江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(25年3月16日)

2025-03-16 19:24:46 | Weblog

2025.3.16青葉台教会奨励

 「主イエスよ、来てください」ヨハネの黙示録22:6-21

                               吉武良司

 

 青葉台教会最後の奨励の日となりました。おととしと今回で2回の派遣を受け容れて頂きまして皆様には心より感謝申し上げます。おととし6回今回6回で計12回の奨励の機会を与えられました。この経験でひとつわかった事があります。それは、私が話をする事に向いていないと言う事です。毎回緊張して最後まで慣れる事はありませんでした。神様はなぜこんな者を選ばれるのか、「むごいお方だな」と毎回思っていました。

最後ですので、皆様からのリクエストもあり、聞かれていない方もいらっしゃると思いますので、少し詳しくなぜ神学校に入ったのかをお話します。昨年の「還暦の証」でお話しました通り、私が受洗後も神様に背いていた事は皆様ご存じの事と思います。神様はそういう者を選ばれるようです。

私は、サラリーマンを33年間していましたが、56歳の時に会社の健康診断で要精密検査と診断されました。精密検査を受けると食道に癌になる前の異形成という状態が見つかりました。その前から胸部に圧迫感があり、体重も15キロ減りました。この異形成が原因かと思っていましたが違いました。その時既に肺と胸骨の間にある胸腺という臓器が悪性腫瘍になっていました。それが大きくなっていて、その後に起こった尿路結石のCT画像に写っていました。

すぐに呼吸器外科に回されて数週間後にダビンチというロボット遠隔操作による手術をしました。腫瘍は右の肺にも浸潤していました。右の肺の一部も切除して無事に手術が終わったはずでしたが、縫合した後に内部で出血が始まりました。執刀医が呼び戻されて縫合した所をまた開いて止血処置が始まりました。2時間経っても出血は止まりませんでした。執刀医はあきらめて、付き添いから家に帰った妻に電話をしました。「ご主人助からないかも知れません」と。

麻酔が切れて意識が朦朧としている中で私は神様に「僕をどうするつもりですか」と聞いてみました。そして意識がなくなりました。さて私はどうなったでしょうか。翌朝目を開けると真っ白な世界が見えました。これが天国かと思いましたが病室の天井でした。まだ地上にいました。この時神様は私を生かして牧師にさせるつもりだったように思います。

次に肺を切った所が炎症になり、水が溜まって肺炎になりました。ちょうどコロナ禍で肺炎のまま退院させられました。普通に呼吸が出来ないので会社に部署替えを申し出ましたが空きがありませんでした。休職期間が過ぎても呼吸が回復しなかったので退職を決めました。回復するまでに半年程かかりました。次の仕事を探し始めるとちょうど民間のバス会社が乗務員を募集していて応募しましたが採用されませんでした。静かな仕事は他になかなかありませんでした。そんな時に声が聞こえました。「牧師があるだろ」という声でした。その時は全く気にもせずに仕事探しを続けていました。

日に日に妻の顔が悲しい表情に変わって行きました。私は勝手に妻が心配してくれていて「回復するまでゆっくり治してね。私が働くから心配しないでね」とドラマのような世界を描いていましたが、現実は大違いでした。「これからの生活どうするの」でした。要するに「すぐに働け」と言う事です。

その時2回目の声が聞こえました。「だから牧師があるだろ」でした。もう逃げられないと覚悟しました。すぐに「牧師になるには」をネットで調べました。そこで初めて神学校に行かないと牧師になれない事を知りました。鬼嫁と娘に「牧師になるのに神学校に行こうと思う。退職金と癌保険などで4年間の生活は出来る」と説明すると何のためらいもなく「牧師はいいじゃない」と返事が返って来ました。そして神学校に入学しました。この時は青葉台教会で追い込まれる運命にあるとは知る由もありません。

ところが、またしても現実は計画通りに行きませんでした。神学校の4年間持つはずの貯蓄はリフォームなどで2年半で底を尽きました。家の中で飼っていた犬のゴールデンレトリバーや猫やフェレットで妻の親の家ですがボロボロになっていました。今妻は介護ヘルパーのパートで支えてくれています。鬼嫁ではありませんでした。そして更なる支えが与えられました。食道の異形成が昨年癌になっていて、どん底状態の時に2回目の癌保険が下りたのと、60歳になり年金繰り上げ受給が出来ました。神様のご計画は先の先まで緻密に立てられていました。

私は神様に選ばれてしまいましたので、話に向いていようがいまいが従うしかありません。なぜなら、神様はイエス様を最もむごい十字架に架けられました。イエス様は肉を裂かれ、私たちの身代わりとなって痛みと苦しみを負って下さり、私たちのすべての罪を贖って下さいました。その苦しみを思う時、従うしかありませんでした。そして、むごい十字架の死を超えて復活の希望を与えて下さいました。神様の栄光が現わされるためには時にはむごい事も通らなければ成就しないのだと思います。

今日は、最後の奨励ですから新約聖書の最後の書の黙示録の最終章から語らせて頂きます。10節に、この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。と書いてあるからです。前回のユダの手紙と同様に、今私たちは既に緊急事態に既に突入しています。マタイとルカの福音書に終末の徴が書いてあります。ルカの方で見てみます。

イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とかいうが、ついて行ってはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」そしてさらに、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。と書いています。今その通りの事が現実に起こっています。

終末の出来事で100%信頼出来る書物は聖書だけです。テレビやインターネットの嘘の情報に惑わされないように気を付けなければなりません。聖書に書かれている事は100%成就しますが、2つの事がまだ成就していません。一つは、おととしの最初の奨励でお話しましたエゼキエル戦争です。それはロシアとイランとトルコの連合軍が北からイスラエルを攻撃して始まる戦争です。

エゼキエル書38章の16節、お前はわが民イスラエルに向かって、地を覆う雲のように上って来る。そのことは、終わりの日に起こる。わたしはお前を、わたしの地に連れて来る。それは、ゴグよ、わたしが国々の前で、お前を通して自分の聖なることを示し、彼らがわたしを知るようになるためである。

ゴグというのはロシアの首長の事ですが、今のプーチンの時なのかはわかりません。この戦争は神が首長の顎に鉤のフックをかけて連れ出してイスラエルを攻撃します。その日に大地震が起こり地上のすべての人間は震え上がるのです。イスラエルが勝利して、連合軍は全滅します。神様がイスラエルの神を知らしめるための戦争なのです。今ロシアはイスラエルで発見されたガス油田の資源を狙っているのには間違いありません。エゼキエル戦争の成就の条件は既に整っています。もう一つ成就していないのはエルサレム神殿の再建ですが、ユダヤ人の団体が石の切り出しなどの準備を進めています。

12節でイエス様は、見よ、私はすぐに来ると言っています。報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いると言っています。これが最後の審判です。この最後の審判の時までが救いの猶予期間となります。13節のわたしはアルファでありオメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり終わりであるというのは、イエス・キリストが初めの創造主であり、支配者であり、終わりの審判主であり、すべての決定権を持った王の王であると言っています。14節の自分の衣を洗い清める者は幸いであるというのは、再臨までにすべての人類に悔い改めてほしいとの願いです。すぐに来ると言いながら2000年が経ちましたが、イエス様は全人類の救いのために2000年も忍耐しておられるのです。しかし、イエス様が明けの明星として夜明けを告げ知らせる時はもうそこまで来ています。

私たちキリスト者は、イエス様がいつ来られても慌てない準備をしていなければなりません。終末の危機の中で誘惑に陥る事や信仰を投げ出しそうになったりする事もあるかもしれません。人間は危機の中で無力さに気付きます。こんな時だからこそ私たちは、お互いに励まし合い、いつも喜び、絶えず祈り、どんな事にも感謝したいのであります。そして、まだイエス様を知らない人たちのためにも祈りたいのであります。聖霊の力が届きますように。聖書と出会いますように。そして救われますように。

そして20節を見ます。最後はイエス様を待望する祈りで終わります。今日のタイトルの「主イエスよ、来てください」はアラム語で「マラナ・タ」と言います。アラム語は当時のユダヤ人が話していた言葉です。旧約聖書のヘブライ語の仲間のようなセム語族の言語です。イエス様もアラム語を話されていました。マラナ・タは、新約聖書の中で、Ⅰコリント16章22節の一箇所にだけ、そのままギリシャ語として残りました。

主を愛さない者は、神から見捨てられるがいい。マラナ・タ(主よ、来てください)。です。初代教会ではこのマラナ・タが挨拶の言葉としても「おはよう」「こんにちは」などのように使われていました。ヘブライ語から新約聖書で使われるようになった「アーメン」や「ハレルヤ」は日本人の間でもお馴染みですが、「マラナ・タ」はあまり馴染みがないように思います。今日一番お伝えしたいのがこの「マラナ・タ」です。

世の終わりの日には、イエス・キリストが大いなる力と栄光を帯びてもう一度来られ、選ばれた人たち、救いに与かる者たちを呼び集め、神の国を完成して下さると約束して下さいました。使徒言行録の1章11節には、復活されたイエス・キリストが天に昇られた時、それを見ていた弟子たちに天使がガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになると告げた事が語られています。

イエス・キリストがもう一度この世においでになる事がこのように約束されているのです。これらの約束の言葉に支えられて、教会はイエス・キリストがもう一度来て下さる事、即ち再臨を待ち望みました。パウロも、最も早くに書かれたとされるⅠテサロニケの信徒への手紙1章10節でこのように語っています。更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。「御子が天から来られるのを待ち望む」、それが教会の信仰なのです。その信仰から生まれた祈りが「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」なのです。

従って「マラナ・タ」とは、イエス・キリストの再臨によるこの世の終わりを待ち望む祈りです。もちろん私たちは日々の生活の中で、イエス・キリストが、聖霊の働きによって、目には見えなくても共にいて下さる事を信じています。様々な具体的な問題、悩み苦しみにおいて私たちは、「主よ、私を助けて下さい、歩むべき道を示し、歩む力を与えて下さい」と祈る事が出来るし、イエス様はそこで人間の力を超えた恵みをもって導いて下さいます。しかし「マラナ・タ」という祈りは、イエス・キリストの再臨によってもたらされる究極的な救いを待ち望む祈りです。

その救いについては、Ⅰコリント15章22節から25節にあります。つまり、アダムにあってすべての人が死ぬことになったように、キリストにあってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威と勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。キリストはすべての敵をご自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。

ここには、イエス・キリストの再臨によってこの世が終わり、キリストはすべての支 配、権威、勢力を滅ぼして、父なる神に国を引き渡されるという事が語られています。「国」とは「支配」という意味の言葉です。つまり再臨によってイエス・キリストの支配が確立し、その支配する王国が父なる神のものとなる、神の国、神の支配が完成します。それが私たちの究極的な救いです。

私たちが現在味わっている様々な苦しみ、困難、問題は、目に見える現実において、神様の恵みの力とは別の、様々なこの世の力が支配している事によって生じています。神様の恵みを見えなくする様々なこの世の力に私たちの人生は振り回され、翻弄されています。その中にあって、信仰を与えられた私たちは、イエス・キリストの十字架と復活によって神様の恵みの支配が既に確立している事を信じて生きるのです。しかし、その神様の支配は信仰によってしか分からない目には見えない隠された支配です。そこに、信仰をもってこの世を生きる私たちの苦しみがあります。

私たちはその苦しみに負けて、神様の恵みの支配を見失ってしまう事もあります。しかし、世の終わりのイエス・キリストの再臨において、今は隠されている神の支配が顕わになり、誰の目にも明らかな仕方で確立するのです。そのようにして神の国が完成します。その時に、私たちの苦しみは終わります。その時、最後の敵としての死が滅ぼされます。死は、私たちの人生を脅かす最後で最大の敵です。

肉体をもって生きるこの人生は、最後にはこの死の力に屈服せざるを得ません。死こそが、私たちを最終的に支配する力であるように見えます。しかし、イエス・キリストの再臨において、その死の力が滅ぼされ、私たちにも復活の命と体が与えられるのです。そのために私たちはイエス・キリストを信じるのです。死んで朽ちて行くこの体が、新しい、朽ちない体へと変えられるのです。私たちを最終的に支配するのは、死の力ではなく、イエス・キリストにおけるこの神様の恵みの力であることが、イエス・キリストの再臨において明らかになるのです。

「マラナ・タ(主イエスよ、来てください)」という祈りは、この事を見つめ待ち望む祈りです。私たちは、この祈りを祈りつつ、この究極的な希望をもって生きる事を許されているのです。そしてそれゆえにこそ、日々の様々な具体的な歩みにおいて、聖霊のお働きによってイエス・キリストが共にいて下さり、守り助けて下さることを信じて、祈り求める事が出来るのです。「マラナ・タ」の祈りこそ、私たちの日々の全ての祈りと、信仰による生活とを支えている土台であると言う事が出来るのです。

新約聖書は、この祈りをもって閉じられています。新約聖書の全体が、この祈りに向けて書かれていると言っても良いのです。そして更にもう一つ、イエス様が「このように祈りなさい」と教えて下さった、私たちの祈りの根本である「主の祈り」の中に、「御国を来らせたまえ」とあります。神の御国は、イエス・キリストの再臨によってもたらされるのです。御国の到来を待つというのは、イエス・キリストの再臨を待つ事なのです。もちろん今私たちは既に、イエス・キリストを信じる信仰において、神の国、神のご支配の下で生き始めています。

しかしそれは信仰による事で、目に見えない、隠された事です。だからこそ「御国を来らせたまえ」と祈るのです。その神の国が、イエス・キリストの再臨によって顕わになり完成します。「マラナ・タ」はその事を待ち望む祈りです。ですから私たちは主の祈りを祈るごとに、「マラナ・タ」と祈っているのであります。マラナ・タ、主イエスよ、来てください。主イエス・キリストの恵みが、すべての者と共にありますように。

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日曜礼拝(25年3月9日)

2025-03-10 06:46:52 | Weblog

青葉台ナザレン教会 礼拝メッセージ

 「劣勢でも働かれる神」            2025/3/9

聖書箇所 使徒言行録 17:21~34

 

 みなさまおはようございます。

 今日は青葉台ナザレン教会の礼拝にお招きいただきありがとうございます。皆様とともに礼拝をお捧げできることを嬉しく思います。少しだけ自己紹介をさせてください。名前は木下泉といいます。高校時代を除いて、生まれてから日本ホーリネス教団の柴又キリスト教会に通っています。男はつらいよの舞台ですね。

 また、年は29歳になります。2019年に大学卒業後、3年間民間企業で働いた後、2022年4月からキリスト者学生会の主事になり主に事務の働きを担っています。また現在東京都の東村山にある東京聖書学院という神学校でも学んでいます。短い時間ですが、今日も神様の言葉を聞きたいと願っています。

 さて、突然ですが、皆さんの中で、一生懸命祈っても聞かれないと感じるような経験はありますでしょうか?

