江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

主日礼拝(2012年4月29日)

2012-04-29 17:38:19 | Weblog
                  賛美礼拝(復活後第三)     2012.4.29
       
                 「私に奇蹟を起こして下さい」 ヨハネ15:16-17

 Ⅰ導入部
 おはようございます。4月の第五主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝を守ることができますことを感謝致します。
 先週は、韓国サンアンドン教会の申牧師先生、クォン長老、キム勧士、ミン勧士、チャン執事、キム執事をお迎えしました。姜先生が通訳者としてご奉仕して下さいました。この訪問のためにお祈り下さり、ご奉仕して下さいました方々に心から感謝致します。特に、ホームスティのために宿を提供し、労して下さいました姉妹方、食事の準備のために労して下さいました兄弟姉妹、共に横浜観光に同行して下さいました兄弟姉妹方に心から感謝致します。良き交わりが与えられました。特に、申先生の礼拝と火曜日の午前のメッセージは、今青葉台教会に最も必要なメッセージであったと確信しています。日韓の間には、最も近い国ではあっても、歴史的な痛みがあり、習慣も性格も随分違いがあります。けれども、日韓の関係に主が介入して、私たちはサンアンドン教会との交わりが導かれてまいりました。私たちは、この交わりを生かしてお互いの信仰と霊性の祝福のために、これからの若い魂の良き交わりが祝福されますように祈りつつ、主に期待して歩ませていただきたいと思います。けれども、そこには経済的な負担、人的な、労的な負担があることも確かです。けれども、その負担を神様は驚くべき祝福に変えて下さるのです。
 先週の月曜日には、横浜観光に出かけましたが、あいにくの雨で、港の見える公園も、外人墓地もゆっくりできず、港の見えない公園、雨の外人墓地で、横浜と言えば、この2つの場所が観光の名所ですが、韓国の方々には印象的ではなかったのではないかと思います。横浜中華街での食事はゆっくりできたよかったと思います。火曜日の夕方、お台場に出かけ、とてもゆっくりと良い時を持ちました。姜先生が、「月曜日は雨であまり観光できなくて、かわいそうなので神様が良い時を与えて下さった。」と語っておられました。このお台場の観光がとても良きものになりました。感謝です。
 8月には、青年たちを中心にサンアンドン教会を訪問する予定です。ぜひ、お祈りして下さり、主の導きがありますならば参加していただきたいと思います。
 私たちは、今回経験した事柄を生かして次の交わりに期待したいと思います。
 今日は、先週韓国訪問の前に教会成長の学びをさせていただきましたが、その時に与えられました聖書の個所、ヨハネによる福音書15章16節から17節を通して、「私に奇蹟を起こして下さい」という題で、お話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 一、愛し合うというみ言葉の実践
 イエス様は、最後の晩餐の席で「互いに愛し合う」ことをご自分が弟子たちの足を洗うということを通して、弟子たちの心にしっかりと植えつけられました。性格も出身も立場違う12人の弟子たちは、イエス様が自分の足を洗うという出来事に驚きつつも、その意味をその時は理解することはできませんでした。けれども、師であるイエス様のしもべがする行動を弟子たちは忘れなかったのだと思います。
 今回の韓国ナザレン、サンアンドン教会の一行を迎えて、多くの方々が愛の業をして下さいました。梶原修兄弟は、最初の日空港まで出迎えに車を出して下さり、一行を歓迎して下さり、最初の晩餐では給仕に徹して下さり、一人ひとりの名前を聞いて、次の日、日曜日には名札を準備して下さいました。月曜日の夜の食事会にも参加して下さいました。
 また今回、ホームスティとして家を提供して下さいました和田姉、岩渕姉、熊手姉はいろいろと大変だったと思います。見えない御苦労、勿論、見えるご苦労もたくさんあったのだと思いますが、本当にしもべに徹して下さいました。感謝です。
 また、日曜日の夜の壮年会の食事は前の日から準備して下さり、多くの人数の量で大変でしたが、これもまたしもべに徹して労して下さいました。女性会では、月曜日の夜と火曜日の昼と、心のこもった食事を準備して下さり、月曜日の夜は、観光があまりできなくてがっかりの所でしたが、とてもきれいで配慮に満ちた準備で、日本的な細やかな配慮で、みなさん本当に喜んで下さいました。またまた、しもべに徹して下さいました。韓国の方々は、そのような一つひとつの事柄を忘れることはできないでしょう。感謝、感謝の連続でありました。イエス様がご命令された「互いに愛し合う」ことを今回は実践されたのでした。韓国の方々がこられる前に、私の説明足や準備不足のために、特に女性会には迷惑ご苦労をおかけしていたので、女性会の方々がどのようなことをして下さるのか、あまり期待できないというか、心配しておりましたが、何の、何の素晴らしい、とても細やかに、配慮に満ちた準備とチームワークで、素晴らしいおもてなしができたと感じています。やっぱり、青葉台教会はすごい教会、いや、素晴らしい、すごい信徒の方々がおられるのだと強く感じさせられました。
 申先生は、2パーセント足りない時というドリンクの例話を離されましたが、不足のない100パーセント以上のおもてなしができたように思います。
 16節には、選びの事が書かれていますが、青葉台教会の方々は、本当に神様に、イエス様に選ばれて立てられていることがよく分かりました。本当に感謝です。

