江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(21年10月24日)

2021-10-25 16:15:08 | Weblog

豊かに実を結ぶために  ヨハネ15:1~8  2021,10,24

  • イエスさまは、まことのぶどうの木という本日の箇所は、ヨハネのみにある記事です。イエスさまは、十字架への道が近づいていることがわかっている。その中で、まだイエスさまのことがわかってない弟子たちへどうしても伝えておきたいことを言っているのです。最後の晩餐,洗足、聖霊を与える約束等に続くものです。告別の説教と言ってもいいものです。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後でわかるようになる」(13;7)と言っているように、伝えておけば後でわかるであろう。またこれは、この時の弟子たちと同じような状態の私たちへの伝言でもあるのです。自分がいなくなったあと、信仰を守り、成長し続けていくためには何が必要かを語ったものです。最後まで信仰を守り通すことへの警告を含む、激励、残された弟子たちへの励ましの言葉と言ってもいいでしょう。
  • ぶどうの木のたとえは、信仰生活の守り方を現しています。私たちにとっては、洗礼後に、成長していく信仰生活の在り方でもあります。洗礼後、3年たつと30%の人が教会を離れるという話は、よく耳にします。受洗時の喜びが、次第にさめて離れていくのです。信仰の守り方がわからない、或いは教会の中で人との交わりが上手く持てないなどが原因かもしれません。教会によっては、受洗後1~2年、メンターをきめて相談相手になっているところもあります。受洗後どのように信仰を成長させていくか、考えたいものです。ぶどうの木と枝の関係は、主と弟子たちの信仰の成長の在り方を示しています。1節で、イエスさまは、わたしはまことのぶどうの木だといい、父なる神は農夫だと言っています。2節で、「私につながっていながら実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とあります。実を結ばない枝は、父が取り除いてしまう。どうしてかというと、その枝は木にしっかり結びついていないからだと言っているのです。私につながっていて、実を結ぶものは、さらに豊かに実を結ぶように手入れなさるとあります。主は、私たちが多くの実を結ぶことを期待しているのです。そのために主は、ぶどうの木を消毒、肥料、剪定等、多くの手入れをしています。私たちの信仰生活も、より豊かな実を結ぶためには、礼拝に出席し、聖餐にあずかり、祈り、日々聖書の言葉に触れ、学び、深い交わりをし、信仰者として、人間として成長していくことが大切だと言っているのです。さらに、成長のために主は、訓練として私たちに試練、苦難を与えられることがあります。ローマ書5章に、「苦難をも誇りとします。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む。希望は私たちを欺くことがありません」とあります。誰を恨んだり、嘆いたりするのではなく、むしろ私たちが多くの実を結ぶために与えられたのだと受け止めたいものです。教育者として有名な森信三という方がおられました。かれは、人生の態度として「おおよそ我が身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として、慎んでお受けするということが、われわれにとっては、最善の人生態度と思うわけです。ですから、この根本の1点に心の腰の据わらない間は、人間も真に確立したとは言えないと思うわけです」と説き、多くの人に影響を与えております。私たち信仰者も同じように神様に信頼し委ねることによって信仰が確立していくものです。5節には「人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と、イエス様につながってさえおれば、必ず実を結ぶと約束しているのです。実を結ぶためには、木にしっかりつながっていればいいのです。私を離れたら、あなたがたは何一つすることができません。主との交わりをもちつづけなければいけません。そのためには、なにもしなくてもいいということではなく、日々聖書の言葉にしたしみ、デボーションし、他人のために祈ること、信仰の友と交わり励まし合い祈り合うこと等を通してイエスさまと交わり続けることです。

 実とは何かというと、ガラテヤ書の5章22節に、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」だとあります。さらにキリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。霊の導きに従って前進しましょう。イエスさまとしっかり結びつき、霊の導きに従っていけば必ず実を結ぶのだと信じ前進していきたいものです。

3、私たちの属するナザレン教団もこの個所と同じような考えを持っています。今月の10日はナザレン日でした。ナザレン教団は、J、ウエスレー(1703~1791)が、18世紀に英国で創立したメソジスト教会の流れをくむ「新生と聖化」の教えを大事にする教団です。全き聖化(きよめ)ということが強調されています。19世紀末、アメリカで生まれたホーリネス運動のなかでうまれたメソジスト教会から分離した教団です。ブリジー師を中心に、ロサンゼルスに第1ナザレン教会が結成されたのが初めです。日本のナザレン教団はこの流れです。現在ナザレン教団は、世界162か国、260万人の信徒がいます。国際総本部は、アメリカのミズリー州カンザスシテイにあります。保守的福音派が多いバイブルベルト地帯にあります。野球の大リーグのロイヤルズの本拠地でもあります。

  J、ウエスレーは、新生(受洗)の時に与えられた信仰は、持っていてもまだ弱く完全なものではない。神の恵みに信頼して「キリストにある幼児」から「キリストにあ

る成人」の状態へと成長していくものだと。キリスト者の生活は、修練によって形づくられる生活である。聖霊は内なる隠れた罪の種を指摘し、誘惑に対し鋭敏な霊的感性を備えてくれる。信仰者は内省を繰り返して、常に目を覚まして見張りつつ、祈りつつ、神の意思こそが唯一の行動基準とすべき。そのためには、礼拝で説教にふれ、聖餐にあずかり、祈り、学び、少人数の交わり、個人生活では黙想、霊性、自制的生活等することが大事であると言っています。ナザレン教団にはこういう伝統があるのです。

  • さて元に戻りますと7節に、イエスさまは「望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられるといいます。その条件は、「あなた方が私につながっており、わたしの言葉があなたの内にいつもあるなら」ということです。たえず聖書に接し、そのみ言葉があなたの内にあるならということです。み言葉とは聖書です。クラーク博士は「自分は一生を振り返ってみて何もほこるものはないが、ただ札幌において数か月の間、日本の青年たちに聖書を教えたことを思うと、少なからず満足と喜びを感じる」といっています。またドイツの文豪ゲーテは「私が獄につながれ、ただ1冊の本をもちこむことがゆるされるなら、私は聖書を選ぶ」とあります。

イエスさまは、世にある弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれたとあります(13:1)。父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。私の愛にとどまりなさい。あなたが私の掟を守るならば私の愛にとどまっていることになる。あなたがたが、わたしにつながっており、わたしの言葉があなた方の内にいつもあるならば、豊かな実を結ぶと言っています。イエスさまは、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と言っています。この方を信じてしっかりつながって歩みましょう。祈りましょう。

 

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日曜礼拝(21年10月17日)

2021-10-17 12:29:30 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第二十)  2021.10.17

日曜サスペンス」ヨハネによる福音書20:1~16

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月第3の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた所で、このようにライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。

 今日の説教題は、「日曜サスペンス」という題です。「火曜サスペンス劇場」チャ-、チャー、チャーという番組があります。1981年9月29日から2005年9月27日まで、日本テレビ系列で、夜9時から2時間番組で、24年間放送された番組です。

 「サスペンス」とは、ある物事に対して不安や緊張を感じるような状態が続く心理的恐怖のことを言うようです。また、サスペンスには、「宙ぶらりん状態」という意味もあるようです。観客の心理が宙ぶらりん状態になり、不安感が続く展開のジャンル名として定着したようです。ハラハラドキドキの展開で目が離せないという映画やテレビを見られたこともあるのではないでしょうか。

 サスペンスに対して「ミステリー」という言葉もあります。「ミステリー」は、「神秘や不思議なこと」という意味ですが、映画やドラマにおいては、謎解きや推理を楽しむものでしょう。相棒はそうですね。今日の箇所は、イエス様の復活の記事です。不思議な出来事、ドラマ的には、今日のマグダラのマリアの不安、緊張を感じる状態を見るとサスペンスと言えるのかも知れません。今日は、ヨハネによる福音書20章1節から16節を通して、「日曜サスペンス」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、見て信じたは、見ないで信じた

 今日の記事はイエス様の復活の場面です。イエス様の復活の記事は、四福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネに記されています。4つの福音書で墓に行った女性で、共通する人物は、マグダラのマリアだけであり、4つの福音書ともに、マグダラのマリアが最初に記されています。このことから、イエス様の復活の記事において、マグダラのマリアという人物が、大変重要であることを記しているように思います。ヨハネによる福音書は、マグダラのマリアに焦点を合わせて描いています。

 イエス様が十字架につけられて殺され、墓に葬られて3日目に不思議な事が起こりました。1節には、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」とあります。週の初めの日とは、日曜日の事です。安息日が土曜日の日没で終わり、週の初めの日となります。夜が明けて日曜日の朝、マグダラのマリアは、いても立ってもおられずに、愛するイエス様が納められている墓に急ぎました。彼女にとって、イエス様は大切な恩人であり、尊敬する師であり、仰ぐべき主であるお方です。かつて、自分が7つの霊によって苦しめられていた時、イエス様に癒していただき、苦しみから喜びの日に変えられて、イエス様に従ってきた女性でした。イエス様の弟子の一人です。そのお方が、死んで墓に葬られたので、墓に寄り添い、イエス様の死を思い、悲しみに浸る時を持ちたいと願ったのでしょう。私たちも愛する者の死は悲しいものです。愛する者の遺骨が納められている墓に行き、悲しみに浸るという事はあるのではないでしょうか。

 ところが1節の最後には、「墓から石が取りのけてあるのを見た。」とあります。マリアは、おそらく、墓の内部を見ることなしに、「墓から石が取りのけてある」という現状から、イエス様の遺体が盗まれた、と直感したのではないでしょうか。ですから、2節で、ペトロとヨハネの所へ行き、「「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」」と言ったのです。マリアにとっては、愛するイエス様の遺体がないという事は、とんでもないことです。非常事態発生です。3節、4節には、ペトロとヨハネは走り、ヨハネが先に突き「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。」とあります。ヨハネはペトロよりも若く足が速く先に着きました。けれども、慎重に行動し、墓の中には入らなかったのです。6節、7節には、「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。」とあります。ペトロは、後から墓に着きましたが、あまり考えないで行動する人なので、すぐに墓の中に入り、亜麻布が置いてあるのを見たのです。

7節の最後には、「離れた所に丸めてあった。」とあります。「丸める」とは、「丸くする。全体をまとめて一つにする」というような意味があります。私的には、服が丸めてあるというと、散らかしているというようなイメージです。新改訳聖書第三版には、「離れた所に巻かれたままになっている」とあります。しかし、ギリシャ語では、「折り目正しい」という意味だそうです。はぎ取られたというようなものではないということです。ですから、8節には、「それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」とあります。慎重なヨハネは、ペトロが墓の中に入っても、何の問題もないと確認して墓の中に入って来て、イエス様の体を包んでいた亜麻布が折り目正しく置いてあるのを見て、イエス様の復活を信じたのです。

 1節の「墓から石が取りのけてあるのを見た。」と6節の「亜麻布が置いてあるのを見た。」の「見た」は、ただ単に見る。注意深く見たのではなく、チラット見たにすぎない、の見たですが、8節の「見て」は、注意深く見る、調べるという意味で、見て理解する。今自分が見ているものがどのような意味があるのかを理解できた、というような見たなのです。

 ヨハネが見て信じたのは、イエス様の遺体がなく、亜麻布を見て信じました。ですから、見ないで信じたのです。イエス様がトマスに、「見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。」(ヨハネ20:29)と言われたように、ヨハネはイエス様の体を目で見ることなしに、つまり見ないで信じたのです。しかし、9節にあるように、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」なのです。ヨハネはイエス様の復活を信じたのに、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」ということです。信じていたけれども理解していなかった。理解するとは、イエス様が復活する事になっているという聖書の言葉が分かるという事です。これを理解する前に信じるという事はできるのです。理解できたから、初めて信じるということではないのです。

 

 二、どうもイエス様の遺体だけが気になる

 ペトロとヨハネは帰って行きましたが、マグダラのマリアは墓の外で泣いていました。イエス様が亡くなられたことに加えて、イエス様の遺体が盗まれた。なくなってしまったことに悲しんでいたのでしょう。念のために、墓をのぞくと、12節に、「イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。」とあります。マリアは天使を見ても驚きませんでした。普通、天使が現れると驚くでしょう。マリアには、天使も興味がなかった。今のマリアには、イエス様の遺体が全てでした。ですから、13節です。「天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」」とあります。マリアが見つめていたのは、墓であり、「取り去られました。どこに置かれているのか」というイエス様の遺体なのです。

 14節には、「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。墓から目を離して振り向くと復活されたイエス様が立っておられたのです。生きておられるイエス様を見たのに、イエス様だとはわからなかったのです。涙で見えなかったという解釈もあるようですが、悲しみや嘆きは、ものを見えなくしてしまうのです。また、マリアの求めていたものは、あくまでもイエス様の遺体なのです。死んでおられるイエス様なのです。15節には、「イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」」とあります。おもしろいです。マリアはイエス様を探している。その探しているイエス様が「だれを捜しているのか。」と問われている。そして、マリアが探しているイエス様が目の前にいるのにもかかわらず、彼女はイエス様を園丁だと思い、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」と、ここでも、マリアは目の前にいる復活されたイエ様ではなく、「運び去った」とか、「置いた」とか、死んだイエス様、遺体となっているイエス様、何か物扱いしているような、死んだイエス様、イエス様の遺体、自分が嘆き悲しむことのできる対象としてしか見ていないマリアには、復活され、生きているイエス様が目の前にいても見えませんでした。わからなかったのです。これが現実なのです。

 私たちにも辛い現実が確かにあります。コロナの事も、病気の事も、経済の事も、教育や人生、将来の事、様々な苦しみがあります。その人生に、信仰生活に、死んでしまわれたイエス様を、イエス様の遺体を探すかのように、生きておられるのにもかかわらず、復活されているのにもかかわらず、生きておられるイエス様が共におられるのにもかかわらず、十字架で死んだイエス様だけをみているような信仰、希望も将来もない信仰を見ているということはないでしょうか。イエス様は確かに死なれました。現実に死んだのです。しかし、よみがえられて今も生きておられるのです。私たち人間の最大の敵、最大の恐れである死に勝利されたのです。イエス様には、私たちの経験する現実の厳しさ、苦しさ、悲しみ、痛みを変えて下さるのです。勝利して下さるのです。

