江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年3月24日)

2019-03-24 10:29:00 | Weblog

「あなたは地の塩、世の光」 青葉台教会               2019/03/24

マタイ5:13-16                           後藤  献二

           

皆様、おはようございます。今日敬愛します青葉台教会にお招き頂き、メッセージの機会を与えて下さってありがとうございます。今や青葉台教会は私達後藤家にとって、とてもかけがえのない教会となりました。私の兄弟の多くが、江上先生ご夫妻をはじめ、敬愛します皆様とこれまで時間を共有させて頂いたからです。また多くの方々の尊いお祈りに励まされ、この春、私はナザレン神学校を卒業することができました。そして今週名古屋教会に赴任させて頂く、神様の導きに大変驚いております。この受難節、イエス様のみことばを、もう一度、かみしめてみたいと思うのです。

                                            

Intro:クリスチャン作家の田中小実昌さんが書いた『岩塩の袋』という短編の中にこのようなお話があります。太平洋戦争の末期です。中国の南京に着いた初年兵たちが背嚢に岩塩を背負わされました。30kgになった荷物をもって、進行しています。上官に「貴重なものだから何があってこれだけは捨てるなといわれて、みんな必死になって、中国の奥地に向かっていきます。途中、雨がふり、大変な思いをして、目的地にやっときます。

「はぁ~、やっと着いた。塩でもなめて、落ち着こう」と背嚢を空けます。

岩をなめてみて、びっくりしたのです。岩塩は雨水を吸い、すっかり塩が流れ出ていました。長時間背負っていたのはただの岩だったのです。皆相当にがっかりしました。

この時、初年兵である主人公は、マタイ伝イエスの言葉を思い出すのです。

「汝らは地の塩なり、塩もし効力を失わば、何をもてかこれに塩すべき。

後は用なし、外に捨てられて人に踏まるるのみ」。初年兵はその意味をまさに知ったのです。 

イエスはイエスを信頼し従う人々、弟子たちを前にして、宣言をされます。

皆さんあなたたちは地の塩ですよ。あなたたちは、この地上で最も必要な存在なのですよ。みんな目をぱちくりさせます。どういうこと?それはの塩が、この世界が所有している最も高貴な宝であり、あなたたちの存在なしでは、この地は成り立たないという意味です。逆にいうと、あなたという地の塩のおかげで、「この地は健全に保たれる」というのです

さぁ、意味を一緒に見てみましょう。

 

I.「地」とは、罪で壊れた神と人との関係:イエスのいうこの「地」とは、原語では地と共に「この地に住む人々」のことも意味します。それは自らの罪とその罰から逃げられないすべての人、私、あなたを表しています。そしてこの地は、自然界全体も含み、人の罪によって、本来の美しい自然界は大きく壊れてしまいました。私もあなたも例外なく神さまとの愛の関係に生きるように神によって創造されましたが、自由意志を与えられた人は、愛の神を好まず、自分の関心、欲求をひたすら追及して生きるようになりました。聖書は本来の創造のデザインからズレてしまった私たちを、神の愛から離れて生きる存在、罪人と呼びます。今日の聖書箇所の直後には、神の律法の水準がいかに高いかが示されています。ある人が反論します。「私が罪びとだって?何言ってるの?僕は殺人だって、不倫だってしてないのになぜ罪びと呼ばわりされるのか」って?それは正論に聞こえます。でもそれは人間の世界の法律における話ではそうです。実は聖書は、この世界にはもう一つ、聖なる神の律法が存在し、神は人の罪をそのまま放置せず、確実に裁かれる正しいお方であるといいます。私たちは誰かに「こんなヤツ、殺してやりたい」と、憎むだけで殺人と同罪とみなされます。異性に対して情欲を抱くだけで姦淫と同じにみなされます。神の完全に聖く正しい基準に照らされるなら「この地に住む私たち人」は、神の前にあまりにも罪深い存在だと言わざるを得ません。では私達は裁かれ、滅ぼされるだけでしょうか?いいえ、罪深い私達に神が選択した対応は、あまりにも素晴らしく、驚かずにおられないものでした。

 

II.あなたは地の塩、世の光として創造された:その神がした驚きの対応はこうでした。神が一人子イエスをこの世に送り、私とあなたのすべての罪を、イエスに十字架の負わせたことです。イエスの死に免じて、私達の犯したすべての罪を赦したのです。そして三日目に甦ったイエスを通して、神は私たちに、愛の神と永遠に生きる命をプレゼントしたのです。まだあるのです。さらに神はイエスを信頼する人に「地の塩」として生きる特別な使命と神の力を与えたのです。

 

地の塩:皆さん、塩には三つの代表的な効力があるのをご存知ですか?それは清め防腐、味付けです。イエスは、イエスを信じる人を、イエスの代理人として、この罪の地においてくださったのです。それはまさに、日本大使が、外国で日本政府の権威と力を代理しているのと似ています。イエスの代理人は罪人であるすべての人をイエスの十字架と復活の力を通して・・・

    聖めに導きます。この聖めとは、神と隣人への全き愛のことです。イエスが私達に会い

にこの地上に来て、罪を赦し、神との永遠の愛の関係をくれました。そのことによって私達は神の愛をこれ以上表現できない形で、知ることができました。これらの神の愛への感謝から、私達は神と人を愛する心を、持つことができるようになりました。これを聖めと言います。

    防腐に導きます。人々が罪に負け、滅んでいくことから防ぐ働きです。神を愛する人た

ちが、一か所に集まることによって、それは可能になります。いつも福音を伝え、ケアし、祈り、賛美し、罪を告白することによって、私達は、罪の道でなく、神の愛の道を選択できるようになります。まさに教会がしていることですね。

    味付けをする。イエスと歩むことで、罪人が神と人を愛せるように新しい人に変えられ

ることです。いままで限りなく利己的だった人が、少しずつ神と人を愛せるように変えられていきます。そんなことが起こり得るのです。これが私やあなたに与えられた地の塩としての使命と効力です。

 

世の光:マタイ5:14で「あなたは世の光です」ともイエスは言われました。えっ?さっきは地の塩だっていったよね?どっちもです。イエスを信じて従う人は、世の光でもあるというのです。聖書がいう光って、すごいです。停電の時、ロウソクの光一つあれば、私たちは暗闇から解放されますね。暗闇に光が存在するだけで、周りの世界を照らし、それは道を示し、希望、慰め、安心、癒し、そして生きる力を与えてくれますね。どんな光でも闇はそれに打ち勝つことができません。それほど光の存在は貴重であり、希望そのものです。

 

Q.皆さんには、今まで地の塩、世の光のような存在はいたでしょうか?

私が大学を卒業する頃、私は大切な友人を失いました。同時に父との関係がいよいよ破綻し、私の心は枯れ果て、人生に絶望していました。そんな時教会のキャンプで、ある新婚カップルと出会いました。彼らは私の状況を知るやいなや、私一人のために、週一回家庭を開放し、夕食に招き、悩みを真剣に聞いてくれました。聖書から分かち合い、祈り合いました。3か月もの間、毎週私は彼らのところに行き、彼らのケアのおかげで、私は完全に立ち直ることができました。そしてその直後、私は留学に出ることができたのです。彼らは私の人生の最もつらい時に、私にとってイエスの輝きを放ちました。彼らは今でも私にとって隣人愛のモデルとなっています。彼らの一方的にしれてくれたすべての親切、時間、心は相当のものだったと思います。私は彼らによって「ただ一方的に、無条件で愛されていいんだ」ということを初めて体験したのです。私は福音を知りました。一人の地の塩、世の光の存在は、ある人にとって人生を変えるほどの素晴らしい影響を与えます。イエスは今日、私たちに笑顔で言われるでしょう。「あなたも誰かにとってなくてはならない、特別な地の塩、世の光なのですよ」と。

 

III. 真の地の塩、世の光があなたと共にいる、だからその効力は尽きることがない!

ここである人が反論するのです。そういうけれど、私はそんな立派な地の塩や世の光になれないよと。でも安心していただきたいのです。聖書は少しも「そうなれ」とも、「なれるように頑張れ」とも言っていないのです。聖書の福音はなんとすごいのでしょうか。イエスの十字架と復活を信じた時から、あなたは罪が赦され、神が本来あなたに用意された神の力と使命を受けました。だからあなたは、すでに「地の塩、世の光」だとイエスは宣言するのです。これは神様からあなたへの圧倒的存在の肯定なのです。あなたは、自分の一切の努力によらず、地の塩、世の光でい続けることができます。なぜなら、あなたに対し、先に地の塩、世の光となってくれた方が存在するからです。あなたが彼を知らないときに、彼はあなたを先に一方的に、先に愛してくれました。あなたが平気で罪を犯している時に、彼は逆にあなたの罪を全部背負い、自発的に死ぬことによって、罪の罰を受けてくれました。あなたを清め、罪から守り、愛することを教えてくれたのは、イエス・キリストです。彼こそが、私達が地の塩、世の光となる以前に、真の地の塩、世の光になってくれたお方なのです!

 

Q.でもどうやって? それは、聖霊様と共に歩くことによってです。十字架に向かうイエスがまさにそうであったように、あなたも聖霊に信頼し、あなたの人生のコントロールを完全に委ねてみて下さい。日々の生活の中で、聖霊の働きを認め、みことばと祈りを通して、聖霊に聴き従う生き方を追及してみてほしいのです。そのように生きる時、あなたは神の愛という太陽の輝きを抑えることができなくなるでしょう。まさに月が太陽光を自然に反射させ、美しく輝いているように、あなたもあなたの内におられる愛の神の輝きを、自然に反射させることができます。そして神はイエスにされたように、あなたを通して、神の栄光を現してくださいます。その栄光とは、神の愛が、人々に伝わるという栄光です。

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日曜礼拝(2019年3月17日)

2019-03-17 16:18:57 | Weblog

何が何だかわからない        19、3,17

聖書箇所: ルカ9:28~36(マタイ17:1~13、マルコ9:2~13)

 

1、              受難節第2主日になりました。ことしは、桜の開花も早いという予想で21日過ぎと言われています。いよいよ春で、ここち良さで眠たくなる季節ですね。

春眠暁を覚えず、処々にてい鳥を聞く 夜来風雨の声、花落ちること知りぬ多少ぞ(唐、孟浩然)という気候です。8年前のいまごろの311日に、未曽有の大震災・原発事故が起こったのです。この1,2週間、NHKでもいろいろ報道がされていました。特に、原発事故の影響で帰郷の見通しの立たない方のことを思います。

 

2、              さて、本日の聖書の箇所は、ガリラヤの北方の町、フィリポ カイザリアでの話です。ヘルモン山に近いところです。イエスさまの宣教活動期間は約3年ですが、この時期は弟子の訓練をしているころと言ってもいいでしょう。12使徒を選び、訓練し、さらにそのあとで、72人のリーダーたる弟子の訓練をしています。本日の聖書箇所の前には、イエスさまが、自分は何者だと人々は言っているかと、弟子たちに問い、彼らは、エリヤだとか預言者と言っていると答えています。そのとき、ペテロは神からのメシアですと言っています。そのあとにイエスさまは、弟子たちに自分は、かならず多くの苦しみを受け、祭司長、律法学者たちから排斥され殺され、3日目に復活することになっていると述べています。自分が救い主であることを宣言し、苦難と復活について語られたことは驚くべきことです。弟子たちはその意味が全く分からなかったのです。そのあとが、本日の箇所になっています。

3、              本日の箇所は、①イエスさまが、ぺテロ、ヨハネ、ヤコブをつれて祈るため山に登った。イエスさまが、弟子たちと離れたところで祈っているうちに、モーセとエリヤがあらわれ、輝くような栄光に包まれ、3人でイエスさまの最後について話をしていた。

②イエスさまが祈っている間、居眠りしていたペテロたちは、びっくりして眠い目でこれを見つめていた。ペテロがイエスさまに、こんな素晴らしいものを見たので記念に小屋を3つ建てましょうと言った。何を言っているのかわからなかった。➂そうしているうちに、雲が出てきて彼らを覆い、雲のなかから、“これは私の子 選ばれたもの。これに聞け”という声が聞こえた。そこにはイエスさましかいなかった。本日はこの話から考えてみたいと思います。

4、              イエスさまは、大切な祈りの時は、いつも山に登り一人で祈っています。最後の晩餐のあとのゲッセマネでの祈りの時も同じです。祈りは、神との交わりであり、私たちにも、一人で静まって祈ることの大事さを示しているのです。ルターは、祈りは力の供給源であり、命の源である神と結びつくことだと言っています。皆さんは、毎日一人で静まり、祈るときをもっているでしょうか?さらにイエスさまは、弟子たちを連れていき、そばでその姿をみせて教えています。自分の祈る姿をペテロ、ヨハネ、ヤコブに見せているのです。少し離れたとこで見ていたペテロたちは、つい居眠りをしますが、それでもいいのだとイエスさまは思っているのです。心は燃えていても、肉体は弱いと言っています。このすがたは、私たちにも、祈り方だけでなく、人を指導するとき、子供を育てるときの姿勢も同じで、まねをしたいものです。やって見せて育てることが、イエスさまが教えている教育方法です。戦時下の山本五十六は、「やって見せ、言って聞かせて、させて見せ、ほめてやらねば人は動かじ」と言っているのも同じです。

