしょうか?そのためにまずすべきことは、日々、み言葉に触れることです。“私の言葉にとどまるならば、あなたたちは本当の私の弟子である”(ヨハネ8:31)“主の教えを愛し、その教えを口ずさむ人、その人は流れのほとりに植えられた木。時が来れば実を結び葉もしおれることがない。その人のすることはすべて繁栄をもたらす”(詩1:2~3)。み言葉にしっかり根差して生きれば人格的にも成熟すると言っているのです。

8、                            有名な「種を蒔く人」のたとえがあります。(マルコ4:1~9、マタイ13:1~9、ルカ8:4~8)わたしたちは、み言葉を聞いても、読んでもなかなか心の中に入ってこないことがあります。私たちの心がふさがっていて、道端であったり、石だらけの土の少ないところであったり、茨の中であったりします。そして、心が開いているときにはみ言葉がすっとはいってくる良い土地であったりします。日々この繰り返しをしているのではないでしょうか。愛の人である神様は、人は、いつも良い土地のようではないことは知っておられます。だから、“私はブドウの木、あなたはその枝である。人が私につながっており、わたしもその人につながっておれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れてはなにもできないからである。”とつながってさえいれば実を結ぶと約束しています。

9、                            み言葉にとどまり続けるためには、日々、み言葉にふれること(聞くこと、読むこと、学ぶこと、覚えること、黙想すること)、日々、神に祈り、神と交わること、兄姉と交わり、励まし・祈り合うことが大事になります。いま、教会では水曜日の朝の学びでこのことを学んでいます。成長しなければ神の御心についての教えを体験することができません。聖書を読んでいると日々新たに気づかされることが多いです。こんなことが書いてあったのか、こんな意味だったのかとはっとさせられることがあります。年を重ねて初めて分かることもあります。み言葉の前に謙遜になり教えを受ける姿勢で学び続ければ必ず成長していきます。霊的成長には近道はありません。日々、み言葉に触れていけばかならず成熟した信仰者となります。全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか。

10、                     今週も信仰の創始者であり完成者である、イエスから、目を離さないで、主のみ言葉に導かれつつ歩みましょう。

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日曜礼拝(2018年4月22日)

2018-04-22 10:19:12 | Weblog

日曜礼拝(復活節第三)

2018.4.22

希望学  ルカによる福音書24:1335

 

導入部

 みなさん、おはようございます。3月から、この教会でユースパスター、青年担当牧師として、またキリスト者学生会(KGK)の主事として、奉仕を始めておよそ2ヶ月が経ちました。皆さまが暖かく迎えてくださったおかげで、本当に楽しい教会生活を送ることができています。

 今月からは、いよいよ毎月一回説教奉仕をさせていただけるということで、大変楽しみに思っております。

 それでは、祈りをもって、このメッセージを始めて参りたいと思います。お祈りしましょう。

 

祈り

 愛する天のお父様。あなたの尊い御名をあがめ、心より賛美いたします。

 本日、このように、この場所で、ここにいらっしゃるお一人ひとりとともに、礼拝を捧げられていることを、心より感謝します。

 私たちはあなたが必要です。あなたの助けなしで、一分一秒たりとも生きていくことはできません。だからこそ、このように礼拝を捧げられることを、あなたと深い交わりをもつことができることを、心より感謝致します。目には見えませんが、あなたがここにおられることを信じ、あなたに期待をします。

 ただいま、聖書が開かれました。あなたが、聖霊さまにあって、導いて、書かせてくださった、このいのちのことばを、神のことばを、あなたの思いを、私たちが本当に悟ることができますように。どうか、私たちの心を照らしてください。

 弱き者が、取るに足らない者が、あなたに立てられたゆえに語ります。準備の中であなたが助けてくださったことを信じます。どうか今も、助けてください。憐れんでください。あなたの心を、あなたが教会に語りたいことを、忠実に語ることができますようにしてください。

 あなたに、ただあなたに期待し、また感謝をして、私たちの主イエス・キリストのお名前を通して、この祈りをお捧げいたします。アーメン。

 

説教題について

 本日の説教のタイトルは「希望学」という、おそらく聞き慣れない方が多いであろう言葉を選ばせていただきました。

 「きぼうがく」の「がく」は金額の「額」ではありません。「学ぶ」という字です。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「希望学」というのは一つの学問分野の名前でして、そもそも希望とは何か、あるいはどのような状況で人は希望を感じるのかということを研究しているそうで、特に2011年の東日本大震災以降、希望という単語がますます注目されている、あるいは流行していると指摘されています。なぜ、希望という単語が注目されているのか、流行っているのか。その答えは大変シンプルだそうで、それは希望がないから、現実に失望しているから、だから人々は希望という単語を使うのではないかと指摘されています。

 悲しみが多い世界です。仮に、個人的には今は楽しくてハッピーだったとしても、将来のことを考えると、希望を持つことができない。闇が深いからこそ、希望ということばに注目するのではないかと言われるのです。希望学という分野、なかなか面白そうですよね。

 

 イエスさまは、弟子たちに対して「あなたがたは世界の光です」と言われました。現在のようにわかりやすく暗い時代においては、わかりやすく希望を持ちにくい時代においては、クリスチャンに与えられている希望の光は、もっと分かりやすく輝くはずです。歴史的にも、教会が拡大したのは、暗く苦しい時代でした。重く、苦しいこの世界だからこそ、真(まこと)の希望はさらに輝きを放つはずです。

しかし、問題があるんです。そのような時代に生きていると、つまり希望を持ちにくい時代に生きていると、クリスチャンもまた、希望を失いやすい。まず、希望というからには、それは将来のことでので、目に見えません。目の前で、分かりやすくクリスチャンがどんどん増えていっていたら、希望を持ちやすいかもしれない。でも、私たちの希望は必ずしもそのような形で現れるものではないからこそ、逆に持ち続けにくいという現実もあるわけです。

少々前置きが長くなりましたが、本日は、まさに希望を失っていた二人の弟子たちに、イエスさまが何をしてくださったかということをともに受け取り、私たちに与えられた希望を、ご一緒に学んでいきたいと思うのです。

 

本論部

一.エマオに向かう弟子たちの姿

 それでは早速聖書を見ていきたいと思いますが、先ほど読まれた箇所の最初の13節に「ちょうどこの日」とあります。この日それはイエスさまがよみがえられた日でした。私たちは4月の1日の礼拝で、イースターを祝いましたが、この日イエスさまの弟子であった女性たちが、イエスさまのからだに香料を塗るために墓に行きました。しかし墓の中にあるはずのイエスさまのからだが見当たらない。すると天使が、イエスさまは復活したのだと語る。彼女たちは、急いで弟子たちのところに戻って、喜びながら報告をするでも弟子たちは信じない。ペテロや、あるいはさきほど読まれた24節にありましたが、「仲間の者の何人か」は墓に行って、確かめに行ったものの、亜麻布しか残っていったことに驚いたということが書かれてあります。

 

 これらのことが起こったまさに同じ日、この箇所に出てくるクレオパともう一人の弟子は、これらのことをが起こったエルサレムを離れ、エマオという村へ行こうとしていました。これらのことを論じ合いながら、まさにこれらのことが起こったエルサレムから離れて行こうとしていた。なぜ彼らは、エルサレムを離れ、エマオに向かっていたのでしょうか。

 17を見ると、「二人は暗い顔をして立ち止まった」とあります。19-21はこのように言っています。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。

 

 かつては希望を持っていた。イエス様に期待していた。「この方は、行いにも言葉にも力がある。この方は、ローマ帝国の支配という苦しみから解放し、神の国をこの世界にもたらしてくださるだ」。そのように期待し、そのような希望を持っていた。

 しかし、ご存じのように、実際に彼らが目にしたのは、見るも無残な十字架でした。敗北でした。彼らは、自分たちが信じてたものに、失望していた

 22節からには、彼らが、女たち、そして墓を見に行った仲間たちの証言を聞いたことが書かれてあり、彼らがイエスさまが復活したらしきことは聞いていたということが分かります。それならば、エルサレムに残って、墓を確認しに行ったらいいじゃないかと思うかもしれない。

 でも、彼らはそうはしなかった。もちろん気にはなるんです。だからそれについて話し合ってはいた。でも、失望の方が、あるいは、疑いの方が大きかった。だからこそ彼らは復活が起こったはずのエルサレムから、そしてそれを目撃したと言っている弟子たちの交わりから離れて、エマオに向かっていた。

 

人間の気持ちというのは移ろいやすいものです。私も、ちょうど先々週の水曜日、KGKの主事たちの歓迎会と祈り会があって、夕方、青葉台駅に降り立ったときにはめっちゃ疲れていたんですね。なんかやる気が出ない。そうすると信仰まで落ち込んでくる。おそらく満員電車が原因だったのではないか考えているのですが。で、私は水曜の夜の祈祷会にいつも出席していて、先週の祈祷会にはユースのメンバーも来てくださって、本当に感謝しているのですが、その前の週ですね、祈祷会に行かなくてはいけないので行ったんですけれど、すごく疲れているので、祈祷会が終わって帰ったらすぐ寝ようと思っていたんです。

でも、祈祷会に行って、賛美をして、御言葉を聞いて、祈って、帰ってきたら、なんか妙に元気になっていてですね、元気なので、そっからいくつかの仕事をサクサク終わらせることできたんですね。寝る前に思ったんです。人間の気持ちというは、なんと移ろいやすいものか!

