江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(22年11月27日)

2022-11-28 10:07:02 | Weblog

喜びの歌声が響くとき  ルカ1:39~50    22,11,27

  • I wish you a Merry Christmas ! 今日は、アドベントです。ろうそくに1本火がともりました。主イエスキリストのご降誕を待ち望む時です。このシーズンほど世界中の人々が幸せを感ずるときはないと思います。また、この時に歌われる賛美歌ほど世界中の人々の心に喜び響くものはないし、名曲もたくさんあります。多くの物語もあります。デイケンズの「クリスマスキャロル」などもこのシーズンにはいつも思い浮かびます。
  • 今朝は、イエスキリストの母マリアのことを話したい。マリアの名を聞くと何となく幸福な気分になり、どこか満たされた気持ちになります。世界中でこれほど有名で愛されている女性はいないでしょう。マリア像などは世界中にあります。幼児キリストを胸に抱く絵には、なんとも言えない母性や、安心感、親しみを感じます。特に、カトリックや東方教会では、聖女とか聖母と言われ、あがめられてもいます。神学的にもいろいろ議論されているようです。人を罪に導いたエバと対比し、救いに導いたマリアと言われていたり、マリアは無原罪かそれとも原罪はあるのか?永遠の処女なのか?死んだのか、被昇天したのか?シオン丘にはマリアの永眠教会があり、オリーブ山には被昇天教会があります。1858年にはフランスのルルドに聖母が出現したといわれ、ここが聖地となっています。

 マリアが聖書に出てくるのは、受胎告知、イエスの誕生、エジプトへの逃避行、イエスさまが、神殿で議論したとき、そして十字架の前だけです。イエスさまの誕生と

十字架に立ち会って見つめているのです。

  • さて今朝の聖書箇所に戻りますと、39節で、マリアはエリザベトの家に急いで向かった。そして家にはいり、マリアがエリザベトに挨拶すると,その胎内の子(バブテスマのヨハネ)がおどった。そしてエリザベトは聖霊に満たされて、声高らかに「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子様も祝福されています。わたしの主のお母さまが私のところに来てくださるとは」と言います。驚きですね。なにもしらないはずのエリザベトがこういうのは、聖霊に満たされたから言うことができたのでしょう。マリアとエリザベトが会った場所は、エルサレム郊外のエン・カレムと言われています。ナザレから100kmくらいあるので、ここをマリアは急いで歩いてきたのです。この地に今は、マリア訪問教会が建っていて、多くの人がここを訪ねているそうです。今日の聖書箇所の、46節以下の「マリアの賛歌」が50か国語に訳されているのが飾ってあるそうです。この個所から、画家のラファエロは「ヒワの聖母」という、マリアを中心に子供のヨハネとイエスをかいた、有名な絵があり、何とも言えない平和な心になります。
  • マリアは天使ガブリエルから聖霊による受胎告知をうけます。彼女は、身分が低く、貧しく何の価値もないわたしに、なぜと思いますが、「わたしは主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように」と述べるのです。そしてマリアは、不妊だときいていた高齢の親戚のエリザベトが妊娠6か月だと聞いてたずねたのです。マリアは神から言われたことは信じますが、それをヨセフや人に話しても理解されないとの思いがあったのです。同じ思いを持っているであろうエリザベトを訪問したのです。主の言葉を聞いて受け入れる2人の女性が、共に語り合い、霊的交わりをもちたいという思いで来たのだと思います。マリアは3か月も滞在したのです。エリザベトは、マリアに素晴らしい言葉を45節「主がおっしゃったことは、必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」のべるのです。わたしたちはどうでしょうか。聖書の言葉は必ず実現すると思っているでしょうか。私たちは、神を自分の幸いのために奉仕する僕と思っていることはないでしょうか。自分中心の祈りをしがちです。だれでも上にある者、名誉や権力、富、知識や良い生活を追い求めます。そしてだれも低いところにいる人を見ようともしないで目をそらす。神は低いところにあるすべての人の近くにおられる。神は高ぶるものをしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜るからであるといっています。徹底して謙虚になり、へりくだるには、神の導きでしかできない。人間の力ではできないことを表しています。私たちも聖霊に導かれて、主の言葉は必ず実現すると信じたいものです。
  • 45節で、エリザベトが言った「主がおっしゃたことは必ず実現すると信じた方は幸いです」をうけて、マリアは46節から55節で、心の底から喜びと感謝がわいてきて「マリアの賛歌(マグニフイカート)」と呼ばれている素晴らしい賛歌をします。神を偉大な方としてほめたたえています。この賛歌については、マルテン ルターの有名な講解があります。ルターは、破門され、ザクセン公フリードリッヒのお城の一つに保護されます。このフリードリッヒのために「マリアの賛歌」の講解を文章にして献呈しています。素晴らしい講解です。この序文で彼は、フリードリッヒに「立派な支配をし、かつ名君であろうと欲する人々が、心に留めて学ぶべきものとして、最も祝福された神の母の、この聖なる賛歌ほどその目的にふさわしいものを全聖書の中に、他にしりません」とこの賛歌のすばらしさを最大限に評価しているのです。マリアは、何かをしたわけでもなく、人から尊敬されているわけでもなく、ただ黙々と働いている貧しい、信仰深い女性だったのだとおもいます。神はそのマリアを顧み、聖霊により照らし、救い主の母になるという特権を与えて下さったのです。マリアはそれを自慢もせず、人にも言わず、そのことをただ心に留めるだけだったのです。マリアは、46節から49節で「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低いこの主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」と喜びの歌声が響くようにのべます。イエスさまが生まれる前からマリアは、主がおっしゃたことは必ず実現すると信じ「力ある方が、わたしに偉大なことをなさった」と過去形でいっているのです。素晴らしい信仰ですね。そして過去も現在、未来も人々はマリアを幸いな人と呼び続けるのだとおもいます。私たちも神さまの言葉は必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょうと言う、この言葉をいつも心に留めながら神からの恵みを待ち望みつつ、この時期を歩みたいものです。このマリアの賛歌の美しいしらべは、まさにこのクリスマスシーズンに人の心を穏やかにし平和に導く賛歌ではないでしょうか。

 

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日曜礼拝(22年11月20日)

2022-11-21 10:46:32 | Weblog

2022.11.20奨励題「神にへりくだる人生」 聖書箇所コヘレトの言葉12:1―14 

 

神学生1年 吉武 良司

 

今回は、知恵文学第2弾、コヘレトの言葉からの御言葉です。前回のヨブ記では、正しい人が苦難に会う不条理な現実と苦難の境地で真の信仰に至るお話でした。その時に買った本にコヘレトの言葉がセットになっていて、御言葉が示されました。コヘレトの言葉は、不条理な現実の中で人生を最善に生きる生き方を教えています。今年も残す所、あと6週間となりました。早いものですね。人生100年時代と言われますが、100年も「あっと言う間」です。

 

創世記6章3節に、主は言われた。「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。とあります。人は120歳までしか生きられないように定められています。コヘレトは、6章6節で、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったら何になろう。すべてのものは同じひとつのところに行くのだから。と言っています。

 

どんなに長く生きようが、幸せでなければ、空しく、最後には死があり、寿命が2000年だとしても「束の間ではかない」と言っています。コヘレトは、その「束の間」を楽しく生きようと言っています。今日の聖書箇所は12章ですが、聖書箇所は1章から何箇所か取り上げて行きたいと思います。

 

1章1節エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉とありますが、ソロモンの名前はありません。2章までは箴言が編集されていてソロモン王の言葉が出てきますが、著者はソロモンではないとされています。書かれたのは紀元前二世紀後半とする見方が多く、ソロモンがイスラエル王であった紀元前十世紀後半にソロモンが書いたとは考えにくいのがその理由です。

 

ソロモンに譬えた記事は出て来ますが、栄華を極めたあとの晩年と考えると理解しやすいと思います。著者は伝道者コヘレトとします。コヘレトとは「召集する」という意味で、ヘブライ語のコーヘレトから来ていますので、よく間違えますが、コレヘトではありません。

 

1章2節「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」の「空しい」は、12章までで33回出て来ます。「空しい」はヘブライ語のヘベルで「息」とか「蒸気」という意味です。この「空しい」は「虚無感」ではなく、「実体のないはかない現象」とか「束の間」を意味しています。

注解書には、「空しい」が38回出て来ると書いてありましたので、6回数えましたが33回でした。おかげで6回読む事が出来ましたが、6回読んでもよく理解出来ませんでしたので、神学校の図書館にあった、小友聡さんの注解書を参照させてもらいました。小友聡さんは、日本キリスト教団の牧師であり、東京神学大学の教授でもあります。

 

コヘレトは、何が「空しい」と言っているか。それは、すべての業、知恵、知識、事業、労働、成功、富、政治、宗教、欲望、快楽、賢者、愚者、若さ、老い、善人、悪人、人の世の全てが「空しく」不条理で、最後は死で終わると言っています。では、生きる意味をどこに見い出すのでしょうか。

 

1章では、太陽は日の出日の入りを繰り返し、太陽の下で、人は誕生、成長、老化、死という世代交代を繰り返し、風は絶えず吹いて巡り巡る。川は絶えず上流から下流へ流れ続け、海に注いでも溢れない。ずっと同じ様なことが繰り返されていて、地上のはかない現象であり、人にはその意味がわからないと言っています。

 

2章1節でコヘレトは、すべてが「空しい」ならば、「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」と快楽と愚行を試してみました。3節では、何をすれば幸福になるのかを見極めようと、酒で肉体を刺激する愚行も試しています。結果は、そこに幸福はなく、それすらも空しかったと言っています。10章1節でも、死んだ蠅は香料づくりの香油を腐らせ、臭くする。わずかな愚行は知恵や名誉より高くつくと言っています。たった一匹の蠅が、すべてを腐らせると言っています。

 

今ロシアの一匹の蠅の愚行が、全世界を苦しめています。コロナウィルスも一人から始まり、全世界に拡がりました。そしてまだ続いています。僕も若い時に、酒にまつわる愚行で警察に捕まりました。浮かれた結末は高額な罰金と家族の悲しみに変わりました。神様はもっとひどい事が起こる前に、止めてくれたのだと思います。しかし、懲りずにまた愚行を繰り返しました。今は悔い改めて真面目に神学生をしています。

 

2章24節でコヘレトは「人間にとって最も良いものは、飲み食いし自分の労苦によって魂を満足させること」と言っています。これは、ヘブライ語では必ず「食い飲みする」という食べる飲むという順番で、遊興酩酊ではなく、健康的な堅実な生活をすることだと言っています。これは労苦によって得た幸福であり神様から与えられた賜物と言っています。

 

今日は収穫感謝礼拝です。食い飲み出来るのは、収穫があるからです。収穫できるのは、農家の方々が一生懸命に作物を育ててくれているからです。ところが今農業は、コロナで米は売れ残り、野菜は値上げ出来ず、肥料や資材だけが値上がりし、跡継ぎ問題で続かず非常に厳しい状況です。生産制限や海外からの食料輸入で、穀物だけでは生計が成り立っていません。売れ残った魚沼産のこしひかりが、飼料用になっているのが現実です。牛にとっては嬉しい話ですね。

 

コヘレトの言葉の中で一箇所だけ、畑に関する箇所があります。5章8節です。何にも増して国にとって益となるのは王が耕地を大切にすることとあります。これは当時の小民族の王が、限定された自治権の中で、農民の耕す土地を真剣に守る努力をしたことを言っています。日本も政策を早く見直さないと農業は衰退して行き、お金はあっても海外からの食糧が手に入らなくなる時が来ると思います。世界では、気候変動が原因による水不足も深刻な問題になっています。飢餓の国では野の草しか食べられない子供がいます。

 

八王子の下恩方町という山の中に、ナザレン教団が所有する700坪の農地があります。夕焼け小焼けの歌の発祥地です。先月7名で草刈りに行ってきました。7名で4時間程かかりました。数十年間草刈りだけが続いているそうです。その労力を考えると、葡萄やいちじくなどを育てて、たくさん収穫し、収穫感謝礼拝が出来るといいなと思います。空気は奇麗で鳥が鳴いています。栗の木もどこかに生えています。隣はブルーベリー農園です。水道とトイレがありませんが、賃料もありません。畑をやりたいというゆとりのある方はいらっしゃいませんか。窓口は教団事務室の土肥努先生です。

 

聖書に戻ります。9章9節では、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。と言っています。食い飲みのほかにも、夫婦で楽しくと言っています。家族や友達とも楽しくしたいですね。喧嘩しない秘訣は、小言を「うるさい」と思うか、「心配してくれている」と思うかの違いだと思います。あるいは「忍耐」なのかも知れません。

 

3章前半は「時の詩」です。1節「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」と、この地上においては、神がすべてのことにおいて時を定めておられ、神がすべての時を支配しておられると言っています。人はそれを知る事は出来ません。生まれる時と死ぬ時も人は自ら関与出来ません。殺す時と癒す時、破壊と建てる時、愛する時と憎む時、戦う時と平和、を戦争と考えると、終結の時は神様にしか分かりません。私たちは祈り続けるしかありません。

 

二年前の2020年11月7日に、アメリカのバイデン大統領が、就任前の勝利演説で、この「時の詩」を引用しました。聖書は教える、「すべての出来事に、時がある」と。「建てる時があり、収穫する時がある。植える時があり、癒す時がある」。今、アメリカは「癒す時」なのですと言いました。分断した社会の結束を訴えましたが、今バイデンさんの支持率は40%近くまで下がっています。去年の米軍のアフガニスタン撤退とコロナと経済問題で、政策がうまく行っていません。トランプさんも立候補を表明しました。アメリカは今「絶える時」だと思います。