5、              イエスさまは、自分の使命をわかっていただけに、苦しみの中で祈っていたのだと思います。最後の晩餐後ゲッセマネでも、苦しみ悶え、汗が血の滴るように地面に落ちるというような祈りをしていたのです。十字架上での最後の祈りも、“わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか”と言っていることからわかります。イエスさまは、父なる神と深く交わりつつ、この苦しみの祈りのうちに光り輝き始めたのです。そのイエスさまを、励ますためにモーセとエリヤは、現れたのだと思います。旧約の律法を代表するモーセ、預言者を代表するエリヤから新約の時代に入ることの表れでもあります。3人はイエスの最後、十字架と復活について話し、励ましていたのです。イエスさまが、私たちの罪のために十字架につくことが、父なる神のみ心であり、旧約の預言の成就だということを示しているのです。

6、              ペテロたちは、イエスさまをメシアだと言いながらも、イエスさまが、多くの苦しみを受け、十字架につけられて死に、3日目に復活すると言われたことの意味が全く分かってなかったのです。イエスさまが、苦しみのなかで祈っていることを全く分かっていなかったのです。モーセ、エリヤが何のためにあらわれたのか、栄光に包まれながら話していたことも理解できなかったのです。ペテロは何が何だかわからなかったのです。だから小屋を3つ建てましょうなどといったのです。イエスさまと、モーセ、エリヤを同格と見ていたのです。イエスさまが祈っている間に、居眠りしてしまい目の前で、イエスさまの姿がかわり、栄光に包まれたときに目覚め、眠い目で3人の姿をみて、声も出ないほど驚いていたのです。霊的に鈍かったのです。

7、              わたしたちも、ペテロと同じではないでしょうか。十字架を見て、本当に私の罪の贖いのためのものであり、そして自分の罪がイエスさまを十字架につけたのだと心からおもっているでしょうか。み言葉を受け入れると言いながら、まず自分の必要を満たすことを求めてはいないでしょうか。隣人を愛すと言いながら、人を裁いたり、自分の主張を押し付けたり、していないでしょうか、人の必要に答えていないということはないでしょうか。イエスさまの十字架の故、永遠の命が約束されていることを信じ、どんな苦しみの時も、希望をもって信じているでしょうか。死んだ後にも、永遠の命という希望があるということはどんなに素晴らしいことでしょう。福島原発事故で、帰郷の希望が持てない人が多くいます。希望を失い病気になって亡くなるひとが多くいると聞きました。そのかたがたが、信仰を持つことにより永遠の命という希望がもてたらどんなになぐさめでしょうか。祈らざるを得ません。

8、              雲が現れるときとは、神さまがあらわれるときです。出エジプトの時、雲に導かれて進んだとあります。雲の中から、“これは私の子、選ばれたもの、これに聞け”という声が聞こえたのです。父なる神から、イエスさまが誉れと栄光を受けたのです。イエスの弟子たちに、そして私たちに、イエスが神であり、自分が選んだものだといい、これに聞いて従いなさいと言ったのです。弟子たちに向けて、そして私たちに向けて、十字架上の死と復活について、そのことを良く聴けと言っているのです。受難節の間、イースターまでの残り5週間、これらのことを祈り、黙想し深く味わいたいものです。

9、              さあ、今週もみ言葉に従い元気に歩みましょう。

 

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日曜礼拝(2019年3月10日)

2019-03-10 18:00:04 | Weblog

主日礼拝(受難節第1

2019.3.10

苦しみに遭うときに思い出して欲しいこと

ローマの信徒への手紙1:18-23(新共同訳)

 

導入部

   みなさん、おはようございます。お祈りをします。

 

   本日の説教題は「苦しみに遭うときに思い出して欲しいことというものです。

   「思い出して欲しいこと」と名のつく説教は、今回で3回目ですので、ワンパターンだ!と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、聖書という書物においては、苦しみの問題というのは中心的なテーマなのです。

   どうして、聖書は苦しみの問題を中心的に扱っているのか。それは、人生には苦しみがあるからです。苦しみがある。今も苦しみのなかにあるという方もいらっしゃるでしょう。もちろん、今は、特に苦しんでいません、という方もいらっしゃるでしょう。でも、これからの人生において、苦しみを経験しないなどという保証はどこにもない。

   だからこそ、聖書は、苦しみについて語っていて、そして苦しみに遭うときに思い出すべきことが語られているわけです。

 

   先ほど開かれた箇所において、パウロは、この世界にある苦しみを見つめています。そのキーワードは「うめき」という言葉です。「うめき」。

   この箇所においては、パウロは3つの存在のうめき声を描いていますが、3つの存在の苦しみのうめきを順番に見ていくことを通して、苦しみに遭うときに思い出したいことをご一緒に確認し、イエスさまを共に礼拝していきたいと思います。

 

本論部

一.被造物のうめき

   この箇所において、最初に描かれている「うめき」は、「被造物」のうめきです。

   19節からですが、「被造物」、それは「神さまに造られたもの」という意味ですから、普通は、人間を含むこの宇宙のすべてを指します。

   しかし、この箇所においては、23節に、「被造物だけでなく、わたしたちも」と比較されていますので、ここでは人間以外のすべての世界を指すと思われます。

   そして、20節によると、その被造物が「虚無に服した」、21節によると「滅びへの隷属」に陥っていると言われています。

 

   これはどういうことかと言うと、みなさんは、自然は好きですか。自然の中にいるのは好きでしょうか。私は、散歩が大好きでですね。まあ最近は寒いので、あまり散歩していませんが、公園とかを歩いたりするのが大好きなんですね。

   自然というは本当に美しいと思います。しかし、このローマの信徒への手紙を書いたパウロは、自然の美しさを見ると共に(1章にはそういうことも書いています)、その美しさの背後にある、自然の悲惨さ、虚しさ、滅びを見た。悲惨さ、虚しさ、滅び。

 

   確かに自然界は残酷ですよね。無秩序な面もある。そして、ある時には人間に牙を向いてくる。

   明日はあの東日本大震災から、8年目の日です。あの日、みなさんはどこで何をされていたでしょうか。

   私は、KGKの学生のキャンプのために長野県にいました。あの日の前が、ずいぶん昔に思える。あの日から、人生が全く変わってしまったように思える。私ですらそのように思うのですから、被災された方々にとっては尚更のことでしょう。

   明日、私たちはそのような痛みを覚えておられる方々に心を合わせたいと思いますが、この日本にあっては、いつなんどきあのような災害が起こっても不思議ではない。いつなんどき、苦しみが襲ってくるか。それは誰にも分からない。

 

   あなたは、被造物のうめきが聞こえるでしょうか。

   創世記の章によると、アダムが罪を犯したことで、地が呪われた、全宇宙に影響が及ぼされ、全宇宙が呪われてしまったということが語られています。その日から、被造物はうめいている。苦しみのうめき声をあげている。

    パウロには、被造物のうめきが聞こえた。そして、被造物のうめき声は、パウロの時代よりも、現在の方が大きくなっている。環境破壊は異常なスピードで進んでいます。汚染された森が、水が、動物たちが、そして大地がうめいている。一つ目のうめき、それは被造物のうめきであります。

 

二.教会のうめき

    23節からは、2つ目のうめく存在が描かれています。それは、クリスチャンたちの、教会のうめきです。

    23節をご覧ください。「被造物だけでなく、の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。

 

   体の贖われることを、待ち望んで、うめいている。

   私たちの体って、本当に弱いですよね。病気になることがあります。私自身は幸いなことに、今は、病は持っていませんが、心傷ついたり、疲れてしまったり、また罪に向かってしまう、失敗をしてしまうことことがある。

 

   実は、私はちょうど1年前の3月からこの教会でユースパスターとしての働きを始めました。先週日曜日が、青葉台教会一周年でした。

   「まだ一年か」と思うくらい、大変濃いというか、いろんなことがあった一年でした。この一年、みなさまの祈りと、また具体的なサポートに支えられて、もちろん時にはイジられながら、かわいがっていただきながら、ユースパスターとしての働きが守られたことを心から感謝しています。

   もちろん楽しいことの方が多かった。でも、もちろん苦しいこともあった。失敗したなあと思うこともありましたし、またユースパスターとともに、KGKキリスト者学生会の働きもしていますので、忙しくて、あるいは不全感、自分の至らなさを覚えて、疲れ果ててしまいそうになるときもありました。文字通り、うめくことだってあったわけです。

 

   もちろん、ご高齢の方を始め、病をもっておられる方や、あるいは体は健康でも、人間関係のなかで傷つくことがあったり、経済的・物質的な心配があったり、愛する人との別れを経験したり、様々な苦しみがあった。この2018年度を振り返るときに、大きなうめきを経験された方もいらっしゃるでしょう。

   私もこの1年、もちろん、全てではありませんが、みなさんの様々な痛み、苦しみ、うめきを、少しでも知ることができたことを心から感謝しています。

   教会もまたうめく。わたしたちも、うめくことがあると思うんですね。

 

三.将来の栄光

   うめきが、確かに、今この世界にはある。被造物が、そして教会がうめいている。この世界には、苦しみがある。

 

   しかし、思い出していただきたい。18節にはこのようにありました。

   18節、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

   パウロは、被造物と教会のうめきを聞き取りながら、でもそのような「現在の苦しみ」は、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と比べるならば、取るに足らないと語る。

 

   「栄光」とはなんでしょうか。

   これは、以前もお話ししましたが、「すごい!」と思われたり、言われたりすることです。栄光ゼミナールという学習塾がありますが、これは受験に合格してすごいって言われようぜ!という意味なのですが、聖書においては、神の栄光という意味で用いられることが多い。

   神さまが、すごい!素晴らしい!ということが、はっきりと分かる日が来る。そのことを思えば、そのことと比べれば、現在の苦しみは取るに足らない。

 

   それは、19節によると、「神の子たちの現れる」ときです。21節によれば、「神の子供たち」に、そして被造物にも、「栄光に輝く自由」が与えられる。

   23節によれば、キリスト者たちが「神の子とされる」。これは「すなわち、わたしたちのからだの贖われること」とありますから、私たちが名実とともに「神の子」とされ、弱い罪のからだでなくなる。新しい、復活のからだを与えられる。

 

   これが「将来わたしたちに現されるはずの栄光」である。イエスさまがもう一度この世界に来られるとき、被造物が、そして教会が完全に救われる。すべての苦しみがなくなるときが来るのだ。

   少し戻っていただいて、22節には「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」とあります。

   お母さんが子供を産むとき、めっちゃ苦しいらしいです。私はおそらく経験することはないですが。言いたいことは、今の苦しみはやがての喜びのための苦しみであるということです。

 

   2425節をお読みします。

   わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。/わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。

 

   将来わたしたちに現されるはずの栄光」。それは目に見えない。だからこそ、「望む」。このことばは「信頼する」という意味でもあります。忍耐して、信頼して、待ち望む。

   しかし、愛するみなさん。ここまで聞いて、どうですか。なんかあまりピンとこないと思うでしょうか。あるいは、この世界で直面する苦しみを前に、「やがて来る『栄光』など待つことができない。待ちきれない!耐えきれない!」と思うことがあるかもしれません。

 

四.聖霊さまのうめき

   最初に私は、この箇所には3つのうめきが書かれていると言いました。

   1つ目のうめきは被造物のうめきでした。2つ目はクリスチャンたちの、教会のうめきだと言いました。「将来わたしたちに現されるはずの栄光」を待ち望みながら、苦しんでいる、うめいていると言いました。

   しかし、これでもまだ終わらないのです。私たちが最後に目を向けるべきは、3つ目のうめく存在、それは聖霊さまであります。

 

   26節をご覧ください。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。

   「現在の苦しみ」、そのなかで、うめくなかで、どう祈ったら良いか分からない。そのような経験をすることはないでしょうか。

   私たちは、私たち抱える苦しみを、あるいはこの世界にあるさまざまな苦しみを、もし中途半端に見つめているだけなら、簡単に祈れるでしょう。

   しかし、本気でこの苦しみを、自分の、あるいはこの教会のなかにある、あるいはこの世界にある「苦しみ」を本気で見つめるならば、ことばを失わざるを得ないのではないでしょうか。

 

   みなさんは、祈りがうめきにしかならないという経験をしたことがあるでしょうか。もう言葉が出てこないんですよね。「う〜」とか「ああ〜」としか言えない。そのような経験をしたことがあるでしょうか。

   そのようになるまでに、「苦しみ」を見つめたことがあるでしょうか。そのようになるほどの「苦しみ」を経験したことはあるでしょうか。

 

   私たちの信じている神は、私たちの弱さを知っておられるがゆえに、私たちをあきらめない。だから、聖霊さまを遣わし、聖霊さまは私たちとともにうめき、執り成してくださる。