もちろん、そのときは良い意味で気持ちが変わったわけですが、こういうこともあると思います。ある時に、信じたと思った。でも少し経つとほんとかなあと思ってしまう。あのときはあれだけ熱かった、でも時間が経つと冷めていく。特に、大きな挫折や、辛い出来事を経験したときには、そのような大きな気持ちの変化を経験することはあると思うのです。

この箇所に出てくる弟子たちのように、イエスさまを信じていた。イエスさまに希望を置いていた。でも、十字架のように、悲惨で、敗北に思えるような出来事を見て、失望して、イエスさまから、あるいは交わりから離れていきたくなることが、私たちにもあると思うのです。

 

二.イエスさまの姿

 このストーリーが語るグッドニュースがあります。このストーリーが語る福音、グッドニュース、それは、そんな二人に、希望を見失っている二人に、イエスさまご自身が近づいてきてくださったということです。

 イエスさまは二人に近づき、語りかけられました。17節をご覧ください。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか。」

 イエスさまという方は、聞いてくださる方です。私たちの正直な思いを聞いてくださる方です。「あなたが抱えている失望は何だ?何が辛いんだ?何が分からないんだ?何にモヤモヤしてるんだ?」

 この方は、あなたを愛しているから、安心して、正直に語って良いんですね。私は、詩篇が大好きなんです。またいくつかここでもやりたいと思っていますが、そこには本当に赤裸々で、ここまで言っていいのか!?という正直な祈りがたくさんおさめられています。

 かくいう私も、よく偽ってしまうんですね。イエスさまに対してまで、良いことというか、正解を言おうとしてしまうんです。イエスさまには、正直に、葛藤を語って良いのです。私も、本当にそれをよく忘れてしまうのですが、思い出して、正直に祈るとき、いつも神さまの愛を体験させられています。

 

 本論に戻りたいと思いますが、そのようにイエスさまに尋ねられた彼らは、イエスさまだとわからなかったからではありますけれほど、先ほど見たように、偉そうにというか、また限りなくネガティヴに答えます。

 それに対して、イエス様は二人に語られます。25節ですけれども、「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」。新改訳では、「ああ、愚かな人たち」となっています。

 これも、もちろん想像ですけれども、眉毛を釣り上げて怒っているとか、あるいは愛想をつかしているようなことばではないと思うんです。むしろ、暖かい愛のまなざしで「おいおい、あほか」「違うやろ」。ちょっと関西弁が出ちゃいましたけれども、優しく語られたのではないかと思うのです。

 

 イエスさまは、交わりから、エルサレムから、教会から、離れて行こうとする人々を、軽んじて、さばいて、「出て行け」と言う方ではありません。むしろ、その痛みを聞き、理解し、受け止め、エマオへの道を共に歩んでくださる方なのです。

 イエスさまは、私のような、救いようもない罪人を受け入れてくださった方です。だからこそ、教会もそうするんですね。教会もまた、誰かが倒れそうになるときに、誰かが離れそうになるときに、その人を見下すのでもしかりつけるのでもなく、イエスさまがされたように、寄り添い、祈り、共に歩むのです。

 

 そして、これは先々週の礼拝で江上先生も触れてくださってことですが、イエスさまは、旧約聖書全体から、ご自身について、語られました。およそ11キロと言われる道の間のどの地点で、イエスさまが彼らに会ったのかは書いていません。どれくらいの時間だったのか、あるいは具体的にどんな話をされたのかは、私たちには分かりません。でも、本当に素晴らしいお話しだったのだと思います。彼らはもっと聞きたいと思った。

 彼らはエマオの村よりも先へ行きそうなイエスさまのご様子を見て、イエスさまを無理に引き止めます。「一緒にお泊まりください」。もっと、あなたの話が聞きたいんです。イエスさまは彼らの求めに応じて、「共に泊まるため家に入られ」ました。

 そこで、イエスさまは、パンを取り、パンを裂いて祝福されます。これは、当時の習慣では家の主人、あるいは食卓に招いた側がすることでした。でもイエスさまはあえてこのことをなされました。

 この光景をどこかで見たことはないでしょうか。十字架にかかられる前の夜、イエスさまがご自分でパンを裂いて、ぶどう酒を分けられました。そして言われました。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」(マタイ26:26,27)。イエスさまが、その大きな愛を示されたあの夜が、彼らの目の前で再現されたのです。

 

三.目が開く

 31-32節をご一緒にお読みしたいと思います。「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」

 

 まことに不思議なことですが、食事の席で、彼らの目が開け、イエスだと分かったと言うのです。なんでここまで分からなかったのかと思うかもしれませんが、私たちも気づいていない。見えていない。イエスさまはあなたが希望を失いそうになるとき、ともに歩んでくださっているのです。問いかけ、語り続けてくださっていることに気づかないことの方が多い。

 彼らは、そのことに、この食卓で気づかされたのです。そしてさらに、気づいたのです。イエスさまと話し合っていたとき、聖書のメッセージを聞いていたとき、心が燃えていた。あとになって気づくという、不思議な燃え方です。

 

 そして心燃やされた弟子たちがどうしたか。なんと、食事をほっぽり出して、すぐにエルサレムに戻ったのです。走っていったのではないかと想像します。私は行けなかったのですが、昨日のナザレンピックを思い出す方もいるでしょう。

 夕食の時間なので、外は真っ暗だったでしょう。でも、いても立ってもいられなくなって、エルサレムに戻り、他の弟子たちに報告します。安全な場所を出て、危険な場所に向かっていくのです。

 

結論部

 私たちは変わりやすいんです。あるときは燃えていても、落ち込んで、あきらめて、交わりから離れそうになることがあるかもしれない。希望を失いそうになることがあるかもしれない。

 でも、エルサレムを離れ、エマオに向かっていた二人の弟子たちに近づいてくださったように、イエスさまは私たちにも近づき、問いかけてくださるのです。「どうした?正直に言ってごらん」。そして、聖書が語られる場所で、イエスさまの十字架が、赦しが、永遠のいのちが語られる場所で、気づくのです。イエスさまが共に歩んでくださる。永遠に、死を越えて、共に歩んでくださる何度でも、聖霊さまの力で、心を燃やしてくださる。何度でも何度でも、希望を教えてくださる。この方が、私たちの希望なのです。

 だから私たちは、安心して、希望学をし続ける。希望をもっともっと知っていき、どんな場所にあっても、希望を語り続けるのです。午後の総会も、希望が語られ、心が燃やされる時となることを願い、また期待しています。希望を携えて、希望を学び、語り続ける歩みへと、遣わされていこうではありませんか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(2018年4月15日)

2018-04-15 15:16:35 | Weblog

日曜礼拝(復活後第二主日)      2018.4.15

不甲斐なさが身に染みる」 ヨハネ20:19~29

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 今日の説教題は、「不甲斐なさが身に染みる」という題です。「不甲斐ない」とは、「情けないほどに意気地がない」とか、「だらしがない」、「歯がゆく思われるほど」という意味があります。似ている言葉には、腰抜け、とか腑抜けがあります。「身に染みる」とは、「からだに強い刺激を受けて痛みを感じる」という意味があるようです。

ですから、自分のだらしなさ、ふがいなさ、情けなさがからだに強い刺激を受けて痛みを感じるのです。それは、まさにイエス様の弟子たちの姿、トマスの姿、そして、私たち一人ひとりの姿ではないでしょうか。

 今日は、「不甲斐なさが身に染みる」という題で、ヨハネによる福音書20章19節から29節を通してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、どん底のあなたにイエス様は語られるのです

 19節にある、「その日」とは、イエス様がよみがえられた日のことです。ヨハネによる福音書によれば、マグダラのマリアがイエス様の墓に行くと、遺体がなかった。そして、弟子たちの所へ行って、そのこと話してペトロとヨハネが墓に行くとイエス様の体を覆っていた亜麻布はあったがイエス様の遺体はなかったのです。弟子たちは、帰っていきましたが、マリアは、墓にとどまりました。そして、そこで復活のイエス様に出会ったのです。そして、イエス様が復活されたこと、「わたしは主を見ました」と告げたのです。でも、弟子たちは、そのことを受け入れて、イエス様の復活を信じることができなかったようです。

 彼らは、ユダヤ人を恐れて,自分たちのいる家の戸に鍵をかけていたとあります。イエス様は、犯罪人として十字架刑につけられて死にました。マタイによる福音書を見ると、祭司長たちは、ローマ兵士に金を渡して、弟子たちが夜中にやって来て、自分たちが寝ている間に死体を盗んで行った、と証言するようにという記事があります。ですから、弟子たちは、指名手配されている身であったかも知れません。ユダヤ人を恐れて、身を潜めていたのです。そのような彼らに、マグダラのマリアの「わたしは主を見ました」という言葉は何の力にもならなかったのです。