 

3章11節神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終わりまで見極めることは許されていない。という美しい箇所ですが、死があるから、今という、生かされている時が大切であると言っています。終わりがあるから人生に意味があり、終わりが無ければ、生きている実感は無いと言っています。永遠を思う心は、不老不死の願望とか霊魂の世界ではなく、人生の全貌は神様しか知り得ませんが、現実から離れて、全体的な視野で自分自身を見る心が与えられていると言っています。たまには解放されて、そういう時が必要だと思います。

 

3章14節で、すべて神の技は永遠に不変であり、付け加えることも除くことも許されない。神は人間が神を畏れ敬うように定められた。人は神の御業を知り、へりくだり、敬い、そのように定められています。畏れの字は恐怖の恐れではなく、畏敬の畏です。へりくだるという意味があります。コヘレトは、この「畏れ敬う」を繰り返し強く訴えます。何度も繰り返すのは、人は「神の祝福の内に生かされている」という事をついつい忘れるからです。

 

3章18節から20節では、死の宿命について語っています。「人の子らに関しては、わたしはこうつぶやいた。神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物にすぎないということを見極めさせるためだ、と。人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊をもっているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところに行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る。」

 

コヘレトは、死後のことについては何も言っていません。復活や終末論に対しては悲観的です。それは、地上で生きる事に対して徹底的にこだわっているからです。人は死んだら塵に帰り、動物は皆同じ運命を辿ります。コヘレトは、人生は神から与えられたものとして、それを楽しむことを訴えます。死があるから人生は価値があると言っています。人は人生を振り返り、人生が神からの賜物であることに感謝します。家族にも、友人にも、そしてペットにも。死を前にして掛け替えのない人生の思い出は駆け巡るのです。

 

作家の三浦綾子さんは、死を「神様から与えられた仕事」と言いました。与えられた生きる使命を果たす最後の仕事が死である、と言っています。そう考えると死は、死と同時に霊になり、国籍のある天に帰る最初の仕事なのかも知れません。

 

ここから今日の聖書箇所に入ります。12章1節青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみが来ないうちに。これは、口語訳の、あなたの若い日に、あなたの創り主を覚えよ。です。こちらの方ピンと来るかと思います。コヘレトは、束の間の人生、必ず来る死の前に、元気な内に早い内に備えよと言っています。CSの幼稚科、小学科、中高科でイエス様を知り、十戒を学び、聖書を読んで、神様を心に留める幸いが、コロナの前の時のように大きくなることを願います。イエス様を知っている人生に「空しい」はありません。

 

イエス様を知るとは、イエス様の十字架と復活、私たちに与えられた復活の希望と永遠の命です。私たちは、この愛と恵みの内に生かされています。救われるのが早ければ早い程、神様と繋がっている時間も長くなり、長くなれば長い程、信仰に重みが増します。重みが増すと探求心も増します。探求心が増すと新たな気づきがあります。年をとっても今という時は青春と変わらないと思います。洗礼を受けても心が離れ、罪を犯す時もあります。僕がそうです。早い遅いより、神あり人生か神なし人生かという事です。「空しい」とは「神なし人生が空しい」という事です。

 

少し戻りますが、9章12節で、人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり鳥が罠にかかったりするように人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。と言っています。やれる時にやっておかないと出来なくなる時が突然来ると言っています。2節で、雨の後にまた雲が戻って来ないうちには、晴れ間もずっとは続かない。チャンスはいつもあるわけではないと言っています。洗濯物を気にして空を見上げるように、イエス様を仰ぎ見る歩みをして行きたいと願います。

 

12章3節からは老化についてです。一家の大黒柱も今は元気でも、膝や手が震え、腰が曲がり、歯が抜け落ち、視力が落ちる時が来ると言っています。4節で、耳が遠くなり、鳥の声に朝早く目が覚め、歌の節は、声がしわがれて行き、5節は、坂を登ったり、歩くことが困難になり、アーモンドの花は桜に似ていますが、白色なので、白髪を指し、いなごは、よろめく事を指し、アビヨナは活力の元になる植物で、欲が無くなる事を指し、そして、永遠の家へ去りは、墓へ行き、泣き手は葬儀の様子を言っています。要するにガタガタになると言っています。

 

6節の白銀の糸は鎖で、黄金の鉢はランプです。ランプと泉は生命を現し、最後は死ぬと言っています。7節で、死んで肉体は土に帰り、息は神に帰ると言っています。8節で、1章2節と同じ「なんと空しいことか、すべては空しい」が出て来ました。ここが33回目の「空しい」です。コヘレトが、最初から最後まで「空しい」を繰り返し、いかに地上での人生がはかないかを訴えています。

 

9節10節は、多くの格言と真理の言葉から、箴言を連想させます。その箇所は、箴言1:5-7です。これに聞き従えば、賢人もなお説得力を加え 聡明な人も指導力を増すであろう。また、格言、寓話 賢人らの言葉と謎を理解するため。主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。と。有名な箇所です。諭しを受け入れて、聞き従い、言葉を理解するための知恵は、神にへりくだる所から始まると言っています。

 

そして、結論に至ります。11節「賢者の言葉はすべて、突き棒や釘ただひとりの牧者に由来し、収集家が編集した。」12節「それらよりもなお、わが子よ、こころせよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」13節「すべてに耳を傾けて得た結論。神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ、人間のすべて。」

 

11節の突き棒は正しい道へ導く事を意味し、釘は生活の信仰の土台が動かないように杭でしっかり止めるという事です。ただひとりの牧者は、牧者なのでイエス様とします。そうすると羊が人です。羊は羊飼いがいなければ生きて行くことは出来ません。人は神様に従わないと、正しい道を歩めないと言っています。

 

12節書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。とは、今現代では、本だけでなく、メディアやインターネットなどの情報量が多すぎて、きりがありません。何が本当なのかも分からなくなっています。きりが無いことをすると疲れます。私たちには、身近に真実の書物があります。聖書です。人生の真実の答えは聖書にあります。聖書は読めば読むほど新たな発見があります。そして悩み苦しみを取り除いてくれます。

 

13節で、コヘレトの結論は、神様を畏れ、戒めを守り、戒めに従う事が、人のすべてと言っています。神様を愛し、礼拝し、隣人を愛し、神様にへりくだり、神様に従い、さらなる大きな愛と恵みを感じながら歩む生き方が最善の生き方であると言っています。14節で、神は善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。裁きの結果は、敗訴もあれば勝訴もあります。神にへりくだる人生の最後に敗訴はありません。神あり人生は、真の命の人生であり、永遠の命に至る人生なのです。

 

最後に新約聖書から、フィリピの信徒への手紙2章1節から11節までをお読みして終わりたいと思います。新約聖書362ページ下の段です。「そこで、あなたがたに幾らかでもキリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分の事だけでなく、他人の事にも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の詩に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上の者、地価のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。以上。

 

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日曜礼拝(22年11月13日)

2022-11-13 13:11:41 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後22主日)     2022.11.13

祈れない者は幸いである」 使徒言行録12:1~5

 Ⅰ導入部

 おはようございます。11月の第二の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、置かれた場所で、御家庭でオンラインを通して礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。今日は、青葉台教会の創立54周年の記念の礼拝となります。青葉台教会は、1968年11月3日、尾山台ナザレン教会から株分けで21名の方々を中心に始められました。伊豆師、大江師、持田師、森本師、私で5代目となります。多くの方々が救われ、転会されて大所帯となりました。コロナの影響で、礼拝にお出でになれない方々もおられますが、会堂に集い、あるいはオンラインを通して、さらに礼拝が拡大され、多くの方々と共に礼拝をささげ、良き交わりをさせていただきたいと思います。今日の創立記念の礼拝で洗礼式が行われますことも感謝です。来年は、創立55周年記念礼拝となりますので、様々な計画がなされることだと思います。

 今日は、使徒言行録12章1節から5節を通して、12章全体を通して、「祈れない者は幸いである」という題でお話し致します。使徒言行録12章5節の言葉は、今年の青葉台教会のみ言葉であり、「教会の祈りには力がある」というのが標語となっています。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様が一緒なので平安でいられる

 1節、2節には、「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。」とあります。「そのころ」とは、アンティオキア教会から、バルナバとパウロが、飢饉で苦しんでいたエルサレム教会に救援物資を届けていた頃でしょう。ヘロデ王とあるのは、クリスマスに登場するヘロデ大王の孫にあたります。3節には、「それがユダヤ人に喜ばれるのを見て」とあるように、教会を迫害することや教会の中心的な人を殺害することがユダヤ人の評価につながるのでそうしたのです。「ヨハネの兄弟ヤコブ」は、イエス様の弟子の中でも中核であり、イエス様は大切な時には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたのでした。ヤコブが殺されたということは、ヤコブがエルサレム教会の重要な立場にあり、目立っていたのでしょう。ヘロデ王は、ユダヤ人の気を引こうと、さらにペトロも捕らえたのでした。3節には、「除酵祭」とありますが、これは過越しの祭りのことです。4節を見れば、「四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。」とあるように、ペトロは、完璧な監視体制で捕らえられていたのです。4節の最後には、「過越祭の後で民衆の前に引き出すつもりであった。」とあり、祭りが終われば、見世物にして殺害するつもりであって、ペトロは絶体絶命の状況にありました。

 そのような中で5節を見ると、「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」とあります。エルサム教会の中心的なヤコブが殺され、ペトロも捕らえられた。ペトロ自身、次は自分の番かと死を覚悟したことでしょう。今日の箇所にはありませんが6節には、「ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。」とあります。完璧な監視体制で逃げられるはずはない。死を前にして、ペトロはどうしたかというと「二人の兵士の間で眠っていた。」のです。

 私たちの現実の生活の中において、死が近くにあるということを感じられることがあるかも知れません。「自分は死んでしまうのだろうか。」とか、「死ぬかもしれない。」という状況にあるかも知れません。しかし、ペトロがそのような状況の中にあっても、兵士が両隣にいても、イエス様が共におられることを感じ、信じて、絶体絶命の中でも、神様に、イエス様に全てをお委ねしていたのです。私たちの今の現実が、状況がどんなに困難であっても、絶体絶命であっても、神様は、最善をなさることを信じてお委ねしたいのです。

 

 二、どんな時でもいつでも祈れるという特権がある

 そのような厳しい現実の中で、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」と聖書は語るのです。➀エルサレム教会は祈る教会でした。教会とは祈りがささげられるところです。ヤコブは殉教しましたが、ヤコブのためにも教会では祈りがささげられていました。ヤコブのために、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」はずでした。しかし、ヤコブは殺されてしまいました。ヤコブの次はペトロかという状況で、「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」のです。ヤコブの事もありましたから、不安があってでしょう。確信が揺れたでしょう。そのような中でも、教会は祈ることしかできませんでした。いや、祈ることが最大の教会のできることでした。

手も足も出ないでない、なすすべもない状況で最後の砦である神様に、最後の最後まであきらめないで、熱心な祈りがささげられていたのです。

 私たちの信仰生活においても、人間的にはどうすることもできない、手も足も出ない、なすべきことが何もないということを経験します。病の中で、治療の中で、医者にも見捨てられる、頼るべき治療方法も薬もないと思えるような状況が確かにある。しかし、私たちは神様を信じるがゆえに、イエス様を信じるがゆえに、絶望することなく、真に信頼すべきお方、神様に、イエス様に心を注いで、思いを注いで、祈ることができるということは幸いな事だと思うのです。私たちは、私たちの最大の味方であるイエス様が共におられるのです。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。」(ローマ8:34)「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39)

 だから、私たちは、神様に、イエス様に心をしぼり出して、何でも祈ることができるのです。私たちは、祈る者でありたいのです。

 ➁教会の祈りに対して神様の答えがあります。12章7節から11節には、ペトロがどのようにして、完璧な監視体制から救い出されたかが書いてあります。完璧な監視体制のみならず、第二、第三の衛兵所、最後には鉄の門がありましたが、神様は天使をつかわしてペトロを助けたのです。「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。」のですが、見える所には何もない。しかし、神様は教会がささげられた祈りを聞いて下さり、み業を進めていて下さいました。何も起こらないように見える状況の中においても、クリスチャンには祈りがあるのです。ここに神様を信じる者の、クリスチャンの強さがあるように思います。ウクライナでの戦争が一日も早く終わるように、コロナ感染が終息するように、全世界のクリスチャンが祈っています。しかし、戦争もコロナも終結する兆しもない。祈っても無駄だと感じるような現実があるのです。しかし、神様は御自身のみ業を進めていて下さることを信じて祈り続けたいのです。

 

 三、神様は私たちの不完全な祈りをも喜ばれる

 ➂確信のない祈りでも神様は答えて下さる。ペトロは救出されるとマルコと呼ばれるヨハネの母マリアの所に行きました。そこでは、ペトロのために祈りがささげられていたからです。ペトロが家の門を叩くと、ロデという女中がペトロの声だとわかると鍵を開けもしないで、祈っている人々の所へ行き、ペトロが門の前に立っていると告げると、「人々は、「あなたは気が変になっているのだ」と言った」(使徒12:15)と聖書は告げています。ロデが本当だと言うと、「彼らは、「それはペトロを守る天使だろう」と言い出した。」(使徒12:15)と聖書は告げています。教会の祈りは、彼らの祈りは、ヘロデ王の手からペトロが救い出されることでした。そのように神様の助けを信じて祈っていたはずです。そう祈っていても、ヘロデ王、国家権力の手の中で、絶対に逃亡できるような状況でないことを知りつつ、そこから助け出されることは不可能だろうという思いが強く、信じられなかったのです。自分たちの祈りが絶対に聞かれるという確信を持てないでいたのです。だから、ペトロが門の前に立っていると聞いて、「あなたは気が変になっているのだ」とまで言ったのです。