 私は高校生のとき、野球推薦で千葉から父の実家の徳島県の高校に進学しました。そこで自分なりに一生けん命練習していたのですが全くうまくならない。推薦入学だったので最初は上の方にいたのですが、どんどん同級生に技術が抜かれていく。そんな苦しい状況の中で、なんとかしたいと普段開かない聖書を読んで祈ったり、信仰書を読んでみたり、牧師先生にお祈りしてもらったりしたのですが、決して状況は変わらない。結局最後まで上手くなることはなく、高校三年生の夏は20人の枠にすら入れず高校野球が終わりました。今思えばほろ苦い青春の思い出ですが、当時は一生懸命祈っても聞かれない、神様に見捨てられたような感覚になったことを覚えています。

 今日はそれぞれ神様が祈りに答えられないと感じるような時をイメージしながら開かれている箇所を読んでまいりましょう。もう一度使徒の働きの17章21節をお読みいたします。

 21:すべてのアテネ人やそこに滞在する外国人は、何か耳新しいことを話したり、聞いたりすることだけで、時を過ごしていたのである。

 当時のアテネ人は生活に必要な身の回りのことすべてを奴隷に任せていたため、時間を持て余していました。そんな彼らは新しいことを聞き、議論をして生活をしていました。その人々に対し、パウロは21節から31節にかけて、力強くイエスキリストの復活について語ります。しかし、パウロが語ったメッセージに対するアテネの人々の反応は祈り期待していたものではありませんでした。

 32節をお読みします。32:死者の復活ということを聞くと、ある者は嘲笑い、ある者は「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」

 アテネの人々はその話を聞いて、パウロの話は聞くに値しないものであると馬鹿にしました。特に。死者の復活のところがアテネの人々のお気に召さなかったようです。そんなことはあり得ない、信じるに値しないと耳を傾けることをやめてしまいました。

 ここでのアテネの人々の反応はこれまでパウロが受けていた仕打ちと少し異なります。これまではユダヤ教の人々が主な宣教の相手でした。そのため、イエスキリストは神であり、救い主であるという彼の主張に対してユダヤ教の人々は怒り狂いました。神の冒涜は赦さないと、ムチで打ったり牢屋に閉じ込めたりしました。もちろんこれも大きな試練です。私たちには想像もできない大変さや苦悩があったことでしょう。しかし、激情するほど怒り狂うということは裏を返せば彼の話に関心があったともいえます。

 一方今回のアテネでの人々の反応は全く逆のものでした。石を投げつけられたり、牢屋に閉じ込められることはなく、むしろ途中まで興味を持ってよく聞いていました。しかし、一歩引いて、聞く態度がそこにはありました。一つの考え方あなたはそういうことを信じているのですねといったスタンスです。そして彼らの心には何も響くことはありませんでした。決して否定されることはないけど、自分には関係ないといった冷めた態度です。

 これは私たちにとってどこか見たことのある光景ではないでしょうか。改めてこの箇所を読んだときに、まさしく今の日本の状況だなと思わされました。

 キリスト教がという宗教があり、それを信じている人がいる。彼らはボランティアもそれなりにやっているし、キリスト教主義の学校もある。信じている人たちにとってはそれが、心の拠り所となっているのだろう。でも自分は神なんて非科学的なものを信じないし、宗教なんてものは興味ないという方が、この日本には特に多くいるように感じます。

 当時のアテネは繁栄の絶頂期は過ぎていたものの、まだまだ経済的にも、学術的にも進んだ町でした。そのため、これからの福音が世界に広がっていくための重要な都市でもあるという認識がパウロにあったことでしょう。そして、この地で偶像を拝んでいる彼らの姿も彼らにイエスキリストの福音を語る大きな動機となりました。

 しかし、そんなパウロの願いとは裏腹に、アテネの人々に対して、全くメッセージが届きませんでした。パウロにとってこれは相当なショックな出来事だったことでしょう。大きな迫害を受けることはなかったとしても、自分自身がイエスキリストの劇的な出会いを通して、自分の人生を文字通り180度変えた福音にアテネの人々はまったく興味・関心を持たなかったのです。

 33節にそれで、パウロはその場を立ち去った。とあります。実際そのあと、18章の冒頭にあるように、パウロはしばらく伝道活動を控えて、天幕つくりの仕事をするようになります。自分自身がイエスキリストの劇的な出会いを通して、人生が180度変えられ、大きな迫害を受ける中でも勇敢に福音を語っていたパウロが働きのペースを落としてしまうまでにうちのめされます。たとえ命が脅かされるような状況の中でも、働きを決してやめなかったパウロが宣教の働きをセーブするまでになったところから、今回のダメージがいかに大きいかが分かります。

 私も 所属している柴又キリスト教会や現在奉仕しているキリスト者学生会での働きを思い返すときに、何度となく「いずれまた聞かせてもらうことにしよう」という答えを聞き続けているように思います。

 教会では、日曜学校でイベントを開催し、お菓子は食べに来てくれるけど、毎週日曜日の礼拝にはきてくれない。あの教会員のこどもさんのために何年も祈り、ハガキをだすけど、返事が来ない。一人でも新しい人が来るようにと願いチラシをポスティングするけれども、全くレスポンスがない。

 私が奉仕しているKGKでも同じことの繰り返しです。300万人いると言われている学生に対してコロナで集う学生数が減り、まだ福音を知らない学生とのコンタクトが難しくなってお、現在            KGKに関わっている学生は1500人弱です。さらに、オウム真理教や旧統一協会の影響で、キャンパス内で聖書研究会を持つことが難しくなっています。また、学生の警戒心も強いため、勇気を出して聖書研究や教会に誘っても、自分はそういうのはいいよと流されてしまう。

 少しだけ私の話をさせていただきます。KGKでは近隣の学校で集まりをもつブロックという交わりがあるのですが、私はそのブロックで役員の奉仕をしていました。そのブロックに東京藝術大学も含まれており、音楽の賜物豊かな学生が多くいました。そしてその年のクリスマス会で東京藝大のオーケストラを呼ぶこととなりました。クラシック音楽には全く疎い私ですらその人たちの賜物の凄さは分かりました。おそらく、普通に聞いたら5千円以上の価値があるようなレベルの方たちの演奏です。これなら少しはハードルも下がって足を運んでくれるかもしれない。そう思って勇気出して学校の友達を初めて誘ってみました。しかし、その友人の反応は「ついに勧誘が始まったなお前」と言われてぴしゃりと断られてしまいました。その友人は普段から学校生活を共にし、共に遊んだりする仲でした。そのように信頼関係がある中でも、こと信仰の話になると警戒心を持たれてしまう。

 福音が少しでも広がるようにと共用に祈祷会で祈り、頭も使い手も足も動かすけどなかなか状況が変わらない。そのような現実を目の当たりにするときに私たちの信仰が薄いからじゃないのかと自分を責めてしまう思いにさえなってしまいます。

 宣教は神様の働きだから人間の手じゃない。私の働きはどんなに小さくても神様は必ず用いられる。何度もこの言葉を聞きました。そしてそのことを信じて日々働きをしているつもりです。でも、そうは思えない現実があります。この日本に福音が伝えられてからずっとクリスチャンが日本の人口の1%未満です。そのような現実をみるときに、福音が決して揺るがない本物だということを知っているからこそ、その福音を伝えられないということは伝え方が悪い。そう考えてします。

 今日初めて来させていただきましたがこの教会でも数え切れないほどの祈りやお一人お一人の尊い捧げものや奉仕が積まれてきたのだろうと思います。

 神様あなたにすべてを捧げますと労力と時間をかけているだけに、うまくいかないときの徒労感や失望感はより大きなものになってしまうのではないでしょうか。そして、私たちの信仰がダメだからと自分を攻めてしまったり、どうせこんなもんだとあきらめのような思いになってしまうかもしれません。

 しかし、今日の箇所を見るときに、あのパウロでさえうまくいかなかったのだということに気づかされます。しかも、このときパウロは駆け出しではなく、多くの人々を信仰へ導き、迫害にも屈しなかった実績を持っているときにこの出来事が起きています。

 このような中で、パウロは次の18章9節で神様からの直接的な働きかけを通して励まされていきます。しかし、今日はあえて失意のどん底にある中でも働かれている神の業を見ていきたいのです。もしかしたらパウロは自分が語った言葉が真実でないほどまでに思ったかもしれません。実際パウロのアテネでの伝道活動の後、このアテネの地では教会が起きることはありませんでした。

 しかし34節を見てみましょう。34:しかし、彼に付いて行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオヌシオ、またダマリスと言う女やその他の人々もいた。

 このように、惨敗なだと思える状況であっても、主イエスを救い主として受け入れ、信仰に入っていったものたちが現れました。先ほど申したように、ほとんどの人々かにはあしらわれ、パウロの目にはこのアテネの地では神様が働かれなかったように見えました。しかし、神様は無力な方ではありません。

 少し前後しますが、前の24節をお読みいたします。24:世界とのその万物を造られた神がその方です。

 このように、福音を聞いてくれない。無視されているように感じてしまうときでも、パウロが語った通りこの世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は働かれています。この神なんていないものとされている現実も、確かに神様支配の中にあります。決して忘れられたり、ここはもうどうしようもない場所だと諦めたりはされていないのです。

 青葉台ナザレン教会があるこの地もそうです。これまでのお働きの中で、確かに「レオパゴスの裁判官ディオヌシオ、ダマリスという名の女の人、そのほかの人たち」がいたことでしょう。この地にも世界とのその万物を造られた神の支配があることを改めて覚えたいのです。

 2年ほど前にアメリカのアズベリー神学校という神学校で大リバイバルが起きたことを、ご存知でしょうか?YouTubeで英語でアズベリー リバイバルと検索するとその様子を見ることができます。動画を見てもらえると分かるのですが、5万人入る会場を貸し切って有名な牧師やミュージシャンを呼んでと言ったものではありません。神学の講堂で何人かが賛美をリードし、証、メッセージをするといったいたって普通の集会です。しかしそれを通してイエスキリストを信じる人が起こされ続け、24時間ぶっ続けで賛美、証、招きといった集会が続けられたそうです。人間の手では作られたものではない素晴らしい神の御業です。

 しかし、日本では中々そういうことは起こらない。むしろ逆で、なんとかリバイバルを願い、あの手この手で働きを続けてきたのに、そのようなことがまったく怒らない自分はあの福音によって人生が変えられたのに、人々はなかなか受け入れてくれない。しかし、今日開かれているように、多くの人が信じたから、とか信じないとかで福音の確かさが変わるわけではないのです。そして、その確かな信仰があるからこそ、「いずれまた聞くことにしよう」とあしらわれても、たとえ困難なでも忍耐を持つことができる。まこの世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神への信頼を通して、たとえ失敗に見えたときでも立ち上がることがきます。そして次はどうしていこうと、前向きに祈りながら次の手を考えることもできるのです。

 決し福音なんて彼らにとっては無意味なんじゃないかと思ってしまうような中であっても、「私たち」の誠実な働きを神様は決して見捨てない。今日2025年3月9日のこの時にも確かに神様は働かれています。この主の御業に信頼して、時がよくても悪くても主イエスを証するものとして歩ませていただきたいと願います。

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日曜礼拝(25年3月2日)

2025-03-02 12:46:37 | Weblog

日曜礼拝(公現後第八)        2025.3.2

  「愛のバッテリー(充電)は切れません」 ルカ10章25節~37節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。2025年も2か月が終わりました。3月は、様々な受験の方々もおられるのでしょうか。卒後式を迎えられる方、新しい歩みのための備えをしておられる方と様々なのでしょう。年度末を迎えて忙しくされている方々もおられるのでしょう。青葉台教会も2025年度の備えの時です。神様の導きの中で、最善の備えができますようにお祈り下さい。先週の「聖書とは」を通しての「魂の救いの導き方」セミナーには、50名ほどの方々が参加して下さいました。ちょっと、説明不足であったり、一方的で申し訳なかったです。今度、実践編ができたらと考えております。週報にも書きましたが、3月5日の水曜日からレント(受難節)が始まります。4月20日のイースターまでの日曜日(復活日)を除いた40日間です。この期間は、イエス様の十字架の苦しみを覚えながら過ごす期間です。

今日は、ルカによる福音書10章25節から37節を通して、「愛のバッテリー(充電)は切れません」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、神様を愛することと隣人を愛することはどちらも大切

 37節の最後には、イエス様の言葉があります。「そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」この言葉が、深い余韻となって残っています。イエス様は、エルサレムからエリコに下っていく途中に、追いはぎに襲われ、半殺しにされ、傷ついたユダヤ人に対して、3人の人がとった行動を話されました。神に仕える祭司やレビ人は、傷ついた人を介抱しないで、向こう側を通って去って行った。しかし、この傷ついた人とは敵対関係にあったサマリア人が、彼を介抱した、助けた話をして、36節にあるように、「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と問われ、37節前半の「律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」と答えたので、イエス様は律法の専門家に、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われたのです。イエス様が、「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」という質問に、律法の専門家は、「その人を助けた人です。」つまり、「サマリア人です。」ということです。イエス様は、サマリア人がしたように、目の前に困っている人がいたら、助けを必要としている人がいたら、相手がだれであれ、敵であれ、家族であれ、助けること、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と勧められたのです。

 なぜ、このような結果になったのかと言うと、律法の専門家が、25節にあるように、「イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」」と尋ねたことから始まりました。イエス様は、この質問に対して、26節「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と質問で返されました。律法の専門家は、27節で「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と答えたのでした。同じような質問をした人がいました。それは、イエス様が十字架につけられる週に、律法の専門家が、「先生、律法の中で、どの掟が最も重要ですか。」(マタイ22:36)と質問しました。その時イエス様は、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22:37-40)と言われたのでした。サマリア人が、傷つき倒れている敵、自分を見下す、差別するユダヤ人であっても、介抱して助けたのは、このサマリア人が、特別に良い人、慈悲深い人であったからとか、困っている人を見たら放っておけない性分、見捨てておけない性格だったからと言うのではないでしょう。サマリア人の行動は、旧約聖書の大切な教え、全身全霊を持って神様を愛すること、隣人を自分のように愛することを、身をもって実践した人物であるのです。神様の言葉に忠実に従い実行したのです。

 二、祭司とレビ人は宗教的な振る舞いでごまかしたのか

 追いはぎに襲われ、傷ついた旅人を介抱しなかった祭司とレレビ人は、悪者のように表現されています。30節、31節をリビングバイブルには、「ちょうどそこへ、ユダヤの祭司が通りかかりました。ふと見ると、旅人が倒れています。でも、めんどうに巻き込まれたくなかったので、そそくさと道の反対側へ回り、何くわぬ顔で通り過ぎてしまいました。しばらくすると、今度はレビ人〔神殿で奉仕する人〕が通りかかりましたが、彼も、倒れている旅人を横目でちらっとながめただけで、行ってしまいました。」とあります。祭司とレビ人は、傷ついた人を完全に無視したのではありませんでした。「その人を見ると」と聖書は語ります。傷つき、倒れている人を見ました。倒れて傷つき、血を流している人がいることを認めたのです。「かわいそうに。助けてあげようか。どうしようか。」と心の中で思ったのでしょう。けれども、祭司もレビ人も、近づくことなく、倒れている人の状況を確認することなく、向こう側を通って去って行ったのです。祭司もレビ人も神様に仕える人です。彼らは人を助けるのが仕事であり、日々聖書に親しみ、律法の要求をよく理解していました。エリコは当時、祭司やレビ人が住んでいたと言われています。エルサレム神殿では、毎週三百人の祭司と四百人のレビ人が仕えていたようです。祭司とレビ人の、それぞれの一族が年に二度、一週間ずつ神殿に仕えるようになっていたようです。エルサレム神殿での奉仕のために、エルサレムに上って行く途中か、神殿での務めを終えて帰る途中だったかなのでしょう。神殿での尊い奉仕のためには、傷ついて倒れている人の血に触れたり、もし死んでいたなら死体に触れてしまったら汚れてしまい、一週間は汚れの清めのために、尊い重要な奉仕ができなくなってしまうために、傷ついた人に近づかなかったということが考えられます。祭司やレビ人は悪人ではありません。聖書には、「どのような人の死体であれ、それに触れた者は七日の間汚れる。」(民数記19:11)や「自分の父母の遺体であっても、近づいて身を汚してはならない。聖所を離れて、神の聖所を汚してはならない。彼は神の聖別の油を頭に注がれている者だからである。わたしは主である。」(レビ記21:11-12)と神様の戒めがあります。たとえ自分の親の死体に触れた場合でも汚れてしまうのです。死体に触れてしまって、神殿に仕える当番に当たっている祭司やレビ人は、神殿に入ることができなくなり、祭司やレビ人を神殿で待っている礼拝者たちは、神様に礼拝することができなくなるのです。誰も勝手に神殿で祭儀を行うことはできないのです。祭司やレビ人たる者は、何があろうと清さを保って汚れを避けるために死体に触れることはご法度だったのです。ですから、傷つき倒れて死にかけている旅人を見た祭司もレビ人も、気の毒には思いつつも自分の大切な尊い神様への務めを忠実に果たすためにはやむなく、泣く泣く傷つき倒れている人を避けて、向こう側を通って行ってしまったのです。

この話の時代背景や旧約聖書の教えをよく考えると、祭司やレビ人の行動は、間違っているとは必ずしも言えないのです。聖書的に見るならば、祭司やレビ人の行動は、見て見ぬふりをしたという行動は、正しい行動だったと言えるのでしょう。汚れに敏感な祭司やレビ人は、神様の戒め、神様の言葉にあるように汚れから自分の身を守ることを最優先にすることが、何よりも神様に喜ばれることだと確信していたのです。「仕事と私とどっちを優先する、大切にするのか」と問われる世の男性は多くいるのでしょうか。祭司もレビ人も、神の言葉に、戒めに忠実であったと言えるのでしょうか。