 弟子たちは、恐れて家の鍵をかけて潜んでいました。鍵をかけるということは、家に人を入らせないということです。あるいは、この世との関係を遮断していたのです。人とのかかわりを持ちたくない。この世との関係を避けたい、ということは、誰にでもあることかも知れません。苦しい事や悲しい事を経験したり将来の事が不安になると、私たちは、一人こもったり、交わりを遠ざけようとする傾向があるのかも知れません。この時の弟子たちは、頼りにしていたイエス様が十字架刑になり、ユダヤ人の追手が自分たちに迫っているのではないかと恐れて、家に鍵をしっかりとかけていたのです。

 そのような弟子たちのいる場所にイエス様は来られました。鍵を開けてではなく、戸を開いてではなく、イエス様は弟子たちの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と語り掛けられたのです。他の訳では、「平安」と訳しています。挨拶の言葉です。イエス様は、そう語られて手と脇腹、つまり傷ついた箇所を見せられたのです。20節の最後には、「弟子たちは、主を見て喜んだ。」とあります。詳訳聖書には、「弟子たちは、、主を見て喜び(歓喜、狂喜、陶酔、有頂天)に満たされた。」とあります。イエス様の挨拶の言葉を聞き、イエス様の十字架の傷を見て、弟子たちは、小躍りして喜んだのです。

 悲しみに沈み、落ち込んでいた彼らは、喜びに満たされたのです。私たちも弟子たちのように、苦しみや悲しみ、絶望を経験すると全ての事から遮断して悲しみの中に落ちてしまいます。けれども、イエス様の言葉と励ましは私たちを喜びへと変えるのです。どのような経験をしようとも、聖書の言葉、神の言葉に触れてイエス様の声をいただきたいと思うのです。

 

 二、私たちの弱さ以上のイエス様のご配慮がある

 イエス様は、人とのこの世との関係を遮断していた弟子たち、家に閉じこもっていた彼らに、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と言われました。イエス様は、父なる神様から遣わされて人間の世界に人として遣わされ、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さり、墓に葬られ、三日目によみがえられ、神様の救いのみ業を完成されました。ご自分が父から遣わされたように、今度は、イエス様が弟子たちを遣わすと宣言されたのです。この世との関係を遮断している弟子たちをこの世に遣わすというのです。ユダヤ人を恐れ震えている弟子たちをこの世に遣わされるのです。

 22節を共に読みましょう。「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」 彼らに息を吹きかけられたのです。息というのは聖霊を現す言葉です。

創世記2章7節には、神様が人間を創造された時に何をされたのかを記しています。「主なる神は土(アダマ)の塵(ちり)で人を形づくり、その鼻に息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。私たち人間は、息、神の霊が吹き入れられて生きる者となりました。リビングバイブルには、「そこで人は、生きた人格をもつ者となりました。」とあります。私たちは、神の霊によって生かされている存在なのです。

 そして、23節、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」と言われました。このことは、弟子たちに、罪を赦す力が委ねられたというのではなくて、イエス様の十字架と復活を通して与えられる罪の赦しの宣言が弟子たちに委ねられた、ということだと思うのです。

 弟子たちは、復活されたイエス様の声を聞き、その姿を見て大いに喜びました。

 10人の弟子たちは、復活されたイエス様に出会って、勇気と力が与えられました。けれども、聖書は、トマスはそこにいなかったと記しています。なぜ、弟子たちと一緒にいなかったのかの理由を聖書は記していません。どのような理由があれ、トマスは、他の弟子たちと一緒に、そこにいなかったというのは事実なのです。ですから、他の10人がイエス様を見たという言葉を彼は信じることができませんでした。詳訳聖書は、25節を「それで、ほかの弟子たちは「私たちは主にお目にかかった」と言い続けた。」とあります。

トマス以外の弟子たちはイエス様を見た、と何回も何回も「言い続けた。」のです。彼らは、事実を語ったのですが、それがトマスには信じられないことだったのです。

 私たちも自分だけが、仲間外れにされていると感じることがあるかも知れません。自分だけが、他の人と意見が違う。自分のやり方は他の人と違う。そのような事を経験して、落ち込んだり、いやな思いをすることがあるのかも知れません。けれども、それはまた、イエス様がトマス個人のために現れられたように、わたし一人のためにもイエス様が介入される時なのかも知れないのです。

 

 三、何があっても、大丈夫。イエス様はあなたを愛しています。

 弟子たちが、何度も何度も「わたしたちは主も見た」と言うものですから、喧嘩の売り言葉に買い言葉ではありませんが、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ってしまったのではないでしょうか。

 自分一人だけが同じ経験をしていない時に、何を言われても理解できないのですから、共有できないのですから、いやな思いやイライラがあるのかも知れないのです。ですから、

思ってもいないことを言ってしまうこともあるのだと思うのです。

 トマスは、ディディモと呼ばれるとありますように、双子、あるいは二心、物事を否定的に見る傾向がある、マイナス思考でもあったように感じます。24節の最初を原文では、「トマス、十二弟子のひとりなのだが」となっているのです。イエス様に選ばれた12弟子の一人でありながらも、他の10人の弟子たちの言ったことを信じることができなかったのです。

 トマスの心には、「どうして私がいない時にイエス様は来られたのか。私の事を嫌っておられるのか。」とか、いろいろと考えてしまうわけです。そのように考えると、自分も他の弟子たちのように、復活されておられるのならイエス様にお会いしたい、という強い思いがあったのでしょう。その強い思い、イエス様に対する思いがあまりにも強すぎて、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったのかも知れないのです。

 イエス様は、そのトマスの思い、心にある事柄、イエス様に対する熱い思いをわかっておられたでしょう。八日の後に、また、現れて下さるのです。その間、トマスは他の弟子たちと共に過ごしました。他の弟子たちも、自分たちを信じないトマスを避けることなく、トマスも他の弟子たちを避けることなく、共に過ごし、八日目を迎えたのです。

 26節には、「戸にはみな鍵がかけてあった」とあります。「みな」という言葉は、19節にはありません。彼らは、復活のイエス様に出会った。喜んだ。歓喜した。小躍りして喜んだ。けれども、前以上に厳重に、家の鍵を皆閉めていた、というのです。復活のイエス様出会った。大喜びしたのにも関わらず、恐れは消えず、さらに厳重に鍵をかけていたのです。これが、現実です。本当に、彼らに力が与えられるのはペンテコステなのです。

 27節を共に読みましょう。「それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」」 イエス様は、8日前にトマスが言ったこと、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」を受け入れて、手とわきの傷を見て触れるように言われたのです。トマスが言った、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」は、ひどい言葉です。イエス様の弟子の言葉とは思えない言葉です。不信仰だ、と言われても仕方のない言葉かも知れません。でも、そのひどい言葉であったトマスの言葉、トマスの心を受け入れて、トマスが納得するような形を示されたのです。

 「私の弟子なら、なぜ、あんな言葉を言うのだ。」と責められるのではなく、受け入れて下さったのです。私たちも、長い信仰生活の中で、トマスのように、あるいは、トマス以上に、イエス様に対しても申し訳ないような言葉を言うことがあるのかも知れません。でも、イエス様は、そのひどい言葉、不信仰な言葉を聞き、受け入れて下さるお方なのです。

 トマスも自分が何を言ったのか覚えていたでしょう。ひどい言葉を言ったことは、トマス自身が一番覚えています。叱られても、怒鳴られても仕方のない言葉です。しかし、イエス様は、トマスの問題やマイナスを全て覆いつくすように、イエス様は愛で受け止めて下さったのです。そのことがトマスにはわかりました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とイエス様に言われて、信じる者になりたいと思いました。リビングバイブルには、「いつまでも疑っていないで、信じなさい。」とあります。そう言われてトマスは、「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのです。イエス様は続けて、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と言われたのです。トマス以外の弟子たちも、トマスもイエス様を見て信じました。けれども、イエス様を見ないで信じる人々、私たちもそうですが、見ないで信じる私たちは幸いなのです。それが、信仰なのです。

 ヘブライ人への手紙11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。私たちは、聖書が示す福音の言葉、イエス様が私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さり、私の代わりに罰を受けて下さったので、私の罪が赦され、イエス様が死んで葬られ、よみがえられたので、私たちは神様の前に義とされ、救いが完成され、罪赦され、永遠の命、死んでも生きる天国の望みが与えられている、ということを見ないでも、信じたいと思うのです。

 

 

 

 Ⅲ結論部

 10人の弟子たちも、トマスも共に不甲斐なさが身に染みる経験をしました。どうして信じられないのか。どうして恐れるのか、と第三者の私たちは思うでしょう。けれども、私たちも、一人神様の前に立つ時、自分の信仰の不甲斐なさ、信仰者としての情けない歩み、同じように不甲斐なさが身に染みるのではないでしょうか。表面的には、社会的にも立派なのかも知れない。肩書があるでしょう。しかし、自分という一人の人物を見る時、いかに弱く、自己中心的で、どうしようもない者であることを自分は気づくのです。けれども、イエス様はそのような私たちを愛し、否定的な言葉や行動があっても、弟子たちをトマスを丸ごと受け入れて下さったように、私たちが今どのような状況に立っていようとも、不甲斐なさが身に染みていても、愛して、受け入れて、私たちを強め、祝福して、この世に遣わして下さるのです。聖書の言葉、神様の言葉を、聖霊をいただいて、この週もイエス様と共に、遣わされた場所で、信仰を現していこうではありませんか。