   聖霊さまはきよめ主と言われます。私たちのゆがみを、罪の性質をときにじっくり、ときにはがーっと、直してくださるでしょう。

   また、聖霊さまは慰め主と言われます。私たちの傷や痛み、満たされない心を癒してくださる。

   また、コリント12:3には「聖霊によらなければだれも『イエスは主である』とは言えない」とあり、聖霊が信仰の告白を助けてくださるということが分かりますし、ヨハネ14:26によると聖霊は、みことばを、十字架の赦しを指し示してくださる方だと言われます。このすべての働きをひっくるめて、「聖霊の執り成し」であると思うのです。

 

五.益となるという告白

   だから、わたしたちはこのように告白できるのです。28節、「神を愛する者たち、すなわちご計画にしたがって召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

   実は、「知っています!」という言葉が、原語ですと先に来るのですが、これはパウロがよく用いる確信をこめた、重い告白なんですね。

   「将来の栄光」のとき、イエスさまが再び来られる再臨のとき、すべての苦しみがなくなるのだ。そして、すべての苦しみの意味が分かる。

    それまでは、すべての苦しみにも意味があるということは分かっている。でも、それまでは、どんな意味なのかということは分からないことの方が多い。いやむしろ、簡単に苦しみを意味を断定すべきではない。

    でも、「将来の栄光」のとき、イエスさまが再び来られる再臨のとき、すべてのことが「益」であった。「益」となったと言えるんだ。そのことを私たちは知っているのだと、普通はそんなことを言えません。でも、聖霊さまが助けてくださるから、その告白に立てなくなりそうなときにも聖霊さまが執り成してくださるから、今日もまたこの告白に帰ってくることができる。

 

結論部

    あなたは今日ここから、一人で遣わされるのではない。聖霊さまがあなたと一緒に、この一週間を歩んでくださる。

   今日は、受難節最初の日曜日です。先週水曜日が、「灰の水曜日」と言われますが、この日から、421日のイースターまでが、受難節と言い、イエス様の苦しみを覚える季節です。あなたを愛し、あなたに永遠のいのちを与えるために、苦しまれたイエス様を覚えながら、この礼拝から遣わされていきたい。

    あなたも、今苦しみのなかにあるかもしれない。これからも、この地で生きる限り、苦しみはある。うめくことがある。でも、思い出して欲しい。苦しみに遭うときに思い出して欲しい。忘れそうになることがあっても、あきらめずに思い出し続けて欲しい。あきらめないでいただきたい。なぜなら、神さまは、あなたをあきらめておられないから。

    あなたと共にいて、将来の栄光に至るまで、導き、守ってくださる。そのことを思い出して、今日ここから、遣わされていこうではありませんか。お祈りしましょう。

 

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日曜礼拝(2019年3月3日)

2019-03-03 13:38:39 | Weblog

日曜礼拝(公現後第八)    2019.3.3

     「求めよ、さらば与えられん」 マタイ7:7~12

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。3月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの魂の救い主、イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

 今日は、3月3日、日本ではひな祭りです。ひな祭りは、ひな人形を飾り、ちらしずしやハマグリのお吸い物を食べて、女の子の健やかな成長を願う伝統行事です。ひな祭りの起源は、季節の節目や変わり目に災難や厄いから身を守り、より良い幕開けを願うための節句が始まりのようです。現在では、ひな人形は飾るのですが、以前は、ひな人形を川に流していたようです。紙や藁で作った人形に、わが身の罪や穢れを移して海や川に流し、災禍を逃れる行事が行われ、この人形の事を贖物(あがもの)と呼んだようです。

 キリスト教とひな祭りとは、関係ないようですが、人形に自分の罪や穢れを移して流す、というような願望が人間にはあるのです。そのことを神様が実現して下さったのが、イエス・キリスト様の十字架と復活だと思うのです。

 「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、文語訳です。若者は「与えられん」を与えられないと否定的に考えることが多いのではないでしょうか。今日は、マタイによる福音書7章7節から12節を通して、「求めよ、さらば与えられん」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、私たちの求めを知っておられるイエス様に願う

 7節、8節を共に読みましょう。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」イエス様は、7章の前の6章では、「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイ6:31-33)と言われました。

また、「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」

(マタイ6:7-8)と言われて主の祈りを教えられました。神様は、私たちが願う前から、祈る前から私たちに必要なものを知っておられる。だから、祈らないでいいというのではありません。神様は、私たちが祈る前に、願う前に、すでに私たちの必要なもの、願っているものを全て知っておられるからこそ、私たちは、神様に祈りたいと思うのです。

 イエス様は、マタイによる福音書20章29節から33節の箇所で、二人の盲人がイエス様に対して、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ時、イエス様は、二人をわざわざ呼んで言われました。「何をしてほしいのか」と。盲人ですから目が見えるようになることが願いでしょう。イエス様は、彼らが願う前に、彼らの求めは、目が見えるようになることであることはご存知でした。それでいて、なお聞かれたのです。「何をしてほしいのか」と。盲人の二人は答えました。「主よ、目を開けていただきたいのです」と言ったのです。イエス様は、彼らの心からの願いを、思いを聞いて、深く憐れんで、目に触れて見えるようにして下さったのです。

 イエス様は、私たちが願う前に、祈る前に私たちが何を求めているのか、何をしてほしいのか、を知っておられるお方です。けれども、「何をしてほしいのか」と問われるお方なのです。だからこそ、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあるように、私たちは、私たちの必要をご存知であるイエス様に、求め続けたい、探し続けたい、門をたたき続けたいと思うのです。

 

 二、神様は私たちに良い物を与えて下さる

 9節から11節には、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」とあります。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」というのは、私たちが、自分の欲しいものを何でも手に入れることができるということを言っているのではないと思います。11節の後半には、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」と、神様が私たちに良い物を下さるお方であることが記されています。

 9節から11節には、父なる神様と人間の親との事柄が記されています。人間の親であるあなたがたは、「パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。」と言うのです。当時のユダヤはパンが主食でした。パンを焼いて取り出す時に、まわりについている灰の色は、石に似ていたように、また、石そのものがパンに似ていることから、また、ガリラヤ湖では、魚と一緒に海ヘビが釣れることもあったようです。また、このヘビという表現は、うなぎではなかったということで、うなぎは、ユダヤ人にとって、汚れたものであったということから、子どもにパンと魚に似ている石やヘビを与えるだろうかと問うのです。

 不完全な人間の親でさえも、自分の子どもがパンや魚を求める時、間違っても石やパンを与えることはない。まして、愛と義において完全なるお方が、求める者に対して良い物を与えて下さることに間違いはないというのです。

 11節には、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。」とあります。私たちは、罪ある者、悪い者、問題や失敗の多い者、欠けのある者です。そのような者でさえ、子どもには良い物を与えるのです。まして、天の父なる神様、愛のお方が、私たちを子として愛しておられるのですから、私たちに良い物を与えて下さるのです。神様のお心は、私たちに、いつも良い物を与えたいと願っておられるということなのです。

 

 三、祈りを通して神様との良き関係を築く

 しかし、私たちがパンを求めたのにもかかわらず、石が与えられた。魚を求めたのに、ヘビが与えられたというような事を経験することがあるように思います。不完全な、罪ある私たち親が子どもにとって、良い物であると思って与えても、良い物でないということがあるでしょう。しかし、完全なるお方、私たちを愛し、大切にしておられる神様が、私たちが自分の思いで、自分の考えで石やヘビだと思えるような物を下さることがあるのです。私たちが願ったものや祈ったものとは違うものを与えられることがあるのです。しかし、神様の原則は、良い物を与えて下さるという事なのです。

 ここには、神様と私たちとの関係性が問われるように思います。信頼関係が問われるように思うのです。私たち人間でも親子関係、先生と生徒の関係、上司や部下の関係は、生きていくうえで、その関係がどうであるのかということは、とても大切なことです。親子でも、先生と生徒でも、上司や部下の関係も、信頼関係がないと良い関係でないと、言われた事や示されたことに納得がいかないと、示されたことに従ったり、行動することは困難です。いつか、その関係は崩れて、悪化し、分裂してしまうことになります。

 神様と私たちの関係も、信頼関係がないと、自分が祈り、求めたりした通りに与えられないと不満が爆発して、神様に文句を言ったり、つぶやいたりしてしまいます。そして、ついには、祈らなくなってしまう。求めなくなってしまうのではないでしょうか。

 神様の原則は、私たちに良い物を与えて下さるという事です。それは、神様ご自身の私たちに対する愛から出るものです。けれども、私たちの側で、願った通りではないことや、求めていない事柄であることに納得がいかないのは、神様との関係がよくない状態にあることを示しているように思うのです。

 オリンピックで金メダルを目指す選手は、監督やコーチから厳しいトレーニング、自分が思わなかった、願ってもいない厳しいトレーニングでも、今メダルという目標のためには、忠実に従うでしょう。監督やコーチが、自分と同じ金メダルを目指していることを理解し、知っているからです。

 神様は、私たちを愛し、私たちの最善をいつも願っておられるお方です。私たちの罪を赦すために、罪人の私たちを裁くのではなくて、私たちを愛しているがゆえに、私たちの罪の身代わりに、神であるお方、罪のないイエス様を十字架の上で裁かれたのです。イエス様は、十字架の上で、尊い血を流し、私たちの身代わりに死んで下さったのです。そのことによって、私たちの罪は赦され、魂は救われ、イエス様が死んでよみがえることにより、私たちにも復活の命、永遠の命、天国の望みを与えて下さったのです。ですから、神様はいつも私たち一人ひとりのことを愛して、大切にしておられるということを信じることです。神様を信頼することです。自分が願った通りに、思った通りにならなくても、たとえ、私たちが驚くような、絶望するような困難や苦しみが与えられたとしても、神様は私を愛していること、大切にしていること、一番良いようにして下さることを信じて疑わない事です。これが、神様と私たちとの信頼関係を築くことだと思うのです。今日の聖書の箇所、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」というみ言葉は、私たちが神様に求める、祈ることを通して、良き関係を築くことを示しているように思うのです。私たちは、神様に祈り続けることで、神様との信頼関係が築き上げられ、神様の驚くべきみ業を体験することができるのです。

 

 Ⅲ結論部

 今日の聖書の箇所は、「求めよ」と勧めるのです。私たちは何を求めるのでしょうか。

ずいぶん昔ですが、今もこの言葉は、生きているのでしょうか。女性たちが、結婚相手に求めるものは、「三高」と言って、高身長、高学歴、高収入というのがありました。それは、本当に幸せになるのでしょうか、疑問です。私たちは、私たちの事を何もかもよくご存じであるお方に、何を求めるのでしょうか。何を祈るのでしょうか。

 ニューヨークのリハビリテーション・センターの壁に刻まれている一編の詩は、誰が書いたか分からない、といわれるこの詩は、この人自身が、苦しいリハビリの中で、又、命の終りが示されつつある絶望の状況の中で、どうして神様は求めるものを与えてくれないのだろうかと、苦しみ悩み、闘いながら、やがて、神様を全面的に信じて、この信仰に達したように思うのです。私たちもそうありたいと思うのです。このような詩です。

「大きなことを成し遂げるために力を与えてほしいと神に求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授(さず)かった。 より偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を与えられた。 幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった。世の人々の賞賛を得ようとして成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに、あらゆることを喜べるようにと生命を授かった。求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた。神の意に沿わぬものであるにかかわらず、心の中の言い表せないものは、すべて叶えられた。私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。」 

「求めたものは何一つ与えられなかった。」今の私たちの現実があるのかも知れません。しかし、「願いはすべて聞き届けられた。」と、「私はあらゆる人の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。」と神様は私たちに言わせて下さるお方なのです。このお方が、この週もあなたと共におられます。ですから、何があって大丈夫です。安心して、イエス様に従って、イエス様に祈り求めましょう。祈り続けましょう。祈りを通して、ますます神様を、イエス様を信頼して歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2019年2月24日)

2019-02-24 10:28:57 | Weblog

日曜礼拝(公現後第七)    2019.2.24

     「良くならないけど良くなりたい」 ヨハネ5:1~9

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。2月の第四日曜日を迎えました。今日も、愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

先週の日曜日、浦和から教会に帰りますと第三礼拝が始まっておりました。少し疲れ気味で、メッセージ中に、少しうとうととしましたが、素晴らしいメッセージでした。イエス様の憐れみを本当に感謝することができました。10日の日曜日は、塚本先生、先週の17日は岩淵兄、今日は私と、週替わりのメッセージで、皆さんは本当に恵まれておられると思います。3月も週替わりのメッセージになると思いますので、こうご期待下さい。

今日は、ヨハネによる福音書5章1節から9節を通して、「良くならないけど良くなりたい」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、仕方のない人生を送る

今日は、ベトザタと呼ばれる池のそばでの出来事です。5つの回廊(リビングバイブルでは、屋根つきの5つの廊下)があり、そこには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人という人々が大勢横たわっていた、と聖書は記しています。