 私たちの祈りの姿勢はどうでしょうか。この人々と似たり寄ったりで、疑ったり、信じられなかったりという祈りではないでしょうか。信仰的には、中途半端な祈りしかできないと感じてしまうのではないでしょうか。しかし、神様は、私たちが疑ったり、信じ切れないような祈りであっても聞いて下さり、受け留めて下さり、驚くような恵みと憐れみを持って、私たちが願う、思う以上のことを神様の力によって、全能の力を持って、私たちの不信仰な祈りにも答えて下さるのではないでしょうか。ペトロの救出を祈りながら、門の前に立っているペトロを信じられなかった人々と私たちは何ら変わらないのです。彼らの祈りは確かに聞かれたのです。そして、私たちの祈りもさえも聞かれるのです。

 教会の熱心な祈りが、祈りの力が国家権力、ヘロデの力に勝利したというのではないでしょう。教会の熱心な祈りによって神様が答えるというのではありません。私たちが、熱心に祈ったからと言って、私たちの罪が赦されるというのではないのです。熱心な祈りによって私たちが、神様の前に義となれるのではありません。熱心な祈りがペトロを救ったのではありませんが、教会の祈りの中でペトロは助けられたと言えるでしょう。ペトロの救出は、あくまでも神様の力によるものです。人間の熱心な祈りの力ではないのです。教会の熱心な祈りが神様を動かして、ペトロを救出したというのであれば、神様を人間が祈りを通して思い通りに動かす、コントロールするということになります。祈りとは、神様をある目的のために動かす手段ではないのです。私たちは祈りを通して、神様を動かして何かをしていただくというではなくて、神様ご自身の自由な恵みのみ心によって、行って下さる救いのみ業に預かれるのは、祈りにおいてなのです。

 神様は、私たちの祈りに従って何かをなさるのではないのですけれども、私たちが神様に祈ることを求めておられるのです。私たちが神様に助けを、救いを求めることを待っておられるのだと思うのです。神様は、愛と恵みと憐れみのお方ですから、私たちの不信仰な、疑い深い、確信できない祈りにも答えて下さるのです。たとえ、私たちの祈りの内容が、祈りの言葉が、どんなに乏しくても、確信がないままであっても、疑い深い祈りでも、神様は私たちが祈りをささげることを待っておられる。望んでおられるのです。私たちの祈りを喜んで下さるのです。神様は私たちに何が必要であるのかを知っておられるので、私たちの祈りに答えて下さるように思うのです。私たちは、本来祈ることのできない者です。自己中心な祈りしかできない者です。祈れない者は幸いです。祈れるように、祈るようになるからです。

 

 Ⅲ結論部

 12節には、「大勢の人が集まって祈っていた。」とあります。祈り会です。個人のディボーションにおける祈りは基本ですが、共に集まって祈るこの祈りこそが、神様の御救い、み業に預かるものだと思います。私たちは共に集う祈り、祈り会を大切にし、心を合わせて祈りをささげたいのです。痛みの中にある方々、治療の中にある方々、祈りを必要としている方々が多くおられます。私たちは、痛みから病から解放され、癒されますように、困難の中にある方々がそこから助け出されるように祈りたいのです。私たちは気づいていませんが実に多くの人々に祈られています。自分が多くの人々に祈られていることを感じる人、知る人は祈る人になるように思うのです。私たちは、イエス様が十字架で命をささげて下さったほどに、一人一人を尊い存在として下っています。イエス様が十字架と復活を通して、罪を赦し、永遠の命を与えて下さった、その尊い一人ひとりを覚えて共に祈りたいのです。

 私たちは神様を疑ってしまうような祈り、確信がないままの祈りかも知れません。祈りが必ず答えられるという確信に基づく祈りではなくても、不完全な祈りであっても、共に集まり祈り続けるならば、神様はその祈りを聞いて下さり、私たちの思いを知って下さって、神様ご自身の意志の元に、神様のみ業を見せて下さるのです。私たちは、その事を覚えて、個人でも祈ると共に、祈り会に集い、心を合わせて神様に祈りをささげようではありませんか。イエス様が共におられます、安心してこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(22年1月6日)

2022-11-06 19:40:14 | Weblog

 日曜礼拝(三位一体後21主日)     2022.11.6

眠りにつく」 マルコによる福音書5:35~45

 Ⅰ導入部

 おはようございます。11月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、置かれた場所で、御家庭でオンラインを通して礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。今日は、信仰を持って先に召された兄弟姉妹を偲び、兄弟姉妹の信仰を覚える召天者記念礼拝となっております。

 今日は、マルコによる福音書5章35節から43節を通して、「眠りにつく」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、自分中心ではなく全てを神様にお委ねして生きる

 今日の箇所は、ヤイロの娘のよみがえりの記事ですが、この話は21節から始まります。イエス様が群衆にお話ししている所に、会堂長のヤイロという人がイエス様の足もとにひれ伏して、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」と言って、娘の病気の癒しを求めました。ヤイロの行為は、イエス様が群衆に話をしている時、そのお話しを中断させてしまうという自分勝手な行動でした。しかし、娘の瀕死の状況で、恥も外聞もありませんでした。イエス様にはイエス様の予定があり、やるべきことがあったでしょう。忙しいイエス様に、自分の勝手な願い、「おいでになって手を置いてやってください。」とイエス様に指図をしているのです。イエス様にお委ねするのではなく、自分の思い通りにイエス様を動かそうとするのです。マルコによる福音書2章には、4人の人が中風の人をタンカーに乗せて、イエス様が家の中で人々に話している最中に、天井をはがして、中風の人をイエス様の所につりおろしたのでした。説教の最中に天井をはがして病人をおろすということは非常識です。イエス様もお話しを中断しなければなりませんでした。イエス様は怒ったかというと、聖書には、「その人たちの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」」と言われたのでした。彼らの一生懸命さ、中風で苦しんでいる友人のために、非常識なことまでしてイエス様に癒しを求めた彼らの信仰を見て、中風の人を癒されました。

 同じように、ヤイロもイエス様のお話を中断させ、自分勝手にイエス様に指図して、自分に従わせるかのような態度でしたが、イエス様はヤイロの願いを聞いて、ヤイロの家に向かうのです。多くの群衆もついて来ました。ヤイロは、自分を中心に世界が回っているかのように、自分の求めに応じて世界が動いているかのように感じていたでしょう。

 しかし、その途中で、12年間も出血の止まらない病気で苦しんでいた女性が、イエス様の服にでも触れれば癒やしていただけると信じて、イエス様の服に触れて病気が癒やされたのです。イエス様は御自分から力が出て行ったので振り向いて誰が触れたのかと探されました。ヤイロ中心に回っているかのような、ヤイロの求めが聞かれるかのように思っていた状況が、この女性の登場で変わってしまいました。どれぐらい時間がたったでしょうか。彼女は自分の身に起こったことを正直に話しました。イエス様は、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」(マルコ5:34)と言われたのです。

 ヤイロは、熱心なあまりに、必死のゆえに、イエス様にお委ねするということを忘れていました。委ねるというのは、問題の解決の時と方法をイエス様に全てお任せするということです。信仰というのは、自分の考える可能性やその考え通りに神様に働いていただくことではありません。自分の思いや願いを横に置いておいて、神様のお考えに従って、一番良いようにして下さることを信じて、神様に全てをお委ねすることなのです。

 二、何があっても恐れないでイエス様を信じる

ヤイロの「おいでになって手を置いてやってください。」という願いには、すぐに、早く来てという思いがあります。ですから、途中で、ヤイロの家行きは中断されて、はらはらしていたことでしょう。35節には、「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」」とあります。リビングバイブルには、「来ていただいても手遅れ」とあります。すぐに早くできないでいたので、「お嬢さんは亡くなりました。」というとてもつらい報告を聞かなければなりませんでした。ヤイロの心には、早く駆けつけて手を置いていただけば、娘の病気は治ると信じていました。しかし、それは、かないませんでした。ですから、使いの者は、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と、手遅れです。もうどうにもなりませんという思いがあります。36節には、「イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。」とあります。娘が亡くなっているのに、「恐れることはない。」と言われても恐れます。最愛の娘を失くしたのですから、恐ろしいことです。とても辛いことです。イエス様は、悲しみの中にあるヤイロの心をご存知でした。「イエスはその話をそばで聞いて、」とあるように、ヤイロにとってはとてもつらい報告、「お嬢さんは亡くなりました。」という内容を、ヤイロと共にイエス様は一緒に聞いて下さったのです。イエス様はそのようなお方です。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ8:20)と約束されたお方は、私たちには、辛い内容、辛い出来事を共に聞いて下さり、受け止めて下さるお方なのです。

「イエスはその話をそばで聞いて」とありますが、口語訳聖書では「イエスはその話している言葉を聞き流して」とあります。詳訳聖書には、「イエスは彼らが言っていることを聞いておられたが、それにかまわず」とあります。「お嬢さんは亡くなりました。」という報告はヤイロにとっては、身を切られるような苦しみの内容です。イエス様も聞いたのですが、聞き流して、そして、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたのです。ヤイロの苦しみや痛みを知らないで、今の彼の絶望を知らないで言われたのではなく、重々知った上で、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。もしイエス様が、ここで「恐れることはない。ただ信じなさい」と語らなければ、ヤイロはその場で倒れてしまっていたのかも知れないのです。私たちの人生には、恐るべきことがたくさんあります。ウクライナの戦争による恐怖や様々な影響による苦しみ、新型コロナウィルス感染症そのものの恐れやそれに関する様々な恐れ、円安での物価高での恐れ、将来に対する不安や恐れ、学校の事、会社の事、夫婦や親子の事、老いや肉体の衰え、病気や死に対する恐れがあるのです。しかし、イエス様は私たちの痛みや苦しみ、悲しみを全く知らないで、無視して、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われるのではないのです。私たちの今の現実の苦しみ、痛み、悲しみ、絶望を知った上で、それでも、「恐れることはない。ただ信じなさい」と今日、ここで私たち一人ひとりに語られているのです。使いの者たちは、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」と言いましたが、ヤイロは、「もう結構です」とは言わずに、イエス様と共に、イエス様について家路につくのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエス様の言葉は、今日、今この時にあなたに語られているのです。安心してイエス様にあなたの全ての事をお委ねしませんか。

 三、目覚めるために眠りにつく 来ることをお許しにならなかった。」とあります。イエス様は、聖書の中でとても大切な時には、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行きました。変貌の山でのエリヤとモーセとイエス様との三者会談の時、十字架を前にしたゲッセマネの祈りの時がそうでした。ですから、この3人だけしか連れて行かないということはとても大切な事だからです。そのことが予想されるのです。

 ヤイロの家に着くと、38節には、「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、」とあります。ヤイロの娘の死を悼んで大声で泣きわめいていました。当時は、人が亡くなると泣き女、泣き男と言われれる人々がいて、悲しみを表すのです。39節には、「家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」とあります。イエス様は、死んだ娘に対して、「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われたのです。本当は死んでいないのに、死んだように見えるけれども、眠っているというのではありません。聖書は、神様は、イエス様は、人間の死を「眠っているのだ。」と表現するのです。ヨハネによる福音書にもラザロのよみがえりの記事があります。イエス様は、死んだラザロに対して「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼をお起こしに行く。」(ヨハネ11:11)と言われました。

 40節には、「人々はイエスをあざ笑った。」とあります。ヤイロの娘は医学的にも、生物学的にも、ほんとに死んだのです。だから、ヤイロの娘が死んでいることを知っていたので、人々はあざ笑いました。しかし、人の目にではなく、神様の目には私たちの死は、死ではなく、眠りだと言われたのです。死んだ人を眠っていると表現するのは、その眠りから覚める時がある。復活するということを示しているのです。イエス様は、子どもの両親、ヤイロ夫妻と3人の弟子たちだけを連れて、娘の安置されている所へ行き、子供の手を取り、「タリタ、クム」と言われたのです。「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味だと聖書は記しています。イエス様は、眠っている少女を起こすように「タリタ、クム」と声を掛けられたのです。「タリタ、クム」という言葉は、アラム語でイエス様が話しておられた言葉です。新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。その中で、この「タリタ、クム」という言葉があえて残されているのは、この出来事、ヤイロの娘のよみがえりを目撃した弟子たちが、とても強い印象を持ったということを示しているように思うのです。「タリタ、クム」というイエス様の言葉に、少女はすぐに起きて歩きだしたのです。この記事の平行箇所のルカによる福音書8章55節には、「すると娘は、その霊が戻って、すぐに起き上がった。」とあります。死というのは、身体から霊が離れることを意味しています。霊が戻るということは、よみがえること、復活することなのです。死んだ少女はよみがえったのです。

 イエス・キリストというお方は、神であり罪のないお方でした。しかし、罪を持ち、滅びに向かっている私たち人間の罪の身代わりに、十字架にかかり、父なる神様から裁かれ、尊い血を流し、命をささげられました。身代わりに死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が与えられたのです。信仰を持って天に召された、愛する兄弟姉妹たちは、この罪の赦しと復活の命、天国の望みを持って召されて行かれたのです。「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(Ⅰテサロニケ4:14)と聖書は語ります。先に召された兄弟姉妹は、死んだというのではなくて、復活を待つ眠りについているのです。