 

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日曜礼拝(2018年4月8日)

2018-04-08 15:57:02 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一主日)       2018.4.8

喜びのあまり信じられない」 ルカ24:36~49

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 先週は、イースター礼拝でした。幼稚科・小学科ではきのこ公園で野外礼拝と卵探しを致しました。第一礼拝後には、岡村成子さんが洗礼を受けられ、私たちの青葉台教会の一員となられました。岡村姉のためにお祈りください。

 礼拝後は、祝会があり、関内美恵子姉から岡村姉の紹介と塚本良樹先生の歓迎の時が持たれました。塚本先生と柳瀬雄太兄のデュエット、梶原結姉と江上まりや姉のデュエット、梶原結姉の証し等、良き時を持つことができました。いつものように司会の御用にあたって下さった長瀬兄に感謝致します。

 各自が新しい歩みを始めた4月です。2018年度が始まりました。この月も主イエス様から目を離すことなく、主イエス様が共におられることを信じて、各自の信仰の歩みをさせていただきたいと思います。

 さて、今日はルカによる福音書24章36節から49節を通して、「喜びのあまり信じられない」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様がみえるみえる

 36節には、「こういうことを話していると」とありますが、こういうこととは、エマオ途上のお話しでしょう。クレオパともう一人の弟子がエマオに向かう途中にイエス様が現れ、最初はイエス様だとわかりませんでしたが、宿でイエス様がパンを裂いて渡された時、イエス様だとわかったということ、イエス様は確かによみがえられたと確信した二人は、エルサレムに戻ると、イエス様の弟子11人が復活してシモンに現れたと言っていたというようなことを話しているとイエス様が彼らの真ん中に立って、「あなたがたに平安があるように」と言われたのです。

 37節には、「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」とあります。クレオパともう一人の弟子から、イエス様の話しを聞き、イエス様が復活してシモンに現れたと話しておきながら、そのイエス様が現れると幽霊だと思い恐れおののいたというのです。

復活という信じられない出来事が今自分たちの目の前で起こっていることに対して、死んだイエス様が生きて目の前にいる現実に、恐れおののきつつ、目に見えるイエス様の姿を現実とは思えないゆえに、幽霊だと思ってしまう弟子たちの姿があります。

 そのような弟子たちに、イエス様は語られるのです。38節です。「そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。」 新改訳聖書では、「なぜ、取り乱しているのですか」とあります。女性たちやクレオパたちから聞いたイエス様の復活の事も信じられない弟子たちでした。今、彼らの目の前に現れた復活されたイエス様を見ながらも、なお、恐れおののき、取り乱している彼らに、イエス様はなぜ心に疑いや疑問を持つのかとやさしく問われたのです。

 39節を共に読みましょう。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」」 夏のなると、ホラーとか幽霊の映画やテレビが放映されます。いろいろな怪奇現象を検証するというものもあります。人間の考えや常識では考えられない出来事や現象が確かにあるのです。弟子たちは、イエス様の復活もそのようなホーラー映画のような、幽霊、お化けのような感覚でいたのでしょうか。日本では、いるはずのない人が目の前にいたら、お化けかどうかを確かめるために、足があるかどうかを見るというものがあります。日本では、お化けには足がないのです。けれども、海外のお化けなるものには、足があります。 イエス様は、復活のイエス様には、私たちと同じ骨や肉があるのです。手で触ることができるのです。イエス様は、十字架につけられた時の傷のある手と足を弟子たちに見せられたのです。

 復活は、幽霊やお化けの話ではありません。イエス様には骨や肉がありました。私たちが先に召された人々と天国で会えるのは、幽霊のような存在で会うのではなく、私たちが見える形を持って会えるということを示しているのではないでしょうか。骨がある、肉があると言っても、私たちと同じ死ななければならない朽ちるべきものではなく、朽ちないものであると思うのです。主のよみがえりは私たちにとっては、大きな希望なのです。

 

 二、食べることは復活のあかし

 41節には、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、」とあります。「喜びのあまり信じられない」これが、今日の説教題です。私たちも、うれしさのあまり、喜びのあまり信じられないということがあるでしょうか。リビングバイブルには、「弟子たちは、うれしいにはうれしいのですが、まだ、半信半疑です。」とあります。

 受験のシーズンが終わりましたが、先生や友人から、あの学校は絶対に合格できないのでやめておくように言われながら受験して受かったとか、絶対にノーと言われるだろうと予想しながら求婚したらオーケーしてもらえたとか、それが本当だったらうれしいのですが、その答えがあまりにも想像できない、素晴らしい事なので、信じられない。受け入れられない状況でしょうか。かつて、プロ野球の日本ハムファイターズの監督であったヒルマン監督はリーグ優勝、日本一になって、インタビューの時、「信じられない」という言葉で大変有名になりました。現実にパリーグで優勝し、日本シリーズでも優勝しているのにもかかわらず、「信じられない」と叫んだ。しかし、それが、正直なヒルマン監督の思いだったのでしょう。春のキャンプの練習の時から、チーム状態を見ていて、まさか優勝、日本一になるとは思えなったけれども、優勝したのです。

 弟子たちにとっては、愛する先生であるイエス様が十字架につけられて犯罪人として裁かれ、死んだという事実は、大きな悲しみでした。絶望を経験したのです。しかし、その愛する先生、イエス様が復活したという話を聞いた時、本当はうれしかった。あのイエス様が復活された。手を取り合って喜び合いたかった。しかし、理性が、常識がそれを邪魔してしまったのです。「そんなことは信じられない。そんなはずはない」と。

 そして、そのイエス様が目の前に現れて、手と足を見せられたのです。十字架で傷ついたイエス様の手と足を見ながらも、ここに生きておられるイエス様がおられることを確認しながらも、それはうれしいこと、喜ぶべきことなのですけれども、素直に喜べない。リビングバイブルが訳しているように、「うれしいにはうれしいのですが、まだ、半信半疑です。」というのが、本当に正直な弟子たちの気持であったように思うのです。

 そのような彼らにイエス様はおもしろいことを言われました。41節を見ると、「ここに何か食べ物があるか」と聞かれたのです。イエス様は三日間、墓の中におられたので、お腹がすいてすいて仕方がなかったのでしょうか。弟子たちが、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエス様は食べられたのです。食べるということは肉体を持つ者の象徴的な事柄です。

イエス様は、会堂長のヤイロの娘をよみがえらされた時、聖書には、「食べ物を少女に与えるように言われた。」(マルコ5:43)と記されています。私は先週のメッセージの本論の最初で、「今まで死人がよみがえるということは、ラザロを除いてはあり得ない事でした。」と言いましたが、ヤイロの娘、ナインのやもめの一人息子は死んでイエス様によみがえらされました。嘘を言って申し訳ありませんでした。ここで間違いを訂正しておきます。

 弟子たちは、イエス様が魚を食べておられる姿を見て安心しました。幽霊やお化けではない。まさしく、自分たちの知っているイエス様だったのです。食べることと復活のイエス様は、深い関係があり、食べるということの大切さを聖書は語っていると思うのです。

 

 三、見える事柄よりも神様の言葉を大切に

 イエス様は、復活されたご自分の体を見せて、それでいいとはされませんでした。「復活した私の体を見て納得したからいいよね」とはならないのです。復活されたという目に見えること以上に、聖書の言葉、神様の言葉を弟子たちに示されるのです。44節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」」「モーセの律法と預言者の書と詩編」とは、聖書全体を指す言葉だと思います。聖書は、聖書全体は、イエス様について語っているのです。ヨハネによる福音書5章39節で、イエス様は、「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しするものだ。」と言われました。

リビングバイブルには、「その聖書は、わたしを指し示しているのだ。」とあります。ですから、聖書が語る、つまり、イエス様の生涯はすべて実現しているのです。イエス様の誕生も死も復活も。イエス様は、弟子たちが聖書を悟ることができるように、彼らの心の目を開いて下さいました。 46節を共に読みましょう。「言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」 イエス様は、十字架につけられる前に、何度か弟子たちに、「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。」と語られました。この内容は旧約聖書に記されてあるのです。イエス様の生涯は預言の成就なのでです。

 47節は、イエス様の十字架と復活、福音が語られ、罪の赦しを得させる悔い改めがエルサレムから始まることが示されています。48節では、弟子たちが証人となることが記されています。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」」(使徒言行録1:8)と聖書は語ります。この聖霊の力が覆われるまでは、エルサレムにとどまっているようにとイエス様は語られるのです。ペンテコステ(聖霊降臨日)ですね。聖書の言葉と聖霊の力、導きによって私たちは生かされるのです。

 イエス様は目に見えること、癒しの業や奇跡の業、復活の出来事、そのことも大切にされますが、それ以上に聖書の言葉を、神様の言葉を大切にされるのです。私たちは、目に見えるものだけに集中するのではなく、目に見える奇跡や癒しの業だけに固執するのではなく、聖書の言葉によって養われ、神様の言葉を信じて歩みたいと思うのです。聖書は、罪ある私たちのために、神であるイエス様が十字架について、私たちの罪の代わりに裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さったこと、ご自分の死を通して私たちを救って下ったこと、死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえり私たちの初穂となり、永遠の命を与えて下ったことが記されているのです。そのことを信じて感謝したいのです。