 

 三、振り向いてみれば

 マグダラのマリアは、死んだイエス様、イエス様の遺体を求めていました。そして、そこにイエス様の遺体があったとしても、マリアの悲しみは、嘆きは、イエス様が死んでしまわれたという事実に変わりはないのです。マリアの目の前に、イエス様の遺体があったとしても、救いを得ることはできないのです。かつてイエス様が存在し、救い主であったということを思い出すだけなのです。イエス様の遺体は、イエス様が死んでしまったという現実をマリアに突きつけるだけなのです。

 マリアはイエス様の遺体にこだわります。イエス様の遺体を通して、イエス様との思い出に生きていたかったのです。それは過去に生きる人生、後ろ向きの人生、絶望の人生でした。マリアにとっては、イエス様の遺体のない空っぽの墓は、空っぽの世界、空っぽの自分、死んでしまわれたイエス様を後生大事にしたいと願うマリアは、悲しみに満たされていたのです。しかし、イエス様は彼女の近くに、彼女の側におられたのです。

 14節と16節に、「振り向く」という言葉があります。マリアは、墓の中にいる天使を見ていて、墓の反対側を振り向くとイエス様がおられたのです。しかし、イエス様だとは気が付きませんでした。そして、イエス様と向かい合い、話していて、マリアと名前を呼ばれて振り向くと、イエス様から墓の方を向くことにならないでしょうか。おそらく、14節で、墓から振り返り、イエス様を見て、園丁だと思って話した後、やっぱりマリアは、墓が気になるのです。イエス様の遺体がないという事が気になり、墓の方を向いてしまうのでしょう。そのマリアに、背後からイエス様が「マリア」と呼ばれて、イエス様だと認識して、彼女は振り向いて「ラボニ」、先生と応答したのです。一度目の振りむきは、マリア自身からでした。しかし、2回目の振り向きは、イエス様が声をかけ、マリアと呼ばれたので振り向いたのです。振り向く人生というものがあるのです。

 俵万智さんという方がおられます。歌人です。「サラダ記念日」は、歌集としては異例の大ベストセラーになりました。彼女の歌に、「振り向かぬ子を見送れり 振り向いた時に

振る手を用意しながら」というものがあります。子どもを幼稚園へ送り出す母と子の一コマでしょう。幼稚園の門の前で、分かれて元気よく園舎に向かってかけていく時の別れ。不安な心で、自分の方を振り返って見たら、励ますために手を振る心づもりをしている。しかし、子どもは振り返らないで、一目散に振り返ることもなくかけていく。親離れとして成長として喜ぶべきだけれども、何となく寂しさが心によぎる母親の思いです。

 このような歌もあります。「一生を見届けられぬ寂しさに 振り向きながらゆく虹の橋

親は自分の子どもの一生、命の全てを見ることはできない。そうでなければ、子どもに先立たれるということで、深い悲しみがそこにはあります。この歌は、子どもの卒園式の時に作られたようです。親として子どもの人生をすべて見ることができず、その一部だけしか見ることができない。その一部分しか見守られないのは、実は幸いな事であるけれども、寂しさでもある。子育てとは、振り向きながらの生き方なのかも知れません。

 前向きに生きるということは大切な事です。そのように勧められます。俵万智さんは、人間の基本的な生きる姿勢というのは、「後ろ向きだ」と言いたいのではないかと思うのです。私たちの人生は、ある意味では絶えず振り返って生きていく。そこに、人間の一番の本質があるのではないかと、俵万智さんは語っているように感じられるのです。

 ボートを漕いだことがあるでしょうか。ボートは、後ろ向きで前に進むのです。マリアは、イエス様から名を呼ばれて、振り向いてイエス様を見たのです。ラボニと答えて。マリアは、ここから復活の事実を知り、新しい歩みが始まるのです。私たちの人生は、イエス様の十字架と復活を通して、新しい人生が始まるのです。イエス様の十字架の犠牲を通して、復活を通して、罪の赦しと魂の救い、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が与えられるのです。私たちは、この恵みをいただいて歩み出すのです。

 

 Ⅲ結論部

 マリアがイエス様に気づいたのは、マリアと名前を呼ばれた、というイエス様の働きかけによるものであり、彼女は、見るべきもの、見つめるべき方向に転換され、イエス様との新しい関係に招き入れられたのです。イエス様は、ヨハネによる福音書10章で、「善い羊飼いは、自分の羊の名を呼ぶ」「羊はその声を聞き分ける」(10:3)と言われました。また、「羊はその声を知っているので、ついて行く」(10:4)とも言われました。

 私たちの人生には、理不尽な事が起こります。辛い事や悲しい事を経験します。詩篇の作者が言うように、「なぜ、どうして、いつまで」と神様に問いかけるのです。しかし、神様は沈黙なさる。そして、「この沈黙はなぜですか」と問うのです。ヨブもそうでした。この神様の沈黙は、神様が私たちの近くにおられることを気付かせるための沈黙であると言えるのかも知れません。イエス様は、マリアに、「なぜ泣いているのか。」と問われました。それは、マリアに、もう泣く必要がないということを気付かせるための問いかけではなかったのでしょうか。

 復活する、というのは信じられない事柄でしょう。しかし、週の初めの日、日曜日に事実、復活は起こったのです。そして、私たちにも復活の恵みが与えられ、天国での再会が与えられているのです。まさに日曜サスペンスです。私たちは、この週も、信じられないような、ハラハラドキドキの展開で目が離せないという十字架と復活に目を留めて、神様が共におられることを信じて、この週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(21年10月10日)

2021-10-10 17:48:05 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十九)  2021.10.10

本当は教えたくない愛」ヨハネによる福音書13:1~17.31~35

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第2日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所で、このようにライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。

榎本保郎先生の新約聖書一日一章で、ヨハネによる福音書13章の箇所で、稲の品種が多くあるけれども、たくさん米のとれる品種がある地方にあり、その品種の名前は、「だまっとれ」という名前。人に言うとそれを作るから、「だまっとれ」という品種名になったということが記されています。独り占めしたいというのは私たちの思いです。

私たちが体験した、いただいた神様の愛は、自分にとっては素晴らしくて、最高で、誰にでも知らせたくないようなしろものです。そのよう素晴らしい愛を私たちは、イエス様を通していただいていることを今日確認したいのです。

 「本当は教えたくない」という言葉は、よく商売で使われる言葉です。本当は教えたくないのだけれども、このシャンプーは、このパソコンは、商品の名前があげられ、お得なので紹介しますということがよくあります。本当は教えたくないのだったら、教えなかったらいいだけです。穴場というような言葉があります。自分が買いたい商品が品質もよくて価格も安い。その店はだけは教えたくない。自分のものだけにしたいということでしょう。自分にとって、役に立つ、メリットがある、お得だということを独り占めしたい、という思いは誰にでもあることでしょう。

今日は、ヨハネによる福音書13章1節から17節と31節から35節を通して、「本当は教えたくない愛」と題してお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様の愛の極み

 今日は、最後の晩餐の箇所です。ルカによる福音書22章15節には、「イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」とあります。イエス様のこの食事における思いが語られています。自分の苦しみ、十字架を前にしての弟子たちとの最後の食事に対する思いです。自分の死を前にして、他人のために配慮できる人、余裕のある人は存在するでしょうか。13章1節には、「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」とあります。「この上なく愛し抜かれた。」とありますが、新改訳聖書には、「その愛を残るところなく示された。」とあり、口語訳聖書には、「彼らを最後まで愛し通された。」とあります。「愛しちゃったのよ」なのです。ところが、弟子たちの方は、最後の食事だとは知らないでいました。食事を楽しんでいたのです。ルカによる福音書22章24節には、「また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。」とあり、弟子たちは、この食事の席でさえ、「誰が一番偉いのか」という争いがあったのです。その中で、イエス様は突然、弟子たちの足を洗われるのです。イエス様の十字架を前にした最後の食事の席でさえも、弟子たちの間では、地位や肩書や権力の内容が論じられていました。イエス様が弟子たちに、3年と少しの間、教えられた事、訓練された事が無駄な事のように思われます。しかし、弟子たちが、聖霊を受けて、イエス様がかつて語られた言葉、イエス様の業の意味がわかるようになるのです。ですから、無駄ではなかったのです。

 2節には、「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。」とあります。ヨハネによる福音書6章70節~71節には、「すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。」とあります。5つのパンと2匹の魚で群衆を養われた後に言われた言葉でした。ユダがこのような人物でありながらも、イエス様はユダと共に生活し、彼にも教え指導されました。共に歩まれました。そして、十字架の直前まで最後の食事をも彼と共にされたのです。弟子であったユダの裏切りは、師であり、先生であるイエス様に対する最大の侮辱であり、最大の不誠実でありました。それに対して、イエス様は、ユダをこの上なく愛し抜かれた。最後まで愛し通されたのです。ユダの裏切りを知っておらたがゆえに、イエス様はより大きな愛を示された。イエス様は、傷つけられれば傷つけられるほど、ますます愛したのです。

 3節には、「イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、」とあります。イエス様は、権威と栄光を与えられるのです。その事を知りながらも、イエス様は御自分を低くして、異邦人の奴隷しかしないような卑しい事、弟子たちの足を洗うのです。地位のある人や、高い位にある人は、卑しい仕事はできないと考える人が多いでしょう。それは、自分のすることではないと。権力があればあるほど、位が高ければたかいほどそうなります。しかし、イエス様は、全てのものを委ねられたという最高の権威をお持ちになりながらも、仕えられたのです。救い主イエス様の地上での最後の働きは、弟子たちに仕えること、奴隷の仕事をされたのでした。最後まで愛し通されたのです。私たち、一人ひとりも、このような愛で愛されている。そのことを覚えて感謝したいのです。

 

 二、洗足の行為はイエす様の十字架を指し示す

 イエス様は、弟子たちの誰が偉いのかと議論する彼らの心、ユダがイエス様を裏切ろうとするその心を知りながらも、御自分が最高の権威を持つものであることを知りながらも、弟子たちの足を洗われるのです。一般的に、「足を洗う」とは、あまりよくない仕事をやめることだったり、悪い道から正しい道に行くような意味で、「足を洗う」と言います。元々の意味は、お坊さんが、世俗の世界を回って、お寺へ帰るその際に、自分の足を自分で洗い、清めてから修行に入るのです。ここでは、イエス様が洗って下さるのです。イエス様は、弟子たち12人一人ひとりの足を洗われ、手ぬぐいで拭かれたのです。ペトロの順番になった時、6節にあるように、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」言いました。イエス様は、7節で、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われたのにもかかわらず、8節でペトロは、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言ったのです。イエス様がペトロの足を洗うことを拒否したのでした。ペトロは、イエス様が弟子である自分の足を洗うということがどうしても理解できませんでした。納得いかなかったのです。6節をリビングバイブルは、「主よ。足を洗っていただくなど、もったいなくてとてもできません。」とあります。僕が、奴隷がペトロの足を洗うというのは、自然な事でしたが、イエス様が弟子のペトロの足を洗うという行為は、自然な行為から逸脱しているのです。普通じゃないのです。常識では考えられないのです。先生であるイエス様が弟子の足を洗うということには抵抗があったのです。「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とイエス様が言われたのですから、自分に納得がいかなくても従えばよかったのです。けれども、ペトロは、8節をリビングバイブルには、「いいえ。どうかもう、おやめください」とあります。ペトロがイエス様の行為を拒否すると、イエス様は言われました。8節後半です。「イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。」新改訳聖書では、「関係ないことになります。」とあります。するとペトロは、9節「主よ、足だけでなく、手も頭も。」と言いました。足を洗わないとイエス様との関係がなくなると言われて、足と手もと言いました。ペトロらしい表現です。するとイエス様は、10節で、「イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」」と言われたのです。

 イスラエルでは、食事に招待されたり、祝宴に出かける前には、水浴して招待された家に着いた時には、客として家に迎え入れられるためには、ただ足を洗うという儀礼(式)が必要だったようです。「既に体を洗った者は」とは、洗礼、バプテスマの事を指しており、キリスト教会に加入するためには、洗礼を受けるということが示されているのではないかと言われています。洗礼を受けるという事が救いではありません。イエス様の十字架と復活を信じて救われた者が、しるしとして洗礼を受けるのです。

 イエス様は弟子の足を洗ってしまうと、師であり、先生であるイエス様が弟子たちの足を洗ったのであるから、弟子のあなたがたは互いに足を洗い合う、つまり、仕え合いなさいと言われました。互いに足を洗うとは、一方通行ではありません。自分が人の足を洗うだけではなく、自分も誰かに足を洗ってもらうのです。人に仕えるけれども、人から仕えてもらうのです。人を赦すけれども、自分も人から赦してもらうのです。自分は人を愛するけれども、人からも愛してもらうのです。イエス様は模範をしましたと言われました。

私たちの見習うべき見本なのです。

 

 

 三、互いに愛し合う関係となる

 31節、32節には、裏切り者のユダが出て行くとイエス様は、「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」と言われました。栄光とは、イエス様の十字架を指しているようです。

 33節には、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」とあります。イエス様は、逮捕されるまでの間は一緒におられます。しかし、逮捕された後、十字架の道に至るまでは、弟子たちはついて来ることはできないのです。

 34節には、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 「互いに愛し合いなさい。」というのは、今までにも聞いた言葉でしょう。新しい掟というものではないように思われます。しかし、「互いに愛し合いなさい。」という教えは、私たちがいつも覚えなければならない言葉です。いつも聞かなければならない言葉でしょう。いつも実践しなければならない言葉なのです。昔も今も、これからも絶対的に必要なことなのです。

 「互いに愛し合いなさい。」というのは、自然にできるものではありません。いつも語られ、聞かれ、教えられ、実践しなければならないことです。「互いに愛し合いなさい。」とは、歴史的にもずっと語られ、教えられてきたものです。けれども、それはなかなか実践できた、と言えるものではないのが現実でしょう。イエス様は、「あなたがたに新しい掟を与える。」と言われました。どこに新しさがあるのでしょうか。それは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ということにおいてです。