 二、イエス様が私を選んだ
 16節を共に読みましょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
 今日、私たちはここに集い礼拝をささげています。お一人おひとりが、自分の意志で、自分で選んで、青葉台教会の4月29日の礼拝に出席したと考えておられることでしょう。けれども、イエス様が選んでここに導かれているのです。私たちはイエス様が私の罪の身代わりに十字架について死んで下さったことを自分の意志で信じ、自分から選んで洗礼を受けたと感じておられるでしょう。でも聖書は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と語るのです。私が先ではなく、イエス様が先であるということです。ここにいる全ての人は、クリスチャンであるかどうかに関係なく、イエス様に選ばれているのです。その選ばれた理由は、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ためなのです。実を結ぶことと実が残ることとあります。私たちが実を結ぶことは、イエス様の願いであり、私たちが選ばれた理由です。ここにイエス様の大いなる期待があります。
イエス様は、最後の晩餐で弟子たちに、彼らを選んだ理由は、弟子たちが行って実を結ぶことだと言われました。この後、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げます。ペトロはイエス様との関係を完全に否定します。そして、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて死んでしまうのです。実を結ぶ、実が残るというイエス様の言葉とは正反対の出来事が次から次へと起こるのです。
 けれども、イエス様が死んで三日目に驚くべき出来事が起こります。イエス様の復活です。弟子たちは、復活のイエス様に出会い喜びます。そして、イスラエルの国の再興を願いますが、彼らには力がありませんでした。エルサレムで聖霊を待ち望む必要があったのです。やがて、弟子たちは聖霊を受けて、イエス様のお言葉通りに、「出かけて行って実を結び、その実が残る」者となるのです。
 私たちも、弟子たちと同じようにイエス様に選ばれ、立てられた者です。けれども、弟子たちと同じように、実を結ぶにはほど遠い所にいるかも知れません。クリスチャンとして実を結ぶ生活ではなく、罪の生活、不信仰な生活、力のない惰性の生活、喜びよりも苦しみと悲しみ、痛みの多い生活と実が結ばれていないと感じる生活かも知れません。でも、大丈夫。弟子たちもそうでありましたが、実を結び、実を残す者とされたのです。彼らには何の力もありませんでした。復活の主が彼らに近づき、イエス様の言葉を信じて祈り待ち望むところに、聖霊が与えられたのです。
 私たちにも同じイエス様の言葉が与えられているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残る」とイエス様が語っておられるのですから、大丈夫。必ず成就します。イエス様の言葉を信頼して信仰生活を励みたいと思います。