 

Ⅲ結論部

 弟子たちは、喜びのあまり、イエス様の復活の事実を信じられないでいました。けれども、イエス様は聖書の言葉、神様の言葉を示して、また、彼らの心を開いて、信じることができるように導いて下さったのです。イエス様の十字架と復活、それが事実なら信じたい。私の罪の身代わりに十字架にかかり死んで、私の罪を赦し、魂を救い、復活して、信じる私にも永遠の命を与えて下さる。それが、事実なら本当にうれしい。素晴らしい。それが事実なら信じたい、と思っておられる方は多くいます。しかし、理性が、常識が邪魔をして信じることができない。でも、安心して下さい。イエス様の弟子たちも、そうだったのですから。イエス様を信じていた弟子たちも、疑いの心、取り出してしまうのです。

 イエス様の十字架と復活を信じるとは、100%疑いもなく、問題もなく、何の曇りもなく、信じ続けるというよりも、疑いの思いがある。迷ってしまうこともある。本当かどうか取り乱してしまうことがある。それがだめだとイエス様は言われないのです。そのような弟子たちの心を開いて下ったように、聖霊なる神様は私たちの心を開いて、聖書の言葉を理解できる、悟ることができるように導いて下さるのです。大切な事は、私たちが日々、聖書の言葉に触れて、聖霊の導きの中で、神様の言葉を受け入れて、日々、確信することだと思うのです。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)とクレオパは語りましたが、聖霊様はそのように導かれるのです。この週も聖書に触れて、イエス様を信頼して歩みましょう。

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イースター礼拝(2018.4.1)

2018-04-02 08:42:17 | Weblog

イースター特別礼拝         2018.4.1

死にたくないというあなたへ」 マタイ28:1~15

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2018年度の最初の礼拝です。今日は、イエス様が十字架にかかり死んで、墓に葬られ、三日目によみがえられたことを記念するイースター(復活祭)礼拝です。2018年度の最初の礼拝をイースター礼拝として、愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

 青葉台教会では、毎年受難週には、連夜祈祷会が月曜日から土曜日まで持たれていました。私が2001年に来てから、16年間続けられてきました。けれども、今年は、連夜祈祷会をやめて、夜の聖餐木曜日礼拝と朝の聖金曜日礼拝をすることにしました。イエス様が弟子たちと心から待ち望まれた最後の晩餐での食事と洗足を覚えての夜の礼拝、イエス様が十字架につけられていた時間、イエス様の苦しみを覚えながらの朝の聖金曜日礼拝、み言葉を読み、賛美を歌い、聖餐の恵みに預かる礼拝は、どちらも本当に素晴らしいものでした。参加された方々は、その祝福を体験なさったのだと思います。できましたら、来年も継続したいと思いますので、来年はぜひ出席して下されば、素晴らしい恵みに預かること間違いなしです。

 今日のイースター礼拝は、マタイによる福音書28章1節から15節を通して、「死にたくないというあなたへ」という題で、お話ししたいと思います。

 受難週の中で經田姉の死もありましたが、死というものは、私たち人間にとっては、悲しいものです。嘆きべきものです。愛する者との死別は、胸が張り裂けそうな苦しみ、嘆きを私たちは経験するのです。經田姉は、死に対する備えができていました。クリスチャンとして、しっかりとした信仰を持っておりました。けれども、やはり、心の底には、愛する者と離れたくないという意味では、死にたくないという思いがあったのかも知れません。それは、クリスチャン云々ではなく、人間として当然な事だと思うのです。まして、イエス様の十字架と復活、罪の赦しと魂の救い、永遠の命、死んでも生きる恵みを知らない人々にとっては、死は恐ろしいもの、考えたくない事柄ですから、死にたくないと感じている方々が多くいるのではないでしょうか。死にたくない、つまり、死が怖いという方々には、イースターは福音なのです。死んで終わりの生涯ではなく、死んでも生きる道、天国の望みがあることを知らせたいと思うのです。

 

 Ⅱ本論部

 一、問題の中に介入される神

 今まで死人がよみがえるということは、ラザロを除いてはあり得ない事でした。ですから、死んだらおしまいです。祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々は、イエス様が十字架につけられて死んだので、喜んだのです。これで、イエスについて行った人々が自分たちのもとに戻ってくるだろうと思ったことでしょう。イエス様は、十字架の上で確かに死んで墓に葬られたのです。

 アリマタヤのヨセフとニコデモは、あまり時間がなかったのでイエス様の遺体に簡単な防腐処置しかできませんでした。そして、ヨセフの準備した新しい墓にイエス様の遺体を収めたのです。

 1節に、マグダラのマリアともう一人のマリア(ヤコブとヨセフの母)が、墓を見に行ったとあります。彼女たちは、イエス様の十字架の苦しみと死を遠くから見守っていた人々でした(マタイ27:55-56)。また、イエス様の遺体がおさめられた場所、その墓を見て、そこに座っていたのです(マタイ27:61)。おそらく長い時間、墓の前で悲しみに暮れていたことでしょう。しかし、安息日にはいるので、彼女たちは仕方なく、帰っていき、安息日が終わって、次の日の朝早くに、イエス様の遺体に香油をぬるために墓に来たのです。

 愛するイエス様がなぜ死ななければならなかったのか。人々を愛し、貧しい人々を助け、病んでいる者を癒し、苦しみの中にある人々に手を差し伸べたイエス様が、何の罪で死罪にならなければならなかったのか。彼女たちはイエス様の死を悼(いた)んだのです。

 愛する者の死、その悲しみは深いものです。ですから、その御遺体がおさめられた場所に共にいたいという願いが強いのは当然です。彼女たちの今できる最大の事は、イエス様の遺体に香油を塗ることだけなのです。そして、それを実行するために墓にやってきたのです。

 2節には、大きな地震が起こり、主の天使が墓をふさいでいた石を転がした。そして、その上に座ったとあります。マタイによる福音書以外の福音書は、石がすでに取りのけていたことが記されていて、地震が起こったことや主の天使が石を転がしたことは、マタイにしか記されていません。ルカによる福音書では、女性たちは誰が石を転がしてくれるのか、と話し合ったことが記されています。イエス様の遺体に香油を塗るためには、墓の入り口の大きな石を取りのける必要がありました。そして、彼女たちにはそれは不可能だったのです。

 私たちには、心配事がつきません。自分の目的を果たすためには、自分にはできないこと、困難な事があるのです。しかし、聖書は、主の天使が石を転がした。その上に天使が座ったたるのです。私たちの人生には、できないと思われること、ダメダと思えることが多くあります。けれども、神様は、私たちの歩むべきその道において、必要な事は必ず果たして下さる。人間の不可能や思いを超えた状況を可能にして下さるのです。それは、彼女たちのイエス様に対する愛のゆえでした。今、進むべき道が閉ざされていても、イエス様に信頼していくならば、イエス様は道を開いて下さるのです。

 

 二、こわがらなくていいのです

 墓を番していた者は、天使を見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった、と4節にあります。天使の姿は、稲妻のように輝き、衣は雪のように白かったと3節に記してあります。ローマの兵士ですから頑強な者でしょう。しかし、天使の姿を見て恐ろしさのあまり震え上がったのです。遊園地にはお化け屋敷がつきものです。女性は好きですね。でも、男性はあまり好きではありません。恐いのに恐いと言えない。キャーと叫ぶことができない。案外、私を含めて男性は恐がりですから、お化け屋敷に入ったら、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになるかも知れません。

 ここでの、番兵の見た天使はお化けではありません。神の使いです。稲妻のようだという表現です。主の天使は、栄光の姿をしていたのかも知れません。信仰のない者が見たら恐れ震え上がるのでしょう。信仰には、量(はか)りがあるのです。ですから、番兵が見た天使の姿は、番兵たちの許容範囲を超えたものだったのでしょう。パニクッたのです。

番兵たちは、主の天使が現れ、墓の石を転がしたのを見たのです。

 そして、二人のマリアも同じものを見たのでしょう。5節、6節を共に読みましょう。

「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

 番兵たちが恐れ震え上がり死人のようになったのですから、女性たちもおそれたでしょう。声を出しておどろいたのかも知れません。ですから、天使は、「恐れることはない。

と語り掛けたのです。私たちの人生にも、信仰生活においても、恐れることはたくさんあります。信仰的な事、経済的な事、健康的な事、精神的な事、仕事、学校、教会、夫婦や親子、友人という人間関係、将来の事と恐れることは多くあります。今、恐れていることがありますか。聖書を通して、神様はあなたに語られるのです。「恐れることはない。」と。