 三、サマリア人の行為は神様の愛の現われ

 祭司やレビ人と違って、サマリア人は傷つき、倒れている人に近づき介抱しました。このサマリア人も、商売の途中であり、自分の仕事を最優先することは大切なことだったので祭司やレビ人と同じです。また、このサマリア人は、倒れ傷ついているユダヤ人を見て、過去のいきさつや民族的な恨みや確執は、確かにあったことでしょう。しかし、聖書は、33節では、「サマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、」とあります。サマリア人が、このユダヤを介抱し助けたのは、「そばに来ると、その人を見て憐れに思い」ということがあったからです。憐れみの心が、人種的偏見に勝利したと言えるのでしょう。「憐れみ」の原語は、「スプランクニゾマイ」で、「断腸の思いをする」という意味です。「はらわたがちぎれるほどに辛く苦しい思いをする」ということです。サマリア人は、傷つき倒れているユダヤ人を見て、自分のはらわたがちぎれるほどに苦しんだのです。だから、介抱し、手当をし、助けたのです。このサマリア人は、商人でこの危険な道を何度も通り、ある時は、追いはぎに襲われて、持ち物を全て奪われ、傷つき半殺しになり、誰も助けてくれなかったというとても辛い、苦しい経験をしたことがあるのかも知れません。そのような苦しい経験があったからこそ、今自分の目の前で傷つき倒れている人、それがどんな人であろうと、敵のユダヤ人であろうと近づき介抱したのです。サマリア人の行動は具体的です。34節、35節です。「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』」油、つまりオリーブ油は傷をやわらげ、ぶどう酒は消毒液となるのです。オリーブ油とぶどう酒は、神殿で用いられるものであったので、祭司もレビ人も携帯していたはずです。傷に包帯をして、ろばに乗せ宿屋に連れて行き介抱しました。デナリオン銀貨2枚とありますが、1デナリオンは1日の賃金だと言われますが、当時の一日の生活費は12分の1デナリオンだとも言われます。当時の2デナリオン銀貨は、男性一か月分の給料だとか1週間分の治療費だとかと言われ、さらに費用がかかるなら支払うとまで言うのですから、どれだけ親切なのでしょう。人と関わるためには、近寄る必要があり、世話をするとは自分の時間や労力、お金がかかるのです。人のために自分の時間を使い、人のために自分の労力を使い、人のためには自分のお金を使うということが、人と関わる、人の世話をするということなのです。「そばに来る」、「近寄る」人こそが、憐れみに思うことができるのです。イエス様は天の位を捨てて、人間の世界に神としてではなく、人として来られたのです。私たち人間のそばに来た、私たち人間に近寄って下さったのです。私たち人間を愛して下さいました。神様が私たちに与えて下さった愛というものは、抽象的なものではありませんでした。神様は私たち人間に、具体的に愛を現わして下さったのです。神であるお方イエス様は、私たち人間と同じ姿となり、私たちを滅ぼす罪の身代わりに十字架にかかり、裁かれ、尊い血を全て流し、御自分の命を私たち人間のためにささげて下さったのです。身代わりに死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たち全ての罪を赦し、義とし、魂を救い、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。天国への道を開いて下さったのです。神様の愛はこのように具体的な愛なのです。

 Ⅲ結論部

 神様が与えられた戒めを守るということは大切なことです。しかし、神の子である、救い主であるイエス様は、安息日の規定を破り、汚れた病いの人に近づき自ら触れられました。また、死人にさえ触れられたのです。そして、罪人と言われる人々の中に入っていき交わられたのです。これらの事は、律法学者たちから見れば、全ての事が律法違反でした。そのイエス様を、律法学者たちは責め立てたのです。イエス様は、御自分のなさることが、律法違反であることを承知の上で、御自分が責められることが分かっていながらも、苦しんでいる人々、悲しんでいる人々、辛い状況の中にある人々を助けるためになさったのです。全て愛から出たことでした。イエス様は、御自分の目の前で苦しんでいる人々、悲しんでいる人々、癒しを必要としている人々、困っている人々に近づき、見て下さり、声をかけ、癒し、解放し、必要を満たし、これらの人々の友となられたのです。律法学者たちは「隣人を愛し、敵を憎め」と教えましたが、イエス様は、「自分の敵を愛し、迫害する者ために祈る」ことを教えられたのです。傷ついて倒れていたユダヤ人は、今までサマリア人に対して見下し、敵とみていました。しかし、そのサマリア人から親切にされ、命が助けられて、敵としてしか見ていなかったサマリア人を隣人として、友人として認識するようになったのではないかと思うのです。

 イエス様は、サマリア人の行為を通して、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と勧められ、キリスト者の信仰が、日常生活の中で具体的な行動を通して目に見える形で現わされるようになることを願っておられるように思うのです。私たちキリスト者の信仰は、秘密にされ、誰にもわからないようなものではありません。信仰とは、私たちの全ての行動を通して、目に見える形で現わされるものなのです。「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエス様のお言葉は、私たちキリスト者の人生全体に関わることなのです。日曜日だけのキリスト者であってはならないのです。私たちが福音(イエス様の十字架の死と復活)を通して、キリスト者とされたということはとても素晴らしいことなのです。大きな恵みなのです。何よりもイエス様からいただいた愛の行為を実践できたらと思うのです。もし困っている人に出会ったら、人を助ける機会が神様に与えられている。神様が奉仕の機会を与えて下さった。愛の行為のチャンスの機会を与えられたと思えたらいいですね。偶然ではないのです。神様の御計画によって、人を助けるチャンスが神様によって与えられているのです。アンリ・デュナンと言う人は、戦場で傷ついた人たちを見て、このサマリア人のようになることを願って赤十字社を設立したと言われています。ここでの愛の行為は、サマリア人が傷ついた旅人を助けることでしたが、様々な機会によっては、その行動は変わってくるのでしょう。自分の今の状況や今自分の持っているものや賜物、自分の働きを意識し、覚えたいのです。神様の愛を現す機会が与えられたら、神様に勇気をいただいて、一歩前進して近づいて、行動に移すことができたらと願うのです。

 神様の愛はバッテリー(充電)が切れることはあり得ないのです。私たちはスマホや携帯電話を使用するためには、必ず充電しなければなりません。バッテリー(充電)が切れたら使いものにならないのです。どんなに高価なものでも意味がないのです。しかし、神様の愛のバッテリーは切れるどころか、常に注がれ続けているのです。常に満タンなのです。私たちは、イエス様に愛されている者として、愛に満たされている者として、「行って、あなたも同じようにしなさい。」というイエス様の言葉をいつも心に留めておきたいのです。イエス様は、この週も愛を注ぎ続けておられるのですから、何も心配しないで全てをイエス様にお委ねして、安心してイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(25年2月23日)

2025-02-23 12:35:26 | Weblog

日曜礼拝(公現後第七)        2025.2.23

      「見つけた宝は山分けにしよう」 列王記下7章1節~11節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第四日曜日の礼拝です。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。2025年も2月の最後の礼拝を迎えました。2月は逃げていきますね。3月はあっという間に去ってしまいますので、毎日毎日を、毎週の礼拝を大切にしていきたいと思うのです。今日は、旧約聖書列王記下7章1節から11節を通して、「見つけた宝は山分けにしよう」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、最も弱い存在が神様に用いられることになる

 サマリアの町はアラム軍の包囲により飢餓状態に追い込まれ、「ろばの頭一つが銀八十シェケル、鳩の糞四分の一カブが五シェケルで売られるようになった。」(列王記下6:25)のです。人々は自分たちの子どもさえ煮炊きにして食べたのです。サマリアの置かれた深刻な状況は、神様に対するイスラエル自身の罪によってもたらされたものでした。しかし、イスラエルの王はその原因を預言者エリシャが、自分の務めを十分に果たさなかった責任だと責任転嫁しました。イスラエルの王は、このような悲惨な事態をもたらした神様の代弁者エリシャを殺して打開を図ろうとしたのです。7章1節を見ると、「エリシャは言った。「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。』」」とあります。一セアは7リットルで当時の値段は100シェケル以上したようですが、それが1シェケル、百分の一になるというのです。エリシャは飢饉が終わると語りました。2節には、「王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう。」エリシャは言った。「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。」」とあり、これは侍従だけの言葉ではなく、王もサマリアの人々も信じることのできない内容でした。3節には、「城門の入り口に重い皮膚病を患う者が四人いて、互いに言い合った。「どうしてわたしたちは死ぬまでここに座っていられようか。」とあります。レビ記には、「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」(レビ記13:45-46)とあります。また民数記には、「イスラエルの人々に命じて、重い皮膚病にかかっている者、漏出のある者、死体に触れて汚れた者をことごとく宿営の外に出しなさい。」(民数記5:2)とあります。律法によれば、重い皮膚病患者は町に入ることは許されず、門の外側にいて、4人の重い皮膚病患者は、サマリアの人々の余りものや捨てたもので生きることができていたのです。けれども、飢饉のためにサマリアの町の人々も食べることもできないのです。この4人は、サマリアの町の人々の必要が見たされてこそ、生きることができたのです。飢饉のために、サマリアの町の人々に食べる物がないとしたら、人が生き残る確率は限りなくゼロに近いのです。4節には、「町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」」とあります。人が動く、行動する時というものは、現状をそのまま続けていても何も変わらないと知った時、悟った時なのでしょう。「町に入ろうと言ってみたところで、町は飢饉に見舞われていて、わたしたちはそこで死ぬだけだし、ここに座っていても死ぬだけだ。そうならアラムの陣営に投降しよう。」という行動に出るのです。そして、このことが自分たちを、そしてサマリアの町の人々を救うきっかけになるのです。神様は人間的に見て、マイナスにしか思えない人を用いて、祝福をもたらされるのです。今までの事をただ続けていても、何も変わらないと知る、悟ることが、神様の道に向き合うきっかけになるのかも知れないのです。もしかしたら、状況が、状態が何も変わらないことを続けているとしたら、今行動を起こす時なのかも知れません。ディボーションを通して、神様の導きを求めることが大切なのだと思うのです。

 二、与えられたものを分かち合うことによって

 5節には、「夕暮れに、彼らはアラムの陣営に行こうと立ち上がったが、アラムの陣営の外れまで来たところ、そこにはだれもいなかった。」とあります。「アラムの陣営に投降しよう。もし彼らが生かしてくれるなら、わたしたちは生き延びることができる。もしわたしたちを殺すなら、死ぬまでのことだ。」と意を決して、覚悟して、命をかけて陣営に来たら、誰もいなかったのです。それが現実でした。アラムの陣営に誰もいないのなら、何も苦しむことはなかったのです。命をつなぐための備えは、救いは現実のものとなっていたのでした。アラムの陣営に誰もいなかったことの理由は、6節、7節に記されています。「主が戦車の音や軍馬の音や大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたため、彼らは、「見よ、イスラエルの王が我々を攻めるためにヘト人の諸王やエジプトの諸王を買収したのだ」と言い合い、夕暮れに立って逃げ去った。彼らは天幕も馬もろばも捨て、陣営をそのままにして、命を惜しんで逃げ去った。」とあります。神様の直接的な介入でアラム軍は逃げて行ったのです。出エジプトしたイスラエルの民が、紅海を前にして、エジプトからのパロの軍隊が押し寄せて来て、絶体絶命の時、どうすることもできない時、神様はモーセに言われました。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」と。サマリアにいる王も人々も飢饉のゆえにどうすることもできない、絶体絶命の時、神様が直接介入されたのです。「主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。

 8節には、「重い皮膚病を患っている者たちは陣営の外れまで来て、一つの天幕に入り、飲み食いした後、銀、金、衣服を運び出して隠した。彼らはまた戻って来て他の天幕に入り、そこからも運び出して隠した。」とあります。食べ放題、取り放題の状況でしたので、4人は食べまくりました。天幕を次から次へと渡り歩き、食べて食べて食べ続けたのです。お腹が落ち着くと、銀や金、衣服も取り放題で持ち出しては隠し、持ち出しては隠しての連続でした。自分の好きなだけ食べられる、思う存分に銀や金、衣服を自分のものにできるというのは幸せなことでしょう。電気店に招待されて、「お好きなものをお好きなだけどうぞ。」と言われたら、パソコン、テレビ、携帯電話、冷蔵庫、洗濯機・・・そうなるのでしょう。4人は我を忘れて、食べ物を食べあさり、銀や金、衣服を持ち出しては隠したのです。使徒言行録10章11節から15節には、「天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」と言う声がした。しかし、ペトロは言った。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」すると、また声が聞こえてきた。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」」とあります。ユダヤ人は異邦人を「汚れた者」としていました。この4人の重い皮膚病患者は、「四隅でつるされて」「大きな布のような入れ物」の中にある汚れた生き物を象徴しているようです。異邦人の象徴でしょう。これは、イスラエルの回復に関する啓示なのです。神様の律法では、ユダヤ人が外国人(異邦人)の仲間に入ったり、訪問したるすることは禁じられていました。しかし、神様はペトロに、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と示されました。初め、ペトロは正しく悟ることができませんでした。イスラエルの人々もそうだったでしょう。飢饉の中で、エリシャは明日には飢饉は終わり食料が有り余るようになると預言しました。しかし、それはどのような方法でなされるのかということは知らされていませんでした。おそらくエリシャも知らなかったのでしょう。その方法とは、人間が全く予想もしなかった方法でした。神様の御計画と導きはいつもそうなのかも知れません。神様の方法とは、いつも私たち人間の想定外、思いもよらない方法でなされるように思うのです。サマリアの飢饉からの回復も、神様ご自身の業であり、誰もが見向きもしない、最も小さく、弱い存在の4人の重い皮膚病患者を用いて行われたのです。イスラエルの回復も預言も思いがけない方法で、神が人となるという、あっと驚くような方法で実現されていくのです。イスラエルに、サマリアの人々に食料が与えられたのは、王やサマリアの人々が悔い改めたからでも、サマリアの人々が神様に求めたからでもありませんでした。ただ、ただ神様の主権と愛と恵みと憐れみのゆえでした。世界を見ると、日本を見ると悲惨な事柄ばかりが目につきます。どこにも希望がないように見えます。しかし、私たち人間の世界に希望が持てなくても、希望が見えなくても、神様には、イエス様には希望があるのです。神様に、イエス様に期待したいのです。イエス様は言われました。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と。

 三、ただ伝えることが恵みに祝福につながる

 9節には、「彼らは互いに言い合った。「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」」とあります。宝を見つけたら、独り占めしたいというのが私たち人間の欲望でしょう。誰にも知らせずに、自分が全てをいただくというのは、発見した者の権利でもあるのでしょう。4人の重い皮膚病患者たちは、サマリアの人々からは、汚れた者だと差別され、見下され、腐ったものを与えたり、いじわるする人もいたでしょう。差別され、辛い、悲しい、経験をしてきたことでしょう。サマリアの人々に対して恨みの思いもあったでしょう。いつか仕返しをしてやりたいと思うのも当然です。ですから、アラム軍の陣営で、そこには誰もいなくて、食料は食べ放題、銀や金、衣服は取り放題の状況を自分たちだけのものにしても問題はなかったでしょう。自分たちはお腹を満たし、元気や気力が出てきて、サマリアの人々は未だに苦しんでいることに、「ざまあ見ろ」と何もせずにほおっておくこともできましたし、別に食料や銀や金、衣服が満たされていることを伝える必要も義務もなかったのです。しかし彼らは、「わたしたちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」と考えたのです。今の祝福は、自分たちの努力でも頑張りでも何でもありません。ただ、神様が与えて下さったのです。神様からの一方的な恵みと憐れみだったのです。10節には、「彼らは行って町の門衛を呼び、こう伝えた。「わたしたちはアラムの陣営に行って来ましたが、そこにはだれもいませんでした。そこには人の声もなく、ただ馬やろばがつながれたままで、天幕もそのままでした。」」とあります。神様がして下さった出来事を伝えたのです。サマリアの人々にとっては、大きな祝福でした。11節には、「門衛たちは叫んで、この知らせを中の王家の人々に知らせた。」とあります。そして、サマリアの人々は命をつなぐことができたのです。「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。」というエリシャの預言が成就したのです。ひどい飢饉の中で、「明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる。」という内容は信じがたい事柄です。このようになるという結果だけが伝えられたのは、それが神様の言葉であるという以外に信じるべき何の根拠もないのです。「もっと信じられるようなことを言ってくれれば、信じます。」と人は言うのかも知れません。しかし、神様の方法とは、神様のなさることは、神様のみ業は、私たち人間が自分の納得することを根拠に信じるということではないのです。イスラエルの王は、4人から伝えられた事を聞いても信じませんでした。アラム軍の策略だと思いました。どんな素晴らしい事でも信じない人はいるのです。イエス様の十字架と復活を通して与えられる救い、福音も、あまりにも素晴らしい事で、信じるだけで罪が赦される。永遠の命が与えられると聞いても信じられない人が多くいるのです。

 福音を伝えるとは、伝道するとは、食べ物のありかを見つけた者が、他の人々にそのありかを、その場所を教えてあげるようなものです。私たちは、先にイエス様の十字架の死と復活、福音の内容を聞いて、信じて救いに導かれました。イエス様が罪人の私のために十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さった。死んで墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて、罪と死に勝利された。イエス様の十字架の死と復活によって、全ての罪が赦されたことを信じて救われ、義とされた。そして、死んでも生きる命、永遠の命、天国の恵みをいただいたのです。この救いは、私たちの努力や頑張りではなく、神様の一方的な愛と、恵みと憐れみによるものなのです。福音を、良い知らせを受けた者だけが、その特権に与ることができるのです。特効薬を見つけた人はそれを秘密にすることなどできません。福音という魂の救い、死から救われるための特効薬を知っているのに、それを黙っていて自分のものだけにしていていいはずがないのです。この4人の重い皮膚病患者のように、その恵みを伝えたいのです。