 三、イエス様の期待はあなたにある
 聖書は続けて、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」とあります。神様の選びには、祈りにつながるものがあるとうことだと思います。 7節には、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」というみ言葉があります。私たちがイエス様としっかりとつながっているならば、望むものがかなえられる。「父に願うものは何でも与えられる」という16節の言葉と同じだと思います。
 聖書は、イエス様としっかりとつながること、つまり聖書の言葉により、イエス様の言葉、聖書の言葉に触れ、その言葉を信じて歩む時、私たちはイエス様と神様とひとつになるのだと思います。イエス様がわたしがあなたがたを選んだ。それはあなたがたが行って実を結ぶ、ことだと言われたお言葉を信じて歩む。自分の周りに見えるものが、全てマイナスに見えても、状況が実を結ぶこととは正反対でも、語られた言葉、与えられた言葉を信じて歩む。それが信仰だと思います。み言葉を握りしめ、み言葉に信頼するとは、神様をイエス様を信頼することに他なりません。イエス様は父なる神様の語られる言葉に忠実に従われました。だからこそ、イエス様は、「私と父とはひとつである」と語られたのです。私たちも、その信仰が神様とひとつに、イエス様につながることになるのだと思います。また、イエス様とつながる、ひとつになるとは祈りを通して与えられるものだと思います。イエス様が父なる神様に信頼して祈られたように、私たちも神様に祈るのです。
 先週の礼拝メッセージで、申先生は聖霊に満たされることのすばらしさを語って下さいました。聖霊に導かれることの大切さを語って下さいました。私たちのうちにおられる聖霊は、私たちを聖書のみ言葉に触れることに導きます。私たちを祈りに導きます。そして、私たちを神様とイエス様とひとつにして下さるのです。その結果、実を結ぶ者、実を残す者とされるのです。
私たちは、そして青葉台教会はイエス様に大いに期待されているのです。実を結ぶことにおいて、実を残すことにおいて、そして祈りを通して神様に答えられる経験をするのです。今日の説教題は、「私に奇蹟を起こして下さい」としました。このみ言葉に触れた時、そのように感じたのです。神様は私を通して、あなたを通して、青葉台教会を通して、神様の大いなる業を行われるのです。
私たちは、神様が一人ひとりに大いに期待しておられることを自覚して、聖書の言葉に触れ、祈りを通して神様とひとつとなり、イエス様につながって、祈りが聞かれ、主のみ業が進んでいくみ業を目撃する者でありたいと思うのです。

 Ⅲ結論部
 今日は、日本国際ギデオン教会の兄弟がおいでになり第一礼拝と第二礼拝でお証しをして下さいます。現在、大山昭夫兄が全国の会長をされ、日夜東奔西走されています。青葉台教会は多くの方々が会員となって宣教のために労しておられます。ギデオンの兄弟姉妹は、聖書を配布するという宣教の手段を用いて福音を示しておられます。聖書を配ると言っても大変なことです。朝早くから冬も夏も、寒さや暑さの戦いののみならず、聖書を否定する学生たちの態度に一喜一憂されていることでしょう。相手が聖書を受け取っても受け取らなくても、聖書を配布し続けておられるのです。すごいことです。頭が下がります。だからこそ、毎日ギデオンの働きのために祈るのです。聖書配布の祝福を祈るのです。聖書の言葉には人を救い、生かす力があるから祈るのです。ある学校では多くの聖書を受け取ることもあるでしょう。けれども、ある学校では、近隣の方々のクレ-ムや校長の意向で聖書配布そのものをやめさせられることもあるし、聖書を配布してもほとんど受け取らないということもあるのでしょう。だいたい、どの学校が聖書を受け取らないか経験でわかるでしょう。けれども、その学校にも聖書を配布するのです。わずかであっても、聖書の言葉には力があることを自分が経験しているから、聖書の言葉、神様の言葉に期待して配布するのです。聖書の言葉に信頼し、祈らなければできない働きだと思うのです。
 私たちは、この週も聖書の言葉に信頼し、祈りを通して神様の偉大なるみ業を体験したいと思うのです。私を通して神様の偉大なるみ業、奇蹟が起るのです。イエス様は今日も語ります。「大丈夫。私が共にいる。あなたのすることを全て祝福する」と。
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主日礼拝(2012年4月22日) 申先生のためメッセージはありません

2012-04-22 14:23:34 | Weblog
韓国ナザレン教会 サンアンドン教会牧師 申先生なのでメッセージはありません
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主日礼拝(4月15日)