 Ⅲ結論部

 イエス様は、娘の死の知らせに絶望していたヤイロに、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました。イエス様は御自身が復活によって死の力を打ち破り、死を経験しなければならない私たちに、その絶望から救い出して下さるのです。イエス様の復活の恵みの力は、私たちの肉体の死も、眠っているのと同じであり、必ず目覚める時が来るということを信じなさい、と語られたのです。私たちが夜眠りにつくのと同じように、私たちが恐れる死も、眠りであり、朝目覚めるように、死から目覚めるよみがえりの時があるという神様の約束を私たちはしっかりと受け取りたいのです。

 私たちの人生においては、自分の思いや力ではどうすることもできない苦しみや悲しみを経験します。恐ろしい死の力によって、愛する者を奪われてしまうことがあります。先に召された兄弟姉妹のご家族もそのような悲しい経験をしたのです。また、私たち自身も、老いや病気によって次第に恐ろしい死の力に支配されてしまうということを体験することがあるのです。私たちの人生には、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」「来ていただいても手遅れ」というような苦しみや痛み、絶望を経験します。しかし、イエス様は、人間の絶望の言葉を聞いても、聞き流されて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたのです。私たちの側の願いや希望が、全て崩れ去った時から信仰は始まることを示しているように思います。今絶望の中におられますか。そうなら、そこから信仰が始まる。神様の驚くべきみ業があなたの上に現れるのです。今の現実がどのように厳しいものであっても大丈夫。イエス様はあなたのそばにおられ、あなたの共にその苦しみや痛みを一緒に負って下さるのです。そのイエス様が、この週も共におられます。ですから、何が起ころうとも、安心してイエス様に全ての事をお委ねして、お任せして、イエス様と一緒に歩んでまいりましょう。

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(22年10月23日)

2022-10-24 17:35:09 | Weblog

最悪に思える状況に置かれたときに思い出して欲しいこと

エレミヤ書29:1〜14(新共同訳)

 

導入部

  • みなさま、おはようございます。本日このように、久しぶりに、ご一緒に礼拝を捧げられることを心より感謝いたします。メッセージに入る前に一言、お祈りさせていただきます。
  • 本日のメッセージのタイトルは、「最悪に思える状況に置かれたときに思い出して欲しいこと」というものです。私たちは、人生のなかで、私たちは辛く、苦しい状況に置かれることがあります。それが、自分自身の状況であることもあれば、自分の周りの人、特に愛する人が、辛く、苦しい状況に置かれるとき、それは自分がそのような状況に置かれるよりも、辛く、苦しく感じることと思います。

 

本論部

一.バビロン捕囚の苦しさ、辛さ

  • 本日の箇所は、「バビロン捕囚」という、非常に苦しい、辛い状況のなかにあった、本日のタイトルにもしていますが、まさに「最悪な状況」のなかにあったイスラエルの民に向けて、エレミヤという預言者が書いた手紙の一部です。
  • 4節をご覧ください。

 

29:4 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。

 

  • イスラエルの人々は、バビロン帝国という国との戦争に負け、バビロンに連れて行かれました。それを「バビロン捕囚」と言うのですが、なぜそんなことになったかというと、イスラエルの民が、神様に向かって罪を犯したからです。
  • 戦争に敗れ、すべてを失い、バビロンに連れて行かれた。悔しかったでしょう。自分たちなんてダメだ、って思っていたことでしょう。自分に失望したことでしょう。
  • あるいは、神様への失望、神様への「怒り」もあったことでしょう。なぜなら、「わたしが送った」とあるように、この出来事の背後には神様がいたからです。
  • だからこそ、神様、なんでですか。そりゃあ、私たちも悪かったかもしれない。でも、ここまでひどい状況に置かなくてもいいんじゃないですか?神様に何度も「助けてください」って祈った。それなのに、なんで何もしてくれないんですか?どうせ神様なんて…。そのように思ったことでしょう。
  • 私たちも、日常のなかで、失敗をした、罪を犯してしまった、そのような経験をすることがあります。そして、その結果、起こったことについて、自分に失望することが、神様に失望することがあると思います。

 

二.神の計画はロングスパンである

  • そのような彼らに主が、エレミヤを通して語ったことが、5節からです。
  • 5節、「家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい」。今いる場所に、しっかり腰を据えて、その場所で生活しなさい、誠実に働きなさい。彼らは、一日でも故郷に帰りたいんです。それなのに、その場所で生活しなさい、誠実に働きなさいと語る。
  • 6節には、「妻をめとり、息子、娘をもうけ」とあります。家族を持つと、引っ越しが大変です。動きにくくなります。もし、すぐにイスラエルに帰るのであれば、独身でいた方が良いでしょう。現代は、独身者が増えている時代だと言われますが、聖書は独身の祝福を語っています。ただ、ここで主が語っているのは、すぐには帰れないのだから、結婚して良いんだ。そして、もし子どもが与えられたなら、信仰を伝え、増えなさいということでした。
  • そして、7節、「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい」。バビロンは敵の国です。バビロンに家族を殺されたという人もいたことでしょう。本当ならこんなところにいたくないんです。早く故郷に帰りたいのです。
  • でも、バビロンに留まり、バビロンの平安を、繁栄を求めて祈りなさい、そこで働き、結婚し、子育てをしなさい。そして、なんと、バビロンのために祈りなさいと言うのです。
  • これは、イスラエルの民にとっては、あまり嬉しくない、微妙なメッセージだったことでしょう。なぜなら、繰り返しますが、彼らとしては、早く故郷に帰りたいからです。早く苦しみから、辛さから、失望から、あるいはこの最悪の状況から解放されたい。
  • しかし、神様の計画はそうではなかった。10節をお読みします。

 

29:10 主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。

 

  • その前の8、9節には偽物の預言者たち、占い師たちが全然違うことを言っていたということが書かれています。少し前の28章には、ハナンヤという偽預言者が、二年でイスラエルに帰れるのだと言ったことが書かれています。偽預言者たちは言ったのです。すぐバビロンからイスラエルに帰れるよ!すぐ状況は変わるよ!
  • それに対して、エレミヤが言ったのは、そんな甘いことばに騙されてはいけない。七十年という、長い長い期間が、あなたたちには必要なんだ。七十年を経て、あなたたちは初めてイスラエルに、約束の地に戻ることができる。だから、今はバビロンで生きなさい。
  • イスラエルの民は思ったことでしょう。いやいや、今のこの状況をなんとかしてほしいんだ。そんな先まで待てない。早くなんとかしてほしい!
  • そのように思うのは、ある意味で当然です。そして、そのような「嘆き」や「願い」を正直に祈ることも大切なことです。正直に祈るその祈りを主は聞いてくださっていて、時に、神様が速やかに問題を解決してくださることもあります。
  • しかし、多くの場合、何かが変わったり、解決したり、納得したりするのには時間がかかるのです。イスラエルの民は、七十年かかったのです。神様の計画はロングスパンなのです。長い期間をかけて、分かることがあるのです。

 

三.将来と希望を与える計画

  • 11節をご覧ください。

 

29:11 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。

 

  • 主は言われたのです。あなたたちの目の前には「災い」しか見えないかもしれない。しかし、わたしは、長い時間をかけて、それを良いものに変える。あなたたちは、平安を与える計画のなかに、将来と希望を与える計画のなかに入れられている。
  • 12節からをお読みします。

 

29:12 そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。

29:13 わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、

29:14 わたしに出会うであろう、と主は言われる。わたしは捕囚の民を帰らせる。わたしはあなたたちをあらゆる国々の間に、またあらゆる地域に追いやったが、そこから呼び集め、かつてそこから捕囚として追い出した元の場所へ連れ戻す、と主は言われる。

 

  • 旧約聖書全体にわたって、イスラエルの民がずっと陥ってきた罪、それは「偶像崇拝」という罪です。自分たちを救った神ではなく、別の神を拝むという裏切り行為です。
  • 私たちが、旧約聖書読むとき、逆に面白くなるほど、イスラエルの民は、何度悔い改めても、同じ罪に陥っています。どうして変わることができないのか、と思わされます。しかし、バビロン捕囚という大きな苦難のなかで、イスラエルの民から、偶像崇拝が消えます。
  • 大きな苦しみのなかで、彼らは、この箇所にあるとおり、神様を「」んだのです。神様のもとに「来て」、「祈り求め」た、「尋ね求め」たのです。「心を尽くして」、神を「求め」たのです。
  • さらに、このエレミヤ書をはじめとする聖書を研究し、それがやがてシナゴーグという、今でいう教会のような場所につながっていく。
  • もちろん、そのなかからファリサイ派、律法学者たちが生まれ、逆に律法主義という罪に陥っていくという意味では、人間の罪の深さを思いますが、少なくとも、苦しみのなかで、彼らをずっと支配してきた一つの問題が解決したのです。
  • 神様は、バビロンという、最悪に思えた場所で、イスラエルの民に「出会」ってくださいました。最悪に思える状況のなかでこそ、味わえる恵みがある。その場所だからこそ、「見いだ」すことができる主の素晴らしさがあるのです。

 

III結論部

  • でも、それは、このときの彼らには分からないのです。まだ見えない。彼らに語られているのは、それはどんな風にか、ということは分からない。でも、あなたがたには平和を、平安を、将来と希望を与える計画が用意されている。将来と希望を与える計画のなかに、あなたがたは入れられている。
  • だからこそ、主はイスラエルの民を招くのです。「家を建てて住み」。自暴自棄になることなく、焦ることなく、今、置かれている状況のなかで、遣わされている場所で、落ち着いて、ゆっくり、丁寧に生きなさい。それで良いんだ。やがて分かる日が来る。ゆっくりで良い。神の計画はロングスパンだから。あなたは、平安と将来と希望を与える主の計画のなかにすでに入れられているから。
  • 私たちにも、主は、今も語ってくださっている。焦ることなく、今、置かれている場所で、遣わされている場所で、落ち着いて、ゆっくり、丁寧に生きよ。大丈夫だ。あなたにどんな弱さが、失敗があったとしても、それすらも凌駕する、将来と希望を与える計画が用意されている。主はあなたの必要を確かに備えてくださる。
  • そして、終わりの日、イエスさまがもう一度この地に戻ってこられるとき、約束の地に、「約束しませる家に、帰」ることができる。私たちにとっての本当の故郷である神の国を、この地に来らせてくださる。そのとき私たちは、神様のご計画は完璧だったと分かる。私たちの罪も、失敗も、悪も、それすらも良いものに変えてくださった。「物事すべてを良き」ものにしてくださった。すべての苦しみに、意味があった。「君に守られた今日まで来」た。本当に、神様の計画は確かに素晴らしいものだったと、分かる日が来る。
  • だから、安心して、今週も、それぞれの場所に遣わされていきたいのです。最悪に思える状況に置かれたとき、思い出していただきたいのです。あなたは、将来と希望を与える計画のなかに入れられている。そのことを信じてほしい。主の御計画に信頼して、落ち着いて、ゆっくり、丁寧に、遣わされた地で、「救い主イエスとともに行く」歩みへと、主はあなたを招いておられる。
  • この招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
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日曜礼拝(22年10月16日)

2022-10-16 12:35:40 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後18主日)     2022.10.16

神様の愛が心満たすとき」 マルコによる福音書12:28~34

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第三の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、置かれた場所で、御家庭でオンラインを通して礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。先週は、秋を通り越して冬のような寒い日があり、慌てて冬物を出すという服装にも気を使う週でありました。皆さんの健康が守られて日々の歩みがなされますようにお祈り致します。

 先週、青葉台教会の礼拝では学園教会の久米淳嗣先生が、ヤコブの手紙を通して、とても大切なみ言葉を語って下さいました。先週は、10月の第二週でナザレン日としてのことも語って下さいました。午後からは「セクシャルマイノリティーと共に歩む教会」と題して講演会で語って下さり、とても大切な内容でありました。心から感謝致します。

 私は九州の佐賀県鳥栖教会の創立40週年の記念礼拝での御用でした。40年の間、神様が鳥栖教会を守り導いて下さいました。これからも、イエス様が教会の頭として、鳥栖教会を守り、支えて下さいますようにお祈り下さい。

 今日は、マルコによる福音書12章28節から43節を通して、「神様の愛が心満たすとき」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様への愛と隣人への愛はセットです

 28節には、「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」」とあり、 イエス様が、サドカイ派の人々との問答において、旧約聖書から引用して、立派に答えたので、律法学者が尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と。何故、このような質問が飛び出したのかと言いますと、律法学者は、ユダヤ教社会の生活の中で起きて来る様々な問題を、神様の掟、律法に基づいて解決するという働きがあったようです。それで、職業柄全ての掟やその解決を熟知していなければならなかったのです。その知識を生かして弟子を集めて、掟や解決を与えるということをしていたのです。多くの量の掟があるので、何か解決しなければならない問題が起きた時、どの戒めを適用させたらよいのか、どの掟を優先したらよいのか、どう解決したらよいのかという問題が頻繁に起きてきたのです。多くの掟があるので、次第に何が本当に神様のご意思なのかわからなくなっていたのです。ですから、神様の掟だと思ってやっていたことが、神様のご意思から離れてしまっていたというようなことが起きていたようです。なので、律法学者は、何が神様のご意思にそうような生き方なのかと真剣に考える人にとっては、「掟の中でどれが一番重要なのか」という問いが切実なものとなっていたようです。また、律法学者たちは、モーセ五書の戒めを613の部分に分けて、どれが最も大切なのか、ということを議論していたようです。ですから、この律法学者は、イエス様がサドカイ派の人々に立派に答えたのに感動して、イエス様になら答えてくれるのではないかと、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」と尋ねたのです。