 Ⅲ結論部

 私たちは、救い主イエス様の事や福音を伝えたいという思いは誰にでもあるのだと思います。でも伝えても信じない。受け入れないということを恐れることがあります。また、どのように伝えたらいいのか、わからないという方々も多くいると思います。その方法と秘訣は、今日の午後からのセミナー「「聖書とは」、を通して魂を救いに導く方法」でお伝えしたいと思います。ぜひ参加してみてください。損はありません。私はあるセミナーに出て、「聖書とは」に出会って変えられました。私は魂を救いに導くことのできない牧師でした。魂を救いに導く専門家だと言われる牧師なのに、魂を救いに導くことができませんでした。セミナーの講師は、「福音を福音として相手にわかるように伝えれば、それを、つまり福音を否定する理由はない。」とはっきり言われました。「この方法で魂を導くならば、100%成功します。」と言い切ったのです。その時私は、「うそだ~」と思いました。「100%は言い過ぎ!」と思った。講師はまた、「読めばいいだけです」と言ったのです。ですから、「何もしないで魂を救えないままでいるなら、このやり方を学んで、読むだけでいいなら、やってみよう。だめならだめで、今と別に変らない。」私は、この学びに、救いの方法に飛びつきました。学んで、必要な内容を書き込ん準備が完成したら、「ピンポン」とある青年が教会に訪ねて来たのです「よし、この青年にやってみよう」とやったら、彼は救われたのです。読んだら救われてしまった、というのが正直な感想でした。セミナーの講師は、「福音を福音として相手にわかるように伝えれば、それを、つまり福音を否定する理由はない。」と言われた。読んだ内容が福音を福音として伝えたのです。わたしは、今まで多くの人々に福音を伝えてきました。そして、伝えた100%の人々が救われてきたのです。うそではなかったと今では思っています。魂を救うのは、私たち人間ではありません。神様なのです。聖霊の働きなのです。私たちは、救いの内容、福音を、良い知らせを伝えるだけでいいのです。福音放送で有名であった羽鳥明先生は、自分の弟を初めて教会に連れて行きました。この弟は、東京大学工学部出で、共産党員で唯物論者でした。その弟さんを初めて教会に誘った日がイースター礼拝でした。羽鳥先生はメッセージが始まって、「しまった」と思ったそうです。イースター礼拝ですから、「十字架と復活が語られ、復活が強調される。弟は絶対に信じない。当分、弟は教会に来ることはないな。」と思ったそうです。しかし、そこで語られた十字架と復活、福音、良き知らせを聞いて、弟さんは救われ、神学校に行き牧師となられたのです。パウロは、福音を「良き知らせ」と呼びました。パウロは言います。「もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。」4人の重い皮膚病患者たちは、良き知らせと伝えました。それだけなのです。後がどいうこうとは考えていません。それでいいのです。私たちがイエス様を、福音を伝えても、その人が救われるか、救われないかは、私たちの責任ではあません。責任にしてはならないのです。私たちがすることは、イエス様の十字架と復活、福音を仕えるここまでなのです。私たちは驚く宝の山を、福音をすでに発見しているのですから、まだ知らない人々と山分けをしようではありませんか。この週もイエス様に委全ての重荷を委ねて、安心してイエス様と共に歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(25年2月16日)

2025-02-16 17:56:22 | Weblog

主日礼拝

2025年2月16日

「キリスト者の帝王学」詩篇21篇(新共同訳)

 

1導入部

みなさん、おはようございます。一言、お祈りをします。…

12月以来の奉仕になります。最初に自己紹介をしたいと思います。塚本良樹と申します。私は、2018年から2021年3月まで、この教会で青年担当牧師、ユースパスターとして奉仕していました。この教会で結婚式を挙げさせていただきまして、本当にお世話になりました。今は、だいたい年に2回のペースで来させていただき、ご奉仕させていただいています。

さて、私がこの教会にいたときから、詩篇を連続して語らせていただいていました。前回は20篇でしたので、今日は21篇から語らせていただきたいと思っています。

 

2本論部

一.王たちのために祈ってきたか?

この詩篇 21篇もまた、前回の20篇と同様、「王の詩篇」と呼ばれます。12月に、私が詩篇20篇から語ったとき、私たちはこの世の王たちのために祈っているか、ということが問われたかと思いますが、その後いかがでしょうか。

クリスチャンにとって、家族のため、友人のため、教会のために祈ることは比較的身近に感じると思いますが、王のために、国のリーダーのために祈るというと、少し心理的な距離があるという方もいらっしゃると思います。

日本にいる王とは誰でしょうか。天皇、総理大臣、国会議員、官僚たち、市長や市議会議員、そして選挙権をもつ全ての国民が、権力を持っています。この日本を動かすことができるわけですが、この王たちのために、私たちは祈ってきたでしょうか。正直に言えば、私自身はあまり祈れなかったなあと思います。

 

二.混乱を極める世界の状況

先週の火曜日、2月11日は「建国記念の日」でした。お休みの日でしたが、なぜこの日が「祝日」、正式には「国民の休日」ですが、なぜお休みかはご存知でしょうか。

それは、日本の神話によれば、神武天皇という初代の天皇が即位した日とされており、もちろん神話ですので、事実ではないということで、あくまでも記念日ということで「の」がついているんですよね。なので「建国記念日」とは言わないですし、「祝日」と言うのはどうなのか、と言われたりするわけですが、この日本という国が、異教の国、神道の国であるということを最も感じる日の一つであると思います。

私たちが生きる日本の政治的状況は非常に厳しいものです。もっとも身近な問題は物価高でしょう。重い税金の問題、不正の問題、そして日々悲しい事件が起きる。メディアの問題もある。世界に目を向けると、アメリカや韓国では社会が分断され、イスラエル・パレスチナの地では、ウクライナ、コンゴなど、多くの地域で、血が流され続けている。そのような状況のなかで、今現在、この世界で立てられている王たち、政治家や官僚たちも、もちろん努力はしていると思います。その意味で敬意は払いたいと思いますが、とても良い支配ができているとは言い難いと思います。

本日のメッセージのタイトルは、「キリスト者の帝王学」とさせていただきました。「帝王学」というのは、通常は、王様や皇帝など、特別な地位、リーダーシップを取る人が、その立場にふさわしい能力を養うために受ける教育を意味します。聖書のなかで、王のあるべき姿、つまり帝王学については多くの記述がありますが、この詩篇21篇も、王がどうあるべきか、王がどのように生きることが幸いであるか、ということを描いている、詩篇ですので歌っている、そんな聖書箇所の一つなのです。

 

.神の力と救いを喜ぶ

前置きが長くなりましたが、早速詩篇21篇を読んでいきたいと思います。2節からをご覧ください。

 

21:2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い/御救いのゆえに喜び躍る。

 

まず、詩篇21篇で語られている、王のあるべき姿、帝王学は、「神の力と救いを喜ぶこと」です。神の力と救いを喜ぶこと。

みなさんは、神の力と救いを喜んでいるでしょうか。そのような賛美を歌うことはありますが、私自身の日々を振り返ると、クリスチャンとして、神様を信じてはいても、神様の力と救いを喜んではいないということが多くあります。実質的には神様の力を信じることなく、自分の力の方を、人間の力を信じてしまう、頼ってしまうことがあります。私自身、自分が、自分の力、人間の力に頼っているなぁと気づくのは、どういうときかと言うと、祈らないときです。

みなさんは分かりませんが、私の傾向として、何かトラブルがあったときに、祈るよりもまず、対策を考えたり、調べたりするんですね。実はこのメッセージを準備しているときにも、ちょっと家でトラブルがあって、この部分をすでに書いていたにもかかわらず、まず祈るよりも、対策を考えていた自分がいて、恐ろしくなりました。

もちろん誤解しないでください。「自分の頭で考えたり、調べたりすることなんて不要で、ただ祈っていれば良い!」という意味ではありません。まず祈って、神様に頼って、神様からの知恵を求めて、その上で、考えたり、調べたりすることが大切なのです。みなさんはいかがでしょうか。お仕事で、あるいは日常のなかで、何かトラブルが起きたとき、まず神の力に頼っているでしょうか。まず祈っているでしょうか。

王の働きにおいて、リーダーの働きにおいて、トラブルはつきものです。繰り返しますが、そのときに、人間の知恵、歴史から、あるいは周囲の人から助けられることも大切です。しかし、すべての人間よりも、力があるのは神である。だからこそ、まず、神の力に頼っているか、神の力を喜んでいるかということが問われるのです。

あるいは、神の救いを喜んでいるでしょうか。自分たちが救われたという事実の重みを感じないということが、私自身にもあります。それは、自分の弱さを忘れているときです。私は人生のなかで何度か、自分の弱さに打ちのめされる経験をしました。それは辛い経験でしたが、そのときに、最も謙虚にされ、そして同時に、イエス様の十字架の重みを最も感じたという意味では、本当に幸いな経験でした。私たちは、神の力と救いを喜んでいるでしょうか。詩篇21篇は、「神の力と救いを喜ぶこと」、それが第一に、王に求められることであると言うのです。

 

.正直に願う

 その上で、王のあるべき姿、帝王学の二つ目は、「正直に願うこと」です。正直に願うことです。3節からをご覧ください。

 

21:3 あなたは王の心の望みをかなえ/唇の願い求めるところを拒まず〔セラ

21:4 彼を迎えて豊かな祝福を与え/黄金の冠をその頭におかれた。

21:5 願いを聞き入れて命を得させ/生涯の日々を世々限りなく加えられた。

 

 神は、「王の心の望みをかなえ/唇の願い求めるところを拒ま」ない。「願いを聞き入れて命を得させ」てくださる。すごいことを言っていますが、そもそも、私たちはどれくらい神様に願っているでしょうか。私自身、もちろん祈りますし、願いごとも神様に伝えますが、けっこう当たり障りのないことばかりというか、いずれにしても叶いそうなことばかり祈ってしまうことがあります。守ってください、みたいな。私たちは正直に願っているでしょうか。

 神様は、王の「願い求め」を「拒ま」れないとあります。すべての祈りが確実に神に届いています。神様はすべての祈りを「聞き入れて」くださっています。神様は、「王の心の望みをかなえ」てくださるとあります。神は、私たちの願いを叶えてくださる。もちろん、全ての願いが、私たちが想像するタイミングで「かなえ」られるとは限りませんが、必ず、最善を為してくださる。

4節に「豊かな祝福」とあります。この「祝福」という言葉も、私自身けっこう誰かのために祈るときに軽く使っちゃう言葉なのですが、この言葉は、「私たちの幸せは、神に由来する、神が一方的に与えてくださったものである」という信仰に基づいた言葉です。私たちの幸せは、神に由来する、神が一方的に与えてくださったものである。続く「黄金の冠」というのは、勝利の象徴ですが、それを王の「頭にお」いてくださるのは、神なのです。ただ神が、そのみこころのままに与えてくださるのが勝利であるという信仰を表しています。

5節に「命を得させ生涯の日々を世々限りなく加えられた」とあります。これはただ長生きすること、長寿を祈っている可能性もありますが、「世々限りなく」、つまり永遠を祈っていますので、ちょっと君が代っぽいですよね。君が代は、もともとは恋愛の歌、あるいはただ長寿を願う歌であるとされていますが、明治時代以降は、天皇が支配する世界が、千代、万代、いや永遠に続きますように、という聖書の終末論と真っ向からぶつかる歌とされていますが、まことの神様に、健康が与えられ、長寿が与えられるように、病気から、怪我から、事故から、災害から守られるように祈ることは大切なことです。そして仮に、この地上で死を経験するとしても、永遠のいのちが与えられることを、感謝しつつ、その確信が与えられ、死の恐怖から守られるようにと、正直に願うことも大切なことです。

続く6節をご覧ください。

 

21:6 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。

21:7 永遠の祝福を授け、御顔を向けられると/彼は喜び祝う。

21:8 王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ/決して揺らぐことがない。

 

ここでも、神の「救い」、「永遠の祝福」、「神の慈しみ」という言及がありますが、このようにたくさんのものを与えてくださる「主に依り頼む」とき、「決して揺らぐことがない」ことが語られます。

私たちには、「揺ら」ぎそうになることがあります。この世界にあって、思いがけない状況に直面するときに、揺らぎそうになります。実は、このメッセージを作っているなかで、ある夜、クタクタに疲れてしまうときがありました。体の疲れだけでなく、仕事でもあまりうまくいかなくて、落ち込んでしまったときがありました。妻と息子が励ましてくれ、祈ってくれ、また親族も祈ってくれたのですが、私自身も、神様に正直に祈りました。そのなかで、不思議と平安のうちに眠ることができ、朝には回復できました。

王にとって、リーダーにとって、最大の敵は何でしょうか。もちろんいろいろありますが、私が思うのは、疲れであると思うのです。リーダーは重い責任を負っていますので、リーダーであるという事実だけで、生きているだけで疲れます。そして、疲れるとき、私たちは恐れに、不安に、疑いに支配されやすくなります。そして、疲れがあるとき、恐れに、不安に、疑いに支配されるとき、リーダーは、判断を間違えます。過剰に誰かを攻撃してしまうことだってあります。だからこそ、休むことが大切ですし、特にそのなかで、正直に祈る、神様と真正面から向き合うことが大切なのです。「正直に願うこと」。これが、王に求められる二つ目のことです。

 

五.やがて正義がなされることを覚える

最後に、王のあるべき姿、帝王学の三つ目のことは、「やがて正義がなされることを覚えること」です。

やがて正義がなされることを覚えることです。9節からをご覧ください。

 

21:9 あなたの御手は敵のすべてに及び/右の御手はあなたを憎む者に及ぶ。

21:10 主よ、あなたが怒りを表されるとき/彼らは燃える炉に投げ込まれた者となり/怒りに呑み込まれ、炎になめ尽くされ

21:11 その子らは地から/子孫は人の子らの中から断たれる。

21:12 彼らはあなたに向かって悪事をたくらみ/陰謀をめぐらすが、決して成功しない。

21:13 かえって、あなたは彼らを引き倒し/彼らに向かって弓を引き絞られる。

 

ここで語られていることは、やがて悪は滅び、必ず正義が実現するということです。今のこの地上においても、正義が実現することはあります。神は、この世界を、宇宙を正しいものとして、造られたので、もちろん罪があっても、ある程度の正義がなされている。クリスチャンじゃなくても、良い人はいっぱいいます。

でも、それでも、この世界の現実を見ると、そこには、不正が、貧困が、戦争があります。とても正義がなされているとは思えない現実が広がっています。でも、その世界のただなかに、イエス様が来られ、そのことばと行動によって、特に十字架にあって、愛を、正義を示されました。そして、教会を通して、今日も、この世界に愛と正義を広げようとしておられる。そして、やがてイエス様はもう一度来られ、最終的に愛と正義をなしてくださる。

このことを覚えていないと、このことを思い出し続けないと、私たちは恐れに、不安に、疑いに支配されてしまうのです。このままこの世界はダメになっちゃうんじゃないか。自分が今やっていることに意味なんてないんじゃないか。死んだら何も残らないんじゃないか。

これは何度も話していることなので、聞き飽きた方もいるかもしれませんが、大切なことなので今日もお話しますが、私は映画やドラマを観るときには、最新版でなければインターネットに「ネタバレ」のウェブサイトがあると思うのですが、観る前に、終わりがどうなるかをチェックしておくんです。あくまでもチラッとです。そうでないと楽しみがなくなってしまうので。

そして、そうすると、安心するんです。ああいろんなことがあっても、ドキドキすることがあっても、苦しみがあっても、最後はこうなるんだな。最後はハッピーエンドなんだなって分かる。そうすると、安心して映画を観られるわけです。これは全く理解されない私の趣味のようなものですが、何が言いたいのかというと、クリスチャンの人生は、そのようなものであるということなのです。

終わりの日、イエス様がもう一度来られるとき、すべての出来事の意味が分かるのです。すべてを、悪く見えたことさえも、益としてくださった、良いものとして用いてくださったことが分かる。それまでの間も、クリスチャンは、すべての出来事に意味があるってことは知っています。それはすごいことです。でも、すべての出来事に意味があるってことは知っているとしても、どんな意味かということは分からないことの方がほとんどです。「このためだったのか!」と分かることもあります。それは感謝なことです。でも、分からないことの方が多い。簡単には、答えが出ないことの方が多いのです。

でも、私たちは知っているのです。物語の最終ページをチラッと見たのです。全部は分からない。終わりに至るまで、何があるのか、終わりはどのようなものなのか、分かることもありますが、分からないこともあります。でも、私たちは知っているのです。終わりはハッピーエンドであることを。そこには愛と正義があることを。終わりの日、私たちはダビデとともに賛美するのです。14節をご覧ください。

 

21:14 御力を表される主をあがめよ。力ある御業をたたえて、我らは賛美の歌をうたう。

 

その日を待ち望むゆえに、私たちは、物語の途中に何があったとしても、苦しみのなかを通るとしても、涙を流すことがあったとしても、終わりにあるものに安心しながら、辛いときには正直に祈りなが

ら、神の力と救いを喜びながら、安心と、自信と、確信をもって歩み続けることができるのです。

 

3結論部

この詩篇21篇は、「キリスト者の帝王学」として、神の力と救いを喜ぶこと、正直に願うこと、やがて正義がなされることを覚えることの幸いを語っています。

私たちは、この世界に立てられた王たちが、そのように生きることを、この世界の悪が、悲しみが少しでもなくなるように祈りたいと思います。そして、同時に私たちが覚えたいのは、これも前回お話ししたことですが、聖書からすれば、キリスト者一人ひとりが王として、この詩篇21篇で歌われているように生きることができるということです。