 イエス様は、そのように言われましたが、私たちは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と、胸を張って言えるでしょうか。夫は妻に、妻は夫に、先生は生徒に、社長は社員に、牧師は信徒の方々に言えるでしょうか。私たちにとっては、「わたしがあなたがたを愛したように」というのには、その愛し方において、愛の質において、愛の熱心さにおいては限界があるのです。イエス様の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」という言葉は、その事、愛せない私たちに向けられている言葉だと思うのです。「互いに愛し合う」という愛は、どこから来るのでしょうか。どこから始まっていくのでしょうか。自分や人の愛ではありません。それはイエス様の愛から来るのです。そして、イエス様の愛から始まるのです。イエス様の愛、十字架の愛が、全ての愛の始まりとなるのです。

 35節では、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とイエス様は言われたのです。イエス様の愛から始まった愛によって、お互いに愛し合うという共同体が教会なのです。イエス様の愛が源泉であり、基であり、それが実行される場所、イエス様に愛されたように愛が具体的に実践されている場所が教会なのです。私たちの青葉台教会なのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様の洗足は、イエス様の十字架を意味するものでした。イエス様はペトロに対して、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」と言われました。そのように、イエス様の十字架を通して、十字架で流された尊い血、裂かれた肉体をゆえに、罪の赦しを与えること、清めることがわかりました。イエス様は、洗足の行為を通して、私たちの罪を赦すだけではなくて、私たちの正しさや強さで、自分を装うことから、私たちを解放して下さるのです。そのままの私たちでいいのです。

 神様の愛の極みが、イエス様の洗足であり、洗足は十字架を指し示しているのです。また、この洗足は、イエス様が奴隷のように、ご自身を低くされたという所に、洗足と十字架のつながりがあるように思うのです。イエス様は、真実の愛というものを十字架につけられる前の日に、弟子たちの足を洗うことによって、あらかじめ示されたのです。

 私たちは、自分の事だけを考えていたのでは、他の人に仕えるということはできないでしょう。謙遜とは、自分を低くするというよりも自分の事を忘れること、自分がなくなるということだと思います。イエス様は、この後、捕まえられ、十字架につけられ、殺されるというのにもかかわらず、自分の事は忘れて、人に仕えるために、神であるのに、人となって人間の世界に来られ、十字架で身代わりに死んで下さったのです。死んで葬られて終わったのではなくて、三日目によみがえられ、死に勝利されたのです。イエス様の十字架と復活を信じる者に、罪の赦しを魂の救い、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さるのです。

 イエス様は裏切り者のユダの足を洗われました。彼の前にひざまずき丁寧に彼の足を、愛を持って洗われたのです。イエス様はユダを責めることもできたでしょう。正当な理由もあるのですから。しかし、イエス様は、過ちを犯した人を責めるよりも、とがめるよりも、むしろ、愛しなさい。赦しなさいということを、洗足を通して示されたのだと思うのです。憎しみを感じる人に、憎しみを増し加えるよりも、むしろ、赦しを持って、愛をもって接するのだというのです。人間の心の汚れは、責められることによっても、正されることによっても取り除かれるのではなくて、赦されることによって、愛されることによってのみ取り除かれることを洗足つまり、十字架で示しておられるように思うのです。

 私たちはイエス様に愛された経験を通して、人を愛したいと思います。イエス様によって赦された経験を通して、人を許したいと思うのです。また、人に仕えることだけではなく、人から仕えられることも受け入れ、愛するだけではなく愛されること、赦すことだけではなく、人から許されることも受け入れたいと思うのです。

 私たちは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と言われたみ言葉を大切にして、愛し愛され、赦し許され、与え、与えられることを喜んで実行したいのです。私たちは、このような大きな愛で愛されています。こんなすごい愛を私たちは独り占めしたいのです。本当なら教えたくない愛なのです。しかし、この愛は全ての人に示されているものです。私たちの経験した素晴らしい愛、本当は教えたくない愛ですが、家族に、友人、知人に、イエス様に愛されたように、愛を紹介したいのです。

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日曜礼拝(21年10月3日)

2021-10-03 12:54:50 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十八)  2021.10.3

あまりにも遅いと思っているあなたに 」出エジプト3:1~12 

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。10月の第1日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所で、このようにライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。

 9月を終え、2021年はあと三か月となり、2021年度としては、後半の6ヶ月となりました。コロナの厳しい状況は変わりませんが良き兆しが見えて来たことを思います。

 緊急事態宣言が9月30日をもって解除されました。青葉台教会は、今日から礼拝、水曜日の朝と夜の祈祷会、木曜日や日曜日の聖書の学び、教会学校が再開されます。今日は世界聖餐日でもあり、久しぶりの聖餐式が行われますことを本当にうれしく思います。

 コロナの新規感染者が減り続け、入院患者の方々が回復し、特に重篤な方々が回復して、少しずつ以前の生活に戻っていくことができるように、祈りつつ、感染対策をしっかりしつつ、礼拝での深い交わりが可能になればと願います。

 9月30日の木曜日に、鈴木敏子姉のご主人、市原典子姉のお父様が天に召されました。

91年という尊い生涯を送られました。5日に葬儀が行われます。葬儀の上に主の守りがありますように、ご家族の上に主の豊かな慰めと励ましがありますようにお祈り下さい。

私たちは、新型コロナウィルス感染症に関して、すぐに新規感染者が減り、医療体制も整い、入院患者が早く退院し、すぐに元の生活に戻れることを願ってきました。しかし、神様のお考えは、お心は違う所にあります。新規感染者も少しずつですが、確実に減り、

今ではかなりの新規感染者が減少している状況にあります。私たちの思いや願いと神様のなされることには大きな違いがあります。ですから、私たちは、神様がなされること、神様の業があまりにも遅いと思う時があるように思います。

 今日は、出エジプト記3章1節から12節を通して、モーセの召命を通して、「あまりにも遅いと思っているあなたに」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様は不思議さや私たちの興味を用いられる

 モーセという人物は、旧約聖書においては偉大な指導者です。モーセは律法の代表者とも言えます。神様は、400年間エジプトでもがき苦しむイスラエルの民を救うために、解放するためにモーセを選んでおられました。その誕生においても、エジプトでの奴隷状態、イスラエル人が多くなって、エジプト王ファラオはイスラエルの女性が男の子を生むとナイル川に投げ込んで殺すように命令しました。モーセの両親はモーセが生まれて、そのかわいらしさゆえに、生かし育てましたが、三ヶ月してもう隠し切れないと判断し、パピルスで作ったかごに入れてナイル川に流します。それをファラオの王女が拾い上げ、この拾い上げ、引き出したというのがモーセの名前の由来です。王女はモーセを自分の子どもとして育てるために、モーセの姉のミリアムの助けで、実の母を乳母とし育てさせ、モーセは実の母からイスラエルの神を伝え聞いたのだと思います。その後、モーセは王子として宮殿で育ち、帝王学を学んだでしょう。 

ある時、自分の同胞のイスラエル人がエジプト人に苦しめられているのを見て、そのエジプト人を殺し、誰にもわからないように砂に埋めます。翌日、イスラエル人同士で争っている所に、仲裁に入ると、昨日のエジプト人殺しを知られていることを知り、エジプトから犯罪者として、逃亡者として逃げるのです。そして、ミディアンの地へ行き、ミディアンの祭司エトロの娘ツィポラと結婚し、家庭を持ち、子どもも与えられ、エジプトでの出来事が嘘のように、おだやかに、ゆっくりと過ごしていたのです。エトロは、アブラハムが再婚した相手、ケトラの子孫なのです。

モーセは、自分の生涯はこのミディアンの地で終わるであろうと考えていたでしょう。いつものように羊の群れを導いていた時に、神の山ホレブに着きました。別名シナイ山です。イスラエル旅行でエジプトに行けば必ず登る山です。そこで、2節には、「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」とあります。口語訳聖書には、「しばは火に燃えているのに、そのしばはなくならなかった。」とあります。不思議な光景に出くわしたのです。

クリスマスでは、占星術の学者たちは、異常に輝く星に興味を持ちました。そして、救い主の誕生の意味を知ったのです。羊飼いたちは、天使が現れて不思議に思い、天使の救い主誕生の言葉と大軍勢の賛美に驚きました。占星術の学者たちに天使が現れても、羊飼いたちに異常な星を見せても、別に興味はわかないのです。神様は全ての事をご存知であり、私たちを導くために、私たちの好みや興味をも用いられるお方なのだと思うのです。

なくなってしまうものが無くならないという事は不思議です。モーセは興味を持ちました。「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。」ということをエジプトで苦しんでいるイスラエルの民がその圧迫の中にあっても、滅びてしまわないことを表していると考えることもできるようです。また、モーセはかつて一生懸命でした。「燃え尽き症候群」でした。燃え尽きてしまった自分ですが、燃え尽きない炎に、不思議に心惹かれたのでした。

これが、神様とモーセとの初めての出会いです。モーセは神様に出会おうと思って来たわけではない。挫折を経験し、暗い過去を忘れるかのようにミディアンでの生活に満足していた。しかし、過去の苦しみを抱えて生きていたモーセに神様は語られたのです。

神様に出会いたいと願う者に、神様は出会って下さるでしょう。しかし、苦しみを抱えながら、自分のためだけに、家族のためだけに生きているという日々の生活を送る者に、突然神様は現れるという事があるのです。私たちにも、最初に神様との出会いというものがあったでしょう。神様のタイミングです。それが、ある人には今日かも知れません。

私たちの教会も、クリスチャンも、様々な苦しみや悲しみ、痛み、迫害を経験しますが、「炎の中に主の御使いが現れた。」とあるように、滅びることなく、そのような困難の中で成長し続けることができるのです。「主の御使い」とは、受肉前のキリストと考えられ、神様の臨在を表しているようです。私たちも、理不尽な苦しみや悲しみを経験します。しかし、問題の只中にイエス様はおられ、私たちを守り支え、導いて下さるのです。そのことを信じて歩みたいのです。

 

 二、私たちを見て、聞いて、知って下さる神様

 3節には、「モーセは言った。道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」」「道をそれて」という言葉を新改訳聖書では、「近寄って、あちらへ行って」と訳しています。神様は近づいてくるモーセを呼ばれました。「モーセよ、モーセよ」と。モーセがはいと答えると、5節です。「神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だか ら。」」 モーセの立つ土地は、「聖なる土地」と言われたのです。「聖なる」とは、本来の意味は、「分離されている」「神のものとして分かたれた」「神に属する」という意味です。神様は、この世と全く分離しておられ、決して交わることのないお方、それが、「聖なる」ということです。神の山ホレブは聖なる土地とありますが、もともとこの場所が聖なる土地というのではなくて、ここで神様がモーセに出会われた、語り掛けられたので聖なる土地とされたように思うのです。

 私たちが日常の生活の中で、神様に出会い、語り掛けられるならば、そこが「聖なる土地」となるのではないでしょうか。私たちが礼拝をささげているこの場所が、ディボーションする場所が聖なる場所となるように思うのです。

 神様はモーセに、「足から履物を脱ぎなさい。」と言われました。履物を脱ぐというのは、日本人の私たちに取っては通常の事です。家の中を汚さない、衛生上の意味もありますが、その家の人を敬う行為、ヘリくだりの行為を表すもののようです。「足から履物を脱ぎなさい。」とは、この世の汚れから離れ、神様に全く献身すること、これまでのモーセの歩んできた過去の経験や立場を脱ぎ捨てることをも表しているようです。また、履物は自由人のしるしでもありました。奴隷は履物を履いていませんでした。神様はモーセに、神様の奴隷、従う者として歩むことを示されたようにも思うのです。あのパウロは、自分自身をイエス・キリスト様の奴隷だと宣言しています。私たちは、今神様の語り掛けの前に、「足から履物を脱ぎなさい。」と言われる神様の言葉に従って、この1週間様々な事があった。良い事も悪い事も、辛いことも苦しい事も、いやなこともあった。けれども、今私たちは神様の語り掛けに答えて、後ろのものを忘れ、前に向かって、これからの1週間や未来のために、神様の言葉をしっかりと受けとめ、神様に心を明け渡す時としたいのです。

 6節には、「神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」」とあります。神様が、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」とモーセに語られたのは、あなたは私の民であるとモーセがイスラエルの一員であることを自覚させるためであり、父の神というだけではなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」というイスラエルの最初の先祖の3名の名前を上げ、神様が彼らと結ばれた契約を見つめさせるためでした。その契約とは、神様が彼らとその子孫であるイスラエルの民の神となり、イスラエルの民は神様の民となるということです。神様がイスラエルとの間に、特別の関係を結んで下さるという契約であり、今モーセに語りかけておられるお方は、契約の神様なのです。神様は、モーセをご自身の契約、約束の実現のために彼を用いようとしておられるのです。

 7節では、「「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とあり、8節では、神様が行って乳と蜜の流れる地に導くことに、9節には、「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。」とイスラエルの民の叫び声が神様の元に届いたことを語られました。神様は400年にわたるイスラエルの苦しみを見て、叫び声を聞き、その痛みを知ったとあるように、私たちが現実の信仰生活の中での苦しみを見て下さり、叫びを、祈りを聞いて下さり、私たちが体験する苦しみや悲しみ、痛み、絶望を知っていて下さり、私たちを助けようと、守ろうと助け手を用意しておられるのです。そのことを信じて神様を信じて歩みたいのです。

 

 三、私は何者でしょうという私と共におられる神様

 10節には、「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」」とあります。モーセは答えます。11節です。「モーセは神に言った。わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか。」」ダビデも「わたしなど何者でしょう。」(サムエル記上18:18)と自分自身について語っています。