 29節、30節には、「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』」とあります。イエス様は申命記6章4節、5節にある「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」という言葉を引用されました。申命記には、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして」とありますが、イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして」と言われ、申命記にある3つに加えて、「思いを尽くし」付け加えられたのでした。「思い」とは、理性的な働きを指す言葉です。イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」に加えて、理性の働きの全てをもって、神様を愛するようにと言われたのです。律法学者の問いは、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」ですから、「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」でよかったのですが、第二も語られるのです。第一と第二のものは切り離せないからです。

 

二、神様を愛することから隣人への愛は流れる

31節です。「第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」」 この言葉は、レビ記19章18節の「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」、19章34節の「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」からの引用です。イエス様は、神様を愛することと自分のように隣人を愛することが掟の中の掟だと答えられたのです。

  モーセの十戒は、二つの部分から1戒から4戒は、神様と人間との関係の掟、5戒から10戒までは、人間と人間との関係の掟が記されています。1戒から4戒は、全身全霊を持って神様を愛するということ、5戒から10戒までは、隣人を自分のように愛するということが記されているのです。十戒もイエス様が示された神様を愛することと自分のように隣人を愛するということを示し、神様のお心がここにあるのです。

  イエス様は、第一として神様を愛すること、第2として自分のように隣人を愛することを示される前に、「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。」と述べられました。これが聖書の確信とも言うべき事柄でしょう。申命記4章35節には、「あなたは、主こそ神であり、ほかに神はいないということを示され、知るに至った。」とあり、神様が唯一であるということを強調しています。また、レビ記19章には、「わたしは主である。」「わたしはあなたたちの神、主である。」という言葉を何度も繰り返されています。神様の愛と隣人への愛は、私たちが私たちの神様、主を心から知った結果として必然的に生まれて来るのだと思うのです。

  この唯一の神様との交わり、関係は、「愛する」という交わり、関係なのです。神の民は、唯一の神様との人格的な深い交わりを持って生きるのです。神様を愛するとは、唯一の神様との交わりに生きることにおいて成立するのです。日本の八百万の神々とは、愛するという関係にはならないのです。多くの神々は、困った時の神頼みとはなっても、愛する相手、愛する関係にはならないのです。神様との間に、「愛する」という関係を持って生きることこそ、神の律法、戒めが教えている神の民の在り方の中心、要なのです。

 神様を愛するということは、隣人を愛することと離れてはあり得ないのです。神様を愛していても、隣人を愛さないということはあり得ないのです。そのようなことがあるならば、神様を愛しているという愛は本物ではないということです。目に見える隣人を愛しているかどうかによって、目に見えない神様に対する私たちの関係が明らかになってくるのです。ヨハネの手紙第一4章20節から21節には、「「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。」 私たちは、神様を愛している者として隣人を愛するのです。

 

 三、神様への愛は隣人への愛の実践でわかる

 イエス様は、律法学者の「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」という質問に、神様を愛することと自分のように隣人を愛することを示されました。イエス様の答えに対して、32節。33節では、「律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」」とあります。

 律法学者は、どんなにうやうやしく神殿で礼拝をささげ、いけにえをささげても、宗教的な儀式をたくさんしても、神様への愛や隣人への愛がなければ、神様から見て何の意味もないむなしい行為にすぎないということを理解したのです。サムエル記15章22節には、「サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」とありますし、ホセア書6章6節には、「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」とあります。

イエス様は、34節で、「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。」とあるように、「あなたは、神の国から遠くない」と言われました。「遠くない」とは微妙な言い方です。「おしい」「もう少し」「かすっている」ということでしょうか。望んでも手の届かない所にあるのではなく、手を伸ばせばつかむことができるということでしょうか。手を伸ばさないで、手をこまねいていれば、神の国は無限に遠いということになります。少ない差であっても、まだ神の国にはいないということでしょう。

律法学者は、33節で、「『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、」と言いましたが、イエス様は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、」と言われました。イエス様は、「知恵を尽くし」と知恵とは言っていません。律法学者は、正しい答えを頭、知識ではよく知ってはいても、その答えの本当の意味を理解していなかったことになるのでしょうか。

イエス様は、ルカによる福音書10章にある善いサマリア人の譬えで、律法の専門家の「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」という質問に、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と言われて、善いサマリア人の譬えをして、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」

というイエス様の質問に律法の専門家は、「その人を助けた人です。」と答えました。それに対してイエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われたのです。今日の箇所に出て来る律法学者は、彼の答えの内容とその答えの内容の通りに生きているかは別問題だったでしょう。頭では知識ではわかっていても、実践が伴っていなかったのでしょう。だから、イエス様は、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたように思うのです。あなたはどうでしょうか。

 

 Ⅲ結論部

 神様に対する愛は、神様が私たちに何をして下さったのかを知ることで生まれて来ます。それを知れば知るほどに、神様への愛は高まるのです。神様は天地を創造し、人間を創造されました。そして、命を与え、人生を与えられました。しかし、人間の神様への不従順、罪のゆえに、神様と人間の間には断絶が生まれました。神様は人間との関係を回復するために、神であるイエス様を人間の姿でこの世に送られました。それがクリスマスです。本来罪人である私たち人間が受けるべき神様からの罰、裁きを全てイエス様の上に負わせられたのです。イエス様は十字架の上で、尊い血を全て流し、命をささげられたのです。イエス様の犠牲の死に免じて、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が赦されたのです。イエス様は死んで墓に葬られましたが、父なる神様はイエス様を復活させることで、死を超えた永遠の命の扉を私たちのために開いて下さったのです。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」(Ⅰヨハネの手紙4:9-10)と聖書は語ります。

 神様がこのようにイエス様の十字架と復活を通して与えられた恵みによって、私たちは神様を愛する心が生まれるのです。神様が私たちにして下さったことが、どんなに大きなものであるのかがわかればわかるほどに、神様に対して、イエス様に対して、全身全霊を持って、心を尽くして、精神を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、神様を愛するようになるのです。神様を愛することができる私たちは、隣人をも愛する                                                                         ことができるようになるのではないでしょうか。

 神様を愛するとは、神様に従うことです。イエス様は、「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。」(ヨハネ12:21)と言われました。神様を愛するということが、神の言葉、掟に従う、守ることによって表現され、証明されるのです。

 神様を愛するとは、神様が自分にして下さったことの全ての良い事に対して感謝を表すことです。

 神様を愛するとは、神様と共にいるということです。神様との交わりを常に求めるのです。神様との交わりとは、礼拝であり、ディボーション(神の言葉と祈り)です。

 神様を愛するとは、神の愛、福音を教会が、私たちが伝えることなのです。

 マザーテレサにある人がこう言いました。「百万ドルもらっても、私はハンセン氏病者には触りたくはない。」マザーテレサは言いました。「わたしも同じです。お金のためなら、二百万ドルやると言われても今の仕事はしません。しかし、神への愛のためならば、喜んでします。」愛は神様から出ているのです。神様の愛が私たちの内側に満たされてこそ、隣人を愛する行為と導かれるのではないでしょうか。私たちは、この週、神様を愛する行為として礼拝を守っているように、日々み言葉に触れ、祈りを通して神様と深く交わり、神様から出る愛に満たされて、自分を愛し、隣人を愛する者として歩ませていただきましょう。私たちは弱い者ですが、イエス様が共におられます。愛の源であるイエス様が私たちを支え励まし、強めて下さいます。安心して、イエス様に全てをお委ねして、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(22年10月2日)

2022-10-02 12:42:06 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後16主日)     2022.10.2

ざわつく信仰」 マタイによる福音書21:28~32

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第一の日曜日を迎えました。久しぶりの青葉台教会での礼拝となります。愛する皆さんと共に会堂に集い、あるいは、オンラインを通してご自宅で、置かれた場所で、共に心を合わせて、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

 2022年も4分の3が終わりました。コロナの新規感染者も徐々に減少しつつあります。朝夕もすっかり涼しくなりました。まだ、昼間は暑い日がありますが、秋の気配を感じる季節となりました。

 今日は、マタイによる福音書21章28節から32節を通して、「ざわつく信仰」と題してお話しします。「ざわつく」とは、「ざわざわする。ざわめく。落ち着かない状態になる。」という意味があります。ある人の発言にざわつく、落ち着かないということでしょう。

イエス様と宗教指導者たちとの会話、議論は果てしなく続きますが、イエス様の言葉に、発言に、宗教指導者たちは、ざわつくということがありました。私たちも聖書の言葉に触れる時、心がざわつくということがあると思います。今日も聖書の言葉が私たちの心に触れて、心がざわつく、落ち着かない、神様の言葉に心を向け、イエス様に信頼する者となりたいと思うのです。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様に創造された者として生きる

 マタイによる福音書を書いたマタイは、徴税人の仕事をしていました。ユダヤを支配しているローマから仕事を任せられ、同胞のユダヤ人からはローマの飼い犬だと憎まれ、嫌われていました。そのような苦しみや痛みを知っていたマタイであるからこそ、イエス様が語られた二人の息子のたとえ話を記すことができたように思います。今日のこの個所の二人の息子の譬えは、マタイによる福音書にしか出て来ません。マタイは、彼自身がそうであったように、ユダヤの宗教指導者たちから苦しみを受け、見捨てられていた人々や、異邦人の痛みや苦しみに寄り添うことができたのだと思うのです。マタイ自身が、徴税人という働きのゆえに、不正を働き、自分の富を増やし、同胞のユダヤ人から規定以上の金を巻き上げ、苦しめていた。そのような自分をイエス様は否定することなく、咎めることなく、イエス様が自分を弟子として召して下さった経験を通して、自分の過去の罪やつまずき、恥や失敗、喪失感、劣等感などがあっても、イエス様に触れることを通して、真の神様への信仰に向かわせるものであることを知っていたのです。そのことを二人の息子のたとえを通して語っているのです。人生に無駄なものはないということを知るのです。

イエス様とユダヤの宗教指導者たちの間では、激しい火花が散っていました。緊迫した場面での出来事が、マタイによる福音書21章12節から記されています。神殿の境内で売り買いする人々、その人々の台や腰掛をイエス様は倒し、追い出してしまわれました。イエス様のそのような態度に、何の権威でそのようなことをするのか、と宗教指導者たちはイエス様に迫るのです。そこでイエス様は二人の息子の譬えを話されました。イエス様は、二人の息子のどちらが、父の望みに忠実であったのかと譬えを用いて、父なる神様のみ心に適う忠実な息子はどちらなのか、とユダヤの宗教指導者たちに問われるのです。

 この譬えには、兄と弟が出てきます。私たちが使用している新共同訳聖書では、兄が最初否定しましたが、父の望みに従い、弟は肯定しながらも父の望みに従わなかったとありますが、新改訳聖書第三版や口語訳聖書、リビングバイブルでは、兄と弟が逆で、弟が最初否定しましたが、父の望みに従い、兄は肯定しながらも、父の望みに従わなかったとあります。何故、このような事があるのかというと、元のギリシャ語の本文には、2種類あって、どちらの本文を使用したかによって、兄と弟が逆になるということがあるようです。原文には、「最初の息子」と「もう一人の息子」と表現されていて、兄か弟かは、はっきりしないのです。私たちは、兄と弟の姿勢、生き方から学びたいと思うのです。

 

 二、心がざわついてもいい

 今日のたとえ話には、兄と弟が出てきます。聖書には、兄と弟がよく出てきます。アダムの息子のカインとアベル、兄が弟を殺し、人類最初の殺人者がカインでした。また、イサクの息子のヤコブとエサウ、弟ヤコブは兄エサウから長子の権利を奪いました。新約聖書では、放蕩息子に出て来る優等生の兄と家出するどうしようもない弟です。兄と弟は、それぞれ違う人格を持っています。私たちは、人を判断する時、生年月日や出生地、血液型、学歴や職歴、家柄など、または見た目で勝手に、その人となりを判断してしまいます。

私たちも兄弟姉妹がいて仲が良かったり、悪かったりとそれぞれでしょう。自分と兄や弟、姉や妹と比べることは多くあり、喜んだり、ひがんだりといろいろあります。

さて、新共同訳聖書では、父の望みに応えたのは兄でした。父の「ぶどう園へ行って働きなさい」という望みに兄は、「いやです」と答えましたが、「後で考え直して」出かけました。弟は、「お父さん、承知しました」と答えましたが、ぶどう園には行かずに、父の望みには答えませんでした。兄の性格なのでしょか、父の望みに「いやです」と反発します。素直ではありません。けれども、「後で考え直して」、「父の願いを無視して悪かった。今、ぶどう園で働き手が少ないから頼んでいるのに、何でいやですと言ったのか」と反省して、父の望みに応えようと考えを変えて、ぶどう園に行って働いたのです。弟は、「ぶどう園へ行って働きなさい」という父の望みに素直に答えます。「お父さん、承知しました」と。しかし、弟は口先だけで、ぶどう園には行きませんでした。お父さんの手前、リップサービスをしておいて、後は知らない、という適当なことだったのでしょう。弟は、「いやです」と否定して、行かなかったよりも、「お父さん、承知しました」とお父さんを一時喜ばせたので、少しはましでしょうか。「いやです」と言って行かないことと、「お父さん、承知しました」と言って行かないことは、結果は行かなかったということで同じだと思います。

兄は「いやです」と言ったけれども、「後で考え直して」ぶどう園に行きました。どうせなら、「お父さん、承知しました」と言って、ぶどう園に行って働くことが最善ではないでしょうか。でも、なかなか人間、そう簡単に、単純にそうはいかないということなのでしょう。理想は理想であって、現実は厳しいものがあります。私たちの心も簡単なものでありません。ざわつくのです。時と場合によっては落ち着かないということがあるのです。