この詩篇21篇を書いたとされるダビデは、この詩篇のように生きることができた、王としての使命に生きることができた時期もありましたが、結局は失敗しました。ダビデ以降の王たちも、基本的には失敗しました。しかし、ダビデの子孫としてこの世界にお生まれになったイエス様は、この世界の王として、正しくこの世界に仕えられました。そのことばと行動によって、特に十字架にあって、愛を、正義を示されました。その意味で、イエス様は王として来られましたが、しもべとして終わりまで仕えられました。

そして、イエス様は、イエス様を信じるキリスト者に、イエス様と同じように、王としてこの世界を支配することを、この世界を管理することを、しもべとして、この世界に仕えることを、この世界に愛と正義をもたらすことを求めておられます。

もちろん私たちがなすことには、限界があります。失敗があります。戦いは励しいのです。誘惑はあるのです。それでも、私たちは諦める必要がないのです。なぜなら、イエス様が、あなたを、そしてこの世界を諦めておられないからです。イエス様の力、復活の力、聖霊の力によって、少しずつでも、この世界に愛と正義をもたらすことを、神の力と救いを喜びながら、正直に願いながら、やがて正義がなされることを覚えながら、平安のうちに、「キリスト者の帝王学」をなす歩みへと、イエス様は、この礼拝からあなたを遣わされようとしているのです。

この世界に、愛と正義をもたらすために、あなたにできることは何でしょうか。小さなことでも良いのです。大切なことは、大きく祈って小さく始めることです。あなたが王として、なしたいと願うは何でしょうか。

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日曜礼拝(25年2月9日)

2025-02-09 12:45:21 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)        2025.2.9

        「神様の次の一手」 ヨハネ1:35-422

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日の礼拝です。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美、礼拝できますことを感謝致します。日本海側では、大雪のために大変な状況です。神様の確かなるお守りとお助けがありますように祈ります。

 人生は出会いで決まると言われます。私たちは母から生まれてから、様々な人々に出会ってきました。家族親族、友人知人、学校会社、地域、それを越えて様々な出会いを経験してきました。そして、その人との出会いが人生を全く変えるような出会いになるということもあるのです。特に、私たちはイエス・キリスト様との出会いが、人生を変えるきっかけになったという方々が多いのでしょう。今日は、イエス様に出会い、人生が変えられた人々について、ヨハネによる福音書1章35節から42節を通して、「神様の次の一手」と題してお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、バプテスマのヨハネが指し示す救い主イエス様

 35節、36節を見ると、「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。」とあります。旧約聖書の最後の章のマラキ書(3:23)には、救い主、メシアが来る前に道備えとしてエリヤが来ると記しています。このエリヤと表現された人物が、バプテスマのヨハネでした。35節の「ヨハネは」は、バプテスマのヨハネの事です。バプテスマのヨハネは、「悔い改めよ、天国は近づいた。」(マタイ3:2)と情熱的に語り、力強い宣教に多くのユダヤ人が悔い改めて、ヨハネのもとに集まり、悔い改めのバプテスマを受けていました。力強い働きをしているバプテスマのヨハネの事をユダヤ人たちは、「もしかしたら、この人こそがメシア、救い主かも知れない」と期待し、弟子となる人々も多くいたのでしょう。けれども、バプテスマのヨハネは、自分がメシアではなく、メシアの道備えのために遣わされた者であることを理解していました。彼は、イエス様の事を「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」(ヨハネ1:27)と紹介していました。リビングバイブルには、「私には、その方のしもべとなる資格もないのだ。」とあります。また、イエス様を指して、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)と紹介していました。バプテスマのヨハネは、イエス様に洗礼を授けましたが、洗礼を授けた後、霊が降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と声が聞こえ、こう言っています。「水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」(ヨハネ1:33-34)と。このことを通して、バプテスマのヨハネは、イエス様を神の子、メシア、救い主と確信できたのでした。

 バプテスマのヨハネが、「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」と言っていたので、ヨハネの弟子たちは、当時バプテスマのヨハネは偉大な教師であったので、その先生の言う「私には、その方のしもべとなる資格もないのだ。」と言うもので、どのように偉大なお方なのかと考え、会ってみたいと思う弟子たちも多くいたのでしょう。バプテスマのヨハネは、イエス様を見て、リビングバイブルには、「その姿を食い入るように見つめながら」とあり、「見よ、神の小羊だ」と言ったのです。かねてから、自分よりも偉大なお方だと語っていたイエス様を指し示したので、二人の弟子は驚いたことでしょう。37節には、「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」とあります。自分たちの先生であるバプテスマのヨハネが、「私には、その方のしもべとなる資格もないのだ。」と言っておられたお方が目の前にいて、二人の弟子たちはどうしてもイエス様と話がしたい、交わりたい、どんな方なのかを知りたいと願ってイエス様について行ったのです。普通なら、自分の弟子たちが自分から離れて、自分の元から去って、イエス様について行った。他の人の弟子になるということには寂しさ、切なさを感じることなのでしょう。しかし、バプテスマのヨハネは、喜んだのです。彼は、自分の使命を理解していました。自分はメシア、救い主であるイエス様の道備えのために遣わされたこと、イエス様を指し示すことが自分の使命であることを知り、自分の弟子たちが、イエス様の弟子となるなら、こんなうれしい事はなかったのでしょう。与えられた使命に生きるということは、とても大切な事であり、素晴らしい事なのです。

 二、イエス様のもとに導かれている私たち

 37節の「二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。」とありますので、バプテスマのヨハネのイエス様を指し示す言葉によって、あえてイエス様について行くように導いたということでしょう。バプテスマのヨハネの証言が、二人をイエス様に従わせたのです。「イエスに従った。」とは、新改訳聖書や口語訳聖書では「ついて行く」とありますが、この「ついて行く。従う。」とは、ただ後をついて行く。後に従うという意味ではなく、「同じ道を進む」という意味で、二人の弟子たちは、イエス様の弟子になることを決心してついて行った。従ったということなのです。38節の前半には、「イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。」とあります。ヨハネによる福音書では、イエス様の最初の言葉です。私たちにとって、何を求めて生きるかということは、とても大切な事柄です。38節後半から39節には、「彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。」とあります。二人は、何を求めているかと問われ、「どこに泊まっておられるのですか」と問いました。当時の教えは、路上で歩きながら教師が教えたようですが、イエス様と歩きながら教えを乞うということだけではなく、イエス様と共にその場所にとどまり、自分たちの思いを聞いてもらい、そのことについての答えをいただきたい。イエス様との行ずりの会話や交わりではなくて、ゆっくりと交わること、イエス様の事を知ることを望んだのです。「泊まる」という言葉は、「つながる。とどまる。」と訳せる言葉です。関係とか、絆という意味を持つ言葉です。私たち人間は、つながりの中で生きるものであり、関係の中で形作られていくものなのです。そのような二人の思いに対して、イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」と答えられました。英語では、「Come and sea」とあります。「私と一緒に来なさい。私と共に歩みなさい。そうすれば、泊っているいる所が分かり、そこで何を求めて生きたらよいかわかります。」ということでしょう。二人は、イエス様の所に泊まり、寝食を共にし、深い交わりをすることができ、イエス様がバプテスマのヨハネが指し示していた救い主、メシアであることを信じ、メシアと認め、イエス様の弟子となったのです。二人は、イエス様をメシア、救い主であると信じることによって、イエス様との新しい関係を持って生きる者とされたのです。40節を見ると、「ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。」とあります。アンデレは、イエス様に出会い、イエス様と交わりイエス様に触れていただいて、感動して、イエス様との関係の素晴らしさと、感動を自分一人にとどめておくことができなかったのです。一人でも多くの人にイエス様の事を紹介したいと心から願ったのです。もう一人の弟子は、ヨハネによる福音書を書いたヨハネであろうと言われています。イエス様との出会いが、出会った者に感動と喜びを与えるのです。私たちもイエス様を知った時の、信じた時の感動が、喜びがあったのだろうと思うのです。

 三、私にできることを喜んでしていこう

 41節、42節には、「彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。」とあります。アンデレは、兄弟シモンに、「メシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と伝えました。リビングバイブルには、「アンデレはシモンを捜し出し、「とうとうメシヤ〔訳すとキリスト〕様にお会いしたよ」と言いました。」とあります。アンデレは、「シモンを捜し出し」とあるように、シモンにイエス様、メシア、救い主に会ったことを伝えたかったのです。そして、伝えただけではなく、シモンをイエス様の所に連れて行ったのです。リビングバイブルには、「彼をイエスのところへ引っ張って行きました」とあり、何が何でもシモンとイエス様とを出会わせたかったのです。イエス様は、シモンを見ると、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われたのです。イエス様は、アンデレにはそのように名前を付けるということはなさいませんでした。ペトロは特別だったのでしょうか。イエス様はシモンに、「ケファ――『岩』という意味」と名付けられました。「ケファ」とはアラマイ語で、ギリシャ語では「ペトロ」です。聖書の中で、アンデレとペトロを比べると、ペトロの方がはるかに多く登場します。そして、アンデレを紹介する時は、40節にあるように、「シモン・ペトロの兄弟アンデレ」という紹介なのです。アンデレは、今日の個所と、ヨハネによる福音書6章のパンの奇跡の時、五つのパンと二匹の魚を持つ少年を見つけてイエス様に紹介した時とヨハネによる福音書12章で、何人かのギリシャ人が、イエス様にお目にかかりたいと願った時、イエス様に紹介した時だけでした。アンデレが紹介される時は、いつも誰かをイエス様に紹介することだったのです。アンデレは、自分の兄弟、少年、異邦人と言う人を分け隔てなくイエス様のもとに導いたのです。アンデレは聖書において、福音宣教においては、脇役に徹したと言えるのでしょう。ペトロのように大説教をしたこともありません。指導的な役割を持つこともありませんでした。アンデレはいつも兄弟ペトロの陰に隠れて、ペトロばかりが目立ちました。イエス様は、アンデレが連れて来たシモンを見た瞬間、「ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われました。ユダヤ人にとっては、名前というものは単なる呼び名ではありません。その人、そのものを表すと言われています。シモンは、元々漁師として激しやすい性格でした。失敗の多い人物でした。イエス様の弟子になっても、それは変わりませんでした。そのペトロは、イエス様に岩という名前が与えられたのです。この時点で、ペトロには岩と呼ばれるのにふさわしいものは何もなかったのでしょう。しかし、これからイエス様の弟子となり、幾たびかの失敗を繰り返しながらも、イエス様に教えられ、支えられ、励まされて、愛されて、岩と呼ばれるのに、ふさわしい人物、弟子と変えられていくのです。それは、イエス様はペトロが何度失敗を繰り返そうとも、不信仰な言葉や態度があっても、見捨てることなく、ペトロを受け入れて、愛して下さり、立ち直らせて下さったからなのです。

 アンデレから見たら、ペトロは特別扱いです。アンデレはヨハネと共に最初にイエス様に出会いイエス様を信じ、最初の弟子とされた者でした。それなのに、イエス様は大事な時は、ペトロとヨハネとヤコブだけを連れて行きました。「あれ、ペトロとヨハネとアンデレじゃないんんですか」ということでしょう。何といっても、ペトロがイエス様に出会えたのはアンデレのおかげだったことは間違いない事なのです。しかし、アンデレはそんなことは、これっぽっちも思っていないのです。アンデレは、有名で目立っているペトロの背後で、ペトロが脚光を浴びることに満足し、喜んでいたのです。ペトロがイエス様に用いられれば用いられるほどに、アンデレは自分の事のように喜んだのです。目立って用いられるということや日の目を見ること、地位や名誉といったものは、アンデレにとっては、全くつまらないものだったのでしょう。アンデレにとっては、イエス様のそばにいること、イエス様と共にいること、力の限りイエス様に仕えることが喜びでした。いつも謙遜に、忠実に、心からイエス様に仕えることは当然のことだったのです。そして、何よりもアンデレは、イエス様に人を紹介すること、イエス様の所に人を連れてくることのスペシャリストでした。この事に関しては、アンデレの右に出る者はいない。ペトロもヨハネもヤコブも及ばないのです。アンデレは、イエス様に人々を紹介することを、何よりも喜びとしたのでした。それがアンデレの働きだったのです。私たちは人をまねる必要はありません。それぞれに、神様から与えられた賜物は違います。私たちは、目立っても、目立たなくても、用いられても、用いられなくても、神様の働きのひとつに加わり、その働きが神様に豊かに祝福されることを期待して、イエス様に、教会に、人々に仕えていきたいのです。

 Ⅲ結論部

 42節には、「イエスは彼を見つめて」とあります。「見つめて」とは、原語で「エムブレペイン」とあり、「精神を集中して凝視する」という見つめてなのです。それは、表面に現れたものだけを見るのではなく、その人の心まで読み取るように見つめるということです。イエス様は、ペトロの現在の姿、問題だらけのペトロを見ただけではなく、ペトロの可能性を見たのです。漁師のペトロをだけを見たのではなく、ペトロと言う岩、彼の信仰の上に教会を建てられることを見られたのです。神様は私たちに対しても、現在の姿、弱さや小ささ、失敗の姿だけを見るのではなくて、未来の私たち、どのような形であっても、神様の働きをする私たちの姿を見ていて下さるのです。神様は私たちを、イエス様の十字架と復活を通して、罪赦された者、義とされた者、救われた者、永遠の命を持つ者と見て下さり、私たちに目を留めていて下さるのです。イエス様は、私たち一人ひとりにとって、次の一手を用意して下さり、見ていて下さり、考えていて下さるのですから、どのような立場や状況に立たされようとも、イエス様を信頼して、安心して、イエス様に全ての事をお委ねして、この週もイエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(25年2月2日)

2025-02-02 12:44:21 | Weblog

日曜礼拝(公現後第四)        2025.2.2

   「いつでも、どこでも、だれにでも」 ヨハネ4:1-6.39-42

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日の礼拝です。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美、礼拝できますことを感謝致します。2025年も早いもので、あと332日を残すもものとなりました。1月は行きました。2月は逃げます。3月は去ると言われます。あっという間に月日は流れます。私たちは、この月も毎週の礼拝を大切にして、礼拝のために祈りつつ、喜びと期待を持って礼拝に直接会堂に来て、オンラインを通して家庭で、置かれた場所で礼拝をささげていきたいと思うのです。

 2025年も1か月が過ぎましたが、世界では大火事や飛行機事故、日本においても、事故や災害があります。あと11か月、私たちは、世界においても、日本においても、神様のお守りがありますように日々祈りをささげたいと思います。今は、いつでも、どこにいても、だれといようとも、事故や災害に見舞われるということがあります。ですから、事故や災害に遭わないように気をつけることも大切です。事故や災害に遭わないようにと家から一歩も出ないという方々がおられるかもしれませんが、案外家の中での事故は多いようです。ですから、肉体的な事、外面的なことに注意しながらも、やはり聖書が語るように、罪からの赦しと魂の救い、永遠の命をいただいていることを確信すると共に、この恵みを一人でも多くの人々に紹介したいのです。たとえ、命を落とすようなことがあろうとも、罪の赦しと魂の救い、永遠の命を持つ者に与えられる天国の望みを紹介するという、先に救われた者の責任と働きがあるのだと思うのです。今日は、ヨハネによる福音書4章1節から6節と39節から42節を通して、「いつでも、どこでも、だれにでも」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、どんなに負い目があろうともイエス様はあなたを見捨てない

 4章39節には、「さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」とあります。サマリアの女性は、どうして「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」という言葉をサマリアの人々に伝えたのでしょうか。それは、4章7節から26節の対話の中での経験からでした。この箇所のお話しは有名なので皆さんもご存じしょう。サマリアの女性は、シカルにある井戸に、お昼ごろに水を汲みに来ました。通常、水汲みは女性の仕事でしたが、朝早くか夕方の涼しい時間帯に水を汲みに来ました。水汲みは重労働なので、一人ではなく、数人のチームで水を汲みに来るのでした。しかし、このサマリアの女性は、たった一人で、一番暑い時間帯に水を汲みに来ました。ですから、この女性には訳があったということです。他の女性たちに顔を見せることができない。他の女性たちのようにワイワイと一緒に水汲みをすることなんかできませんでした。あえて他の女性たちに会わないように、顔を見られないように気を使い、孤独に水を汲むというのがこの女性の毎日の歩みでした。誰かに会わないようにするというのは、気が張り、神経をすり減らします。水汲みという重労働に加え、精神的なプレッシャーを日々感じていたことでしょう。人目を避けなければならないという状況は、本当に辛い日々であったことでしょう。