 モーセは、「わたしは何者でしょう。」と言いました。本質的には、40年前の彼と同じ、「私」という問題がある。神様よりも自分を頼り、自分を信じていた。今も、自分の境遇に捕らわれていました。自分は、果たしてエジプト人なのか、イスラエル人なのか、ミディアン人なのか、王子なのか、奴隷なのか、羊飼いなのか。モーセは今、自分の存在意義(アイデンティティー)を失った存在だったのです。かつての経験、エジプトでイスラエル人がエジプト人に苦しめられているのを見て、イスラエル人を助けた。イスラエル人を助けるためにエジプト人を殺してしまった。それなのに、イスラエル人からは受け入れてもらえなかった。そのような経験から、イスラエルの民を救出するために、行け、と言われても、自分はイスラエル人を救出するのにはふさわしくないと思っているのです。かつて、若い時は、イスラエル人を救うために、情熱をもって命懸けで頑張った。しかし、それは完全に挫折しました。モーセはそう思っていましたが、神様は違いました。イスラエルの人たちを救うための計画は着々と進められていたのです。この40年間の羊飼いとしての経験は、やがてイスラエルのためであったのです。

40年前と違って、今では肩書も地位もないのです。若さも勢いも情熱もないのです。ただ、年を重ねただけの存在でした。年を重ねるというのは、罪を重ねるという事です。ヨハネによる福音書8章には、姦淫の現場で捕らえられた女性を前に、どうするのかと問われたイエス様は、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」(ヨハネ8:7)と言われた時、聖書は、「これを聞いた者は、年長者から始まって、」一人また一人と、立ち去ってしまい、」(ヨハネ8:9)とあります。年を重ねるという事は、罪を犯す経験も多いということです。年老いたモーセには、イスラエルに対する希望も将来も見いだせない。自分自身にも何も見いだせないでいたのです。それが、「わたしは何者でしょう。」という言葉で表現されているのだと思うのです。リビングバイブルには、「「そんな大それた仕事など、とても私にはできません。」モーセは思わず叫びました。」とあります。

 イエス様は、十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と叫ばれました。「自分が何をしているのか知らないのです。」つまり、「わたしは何者でしょう。」ということです。パウロは、ローマの信徒への手紙7章で、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ7:15-17) 「わたしは何者でしょう。」とは、神様を信頼しない、罪ある人間の姿を指しているように思います。

 12節です。「神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」」 士師記に出て来るギデオンも、ミディアン人を恐れて酒ぶねの中で小麦を打っていた時、神様は、「勇者よ、主はあなたと共におられます。」と彼を励ましました。モーセに対する神様の約束は、「わたしは必ずあなたと共にいる。」ということでした。彼自身、今の自分を顧みる時、神様に用いられるためには、もう時間的にも、体力的にも、信仰的にも遅すぎると感じたでしょう。けれども、神様は、ご自身が人を用いられるためには、何ができるのか、できないのか、体力がどうか、地位や肩書があるのかないのか、若いのか年老いているのかという年齢は問題がないのです。モーセに、ギデオンに語られたように、神様が「わたしは必ずあなたと共にいる。」ということを信じるかどうかなのです。

 ミディアンの荒野における40年間の生活は、モーセのプライドが砕かれ、自分にできることは何もないという事を知るための大切な時間でした。意味ある時間でした。神様が共におられるならば、自分にはイスラエルの人々を救う資格があるかどうかは関係ないのです。モーセ自身、年老いて、ミディアンの落ち着いた生活に慣れ、家族を持ち安心した生活の延長を望んでいる今ですか。遅すぎます。モーセの考えはそうでした。しかし、神様のご計画は、モーセの生まれる前から備えられ、誕生、その後の王宮での生活、挫折、逃亡、全て神様のご計画の中でモーセは歩んできたのです。私たちの人生にも、あまりにも遅すぎる。タイムアウト。そのように思われることがあるでしょう。しかし、神様の時は、私たちの状況や境遇、年齢にかかわらず、働かれるのです。今日、今、主はあなたを神様の働きのために必要とされているのです。その神様の声に今日応答しませんか。

 

 Ⅲ結論部

 神様はエジプトで苦しんでいるイスラエルを救うためにモーセをエジプトに遣わされたように、全人類、私たちを救うためにイエス様を人間の世界に送られ、私たちの罪の身代わりに十字架にかけ、尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで葬られ、三日目によみがえり、死に打ち勝たれました。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの罪を赦し、死んでいた魂を救い、死んでも生きる命、復活の命を与えて下さったのです。全ての人はイエス様の十字架と復活のゆえに、神様の側では救いは完成されているのです。全ての人は救われているのです。その事を知っていただきたい、信じていただきたいのです。

 神様のご計画は、私たちが遅いと思っていても遅すぎることはないのです。私たちは神様が、私たちの生活の全てにおいてご計画を持っておられることを信じて、この週も神様を信頼して歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(21年9月26日)

2021-09-27 18:51:44 | Weblog

使徒7:54~8:1    希望は赦しから      9月26日

  • 今日は、ステファノの最後の祈りから学びたいと思います。使徒6:1~2に、ギリシャ語を話すユダヤ人が、仲間のやもめたちが日々の分配のことで軽んじられていると、ヘブライ語を話すユダヤ人に苦情をいった。このため日々の分配のことを、ギリシャ語を話す人の中から7人選んでゆだねたとあります。選ばれた7人のうちの一人がステファノです。その7人は、「霊と知恵に満ちた評判の良い人」であったと言われています。その中でも、ステファノは、「信仰と聖霊に満ちている人」(6:5)で「恵みと力に満ち、すばらしい不思議な業としるしを民衆の間で行っていた」(6:8)とされています。さらに訴えられた最高法院の席では「その顔は天使の顔のようにみえた」(6:15)とあります。神への信仰、人間性においてもすぐれた人であったようです。さらに7章では、新約聖書の中では一番長い説教を最高法院でしています。ペテロやパウロの説教と比べうるような素晴らしいものです。使徒でもない人の説教があるのはここだけです。
  • さて、ステファノは、「モーセ(律法)と神を冒涜することばをはいた」「聖なる場所と律法をけなした」といわれて、最高法院に訴えられたのです。訴えた人は、キレネとアレキサンドリア出身者、キリキア州とアジア州出身のユダヤ人です。ギリシャ語を話した人々でしょう。彼らは、ステファノと議論しても歯が立たなかった。それでエルサレムのユダヤ人たちを、そそのかして訴えたのです。ギリシャ語を話すユダヤ人の間でも争いがあったのでしょう。大祭司が訴えの通りかとステファノに尋ねたことに対する応答が説教です。アブラハムからイエスさままでの、ユダヤ人の罪を明らかにしたものです。54節に人々はこの説教をきいて激しく怒り、歯ぎしりしたとあります。そして罪状の宣告がないままに石打にされるのです。刑というより暴徒化した群衆のリンチともいえるものです。
  • ステファノは、抵抗することなく、聖霊に満たされ、天をみつめながら3つの言葉を言っています。イエスさまが、十字架上で7つの言葉をいっているのに近いです。ステファノは、まず56節で「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言っています。これを聞いて多くの人が、一斉におそいかかり都の外にひきずりだして石を投げはじめたとあります。いつもは神の右に座しているイエスさまが、立ってステファノを見ているのです。イエスさまは、多くの人の前で立派に信仰の証をし、戦い抜いたステファノを見つつ、苦しみを共にしているのです。私があなたに与えた役割を十分はたしたと、じっとステファノ見つめて、こころから迎えているのです。主を待ち望む信仰を持つ人には、イエスさまは同じように迎えるのです。その立っておられるイエスさまを見ながら、ステファノは、「主イエスよ、私の霊をお受け下さい」と願っています。わたしたちは、だれもがいずれ死を経験しますが、ステファノのようにイエスさまの姿を見つつ迎えたいものですね。

 それから、ステファノは、ひざまずいて大声で叫び「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈ります。石がなげつけられ、血が体から出ているなかでの、赦しの執り成しの祈りです。この祈りを聞いた人々、特にキリスト者は、イエスさまが、十字架上で祈った「父よ、彼らをお赦し下さい。自分がなにをしているのか知らないのです」(ルカ23:34)を思い起こしたのではないか。そして、石打ちをしている人々を赦すという執り成しの祈りに希望の福音を覚えたのだとおもいます。

4,「1日1話読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」というベストセラーの本を読んでいたら、こんな話が載っていました。高校教師だった塩見さんという、クリスチャンではないご夫妻のはなしです。次男が小学3年生の時、夏のプールの時間に沈んでなくなってしまったそうです。その日奥さんが務めていた高校に、早く来てくださいという連絡が入り急いでタクシーでかけつけたら、もう子供はなくなっていたそうです。原因をきいたら、プールの時間の休憩のとき、子供たちの誰かがふざけて自分の子の背中を押し、それで転んでコンクリトに頭を打ちプールに落ち沈んでしまったということでした。怒りがこみ上げて、押したのは誰だ、絶対に犯人を見つけて、学校も犯人も赦さんぞと思っていました。新聞社,TV局がきて大騒ぎになっていました。そこに主人が泣きながら駆けつけてきました。そして私を、裏の倉庫に連れていき、こう話したのです。「これは辛くて悲しいことや。だけど、見方を変えてみろ。犯人を見つけたら、その子や両親はこれから、過ちとはいえ自分の子は友達を殺してしまった、という罪を背負って生きてかないねん。わしらは死んだ子をいつかは忘れることがあるけん、わしら二人は我慢しようや。うちの子は心臓まひで死んだことにして校医の先生に診断書かいてもらおう。学校も友達も赦してやろうやないか。」私は、びっくりして、この人は何を言うてんやろかと。だけど何度も主人は強くいうものだから仕方がないとおもいました。こんなとき男性は強いと思いましたね。でも、今考えたらお父さんの言う通りでした。許してあげてよかったと思うのは、命日の7月2日に墓前に花がない年が1年もないのです。30年も前の話なのに、毎年友達が花を手向けてタワシで墓を磨いてくれているのです。もしあの時訴えていたらこんな優しい人を育てることができなかったと、こころから思うのです。

 

  • さて、話を戻します。ステファノの殉教という悲惨な出来事は何をもたらしたのでしょう。8:1節に、その日エルサレムの教会に対し大迫害が起こったとあります。その日とは、ステファノが殺害された日です。そのため、使徒以外の弟子たちはみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散っていったとあり、散らされた人々はみ言葉の福音を伝えながら巡り歩いたとあります。復活後のイエスさまが、「あなた方の内に聖霊が下ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤ、サマリヤの全土で、また地の果てに至るまで私の証人となる」と弟子たちに言ったことが実現し始めたのです。散っていった一人がフィリポです。ステファノと一緒に7人の一人に選ばれた人です。散っていってもギリシャ語をはなせたので、言葉に困らなかったのです。大迫害はギリシャ語を話すユダヤ人たちにたいして起こったのだと思います。しかしこの人々は、聖霊の導きで希望の福音の種を蒔きながら、多くの地を巡り歩いたのです。これがあったので、のちパウロの伝道が進んだのだとおもいます。パウロは水を注いで育てたのです。

  58節に石を投げた人々の上着をサウロの足元に置いた。8:1では、わざわざサウロはステファノを殺すことに賛成していたとあります。パウロはこの一部始終を見、聞いていたのです。この最後の執り成しの祈りには、何か忘れることができない出来事として心に残ったのではないかとおもいます。使徒言行録の著者であるルカはステファノを知りません。わざわざこの個所に入れなくてもいいことが入っているのは、パウロがルカに話したのではないかと想像します。主は、ステファノの殉教を通じて、多くのギリシャ語を話すユダヤ人たちに福音の種を蒔かせ、大伝道者パウロの誕生へと導かれ、世界伝道へと導かれたのです。主は困難なこと、殉教という悲しいことをも用いて、必ずいいものへと変えられるのです。わたしたちも、どんな困難があるときでも、主に信頼し、必ず希望があると信じて歩みたいものです。

 祈りましょう。

 

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日曜礼拝(21年9月19日)

2021-09-19 12:28:11 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十六)  2021.9.19

おいぼれだからこそ」 コリントの信徒への手紙第二12:1-10

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。9月の第3日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所で、このようにライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。 

 昨日からシルバーウイークの連休です。明日は敬老の日です。年を重ねた方々の健康が守られ、信仰が強められ、霊性がさらに高められ、神様の豊かな恵みと祝福がありますことを心からお祈り致します。シルバー川柳を紹介します。2020年度と2021年度のものです。「ばあさんの手づくりマスク息できず」「円満の秘訣はソーシャルディスタンス

なぜ吠えるマスク姿の飼い主に」「我が家では濃厚接触とんとなし」「耳鳴りもピーシーアールと音がする」「武勇伝俺の話は無観客」「薄味にしたらコロナとわめく祖父

食卓に俺の席だけアクリル版」「午後八時酒提供を止める妻」「お見舞いにぞろぞろ来たらそろそろか」「BTSテレビ局だと思ってた」 やはりコロナ関連が多いですね。

 京都のノートルダム女子大学の村田先生は、人間存在の3つの柱の概念として老年期の問題を指摘しています。第一は、時間の存在の喪失。将来の希望があるから現在を生きることができる。年を重ねると時間的存在(将来)が少なくなり、やり直しが難しくなる。第二は、関係存在の喪失。人は、他人から評価されることによって、自己の存在を体感できる。老齢になると、それは減退し、消滅する。第三は、自立存在の喪失。肉体の衰えは、自己決定の衰えを意味する。年を取るという事は、身体が不自由になって自分で出来なくなることであり、担っていた役割を果たせなくなることでもある。これらのことからは、年を重ねると暗いイメージがありますが、神様のお考えは違うのです。聖書は語ります。聖書は、「白髪は輝く冠」とありますが、長寿が神様の栄光を現わす冠、神様の祝福の表れだと示します。 

今日は、コリントの信徒への手紙第二12章1節から10節を通して、「老いぼれだからこそ」という題でお話し致します

 

 Ⅱ本論部

 一、素晴らしい霊的経験の結果

 パウロは、コリント教会の偽使徒たちが自分たちを誇り、パウロを使徒として認めないことに対して、コリントの信徒への手紙第二11章21節から30節で、「わたしもあえて誇ろう」と、自分自身が投獄されたり、鞭打たれたり、いろいろな苦難や苦労に遭ったことを語りますが、最後には、「誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。」(30)と、今日の12章に続きます。