2012-04-15 22:50:31 | Weblog
          主日礼拝(復活後第一)     2012.4.15
       
                 「黙ってオレについて来い」  ヨハネ21:20-23

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。先週は、イースター、イエス様のよみがえりを記念し、復活の望みを持って礼拝をささげさせていただきました。
 午後の愛餐会では、先日青葉台教会に入会されました佐々木兄弟姉妹、大里姉妹と3名の神学生を紹介し、共に良きお交わりを与えられ感謝でした。
 ユース礼拝が終わりまして、すぐに葬儀のためにでかけました。それは、櫟木姉の犬のチャコが亡くなったので葬儀を行いました。賛美歌を歌い、聖書の言葉を読み、祈りをささげ、チャコが櫟木姉や御主人の加藤公明さんに喜びと楽しみを与えたこと、犬仲間の方々にも喜びを与えたこと、江上家にいる犬のクーちゃんのお母さんでもあるので、クーちゃんを産んでくれたことを覚え、神様が創造されたチャコを神様が尊い存在とされたことを覚えながら、葬儀を行いました。犬仲間のワンちゃんたちと飼い主の方々がたくさん集まっておられました。
 今回犬のチャコの葬儀をするということでいろいろと調べてみると、クリスチャンの方々で飼い犬が死んでキリスト教の葬儀を行いたいけれども、なかなかできないというような意見が多くありました。動物の葬儀もキリスト教でというのは、これからの宣教のひとつかも知れないと感じた次第でした。
 この一週間もいろいろなことがあったことでしょう。嫌な事、つらい事、我慢した事、
心痛む事、マイナスばかりということもあったでしょう。けれども、大丈夫。イエス様は、その嫌な事や辛い事、我慢した事、心痛んだ事を恵みに変えて下さるのです。
 イエス様は死んで確かによみがえられました。よみがえりの主は弟子たちに何回か現れました。そして語られました。私たちにも、今日、語って下さるのです。今日は、ヨハネによる福音書20章20節から23節を通して、「黙ってオレについて来い」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部
 一、何もないからこその恵み
 先週、よみがえりの主は女性たちに、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」とイエス様が言われた言葉を見ました。20章では、弟子たちの間によみがえりの主は現れました。その後、弟子たちは、イエス様の言葉、「ガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」という言葉を信じてガリラヤに来たのだと思うのです。
 ガララヤに来てもなかなかイエス様に会えなかったのでしょう。ペトロは漁に行くのですが、何も獲れなかった。イエス様は岸辺から舟の右側に網を下すようにと言われ、その通りにしたらたくさんの魚が獲れたのです。「主だ」という声に、ペトロは上着をまとい、湖に飛び込んで岸まで泳ぎました。イエス様は、朝食の用意をして待っておられました。
 魚が一匹も獲れないということを通して、イエス様の言葉に従うことを通して祝福を与え、3年前の出来事を思い出させ、ペトロがイエス様に最初に出会った時の熱き思いがよみがえってきたのではないでしょうか。
 ここで魚が網にかかっていたら、大漁の経験、3年前の主との出会いと大漁の経験を思い出すことはなかったのです。与えられることは大きな恵みです。けれども、与えられないことも大きな恵みとなるのです。与えられないからこその恵みもあるのです。
 イエス様は、ペトロを個人的に呼び出して、「私を愛するか」と三度質問されたのです。
イエス様は、朝食を済ませてから質問しました。朝食前で疲れておなかがすいている時に、「私を愛するか」と質問したら、ペトロはどう答えていたでしょうね。「ハイハイ、私が悪うございました。プンプン」と怒っていたのかも知れません。おなかがすいている時に大事な話はしてはならないと私は個人的に思います。
 先週、神学校の入学式があり野村姉、渡辺姉、後藤兄が入学されました。ぜひ、お祈り下さい。入学式のメッセージで坂本校長先生は、ネヘミヤ記8章から、み言葉の大切さを語って下さいました。ネヘミヤ記8章10節には、「彼らは更に言った。「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。その備えのない者には、それを分け与えてやりなさい。今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」」 「行って良い肉を食べ、甘い飲み物を飲みなさい。」とありますが、霜降りの牛肉を食べ、甘い飲み物(コーラ)を飲みなさい、と聖書は語るのです。この聖書の言葉に私は大いに力づけられたのでした。
 イエス様は、朝食でおいしい焼き魚とパンを用意しておられました。食することの重要性を聖書は語っていると思うのです。
 何も獲物がなかった。何もないということがイエス様を示し、イエス様とペトロとの個人的な話し合いが持たれたのです。そして、この個人的な面談が、これからのペトロの生涯に大きな恵みとなるのです。