 

 三、悔い改めることが恵みとなる

イエス様は、31節の前半で、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と宗教指導者たちに問うと、「兄の方です」と彼らは答えたのでした。31節の後半から32節には、「イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」」とあります。宗教指導者たちは、自分たちこそ、神様に選ばれた者、神様に招かれて神の国にまず入る資格を持っている者であると自負していた彼らにとっては、最大の侮辱でありました。宗教指導者たちから見て、徴税人や娼婦は神様から見捨てられた者、罪深い者、神の国には入れない者だとレッテルを貼られた板彼らが、神様の前に建前として、清く、正しく、美しく生きていた自分たちよりも徴税人や娼婦が先に神の国に入るということは、信じられないことであり、絶対に受け入れられないことでした。この譬え話のポイントは、「後で考え直す」かどうかという点にあります。宗教指導者たちは、父の望みに、「いやです」と答えたものの、「後で考え直して」ぶどう園に行った兄を父の望み通りにしたと躊躇なく答えることができました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか。」(マタイ21:23)とイエス様に言った宗教指導者たちは、自分たちの持つ権限のことは気にかけてはいても、真の権威のよりどころである父なる神様のことを真剣に受け留めてはいなかったのです。本当に、神様の権威を畏れて、神様に仕えて人々に奉仕するのであれば、神様の望んでおられることを実行するはずではないかとイエス様は問われるのです。エルサレムの宗教主導者たちには、罪の悔い改めを求めたバプテスマのヨハネの言葉は届きませんでした。罪を悔い改めてバプテスマを受ける人々の姿を見ても、彼らは心の中でさげすんでいたのです。

イエス様は、「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」と言われました。バプテスマのヨハネが義の道を示したのに、悔い改めなかったのに対して、罪人のグループ、徴税人や娼婦たちは、それを信じて悔い改めたのです。神様に背いて生きていた今の道をよく考え直して、神様の言葉に示された「義の道」に立ち返る必要があるのです。バプテスマのヨハネの権威とイエス様の権威には密接な関係がありました。バプテスマのヨハネに対する人々の態度が、すなわち、イエス様に対する態度であるというのです。バプテスマのヨハネの言葉に耳を傾けるのなら、イエス様のもとに来ることであり、バプテスマのヨハネの言葉を拒絶するならばイエス様を拒絶するというのです。バプテスマのヨハネに対する態度が、人間の応答のバロメーターになるのです。「なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」とイエス様は言われました。イエス様を否定しても、受け入れなくても、考え直して信じることの大切さをイエス様は示されたのです。あなたはどうでしょうか。

 

 Ⅲ結論部

 29節と32節にある「後で考え直して」の「考え直す」は原語では「メタメロータイ」といい、「後悔する、悔いる」という言葉の意味があります。「悔い改める」は原語では、「メタノエオー」といい、考えを変える、方向転換するという意味があります。「悔い改める」とは、涙を流して反省するというのではなく、自分の今の在り方、生き方を悔い改めて、神様の元に立ち返るということです。旧約聖書エゼキエル書33章11節には、「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」とあります。神様は、罪ある私たちが神様に立ち返ることを心から望んでおられるのです。そのために、神であるお方イエス・キリスト様を人間の世界に送り、罪のないイエス様が、罪ある私たちの身代わりに神様から裁かれて、十字架で尊い血を流し、命をささげて下さった。私たちの罪を赦すために身代わりに死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、参日目によみがえり罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪、過去、現在、未来の罪が全て赦され、清められ、死んでも生きる命、永遠の命を持つものとされるのです。私たちは死んでも生きるのです。

 ルカによる福音書15章の放蕩息子に出て来る弟は、父の財産をもらうと金に換え、遠くの国へ行き、放蕩三昧、自分の欲を満たす生活を送り、あっという間に、お金を失い、飢饉に見舞われ、自分の命が危なくなって、父の事を思い出して、考え直して、悔い改めて父の元に帰るのです。父は息子の帰りを大喜びで迎えました。この息子は、自分が息子と呼ばれる資格はないというほど、許されるはずのない罪を犯しました。しかし、父にとって、彼の罪は問題ではありませんでした。どんなに罪を犯そうが、赦されるはずがないと自分が思うほどの罪を犯していても、父なる神様のもとに帰る、悔い改めて立ち返ることなのです。「いやです」と父の望み否定しても、後で考え直してぶどう園に行った兄のように、どのような罪があってもいいのです。自分では、あるいは、人が赦されるはずのない罪だと言っても、考え直して、悔い改めて、自分がどんなに罪深い所に立っていようとも、神様の元に帰ることなのです。そこにこそ、赦しと癒しと慰めがあるのです。

 イエス様は、あなたがどのような状態であっても、あなたを愛し、あなたの最も愛している家族をも愛しておられるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)とイエス様は、今日あなたに語られるのです。あなたが今背負っているどんな重荷をも、イエス様が負って下さる。支えて下さるのですから、あなたの重荷をイエス様の元におろして、この新しい1週間を送りたいと思うのです。この週も、イエス様があなたと共におられます。心配しないで大丈夫。どんなに私たちの心がざわついても、イエス様はあなたを受け入れ守られるのです。

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日曜礼拝(22年9月25日)

2022-09-26 10:25:30 | Weblog

まことのつながり  ヨハネ15:1~14     22,9,25

 

1,15章は、13章から16章までつづくイエスさまの告別説教のなかで、独白ともいえる箇所です。この章の前には、洗足、ペテロの離反、トマス、フィリポ、ユダの質問への応答,聖霊を与える約束などがあります。16章では、受難と復活、17章で最後の祈りとつづきます。さて、本日の聖書箇所は、ぶどうの木のたとえでよく知られている箇所で、ヨハネだけにあります。ぶどうとオリーブはイスラエルの代表的産品です。出だしの1節に「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である。」とあります。ぶどうは旧約聖書でもよく扱われています。イエスさまは、旧約聖書を意識してこのたとえを語っているのです。

2,旧約でぶどうを扱っている代表的な箇所を見てみたい。創世記9:20~21にノアが箱舟を出てすぐに始めたことは、「農夫となり、ぶどう畑を作った」とあり、その後に「葡萄酒を飲み酔った」とあります。世界初の酔っぱらいです。1節の私の父は農夫であると通ずるものがあります。詩篇80:9~10では「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました。そのため場所を整え、根付かせ、この木は地に広がりました。」とあります。このぶどうの木はイスラエルの民を表しています。2節で父が取り除く実を結ばない枝は、イスラエルの民を示していることに通じます。イザヤ5:1~7は、ぶどう畑の歌として有名な箇所です。「わたしはよく耕して石を除き,良いぶどうを植えた。しかし、実ったのは酸っぱいぶどうであった。わたしが、ぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに、なぜ酸っぱいぶどうの実がなったのか。私はこれを見捨てる。枝は刈り込まれず、耕されることもなく茨やおどろが生い茂るであろう」とあります。

3,1~2節は、イザヤ5章と詩篇80編を思い浮かべます。父なる神は農夫、イエスはぶどうの木、私たちは(イスラエルの民)ぶどうの枝だと言っています。「わたしにつながっていながら,実を結ばない枝はみな父が取り除かれる」。イスラエルの民は、私が選び、私につながっていたのに、自分から離れ、実を結ばなかったので除かれるというのです。神の約束を受け継ぐのは血筋としてのイスラエルではなくイエスさまにつながる人だと言っているのです。私につながって実を結ぶものはいよいよ豊かになる。イエスさまは、私たちの罪を贖うため十字架で死、そして復活した後の信仰生活の在り方を弟子たちに示しているのです。これは、私たちの信仰生活の在り方をも示しているのです。

3節で、「私の話した言葉によってあなた方はすでに清くなっている」とあります。私たちもイエスさまの言葉として与えられている聖書によって清くなっているということです。聖書の言葉をうけとめるだけでいいのです。自分で何等の行為をする必要はなくきよめられているというのです。ただ、必要なことは、私はあなた方につながっている。あなた方は、これに応じてわたしにつながりなさい。わたしは手を差し伸べているその手をつかみなさい。4節で「わたしにつながっていなさい。私もあなた方につながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ実を結ぶことはできない」とのべています。これは、信仰を持ったのち、いつも神につながり続けなさいということです。つながり続けなければ枝はぶどうの実を付けられないのです。神の働きかけに、いつも行動、生活をもって応答しつづけるということで、神とのまことのつながりをいつでも、どこでも持つということです。

つながりの持ち方は何かというと、それは信仰生活そのものでいいのです。祈ること、説教を聴くこと、学ぶこと、礼拝を守ること、聖餐にあずかること、これらを続けていくことが、神とのまことのつながりだということです。そうすれば必ず実を結ぶと約束しているのです。実とは何かというと、ガラテヤ5:22で「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」であると示しています。

4,話は変わりますが、つながりということで思い浮かべることがいくつかあります。最近、毎日のように話題になっている、異端に入って被害を受けている人たちです。この方がたが聖書と少しでもつながっていれば防ぐことができたのにと思わざるを得ません。東北大震災の時にも、つながり、きずなということが多くの人から言われました。人と人、人と物事のつながりは、人生においてもとても大事です。どんな人と出会うか、どんな出来事を経験をするかはとても大事です。半年ほど前に、ネットやマスコミで騒がれた話で、ご存知の方も多いとおもいます。昨年12月にドイツの前首長アンゲラ、メルケルの退任式が行われました。その時には、恒例で軍楽隊が本人の希望曲を演奏することになっていました。彼女の希望曲は、共産党政権下の東ドイツで、1974年に大ヒットした「カラーフィルムをわすれたのね」でした。ニーナ ハーゲンというロック歌手が歌った曲でした。当時の東ドイツで、自由な行動、移動,言論が許されない、暗い統制下の中で、当時の政権を皮肉くり、自由を求めていることを暗示する曲で、東ドイツの人々でこの曲を知らない人はいないくらい爆発的に歌われたそうです。彼女は、大学時代にこの曲を聞いたそうで、自分の青春時代のハイライトだった

と言っていました。軍楽隊はこの曲を知らなく、楽譜もなく大変驚き、困ったそうです。彼女は、この曲をおもいだすたびに、自由、民主主義は戦ってでも守っていく、大切なものだと思うと言っています。シリアからの難民を、多くの反対があるなかで受け入れたのは、自由を求めてくる人を見殺しにはできない。50年前のこの曲とつながりがあったのですね。

5,さて、今日の聖書箇所に戻りますと、1節~4節と5節~8節は対になっています。同じように9節~11節と12節~14節も対になっています。信仰を守るためには、大事なことなので言葉を変えて同じことを述べているのです。7節で「あなたがたが、わたしにつながっており、私の言葉があなた方のうちにいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と約束されています。さらに9節でこのつながりは愛だと言っています。「父が私を愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい。私の愛にとどまっていれば、私の喜びになる。私の喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びがみたされるためである」といっています。12節で「私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」、13節で「友のために自分の命を捨てること、これ以上の愛はない」といっています。まさにイエスさまは、私たちの、全世界の人々の、罪を贖うために自分の命を十字架で捨てたのです。これ以上の愛はないのです。さらに復活してわたしたちにいつもつながるように招いているのです。この招きに毎日応答し、つながりつづけ、信仰生活を守っていきたいものです。祈りましょう。

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日曜礼拝(22年9月18日)