サマリアの女性が人目を避けなければならなかった理由は、過去5人の男性と結婚し、離婚するということを繰り返し、今一緒に住んでいるのは夫ではない男性であったのです。6人目の男性とは同棲中だったのです。この女性は、一人で生きて行くことのできない、寂しがりやであり、自分を愛してくれる男性を求め続けていたのでしょう。人間的な基準、イケメン、高身長、高学歴、高収入、財産があるなどで結婚しても、まことの幸せを得ることはできなかったです。バツイチ、バツニ、バツサンとなると相手も、理想からどんどん離れ、訳ありの男性としか結婚できなかった。何度も結婚離婚を繰り返している女性と結婚するという男性も、一癖も二癖もあり、いわくつきの男性だったに違いないのです。5人の男性と結婚しても幸せにはなれませんでした。サマリアの女性は、裏切られても裏切られても、男性に走り、心の渇きを癒したいと願っていたのでしょう。パスカルは、「人の心には、神の形をした穴が開いていて、神以外のものでは、これを埋めることができない」と言いました。サマリアの女性は、自分の心の穴を男性で埋めようとしていたのです。だから失敗し続けたのです。今も代わりになるものが見つからないで苦しんでいるのです。神様以外のものを神様の代わりにすることを聖書は、偶像礼拝の罪と呼びます。私たちは、神様以外のもので心の穴を埋めようとしていることはないでしょうか。心の穴は神様以外で埋めることはできないのです。ユダヤ人社会の男性優位、男性中心の在り方は、サマリアの女性をますます窮地に立たせていたのでした。律法の基準からすると、何度も結婚と離婚を繰り返し、現在同棲しているような女性は、罪が重いということでしょう。罪のある女、汚れた女性として見られていたのです。日々悶々と苦しみ、悲しみ、痛み歩んでいたサマリアの女性をイエス様は放ってはおかれないのです。

 二、イエス様の方からあなたに近づき希望を与えられる

 4章4節には、「しかし、サマリアを通らねばならなかった。」とあります。イエス様は、日々自分の生き方を責め、罪に苦しみ、人目を避けて生きているサマリアの女性を救うために、「サマリアを通らねばならなかった。」と聖書は語るのです。詳訳聖書には、「彼にはどうしてもサマリアを通って行かれる必要があった。」とあります。イエス様は、サマリアの女性が井戸に来る時間帯の正午ごろ、井戸に腰を下ろしていたのです。案の定サマリアの女性は水を汲みに来ました。いつもは誰もいないはずなのに、ユダヤ人の男性が井戸のそばに座っていることにすぐに気づいたことでしょう。イエス様は、「水を飲ませてください」と言われました。ユダヤ人の男性から突然話しかけられ、驚きました。ユダヤ人とサマリア人は挨拶を交わすこともなく、話しかけるということもなく、特に男性から女性に話しかけることはありませんでした。でも、イエス様は、「水を飲ませてください」と自分を低い立場において、サマリアの女性との関係を持とうとされたのです。サマリアの女性は、今同棲している男性意外と久しぶりに会話することになるのです。サマリアの女性は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と質問し、会話が始まるのです。イエス様は言います。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」と言われ、永遠に至る水について話され、サマリアの女性は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」と求めるのです。毎日毎日、人目を避けて、暑い時間帯に水を汲みに来なくてよいのなら、その水が欲しい、と切望したのです。イエス様は、飲む水の事ではなく、魂のこと、永遠の命について語りました。イエス様は、「その水をください。」と切望したサマリアの女性に「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」とサマリアの女性の一番触れたくない部分、触れられたくない部分にメスを入れます。彼女を救うためでした。「わたしには夫はいません」と言うサマリアの女性に、イエス様は、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と彼女の触れられたくない部分を明らかにするのです。そして、彼女は、イエス様を預言者だと思うのです。イエス様は、「婦人よ、私を信じなさい。」と言われ、礼拝の場所につての話の後、サマリアの女性は、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」と言い、彼女自身が、救い主メシアを待ち望んでいることを公にします。すると、イエス様は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と言われたのです。サマリアの女性は、会話の中で、また、自分のことを知っていることで、この人がメシア、救い主ではないかと感じるのです。そして、心のうちに喜びを感じたのです。サマリアの女性は、イエス様と出会い、イエス様と会話し、イエス様に触れていただいて、今までになかった勇気と希望が心に沸いてきたのです。

 三、あなたはイエス様のセールスマンになる

 ですから、聖書は、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」」と記しています。「自分の過去のことを全て知っておられる。このお方こそが、メシアなのかもしれない。いや、メシアなのだ。」と感じたのでしょう。イエス様の人格に触れて、そのお言葉の権威に惹きつけられて確信したのでしょう。自分の生活のための大切な水、その水がめを置いてまで、つまり日常を忘れたサマリアの女性は、急いでサマリアの町にかけていくのです。もう自分がサマリアの人々からどう見られていようとも、そんなことなど頭の隅っこにもない。ただ、「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」と言われたお方が、メシア、自分たちが、私が待ち望んでいたメシアに出会った。少しでも早く伝えたい。教えてあげたいという一心で駆けだしたのです。昨日まで、人目を避けていた、誰にも会うことなのできないと感じている彼女は、顔をあげて、大きな声で、「皆さん、聞いて下さいよ。グッドニュースです。メシアに会いました。」と喜びに満たされて、サマリアの人々の所に飛び込んでいったのです。サマリアの人々は、噂の対象者である女性が、満面の笑顔で、喜びに満たされ、大声で飛び込んで来る彼女の姿に、特別なものを感じたことでしょう。確かに、彼女には変化があった。違いがわかったのです。聖書は、「人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。」と記しています。サマリアの女性が語った「わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」という言葉に、サマリアの人々は、彼女の態度に、変化に、違いに信憑性を感じたのです。彼女の言葉を信じて、受け入れてイエス様の所にやって来たのでした。39節を見ると、「さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」とあります。サマリアの女性の言葉をサマリアの人々は、信じたのです。40節には、「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。」とあり、サマリアの人々は、イエス様の話を聞きたいと願い、イエス様と交わり、イエス様の話を聞いたのです。その結果、42節には、「そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」とあります。サマリアの女性がイエス様に出会い、変えられて、彼女の招きが、大きな収穫につながったのです。サマリアの女性の種まきが大きな収穫を得たのです。

 私たちは、日本において様々な種蒔き、伝道をしてもすぐに収穫を得たり、多くの収穫を得ることはなかなかないという現実があります。だから、種蒔きをしても意味がないと種蒔きをしなくなった。伝道しなくなったということが、日本のキリスト教会、クリスチャンにはあるのかも知れません。人々が、関心を持つとか、導かれるということは、私たちの責任ではありません。けれども、私たちは家族や友人、知人にコンサートやクリスマスの諸集会や様々な集会の案内をしても、誰も来ないとがっかりしてしまします。私たちが種蒔きをして、その人が来るか来ないかは、私たちの責任ではないのです。それは神様の領域、神様の責任なのです。私たちは、それを自分の責任にしてしまって落ち込んで、種蒔きすることをやめてしまうということがあるように思うのです。私たちの責任は、案内すること、集会があることを紹介すること、イエス様が救い主であることを紹介すること、ここまでなのです。私たちは、神様の領域、責任にまで首を突っ込むことはないのです。伝道者パウロは、わたしは十字架につけられたキリストを宣べ伝える事に専念しました。人を導こうと救おうと努力しませんでした。ただイエス様の十字架を伝えることが自分の責任であるとしたのです。福音を伝えたのです。しかし、その結果、多くの人々が救われました。それはパウロの力ではなく神様の働きなのです。福音が人々を救うのです。人々が救われる、救われないというのは、私たちの責任ではないのです。私たちは、イエス様のセールスマンです。イエス様の事を、教会の事を、集会の事を紹介すればいいのです。紹介するだけでいいのです。サマリアの女性はイエス様を紹介しただけなのです。

 Ⅲ結論部

 イエス様の眼差しは、イエス様を知らないで救いを待ち望んでいる多くの人々に向けられています。イエス様の心は、羊飼いのいない羊のような人々に対する憐れみで満ちているのです。私たちは、様々な形でイエス様に出会い、救われた体験を持っています。サマリアの女性のように、喜びと感謝に溢れていることでしょう。私たちも様々な形でイエス様を紹介したいのです。礼拝はクリスチャンでない人も参加できること、ユーチューブで礼拝が見れること、音声で聞けること、原稿で読めること、様々な集会の案内を渡すことなど紹介できるのです。種蒔きができるのです。

 サマリアの女性は、様々な負い目がありました。罪がありました。人に顔向けできない過去がありました。そのことのゆえに、人目を避けた暗い人生を送っていたのです。しかし、イエス様、救い主に出会って、罪ある、汚れた自分、人前には絶対に出ることのできない自分が、そのままでイエス様に受け入れられいること、自分の過去の全てを知っても、責めたり、反省を促したりするのではなく、「あなたと話をしているこのわたしである。」とご自分がメシアであることを示されたのです。私たちも、このメシアなるお方が、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、父なる神様から裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さったこと、死んで墓に葬られましたが三日目によみがえらされたことを通して、イエス様の十字架の死と復活を通して、私たちの過去の全ての罪、現在の罪、未来に犯すであろう罪さえも赦し、きよめ、義とし、死んでも生きる命、永遠の命を与えられたのです。私たちは、このような素晴らしい宝を持っているのです。この宝を一人でも多くの人々に紹介したいと思うのです。

 イエス様は、「サマリアを通らねばならなかった。」と聖書が語るように、自分の過去の失敗と罪、現在の問題の苦しみ、未来に対する希望のない人生を送っていた、たった一人のサマリアの女性を救うために、行動されたのです。イエス様を伝えるという伝道、宣教のわざは、私たちの生活や社会のあらゆる所でなされることなのです。サマリアの女性とイエス様との出会いは、サマリアの女性から見たら偶然であったのかも知れません。しかし、イエス様から見れば「サマリアを通らねばならなかった。」という必然だったのです。

私たちとイエス様との出会いも、私たちの側から見れば偶然であったのかも知れません。しかし、神様から見れば、イエス様から見れば、「あなたと出会わなければならない」という必然だったのです。イエス様は、あなたと出会うために、救い主、メシアとして人間の世界に来られたのです。このイエス様の素晴らしを知るために、たった一人でいいのです。私を用いて、その一人に言葉でも、文書でも、SNSでも、何でもいい。自分のできることを通して、一人の人にイエス様の事、教会の事、信仰の事を紹介できればと思うのです。その人が関心を持つのか持たないのか。心を開くのか、閉ざすのか、教会や集会に来るのか来ないのかは、神様の領域であり、神様の責任なので、紹介することに専念して、結果は神様にお委ねしたいのです。私一人の存在を大切にしておられるイエス様が、この週も共におられます。何があっても大丈夫ですから、この週も安心してイエス様に全てをお委ねして、イエス様に目を留めて、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(25年1月26日)

2025-01-26 19:19:13 | Weblog

2025.1.26青葉台教会奨励

「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる」ユダの手紙17-25        吉武良司

 

 ユダの手紙は、25節だけのたった2ページの文書です。ヨハネの手紙とヨハネの黙示録の間に埋もれているので、ペラペラめくるとほとんど飛ばされてしまいます。だからあまり読まれない箇所だと思います。

本来は全部読むと良いのですが、2ページと言っても全部読むと5分ほどかかります。読まれる司会者の方と聞かれる皆様は、きっと「長いなぁ」と感じられるのではないかと思い、17節から25節までを拝読して頂きました。お話は1節からさせて頂きます。

 ユダと聞くと、まずイエス様を裏切ったイスカリオテのユダを想像するのではないかと思います。私も読むまではそう思っていました。だけど考えてみればイスカリオテのユダに手紙を書く時間はありません。

先週江上先生のディボーションセミナーがありましたが、聖書は読むまで中味がわかりません。何度も読んだり聞いたりしているうちに真理が見えて来るのだと思います。

ユダの手紙は、一回読むだけなら神の恐ろしい裁きを受ける文書と勘違いしてしまいます。神を信じないと裁きが下り、信じ続けないと永遠の火の刑罰を受けるというような、脅迫まがいに警告しているような文書です。

しかし、実際はそうではありません。ユダの手紙は、「なぜ信仰に生きるか」を私たちに理解させ、神の恵みによって、信仰的な生き方を守り通すように呼びかけ、納得させるための励ましの文書です。そのためにも毎日のディボーションが大切なのだと思います。

私は今までディボーションの習慣がありませんでしたので、今回何度もこの手紙を読んだり、聖書アプリで聞いてみました。その度に考えが変わりなかなか原稿が完成しませんでした。

ユダの手紙の著者は、イエス様を裏切ったイスカリオテのユダでも、もう一人の弟子のユダでもありません。1節に「ヤコブの兄弟であるユダ」と述べています。このヤコブは12弟子のヤコブではなく、ヤコブの手紙を書いたイエス様の兄弟のヤコブです。イエス様の兄弟は4人います。マタイ13章に出て来ますが、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダの4人です。このユダがこの手紙の著者として最も有力とされています。

 ヤコブもユダもイエス様の公生涯においては、イエス様を信じていませんでした。復活後に信じて、イエス様は別格の存在となりました。1節で「イエスの兄弟であるユダ」と誇ることも出来ましたが、畏れ多くて「ヤコブの兄弟であるユダ」と謙遜しています。

 ユダはこの手紙で、私たちに「共にあずかる救い」について伝えようとしましたが、世の終わりの時の深刻な悪の脅威に対し、緊急性に迫られて「信仰的な生き方」を勧めることにしました。

世の終わりの時には、不信心な偽教師たちがひそかに紛れ込んで来て、神の恵みを放縦に変え、肉の欲のままに生き、イエス・キリストを否定し、キリスト者であると自称して信仰を装い、表向きだけの福音を宣べ伝えます。

 ユダは、そんな肉の欲の誘惑を感じながら、キリスト者の信仰について語ります。キリスト者は、神に愛され、イエス・キリストを通して守られています。守られているのは私たち自身のためではなく、イエス・キリストのためです。私たちは救われ、イエス・キリストを通して神の栄光を現すために生かされています。私たちはその栄光によって滅びることがありません。

 信仰は、不変の真理であり、聖なるキリスト者は、聖なる信仰を守るために戦わなければなりません。偽教師は教会にも紛れ込んで来ます。信仰は教会のものでもあり、キリスト者と教会は戦い続けなければなりません。この戦いは困難を伴います。偽教師は表面をカモフラージュして教会の中で共存します。それらを識別するのは困難です。そのためにキリスト者は「聖なる信仰」によって見抜く力が与えられています。

どのように神の恵みが放縦に変質してしまうのでしょうか。放縦とは、何の規律も無く勝手気ままにしたいことをすることです。ユダの手紙では主に肉の欲です。この都合の良い発想は、神は恵み深く、何の代償もなく罪を赦して下さるお方であり、何をしようが、どれだけ罪を犯そうが赦して下さる。さらには罪を犯せば犯すほど神の恵みも大きくなるという発想です。神の恵みを都合良くねじ曲げて、平然と罪を犯しながら、口先ではイエス・キリストを信じていると言います。

 第2ペテロの2章にも偽教師の記事があります。不義を行う者は、不義にふさわしい報いを受けます。彼らは、昼間から享楽にふけるのを楽しみにしています。彼らは 汚れやきずのようなもので、あなたがたと宴席に連なるとき、はめを外して騒ぎます。その目は絶えず姦通の相手を求め、飽くことなく罪を重ねています。彼らは心の定まらない人々を誘惑し、その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。

 私も若い時享楽にふけり、はめをはずしていましたから偽教師を非難出来ません。回心して洗礼を受けて、この世との関りを「スパッ」と断ち切ったはずでしたが、完全ではありませんでした。偽教師のように神様の恵みを都合よく解釈していました。私は偽教師と同じ者でしたが、今は悔い改めて献身させられました。

罪は大小に関わらず、罪の無い人間は誰一人いません。しかし、神様は私たちを愛するがゆえにイエス様を通して罪を贖い、神の子として下さいました。ですから私たちは罪人だからと言って神様に裁かれることはありません。しかし、悔い改めない者は裁かれます。

 ユダは、偽教師に旧約聖書の3つの裁きの実例を上げて気付かせようとします。第1は荒野でイスラエルの民が不信仰のために滅びた出来事です。奴隷の身分から神によってエジプトから解放されたにも関わらず、神に背き、信頼を失い滅ぼされました。神に背く者は怒りによって裁かれました。

 第2は、堕落した御使いです。御使いは、天で大いなる地位が与えられ、霊的実在者であるにも関わらず、地上で人間への肉の欲のゆえに堕落しました。その結果、永遠の束縛をもって暗闇の下に閉じ込められました。神の恵みを都合よく解釈して肉の欲に走る者は裁かれました。

 第3は、ソドムとゴモラの滅亡です。肉の欲に満足を求めて永遠の火の刑罰を受けました。快楽に生きる道徳的腐敗と不義を愛する者は裁かれました。偽教師たちは、これらの警告を受けても悔い改めず、国々を堕落させ人々を神に背くように誘惑しました。知らない人をののしり、動物的な本能の赴くままに行動して自滅します。

ユダは次に旧約聖書の悪人の代表とされる3人を通して偽教師に警告します。第1はアベルを殺したカインです。カインとアベルの二人は神を信じていました。ある日二人はそれぞれ神に捧げ物をします。弟アベルの捧げ物は神に喜ばれました。ところが、兄カインの捧げ物は神に受け入れられなかったのです。