今でいえば、病院と言ったところでしょうか。体に病や痛みを持つ人々がいたのです。少しの痛みや調子が悪いぐらいではなく、重症と言われる人、生活に大きな支障がある人、困難な人々がいたわけです。ここに横たわっている人々は、喜びや幸せを味わうことのできない人、幸せな人生を歩むことを許されていない人々と言えるのかも知れません。1節には、ユダヤ人の祭りがあった、と記されているように、ベドザタの池の近くでは、盛大なお祭りが行われていたようです。お祭りとは、日ごろの苦労や苦しみ、痛みを忘れて、横において、楽しむものでしょう。この祭りの時だけは、日ごろ背負っているものを脇に置いて、忘れて、楽しむのです。けれども、ベトザタの池のそばにいた人々、5つの回廊に横たわっている人々は、日ごろの苦労や痛み、苦しみを脇へ置いておくことのできる人々ではありませんでした。自分の背負っている苦しみを忘れて祭りをすることなど、到底することのできない人々だったのです。

そこに横たわっている人々は、そこに何故いたのかと言いますと、4節なのですが、新共同訳聖書には、4節がありません。4節の代わりに、十字の葉っぱのような印がついています。ヨハネによる福音書の最後のページに、底本に節が欠けている箇所の異本による訳文とあります。3節bから4節として、「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」という言葉があります。

口語訳聖書では、4節があります。今読んだ内容です。これは、聖書には、写本というものがあり、写本が多ければ多いほど正確だと言われています。聖書の翻訳のもととなった写本には、4節は、もともとなかった部分ではないかと言われていますが、3節後半から4節までの部分を含んだ有力な写本もあるため、こういう説明を含んだ写本もありますよ、という意味で、ヨハネによる福音書の最後のページに載せるようにしているようです。

でも、この説明があるので、回廊に横たわっていたという理由がわかります。

多くの病んでいる人々、そこには競争があり、人を出し抜いたり、人を押しのけてまで、最初に入らないかぎり、癒されないのです。しかし、ほとんどの人々が、癒されないままで、そこにい続けているのです。そこには、希望も将来もないけれども、そこにいるしか仕方のない人生を送っていたのです。私たちの人生は、どうでしょうか。この人々と同じような人生を歩んでいることはないでしょうか。イエス様の業は、そこになされるのです。

 

二、「良くなりたい」、と叫びたい

ここには、大勢の人が横たわっていましたが、聖書はただ一人の人を紹介しています。

5節の後半には、「そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。」とあります。この三十八年間病気で苦しんでいる人について、榎本保郎先生の書いた新約聖書一日一章では、このように記されていました。「その人は、水が動いても自分を池の中に入れてくれる人はいないし、自分が入ろうと思えば、他の人が先に入ってしまう。自分はどうせだめなのだという絶望、あきらめの中に横たわっていた。それでもなお、恵みの家に来ていることを気休めにしていた。」

イエス様は、大勢の人が横たわっていたけれども、この38年間病気で苦しみ、横たわっている人を見たのです。そして、長い間病気であることを知ったと聖書は記しています。イエス様は、よく人を観察し、よく見られるお方です。その人の現状、状態、表情、姿形をよく見られます。そして、外見だけではなく、この人が病気のゆえに長い間苦しんで来たこと、耐えてきたこと、多くの病気を持つ人々の間で、水が動くのを期待し、その瞬間のために、水面を凝視し続けてきたこと、いつの間にか、自分の病気が癒されることに対しても期待を持てなくなったこと、けれども、この場所にい続けるしか仕方がないこと、その人の心の苦しみ、切なさ、痛み、怒り、憎しみの思いを知っていて下さるのです。

イエス様は、この人に言われました。「良くなりたいか」と。良くなりたいから、ここにいるのでしょう。38年間もいるのでしょう。しかし、良くならないままで38年間が過ぎたのです。「良くならないけど良くなりたい」のです。しかし、その希望も消えかかっていたのではないでしょうか。あきらめの思いがあったのではないでしょうか。

イエス様の質問に答えます。7節です。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」早い者、強い者が勝ち残れる世界です。この人は、「良くなりたいです」とは答えませんでした。本当なら、そう答えたいはずです。しかし、良くはなりたいけれども、良くなれない理由、水が動く時、自分のために手伝ってくれる人が誰もいない。強い人、早い人が先に行ってしまう、と答えました。彼は、だれにも愛されない、見向きもされない孤独だったのです。

私たちも、信仰的に成長したい、恵まれたいと思います。けれども、成長したい、恵まれたい、という代わりに、そうなれない理由をまくしたてることがあるように思うのです。

この人が、あの人が、云々。イエス様は、この人を見、知っていて下さっている。そして、救い主なるお方、癒し主であるお方が、「良くなりたいか」と問われているのですから、「良くなりたいです。」と答えていいのです。私たちも、そう答えたいと思います。

 

三、床を担ぐ人生を生きる

8節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」」 「起き上がる」という言葉は、「エゲイロ」という言葉が使われていますが、もともとは、「目を覚まさせる」という意味があるようです。さらに、「死人を復活させる」という意味も、この言葉にはあるようです。今まで、死んだような者を目覚めさせ、復活させるのです。イエス様は、「床を担いで」と言われました。「床」とは、絶望へ向かわせる場所、孤独の場所、そこは助ける者がいないことを意味します。その「床」を担ぐ。

「担ぐ」は「アイロー」という言葉が使われていますが、取り除くという意味があります。

「床を担ぐ」とは、この人は、38年間も床で過ごしました。床で過ごす時間が長くなった。床に縛られた人生であった。けれども、その場所が、神の栄光の現れる場所となるのです。イエス様は、生まれつき目に見えない人に、「神のみ業が現れるためである」と宣言され、主のみ業を行われたのです。

 また、「床を担ぐ」とは、今まで病気で床の上で生活してきた。床に縛れていた人生ではなく、絶望の人生ではなく、神のみ業を信じて、病気という苦しみが、悲しみが、痛みが支配する人生ではなく、神様を信じて自分が主体となって生きていくということを現しているように思うのです。この人を見て、知って下さった神としての権威を通して、宣言された「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉を信じて、生きるものとなるのです。この人は、イエス様の言葉を信じて、今まででのように床に縛られ、病に縛られる人生ではなく、イエス様の言葉を信じて生きる道を歩み始めるのです。そして、この人は、癒されて、床を担ぐ人生、どのような苦しみの中にあっても、それに縛られることなく、イエス様を信じて歩み始めたのです。

 イエス様は、私たち、一人ひとりの状況を、境遇を見て下さり、私たちの辛い思いや傷ついた心を知って下さるお方です。愛のお方です。この方が、私たちを愛して、私たちの罪を赦すために、十字架にかかって尊い血を最後の一滴まで流して下さり、その命をささげて下さったのです。そのことにより、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられたのです。そして、イエス様が死んでよみがえることにより、私たちに死んでも生きる命、永遠の命、よみがえりの命を与えて下さったのです。

イエス様は、私たちがどのような苦しみや悲しみを、痛みを絶望を経験しようとも、私たちのそばに来て、「良くなりたいか」と問われ、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」、苦しみや悲しみ、絶望、あきらめの場所に、い続けないで、神の言葉を信じるのだ。神の愛に信頼を置くのだと、語って下さるのです。

 

Ⅲ結論部

38年間、病気で苦しんで来たこの人は、ベトザタ、憐れみの家にいながら、恵みの場所と言われる場所にいながらも、惰性とあきらめの中におり、そこに、床にいることが気休めとなっていたのです。榎本保先生は、新約聖書一日一章でこう語ります。

「私は、気休め程度に信仰生活を送っている人が多いのではないかと思う。なにか歯が抜けたような気持ちが悪いから日曜日の礼拝に行くとか、小さい時からずっとしていることだから、そうしないと気持ちが悪いというようなことで、そこでは、生ける神に出会い、神の言葉によってもう一度、自分の内に新しい生命を与えられるという希望や期待がない。三十八年の長い間ここに来ていても、それほど驚くこともなかったから、今日もまたそうであろうというふうに、いつまでも自分の過去にとらわれ、神の全能をみていこうとせず、また、神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないかと思う。私たちは、せっかく恵みの家に来ておりながら、そこで自分は恵みにあずかりたいのだという思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのではないだろうか。」

私たちは、この1週間様々な所を通らされ、苦しみや悲しみや痛みを経験したでしょう。そのような経験を持つ私たちは、今日の、この礼拝、イエス・キリスト様が中心におられ、このお方が支配される礼拝に出ながら、何の期待も持てないということがあるのでしょうか。私たちのために、私たちを愛するがゆえに、私たちの代わりに十字架にかかり、命をなげだされたイエス様が、私たちの祈りに、思いに答えられないはずはないのです。

全能なる神様、死を打ち破り復活されたイエス様は、今、私たちと共におられ、私たちを恵み、祝福して下さるのです。私たちは、この週も、どのような悪い経験をしようとも、苦しみを、絶望を経験しようとも大丈夫なのです。私たちといつもそばにおられ、見ておられるイエス様は、私たちの経験する苦しみを、悲しみを知り、理解して下さるのです。だからこそ、この週も、イエス様と共に歩み、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」というお言葉に従い、イエス様に全てをお委ねして立ち上がろうではありませんか。

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日曜礼拝(2019年2月17日)

2019-02-17 06:51:50 | Weblog

憐れみによる主の招き 19,2,17

 マタイ9:9~13 (並行箇所 マルコ2:13~17、ルカ5:27~32)

 

1、              イエスさまは、“正しい人と罪びと”を論ずるとき、“徴税人とファリサイ人”をよく対比して扱っておられます。徴税人とは、ローマ帝国から税の徴収の権利を委託された徴税人の頭(ルカ19章のザアカイ)のもとに雇われている人びとです。低賃金で貧しい人々であったようです。人々から税金の取り立てをしたことから、ローマの手先,背信者、売国奴、裏切り者とユダヤの人々から言われ激しい憎悪、軽蔑されていたようです。町の門や公道などの収税所にいて、人頭税、土地・財産税のほかに通行税や取引税等を取り立て、しかも自分の生活のため規定以上の税を取り立てたそうです。(当時の税は、ユダヤの税、神殿税、ローマの税と三重に課されていました。)

 

2、              本日の箇所は、マルコ、ルカにも同じ個所があります。マルコ、ルカでは徴税人の名がレビとなっており、マタイだけがマタイとなっており、いわばこの福音書を書いたマタイの証なのかもしれません。イエスさまは、通りがかりに収税所に座っていたマタイに、「わたしに従いなさい」といった。するとマタイは「立ち上がってイエスに従った」。そのあとマタイの家でイエス、弟子たち、マタイと食事をしていると徴税人仲間や罪びとたちが大勢やって来て食事の席に同席した。それを見ていたファリサイ派の人々は、弟子になぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのかと言った。それを聞いたイエスさまは、「医者を必要とするのは丈夫な人でなく病人である。私が求めるのは、憐れみであって、いけにえ、ではない。どういう意味か行って学びなさい。私が来たのは正しい人を招くためでなく罪びとを招くためである」といったのです。非常にわかりやすい簡潔な話であります。

  本日は、ここから3点、①マタイへの招き、②主の食卓への招き、➂私たちへの招きということを考えてみたい。

 

3、              まず、マタイへの招きです。マタイは、求道者でもなかった、イエスさまの噂は知っていたでしょうが、よくは知らなかったでしょう。突然イエスさまから、“私に従いなさい”と声をかけられ、あまりにもイエスさまに、神の権威を感じたのでしょう。突然立ち上がって従ったのです。ルカでは何もかも捨てて従ったとあります。まったく思いがけなく、劇的なことです。自分の仕事の都合、家庭の事情などとは言っていなく、しっかり立ち上がって従ったのです。アブラハムが行き先もわからず、神に従った、ノアは、本当に洪水が来るかわからなくても神さまに従い、船を作ったのと同じであります。イエスさまの招きには、マタイ側になんの根拠、理由はないのです。神の権威ある招きであり、一方的恵みなのです。マタイの行いによるのではなく神の賜物です。いまも、イエスさまは、この礼拝でも、私に従いなさいと招いておられます。この招きは受洗の時だけではなく、私どもの生活全般にもあるのです。我々はそれにきづいていないことがあります。招きは職場でも家庭、学校、教会の奉仕でも,私たちの全生活にあるのです。招きの声は、直接的なものだけでなく、牧師、他の人の話、言葉、書籍等、どのような仕方でもあるのです。私たちは仕事が忙しいからとか、家庭ですることがあるからとか、自分中心に考えて、招きに応じてないということはないでしょうか?神は、私たちそれぞれを、目的をもって創造しておられます。一人一人に神の目的があるのです。神の憐れみからの招きに、信頼して応答できたらと思います。結果はイエスさまが決めることです。招きに応じた、マタイは福音書まで書く人になったのです。

わたしは、3年前、ギデオン協会の会長をしていた時、台湾のギデオン協会の記念大会に招待されたことがありました。台湾の役員たちと交わっている中に、有名企業の社長をしている、40歳代の方がいました。そのかたに、仕事が忙しいのによくやれていますねと尋ねました。するとそのかたは、私は神さまのことを第1にしていますから、という答えが返ってきました。それを聞いて私は、そんなことを聞いたことがとても恥ずかしい思いをしました。