2022-09-19 08:37:13 | Weblog

2022.9.18 奨励 説教題「苦難の背後にある真の信仰」聖書箇所ヨブ記19:23―29
神学生 吉武 良司
神学生夏期派遣において、ヨブ記を読み始めた方より、ヨブ記について質問をされまし
たが、あまり読んだ事がなかったので、勉強しておきますと返答をしました。神学生なら
何でも知っているだろうと言う認識があったようですが、神学生は今勉強中なので知らな
い事の方が多いです。ただこの質問のおかげでヨブ記を読む機会が与えられました。一回
読んだだけでは、なかなか理解出来ませんでしたので、今回ヨブ記について色々調べまし
た。それで、今日の奨励をヨブ記からにさせて頂きました。前回の奨励では、エゼキエル
書を取り上げましたが、主人公のヨブは、エゼキエル書14章14節にも、ノア、ダニエ
ルと共に、正しさによって、自分自身の命を救った者として登場します。
人はなぜこの世で苦しみ、悩むのでしょうか。なぜ、何の理由もなく悲惨な事が起こる
のでしょうか。戦争、ウィルス感染、宗教、政治、異常気象、災害、病気、事故、殺人、
自殺など・・・。果たしてこのような人生に意味はあるのでしょうか。しかし、世の中の
不条理を理解するのは人間には不可能な事です。そこで、全知全能であられる神様からの
答えをヨブ記から学びたいと思います。
ヨブ記は、箴言、伝道者の書、雅歌と共に知恵文学とされ、全部で42章あります。全
体をひとまとめにすると、何の罪もないヨブが次々と災難に見舞われて、全財産と子供た
ち全員を失います。次に全身に腫物が出来て、妻からも見放されます。それでも、ヨブの
固い信仰は変わる事はありませんでした。ところが、腫物は全く治らず、余りの苦しみ
に、この現実をとうとう嘆き始めました。
そして、生まれてきた事を呪いました。少しずつヨブの信仰は揺らいで行きます。ヨブ
の災難を聞いた3人の友人が、ヨブを慰めるために訪ねてきましたが、ヨブが余りにも潔
白を主張するので、友人たちは怒り、ヨブを叱責しました。ヨブには罪があり、その隠れ
た罪が災いをもたらしていると責め立て、議論を3度繰り返しました。
4人目の友人も一方的にヨブの無い罪を非難しました。少しだけ仲裁されましたが、結
局友人との議論は決着がつきませんでした。ヨブの嘆きは、神への嘆きへと変わって行き
ます。神の沈黙により、苦しみは極限へと向かいました。ついに神がつむじ風の中からヨ
ブの前に現れ、知識を神と同等と高ぶるヨブに対して、苦難の事には一切触れず、神の創
造の御業と被造物全体に及ぶ神の支配、動物界における神の支配、かばの怪物ベヘモッ
ト、ワニの怪物レビヤタンを滅ぼせるかとヨブを諭(さと)しました。
2
圧倒的な神の御業を聞かされて、ヨブはへり下るしかありませんでした。全知全能の神
の前にヨブは真の悔い改めをして、友人たちの罪の赦しのためにも祈りました。病気は癒
され、真の信仰を得る事ができました。財産は2倍になって戻り、子供たちも同じ人数が
与えられました。幸福な晩年を後140年生きました。という内容です。ここから、本題
に入ります。
まずヨブの人物像を紹介しますと、ヨブは、ウツの地出身で、半遊牧民の族長で、東の
国の一番の大富豪です。ウツの地はアラビア砂漠の北部地方と見られています。東の国と
言うのはイスラエルの東の国です。7人の息子と3人の娘、羊7000頭、らくだ300
0頭、牛500くびき、雌ろば500頭と多くの僕を所有していました。神を畏れ、息子
たちが罪を起こさないようにと集めて聖別し、燔祭を捧げ、前もって罪を防いでいまし
た。悪を避け、完全で正しく、東の国の一番の知恵者でもありました。
苦難の始まりは、ある日、天上で神とサタンとのやりとりがありました。サタンは神
に、ヨブは神に祝福を与えられているから神を敬っているのであって、財産が無くなれば
きっと神を呪うでしょうと言いました。神はサタンに、ヨブの身以外の全てをサタンのい
いようにして良いと許可しました。ただし1章8節で、「お前はわたしの僕ヨブに気づい
たか。地上に彼ほどのものはいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きてい
る。」と、神の方からサタンに興味を持たせ、闘争心をかり立たせているように見えま
す。災いの根源は神の方にあると思います。
いわゆるヨブは、信仰を試される絶好の実験台に選ばれたと言えます。ヨブ記の研究者
でもある内村鑑三は、ヨブ記を心霊の実験記と言っています。ヨブはこの天上でのやりと
りを知るはずがありません。そして最後まで知る事はありませんでした。サタンは、一日
にしてヨブのあれほどの財産全てと息子7人娘3人をも殺して失わせました。
皆さんは、自動販売機でジュースやお茶を買う時に、100円玉が落ちて下にころがっ
たらどうしますか・・・。周りに人がいたら拾わない。後から拾いに行く。諦める。色々
タイプがあると思います。僕は手が届かなくても棒で掻き出して取ります。ましてや、ヨ
ブは、子供たち全員が殺されて、一日にしていなくなったら、それどころではないと思い
ます。今起こっている戦争はこれに似た現実の苦難と言えます。77年前の原爆や99年
前の関東大震災などは、もっと悲惨な出来事です。今月11日にウクライナが東部のロシ
ア占拠領土を奪還したと報道されていましたが、ロシアの反撃で、核使用の最も深刻な状
況になったとも報道されていました。
ヨブは全財産を失っても、1章21節「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろ
3
う。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」と罪を犯さず、神様に向かって
愚かな事を言いませんでした。こんな事を言える人はなかなかいないと思います。ヨブの
信仰は尋常ではありませんでした。しかし、サタンはまだ諦めません。
神はサタンに、無垢なヨブを破滅させる事は出来ないと言うと、サタンは、ヨブも身に
及ぶ苦難には、神を呪うでしょうと言いました。そして、神は命だけは奪わない約束で、
ヨブの身を打つ事を許可しました。サタンは、ヨブに足の裏から頭のてっぺんまでの腫れ
物にかからせました。実験が悲惨すぎます。ヨブは痒(かゆ)さのために、土器の破片で
体中をかきむしりました。
皆さんも、蚊にさされた時に、爪で十字の跡をつけた事があると思います。ヨブの場合
は、ちょっと次元が違いますが、同じ様な原理と思います。僕も頸椎(けいつい)と肋骨
を骨折した時、上半身から首までのギブスで固定され、夏場にあせもで、痒さに苦しんだ
経験があります。この時は、孫の手は隙間に入らず、割り箸の角で搔いていました。痛み
よりも痒さの苦しみが勝(まさ)っていました。ヨブの痒さは比べられない程の想像を絶
するものだと思います。悪臭も放ち、そしてヨブは妻からも見放されました。
妻はヨブに2章9節「どこまでも無垢(むく)でいるのですか。神を呪って、死ぬ方が
ましでしょう」と言いました。ひどい妻と思われがちですが、普通ならば財産と子供を全
て失った時点で取り乱しているのではないでしょうか。これに対してヨブは妻に、2章1
0節「お前まで愚かな事をいうのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、
不幸もいただこうではないか」このようになっても、ヨブは罪を犯しませんでした。ここ
でも、ヨブの信仰はまだ保たれて光っていました。
ここで、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞いた3人の友人が登場します。3人の
名前は、エリファズ、ビルダド、ツォファルです。3人は、ヨブの変わり果てた姿と激し
い苦痛を見て嘆き、7日7晩話かける事が出来ませんでした。そして、とうとうヨブの嘆
きが始まり、自分の生まれた日を呪い始めました。母の胎にいるうちに死んでいたら良か
った。生まれてすぐ息絶えれば良かった。悩み嘆く者をなぜ生かすのか。墓を見い出す事
さえできれば、喜び踊り、歓喜できるのにと。完全にヨブは冷静さを失っていましたが、
しかし、自殺の観念は全くなく、自殺が神様のみこころの訳はなく、罪である事をよく知
っていました。ヨブがもし自殺をしていたら、苦難のあとの喜びも真の信仰も、ヨブ記自
体が存在していなかったでしょう。
ヨブと3人の友人との議論が始まります。最年長のエリファズは、ヨブは人に対しては
諭して力づけるが、自分にふりかかる事には弱く、怯えていると言い、ヨブには罪がある
4
から苦難に遭っていると因果応報論を用いて責めました。ビルダドは、ヨブの子供たちが
過ちを犯したから全員死んだのだと言いました。ツォファルは、ヨブを偽善者だと言いま
した。ヨブは、潔白と罪の無いことを主張しますが、賛同者は誰もいませんでした。13
章15節でヨブは、「そうだ、神は私を殺されるかも知れない。だが、待ってはいられな
い。わたしの道を神の前に申し立てよう。」と絶大なる神への信頼をツォファルに強く訴
えました。この時はまだ神からの応答はありません。同じような問答を友人たちは3回繰
り返し、ヨブも罪が無い事と潔白を9回返答しますが、結論には至りませんでした。議論
が繰り返された意味は、苦しみの境地に至り、ついには神が現れました。僕は、去年の病
気で、呼吸が普通に出来ない苦しみを経験しました。その時は、見えない空気が見えたよ
うな気がしました。苦しみで、見えない物に気が付かされた経験でした。
4人目の友人エリフは年が若く、ヨブに話かけるのを控えていました。エリフは、3人
がヨブに間違った議論をしているとして怒りました。議論が続く中でヨブは、神よりも自
分の方が正しいと主張し始めました。その事でエリフはヨブに怒り、人の知恵は神には及
ばないと一方的に非難しました。エリフは仲裁者的な役割も果たし、神の登場に繋がりま
す。神は、ヨブの苦難についての質問には全く答えず、威厳さを示し、ヨブが悔い改める
まで質問を続けました。ヨブは、自分の愚かさを認め、真の悔い改めをしました。ヨブの
悔い改めの言葉は、42章5節6節「あなたのことは、耳にはしておりました。しかし
今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔
い改めます。」ヨブは最後に、直接目の前に現れて語って下さった神様の大いなる愛を知
る事が出来ました。
神の威厳さを示す宇宙の箇所ですが、38章31節から33節「すばるの鎖を引き締
め、オリオンの綱を緩める事がお前にできるか。時がくれば銀河を繰り出し、大熊と小熊
と共に導き出す事が出来るか。天の法則を知り、その支配を地上に及ぼす者はお前か。」
と、神様はヨブに質問します。ヨブは全く理解出来ません。解説書では、すばるが、プレ
アデス星団で、おうし座の散開星団で自ら光を放つ恒星(こうせい)の集まりで、互いの
距離が近く、それが鎖でしっかり結びついているように見えるようです。宮沢賢治の『銀
河鉄道の夜』にもこの記事が出て来ます。宮沢賢治もヨブ記を読んでいたと思います。こ
のすばるは冬が見頃です。オリオン座は真ん中に三ツ星がある有名な星座です。その三ツ
星を繋ぐ綱が緩んで別々の方向に動き、5万年後に分散するようです。大熊座の中に北斗
七星があります。小熊座に北極星が含まれます。それを導き出せるかと言われても、人の
理解をはるかに超えています。
次は、怪獣ベヘモットとレビヤタンについてです。僕は、まだ見た事はありません。ベ
ヘモットはカバの怪獣で、尻尾が杉の木のように垂れています。実際のカバの尻尾とは長
5
さが違います。骨は青銅の管、肋骨は鉄の棒のようで、神様が創られた第一の獣です。神
様も近づく時には剣を持たないと近づけない程頑強な怪獣です。性格は温厚で周りの動物
から慕われています。陸の動物ですが、川や水のあるところを棲家とし、ヨルダン川が口
から注ぎ込んでも動じません。食事は一日に千の山の草木を食べます。首と尾の長い、体
長40メートル程とされる草食動物です。
レビヤタンは、神様が創られた第二の怪獣です。ワニと言うよりは竜に近い怪獣です。
主に海に生息し、くしゃみをすれば両目から稲妻を放ち、喉で炭火を起こし、炎を吐きま
す。鼻からは煙が出て煮え立っています。心臓は石の様に固く、剣も槍も投げ槍でも突き
刺す事が出来ません。下腹は土器の破片を並べたようで、打穀機のように土の塊(かたま
り)を砕き散らします。体長はベヘモットの100倍以上で5キロメートルくらいとされ
ています。この地上の全ての獣の上に君臨し、支配出来る者はだれ一人いません。神様は
ヨブに、このレビヤタンを、小鳥の様にもてあそぶ事が出来るか、娘たちのためにつない
でおけるかと問いかけました。ヨブはへり下るしかありませんでした。
ここで、今日の聖書箇所に戻ります。この19章で、ヨブはビルダドの論述に、雄弁で
あっても苦しみを与えているだけであると言いました。ビルダドの傲慢な攻撃に、手痛く
打たれ、苦しみは益々悪化し、ヨブは絶望の淵にいました。この絶望の心の奥底に希望の
火種がありました。
19章23節24節「どうかわたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれ
るように」「はがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残る様に」は、苦しみの
中で訴え続けた潔白の主張を残したい、後世に潔白が証明される事を期待したいという強
い願望の現れです。
19章25節「わたしは知っている。わたしを贖うお方は生きておられ、ついには塵の
上に立たれるであろう」は、ここで新約聖書の救いが暗示されます。贖うお方とは、イエ
ス様の事です。イエス様は今も生きておられるとヨブは確信しています。塵の上とは、終
末の塵の地にイエス様が再臨される事を意味しています。苦しみの境地に立って普段では
見えないものが見えて来ました。
19章26節27節「この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ
見るだろう」「このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、は
らわたは絶え入る」は、死後イエス様が再臨される時に復活し、神様を仰ぎ見るという腹
の底からの偉大なる希望です。はらわたが絶え入るとは、普段あまり使わない表現です
が、やつれはてると言う意味で、ここでは、その激しい期待と興奮にやつれはてる程喜ん
6
だという事です。ヨブの心は湧き立ち大歓喜が漲(みなぎ)りました。イエス様の事も復
活の考えもまだ無い時代に、苦難の極限において現される神様の御業を、ヨブは教えてく
れました。神様と人との間に立つ仲保者もいないので、復活への理解はありませんでし
た。9章33節でヨブは、「仲裁するものがいるなら」と望んでいます。
19章28節29節「我々が彼を追い詰めたりするだろうか」とあなたたちは言う。こ
のありさまの根源がわたし自身にあるとあなたたちは言う。「あなたたちこそ、剣を器具
せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい。」とあります。ヨブは贖い主
を発見し、友人たちに対する態度は一変しました。
21節22節で「憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたの
だ。あなたたちはわたしの友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になってわたし
を追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。」と友人に憐みを求めていたヨブ
が、友人たちを裁く側に立ちました。
そして、友人たちに威圧的な警告を与えました。一瞬にして敗北から勝利へと立場が逆
転しました。友人からの攻撃は、まだまだ続きますが、ヨブの信仰は、攻撃に会えば会う
ほど一層強く深くなって行きました。ここで、ヨブの苦難の意味を考えたいと思います。
ヨブは苦難を経て、贖い主を知るに至りました。私たちは、イエス様を信じて救われ、
永遠の命が与えられました。イエス様を知らない人生は、生きる目的や苦難に会う意味が
分からず、「なんで自分ばかりこんな目に会うのか」「真面目に正しく生きているのにな
ぜ」とだいたいの人は思うのではないでしょうか。正しいか正しくないかは、人ではなく
神様が判断します。イエス様が十字架で罪を贖って下さり、三日目に復活され、私たちは
信じて救われ、永遠の命が与えられました。絶望のどん底から希望の絶頂に至り、ヨブの
悲しみは大歓喜へと変わりました。ヨブは苦難の後に、真の信仰が与えられました。
第二コリント1章6節に、「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと
救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、
あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐える事ができるのです。」とありま
す。ひとりひとりの苦しみはそれぞれ違います。ただ神様の大いなる愛と恵みに偽りはあ
りません。十字架と復活の愛と恵みによって、私たちは、希望と喜びが与えられていま
す。最後に、新約聖書から生活の御言葉を、ヨブと照らし合わせて読んで終わりたいと思
います。
ローマの信徒への手紙12章9節から21節「愛には偽りがあってはなりません。悪を
7
憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と
思いなさい。怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え
忍び、たゆまず祈りなさい。聖なる者たちの貧しさを自分のものとして助け、旅人をもて
なすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るの
であって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思
いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはな
りません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさ
い。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、
自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復す
る』と主は言われる」と書いてあります。あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いてい
たら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積む事になる。」悪に負けることな
く、善をもって悪に勝ちなさい。
お祈り
恵み深い天の父なる神様、尊い御名を崇めます。今日はヨブ記を通しての御言葉から、
苦難についての意味を知る事が出来ました。ヨブは苦しみの境地でイエス様を知り、大歓
喜と真の信仰が与えられました。私たちは今、様々な信じがたい現実に直面しています。
願わくば弱さと愚かさに気づく謙虚な者とさせて下さい。そして苦難が歓喜へと変わる真
の信仰を備えて下さい。この週もイエス様を仰ぎ見ながら歩み続けられます様に支えお導
き下さい。イエス様の御名によりお祈りいたします。アーメン