 二、人を気にしないで
 21節を共に読みましょう。「ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。」なぜ、そのようなことを言ったのかと言うと、ペトロはイエス様から「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」」(18節)と言われたからです。 今までのペトロは、若い時は、自分の思いのままで、肉的に好きなように行動していた。けれども、年を重ねると、自由に身動きが出来ず、行きたくない所へ連れて行かれる、という不吉な預言をイエス様がなさったので、ペトロがふり向くとヨハネがいたので、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言ったのです。リビングバイブルには、「ペトロが何げなくふり向くと、イエスが特に目をかけておられた弟子が、ついて来るではありませんか。」(20)とイエス様が特に目をかけておられたヨハネはどうなのかと感じたのでしょう。リビングバイブルには、「たちまちペトロの好奇心が頭をもたげました。「主よ。彼はどうなんです?どういう死に方をするのですか。」」(21)。とあります。ペトロのB型気質でしょうか。
 ペトロはイエス様から個人的に、「愛するか」と問われ、自分の不吉な最後を示されて、何か不安になったのでしょう。ペトロは自分自身を見つめるのではなくて他人が気になりました。イエス様が目をかけているヨハネのこれからのことがとても気になったのです。いや、ヨハネのことが気になったというよりも、自分のことがとても気になったので、ヨハネはどうかと聞いたのでした。
 私たちは、自分の人生も生き方も、信仰も自分をみつめ、神様を見つめていけばいいのに他人が気になるものです。自分のことを気にするがゆえに、自分と比べて他人が気になるのです。気になってしょうがないのです。そして、自分が上だと優越感を持って傲慢になります。そして、自分が下だと卑屈になって相手を批判したりするのではないでしょうか。
 ペトロは自分の不吉な最後を語られて、とてもいやな思いをしたのでしょう。だから他人が気になりました。自分の最後が、死に方が怖かった。けれども、聖書は、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」(19)  
ペトロは不吉だと思ったのですが、イエス様はペトロの死に方が神の栄光を現わすと言われたのです。私たちの死が不吉であろうが、悲惨であろうが、私たちの死そのものが神様の栄光を現わすと聖書は語るのです。ですから、何も恐れないで「私たちの死は神様の栄光を現わす」と言われるイエス様を信頼して、私たちの生涯そのもの、死さえも神様におゆだねしようではありませんか。

 三、私はイエス様に従います
 22節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」」 リビングバイブルには、「もう一度戻って来るまで、彼に生きていてほしいと、わたしが思ったとしても、あなたとは何の関係もないだろう。人のことは気にしないで、ただわたしについて来ればいいのだよ。」とあります。
 イエス様は、19節でペトロの死様の予告をした後で、「わたしに従いなさい」と言われたのです。ペトロはイエス様を見つめればいいのに、横にいたヨハネを気にしてしまいました。だから、従えないペトロにイエス様は、「あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」と言われたのです。
 イエス様は、ペトロに語られたように私たち一人ひとりにも「わたしに従いなさい」と語られます。けれども、一人ひとりの環境や状況は違います。自分と他の人を比べてみて、自分がみじめになったり、自分のほうが一生懸命がんばっているのに、他の人の方が光を当てられて祝福されたり、恵まれたりすると何かがっかりしたり、腹が立ったりしてしまうことがあるように思うのです。案外、自分も頑張っていますが、他の人も見えないところで頑張っているのだと思うのです。
 相手から見ると、やはり自分の方が頑張っているのに、私の方が祝福されたり恵まれていると感じているのかも知れないのです。人と自分を見比べると、どちらにしても自己中心的な部分が目に見えてくるように思うのです。
 ですから、私たちは、「わたしに従いなさい」と言われるイエス様を見つめて、イエス様に従っていくのです。イエス様を見つめるとは、イエス様の十字架を見上げることです。私の罪のために、私の罪を赦す為に御自分が罪はないのにもかかわらず、私の罪を十字架で背負って身代わりに死んで下さいました。全能なる神、死ぬはずのないお方が、死と墓に葬られるという経験をして下さったのです。そのようにイエス様に身代わりに死んでいただくような者ではない私たち一人ひとりを愛して、私たちを救い、祝福する為に死なれたのです。そのような愛と恵みを私たちはいただいているのです。
 そのことを思うと、私たちは人のことを気にすることはないのです。このような素晴しい恵みを私たちは神様からいただいているのです。この恵みから目を離すと人のことが気になり始めるのだと思うのです。人を見るとわなに陥るのです。
 イエス様は、忙しい時代に生き、いろいろな事柄を見すぎて、他人を見すぎて、他人と比べすぎて疲れている私たちに、「ごちゃごちゃ言うな、黙ってオレについて来い」と今朝、一人ひとりに語っておられるのです。そう言われるお方は、私たちの全ての歩みに伴い、その歩みを守り、導き、恵みと祝福を用意しておられるのです。