カインは自分に問題があるとは考えませんでした。自分の捧げ物を受け入れない神に対して怒り、捧げ物が受け入れられた弟アベルを逆恨みして憎み、ついにはアベルを殺してしまいます。聖書に出て来る最初の殺人です。カインは、一時の怒りや憎しみの感情に動かされて物事を決断してしまい間違った道へと踏み込んでしまいました。

第2はバラムの迷いです。預言者バラムは、金銭や自分の利益と神に従うことを量りにかけて、どちらの方が良いだろうかと比べてしまい、間違った方、自分が得をする方を選んでしまいました。

第3はコラの反逆です。レビ人で祭司になれなかったコラは、出エジプトにおいて、神の選んだ指導者モーセとアロンに不満を抱き、自分の考えや立場の方が正しいと考えて優先させてしまいました。そのような人は、自分がいつも正しいと思い込み、他の人々を心の中で軽蔑し、見下してしまいます。いつでも、どこでも、誰でもが陥る間違った道です。

こういう者にならないように、いつも自分を頂点において高ぶらないように、他人を見下す者にならないように、金銭や利益を一番価値のあるものだと考える者にならないように、一時の感情や不快感、怒りで、自分の道を選ぶ者にならないようにと警告します。ユダは、そのような者は自分のことしか考えず、食事に割り込み、大声で騒ぎ、愛餐の親睦の交わりの食事を汚すしみであると言います。

ユダはさらに、そのような者を自然界の4つの言葉で描写しました。「風に追われて雨を降らさぬ雲」「実らず根こぎにされて枯れ果ててしまった晩秋の木」「わが身の恥を泡に吹き出す海の荒波」「永遠に暗闇が待ちもうける迷い星」です。とても面白い表現を用いていますが、そのような者であってはならないという警告です。

雨を降らせない雲は、何の恵みももたらすことのない人です。実らない木は、なんの良い物も生み出さず、分かち与えない人です。恥を泡と吹く海の荒波は、汚い言葉、醜い態度を振りまく人です。暗闇が待ちもうける迷い星は、神の国という目的地を目指すことのない人です。

これらすべてに共通するのは、これらから人を恵み、祝福するものが出て来ないことです。神を信じる人の価値は、どれだけ多くの物や富を獲得したかではなく、どれだけ高い地位や身分に上り詰めたかでもなく、どれだけ人を愛し、憐れみ、平和をもたらし、神に喜ばれる生き方を心がけたかということにあります。

ユダは16節で、こういう者たちは、自分の運命について不平や不満を並べ、欲望のままに振る舞い、大言壮語を吐き、利益のために人にこびへつらいます。とまとめました。

私たちは、なぜこういう者であってはならないのか。それは、不信仰な生き方であり、神を信じる者の生き方ではないからです。神を信じるとは、信仰に基づいて生きることです。なぜ神を信じるのか。それは、信仰的な生き方が幸いな道だからです。

神を信じる者は、恵みを人々に分かち与え、神に喜ばれる善い実を生み、人々に実りを分かち与え、人を励まし、慰め、支え、喜び合う良い言葉を口にし、心に憐れみと平和を抱いて生き、暗闇へと迷い込むのではなく、神の光の道をたどって、神の国を目指して歩みます。悪い道を避ける人に、良い道が備えられます。

17節から励ましに入ります。17節愛する人たち、わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語った言葉を思い出しなさい。これまでは、「こういう者であってはならない」という警告でした。ここからは、「私たちはこういう者になる」という励ましです。神の愛と憐みに満ちた励ましです。

皆様は「何者ですか」と聞かれてどう答えるでしょうか。私から見れば青葉台教会の皆様は「ただ者ではない」です。「ただ者」ではないのに「普通」にされています。「能ある鷹は爪を隠す」の言葉がぴったり当てはまります。

皆様の神様から与えられた賜物は相当すごいです。にもかかわらず誇ることもなく、愛と憐みに満ちておられます。派遣期間あと約2ケ月だからと言って持ち上げている訳ではありません。残りの間も変わらぬ愛でお願いします。

人によっては、自分を誇る人もいれば落胆する人、自慢する人もいれば嘆く人、それぞれに異なる境遇、異なる事情、異なる運命があります。決して平等でも公平でもありません。

ユダの教会にも、上流階級と下層階級の人がいたはずです。豊かな人と貧しい人、健康な人と病気の人がいたはずです。もし、境遇や身分や財産や能力で自分の正体を考えたとしたなら、ユダの教会は内部で対立が生じ、分断されてしまったことでしょう。

現代でもそれは同じだと思います。しかし、「何者ですか」ではなく「こういう者になることが出来るか」と問われたら話は別です。「こういう者」とは「どういう者」なのでしょうか。私たちの真の願いは何か、私たちはどのような者であることを夢見るのか、私たちは何を望みとしていだくのか。そもそも、神様は私たちを何者にするために選び、招いて下さっているのか。そのことが問われています。

だから、今日そのことを考えたいと思います。「私たちは何者であることが出来るのか」。将来の職業とか地位の話ではありません。信仰者として、神の恵みによって聖なる者とされている者として、「私たちは何者であることが出来るか」ということです。それは、自分にとって究極の喜びとなる、最高のものでなければ意味がありません。

ユダは、20節で教えてくれています。あなたがたは最も聖なる信仰をよりどころとして生活しなさい。聖霊の導きの下に祈りなさい。原文は命令ではなく状態を指しています。つまり、ユダは、「あなたがたは信仰をよりどころとして生きる者であることが出来る」と答えています。しかも、ユダは「最も聖なる信仰」と呼びます。最高の価値ある、聖なるものに基づいて生きる。つまり、「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる」ことが出来ると言っています。

ユダによれば、結局のところ、それがすべてです。一体他に、どんな確かなよりどころがあり得るでしょうか。自分自身が、自分にとってもっとも聖なるよりどころでしょうか。

自分の富や地位が、もっとも頼りがいのある聖なるよりどころでしょうか。自分の思想や主張こそが最高の価値ある聖なるよりどころでしょうか。

私たちは、雨を降らせない雲、実らない木、恥を泡と吹く海の荒波、汚い言葉、暗闇が待ちもうける迷い星になってはいけません。私たちは、本当に何者になりたいのかを願う時、一つの答えに行き着きます。その答えは、「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる」者になりたいです。

それが私たちの願いであり、祈りであり、そして今の恵みであり、そういう者であることが出来ることを、嬉しく思いたいのです。「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる」ということは、神様を信じて生きるということです。神様を信じて生きるというのは、具体的にはどうすることでしょうか。

ユダは三つの道を告げています。興味深いことに、その三つの道は三位一体の神との交わりです。つまり、聖霊と父なる神と主イエス・キリストとの交わりに生きることです。ユダはまず、20節後半で聖霊の導きの下に祈りなさいと教えます。

私たちは祈るべきであり、祈ることができます。実際、祈らない人はいません。困難や苦難、不安や心配に出会う時、誰が祈らずにいられるでしょう。試練や課題に直面したとき、成功や無事を祈らない人はいません。 

私たちは、主イエス・キリストを通して神を信じる者として、自分の願望や要求を祈るだけの祈りではなく、聖霊の導きのもとに祈ることが出来ます。私たちの祈りの内容や言葉において不充分であったり、自分勝手なことが多かったりすることもあります。

しかし、聖なる信仰に基づいて祈りを捧げるならば、私たちが自分のことだけでなく、真に祈るべきことは何かを求めるならば、他人や世の苦難のためのとりなしを祈る思いが与えられるのです。さらに、私たちの思いや言葉に聖霊が働いて、とりなして下さるということです。そして、そのような祈りは聞かれることを私たちは知っています。

そして、ユダは21節で神の愛によって自分を守り、永遠の命へ導いて下さる私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさいと告げます。この言葉はあまりにも大きく深く、すべてのことに及びます。神の愛によって自分を守るとは、私たちが神様に愛され、大切にされていて、神様にとってかけがえのない存在であるということです。

私たちは、あらゆる仕方で否定され、攻撃され、自分の価値や大切さを見失うことがあります。それは、苦難の中におられる人や支配者であっても同じです。足をすくわれ、おとしいれられ、見下され、ののしられることもあります。

そんな時、永遠の命へと導いて下さるイエス様が命をかけて憐れんで下さいます。その憐みによって私たちは自分の弱さも小ささも、自分の間違いも挫折も、恐れずに心配せずに生きることが出来ます。

そして、他人も憐れみます。22節疑いを抱いている人たちを憐みなさい。23節ほかの人たちを火の中から引き出して助けなさい。また、ほかの人たちを用心しながら憐みなさい。肉によって汚れてしまった彼らの下着さえも忌み嫌いなさい。

他の火の中の人たちも、他の惑わす人たちも、汚れた人たちも「出て行け」と追い出すのではなく、用心しながらも憐みなさいとユダは言います。

聖霊の助けと神様の愛とイエス様の憐れみ、それらを受けて歩むことが、「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる」ことです。ユダはその恵みを確信し、私たちに、「そのような者であることが出来る」と呼びかけています。それは、偽教師も肉の欲に溺れる者をも憐れむことが出来る者、神を信じるすべてのキリスト者に与えられる生き方です。

なぜならば、イエス様は十字架に架けた者たちをも「彼らの罪をも赦して下さい」と命をかけて、はらわたがちぎれるほどの思いで憐れむお方だからです。そして、何よりも素晴らしいことは、そのイエス様に倣い「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる」者は、たとえ世の終わりの時に困難や試練や苦難に遭遇するとしても、あるいは理不尽な体験や悪い者による迫害に遭うとしても、神様への賛美と感謝に満ち、神の国への喜ばしい道を歩む者とされています。

ユダはこの手紙を、信仰者の誇りと確信に満ちた、栄光の賛美歌で締めくくりました。神を信じて生きる者の生涯全体を歌い上げて締めくくりました。

24節あなたがたを罪に陥らないように守り、また、喜びにあふれて非のうちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることができる方、25節わたしたちの救い主である唯一の神に、わたしたちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、力、権威が永遠の昔から、今も、永遠にいつまでもありますように、アーメン。

一見、荒れ地のような、実りをもたらさないようなユダの手紙は、荒れ野に水が湧き、泉となって人々をうるおす、神の恵みがあふれた手紙でした。

聖霊の助けと神様の愛とイエス様の憐みによって、私たちは「最も聖なる信仰をよりどころとして生きる者」とされています。「そうしなければならない」という命令や押しつけではありませんでした。この励ましと恵みによって、たとえ今が暗闇の時代の中にあっても、私たちは、神の国への道を、ただひたすらイエス様と共に歩んで参りましょう。

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日曜礼拝(25年1月19日)

2025-01-19 12:42:10 | Weblog

日曜礼拝(公現後第二)        2025.1.19

        「毎日神様とデートする」 サムエル記上3章1節~11節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第三日曜日の礼拝です。今日も愛する皆さんと共に礼拝できますことを感謝致します。

 日本においては、毎年そうですが、2025年の正月にも、何百万人という人々がお寺や神社に初詣に行きました。そして、無病息災、家内安全であることを神に願うのです。受験生は合格祈願、志望校に合格できますようにと祈るのです。神様に自分の思いや願いを聞いてもらうということです。私たちクリスチャンの生活は祈りの生活と言えます。私たちも多くの日本の人々が神社仏閣に詣でて祈り願うように、自分の思いや願い事をすることが祈りだと思い、日々そのような祈りを続けているのではないでしょうか「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」(ヨハネ15:16)と聖書は語りますので、願っていいのですが、キリスト者の祈りには、自分の思いや願いを神様に聞いていただく一面と神様の声を聞くという一面、聞く祈りがあるのです。今日は、サムエル記上3章1節から11節を通して、「毎日神様とデートする」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、何があっても信仰の火は消えない

 3章1節を見ると、「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」とあります。サムエルは、母ハンナの祈り、神様に祈って得た子であり、信仰によって生まれた子でした。ハンナは、「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子を一生を主におささげし」(サムエル記上1:11)と神様に約束したように、乳離れしたサムエルを祭司エリのもとに連れて行ったのです。そして、サムエルはエリのもとで神様に仕えていました。「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」とあります。イスラエルの人々は、神殿に詣でていけにえをささげ、礼拝をしていましたし、祭司たちも与えられた働きをして神様に仕えていました。それぞれが、神様に仕えるという形は整っていたのでしょう。それぞれ自分が正しいと思うことを実行していました。士師記の最後には、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記21:25)と記されています。祭司エリは、目が見えなくなっていて祭司の仕事はできていなかったでしょうし、エリの息子たちはイスラエルの人々がささげる捧げものの肉を横取りしたり、神殿に仕える女性たちと性的な関係を持ち、祭司として忠実に歩んでいなかったということが、「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」という原因であったのでしょう。イスラエルの人々は、神様の言葉を聞き、神様の言葉によって導かれるということができないでいたということです。聖書は、エリの息子たちの事を「ならず者で、主を知ろうとしなかった。」(サムエル記上2:12)と説明しています。このように聖職者たちの神様に対する不真実な状況の中で、サムエルはエリに仕えていたのです。2節、3節には、「ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」とあります。「エリは自分の部屋で床に就いていた。」とありますが、祭司の働きは、神殿で神の箱と共に休み、夜の間に灯し燃えている7つの燭台のついた灯りを見守りながら、過ごすのです。夕方から灯りをつけて、明け方にはその灯を消す働きであり、夜明けと共に神殿の扉を開ける働きでした。神様の前に香を焚き、祈り、賛美と感謝をささげ、神様の沈黙を招かないようにすることでした。しかし、エリもエリの息子たちも自分の部屋で寝ており、祭司としての働きは全くせずに、「サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」とあるように、サムエルが祭司としての働きをしていたのでしょう。サムエルは祭司エリの世話や、雑用係のような仕事をしていたのです。肝心の祭司一族の誰もが決まった日々の仕事をしないでいたのです。そのような状況にありながらも、「まだ神のともし火は消えておらず」と聖書は語ります。どんなに人間が罪深くても、神殿の内部、聖職者から信仰的な崩壊があったのにもかかわらず、神様は絶対に神殿を見捨てるということはなさらなかったのです。私たちの信仰生活において、罪を犯しても、罪に覆われようとも、信仰が弱り、信仰者としての歩みができなくなっても、信仰の火が消えそうになっても、神様は私たちの信仰の火を消されることは、決してないのです。イエス様は言われました。「はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」(マタイ17:20)

 二、神様の声に気がついているか

 4節、5節を見ると、「主はサムエルを呼ばれた。サムエルは、「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言った。しかし、エリが、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ」と言ったので、サムエルは戻って寝た。」とあります。神様はサムエルを呼びましたが、サムエルはエリに呼ばれたと思い、エリのもとへ向かいました。エリは当然呼んでいないので、帰って休むように言います。6節には、同じように神様はサムエルを呼ばれ、エリのもとへ行き、呼んでいないので帰って休むようにと言います。7節には、「サムエルはまだ主を知らなかったし、主の言葉はまだ彼に示されていなかった。」とあります。サムエルの知っている神様は、しきたりによる、形式的な礼拝での神様であり、エリを通して知る神様であったのです。エリは、神殿で仕えることは教えていても、エリ自身がサムエルにとっては、絶対者であり、サムエルにとって、エリが神様の位置にいたのかも知れません。8節には、「主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、」とあります。神様は3度サムエルを呼ばれ、サムエルはエリが呼んだと思い、エリのもとへ行きました。3度目に神様がサムエルを呼ばれた時、エリは前回とは違う反応をします。「エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り」とあります。神様がサムエルを呼んでいることが分かりました。しかし、サムエルには、神様が直接に語りかけられる、神様の声を聞くという指導はなく、訓練ができていませんでした。けれども、サムエルの側で、神様の声を聞くという備えができていなくても、神様はサムエルを呼ばれたということです。そして、サムエルが神様の声を聞く準備ができるまで、何度もお呼びになるのでしょう。神様は、神様の声を直接聞くという準備ができていないかも知れない私たちの名を呼んでいて下さるのです。

 神様が名前を呼んで下さるということは、神様がその人を一人の人格者として、御心に留めていて下さる。目を注いでいて下さるということです。神様は、この時初めてサムエルに目を留められたのではないでしょう。母ハンナの胎内にいる時から、いや胎内に形造られる前からサムエルに、心を留め、目を留めておられたのです。そして、時が満ちて神様の時、名前を呼ばれたのです。神様の名を呼ばれたサムエルは、神様の声、神様の言葉を聞く備えができていなかったので、エリの所に行ったのです。私たちは、神様が名前を呼んでおられるのに気がついていないということはないでしょうか。神様の声を聞く備えができているでしょうか。できていないとすれば、神様の声を聞くことができるように備えたいのです。