 1節で、「わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。」と語ります。これは14年も前の事でした。パウロは、自分の中で2人の人間を区別します。霊の人と肉の人と言えるでしょうか。パウロは、恵みと掲示を受けた者、霊の人のことを誇ろうと願い、誇ることができるのですが、パウロ自身は地上的な人、肉の人として、弱さ以外には誇ろうとしないのです。パウロは、特別な体験、第三の天にまで引き上げられたのです。人間の行き得る最も高いところまで引き上げられたのです。この経験は、人間には許されない神様のみがなされる神秘の出来事として、神様に委ねます。人には理解できないことなので、あまり語りません。パウロは異言についてあまり語っていません。教会には益にはならないことだからです。パウロのこの特別な体験も、それを語っても教会には益にはならないと考えています。パウロは、「誇る者は主を誇れ」(Ⅱコリント10:17)と言ったように、パウロは自分の誇りとなるようなことは語りません。パウロの特別な体験は、事実ですから誇っても愚か者にはならないことを知っているのです。パウロ自身は、驚くような体験のゆえに、自分自身を人間的に過大評価したり、それを誇りとして自ら思いあがらせてしまう危険性を察知していたのです。7節で、「あの掲示された事があまりにもすばらしいからです。」と霊的体験を語ります。そして、「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」と語るのです。

 霊的神秘体験の結果、パウロは、素晴らしい経験のゆえに、ヒーローになったのか。ものすごい大きな祝福を得たのか、というとそうではなく、苦しみが増し、体力的にも弱さを感じ、そのとげを取り除いてほしいと願わずにはおれないような状態に陥ったのでした。素晴らしい体験が、大きな祝福につながることもありますが、パウロのように、苦しみや痛み、弱さにつながることもあるのです。私たちは、このパウロの経験から、聖書の言葉から大切な事を教えられるのです。そのことを見ていきたいと思うのです。

 

 二、とげのある私たち

 8節には、「この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。」とあります。この使いとは、7節の、「それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。」とあるように、サタンから送られた使いでした。「痛めつける」とか、新改訳や口語訳聖書では「打つ」という言葉は、イエス様がローマ兵に鞭打たれた時の「打つ」と同じ言葉のようです。

 「わたしは三度主に願いました。」の「三度」は、3回というよりも、「絶え間なく、連続的に繰り返し」と「決定的な神様のみこころ」という意味があるようです。パウロがサタンから送られた使いと言った「とげ」とは何かという事は記されていません。ガラテヤの信徒への手紙4章13節、14節には「 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。」とあり、6章17節には、「これからは、だれもわたしを煩わさないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」

とあります。ですから、「とげ」は、パウロの受けた試練や迫害ともとれますし、病気のことだと言えます。彼は、内臓が悪かったとか、頭痛持ち、慢性的なマラリア熱、てんかんであったとか、目が悪かったと言われています。また、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(Ⅱコリント10:10)とあるように、身体的外見に何らかの欠陥があったので見栄えが悪かったとも考えられます。パウロに与えられたとげは、パウロを神様から離そうとする。また、パウロに神様を忘れさせようとする、あるいは、神様に信頼させないようにするサタンの使いでした。パウロは、自分が経験した苦しみや悲しみ、痛みの原因を決して神様に置くということはありませんでした。ですから、パウロは神様に不満を言うのではなく、つぶやくのではなく、否定するのでもなく、その原因を、サタンから送られたサタンの使いだと言っています。ヨブの苦難もそうでした。私たちにも何らかのとげというものがあるでしょう。私たちは、そのとげを自分で抜こうとするのかも知れません。とげがあるということを自分のせいにしたり、他人のせいにしたり、最終的には、神様のせいにしようとします。私たちは、とげがあること、とげある人間であることを認めて、そのとげのある自分に働いて下さる神様の恵みを信じて歩みたいのです。

 

 三、弱さの中でこそ、キリストの力が現れることを信じる

 パウロは自分のとげを、サタンの使いを離れさせて下さるように、三度、絶え間なく、連続的に繰り返し祈ったのでした。そのパウロの祈りの答えは9節前半です。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。」 リビングバイブルには、「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから。」とあります。パウロは、彼の信じる神様は、祈りに答えて下さると信じていた。確信していたでしょう。懸命に祈りました。けれども、肉体のとげは取り除かれるどころか、痛みや苦しみは軽くなることはありませんでした。パウロは、以前と同じように、苦しまなければならなかったのです。肉体の癒しを願ったパウロの祈りは却下されたのです。パウロは、苦しみから、悲しみから、痛みから全く解放されなかったのです。けれども、そのことよりも、もっと素晴らしいものを受けることになるのです。

 パウロのこの証しは、とげが刺さったままの証なのです。かつてはとげが刺さっていて、イエス様に祈ったら、とげが取り除かれました。癒されましたというものではありませんでした。パウロのとげが与えられたことの意味、そのとげが取り除かれないことの意味は、そのとげがパウロにとどまり続けることの意味というのは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」。新改訳聖書や口語訳聖書では、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる」ということのためであり、9節後半の「キリストの力がわたしの内に宿る」ためであったのです。

 パウロは病気を、痛みを苦しみを知らない伝道者ではありませんでした。自分の痛みや苦しみを通して、イエス様の十字架の苦しみ、痛みの意味を他の誰よりも深く味わった人間として、イエス様の福音を大胆に語る者でした。「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」ということを知ることなしに、「わたしの恵みはあなたに十分である。」ということを本当に理解することはできないのです。

 イエス様が、私たちの同じ人間の弱い肉体を取って、この世に来られたのは、イエス様の力が弱さの中でこそ、十分に発揮できるように、イエス様の力が私たちの内に宿ること、それは、私たちの弱さや苦しみ、痛みを御自分が引き受けて下さるためであったのだと思うのです。病気のために、苦しみや痛みのために、毎日、毎日祈らなければならない私たち一人ひとりを思いパウロは語ります。苦しんでいる多くの人々がいるけれども、パウロは、私もその苦しみの中で、イエス様の十字架の苦しみと復活の力を見ることができたのだ。だからこそ、自分自身の持つ弱さや痛みや苦しみを、信仰を持って受け入れることができたのだと語るのです。イエス様の恵みの力は、弱い私たちにこそ働いているのです。弱い中でこそ、強くする恵みの力が働いているのです。弱い事がいいことだとか、賞賛されるというのではなく、その弱さが苦しみが、痛みがイエス様に担われている、受け入れられているという光の中で見ることのできる信仰の強さ、喜びというものをパウロは、ここで語っているのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエス様は言われています。イエス様は、ゲッセマネの園で、「杯を取り除いて下さい」と真剣に祈られましたが、その祈りは聞かれませんでした。イエス様は、十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と祈られました。イエス様の弱さとは、十字架上において、はりつけにされたままの姿において、その弱さの極みにおいてこそ、私たちに救いと恵みと力を与えるものとなったのです。パウロは、病に侵されたまま、苦しみと痛みのあるがままの姿で「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」というところから歩み出し、生涯を主にささげたのです。

 

 Ⅲ結論部

 水野源三さんは、「わが恵み汝に足れり」という詩集を書いています。その中に「主よなぜ」という詩があります。「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞ、このことをわからせたまえ」 私たちの人生の現実には、とても納得のできないものがあります。「わたしの恵みはあなたに十分である。」と言われても、私たちには、困る時があります。その中で私たちは神様を、イエス様を求めていくのです。「主よ、どうぞ、このことをわからせたまえ」と。

 私たちは、年を重ねることによってわかることがあります。老いてこそ、わかることがあるのです。私たちの誕生も死も受け身です。私たちは生まれることも死ぬことも選べません。神様にお任せするしかないのです。今日の説教題は、「老いぼれだからこそ」としました。老いぼれとは、失礼な表現かも知れません。この表現はマイナスです。弱さです。みじめです。しかし、そこにこそ、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と聖書は語るのです。パウロはそのことを理解し、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」 リビングバイブルには、「なぜなら、弱い時にこそ、私は強いからです。――無力であればあるほど、それだけ、キリストによりすがるようになるからです。」 年を重ねることは力がなくなることでしょう。力を失うことでしょう。何もできなくなることかも知れません。だからこそ、「無力であればあるほど、それだけ、キリストによりすがるようになるからです。」なのです。

 私たちは、今、困難や苦しみ、痛み、恐れ、不安があるのかも知れない。でもいいのです。弱くていいのです。その弱さの中にこそ、問題と思えることの中にこそ、イエス様の驚くべき力が十分に発揮されるのです。完全に現れるのです。ですから、この週も、今の置かれた状況が厳しいかも知れない。困難な事や苦しい事が起こるかも知れない。何が起ころうとも、イエス様が共におられるのですから、安心して、イエス様に全てをお委ねして歩んでまいりましょう。「いや、治すまい。しかし、わたしはあなたと共にいる。それで十分ではないか。」イエス様が私たちと共におられることこそ、最大の恵みなのです。

 

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日曜礼拝(21年9月12日)

2021-09-12 12:24:44 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十五)  2021.9.12

ちんたらやってられない」  ヨハネ14章1節~14節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。9月の第2日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所でライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。 

 緊急事態宣言が9月末まで延長されました。厳しい状況は変わりませんが、新規感染者の数が、少しずつ、少しずつですが減少傾向にあります。私たちは、厳しい状況の背後におられる全能の神様を信じています。いつも私たちのために、最善を用意しておられるお方ですので、神様を信頼して、神様に全てをお任せして歩みたいと思います。

 今日は、ヨハネによる福音書14章1節から14節を通して、「ちんたらやってられない」という題で、お話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、ただ神を信じる、イエス様を信じる

 ヨハネによる福音書14章は、最後の晩餐の席でのお話しです。イエス様の告別説教とも言われています。イエス様は、十字架につけられる前に、弟子たちとの食事を大切な時とされました。弟子たち一人ひとりの足を御自分が洗い、拭かれ、イエス様は弟子たちに模範を示したと言われました。そして、ユダが裏切ることを知っておられ、「しようとしていることをするように」と言われました。ユダが出て行った後に、イエス様が弟子たちを愛したように、互いに愛し合うようにと新しい掟を示されたのでした。その後、シモン・ペトロがご自分を三度知らないというと示されたのでした。

 弟子たちは、最後の晩餐の席で、いつもとは違うイエス様の態度や言葉に、何か不安や心配があったでしょう。イエス様がこれからどうなさるのか、全く弟子たちには見当もつかず、これから将来に、何か悪い事、恐ろしい事があるに違いないと感じていたのだと思います。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来る事になる。」(ヨハネ13:36)とペトロに言われました。弟子たちは、自分たちの前から、イエス様がいなくなってしまうのではないか。イエス様がいなくなったら、いったい誰を見ればいいのか、どこを見ればいいのか、何を見つめればいいのか、彼らの信仰の対象を見失ってしまうようで、恐れで支配されていたのではないでしょうか。ある先生は、この時の弟子たちの心境は、愛する者の臨終に立ち会う人間の心の状態に等しいと言われました。

 そのような弟子たちに、イエス様は言われました。1節です。「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」と。リビングバイブルには、「あなたがたは、どんなことがあっても、心配したりあわてたりしてはいけません。」とあります。

何があっても大丈夫だ」と言われたのです。

 私たちは、それぞれに様々な人間関係があります。夫と妻、親と子、教師と生徒、牧師と信徒、友人関係様々です。そのような関係の中で、私と相手が将来どのようになってしまうのか。その関係において、課題や問題があると動揺します。不安と恐れに支配されます。老いていき、認知症になったら相手が分からなくなる。病の事で、自分はどうなってしまうのか、と恐れを感じる。死を意識することがあるのかも知れません。そうなったら、私と相手は、その関係はどうなってしまうのかと不安に満たされ恐れます。そのような私たちにイエス様は語られるのです。「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」と。「何があっても大丈夫だ」とこのイエス様の言葉を、宣言を信じたいのです。受け入れたいのです。信じて前へ進みたいのです。

 弟子たちにとっては、イエス様が共におられるという事が拠り所でした。この拠り所であるイエス様がいなくなると動揺する、不安なのです。私たちは、お金や知識を拠り所としていれば、それらが失われると動揺します。健康を心の拠り所としていれば、病気になれば動揺するでしょう。弟子たちの拠り所は、イエス様を通して与えられた信仰でした。しかし、イエス様は、弟子たちに対して「わたしにつまずく」と言われたのです。弟子たちの信仰は不確実なものでした。そのような彼らに、「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」と言われたのです。私たちの不安や心配を取り除く一番の方法は、「父なる神とイエス様を信じる」ことなのです。

 

 二、天国にあなたの場所もある

 弟子たちは、ペトロが「あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13:37)と言ったように、死ぬことも恐れず、イエス様に従おうとする信仰がありました。しかし、イエス様は、そのような信仰を信用されませんでした。弟子たちの信仰というものは、自分の力に頼る、自分の自信にあふれる信仰でした。イエス様に従う熱心さには、熱い時もあれば、冷えてしまう時もあります。イエス様は、そのような人間の不安定さを知っておられました。自分の知識や力に信頼してイエス様に従おうとする弟子たちに、イエス様は、そのような不安定なものに基盤を置くのではなく、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われたのです。変わりやすい自分の気持ちや自分の信仰ではなく、どのような時にも変わらない、父なる神様とイエス様を信じることこそが、本当の、本物の信仰だと言われたのです。

 2節~3節には、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」とあります。イエス様が弟子たちから離れる理由は、十字架につけられ、死んで葬られ、三日目によみがえり、天に帰られるということです。イエス様は、弟子たちのために天に場所を用意するためだと言われたのです。イエス様を信じている私たちは、神様に与えられた、この世に生きるという意味や目的、目標というものがあります。しかし、イエス様を信じる者の究極的な目的は、天国に帰る、神の御許に行くということです。イエス様が、私たち人間の世界に来られた目的は、私たちの救いやこの世の恵みの体験というものもありますが、最終的な目的は、私たちを天国に導き、神様の御許で祝福の中で永遠に住まわせることなのです。聖書の目的は、「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである。」(ヨハネ20:31)とあります。

2節~3節には、「父の家、住む所、場所」とありますが、天国というものが一つの場所として示されています。イエス様の十字架の死は、愛する者たちのために、父の家に場所を用意しに行くことなのです。イエス様は3節で、「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と言って下さいました。もう一度来られる、再臨されると約束されたのです。私たち人間の死は終わりではない。

「わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」と、イエス様と共に天国で、神の御許で永遠に生きることなのです。ですから、死を恐れる必要はないのです。だから、「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」と言われるのです。そのことを信じたいのです。

 

 三、イエス様を信頼して全ての事をお任せする

 5節で、トマスがイエス様はどこへ行くのか、その道がわからないと言います。それに答えて言われました。6節です。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

 イエス様が言われた「わたしは道であり」ということの中に、真理の意味も、命の意味も含まれているように思います。真理がなければ正しい道を知ることはできない。命がなければ、道を歩くことができないのです。イエス様は、真理も命も与えることのできる道がわたしだ、と言われたのです。道は歩くためにあり、道を歩かなければ一歩も進めません。キリスト教とはイエス様という道を歩くことなのです。使徒言行録では、キリスト教の事を「この道」、キリスト者のことを「この道の者」(使徒言行録19:23、22:4)と呼んでいました。当時、キリスト教は、「教え」ではなく、「道」と呼ばれていたのです。キリスト者は、新しい教えの信奉者というより、新しい道を歩く者、新しい生き方をする者だったのです。

 イエス様は、素晴らしい教えを残されたということだけではなく、今も生きていて、私たちのそれぞれの人生に触れて、私たちの今直面する問題の中で、苦しみの中で、痛みの中で、絶望の中で確実に、力強く働いておられるお方なのです。今も生きておられるイエス様とその言葉を信じて、私たちの生活の全て(良い事も悪い事も)が、イエス様との深い交わりの中にあり、イエス様にあって力強く、辛抱強く、あきらめることなく、生かされて行くことが、それが道であると言われたイエス様と共に生きるということなのです。

 8節で、フィリポが御父を示して下さい、と言います。イエス様は、9節で、「私を見た者は父を見たのだ。」と言われました。イエス様と父なる神様とは一つなのです。神様という絶対的基準が、イエス様において実現したのです。見えない神様が、イエス様を通して見える神となったのです。12節には、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」とあります。信仰というものは、ただ心の問題というのではなく、行い、行為の問題であることが示されているように思います。私たちは、信仰によって、私たちが信じるお方、イエス様と同じ行為をすることができるというのです。私たちが、イエス様を信じることによって、イエス様の力が信じる私たちに働き、そこに大きな証しの生活が行いとなって現れるのです。イエス様を信じる私たちには、イエス様の力が働くと約束されたのです。「もっと大きな業を行うようになる。」とまで言われる。それは、「わたしが父のもとへ行くからである。」ということです。人間の姿で人間の世界に来られたイエス様は、父の御許に帰ろうとされている。それによって、新しい展開が始まる、新しいみ業が行われるのです。地上に残された弟子たちに聖霊が降る、聖霊が与えられることにより、今までになかった大きなみ業が起こるのです。使徒言行録を見れば、聖霊を通して働いた弟子たちのみ業を見ることができます。

 13節~14節には、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」」とあります。祈りを通して大いなるみ業が現れるのです。イエス様が父の御許に帰り、イエス様ご自身が父なる神様に願って下さり、執り成して下さり、弟子たちに、私たちに助け主を送って下さり、助け主、聖霊が私たち人間の能力の限界をはるかに超えて、どんなことでもかなえて下さると言われるのです。私たちは、そのことを心から信じたいのです。私たち祈る者に、聖霊が来て下さり、助け主により驚くべき力により、全ての事が確実に成就されていくということをイエス様は約束されたのです。

 

 Ⅲ結論部

 「あなたのためなら命を捨てます。」(ヨハネ13:37)とペトロは言いました。イエス様は弟子たちに、ご自分のために命を捨てろ、と命じたことはありません。ただ、自分を捨て、自分の十字架を負うて従え、とは言われました。私たちがイエス様のために命を捨てるというのではなく、イエス様が私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さいました。私たちはイエス様の十字架と復活を通して、全ての罪が赦され、死んでいた魂が救われ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。私たちは、イエス様の十字架と復活を通して、イエス様について行くことができるのです。

 「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」と言われました。信じるとは、何らかの行動によって起こる、成し遂げられた結果によってなされるものです。イエス様を信じるとは、父なる神様がイエス様を通して成し遂げて下さった出来事、実現して下さった救いの御計画、十字架と復活、つまり、神様の私たちに対する愛を信じることなのです。

 今日の説教題は、「ちんたらやってられない」です。「ちんたら」とは、「ダラダラとした様子、子どもっぽい状態で、なかなかさっさとやらない。」というような意味があります。私たちはイエス様が命をかけるほどに私たちを愛して下さったこと、死んでよみがえり、死に勝利されたこと、父の御許で住まいの用意ができたら迎えに来て下さること、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」と約束して下さったこと、

「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」」と言って下さったことを知りました。知っています。知っていますが、なかなかイエス様を信じることができません。そのような私たちにイエス様は言われるのです。「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」と。私たちはイエス様の言葉を、約束を知っていることにとどまることなく、信じましょう。私たちに語って下さったことを必ず成就して下さると信じたいのです。

 今、困難な状況の中にあるなら、死に至る病を病んでいるなら、その弱い立場にある状況だからこそ、その人が語る言葉が、その人の行動が生きてくるのです。力があるのです。元気な人が、神様は必ず助けて下さると言っても力はありません。しかし、困難な状況の中で、薬でも、手術でも治らないという厳しい状況にあって、神様は必ず癒して下さると信じる。一番良いようにして下さると信じる。必ず助けて下さると信じる。そのように信じて、発言して、神様に委ねる生き方には、元気な人にも弱っている人にも、勇気と希望を与えるのです。さあ、どっちつかずの生き方ではなく、ちんたらしてないで、私たちを愛し、大切にし、どのような状況の中にあっても、神様のみ業を必ず成し遂げて下さる父なる神様を、イエス様を信じて、この週も歩んでまいりましょう。

私たちがイエス様を捕まえて生きるのではなく、イエス様が私たち一人ひとりを捕まえていて下さるのです。私たちはイエス様を握っている手を離してしまうことがあるかも知れない。でも、イエス様は、絶対に私たちを離すことはないのです。この週も疲れることがあるでしょう。イエス様を信じられなくなることもあるかも知れない。たとえ私たちがどんなに弱くなっても、私たちを愛していて下さるイエス様の愛から、イエス様の手から私たちは離れることはないのです。だから、「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」なのです。大丈夫だから、安心して、神様を、イエス様を信じて、この週を歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(21年9月5日)

2021-09-05 12:22:04 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十四)  2021.9.5

本当に私を愛しているのですか」 ヨハネ11章1節~16節

Ⅰ導入部

おはようございます。9月の第1日曜日を迎えました。2021年も3分の2が終わりました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所でライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。今日でパラリンピックは終わります。8月から続いたオリンピックの一連の全てが終わります。政権では、菅総理が総裁選に出馬しないというような局面で、新たなる総裁選、衆議院の選挙が行われるようです。大学生を除く学生も夏休みが終わり、授業が始まりました。私たちは、今それぞれに置かれている立場があります。境遇があります。苦しい立場、困難な境遇、期待できる状況、何も変わらない状況といろいろとあるでしょう。9月は、いろいろな意味で新しい歩みがスタートします。私たちキリスト者も、主にあって新しい思いを持って、イエス様に期待して、イエス様に信頼してこの月も歩みたいと思います。

 今日は、ヨハネによる福音書11章1節から16節を通して、「本当にわたしを愛しているのですか」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、愛しているとは思えないイエス様の行動

 今日の聖書箇所は、ラザロのよみがえりという大変有名な箇所の前半部分です。今日の箇所は、「ある病人がいた。」という言葉で始まります。いつの世も、病人はいます。青葉台教会にも、たくさんの病の中にある方々がおられます。また、私たちもいつ病気になるのかはわかりません。コロナの感染もそうでしょう。「ある病人がいた。」という言葉は、全ての人に共通する言葉です。イエス様とマルタ、マリア、ラザロとの関係は大変良いものであったようです。イエス様は、3人との良き交わりでゆっくりする時が与えられたり、休むこともできたでしょう。3人は、イエス様のお話しをそばで聞いたり、時の人と食事や交わりをすることができていたのでしょう。そのような状況の中で、ラザロが重い病気になったのです。イエス様と3人とは良い関係にありましたので、マルタとマリアはイエス様に使いを出しました。わざわざ使いを出すほど、ラザロの容態はよくなかったと思われます。3節には、「姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。」とあります。マルタとマリアは、イエス様に、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えました。「ラザロが重い病気になりましたので、早く来てすぐに癒して下さい。」と言いたいのでしょうが、そのように言う必要はなく、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」というだけでよかったのです。

 マルコによる福音書5章には、会堂長ヤイロの娘が瀕死の状態の時、ヤイロは、「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いていやしてください。」(マルコ5:23)とイエス様にお願いした時、「そこでイエス様はヤイロと一緒に出かけて行かれた。」(マルコ5:24)と聖書は記しています。初めて会ったヤイロの願いをイエス様はすぐに聞いて行動されました。それならば、「あなたの愛しておられる者が病気なのです」という関係のラザロのためならば、なおさらのことではないでしょうか。

 5節には、「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。」とわざわざ記されています。イエス様が、マルタ、マリア、ラザロを愛していたことは事実でしょう。イエス様は、この3人を大切にされていたのです。ラザロが病気だと聞いて、イエス様はヤイロの時と同じようにすぐに行動されたと思いたいのですが、聖書はそう記していません。

6節には、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」とあります。何故、どうしてと私たちは思います。イエス様の不可解な行動です。

 ラザロとマルタとマリアを愛しておられるならば、マルタとマリアの願いが何であるかイエス様は知っておられた。マルタとマリアが、ラザロの病気の事で気をもんでいること、心配していること、不安であることを知っておられた。そして、イエス様がいち早くラザロの元に駆けつけて下さることを信じて待っているということもわかっておられたでしょう。愛するという事は、自分の大切な人が苦しんだり、困難な時、すぐに駆け付ける、行動するということでしょう。今できる最善の事をするということでしょう。良きサマリア人が、傷つき倒れている旅人に近寄り、介抱し、宿屋に連れて行ったという行動は愛を表しているでしょう。愛は動くのです。行動なのです。しかし、イエス様は、「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」と、私たちには理解できないイエス様の行動があります。

 私たちも、イエス様、神様のなさることが理解できない時があります。何故、どうしてと思ってしまうことがあります。私たちの信仰生活においても、日々の歩みにおいても、イエス様が私を愛しておられるならば、どうしてこのような事が私に、私の家族に、私の知人に起こるのかと首をかしげてしまうことが多くあるのではないでしょうか。それは、イエス様が私たちを愛していないということなのでしょうか。

 

 二、死は終わりではない

 イエス様は、マルタとマリアから「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と聞いて不思議な事を言われました。4節です。「イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」」 「この病気は死で終わるものではない。」とは、どういうことでしょうか。たいした病気ではない、ということでしょうか。たいした病気ではなく、すぐに治るので、ラザロの所へは行かずに、2日間も滞在されたのでしょうか。

この病気は死で終わるものではない。」というのは、死ぬためにあるのではなく、意味なくして死に向かっているのではなく、死に敗北し、死に飲み込まれて終わるのではないということです。ラザロの病気は、死に向かうのではなく、神の栄光に向かって、神の栄光を現わし、神の命を受けて終わるということです。

 私たちキリスト者は、信仰を持っていても死に至る病にかかることがあります。神様から命が与えられて、生かされている、生きている私たちが、病気になるという事は、試練であり、死に至る病、困難な病気によって、死が命を終わらせるものであることを知っています。その死の前に、神様の恵みというものを見ることができないと私たちは考えます。

その病と言うのは、肉体的な試練だけではなく、精神的にも、霊的にも、信仰的にも、苦しみの、痛みの、悲しみの戦いとなるのです。

 もし、イエス様が、病、病気というものを、死をただ悪い事だとお考えになり、病や病気、死は、私たちが神様を信じる信仰を妨げるものだけであるとお考えになるならば、イエス様は、マルタとマリアから「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と伝えられた時、すぐにラザロの所に飛んで行って、ラザロの病気を癒されたことでしょう。イエス様は、ラザロの病気に関して「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」と言われたのです。神の栄光、神の命を受けるのだ、と言われたのです。「「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25-26)と言われるのです。

 イエス様は、イエス様を信じるキリスト者にとって、与えられた命というのは、神の栄光を現わすためのものであり、神の命を受けると宣言されました。キリスト者にとっては、神の栄光を現わさない命はなく、神の命に預からない命はないということなのです。その命が、どのような厳しい病に犯されようとも、肉体的な制限や弱さがあろうとも、私たちは、その弱さやどうしようもない現実の厳しさにあっても、神様の栄光を現わす者とされており、神の命に生かされるのです。パウロは次のように言いました。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

 私たちを愛しておられる神様は、今現に私たちが経験している苦しみや悲しみ、痛み、病気を持つということは、私たちが通るべき道として、私たちに何の相談もなく、神様が勝手に決めてしまわれるというのではなく、私たちの今置かれている環境、性格、体調、信仰の、その先の先まで、神様が見られたその上で、私たちの側の不注意や不摂生や不健康、怠慢、不信仰といった全ての事を配慮された上で、私たちの死の終わりまで、神様は決めておられるのです。神様が定められたその時まで、何があろうが、私たち一人ひとりは神様に守られ、支えられ、神様の御手の中に握りしめられており、その時が来たら神様の御許にめされていくのです。それが、たとえどのような終わり方(病気、事故、災害、迫害)であったとしても、自分の思わないような、自分の願わないような死に方、最後であったとしても、神様の愛の御手の中に置かれ、神様の前に生きた信仰の人生であり、神様の栄光を現わす、最高に祝福された人生として、神様の命に満ち溢れて、神の国、神のもとに迎え入れて下さるのです。安心して神様に全てをお委ねして歩みたいと思うのです。

 

 