 女性たちは、十字架につけられて死んだイエス様の遺体に香油を塗りに来ました。しかし、あの方はここにはおられない。復活したというのです。しかも、「かねて言われていたとおり」と。イエス様は弟子たちに、何度か復活の事を語りました。しかし、彼らは信じませんでした。いや、信じられなかったのです。彼女たちも、聞いていたのかも知れません。しかし、人が死んで復活するということは、誰もが信じられないほどに大きな出来事なのです。復活したので、遺体は当然ないわけです。だから、見なさいと言われました。彼女たちは、十字架の上でイエス様が死んだこと、確かに、このお墓にイエス様の遺体が収められたことを見て知っていたのです。だから、「遺体の置いてあった場所を見なさい。」と告げたのです。うそでも、ほらでもない。真実なのです。真実はひとつ。何かアニメやドラマで出てくる言葉です。復活したことは事実なのです。

 また、弟子たちに、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」ということを告げるようにと天使は語ったのです。イエス様が復活して、ガリラヤで会える。それは、喜ばしい事でした。喜ばしい事ですが、素直に喜べないのが、復活の事実でした。神様のなさることは、私たち人間の頭では理解できません。私たちが理解でき、私たちの頭で信じることしかできない神様なら、それは神様とは言えないでしょう。私たちが信じられないことをなさるから、神様なのです。

 

 三、聖書を通して直接神の言葉を聞く

 8節を共に読みましょう。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」 彼女たちは、天使を見て恐れました。イエス様の復活の事、ガリラヤで会えることを聞いて喜んだのです。リビングバイブルでは、「二人は、恐ろしさに震えながらも、一方ではあふれる喜びを抑えることができませんでした。」とあります。彼女たちの目的は、死んだイエス様の遺体に香油を塗ることでした。葬りの準備があまりできなかったので、悲しみの中でイエス様の遺体に香油を塗ることが彼女たちの慰めだったのでしょう。ところが、墓の石は転がしてあり、天使がイエス様の復活を告げて、イエス様が復活したことをお墓に遺体がないという証拠のゆえに、恐ろしさがありながらもイエス様が復活したという福音のゆえに喜びがあふれてきたのでした。そして、急いで、この良き知らせを弟子たちに伝えるために道を急いだのです。

 9節を共に読みましょう。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。」 道を急いでいる二人の前にイエス様が立ちはだかっで、「おはよう」と言われたのです。ギリシャ語では、「カイレテ」という言葉ですが、元の意味は「喜びなさい」という意味だそうです。ヘブライ語では、「シャローム」という言葉です。確かに十字架で死なれたイエス様を見た。そのイエス様の遺体が墓に葬られるのを確かに見た。死んで墓に葬られたイエス様が、今自分たちの目の前に現れて「おはよう」と言われたらどうでしょう。会いたかった人が目の前にいる。死んだ姿ではなく。生きた者として。どんなにうれしかったでしょう。喜びに満ち溢れたでしょう。彼女たちはイエス様の足を抱いて、その前にひれ伏したのです。

彼女たちは、イエス様を礼拝したのです。

 イエス様が直接語られました。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 先ほどは、天使も同じように「恐れることはない。」と言いました。けれども、今度は、復活されたイエス様が直接に、彼女たちに向かって「恐れることはない。」と言われたのです。天使が語った時、恐れと戸惑いと共に喜びがありました。しかし、直接イエス様から「恐れることはない。」と語られて、疑いや惑いは吹っ飛んで、喜びに満たされたのです。イエス様から直接言葉をいただくことは幸いなことです。私たちには、聖書が与えられ、聖書を通して直接に神の言葉をいただくことができるのです。私たちには日々、いろいろな出来事があります。だからこそ、聖書を通して神様の言葉、イエス様の言葉が直接必要なのです。「恐れることはない。」という言葉が二人の女性に語られたように、恐れや不安でいっぱいの私たちにも、イエス様が直接語られ、全てを受け入れて下さるのです。

 天使もイエス様もガリラヤに行くように、そこでイエス様に会えると告げました。ガリラヤという場所は、イエス様や弟子たちの故郷、イエス様が弟子たちと共に神の国を宣べ伝え、奇蹟の業を起こし、み業をなさった場所です。弟子たちにとっては、イエス様のそばで聞いたお言葉に感動し、奇蹟の業に目を見張り、イエス様の弟子であることを喜んだ場所でした。ガリラヤという場所は、イエス様と共に楽しく、生き生きとした記憶のよみがえる場所です。弟子たちにとってかげがえのない場所、そこでイエス様に会えることは、最高のことなのです。

私たちの教会は、今年で創立50周年を迎えます。この50年の間、神様は青葉台教会を通して、立てられた牧師先生を通して、信徒の兄弟姉妹を通して神様のみ業を見せて下さいました。多くの方々が救われました。今日も岡村成子さんが洗礼の恵みに預かります。イエス様が弟子たちにガリラヤで会うと言われたように、私たちは、この青葉台教会でイエス様に会えるのです。私たちの罪のために十字架にかかるほど私たちを愛されたイエス様、私たちの身代わりに十字架で裁かれたイエス様、死んで葬られよみがえられたイエス様は、この青葉台教会で私たちに出会って下さり、この教会で神の業をなさるのです。

 

  Ⅲ結論部

 クリスチャンの中にも、自分は本当に天国に行けるのだろうかと疑っている人がいることを知ることがあります。残念な事です。なぜ、自分が天国にいけるかどうか、わからないかと言うと、自分の普段の生活がだらしないから、まじめでないから、ちゃんとしていないからという理由です。もし、そのような理由で天国へ行けないのなら、私は天国には行けません。だらしないし、まじめでないし、ちゃんとしていないから。しかし、聖書は、私たちの行い、生活の云々で救われる。天国へ行けるということを言いません。私たちが自分の心の中に罪があることを認め、その罪の身代わりにイエス様が十字架にかかって死んで下さったこと、死んで葬られ、三日目によみがえられたことを感謝して、受け入れるならば、私たちの罪は赦され、魂が救われ、永遠の命が与えられると聖書が約束していることを信じるなら、救われるのです。正しい行いや立派な歩みが救いの根拠ではないのです。

ぐうたらなクリスチャンであろうが、弱さを持つクリスちゃんであろうが信仰によって救われ、天国へ導かれるのです。

 死は恐ろしいものです。死は恐いものです。しかし、死では終わらないというのが、聖書の約束であり、イエス様に復活はそのしるし、証しなのです。しにたくないと思っているあなたも、死んでも生きる命、復活の命、天国の望みがイエス様の十字架の死と復活を通して与えられるのです。そのことを素直に信じたいのです。そして、そのことをお勧めします。この週も、いろいろな事があります。しかし、「恐れることはない。」と語られるイエス様の言葉を信じて、また、共におられるイエス様を信じて歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年3月25日)

2018-03-25 10:32:31 | Weblog

日曜礼拝(棕櫚の主日・受難週)     2018.3.25

血に飢えた神」 マタイ27:32~56

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。受難節第六日曜日、棕櫚の主日、受難週を迎えました。今日も皆さんと共に、礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 先週の水曜日には、中谷信希先生と後藤モニカ先生の結婚式が行われました。とても寒い日で、雪がふりました。桜の花がちらほらと咲いて、これから春を迎えようとする春分の日に、寒い寒い日でしたが、それだけに、また思い出に残る結婚式だったと思います。神様がお二人に、この結婚式を、結婚の誓いを忘れないように、多くの方々が祝福して下さったことを感謝できるようにと、季節外れの寒さを、雪を与えられたように思うのです。思い通りにいかない時、いつもとは違った状況は、大変な苦労や思いはしますが、それは、また、神様の恵みの時、必要な導きだったと思うのです。

 木曜日は、15日の早朝に天に召されました故経田悦子姉の告別式が行われました。愛する妻を、愛する母を亡くした父親と二人の兄弟、親族の上に、神様が聖書の言葉を通して、そして、魂の救いと罪の赦し、永遠の命の恵みを語らせていただきました。ご遺族の上に、神様の豊かな慰めとお支えがありますようにお祈りください。結婚式と告別式を続けて行ったのは、31年の牧会伝道では初めてでした。

 私たちの人生には誕生があり、死があります。聖書を通して示された救い主イエス様にも死がありました。罪のないお方が、神であるお方が死を経験しなければならない。それは、あってはならないことですが、父なる神様のお心は、全人類の罪の身代わりに、イエス様が十字架で死ぬことでした。今日は、マタイによる福音書27章32節から56章を通して、「血に飢えた神」と題してお話しします。

 この説教題は、岩井姉が書いて下さいましたが、「血に飢えた神」という題をなかなか書けなかったとお話しくださいました。神様に対して血に飢えたという表現はあまりしません。血に飢えた狼とか、血に飢えた殺人鬼とは表現しますが、「血に飢えた神」とは表現しないでしょう。十字架のイエス様の苦しみ、流された多くの血、それを父なる神様はじっと見ておられた。イエス様を見捨てられた。イエス様の血が流されるままにされた。そのように考えていると、「血に飢えた神」という題が生まれたのです。

 今日は棕櫚の主日、イエス様がエルサレムに子ロバに乗って入城され、人々は棕櫚の枝を持ってイエス様を歓迎したのです。今日から受難週です。イエス様の苦しみを特に思う週です。そのことを覚えて、この週を送りたいと思います。

 

 

 