 三、

 9節には、「サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。」

とあります。エリは、サムエルが神様の声を、神様の言葉を聞けるように、姿勢を整えて指導してあげます。名前を呼ばれたら、「主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」と語るべき言葉、その姿勢を教えました。私たちの祈りは往々にして、「私(僕)は語ります。願います。主をお聞きください。」という祈りではないでしょうか。榎本保郎先生は、新約聖書一日一章で、「「しもべは話します。主をお聞きください。」は、人間が主格で、「しもべは聞きます。主よお話し下さい。」は神様が主格だと語られ、イエス様が異邦人の祈りのように、言葉数が多いければ聞き入れられると思っている。しかし、イエス様は、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」(マタイ6:8)と言われ、あなた方の必要は神様がご存じだから、聞き入れられるように祈る必要なない。」と語っておられました。「主よ、お話しください。僕は聞いております」は、神様との正しい関係なのです。神様の声を聞く、神様の言葉を聞くというのは、ただ単に聞いている。聞こえているということとは違うののです。何かをしながら、他の事を思いながら聞けるというものではないのです。心を整え、思いを向けて聞けるというものなのです。聞こえるというのは、何の準備もなしでも聞こえてくるのです。「サムエル」と呼ぶ声が、サムエルに聞こえたように、聞こえるのです。サムエルの側では、何の準備もしていません。しかし、「主よ、お話しください。僕は聞いております」とは、単に耳で聞くいうことではないのです。それは、神様が私に語って下さると信じて、それを聞こうと集中するのです。聞くというのは、生き方に関わってくる、私たちの人生に、信仰生活に関わることなのです。私たちが、自分の人生を、信仰生活を本当の意味で考え始めるのは、「主よ、お話しください。僕は聞いております」という心構え、姿勢に立った時からなのだと思うのです。それまでは、聖書の言葉を、神様の言葉を、神様の声を、ただ聞こえているというだけの程度の信仰生活を歩んでいたに過ぎないのかも知れません。神様の言葉、神様の声よりも、人の声、この世の声、SNSやfacebookの声に惑わされ、振り回されて、神様の言葉が、神様の声がかき消されてしまっているという生き方、信仰の歩みをしてきているのではないでしょうか。もうそのような人生、信仰生活に別れを告げて、ピリオドを打って、私たちが本来聞くべき言葉、神様の言葉、神様の声を聞いて、語られるその声に忠実に従って生きる生き方に身を委ねていきたいのです。サムエルは、この時から神様の言葉、神様の声に聴き従うことを何よりも大切なこととして生涯の終わる日まで。神様の声に聴き従うことを信仰の基本に置いたのです。神様の声に聴き従うことこそが、サムエルの生きる道となったのです。聖書は、私たちの罪の身代わりにイエス様が十字架で裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さったこと、死んで葬られ、三日目によみがえらされたことを語ります。そして、イエス様の十字架と復活によって、私たちの全ての罪が赦され、きよめられ、義とされ、死んでも生きる命、永遠の命を与えて下さると語っているのですから、私たちは、罪赦されていること、永遠の命が与えられていることを素直に信じイエス様と共に歩みたいのです。

 Ⅲ結論部

 私たちは自分が求めるものが間違ってしまうということがあります。しかし、私たちの求めるものが、求める方法が間違っていたとしても、神様は私たちを御心に適う者に変えて下さるということを今日の聖書は語っています。私たちは、サムエルのように「主よ、お話しください。僕は聞いております」と静まって、聖書の言葉、神様の言葉、神様の声に耳を傾ける者でありたいのです。日々語られる聖書の言葉、神様の声に応答して信仰生活を歩みたいのです。私たちは、年を重ねれば聴覚は衰えて、人の声が、言葉が聞こえにくいということを経験します。しかし、いくら聴力が衰えて、人の声や言葉が聞こえなくなったとしても、私たちは、聖書を通して、神様の言葉、神様の声を聞くことができるのです。私たちは、信仰を持って、聖霊の導きで、聖書によって神様の言葉を、神様の声を聞き続けることができ、その声に応答して神様が与えようとしておられる祝福を、恵みを日々体験することができるのです。神様は、私たち一人ひとりともっと深くかかわりたいと願っておられます。私たちの知性や心に語りかけたいと願っておられるのです。神様が私たちを愛しておられるということを、罪を赦そうとしておられるということを、罪をすでに赦しておられるということを知ってほしい、受け入れてほしいと願っておられるのです。今日一日の歩みの中で、どのように生きていくべきなのかを教えたいと願っておられるのです。神様は日々聖書の言葉を通して、神様のお心を、御心を示して下さるのです。神様の言葉が、私たちの信仰生活のどの部分に語られているのかを聖霊の導きで教えられて、示されて、応答しして行く時に、神様の恵みと祝福を体験できるのです。

私たちは毎日神様とイエス様とデートすることができるのです。愛する人に会えることは私たちにとって、それは喜びであり、幸せなのです。いくら神様が語りかけようとして下さっても、私たちの側に、神様の言葉を、神様の声を聞く備え、聞く準備ができていないならば、聞くことはできないのです。エリに教えられたように、サムエルが、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と神様を認め、聞く備えができた時に、神様は、神様の言葉を、思いを、御心を語られたのです。み言葉は語ります。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)

私たちは、イエス様とデートしてイエス様の声を 聞いて喜んで従う歩みをしたいのです。

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日曜礼拝(25年1月12日)

2025-01-13 07:57:06 | Weblog

日曜礼拝(降誕後第三)        2025.1.12

        「まだ若いと言うな」 エレミヤ書1章4節~10節

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第二日曜日の礼拝です。今日も会堂に集い、あるいはオンラインを通して、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。2025年の毎週の礼拝でお会いし、礼拝をささげてまいりましょう。

 明日は成人の日です。第二礼拝後には、新成人の方々の祝福を祈りたいと思います。

1月2日、3日は正月恒例の箱根駅伝がありました。若い力の頑張りを見て、私たち年を重ねた者も頑張ろうという気持ちになりました。若い力は青葉台教会にもあります。現在の役員会には20代、30代の方が4名おられます。時々、礼拝の司会の御用もして下さいます。若い方々が、尊く用いられますようにお祈り下さい。

 明日は成人式でもあり、今日は新成人の祝福を祈るということから、今日はエレミヤ書1章4節から10節を通して、「まだ若いと言うな」という題でお話しします。

 Ⅱ本論部

 一、神様は私たちの全てを知っておられる

 今日はエレミヤの召命(call)と言われる個所です。エレミヤは、祭司ヒルキヤの子でした。エレミヤは祭司の家に生まれましたので、エレミヤは子どもの頃から神様に対する敬虔な態度が培われ、神様の律法をよく学んでいたのです。そのエレミヤに神様は語られるのです。4節、5節です。「主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」」とあります。神様は、エレミヤに「預言者として立てた。」と言われました。生まれる前から祭司としてではなく、預言者として定められていた、と言われるのです。エレミヤは祭司の子として産まれたのですから、祭司として召されるというのならわかります。ユダヤ人は親の仕事を継ぐというのが普通でした。神様は、祭司としてではなく、預言者として定めたと言われました。預言者は、神様の言葉を預かり、神様の言葉を語る者なのです。また、神様は、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し」とあり、神様はエレミヤが母の胎内に形造られる前から知っておられると言われるのです。この「知る」という言葉は、ヘブライ語の「セーダー」と言い、夫が妻を知るという夫婦の性的関係を持つ時に用いられる言葉で、それほど親密に神様はエレミヤを知っておられるということなのです。情報として知っているというだけではなく、本当に親密なレベルで人格的に、経験的に知っておられると言うのです。エレミヤがそうなら、おそらく私たちも、母の胎に形造られる前から、私たち一人ひとりを親密に知っておられたということを信じて感謝したいのです。神様は、「母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し」と言われます。まだ、エレミヤがどのような状況に関係なく、神様が先行してエレミヤを選ばれたのです。その神様の選びに対して、答えるのです、6節です。「わたしは言った。「ああ、わが主なる神よ/わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」」とあります。エレミヤは、預言者として立てた、と言われても、自分が未熟であり、預言者としての働きには十分ではないと答えます。「若者」とありますが、新改訳聖書では、「若い」とあります。この「若い」という言葉は、乳児に用いる言葉、または結婚前を意味する言葉で、当時では10代を現わす言葉のようです。この時のエレミヤは、20才前後であったようです。ですから、エレミヤは、自分は未熟で、まだ若すぎると考えていました。エレミヤは祭司の子でしたが、聖書には祭司は、「それは臨在の幕屋で作業に従事することのできる三十歳以上五十歳以下の者である。」(民数記4:3)とあり、30才からなのです。 イエス様も30才から公生涯に入られました。「どんなに頑張ってみても、どのような訓練をしても、私にはどうもできないのです。」というのが、エレミヤの言う「若い」ということだったのでしょう。イスラエル的に見て、20歳前後の年齢の人は、まだ若いと考えられていたのです。

私たちも、教会や神様の働きのために、若いから、年老いているから、体が弱いから、信仰が弱いから、教会が小さいから、人数が少ないからと言い訳をすればいくらでもできるのです。神様は、私たちのどのような愚痴も言い訳も聞いて下さるので、エレミヤのように何でも神様に話せればいいですね。

 二、大丈夫わたしがあなたと共にいるからと神様は言われる

 エレミヤの「まだ若すぎる」という言葉に、7節、8節で神様は答えられます。「しかし、主はわたしに言われた。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と主は言われた。」 若すぎて力のないエレミヤ一人では何もできないでしょう。しかし、一人ではなくて「わたしがあなたと共にいて」と言われるのです。エレミヤには、いつも神様が共におられるのです。聖書が何度も語る言葉です、「あなたと共にいる」というインマヌエルの神様なのです。これから、若いエレミヤは、自分よりも経験豊かな人々、人生経験豊かな人々、高い地位、名誉のある人々に向かって、神様の預言者として神様の言葉を語って行かなければなりません。「人生経験の少ない、経験の浅い若造が何を言っている」と上から目線で反発されるということを経験していくのです。「彼らを恐れるな」と神様はエレミヤに言われるのです。この「恐れるな」という言葉は、聖書を通して神様が何度も語られています。預言者の務めは、「わたしがあなたを、だれのところへ/遣わそうとも、行って/わたしが命じることをすべて語れ。」ということです。神様の命令に従う、神様の働きをするということは、エレミヤの力や能力で行うものではないということです。神様が命じられたことを神様によって導かれたことを、そのまま、その通りに語っていく、行っていくということなのです。神様ご自身がエレミヤを召されたのですから、神様ご自身が責任を持ってエレミヤを通して神様ご自身の働きをなされるのです。神様は全能なるお方ですから、神様ご自身でおやりになればいいのに、そうなさらないで、人を用いられるのです。神様がエレミヤに求められたことは、「わたしにあなたの全てを委ねなさい」ということでしょう。エレミヤはこれから様々な人々に神様の言葉を語ります。ですから、多くの迫害も経験します。殺されてもおかしくない経験をします。人々の反応は、怒り、恨み、ねたみで一杯の言葉をエレミヤに対して浴びせかけるのです。だから神様は言われます。「彼らを恐れるな。」と。新改訳聖書では、「彼らの顔を恐れるな」とあります。しかし何があっても、「わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と言われるのです。9節には、「主は手を伸ばして、わたしの口に触れ/主はわたしに言われた。「見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける。」とあります。イザヤの召命の時と似ていますね。「彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので/あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」」(イザヤ6:7-8) [見よ、わたしはあなたの口に/わたしの言葉を授ける]というのは、エレミヤが自分で語るのではなく、神様ご自身の言葉であるという口に対する聖別なのです。神様の御手がエレミヤの口に触れ、エレミヤがきよめられた。つまり、エレミヤが神様の言葉を語るのに、ふさわしい者とされたということです。神様ご自身が預言者の口に言葉を授けるのです。神様の言葉にこそ、権威と力があるのです。

 三、神様はあなたをすでに選ばれているのです

 10節には、「見よ、今日、あなたに/諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し/あるいは建て、植えるために。」」とあります。破壊と建設、審きと回復なのです。エレミヤがイスラエルの民にこれから語ることは、イスラエルの滅亡と悔い改めのメッセージでした。悔い改めなくして神様の赦しと回復はありませんが、神様の赦しと回復があるからこそ罪の悔い改めができるのです。私たちの人生、信仰生活においても、抜かれる、引き倒されるような経験があるでしょう。しかし、それで終わるものではありません。建てる。植える、起こす、育てるという回復が必ずあるというのです。東京大学の学長を務めた矢内原忠雄氏は、「望遠鏡を用いないで天文学の研究をすることは愚かであろうように、自分自身の罪を通さずに神を見ようとすることは、愚かなことである。」と言いましたが、私はそれに加えて、イエス様の十字架と復活を通さずに、罪を見る者は、神様の恵みを体験することはできないのです。失敗や罪があっても、苦難を経験しようとも、神様はイエス様を通して回復と祝福を用意しておられるのです。

 私たちは、イエス様の十字架の死と復活、福音によってクリスチャンとなりました。私たちが、日本の社会の中でクリスチャンであるということは素晴らしい事です。クリスマス礼拝や新年礼拝で洗礼を受けられた方々がおられます。救いの恵みを最も感じておられる方々でしょう。クリスチャンとなり、30年、40年、50年と歩んで来られた方々はいかがでしょう。クリスチャンであるということが、恵みではあるのですが、日本社会の中で、クリスチャンとしての生きづらさを経験したり、クリスチャンであるが故の苦しみや痛みを経験して、クリスチャンであることの素晴らしさや恵みを感じられていないということがあるのかも知れません。神様を知らないで罪人として罪の中にあった者が、聖書やクリスチャンや教会の集会を通して、イエス様が自分の罪の身代わりに十字架にかかり、父なる神様に裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さったこと、死んで下さったこと、墓に葬られ三日目によみがえらされて罪と死に打ち勝ち勝利されたこと、イエス様の十字架と死と復活を通して自分の全ての罪が赦されたこと、死んでも生きる命、永遠の命が与えられたことを信じることができたのです。私たちクリスチャンは、神様の恵みの中に置かれているのです。そして、その私たちを神様は用いようとされているのです。

 ある先生がメッセージで語っておられた内容です。ある夕方、ひとりの大学教授が机に向かって翌日の講義の準備をしていました。家政婦が置いていった書類や手紙に目を通しながら、不要なものをくずかごに捨て始めたとき、ある雑誌が目に留まりました。それは、彼の事務所に誤って配達された雑誌でした。それが床に落ちたとき、たまたまその雑誌の中の「コンゴ伝道の必要性」という記事が載ったページが開いたのです。教授は何とはなしにその記事を読み始めると、そのとき、このことばが彼の心をとらえました。「コンゴでの必要性は大きい。中央コンゴの北部、ガボン州を担当する人がいない。この記事を書きながら、わたしはこう祈っている。主イエスは、このために召された人物の上に、すでにその目を注いでおられる。今こそ神がその人物の上に手を置き、私たちを助けるために彼をこの地に派遣してくださるように。」雑誌を閉じた教授は、その日の日記に書き記しました。「私の探求は終わった。」彼はコンゴに身をささげることにしました。この教授の名前はアルバート・シュバイツァーです。この小さな記事は、他人宛ての雑誌の中に潜んでいたものでした。その雑誌が、誤ってシュバイツァーの郵便受けに入れられていたのです。さらに、家政婦が偶然にもそれを教授の机の上に置きました。そして偶然にも教授がその記事のタイトルに気付きました。まるでタイトルの方が彼の目に飛び込んで来たかのようでした。シュバイツァー博士は、人道主義的な分野で、20世紀を代表する偉大なひとりとなりました。彼の功績は、人類の歴史上、ほとんど他に類を見ないほどのものです。これは偶然に起こったのでしょうか。いや、これは神様の摂理によるのです。そして、これは現実にあなたにも起こることなのです。

 Ⅲ結論部

 エレミヤは40年間預言者として働きました。40年預言者として働いたという人はあまりおりません。エレミヤが若い時に召されたからこそ、神様はエレミヤを育て、尊く用いられたのです。「鉄は熱いうちに打て」という言葉がありますが、神様は若いエレミヤを選び、苦しみや悲しみ、痛みを通して鍛え上げ訓練し、預言者として成長させられたのです。神様は若いエレミヤを選ばれたのは、むしろ「まだ若すぎる」と言った若いということが必要だったのです。私たちは、自分を見て、「まだ若い。もう年老いている。体が弱い。何もできない。私たちの教会は小さい。人数が少ない。老人しかいない。若者がいない。」ということを「言うな」と神様は、今日私たち一人ひとりに語られるのです。私たちにとって、苦しみ自体や絶望が問題なのではいのでしょう。神様が共におられないということが問題なのです。神様がエレミヤに語られたように、「わたしがあなたと共にいて/必ず救い出す」と言われるのです。イエス様は、確実に、本当にあなたと共にいるのです。だから恐れる必要はないのです。神様が私たちをクリスチャンとさせられたからには、全責任を持って私たちを守り支えて下さるのです。私たちは、自分を見たら、弱く、小さく、クリスチャンとして未熟な者だと感じているならば、そうであるあなたを神様は選び、あなたを神様の御用のために豊かに用いられるのです。この週もイエス様があなたと共にいつもおられるのですから、安心して、信頼して、全ての重荷をイエス様にお委ねして、イエス様と共に歩んでまいりましょう。

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