 

 次に、主の食卓への招きを考えてみましょう。マタイがイエスさまに従い、食卓を共にしているという噂はすぐに広がったのでしょう。それを知った同業の徴税人、罪びとが大勢集まってきて、マタイが招かれたのだから、自分たちも主の憐れみにすがろうとしたのです。彼らはいつもユダヤ社会の秩序では、ばかにされ、のけ者にされていたのです。ルカに、神殿での徴税人の祈りに、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸をたたきながら、神さまわたしを憐れんでくださいと祈った」とあります。まさに、イエスさまが求めていたことであります。かれらは、主の食卓に招かれたのです。イエスさまが、“病人や罪人を招くために来た”というのを聞いたとき、この人々は心から病人、罪びとは自分のことだと思い、悔いており、憐れみをもとめていたのです。これは、イエスさまの裁きの言葉でもあり、これも受け入れているのです。

 

 つぎに、私たちへの招きについて考えてみたいと思います。丈夫な人、正しい人とはファリサイ派の人々だけのことでしょうか?ファリサイ派の人とは、ユダヤの律法をきちんと守り、10分の一献金、断食などを決められた以上にしており、宗教組織のきめごと、律法秩序の社会では模範的な人として人々から尊敬されていたのです。自分たちも、正しい人間だとうぬぼれ、同じことができない人々を見下していたのです。罪びとへの憐れみの心を失っていたのです。私たちも同じようなことに陥りやすいのではないでしょうか。私たちは、たえず人と比較し、自分の方が勝っていると思ったり、自分は正しいと、人を責めたりしていることはないでしょうか?相手の弱さ、痛みに、同じ立場に立ち、共に苦しんでいるでしょうか。

 イエスさまは、ファリサイ派の人々に、私が求めているのは憐れみ(愛)であって、いけにえ、ではないと、ホセア6:6、“わたしが喜ぶのは、愛であって、いけにえ、ではない。神を知ることであって、焼き尽くす献げものでない”から引用しています。

“これが、どういう意味か、行って学びなさい”と命じられたのです。そして“私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪びとをまねくためである”といったのです。

律法秩序のなかで堕落しているファリサイ人にたいする痛みを抱えたイエスの愛です。

神の前に、義人はいない、一人もいないのです。すべての人が罪びとであり、イエスさまはすべての人を救いに招くために来られたのです。ファリサイ人をもここで招いているのです。この招きは、正しいものと心の中で思っている私たちへの招きでもあります

 

 

4、              皆様は、明治時代にもキリシタンの弾圧があったことはご存知でしょうか。昨年10

 月に、ユネスコ世界文化遺産に指定された五島列島のキリシタン遺産を教会の皆さんと見学してきました。この指定はキリスト教禁教下、250年間神父不在のなか、信仰を守り、信仰共同体を維持してきたことが認められたものです。江戸末期、鎖国が解け、長崎に神父が来日し、フランス人居留者のため大浦天守堂が献堂され、そこに潜伏していたキリシタンの人が同じ信仰だと告白に来たのです。続々とあらわれ、五島からも長崎に行き、さらには五島で神父を呼びミサまでしたのです。禁教下であったので捕まり、迫害され殉教された人も多くいたのです。明治6年までこの状態でした。神父来日という神の招きに、禁教下でもすぐ立ち上がり信仰告白したことは、マタイと同じことのように感じます。

5、              イエスさまは、十字架への途上でマタイを招きました。イエスさまは、わたしどもの罪を贖うため十字架にかかり死に、3日後に復活したのです。そして、いま、私たちすべての人の心の戸を叩いて招いておられます。マタイがイエスさまの招きにすぐ立ち上がり従ったように、イエスさまに信頼して応答し、新しい生活を歩んでみませんか!

招いたイエスさまは、すべて良いように導いてくださいます。“神は、実に、その一人子をお与えになったほどに世をあいされた。それは、み子を信ずるものが、一人として滅びることなく、永遠の命をもつためである(ヨハネ3:16)。

さあ、今週も、み言葉に従いつつ、イエスさまとともに元気に歩みましょう。

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日曜礼拝(2018年2月10日)

2019-02-10 16:07:46 | Weblog

主日礼拝(公現後第5

2019.2.10

主は来ませり

ルカによる福音書5:1-11(新共同訳)

導入部

   みなさん、おはようございます。最初にお祈りをします。心合わせてください。

 

本論部

一.信じるときに経験する驚き

   本日の箇所の舞台は「ゲネサレト湖」という湖の湖畔です。これは現在イスラエルの北部にある「ガリラヤ湖」の別名でして、そこに、イエス様が語る神さまのメッセージを聞きたいと、群衆が押し寄せてきた。

   そこでイエス様は、そこにいた漁師たちに頼んで、舟を借り、陸から少し漕ぎ出して、そこから群衆に、神の言葉を語った。

   その漁師たちの一人が、後にイエス様の一番弟子となるシモン・ペトロでした。イエスさまは話が終わった後、舟に乗っていたペトロにこのような命令をします。4節をご覧ください。

 

5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

 

   2節を見ると、漁師たちは網を洗っていたとあります。これは、その日の漁が終わった後にやることであり、もしもう一度漁に行けば、またイチから洗い直さなければならない。

   しかも、ガリラヤ湖は、私も行ったことがありますが、けっこうでかい湖なんですね。茨城県の霞ケ浦くらいです。そっちは行ったことありませんが。

   その大きな湖の沖の方、奥まで舟を出して、網を降ろし、漁をしなさいとイエス様は言われる。これは、なかなかの重労働なんですね。

 

   しかも、ペトロの答えからはさらに衝撃的な事実が判明します。5節ですが、先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。

 

   なんと、ペトロたちは徹夜で漁をしていた。それなのに、何も取れなかった。せっかく徹夜したのに、無駄だった。

   この中には、徹夜で働いたり、勉強をすることがあるという方もいらっしゃるでしょう。私も今は徹夜がしんどくなりましたが、昔はよく徹夜してテスト勉強をしたりしました。

   ここでペトロに起こっていたことは、言うなれば、徹夜して勉強したのに、テスト範囲を間違ってたみたいなものです。みじめな気持ちがして、一瞬でも早く家に帰って寝たかったでしょう。

 

   しかも(三度目の「しかも」です)、もう一度沖へ行って網を降ろしなさいと言っているイエス様の本職は何でしょう。大工です。まあ救い主が本職なのかもしれませんが、漁に関してはしろうとのはずです。

   ペテロはこういう気持ちだったと思います。「こういう日は無理に決まっているんです。私たちはプロですよ。そんなことしても無駄ですよ。僕らは徹夜で一生懸命働いて、疲れてるんです。舟を貸しただけで十分じゃないですか。冗談はやめてください。」

   そのようにペテロが答えるかと思いきや、なんとペテロはこのように答えるのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

 

   このペテロのことばをどう思うでしょうか?

   書いていないことをあまり深読みするのは危険なことですが、私の想像では、この時点でペトロには、何かが起こるかもしれないという期待も、少しはあったのではないかと思うのです。

 

   なぜかと言うと、イエスさまが命令していることは、「まぁ、ちょっとやってみるか」というレベルの労働ではないんですね。徹夜して、疲れ果てているなかで、もう網も洗ったのに、こんな重労働、普通はできない。

   実は、この直前の箇所では、イエスさまはペトロの姑さんの高熱を癒しています。お義母さんを助けてくれたイエス先生がおっしゃるならという期待はあったのではないかと想像します。

 

   でも、そこまで期待はしていない。なぜなら、言い訳も用意しているからです。「たぶん無理だと思いますけど」みたいな感じですね。

   しかし、それでもペトロが幸いだったのは、不十分かもしれないけれど、ちょっとの期待だったかもしれないけれど、「イエスさまが言われたとおりやってみた」ということです。イエスさまが言われたとおりにやってみた。

 

   普通に考えたら、完全に常識外れのことです。ふつうじゃないことです。迷いもあったことでしょう。迷う方が当然なのです。正直に言って、疲れてめんどくさいと思ったかもしれない。

   「でも、イエスさまが、この方が言うなら」。それゆえに、ペトロはこの非常識な命令を実行したのです。飛び込んだ。すると、想像以上のことが起こった。おびただしい魚が網にかかったわけです。

 

二.イエスは主なり

   みなさんは、こういう奇跡って経験してみたいですか?羨ましいなあと、こういうことがあったら信じやすいのに、と思われるかもしれませんが、実は奇跡を経験するということは、怖いこと、恐ろしいことなのです。5:8をご覧ください。

 

5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

 

   舟のなかで、ペトロはイエスに土下座します。ここで、ペトロはイエスに「主よ」と言います。5節では、ペトロはイエスのことを「先生」と言っていました。しかし、ここでは「主」と言っています。「主」とはどのような意味なのでしょうか?

 

   教会では、よく「主イエス・キリスト」と、イエスさまに、「主」をつけます。私などは普通に、あんまり考えずに「主」という言葉を使ってしまうこともありますが、実はこの当時、「主」という言葉は、非常に重い意味をもつことばでした。

   当時あった、ギリシア語の旧約聖書(もともとは旧約聖書はヘブライ語でしたが)においては、神さまにのみ使われる言葉でした。そして、当時の世界においては、当時の世界の支配者であったローマ皇帝、当時の世界ではローマ皇帝は神格化され、皇帝を礼拝する皇帝崇拝も盛んに行われていましたが、「主」というのはローマ皇帝に使われる言葉でした。

 

   ペトロが、イエスさまに「主」という言葉を使ったのは、あなたは神であるという信仰を告白しているのだということが分かります。

   もっと言えば、ローマ皇帝は神ではない。世界の王はイエスさまであり、他の神々は偶像であるという意味を持つのです。言うならば、非常に緊張感のある言葉を、ここでペトロは使っているのです。

 

   私たちも、もし「主イエス・キリスト」と言うならば、「主よ」と祈るならば、それはこういう意味なんです。イエスさま以外に、神はいない。イエスさま以外に主人はいない。イエスさまだけが、神であり、この世界の王であるのだという信仰を、言い表しているのです。

 

   明日2/11は、「建国記念の日」です。この日の由来は、ご存知のように、日本書紀という日本の神話において、初代天皇とされる神武天皇が即位したとされる日です。昔々、この国でも、ローマ皇帝と同じように、天皇も自らを神の子孫、神と等しい存在であるとしました。

   今では、天皇は、もちろん様々な素晴らしい働きもしてくださっていますが、実は今でも、天皇の最も重要な働きとされているのは日々皇居で行われる様々な神道儀式であり、非常に宗教的な存在なんですね。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「君が代」という歌は、天皇・皇后は歌わないんですね。それは、自分たちに向けられている賛美歌だからです。

   特に、今年は天皇が変わりますので、様々な儀式が行われ、この国では今も神道が非常に強いということがよく分かる一年になると思いますが、この国で、「イエス・キリストだけが主だ」と告白することは、表明することは、このペトロの時代と同じような緊張感があると思うのです。

 

   本日の説教題は、「主は来ませり」です。ある方に「季節外れですね」と言われました。そうです。これはクリスマスの賛美歌である「もろびとこぞりて」のサビの部分です。

   「主は来ませり、主は来ませり、主は、主は、来ませり」と賛美しますが、私は昔これは何の呪文だろうかと思っていました。

   これは、主が来られた。神の子が、世界の王が、全世界の救い主が生まれた。新しい時代が幕を開けた。そういう意味の歌詞なんですね。

   「もろびと」というのは、「世界中の人々」という意味です。イエスさまは、世界の王だから、世界中の人が来て、この方を迎えなければならない。もろびとがこぞらなければならない。そういう歌なのであり、私たちもイエス・キリストが主である、全世界の救い主であるということを、歌い、また伝えていきたいと思いますが、ここで、あの偉大な奇跡を見たペトロは、イエスさまをこのような意味での「主」であると認識した。主が来られたということが分かった。

 

三.主に出会うと罪が分かる

   イエスが主だと分かったときにペトロが気づかされたのが、自分の罪でした。主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とペトロは叫ぶのです。

 

   イエスさまの偉大さが分かると、罪が分かる。ペトロにとっては、この主を少しでも疑って、言い訳を作ってしまったことに恐ろしさを感じたと思われますが、イエスさまの偉大さが分かったときに、自らの罪が分かったというのは私自身の経験でもありました。

 

   私が、本当にイエさまスの偉大さに気づかされたことがこれまでの人生のなかで4回あります。大学1年、2年、社会人1年目、そしてアメリカ留学2年目のときなのですが、4回とも、メッセージを聴くなかで、イエス様の偉大さを、イエスさまの愛の大きさを、イエスさまの力を知った。

   それはまさに奇跡でした。人間のことばを通して、神さまが働いてくださり、私の心に語ってくださった。この方は主だということが分かった。

   でも、そのときにまず見えてきたのは、自分の罪でした。ちょうど、光に近づくときに、闇の中では見えなかった汚れが見えるように、イエスさまに出会ったとき、自分は本当に罪人だと思った。

 