Ⅱ本論部

 一、苦しみに会ったことはわたしに良い事となる

 32節には、キネレ人シモンにイエス様の十字架を無理に担がせたことが記されています。シモンという人物は北アフリカの人で、過ぎ越しの祭りのためにエルサレムを訪問した時、イエス様の十字架刑を執行するためにゴルゴタまでの道筋の中で、この群衆に出会い、イエス様は疲れて、十字架を負うことができないので、シモンが担がされたのでしょう。おそらく、シモンは立派な体格をしていたのではないでしょうか。たくさんのお金を使い、遠い距離をわざわざやって来て、あこがれのエルサレムでの過ぎ越しの祭りや礼拝をどれほど、楽しみにし、期待していたことでしょう。けれども、十字架刑の犯罪人の十字架を担がされるとは、なんという不幸なことかとシモンは感じたでしょう。

 私たちの人生には、思いもしなかった出来事や自分の計画通りにはいかないこと、それ以上に、予想もしなかったいやなことや不幸を背負わされるということを経験することがあります。しかし、このシモンが不幸だと感じたこの出来事、犯罪人の十字架を担がされたという、この犯罪人とは、実は全人類の救い主イエス様であったことを後で知ったのでしょう。そして、救い主の十字架を担がせていただいて幸せだと変えられたのです。この時の出来事を通して、シモンは信仰を持ち、彼の子どもたちも信仰を持ったようです。マルコによる福音書15章21節では、「アレクサンドロとルフォスの父でシモンというキネレ人」と紹介しています。

 シモンにとって、犯罪人の十字架を担がされた出来事は、一日も早く忘れたい出来事、不幸な、いやな出来事でしたが、それが、祝福、恵みの業であったことを知らされ、喜びと感謝に変えられたのです。私たちも嫌な事、辛い事、悲しい出来事を経験しますが、神様はそれを恵みに祝福に変えて下さるのです。

 44節までは、十字架の記事で、11日にルカによる福音書を通して、見させていただいたので、ここでは割愛します。ルカによる福音書では、一人の犯罪人は自分の罪を認め、イエス様に信頼しますが、44節には、「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とありますから、最初は、この犯罪人も同じように、イエス様を侮辱していたことがわかります。しかし、イエス様の言葉と態度を通して、変えられたのでした。

 イエス様は、午前9時に十字架につけられました。そして、45節では、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」とあります。 午前9時、昼の十二時、午後三時と言えば、ユダヤ教では、祈りの時間です。祈る時です。イエス様が午前9時に十字架つけられ、昼の十二時に全地が暗くなり、午後三時まで続き、イエス様が亡くなられた。イエス様の十字架は、祈りであるかのように、祈りの時間が記されています。ですから、十字架が祈りと関係あるものだと聖書が語っているように思えるのです。イエス様の生涯が祈りの生涯であったように、私たちの信仰の歩みも祈りの生涯でありたいと思うのです。

 

 

 二、イエス様の死が意味するもの

 46節を皆さんと共に読みましょう。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」

 イエス様は、6時間の間十字架の上で、肉体的に、精神的に苦しまれました。そして、ご自分の命の火が消える前に叫ばれた言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。私たちも神様に見捨てられたのではないか、と感じる時があります。苦しみや悲しみ、絶望を経験します。そのような時、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と問わざるを得ないことがあるかも知れません。けれども、私たちには、見捨てられても仕方のない理由がいくらでもあるように思うのです。ですから、「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と父なる神様に訴えることが本当にできるお方は、見捨てられる理由が全くないお方、罪のないお方、忠実に神様に従ってこられたお方、イエス様以外には存在しないのです。

 本当は、見捨てられるはずのないお方です。見捨てられてはならないお方です。絶対に父なる神様から見捨てられないのがイエス様なのです。けれども、ここには、父なる神様に見捨てられて十字架刑にされ、苦しんでいるイエス様の姿があるのです。この十字架刑を見物している群衆も、長老や律法学者、祭司長たちは、罪を持ちながら、自分たちの正義を振りかざして、罪のないお方、救い主イエス様を侮辱しているのです。けれども、イエス様を侮辱し、叫んでいるのは、私たちの姿なのです。「君もそこにいたのか」という賛美歌がありますが、まさに、私がイエス様を侮辱しているのです。

 「一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。」とあるように、自分の罪のために裁かれながらも、イエス様をののしる人間の姿は私たち一人ひとりの姿なのです。

 本来、見捨てられるはずのないお方が見捨てられなければならないというからには、そこには、神様の深いお心、み心があるはずなのです。神様の特別な目的、ご配慮があるはずなのです。イエス様は、十字架の上で、「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」

のです。51節には、「そのとき」とあります。新改訳聖書や口語訳聖書では、「すると、見よ」とあります。「そのとき」とは、どんな時なのか。「すると、見よ」とは、何を見るのか。イエス様が息を引き取られた時です。イエス様が死んだ時です。十字架の上でイエス様が死なれたその姿を見よなのです。救い主イエス様が父なる神様に見捨てられて、死んだ時、全ての事が成し遂げられた時に何が起こったのか。聖書は告げるのです。

 51節、52節を共に読みましょう。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。」 「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たのです。至聖所と呼ばれる場所がありました。この至聖所の前にかかっているのが、この垂れ幕でした。こ至聖所には誰も入ることができません。ただ、年に1度選ばれた大祭司が罪をあがなう犠牲の血をたずさえて入ることができました。それは、人間の犯した罪を犠牲によって赦していただくためでした。けれども、至聖所の垂れ幕が上から下まで裂けたということは、神様と人間を隔てていたものが無くなったということ、イエス様が十字架で流された血のゆえに、ささげられたその体、その死をもって私たちの罪が赦されたのです。年に一度ではなく、イエス様の犠牲のゆえに、いつでも神様の前に出ることが赦されたのです。それが、神様が考えられた目的、救いの道なのです。

 

 三、罪の赦しのために流された血

 また、墓が開いて、死人が生き返ったというのは、イエス様が死を克服されたたことを象徴する出来事です。このイエス様の死は、やがてイエス様のよみがえりにつながるものです。やがて、この復活の象徴は、三日の後に、現実となるのです。

 イエス様は、父なる神様に見捨てられるはずのない方なのに、見捨てられたのです。神様に見捨てられるということは、罪ある者を意味しました。イエス様には、罪はありませんでしたが、罪となったのです。イザヤ書53章12節には、「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ。」とあります。リビングバイブルには、「彼は罪人の一人に数えられ、多くの者の罪を負い、罪人にために神にとりなした。」とあります。

また、コリント信徒の手紙第二5章21節には、「罪とは何のかかわりもないお方を、神はわたしたちのために罪となさいました。」とあります。

 50節には、「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。」とあります。この言葉は、ヨハネによる福音書19章30節の言葉ではないかと言われています。「イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

 「成し遂げられた」と言われたのです。新改訳聖書には、「完了した」とあり、口語訳聖書では、「すべてが終わった」とあります。リビングバイブルには、「何もかも終わった」とあります。罪のないお方が見捨てられるはずのないお方が、神様に見捨てられた十字架で罪とされ、裁きを受け血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったので、罪の問題は完了したのです。人間の罪の歴史に、終止符が打たれたのでした。

 父なる神様と子なるイエス様はひとつでした。絶対に切っても切れない関係、見捨てない、見捨てられない関係であったのに、父なる神様はイエス様を見捨てました。見捨てる以外に、イエス様が十字架の上で、血を流さない限り、命を差し出さない限り、神様の救いの目的は果たされないのです。神様の救いの完成はないのです。

 イザヤ書25章8節には、「死を永久に滅ぼしてくださる。」とあります。イエス様の十字架の死で、私たちの死を滅ぼされたのです。

 父なる神様は、イエス様が十字架の上で流された血を見ておられました。いばらの冠をつけられた頭から血が流れ落ちました。両手両足を釘で打ち抜かれ、両手両足からも血が流れ落ちました。鞭打たれた背中や太ももや手の腕からも血が流れ落ちていたことでしょう。これでもかこれでもかと血が流れ落ちました。「パッション」という映画では、イエス様の体から血が次から次へと流れ落ちるシーンがありました。まさに、血に飢えたという表現が当たります。父なる神様は、神であるお方、罪のないお方、正しいお方が徹底的に血を流し、極限までの痛みを負うことを求められたのです。私たち人間の罪が赦されるためには、「血に飢えた神」でなければならなかったのです。聖書は、「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」(ヘブライ9:22) この言葉は、血に飢えた神を現しているように思うのです。新改訳聖書第三版では、「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」とあります。血に飢えた神は、イエス様の血を求めることにより、私たち人間の罪を赦して下さったのです。

 

 Ⅲ結論部

 壮絶なイエス様の死にざまを見た異邦人のローマの百卒長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。その死様を見て、イエス様を神の子だったと告白しました。