 三、一番いいようにして下さるから大丈夫

 7節でイエス様は、「もう一度、ユダヤに行こう」と言われます。弟子たちは、命をねらわれているのに、危険ですと言います。しかし、イエス様は、ラザロが眠っているので彼を起こしに行くといますが、弟子たちは眠っているのなら、助かると言います。イエス様は、14節で、「そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。」とあり、ラザロが死んでいることを示します。そして、また不思議な事を言われるのです。15節です。「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」

 イエス様は、ラザロが死ぬことはご存知でした。ご存知の上で、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。

と言われたのです。彼を起こしに行く、つまりラザロをよみがえらせることをちゃんと考えておられたのです。マルタとマリアから「あなたの愛しておられる者が病気なのです」と聞いても、そこになお二日間滞在されたのも、「わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。」ということのためであったでしょう。

 ラザロの死からのよみがえりは、マルタやマリアのためでもあったでしょう。勿論、ラザロ自身のためでもあった。ラザロの死を悲しんでいる全ての人々のためでもあったでしょう。しかし、イエス様の真の狙いは、弟子たちが信じるためであったのです。この後、イエス様は十字架の道を歩まれます。53節には、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。」とあり、ラザロのよみがえりの出来事は、イエス様の十字架の苦しみの引き金となったのです。これからのイエス様の十字架の苦しみ、死の前に、弟子たちの信仰がもっともっと高められないでは、信仰がさらに成長しないでは、厳しい試練を乗り越えることは困難なのです。ですから、ラザロの所へ行くのを遅らせたのは、弟子たちのためであったのです。彼らの信仰が高められ、成長することをイエス様は望んでおられたのです。ラザロが瀕死の状態で、彼を癒すことよりも、死んで腐敗したラザロがよみがえるという到底考えられない、信じられない驚くべき神のみ業をイエス様がなされること、神の権威を持っておられるお方であることを弟子たちが信じるためだったのです。死から命に引き戻すという力は、イエス様以外には、いないということを知るためでした。やがて、イエス様は全人類の罪の身代わりに十字架にかかって死なれます。しかし、その死はイエス様の敗北ではなく、神様から与えられた使命の挫折と言うのでもなく、死んでよみがえり、死に打ち勝つ神の子であることを示されるためだったのです。私たちは、イエス様の十字架と復活によって、全ての罪が赦され、霊的に死んでいた魂が救われ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が与えられるのです。私たちの体は滅びても、死んでも生きる者とされているのです。そのことを感謝し、さらにイエス様を信頼しましょう。

 神様は、神様を信じるキリスト者が病気にならないように、苦痛や悲しみにあわないように、どうしてして下さらないのでしょうか。肉体を持つ者として、苦痛や悲しみ、死を経験することは当然の事かも知れません。イエス様も、肉体を持つ者として、肉体的な苦しみを経験なさいました。死を経験なさったのです。

 私たちにとって、病気が癒されるのが遅れるということは、困った時に助けが遅れるということは、苦しい事です。早く癒されたい。早く助けてほしいというのが私たちの願いです。けれども、神様のなされることは、神様の栄光につながることです。病気が早く癒されなかったり、痛みがすぐに取れなかったり、遅れたり、問題がすぐに解決しないということは、神様が私たちを見放しておられるのではありません。助けられない。癒されないからではありません。神様のお心、神様の意志、神様のあなたへの愛がそこにあるからなのです。遅い事も、早い事も、全ては愛から発しておられるということです。私たちは、今の現実が、どのように困難なものに思われても、神様には、イエス様には不可能はないのです。イエス様は、あなたを愛しておられるのです。そのことを信じて歩みたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 キルケゴール(1813~1855)という人は、「死に至る病」という本を書きました。彼は、この本を今日の箇所であるヨハネによる福音書11章の引用から始めています。第一章の表題は、「死に至る病とは絶望である」としています。彼はこう言います。「人間的に言えば、死は一切の最後であり、人間的に言えば、希望があるのは生命のある間だけのことである。けれども、キリスト教的な意味では、死でさえも「死に至る病」ではない。ましてや。地上的な現世的な苦悩、困窮、病気、悲惨、艱難、災厄、苦痛、憂慮、悲哀と呼ばれるもの全てが、それでないことは言うまでもない。」と。 イエス様こそが、病や死、苦悩から起こる絶望から救い出して下さるお方なのです。

 私たちは、この絶望から救い出して下さるイエス様を信じているのです。死を恐れずに、立派に戦うことなんか私にはできないと思われるかもしれません。でも、それでいのです。肉体が弱ること、痛むこと、滅びることは怖い事です。肉体が滅んでしまう事、死ぬことは恐ろしいのです。むしろ、今の弱いままの自分でもいいのです。そのままでいいから、私たちのために命を捨ててでも愛して下さったイエス様に、この週もついて行きたいと思うのです。この週も、どんなことがあっても大丈夫。イエス様の愛はあなたを包み込んでいるのです。「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」(ローマ8:31)

「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:35,37~39)

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日曜礼拝(21年8月29日)

2021-08-29 12:14:35 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十三)  2021.8.29

あなたには希望がある」 マタイによる福音書6章25節~34節

 Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第5日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと、会堂に集い、あるいはご家庭で、置かれた場所でライブ礼拝を通して、共に私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

 パラリンピックが先週から始まりました。全世界から障害を抱えながらも、アスリートとして、健常者以上の努力と強い精神力、それぞれの競技に、胸熱くなる思いがします。どんなに弱く見えても、小さいと感じていても、人より劣ると思っていても、様々な協力や努力の下、素晴らしい競技、やればできる、いや、どのように不可能に見え、絶望の中にも希望を見出せるのだ、と勇気をたくさんいただいています。私たちの人生においても、自分の小ささ、足りなさ、弱さ、どうにもならない現実の厳しさの中に、思い悩み、思い煩い、絶望しそうになっても、私たちは、イエス・キリスト様を信じるがゆえに、希望があるのだと信じたいのです。今日は、マタイによる福音書6章25節から34節を通して、「あなたには希望がある」という題でお話し致します。この個所からは、今年の2月7日に「明日は明日の風が吹く」という題でお話ししています。

 

 Ⅱ本論部

 一、弱くても大丈夫

 8月15日からマタイによる福音書から見ておりますが、今日は、新共同訳聖書の見出しには、「思い悩むな」とあります。思い悩むなと言われても、思い悩む、思い煩うのが私たちではないでしょうか。新型コロナウィルス感染症の感染者が日本中で急に増加し、医療が逼迫し、身近にも感染した人や濃厚接触者の人がいたりと、じわりじわりと自分自身の近くにも迫りつつある今日、自分も濃厚接触者になるのではないか、感染するのではないかと思い悩みます。熱が出たり、何か病気になっても、救急車を呼んでも病院には連れて行ってもらえないのではないかと思い煩います。毎日の暑さの中で、熱中症になるのでないか、ストレスが溜まって病気になるのではないか、と思い悩みます。学生の方々は、休校になるのか、オンラインの授業になるのか、対面での授業なのかと思い悩むでしょう。働いておられる方々は、テレワークになるのか、通勤するのか、通勤では人が溢れて心配することもあるのではないでしょうか。主婦の方々は、今日のお昼や晩御飯は何を食べようかと迷い悩むでしょうか。これから先の事を考えて、いったいどうなるのだろうかと心配になる。ワクチンをまだ打っていない方々は、予約が取れるのか、打ってもらえるのか、打てなかったらどうしようかと思い悩むのではないでしょうか。

 25節には、「「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」とあります。当時の人々は、今日食べることもままならない人々が多くいたようです。今日の食べるものがあるのかと考えなければならない。そのような人々に向かってイエス様は言われたのです。「思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」と。命も体も全て神様が私たちに与えられたものです。私たちは、それぞれにふさわしい命が与えられ、体が与えられています。生まれながらに障害も持って生まれた方々もいます。昔は、健常者の方々と比べて、障害を持つ人々を劣っているというような表現もありました。そうなのでしょうか。神様が創造された作品である私たちは、良いとか悪いとか、上とか下とか、あるのでしょうか。

弟子たちが生まれながら目の見えない障害を持つ人を見た時、イエス様に質問しました。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(ヨハネ11:2)と。当時、障害があるということは、罪の結果であると考えられていたからです。でも、イエス様は言います。「イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」」(ヨハネ11:3)と。罪の結果や何かの問題や失敗で、このように生まれつき目が見えない人として生まれて来たのではなくて、「神の業がこの人に現れるためである。」と宣言されたのです。

 今全世界の注目のもとで、パラリンピックが行われています。全ての参加者が何らかの障害を持っておられます。生まれつきなのか、人生の半ばでそうなったのかはわかりませんが、障害を負った時、知った時、本人も両親も関係するすべての人々も悲しみ苦しんだでしょう。その人生のゆく道の厳しさ、険しさを感じたでしょう。けれども、今、様々な障害を持っておられながらも、前向きに、自分の努力した結果を精一杯出そうと懸命に頑張っておられるのです。その姿に、その生き様に、イエス様が語られた「神の業がこの人に現れるためである。」という言葉を思い出します。すごいなあと心から感じるのです。

 障害を抱えて、思い悩もうと思ったら、いくらでも思い悩むことができます。思い煩おうと思ったら、いくらでも思い煩うことができます。けれども、思い悩むどころか、思い煩うどころか、競技を見ている全世界の人々に、勇気と希望を、そして「思い悩むな」という思いを与えていて下さっているように思うのです。神様は、一人ひとりに目を留め、心を込めて、ご自身の強い意志を持って、目的を持って、私たちを創造し、私たちを生かし、導いていて下さるのです。

 

 二、決めつけないで

 イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」と言われました。空の鳥を見ようとすると顔を空に向ける必要があるのです。上を見なさいと言われる。ギリシャ語では、人間は上を見る者という意味があります。空の鳥をただ見るというのではなく、よく見なさいと言われる。野の花をただ見るのではなく、注意して見なさいと言われるのです。鳥や野の花が、悩みを持たないで生きているという例ではなく、空の鳥を養い、野の花を装っておられる神様を見なさい。神様に目を留めなさいと言われているのです。人間と鳥や花と比べるというのではなく、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(26)「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」(30)と、神様は、私たち人間をどれほど大事に思って下さっているか、神様が創造された自然、空の鳥を大事に養い、野の花を大切に装って下さる。空の鳥や野の花は、その代表で、それ以上に、神様は私たち人間を愛し、養い、装い、導いて下さるのです。

 また、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」(26)「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。」(30)と言われました。それは、空の鳥や野の花が、全く価値がないというのではありません。空の鳥や野の花を用いて、取るに足りない者、小さな存在、この世において価値がないと思われているものを神様は目を留めて覚えて下さり、神様の御手の中で空の鳥を養い、野の花を装って下さるように、私たちがどのように小さく、足りない者、価値がないと思える者であっても、また、この世でとても大切にされ、何よりも必要とされている者をも神様は愛していて下さり、御手の中で守って下さるのです。この世界で、神様から離れて生きることのできるものは何一つ存在しないのです。神様のご意志に関係なく生きることのできる者はいないのです。

 27節には、「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」とあります。「思い悩み」はどこから来るのかと言うと、「自分がこうだと決めつけてしまうところ」から来るのではないでしょうか。「あの人は、私の事をこう思っているに違いない。」「私の病気は悪い病気に違いない。悪くなっているのに違いない。」「この事はこうなるはずだ。」と自分勝手に決めつけてしまうのです。事柄が大きければ大きいほど、深刻であれば深刻であるほど、思い込みは強く、深くなってしまうのです。必ず、悪い方へ、マイナスの方へ考えてしまうのです。「思い悩む」「心配する」という言葉は、「分裂する」という言葉が元になっています。心の中の思いが分かれてしまうのです。生存に関わる重要な事柄が、心を虜にすることを意味しているようです。

 イエス様がよく訪問されたマルタ、マリアの家で、イエス様を迎えたマルタは、イエス様や弟子たちのおもてなしのために、いろいろと心配りし過ぎて、心配し過ぎて、マリアが自分だけにもてなしをさせていることについて、「何とも思いませんか、手伝うように言って下さい」とイエス様に食ってかかりました。その時イエス様は、マルタに「あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。」と言われました。マルタは、おもてなしという良い事のために、心を乱している。度を越した心配、余計な心配りがあったのでしょう。私たちも、案外良い事のために思い悩み、心乱すことが多いのではないでしょうか。

 

 三、イエス様を信じて今日を精一杯生きよう

 イエス様は、「信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」(30-31)と言われました。信仰がない、と言われませんでした。信仰はある。しかし、信仰が薄いと言われたのです。「信仰の薄い者たちよ。」という言葉は、マタイによる福音書8章26節、14章31節、16章8節にもあります。これらは皆、イエス様に対する信頼が不十分、悩んでしまった、恐れてしまった、弟子たちに語られたイエス様の言葉です。

 そして、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』」と悩み、切に求めているのは異邦人だというのです。異邦人とは、神様を知らない人々、偶像礼拝をする者、祝福のない人々という意味があります。リビングバイブルでは、「ほんとうの神を信じない人たち」と説明しています。真の神様を知らない者たち、自分の力で何とかしようとする者たちが、思い悩んで求めていることだと言われるのです。

 イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)と言われました。また、イエス様の教えをいっぱいいただいた弟子のペトロは、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(Ⅰペトロ5:7)と言っています。「これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」のですから、思い悩まなくていい。思い煩う必要はないのです。

 33節には、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」とあります。「与えられる。」とは、「あなたに向かって置かれている」という意味があります。神の国と神の義を第一にするならば、必要な全てのものを、その人に向かって神様が置いて下さる、神様が面倒を見て下さるのです。神の国とは、メシアが支配される王国であり、そこでは神の義、正義が支配し、悪が裁かれるのです。求めなさい、と言われるのです。神の国が到来することを待ち望み、その国に入るための備えをするのです。神様は、イエス様を人間の姿で、私たちの世界へ送られ、私たちの罪を赦すために、私たちの身代わりに、十字架の上で裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さいました。死んで葬られ、三日目によみがえられたのです。このイエス様の十字架と復活のゆえに、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が与えられたのです。神の国に入る備えをして下さったのです。私たちは、主の祈りの中で、「御国を来たらせたまえ」と祈っているのです。