   私はクリスチャン家庭に生まれたので、幼い頃から自分は罪人だって知ってました。それもよく考えるとすごいことですが、それまでは、自分は罪人だけど、「普通の罪人」だと思っていた。

   「普通の罪人」ってなんだって話ですが、周りと一緒というか、ちょっと悪いことしちゃいます、神さま忘れちゃうこともあるんですよね〜くらいでした。

   でも、この4回は、それぞれ、もう私はもうダメだ。本当に自分は糞野郎だ。主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです本当にこれが、正直な思いだった。

 

   私は「罪」という教えほど、クリスチャンではない方にも分かりやすい聖書の教えはないと思っています。確かに、全ての人間は多かれ少なかれ自己中心であり、インターネットを開き、新聞を読み、テレビを見れば、人間に問題があるということはすぐに分かると思います。でも、本当の意味で、自分が罪人だということを知るには、イエスさまに、主に、出会うしかない。

    

   以前にお話ししましたが、私の友人で、中学校でギデオン協会が配っている聖書をもらって、生まれ初めて読んだときにこう思ったという方がいます。最初は、カタカナの羅列なのですが、だんだん、この書物はどうやら私のことを罪人扱いしているらしいということが分かった。そこでこう思った。「何様だ?」この方も、やがて、イエスさまと出会ったとき、自分の罪が分かったと話してくれました。

   あるいは、逆に、アメリカで出会った大学生で、クリスチャンになる前から、自分は罪人だとある程度分かっていた。アメリカで初めて教会に来て、聖書のメッセージを聞いてなるほど!と思った。そのような方がいるのですが、その彼も、イエス様と出会って、イエスさまを礼拝していけばいくほど、ますます自分の罪が分かっていったと言っています。

 

四.恐れることはない

   でも、もしもペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んで、このストーリーが終わっていたとすれば、こんなに悲劇的なストーリーはありません。希望が全くない。でも、このストーリーはここで終わらない。自らの罪に恐れるペテロにイエスは、このように語られる。10節。

 

5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 

   罪を知ることは幸いなことです。なぜならば、それが、私たちの本当の姿だからです。そして、それでもなお愛してくださるその愛の、それでもなお救ってくださる救いの、それでもなおあきらめずに作り変え続けてくださるその力の偉大さが、もっともっと分かっていく。

   心配しなくていい、「恐れることはない。」こわがらなくてもよいのだと言ってくださることの意味が分かる。

   イエスさまは、ペトロに、「今から後、あなたは人間をとる漁師になると言われました。他の人を救う存在に、自分がそうされたように、他の人を、その弱さにもかかわらず、許し、愛し、期待する者へと変えられるのだ、約束をしてくださった。

 

   この主が来られた。主は来ませり。この主を迎えるかということが問われている。

   ペトロたちは、イエスさまについていきました。ご存知のように、その後ペトロは何度も失敗を繰り返します。今、夜の祈祷会で、江上先生がマルコの福音書から順番にメッセージをしてくださっていますが、本当にペトロはダメなんですね。イエスさまは主だと告白した、言ったとは思えない行動を繰り返す。

   そのなかで、ペトロは、さらに、少しずつ少しずつ、自分の罪を、そしてイエスさまの愛の深さを教えられていった。計り知れない恵みを知っていった。何度も何度も、恐れなくて良いのだということを語られていった。そしてやがて彼は変えられ、使徒言行録を見ると、「人に従うより神に従うべきです」と言い抜くことができる、恐れない者に変えられていくのです。

 

   イエスは今日あなたにも、「恐れることはない。」もう恐れなくて良いのだと語られている。

   非常識に見えても、沖へ漕ぎ出していきたい。自らの罪を、弱さを、もっと知っていきたい。そして、それにも関わらず示されるイエス様の愛をもっともっと知っていき、その愛ゆえに、仕える者として、この世界に送り出されていこうではありませんか。お祈りしましょう。

 

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日曜礼拝(2019年2月3日)

2019-02-03 12:50:44 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後)         2019.2.3

泣かなくてもいいのですよ」 ルカ7:11~14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月第一日曜日を迎えました。この一か月「ぼっ~と生きてんじゃないよ。」とチコちゃんに叱られるかも知れません。今日も、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 皆さんに祈っていただきました私の母の告別式も無事感謝のうちに終わりました。母が天の御国に行ったことを確信しながらの地上での最後のお別れの時でした。久しぶりに親族と同席して、良き時を持つことができました。私たち家族も7人揃っての行動も、久しぶりで、とても有意義な時を過ごすことができました。皆さんのお祈りに感謝です。

私たち人間にとっての最大の恐れは、死です。全ての者には、必ず死は訪れるからです。しかし、死を経験しなければならない私たちに、「泣かなくてもいい」と声をかけて下さるのです。今日はルカによる福音書7章11節から17節を通して、「泣かなくてもいいのですよ」という題でお話しします。

 

Ⅱ本論部

 一、イエス様の目も心もあなたの上に注がれている

 今日の箇所は、死んだ息子が生き返るというお話しです。私たち人間は、全ての者が死を経験しなければなりません。聖書の中には、死を見ずして天に上げられたエノクやエリヤの話がありますが、全ての人は生まれた以上、死を経験しなければなりません。全ての人は、共通して死を経験しますが、その死にざまは、死に方は様々です。愛する家族に見守られて、天寿を全うして召される人がいます。先日、亡くなりました私の母も、兄の家族に見守られて、天寿を全うしました。老衰でした。また、災害や事故によって死を経験する方々がいます。病気による死、自死による死、貧困の死、虐待の死、孤独死と言われる死、その他、死に方は様々ですが、私たちは、誰もがいつか死を経験しなければなりません。

 ヨハネの黙示録14章13節には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という言葉があります。死ぬということは、縁起が悪いので、あまり「死」については語らない、触れないというのが、この世の説ですが、聖書は、主にあって、つまりイエス様を信じる者は、イエス様を信頼する者は、幸いである、と語るのです。死は悲しむべきものではない。幸い、幸せな事なのだと聖書は語るのです。そこには、復活の望み、天国の望みがあるからです。

 私たちは、死ぬという悲劇と死別という悲劇を経験します。一人の人の死は、愛する者との別離を意味します。ラザロの死は、マルタ、マリアには大きな悲しみでした。会堂長ヤイロの12歳の娘の死は、ヤイロにとって、家族にとって大きな悲しみと痛みでした。そして、ナインの未亡人の一人息子の死も、彼女には大きな絶望と痛みを与えていたのです。

 ナインの町から遺体を墓場まで運ぶ一行に、イエス様と弟子たち、それを取り囲む人々の一行とが出くわしたのでした。悲しみに満ちた葬儀の一行と希望と祝福に満たされたイエス様の一行が、町の門の所で出会ったのです。

 ナインという町に住む一人息子を持つ母親は、夫を失い、そして、また、一人息子を失うという悲しみを経験します。イエス様は、この母親に対して、「憐れに思い」と聖書は記しています。他の訳では、「深く憐れみ、深い同情を寄せられ、かわいそうに思い」と訳されています。イエス様は、特にこの母親の事に関心を持たれたような気がします。それは、イエス様の母マリアさんも、夫ヨセフに先立たれた未亡人だったからです。マリアさんには、イエス様一人だけではなく数人の子どもたちがいました。しかし、大工の夫に先立たれて、子どもたちを食べさすために苦労したことをイエス様は知っていたでしょう。だからこそ、ご自分が父ヨセフの大工の仕事を継いで、家族を養っていたのではないでしょうか。ですから、夫に先立たれた母の気持ちが、イエス様には痛いほど感じたのではないでしょうか。

しかも、一人しかいない息子に先立たれた、この母親には、将来に対する希望が何もなかったのです。だからこそ、この母親を知る人々、近所の人々が、彼女の悲しみや苦しみに寄り添っていたのだと思うのです。

 やがて、イエス様の母マリアさんは、自分の息子のイエス様が十字架に磔(はりつけ)られるのを見、息子の死を経験するのです。ヨセフとマリアさんは、生まれたイエス様を神殿に連れて行きましたが、その時、シメオンという人は、イエス様を腕に抱き、マリアさんに対して、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:35)と語ったのです。 一人息子を亡くした、この母親とやがて息子を十字架の死で失う母マリアとがオーバーラップしたのかも知れません。13節には、「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」とありますが、元の訳では、「主は彼女を見て、彼女を憐れみ思い、「もう泣かなくてもよい」彼女に言われた。」とあり、彼女、つまり、この母親に強い関心を持って見つめておられたことがわかるのです。イエス様は、私たち一人ひとりをも見つめて下さり、私たち一人ひとりに強い関心を持っていて下さるのです。

 

 二、イエス様はあなたの苦しみや悲しみをご自分のもとのされる

 13節には、「主はこの母親を見て、憐れに思い」という言葉があります。「憐れに思い」とは、ただ、かわいそうだと感じる、同情するというような意味ではなく、相手の悲しみや苦しみを思うと、自分のはらわたがよじれ、腹が痛む、相手の悲しみや苦しみ、痛みを自分のことのように感じる、という強い思いがここにはあります。

 ルカによる福音書10章には、良きサマリア人の話がありますが、このサマリア人は、傷つき、倒れているユダヤ人に、「その人を見て、憐れみ思い」(ルカ10:33)とあります。

また、ルカによる福音書15章には、放蕩息子の話がありますが、全てのものを失い、傷つき、帰って来た息子を発見し、走り寄った父親は、「息子を見つけて、憐れに思い」(ルカ15:20)とあります。サマリア人も放蕩息子の父親も、倒れ、傷ついている者の痛みと苦しみを自分のこととしたのです。サマリア人は、強盗に襲われる危険を覚悟し、自分の持てるものを使いました。放蕩息子の父親は、財産の全てを失い、憐れな姿で帰って来た息子を、そのままの姿を受け入れたのです。簡単なことではないのです。彼らの痛みを自分の痛みとしたのです。彼らの悲しみを自分の悲しみとしたのです。単なる、同情やかわいそう、という感覚ではないのです。イエス様は、この母親の痛みと悲しみをご自分の痛みとし、ご自分の悲しみとされたのです。イエス様は、今私たちが背負っている痛みや悲しみ、苦しみをご自分の痛みや悲しみ、苦しみとして下さるのです。

ヘブライ人への手紙4章15節には、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」という言葉があります。イエス様は、大家族の中で、父を失った母を思いやり、弟や妹たちのために大工をして働きました。私たちが経験するような人間関係の問題や経済の問題、働けど働けど楽にならない状況を経験なさいました。失望や痛みを確かに経験されたのです。そして、罪がないのにもかかわらず、罪ある私たちのために十字架の上で、ご自分を犠牲にして下さったのです。私たちの罪を全て、イエス様が受けて、裁かれたのです。「見て、憐れに思い」というのは、疲れ、苦しみ、悲しみ、痛む、私たち全ての者に注がれているイエス様の愛なのです。

 

 三、イエス様はあなたの元にも訪れて下さる

 夫に先立たれ、一人息子が死んだ母親の悲しみは、知人や近所の人々にはわかりました。ですから、彼らは彼女に寄り添っていたのです。イエス様は、この母親に、「この母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」のです。「もう泣かなくともよい」と言える人はイエス様以外には存在しないのです。イエス様は近づいて棺に手を触れられ、担いでいる人たちが立ち止まったので、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われたのです。すると、若者は起き上がって物を言い出したのです。生き返ったのです。

 イエス様が、多くの人々に触れて、「わたしの心だ」と言われてお癒しになられました。イエス様が触れられるのは、そこに愛があるからです。イエス様は、この母親を愛し、息子を愛し、母親と共に悲しんでいる群衆を愛して、棺に触れ、若者を生き返らせたのです。そして、悲しみと絶望の中にあった母親に生き返った息子を返されたのです。「もう泣かなくともよい」といわれた通りなのです。

 死んだ若者が生き返った出来事を目の当たりにした人々は、神の業に恐れを抱きました。そして、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言いました。大預言者とは、旧約聖書に出てくるエリヤやエリシャを指しているようです。

 列王記上17章には、ザレパテの未亡人の息子が死んで、その息子をエリヤが生き返らせたことが記されています。また、列王記下4章にはシュネムにおいて、エリシャが、裕福な夫人の息子が死んで、その息子を生き返らせたことが記されています。ナインの人々は、「大預言者が我々の間に現れた」と賛美しましたが、このエリヤやエリシャの死んだ息子を生き返らせたことを思い出して賛美したのではないでしょうか。ナインの町は、シュネムとエンドルの間にあり、エリシャが奇跡を起こしたゆかりの地でもあったのです。神様の愛の目は、旧約時代も新約の時代も、そして、今も確実に注がれているのです。そして、あなたの上にも、神様の愛は注ぎ続けられているのです。

 

 Ⅲ結論部

 16節には、「神はその民を心にかけてくださった」とあります。「心にかける」を直訳すると、「訪れてくださった」となります。イエス様は、私たち罪ある者に心をかけて下さり、私たち罪ある者の所に訪れて下さったのです。そして、罪を持ち滅びに向かう私たちのために、ご自分が十字架にかけられ、私たちの罪の裁きを受け、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。そのことにより、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられ、イエス様が死んでよみがえられたことにより、死んでも生きる望み、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と聖書が語るように、イエス様の十字架と復活を通して、死さえも幸いなものとされたのです。