 15日の木曜日の朝、経田悦子姉は天に召されました。重い病気であると医者に言われた時、「大丈夫です。私はクリスチャンですから」と答えられたそうです。イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、永遠の命の望みを持っていました。けれども、何も何も食べられなくなってからは、本当に大変な歩みでした。肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、信仰的な苦しみ、霊的な苦しみと死を前にした歩みは大変なものでした。しかし、全てを神様にお委ねしたキリスト者としての歩みでした。壮絶な死でした。「大丈夫です。私はクリスチャンですから」と言っても、クリスチャンだから痛みがない。苦しみがないわけではない。けれども、最後の一息まで、家族と共に過ごすことを選択された。それゆえの、肉体的な苦しみは大きかったでしょう。しかし、神様を信じて、神様に自分の事も、御主人の事も、息子さんの事も全て神様にお委ねしたのです。彼女は息を引き取りました。死んだのです。けれども、死んで終わりの人生ではなく、「本当に、この人は神の子だった」と告白したローマの百卒長のように、イエス様の十字架と復活を信じて、罪の赦しと魂の救い、よみがえりの命をいただいて、神様のもとに召されてていかれたのです。その死にざまを通してイエス様を証されたのだと思うのです。

 私たちは、血を流すこともあります。苦しみ悲しむこともあります。また、死を経験しなければならない。しかし、それらのことを通して、それでも、神様の大いなる救い、恵み、永遠の命をいただくことができるのです。来週は、いよいよイエス様がよみがえられたことを記念するイースターです。イエス様の苦しみと十字架の死を通して、復活の現実、望みがあるのです。この週は、受難週としてイエス様の十字架の苦しみを思いつつ、十字架の先には復活があることことを期待して、この週を歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2018年3月18日)

2018-03-18 16:36:38 | Weblog

青葉台教会第1,2礼拝説教                          2018年3月18日

 満山浩之

『神様に見捨てられる人は誰もいない』 

ローマの信徒への手紙 39節~26

 

 皆さんは、人にされて嫌だな、見捨てられたなって思ったことはあるでしょうか?例えば、ある人に「ねーねー、こっちにおいで~。良い物あげるから~。」と、仲の良い友人は言われましたが、私には何も言わずに何もくれず、知らんぷりされてしまう。他の人と一緒にいるのに優劣、良い悪いを付けられてしまう。優れている方に自分自身がいれば、まだ気持ちは良いですが、劣っている方に自分自身がいれば、それはもう嫌な気持ちになりますよね。人と比べられて他の人の方が自分よりも優れている、または良いなって思うものをもらうなどすると、本当に寂しいですし、悲しい気持ちになります。

今日の説教題は『神様に見捨てられる人は誰もいない』と付けさせて頂きました。それはどういうことなのか。皆さんと一緒に今日与えられた聖書箇所を通してみてきたいと思います。

 

 今日の箇所は、パウロがローマの人々に送った手紙の中の言葉です。ここでパウロは、全ての人が罪人であるとしています。旧約聖書の時代に、神の民として選ばれたユダヤ人も、特別な存在ではなく、ギリシア人のような異邦人も、みんな同じ罪人なのですよ、と言っているのです。私たちに置き換えてみますと、クリスチャンであろうが、クリスチャンでなかろうが、神様の前ではみな同じ罪人なのですよ、ってことです。クリスチャンだから特別で、神様は罪人である私たちの罪を赦して下さり、クリスチャンでないから、神様から見捨てられているってことではないのです。私たちは神様を信じ、神様に従いたいと願っているということは、まだ神様を知らない人たち、また神様を知ってはいるが、受け入れていない人たちとは、その点においては違いがありますが、「罪人である」ということに関しては、他の人と変わりはないのです。

ユダヤ人は、神に選ばれた民とされてきました。しかし神様は、このユダヤ人を通して、

全世界の人々に福音が伝わるようにして下さったのです。ですから、ユダヤ人が「私たちは神に選ばれている。だから、罪とは関係ないのだ」と、考えていることに対してパウロは、「彼らユダヤ人は他の異邦人と何も違いはない」ということを言っているのです。ここでパウロは、当時の聖書でもある旧約聖書から引用して、傲慢なユダヤ人のことを記しています。

「正しい者はいない。一人もいない。」と。

パウロという人物は、旧約聖書の律法を守り抜く人であったため、旧約聖書の御言葉がすべて頭の中に入っていたのです。ですから、色々な旧約聖書の箇所を選り取り見取り繋ぎ合わせて記したのでした。パウロは人間の悪の状態を、ものすごく知る人物だったのです。

なぜなら彼は以前、教会を荒らし、男女を問わず引きずり出して牢にぶち込むような悪い人物で、キリスト教徒を迫害する立場にいた人間だったからです。パウロは人間の悪を明確に旧約聖書を用いて、示しているのです。それは13節「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある」とあります。

 これは詩編の言葉で、開いた墓には腐った死体が入っていて、その腐敗した臭いが漂うほど、嫌な空気になるということです。そして、同じ口からでも、平和を語ったり、相手に対してお世辞を言うことも出来ますが、その腹の裏では蝮の毒のような、悪口や毒々しいことを思っているかもしれない、ということです。

 例えば面と向かっては「まぁまぁ、仲良くやっていきましょうよ。仲間なのですから。」

って、言っておきながら、裏では「あいつ本当にうざいし、本当に嫌いだ」と、言っている

かもしれないということです。

先日もニュースで、カヌー日本代表の選手が、仲の良い慕ってくれている後輩選手に対し

て、薬物を投入し、カヌー競技を出来なくさせようとしていた事件がありました。しかし、面と向かっては感じ良く接しているが、裏では後輩を蹴落とそうとしていたのです。そのように腹の裏には毒があると言っているのです。

そして14節~16節「口は、呪いと苦みで満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある」とあります。これはイザヤ書の言葉で、良いことも悪いことも言えるその口は、人間の体の構造上、足の上についていて、歩き回れて移動することが出来るということです。そして、その道では人々を傷つけることもでき、関係を破壊することもできるのです。

このようなことが、人間の悪で、たとえ神の民だとしても、この悪に犯される可能性は大いにある、ということです。ユダヤ人が「私たちは神に選ばれているから特別なのだ」、「律法を守っているから、私たちは大丈夫、罪人ではないのだ」と、傲慢な態度でいる彼らのことを、パウロは言っています。もしかしたらパウロは、パウロがユダヤ人であるので、悔い改める前の自分自身のことを、思い描いていたのかもしれません。

 私たちの世の中でも、このような傲慢な人がいるのではないかなと思います。「私はもう完ぺき。私の言うことは全部合ってるし、私の言うことを聞いていれば間違いない。私は決まり事を守っているし、やる事もやっているから、上から目線で物申すことが出来るのだ」、

というような態度の人が、もしかしたらいるかもしれません。しかし、神様は、そのような人も、そうでない人も、みんな同じ罪人であって、特別扱いはしないのです。

旧約聖書で、アダムとエバの物語があります。アダムは神様が造った最初の人間で、その助け手としてエバをお造りになりました。神様と共に歩んでいたその二人が、神様から離れる、神様を裏切る行動をしてしまったために、それ以来、人間には罪が入り込んでしまい、神様と離れてしまう関係になってしまったのです。これが聖書の言う「罪」です。しかし、アダムもエバも、傲慢な人も、そうでない人も、罪人である私たち全員をその罪が赦されるために、神様は、神様の独り子であるイエス・キリストをこの地上に送って下さったのです。そして、鞭打たれ、十字架につけられ、血を流し私たちの罪の身代わりとなって、死に至らせることによって、私たちの罪が赦されるようにして下さったのです。そのことが23、24節に記されてあります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

そして、三日後に復活され、そのことを信じる者は誰でも、この地上での与えられた生涯を終えた後、天の国での永遠の命が与えられると、聖書は語っているのです。

神様は、私たちと常に共にいたいのです。神様と共にいることができる関係を、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、回復させて下さったのです。神様から離れて行くのはいつも私たちの方です。神様は、「あの人の罪は赦してあげよう」、「この人は生意気だから、罪を赦すのはやめておこう」っていうように、分け隔てすることはされないお方です。どんな人でも、この地上に生きている人は誰でも、「罪は赦される」と聖書は語っているのです。

10節にある「正しい者はいない」の「正しい」というのは、神様の目から見て正しいという意味です。神様に従順で、神様を第一に考え従っていることを、ここでは「正しい」としています。パウロはここで、完ぺきに神様に従っている正しい者は一人もいないとしています。なぜなら、私たちには罪があり、神様のように罪が一切なく、完ぺきな人は誰一人としていないからです。神様はどんな人も特別扱いはせず、分け隔てることもなく、私たち一人ひとりのことを思い、私たちが生まれながらにして持っている罪を赦して下さるのです。それが22節の「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。」ということです。たとえ、辛い状況の中にいる人でも、仲間や友達がいなく独りぼっちと感じている人でも、神様だけはあなたを見捨てない。神様だけはあなたを分け隔てることなく差別されない。神様だけはあなたの罪を赦して下さる。それは私たちの目には見えませんが、神様は私たち一人ひとりを、見捨てることなく、いつも共におられるのだと、信じることはできます。

パウロの言う、どんなに悪があるひどい人でも、またどんなに自分は正しいし、罪なんかないって思っている人でも、神様は、みんな平等に必ず罪を赦して下さるのです。自分なんか神様から見捨てられているのではないか。自分なんか誰も見てくれていないのではないか。そう感じている方。またそう感じたことがある方。今日は神様が、私たち一人ひとりのことを、見捨てることなく、分け隔て差別することなく、罪を赦して下さる、ということを信じて、今週も歩んで参りたい、そう願います。

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