 Ⅲ結論部
 現代は、ストレスの時代だと言われます。飼っているペットたちもストレスを持つとも言われます。皆さんもこの1週間の間で、家庭で、会社で、学校で、もしかしたら教会で、ストレスを感じているのかも知れません。この「ストレス」という言葉を最初に使用した人物は、カナダの医師だそうです。ハンス・フォン・セリエという先生だそうです。彼が言うのには、ストレスが起こる原因は、他人と比べながら生きるからだそうです。会社で、学校で人と比べて生きていませんか。教会で誰かと比べて生きていないでしょうか。最高の人生を生きるためには、人と比べないで、横を見ないで上を見ることなのです。ペトロのようにふり向いたり、横を見ると人が気になるのです。上を見る、つまり神様を見るのです。私に従いなさいと言われるイエス様を見て生きるのです。
 私たちは上を見なければ、神様を見なければ全ての面で否定的に見てしまうことが多いのです。見える所が何もないと不満が出ます。与えられないと悲しくなります。けれども、魚が一匹も獲れないということが、イエス様の言葉に従い、大漁の経験をし、かつての経験をも思い出し、イエス様をイエス様として認めることができたのです。
 マイナスも悪いと思える事柄も、イエス様はプラスに、そして恵みに変えて下さるのです。ですから、イエス様を見つめていないと、マイナスはさらならマイナスを生むのです。悪い事柄は、肉体的にも精神的にも信仰的にも悪い影響を及ぼすことになるのです。
 今まで、自分を見つめ、他人を見つめてきたので疲れているかも知れません。傷ついていることでしょう。苦しいことでしょう。でも私たちにはイエス様がついています。もう、大丈夫。私を見なさい。私に従いなさいと言われるイエス様が私たちの今の状況を一変させて下さるのです。いろいろな言い訳があるかも知れません。理屈があるでしょう。イエス様は、今日あなたに言われるのです。「黙ってオレについて来い」と。そう言われるのですから、黙ってイエス様についていきましょう。それが最も安全で安心な道なのです。
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主日礼拝(2012年4月8日)