 金曜日には、三浦綾子文学講座があり、森下先生が「塩狩峠」を読み解いて下さいました。列車が連結から離れて、このままでは多くの人が死ぬという事態に、自分の身体を犠牲にして多くの人を助けたというお話しです。その亡くなった日は、ふじ子さんという、愛する人との結納、婚約の日でした。主人公の母が、ふじ子さんに宛てた手紙に、「信夫の死は、母親として悲しゅうございます。けれどもまた、こんなにうれしいことはございません。この世の人はやがて、誰も彼も死んで参ります。しかし、多くの死の中で、信夫の死ほど、祝福された死は、少ないのではないでしょうか。ふじ子さん、このように信夫を導いて下さった神様に、心から感謝いたしましょう。」とありました。

 また、ふじ子さんの兄が、ふじ子さんと共に、信夫の死んだ場所に行く途中で、「かわいそうな奴、不具に生まれ、その上長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち勝ち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。何というむごい運命だろう。だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっと本当の幸せをつかんだ人間のように思われた。」と記されているのです。

 私たちも、人生において、信仰生活において、むごい事、悲しい事、辛い事を一杯経験します。でも、そのような悲しみを経験しながらも、「自分よりずっと本当の幸せをつかんだ人間のように思われた。」とか、「信夫の死ほど、祝福された死は、少ないのではないでしょうか。」とあるように、苦しみや悲しみ、絶望さえ、イエス様にあって、良きこと、幸せだと思わせて下さるのです。私たちには、このイエス様がいつも共におられるのです。この週も、2月の月も、何があっても大丈夫です。イエス様は、全てのマイナスをプラスに、良きことに、祝福に変えて下さるのです。主と共に、安心してこの週も歩みましょう。

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日曜礼拝(2019年1月27日)

2019-01-27 16:33:08 | Weblog

主日礼拝(公現後第3

2019.1.27

今日は何の日?

ルカによる福音書4:14-21(新共同訳)

 

導入部

   みなさん、おはようございます。最初にお祈りをします。

 

   本日の説教のタイトルは、「今日は何の日?」という非常にシンプルなタイトルです。

   「今日は何の日?」という説教題を先週掲げたところ、なんと今日が誕生日の方がいらっしゃるそうですが、言っていいですかと聞いたら言わないで欲しいとのことなので、ぜひ後でお祝いをしていただきたいと思います。

   ちなみに、「今日は何の日?」で検索しますと、127日は、明治時代に国旗が日の丸に決まった日だそうです。あとは、日本からの最初のハワイ移民が出発した日だそうです。あとは、我が母校慶應義塾が大学を設置した日だそうです!また、ベトナム戦争が終わった日だそうです。曙が横綱になった日だそうです。

 

   日(日にち)というのは不思議なものです。1日は誰にとっても平等の、同じ24時間です。でも、全く違う日にもなる。

   日々を過ごしていると、一見、毎日は、同じようにも見える。毎日毎日同じことの繰り返しにも見えることがある。

   礼拝もそうだと思うのです。特別なイベントの日はともかく、毎週毎週同じことの繰り返しにも見える。私も、だいぶ青葉台教会の礼拝に慣れて来まして、ぼけーっと礼拝に出てしまうこともあるのですが、時に、全く違う日曜日になることがある。今日はどんな日になるのか、期待して、楽しみにしていますが、

   本日読まれた箇所において、ナザレの人々は、いつものように、礼拝に来ました。別にそんなに期待していなかったかもしれない。でもそこにイエスさまが登場し、彼らの世界は、彼らにとっての「今日」は、全く異なるものとなっていくのです。

   そのストーリーを共に確認し、共にイエスさまを礼拝していきたいと思います。

 

本論部

一.洗礼から試練、使命へ

   ルカの福音書は、イエスさまの誕生と、子ども時代、少年時代を描いている唯一の福音書です。イエスさまの誕生のストーリーはマタイの福音書にも書かれていますが、ルカの福音書に、大人になってからのイエスさまが登場するのは、3章になってからです。

   本日の箇所の少し前の3章の2122節で、イエスさまは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられます。イエスさまは、私たちの模範として、洗礼を受けられた。そうすると、聖霊さまが鳩のように目に見える姿で降ってきた。そして、その聖霊さまは、41節によると、イエスさまを荒野に導くんですね。荒野で、誘惑に、試練に遭わせる。

 

   これは、私たちの経験でもあると思います。洗礼後こそ、いろんな誘惑や試練があるものです。だからこそ、私たちは、最近洗礼を受けられた方々のために祈っていきたいと思いますが、誘惑に打ち勝った、誘惑を退けられたイエスさまを、聖霊さまは今度は宣教活動に向かわせます。

   これも私たちも同じですね、洗礼を受け、誘惑を経験する。でもその先に、神さまは使命を与えられる。

   それでは、もう一度14節からをご覧ください。

 

4:14 イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。

4:15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

 

   ここで言う「会堂」というのは、シナゴーグとも言われますが、現在の教会のような場所であり、ユダヤ人にとっての礼拝の場所です。

   イエスさまは、故郷のガリラヤ地方に戻り、いろいろな会堂を周り、聖書を教えられた。人々は感動して、イエスさまを尊敬し、ほめたとあります。

 

   そんなある日、イエスさまが、ご自分が生まれ育ったナザレの会堂に来られる。キリスト教会では、自分が生まれ育った教会のことを「母教会」と言いますが、私にも「母教会」が神戸にありますが、母教会っていうのは小さい頃から知っている人が山ほどいるので、独特の緊張感があるものです。きっと、この教会出身で牧師になられた先生方にも、分かっていただけるかと思いますし、いつかこの教会のユースが、牧師になってここで説教する日が来たら、そんな日が来たら泣いてしまいそうですが、緊張すると思うのです。

   ナザレは小さな村でしたから、もう全員が小さい頃からイエスさまのことを知っていたことでしょう。そこでイエスさまは聖書を朗読しようとしてお立ちになったとあります。

 

   当時のシナゴーグ、会堂では、成人男性であれば、希望者は誰でも説教ができたそうです。それは全員がめっちゃ聖書を学んでいるからできることですが、この日イエスさまは、預言者イザヤの書を開いた。

   そして、実は、ここに書いてあるのは、旧約聖書のイザヤ書6112節そのままではありません。この当時は、旧約聖書を読むときに、書いてあるのはヘブライ語で、話し言葉はアラム語だったと言われるのですが、翻訳しながら、自由に言い換えたり、省略したりしていたそうなんです。

   つまり、この朗読自体が、すでに説教であると言えるわけですが、このように語るのです。18節、19節をお読みします。

 

4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げるためである。」

 

二.イエスさまの使命

   イエスさまは、明らかに、これをご自分のこととして読んでいます。これはめちゃくちゃ深い言葉で、準備しながら一人で興奮していたのですが、

   聖霊が、イエスさまの上におられる。ルカの福音書には、イエスさまは聖霊によってマリアのお腹の中に宿られ、洗礼においても聖霊の力を受けたことがここまで語られています。

   それは「貧しい人に福音を告げ知らせるため」であったのだと、イエスさまはイザヤ書を根拠に語っていくのです。

 

   では、ここで言う「貧しい人」とは誰のことなのでしょうか?

   お金がない人のことでしょうか?もちろんそうでしょう。あるいは、心の貧しい人のことでしょうか?そう考えると、ああ私のために来てくれたんだなあと思いますが、もちろんそれも含むでしょう。

   しかし、実は、この言葉は、この当時、もっと広い意味のある言葉でした。

 

   この当時、「貧しい人」とは、例えば教育を受けていない人、地位が低い人、仕事のない人、お金のない人、病気の人、罪を、特に性的な罪を犯している人、例えば取税人がそうでしたが、ちょっとそれどうなの?っていう仕事をしている人、宗教的にきよくないとみなされている人、家族やコミュニティから見捨てられ、排除されている人々を指していました。

 

   その意味で、続いて書かれてある「捕らわれている人」、「目の見えない人」、「圧迫されている人」を含む言葉なのです。

 

   捕らわれている人」。

   もちろん犯罪を犯し、捕まった人もそうですし、当時のガリラヤは、ローマ帝国の植民地でしたから、ローマに逆らったということで、政治的・宗教的迫害のゆえに捕まっていた人々もいたでしょう。あるいは、何かに捕らわれてしまっている。依存してしまっている。

   現代でも様々な依存症は問題になっています。ギャンブル、アルコール、ポルノ、薬物、あるいはスマホも、依存症があるそうです。そのような意味で「捕らわれている人」を含んでいる。

 

   目の見えない人」。

   この当時は、目が見えない人々を始めとする病や障がいを持っている人々への心ない差別は現代よりももっと多かったと思われます。

   そして、もちろん、もっと霊的な意味で、例えば日々の忙しさの中で、何が人生において本当に大切なものであるかということが見えなくなっている人々も含まれる。

 

   圧迫されている人」。

   支配者であるローマ帝国に、差別され、重い税金を課せられ、苦しみのなかにあった人々。私たちも理由は違えど、苦しみを経験することがあるでしょう。

 

   そのような人々に、「貧しい人」に、「福音」を告げ知らせること、それがご自分の使命であるのだとイエスさまは語っているわけです。

   ここで言う「福音」、良い知らせとは何でしょうか。それは、もちろん罪赦されたゆえに、死んだ後にも安心できることも当然含みますが、ルカの福音書においては、この地上で、人生が実際に変えることも含まれている。

   この後に続くルカの福音書のストーリーにおいて、イエスさまは、実際に病気を治したり、食べ物を与えたり、差別され、排除されていた人たちを共同体のなかに引き戻したり、罪から解放したり、人々の生き方を実際に変えていく。

   主の恵みの年」、これは旧約聖書に登場する「ヨベルの年」という、イスラエルの律法においては50年に1度もたなければならないとする、借金が免除され、土地がもとの所有者に戻る年で、要は、徹底的な解放を意味していました。喜びに満ちた、自由が与えられる、素晴らしい時代がやってきたのだ。

   そのような「福音」を、「貧しい人々」に告げ知らせることが、「貧しい人々」の人生を変え、解放することこそが、わたしの使命なのだとイエスさまは語っているのです。

 

三.今日実現した?:ことばの力

   そのようにイザヤ書を読んだ、説教した後に、イエスさまは、巻物を巻いて、係の者に返して席に座られました。そして、不思議なことを仰られました。21節です。

 

4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

   今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。そのように聞いて、不思議に思われないでしょうか。

   私だったらこう反応すると思います。いやいやいや、「今日実現した?」「何が?」「今日実現した」と言いますが、何が実現したんですか?

 

   例えば、その場所に、罪をやめられない人がいるとします。病に苦しんでいる人がいるとする。悩みを抱えている人がいるとする。状況はまだ変わっていない。それなのに、イエスさまの言葉を聞いただけなのに、何が実現したと言うのですか?