 34節には、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあります。明日の事は誰にもわかりません。「明日のことは明日自らが思い悩む。」とあります。明日の事は、私たちが関与することではなく、それは神様にお任せ、お委ねして、私たちは「今日」という一日に全力で関与するのです。「その日の苦労」の「苦労」は、悪とか災いと訳すことのできる言葉です。今日という日に起こりうる悪や災いは、その日、その日で十分なのです。今日という日を生き抜く力は、明日、将来なされる神様の義、神様の恵みを信じて、神様を待ち望み続けることなのです。神様は、明日への道を開いて下さるのです。私たちは、今日という一日を神様から与えられた責任を果たすことに集中したいのです。明日の事を心配するあまり、今日生きるという事に集中できなくなる結果として、明日への道を自分が、自分で閉ざしてしまうことになるのではないでしょうか。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」と言われました。それは、目に映るものをただ追うのではなく、そこに神様の業を見るということです。アブラハムの僕は、アブラハムからイサクの嫁を連れて来いという命令に従いナホルの町に行き、井戸の傍らで、娘たちが水を汲みに来るので、飲ませて下さいと頼んだ時、「どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう。」と答えれば、その人こそイサクの嫁としてお決めになったものとしてください、と祈りました。そそて、そこへリベカが来たので、「水を飲ませてください。」と言い、リベカの様子を見ていたのです。聖書には、「その間、僕は主がこの旅の目的をかなえて下さるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた。」(創世記24:21)とあります。アブラハムの僕は、ただリベカが水を汲むのをじっと見ていたのではなく、そこに、祈った通りになるかどうかの神様の業を見ていたのです。「空の鳥をよく見なさい。」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。」とは、小さな命にも、小さな存在にも、神のご配慮が十分に注がれていることを見なさい、ということなのです。

 私たちに起こる不幸や苦しみ、心配事が多くあるでしょう。次から次へと襲い掛かります。そして、自分の考えや思いを遥かに越えると私たちは参ってしまうのです。信仰なんて吹っ飛んでしまうのです。イエス様を見ないで、今起こっている現象、事実しか見ていないからです。それが私たちです。だからこそ、イエス様は今日、私たち一人ひとりに言われるのです。「思い悩むな」と。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。」と「信仰の薄い者たちよ。」と。「これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」と。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と。「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」と。

 私たちは、今現実の起こっている状況、苦しい事、辛い事、嫌な事、痛い事、絶望をただ見ている。ただ、苦しんでいるのではなく、思い悩んでいるのではなく、思い煩っているのではなく、大丈夫だ、と言われるイエス様を見て、イエス様の愛と恵みが注がれていることを、必ず守り助けて下さると信じ抜こうではありませんか。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(Ⅰペトロ5:7)とあるように、神様は、イエス様は、あなたが今どのような状況にあろうとも、絶望の中にあろうとも、あなたの事を愛し、心にかけておられるのです。だから、あなたには希望があるのです。大丈夫。心配しないで、この週もイエス様に信頼して、何もかも全てお任せして、お委ねして、思い悩むことなく、思い煩うことなく、安心してイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

 

 

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日曜礼拝(21年8月22日)

2021-08-22 12:34:40 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第十二)  2021.8.22

敵も味方も愛する」 マタイによる福音書5章38節~48節

 Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第4日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、各家庭や置かれた場所で、ライブ礼拝を通して、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。

 緊急事態宣言が2週間延長されました。今の状況では、さらに伸びる可能性があり、ロックダウン的な処置が必要なのかも知れません。私たちは、私たちを愛しておられる神様が、この厳しい状況に介入し、感染者を減らし、コロナ菌を取り除いて下さるように祈り続けたいのです。

 ミャンマーやアフガニスタンでは、力や武器による制圧や軍事的な圧力が行われています。人間の尊い命が奪われ、安心、安全はそこにはありません。弱い立場の人々は、いつも力により苦しめられてきたことは、歴史が証明しています。そこに、憎しみや恨みがあります。そして、憎しみは憎しみを生み、恨みが何倍にもなって現れてくるのです。そのような人間に対して聖書は語ります。今日は、マタイによる福音書5章38節から48節を通して、「敵も味方も愛しなさい」という題でお話しいたします。

 

 Ⅱ本論部

 一、やられてもやり返さない

 38節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」とあります。「目には目を、歯には歯を」というのは、出エジプト記21章24節に、「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」とあるように、同害報復法と言われ、18世紀のハムラビ法典にも見られる教えです。「目には目を、歯には歯を」とは、他人の目を傷つけると自分の目を傷つけることになる。同じ悪が自分に跳ね返ってくると悪をひかえさせること、人が悪に手を出さないようにする抑止力であったのです。ですから、「目には目を、歯には歯を」という教えは、決して恨みを晴らすための手立てではなく、世の中に正義を実現するための神様からの人道的な教えでした。相手に復讐する時には、同じだけの復讐にとどめ、目には目、歯には歯で終わる。それ以上の復讐を禁じている戒めでした。極度の行き過ぎた裁きというものをなくすためのものです。行き過ぎの内容に制限を与えるものでした。

しかし、ユダヤ教のラビたちは、この教えを個人的な仕返しや復習を許すという戒めにしてしまったようです。ですから、「目には目を、歯には歯を」という教えは、損害を被ったら仕返しをしても良い。あるいは、仕返しをしなければならないというように理解されたのです。「やられたらやり返す」「倍返しだ。十倍返しだ。」という例のあれです。

イエス様は、ラビたちの仕返しや復讐をしても良いという教えは、本当に意図したものではないとし、悪をなす者に仕返しをしてはならないと教えられるのです。39節の前半で、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。」と言われました。そして、3つの例をあげるのです。39節の後半から41節では、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」と言われました。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」という言葉は有名です。クリスチャンでない人でも知っています。お笑いやコントでも使われるフレーズです。私たちが普通、相手の頬をびんたしたら、私の右手は相手の左頬を打つことになります。ですから、相手の右の頬を打つためには、右手の甲で左から相手の右の頬を打つのです。ユダヤ人にとっては、手の甲で顔をたたく、打つということは、最も体面を傷つける、侮辱行為を意味しています。その人の人格に大打撃を与えるものです。特に右の頬は、人格の尊厳の部位だそうです。右の頬を打たれるのが、最も屈辱的なことでした。それなのに、左の頬をも向けなさいと言われたのです。

また、「訴えて下着を取る」とは、何かというと借金の差し押さえです。借金を返せないと、裁判所に訴えられて自分の持ち物で借金を返すということです。人の上着というものは、借金があっても取ってはいけないと命じられていました。「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」(出エジプト22:25-26) 貧しい人の権利、最低限の権利であったのです。それを放棄せよと言われるのです。また、41節は、ローマ帝国の法律でした。1ミリオンとありますが、約1.5キロほどの距離なら、ローマ帝国の権力で、誰にでも、荷物を運ばせることができたようです。それを2ミリオン行けと言われるのです。イエス様は、この3つの例を出して、侮辱されたままでいなさい自分の権利を主張するな。権力に抵抗するな、と教えられたのです。

 

 二、敵をさえ祝福を祈る者となれ

 42節では、「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」」と言われました。旧約聖書には、「あなたの神、主が与えられる土地で、どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、手を閉ざすことなく、彼に手を大きく開いて、必要とするものを十分に貸し与えなさい。」(申命記15:7-8)とあります。当時、何かを借りた場合、7年ごとの安息年や50年おきのヨベルの年とよばれる時には、全ての借金を帳消しにするという戒めがありました。ですから、安息年の7年やヨベルの年の50年が近づいてくると、貸す方はすぐに帳消しにされてしまうので、貸すことを渋るわけです。貸すと損をするという事がわかっているけれども、損をしてでも貸してあげなさい、ということです。

 イエス様は、ここで自分が損をすることがわかっていても、一歩踏み出すのだということです。クロネコヤマトです。一歩前というやつです。私たちは、いつも自分を守ること、損をしないこと、失わないことに心を向けて生きています。しかし、相手の求めることに一歩踏み出して行くときに、新しい世界が開けるのです。愛の世界です。 

良きサマリア人に出て来る祭司やレビ人は、傷ついて倒れている人の向こう側を通っていきました。自分の側です。しかし、サマリア人は、近寄って介抱したのです。自分の側から一歩出たわけです。マルチン・ルーサー・キング牧師は、良きサマリア人の説教で、「祭司とレビ人は、この人を助けたら自分がどうなるのかを考えた。しかし、サマリア人は、この人を助けなかったら、この人はどうなるのかを考えた。」と語りました。私たちは、自分の事を考えてしまうと隣人を愛することができなくなるのではないでしょうか。私たちは、自分の側を出て一歩前へ進みたいと思うのです。

 43節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」とあります。「隣人を愛し」というのは、旧約聖書にはありますが、「敵を憎め」というのはありません。旧約聖書レビ記19章18節には、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」とあります。当時の聖書の専門家が付け加えた言葉です。神様は、異邦人を敵として憎むように教えているのだと受け取ったわけです。ユダヤ人は異邦人に対して、敵というレッテルを貼り、異邦人を憎むことが、正しい事、正義だと考えました。しかし、神様は、旧約聖書レビ記19章34節で、「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」と言われ、寄留者や異邦人を愛することを教えています。ですから、神様のお心とは違うもの、「敵を憎め」ということを正当化していたことがわかります。

 イエス様は、44節で「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われたのです。イエス様の愛をいっぱい受けた使徒ペトロは、ペトロの第一の手紙3章9節で次のように言っています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです。」とあります。祝福を祈るのだというのです。自分を悪く言う者、いじめる者、迫害する者のために、祝福を祈るのです。つまり、愛するということでしょう。

 

 三、イエス様(御子)の姿を目指して

45節には、「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。「あなたがたの天の父の子となるためである。」とありますが、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とイエス様が教えられた内容を実践することができるのは、天の父の子、神の子とされたしるしなのです。

「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とは、神様には区別はない。差別はないということです。46節から47節には、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。」とあります。自分を愛してくれる人を愛するということ自体、特別なことでも、素晴らしい事でもない。当たり前の事なのです。自分の仲間だけを愛するなら、そのような事は誰でもやっているというのです。徴税人でも自分を愛する者、自分の妻や子ども、友人を愛するのです。また、異邦人、ユダヤ人以外の人々は、お互いに挨拶をする。挨拶とは、相手に好意を示すものです。相手を受け入れていることを示すものです。挨拶は歓迎を示します。挨拶は、温かな祝福の精神の表れなのです。異邦人もお互い挨拶をするのです。

 48節には、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」とあります。「完全」という言葉は、パーフェクト、欠点が何もないというような意味ではなく、「全部そろっている」というような意味です。「完全」とは、状態の事です。完全を目指して歩み続ける。信仰を続ける状態を完全な状態と言います。この「完全」と訳されたギリシャ語の「テレイオス」という言葉は、「目的・目標に達する」という意味を持っています。そこから、十分な成長を意味する成熟を意味しています。「完全」とは、神様が最初、人間を創造された時の状態とも言えます。罪によって神様から離れた私たちが、神様との関係が回復され、隣人との関係が回復することにより与えられるものです。

 私たちは、イエス様を目指して、イエス様のように、父なる神様に信頼し、敵を愛し、迫害する者のために祈る者になりたいと思うのです。それは、私たちの力によるのではなく、聖書の言葉に触れ、み言葉で養われ、聖霊に取り扱われて、聖霊の導きによるものなのです。

 神様は、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言われました。神様ご自身が、神様を信じて敬う者だけに目を留めるのではなくて、神様を呪い、神様に逆らい、神様に敵対するような者にも目を留め、恵みを与え、神様の深い愛に気づくようにと招き続けておられるのです。私たちの罪を赦すために、私たちが罪を悔いて告白する前に、神様の方から一方的に、神であるお方、イエス様を人間の姿で私たちの世界に送り、私たち罪人が受けるべき罰を十字架で受けて下さり、私たちが流す代わりにイエス様が尊い血を流し、私たち罪人の命が取られる代わりに、イエス様の尊い命がささげられた、死んで下さったのです。死んで葬られ、三日目によみがえり、死に打ち勝ち、神であることを示されたのです。イエス様の十字架と復活を通して、私たちの全ての罪が赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命が与えられたのです。そのことを感謝したいのです。

 

 Ⅲ結論部

 イエス様は、「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」と言われました。抵抗しないという事は与えるということでしょう。何よりも人を愛しなさいということです。たとえ敵であろうが味方であろうが愛しなさい、ということです。私たちは、自分に悪い事をした人や嫌いな人が困ると、「いい気味だ」とか「自業自得だ」と心の中で思うことでしょう。しかし、聖書は「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。・・・悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」(ローマ12:17-18、21)といいます。私たちは、味方、良くしてくれる人、愛する人を愛することは、努力もいらないし、自然にできることでしょう。しかし、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」というのは、人間の努力で、力ではできないのです。不可能なのです。聖書の言葉に触れて、神の言葉に養われて、聖霊の助けと導きの中で、一歩自分の側から出て、味方は当然愛する、しかし、敵であっても、嫌いな人であっても、あわない人であっても、愛していくことを神様は私たちに求めておられるのではないでしょうか。「だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」とは、敵が求める以上の事をするということです。敵に自発的に協力して、求められる以上の事をするということなのです。イエス様は最後の晩餐で弟子たちに教えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネ13:34-35) 

私たちクリスチャンが、キリスト者が、自分の側から一歩出て、互いに愛し合うならば、敵も味方も愛するならば、私たちがキリストの弟子、つまり、クリスチャンであること、キリスト者であることを皆が知るのです。今、コロナや自然災害等で、私たちは疲れています。苦しんでいます。あるいは、軍事力や武器で人を抑え込もうとすることを見て、心痛めています。だからこそ、イエス・キリスト様の愛、神様の愛を知り、十字架の愛を知り、体験した者が、今こそ、本当の意味で愛するということを、それぞれの立場で、置かれた環境で実践していきたいと思うのです。そして、そこから、真の平和が、安心が生まれてくるのだと思うのです。この週も、イエス様の愛をいっぱいいただいた者として、愛を実践しようではありませんか。

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