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日曜礼拝(22年9月11日)

2022-09-11 12:55:27 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後13主日)      2022.9.11

年老いてもなお」 イザヤ書46:1~4

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。9月の第二日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、ご家庭で、置かれた場所で共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。朝夕が随分涼しくなり、あの夏の厳しい暑さを忘れてしまうような、秋の気配を少しずつ感じております。

 今年の敬老の日は、9月19日で、9月の第三日曜日が高齢者祝福礼拝ですが、来週私は大阪での御用のため、今日を高齢者祝福礼拝とさせていただきました。敬老の日は、国民の祝日に関する法律では「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日と定められています。祖父母や両親、恩師など人生の大先輩を敬い、感謝の気持ちとともに長寿のお祝いをする日なのです。兵庫県多可郡多可町八千代区(旧野間谷村)では、1947年から9月15日は「としよりの日」とされ、地域でお年寄りを敬う日として定着していました。としよりの日がやがて全国へと広がり、敬老の日の制定につながったと考えられています。

593年に、聖徳太子が生活困窮者や身寄りのない人を収容するための施設「悲田院(ひでんいん)」を大阪に建立。悲田院は、今でいう孤児院や老人ホームの役割を担っていました。9月15日に建立されたことから、この日が敬老の日になったともいわれます。医療制度では65歳以上が高齢者ですし、道路交通法では70歳以上の免許更新者は高齢者講習を受けるとされています。人生100年時代の今、長く現役で働く方も多く、お年寄り扱いされたくないという方がいらっしゃるのも事実です。先日、イギリスのエリザベス女王が97歳でお亡くなりになりました。70年間女王として在位され、責任を果たして来られました。

老いていくことを老年医学では、弱々しくなるという意味で「虚弱化」と呼びます。「虚弱化」は、肉体の衰えと疾病(しっぺい)、そしてストレスが組み合わされ、日々、目に見えない所で進行していくようです。

 今日は、イザヤ書46章1節から4節を通して、「年老いてもなお」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、真の神と偶像の神との違い

 シルバー川柳というのがありますので紹介します。「実は俺点滴、湿布の 二刀流」

「名所より トイレはどこだ  バスツアー」 「犬猫に マイクロチップ 次は俺」 

「お年玉 持続可能か 聞くな孫」 「電話口 本当なんです 市役所です」 

「戒名に キラキラネーム 欲しい父」 「黙食と 思っていたら 寝てた祖父」

「ご飯つぶ 付いているから 食べたはず」「WEB予約 予約できたか 電話する」   

「銭湯で 全裸の祖父が マスクつけ」 「徘徊に 行ってくるぞと 言われても」

「入れ歯どこ 冷蔵庫です 冷えてます」 「俺を見て 御先祖様と 孫が言う」

高齢であるがゆえに許されている喜びと同時に、高齢であるがゆえに向き合うべき課題が多くあります。孤独や不安、病や死、老いたる者が誰でも直面する取り組みを神様のみ手の導きによって守られ、イエス様を賛美し、証しする生涯を続けたいのです。聖書には、「白髪は輝く冠」(箴言16:31)とあります。長寿は、神様の栄光を現わす冠です。神様の祝福の現れなのです。

 イザヤ書46章1節、2節には、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ/お前たちの担いでいたものは重荷となって/疲れた動物に負わされる。彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず/彼ら自身も捕らわれて行く。」とあります。「ベル」「ネボ」というのは、イスラエルを打ち負かし、捕囚としたバビロンの人々が崇めていた神の名です。バビロンの王、ネブカドネツァルの名目の最初の「ネブ」は、「ネボ」から来ているようです。「ネボ」は、バビロニア王朝で最高位にある神として崇められていました。バビロンの主神は、「マルドゥーク」と呼ばれる神の別名が「ベル」でした。当時のバビロンには50もの偶像の神々があったと言われています。「ネボ」は「ベル」の息子で、知恵や知識の神です。そのバビロンの神、「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。」というのです。

 バビロンの守護神ネボやベルを表す神の偶像は、その王国崩壊の危機にさらされ、人々の手によって台座からおろされ、運搬用の家畜によって運ばれないと危機から逃れられないのです。イスラエルを捕囚としたバビロンは、今度は自分たちが捕囚の身となると言われている。預言者は、家畜や人の手で背負われないと自分で立つことも、自分自身を救うこともできない無力な神が、その神を信じている人たちを救えるだろうかと問いかけているのです。その神を信じている人たちによって救われなければならない神は、信じている人の重荷となっているだけの存在で、それがバビロンの偶像の神だというのです。

 古代中近東の世界では、戦争はそれぞれの神々の闘いであると考えられていたようです。そして、闘いに負けた時は、その偶像を人が担いで逃げたのです。バビロンの神々、偶像の神々は、運ばれる神であり、重荷となる神なのです。

人に生きる力を与えることができないのは、真の神ではないからです。ベルやネボは、無力な偶像の神にすぎないのです。では、イスラエルは、真の神様を信じているはずなのに、どうして偶像の神を信じているバビロンに滅ぼされたのでしょうか。イスラエルの人々も、かつて捕囚の地で同じような疑問を持って生きていたのです。イスラエルの人々は、心を尽くして神様を礼拝しませんでした。神様を畏れ敬おうとはしませんでした。神様を信頼し、神様に聞いて生きるという歩みをしなかったのです。ですから、イスラエルは神の民にふさわしくない生き方、神様の言葉に背く生き方をしていたのです。そこに神様の裁きがありました。神の裁きは、イスラエルを滅ぼすためのものではなく、彼らが神様に立ち返るようにという愛の裏返しなのです。

 

 二、背負って下さる神

 3節です。「わたしに聞け、ヤコブの家よ/イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。」

「わたしに聞け」と神様はイスラエルに言われるのです。「残りの者」とは、戦争に負けた生き残りの敗残兵です。戦いに負け、傷つき、廃墟の中にたたずんでいるような存在でしょう。この「残りの者」には、イスラエル以外の諸国の民も含まれていたようです。真の神様を知らないで生きていた諸国の人々も含まれていました。この神様の呼びかけは、捕囚という辛い体験をした人々が聞いた慰めに満ちた言葉でした。この預言者と同じ体験をしている人々に向かって、神様はいつもあなたがたと共にいて、イスラエルのその苦悩を御自分の問題として、背負って下さると語るのです。この神様は、イスラエルを担い続け、これからも担い続けて下さるお方なのです。バビロンの神々にとって、政治的崩壊は、その無力を示す機会となりました。しかし、イスラエルの神様にとって、バビロンの政治的崩壊は、イスラエルの神様が担い続けるとの証明となる出来事となりました。

 4節には、「同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」とあります。聖書は、私たちが母の胎にいるときから、私たちひとりひとりを背負っておられると、言っています。背負うというのは、もちろん、比喩的な表現ですが、母が愛する子をおんぶするように、神様は私たちを、背負って運んでくださるのです。私たちが、若くて力のある時だけでなく、重荷に疲れて歩けなくなったとき、私たちをただ、遠くから見守っていてくださるだけでなく、私たちを背負って運んでくださるのです。

 皆さんもよくご存じの「あしあと」という詩があります。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。このことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要としたときに、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません。」主は、ささやかれた。「わたしの大切な子よ。わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」

 神様は、私たちが苦しみの只中にある時、自分一人だと孤独を感じる時、誰も助ける者がいないと嘆く時、実は、イエス様が、わたしを、あなたを背負って歩んでいて下さるのです。「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」というみ言葉の通りなのです。

 

 三、神に全てをお委ねする人生

 年を取るということは、悲しみでもありますし、手放していくということを学ぶという大切な時なのかも知れません。自分で頑張るということをやめて、神様にお委ねしていくということは簡単な事ではないでしょう。私たちが、自分で何もできなくなった時、ようやく委ねられる、委ねざるを得ないというのが現実でしょう。私たちが、全ての事を神様に委ねることによって、神様は、私たちの弱さを、小ささを用いて下さるように思うのです。自分で車の運転ができなくなって、家族や友人が運転してくれることで救われるということがあるでしょう。多くの人の助けや世話を喜んで受けるということで救われることがあるのです。

 私たちは、自分が元気な時、何でも自分でできる時は、「何かができるから自分には価値がある」と考えがちです。若くても、元気でも、失敗をすることもあり、何の役にも立たないということで、自分には価値がないと感じてしまうこともあるでしょう。年を重ねたならなおさら、今まで、できていたことが一つひとつできなくなっていくのです。そのような自分に価値があると見出すことは困難です。しかし、聖書を通して神様は、私たちに、「わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」と約束しておられるのです。その約束の言葉をしっかりと受け止め、信じて歩みたいのです。

 9月9日の金曜日に、青葉台中学校の隣にあるベネッセのホームにおられる竹内みゑ子姉を、家内と共に訪問させていただきました。9月9日で、93歳を迎えられるので訪問させていただきました。今回は、お部屋の方に訪問させていただきました。「今、お風呂に入っておられる」ということで、少し待たされましたが、お部屋に伺いました。最初、「こんにちは」とお声を書けましたが、誰か分からない様子でしたが、すぐにはっとして、「先生」と顔を両手で抑えてビックリ、という感じでした。とても喜んで下さり、楽しいお交わりの時を持たせていただきました。「自分は何もできない」と言いながら、食事の時や部屋の前の廊下を通る人々に声をかけて、「がんばりましうね」と励ましておられる様子を聞きました。一階の掲示板に9月の食事の献立が貼ってあり、随分おいしそうなものがズラリト並んでいたので、「おいしそうな食事ですね」とお聞きすると、「もうこの年には栄養はいらないのにね!」と笑いながら、おいしく感謝していただいていること、何の不満もなく、神様に守られて生かされていることを喜んでおられました。竹内姉は、耳が遠いのですが、目は良いので、家内が書いた誕生日のカードと小冊子をとても喜んでおられました。「白髪になるまで、背負って行こう。」というみ言葉を選ばせていただきました。いろいろな肉体の弱さや大変さがありますが、神様に感謝して、お委ねしておられる姉妹の姿に接して、神様の恵みの素晴らしさ、み言葉の確かさを感じることができました。「あなたたちは生まれた時から負われ/胎を出た時から担われてきた。同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで/白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す。」というみ言葉が、姉妹の上に成就し、そして、私たち一人ひとりにも与えられていることを強く感じたのです。

 

 Ⅲ結論部

 3節にある「残りの者よ」という言葉の意味は、「余りもの」「役に立たないので最後まで残されていた者」という意味にも取れます。あのぶどう園で5時まで仕事をもらえなかった人々、5時から男のようです。なぜ、残っているのかというと、役に立たないからです。どうでもいいからです。余分な人、いてもいなくてもいい人ということでしょう。神様は、中心的な人、目立つ人だけではなく、目立たない人、重要でない人、余りものに目を留めておられます。失敗した人、挫折している人、欠点を持っている人、劣っていると思っている人にこそ、神様の目から見て、重要な人、宝物だと言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴く/わたしはあなたを愛し」(イザヤ43:4)とみ言葉にあります。

 神様の目から見て、一人ひとりが、「あなたは神様に愛されている。」「あなたは神様に必要とされている。」「あなたは神様に大事されている。」という思いが込められた「残りの者よ」ということなのです。

 神様は、私たちを愛するがゆえに、私たちの罪を赦すために、イエス様を人として人間の世界に送り、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られ、三日目によみがえり、罪と死に勝利されました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪を赦し、魂を生かし、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と私たちの重荷を負って下さるのです。

私たちが生まれた時から担い、白髪になるまで、年老いるまで担うと約束しておられるのです。私たちは、このお方がいつも共におられるのですから、私たちは年老いてもなお、病であってもなお、問題や闘いがあってもなお、このお方にいつも守られ、支えられていることを覚えて、この週もイエス様に全てを委ねして歩んでまいりましょう。

 

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