   当然のことながら、まだこのときには、イエスさまは十字架にかかっていません。復活もまだです。もっと言うならば、ルカの福音書に書いてある限りまだ誰の病気も癒していません。

   それなのに、イエスさまの言葉を聞いただけなのに、言葉だけなのに、何が実現したと言うのでしょうか。

 

   説教というのは、不思議な営みだと思います。私も説教ということをしてから、多少長くなりましたが、いつも説教をしながら、不思議だなあと思っています。

   説教って、当然ですが、言葉だけじゃないですか。たまに視覚的なものを使うこともありますが、基本的に言葉だけですよね。

 

   でも、不思議なことに、説教は何かを起こすんです。私は、子どもの頃、説教は基本的に聞いていませんでした。以前もお話ししましたが、中高生の頃は、聖書の話を真面目に聞かないことがかっこいいと思っていました。しかし、大学生になって、本当にイエスさまに出会って、変えられてから、説教を真面目に聞き始めた。そしたら、なかなか面白いんですね。すごい教えられるんですよ。

   もちろん、キャンプとか行くと、すごい感動的な説教を聞くこともありますが、普段の牧師先生の、忠実に、聖書をコツコツと解き明かしてくださる説教を通して、自分は本当にクリスチャンとして成熟させられたと思うんですね。

   そして、私も、説教をするようになって、本当に驚いたのが、私なんかの説教を聞いて、イエスさまを信じる決心をする人が現れたんです。あるいは、これは私自身も経験したことですが、説教を通して、いつもではありませんが、時に、状況は変わっていないのに、慰められたり、励まされたり、癒されたりする。

   それはもちろん、話術の問題ではありません。もちろん少しでも伝わるように努力はしているつもりですが、それだけでは何も起こらない。説教は、聖書を語ることです。聖書に力があるから、聖書が語られるとき、何かが起こる。

 

   イエスさまは、まだこの時点では、言葉だけでした。しかし、それだけでも十分だった。言葉だけであったとしても、人々の人生を変えることができた。

   そして、イエスさまの言葉は絶対に無駄にならない。イザヤ書の言葉が、イエスさまがこの地上に来られることで実現したように、このときイエスさまが語ったことは、イエスさまの地上でのご生涯において実現していく。

   この後も、イエスさまは、人々の人生を次々と変えていきました。そして最後には、私たちの罪を背負って十字架にかかり、復活をして、私たちが永遠に生きることができる道を開いた。聖霊さまを注がれ、終わりまで共に歩んでくださる。

   終わりの日には、イエスさまがもう一度来られ、私たちはよみがえり、完全なからだが与えられ、罪から解放され、愛と正義に満ちた新しい天と地が実現する。

   「今日」、あなたがたこのことばを耳にしたときに、それは実現したのだ。まだ目には見えないかもしれない。でも、あなたはすでにそれを耳にした。あなたが耳にしたことばは、あなたを変える。あなたの人生を変える。あなたが見る世界を全く違うものにする。だから、今日という日は特別な日であるのだと語られるのです。

 

   あなたにとっては、今日はどんな日でしょうか?今日開かれた聖書のことばは、あなたに何を語ったでしょうか。

   実は、イエスさまの恵みに満ちた言葉を、ナザレの人々は、まずほめたものの、最後にはイエスさまに反発し、追い出し、殺そうとします。

   語られた言葉は、あなたが耳にした言葉は、今日あなたの人生を変える力を持っている。あなたはどのようにそれに応答するでしょうか。「今日」を、どのような日にするでしょうか。お祈りしましょう。

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日曜礼拝(2019年1月20日)

2019-01-20 10:34:24 | Weblog

日曜礼拝(公現後第二)      2019.1.20

神様の視点で見る一年」 列王記下6:8~17

 

Ⅰ導入部

 おはようございます。1月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス様に賛美と礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 皆さんに祈っていただいておりました、私の母は、昨日の朝に天に召されていきました。皆様のお励ましとお支え、お祈りに心から感謝致します。

 昨年の暮れに、もうあぶないので、遠い方々には連絡して下さい、ということで、連絡をもらい、12月26日の木曜日に母の病院へ行きました。寝ている母の顔をずっと見ておりました。母の顔を、ずっと見ておりましたが、その時、私が赤ちゃんの頃、小さい頃、私の顔をずっと見ていたんだろうなあ、と思いました。母の目はいつも私の上に注がれていたことを思いました。母は95歳になって、認知症が発症し、人生の最後の時、今度は、一番下の子どもである私が、母を顔を、母の姿をずっと見ていました。そして、ここには、神様の深い愛のまなざしがあることを感じました。

 母の最期の時、私のすぐ上の兄がそばにいて、母の近況をラインで知らせてくれました。「危篤の状態、脳死の状態、いつ心臓が止まってもおかしくない状態。今、心臓が止まって、医師を待っている、医師の死亡診断が確認された等」詳しく説明してくれました。母の最期の時、母のそばにいるように、感じることができました。

 21日の月曜日、神戸での葬儀が守られますようにお祈りいただければ感謝です。

 さて、今日は、列王記下6章8節から17節を通して、「神様の視点で見る一年」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、霊の目を開いてください

 列王記下

章には、アラム軍とイスラエル軍との戦いの様子が記してあります。アラムの王がアラム軍をある場所に配置すると、エリシャを通して、神様はアラム軍の配置した場所を教えられるので、イスラエル軍は、その場所には行かないようにしたのです。このような事が、何度も何度もあったのです。ですから、アラムの王は、いつも、いつもアラム軍の配置がイスラエル軍に分かってしまうからには、アラム軍の中にスパイがいるはずだ。それがだれか探せと怒り心頭でした。家臣の一人が、「スパイなんておりません。ただイスラエルには預言者がいて、アラムの王が寝室で話すことでも、秘密の事でも、イスラエルの王に知らせているのです。」と告げ、エリシャの居所を調べさせ、ドタンにいると聞いて、アラム軍の軍馬、戦車、大軍をドタンに向け、夜中に到着して、ドタンの町を包囲したのでした。

15節には、「神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」」とあります。エリシャの召し使いが、朝早く起きて見ると、アラム軍がドタンの町を包囲しているのを見て恐れたのです。敵の数の多さに恐れをなしたのです。しかし、エリシャには召し使いには、見えないものが見えていたのです。召し使いの目は、見るべきものを見ることができなかったのです。私たちは、見るべきものを見ているでしょうか。

 聖書の中には、目が遮らえて見ることができなかった人の事が記されています。

民数記22章には、モアブの王バラクが、イスラエルを呪ってほしいとバラムを招こうと使者を送った時、神はバラムにイスラエルを呪ってはならない、と言われ、使者と共に行きませんでした。アラムの王バラムは、もう一度、以前より位の高い者を使者として送った時、神は、バラムに一緒に行けと言われました。バラムがロバに乗って行くと、神様の怒りが燃え上がり、主の使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがりました。それを見たロバは、バラムの足を石垣に押し付け、うずくまってしまったのです。それで、バラムはロバを打ちました。ロバが口を開き、「なぜ私を打つのですか」と言いました。主が、バラムの目を開かれると主の御使いが抜き身の剣を手にして道に立ちふさがっているのが見えたのです。ロバが避けなかったら、うずくまらずに、進んでいたら、バラムは殺されていたのです。バラムの目はさえぎられていましたが、ロバには見えていたのです。

 16節には、「するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。」 同じ状況の中で、エリシャには見えていましたが、召し使いには見えていなかったのです。そして、エリシャの祈りを聞いて、神様が召し使いの目を開くと、神の軍勢が満ち溢れているのが見えたのです。詩篇34篇8節には、「主の使いはその周りに陣を敷き、主を恐れる人を守り助けてくださった。」とあります。ここには、見える者と見えない者との違いがあります。私たちはどうでしょうか。

 

 二、霊の目が開くと恐れない

 エリシャは、召し使いに、「恐れてはならない。」と言いました。召し使いは、何を恐れたのかというと、アラム軍がドタンの町を包囲していたからです。恐れでガタガタと体が震えるように、敵の数の多さに恐れたのです。クリスマス、マリアは、天使ガブリエルの受胎告知の知らせに、戸惑ったとあります。恐れたのです。しかし、天使ガブリエルは、「恐れることはない。」と言ったのです。

 ガリラヤ湖で、逆風のために漕ぎ悩んでいる弟子たちに、イエス様は、近づいてきて「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。私たちは、人生の中で、信仰生活の中で恐れることがあります。イエス様を救い主と信じて、キリスト者として歩んでいても、イエス様が共におられるということを聖書から学び、その言葉を信じて歩んでいても、現実の厳しさの中で、困難の中で、なかなか助けられない、良い方向に向かない状況の中で、私たちは恐れてしまい、嘆き、絶望を感じることがあるのです。ですから、神様を信じるということは、苦しみや悲しみを経験しない、悪い事は起こらない、全ての事が順調に行く、ということを意味しません。イエス様を救い主と信じて、キリスト者として生きる私たちは、苦しい事も悲しい事も経験します。涙を流し、絶望を経験することがあります。しかし、それは、イエス様が共におられないという事を意味しません。共におられるのです。

 私たちは、苦しい事や悲しい事を経験する時、困難の中で祈る時、全く助けの手がない、一向に良い方向に導かれない時、神様が共におられないからだと感じる時もあります。けれども、私たちがどのような苦しみや悲しみを経験しようとも、絶望を経験しようとも、イエス様は共におられるのです。そして、必ず助けて下さるのです。そのような状況の中で、イエス様が共におられるということを見るのには、肉の目ではなく、霊の目が、信仰の目が必要なのです。苦しみや悲しみの中で、現実の厳しさの中で、イエス様が共におられることを感じること、信じることは、霊の目を持って現実を見なければ、信仰の目を持って、現実を見なければ、イエス様が共におられることを感じること、見ることはできないのです。私たちは、常に霊の目が開かれるように、信仰の目が開かれるように、聖書の言葉、神の言葉に触れて、信じて、従っていきたいと思うのです。17節で、エリシャが、召し使いのために、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と祈ったように、私たちはお互いのために祈り合いたいと思います。

 

 三、イエス様に触れ続ける

 神様は、エリシャの祈りを聞いて下さり、従者の目を開いて下さいました。そして、彼は、エリシャが見ていた火の馬と戦車が山に満ちている光景を見たのです。

 イエス様が復活した時、弟子たちは、復活をなかなか信じることができませんでした。

クレオパともう一人の弟子も、エルサレムからエマオへ行く途中で、イエス様が近づいて一緒に歩いていながらも、イエス様だとわかりませんでした。聖書は、「二人の目がさえぎられていた」と記しています。彼らがいつも見ていた、奇跡を起こし、権威ある言葉を聞いた、愛するイエス様が共にいるのに、イエス様だ、とわからなかったのです。目が見えるのにもかかわらず、見えなかったのです。イエス様がいなかったので、見えなかったのではなく、一緒にいるのにイエス様だとはわからなかったのです。共に言葉を交わし、イエス様から聖書全体について聞いても、イエス様だとは気が付きませんでした。その原因はいろいろと考えられるでしょう。イエス様の十字架の死を経験し、あまりにも悲しみ、嘆き、希望を失っていたので、イエス様だとはわからなかったのかも知れません。

 私たちも、いろいろな辛い出来事や痛みや苦しみのゆえに、共におられるイエス様を感じることができない。共におられるのに、共におられないかのように感じることがあるかも知れません。そこには、失望や絶望があるのかも知れません。聖書の言葉に触れても、祈りをささげても、神様を、イエス様を感じることができないことがあるかも知れません。

 クレオパたちは、先へ進もうとされたイエス様を引き留めて、さらに交わりました。その時、イエス様だとわかったと聖書にあります。「二人の目が開けて、イエスだとわかった」と。彼らは、相手がイエス様だとはわかりませんでしたが、交わり続けたのです。イエス様だとはわかりませんでしたが、イエス様と交わり続けたので、二人の目は開かれました。

 私たちは、聖書を読んでも、祈りをささげても、力が与えられない。信仰が増さない。熱き思いがないと感じることがあるでしょう。礼拝に出ても恵まれない。霊的な祝福がない。成長がないと感じてしまい、いつの間にか聖書を読むことや祈ることが少なくなったり、できなかったりすることがあるかも知れません。いつの間にか礼拝に足が遠のいてしまうことがあるかも知れません。おそらく、誰にもあることでしょう。聖書を読んだらいつも恵まれ、祈るといつも力が与えられ、礼拝ではいつも賛美に満たされるとはいかない。 

しかし、大切な事は、恵まれないから、力が与えられないから、霊的に満たされないから、聖書を読まない。祈らない。礼拝に出ない、というように、イエス様と交わることをやめてはならないのです。交わり続けるのです。聖書を読み続ける時、祈り続ける時、礼拝に出席し続ける時、私たちの目が開かれる時が与えられるのです。

 私たちを愛して、十字架の上で、ご自分の命をささげて下さったイエス様、死んでよみがえられたイエス様は、私たちの罪を赦し、魂を救い、永遠の命を与えて下さったのです。そのお方が、いつも共におられるのです。私たちが、どのような苦しみや悲しみを経験しようとも、イエス様は共におられるのです。私たちは、神様の視点で、イエス様の視点で、物事を見て行きたいと思うのです。マイナスの中に、苦しみや悲しみの中に、神様の恵みがあるのです。いや、イエス様がその苦しみの中に、悲しみの中に、共におられて私たちを支え、励まし、強めて下さるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。

 

 Ⅲ結論部

 母の命が危ないと聞いて、昨年の12月26日、母の病院に行きました。二人部屋で、もう一人の方がおりませんでしたので、私は開口一番に、「お母さん、イエス様はお母さん愛して、お母さんの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さっただよ。うれしいね。イエス様の十字架を信じることができる?」と聞きましたら、「はい。」と答えました。認知症が入っていて、「はい」というのが口癖だったのかも知れませんが、私は、イエス様を信じたと確信しました。父の時はなかなか福音を伝えるのに苦労したので、すぐに語ることができました。そして、「おかあさん、本当にありがとう。お母さんの子どもで幸せだった。」と伝えることができました。母は死にました。しかし、はっきりとイエス様のみもとに召されたと信じます。母は死んで終わりの人生ではなく、永遠の命をいただいて、天国の恵み、イエス様と共にあることを本当にうれしく思います。このことも、私たちの肉眼の目では見ることはできません。霊の目、信仰の目でなければ、魂の救いも、永遠の命の約束も見ることはできないのです。

 パウロはエフェソの信徒への手紙1章17節から19節で次のように祈りました。

「こういうわけで、わたしも、あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし、絶えず感謝しています。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」

 私たちは、2019年、この1年が、ただこの地上的な事、目に見えることだけに左右されて、落ち込むのではなく、霊の目で、信仰の目を持って歩みたいのです。神様に対する希望が与えられていることを悟りたいと思うのです。そして、神様の視点、イエス様の十字架と復活を通して、この1年を霊の目が開かれて歩みたいと思うのです。

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