2012-04-08 14:25:58 | Weblog
主日礼拝(イースター・復活祭)  2012.4.8

          「空っぽの恵み」  マタイ28:1-10

 Ⅰ導入部
 おはようございます。今日はイエス様が死からよみがえられたことを記念するイースター(復活祭)の礼拝です。皆さんと共にイ-スターの礼拝をささげることができますことを感謝致します。
 先週は月曜日から土曜日まで、受難週の連夜の祈祷会があり熱心な祈りがささげられました。長い間出席されている方々、初めて参加された方々と時代を超えて祈り会が継続されていることを青葉台教会のよき伝統だと思います。直接教会に来て祈りをささげることができなかった方々も、その場で心を合わせていて下さっていたと信じます。
 また、先週は、日月と洗礼を受けた子どもたち、JFの会が持たれました。日曜日の夜は、洗足式と聖餐式を行いました。先生であるイエス様が弟子の足を洗われた、そのように教会学校の先生方が子どもたちの足を洗って下さいました。また、種入れぬパンでパンを裂き、一人ひとりに、「主のからだ」と言いながら配り、ぶどうジュースは「主の血潮」と言いながら配りました。厳粛なとても素晴しい時でした。
 次の日は、教会から鴨居にあるララポートまで歩いて、神様の創造された自然、秋を見つけようという時を持ちました。イエス様のよみがえりのイ-スターを次の日曜日に迎える時、キレイな花やつくし、春を感じる自然を満喫しました。2時間半かかりララポートに到着し、バイキングの昼食をいただきました。受難週ですので、苦しみを覚える時でありますが、美味しいものをたくさんいただきました。たくさん食べすぎで、おなかが痛くて、苦しくて、苦しくて、「ああ、受難週もこのような苦しみの方法もあるのかなあ」と感じました。さすがに、夜は食事を抜いた次第です。
 私たちは、この受難節にいろいろな方法や形でイエス様の苦しみを覚えてきました。それは人それぞれです。しかし、今日は主がよみがえられた、素晴しい恵みの時です。主が罪と死に勝利して下さり、私たちにも復活の力と恵みを与えて下さることを信じましょう。
 この週も、受難週という名にふさわしく大変な苦しみを経験された方々もおられることでしょう。人間関係の中で嫌な思いをしたかも知れません。また、肉体的に苦痛を経験されたかも知れません。経済的な面で苦しみを経験されたかも知れません。自分自身や将来のことで何かあったかも知れません。でも、もう大丈夫です。イエス様はよみがえられました。神様としての力をあらわされました。何も心配いりません。イエス様に任せれば、もう大丈夫です。このお方に信頼して聖書の言葉をみていきましょう。
 今日は、マタイによる福音書28章1節から10節を通して、「空っぽの恵み」という題でお話ししたいと思います。

 Ⅱ本論部

 一、心配はいらない
 私たちの住む、この世は「死んだらおしまい」という世界です。けれども、イエス様が復活されて、「死んだらおしまい」の世界がおしまいになったのです。イエス様は、私たちの罪の身代わりに、罪がないのにもかかわらず十字架にかかり、私たちが受けるべきさばきを受けて、苦しみ、血を流し、命を与えて下さいました。その苦しみは、すさまじいものでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、父なる神様から見捨てられる経験をしました。イエス様は、確かに十字架の上で死んだのです。
 イエス様を十字架刑に追い込んだ祭司長も、律法学者たちも、長老も、これで終わった、と思ったはずです。死んだら終わりの世界に生きていましたから。これで、あのイエスの言葉や行動に悩まされることはない、と一安心したのです。けれども、イエス様は、「自分は三日目に復活する」と言っていたのを思い出して、三日間見張りをするようにとピラトに願い出て、イエス様の遺体が収められた墓の石に封印し、番兵を置いたのです。念には念を入れたのでした。(マタイ27:62-66)
 安息日が終わったので、マグダラのマリアともう一人のマリアが、イエス様の遺体に香油を塗るために墓に急いでいました。マグダラのマリアはイエス様に7つの霊を追い出してもらったという経験があります。イエス様が自分にして下さったことを思うと少しでも早く、遺体に香油を塗りたかったのです。
 ユダヤの墓は、横穴式なので入り口に大きな石が置いてありました。また、頑強なローマ兵が番をしていたので、マリアたちはイエス様の遺体を見ることができるかどうか不安でした。
 2節を共に読みましょう。「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。」
 マルコによる福音書には、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と女性たちの言葉を記しています。神様は地震を起こし、天使を送り、石を動かされたのです。私たち人間には、天地を動かすことは出来ません。しかし、神様は遺体に香油を塗りたいと願う女性たちの心、信仰の故に、天地をふるわさられたのです。神様は私たちを救うためならば、必要なら天地を動かされることがあるのです。私たちの信仰の歩みを妨げようとする石を取り除いて下さるのです。ですから、何も心配しないで、神様を信じて、信仰の道を歩んで生きたいと思うのです。

 二、ないことが幸い

 地震が起こり、天使が石を動かし、その上に座るという光景を見て、番兵たちは震え上がり、死人のようになったのです。動けなくなりました。
 5節、6節を共に読みましょう。「天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」
 番兵たちは、震え上がり動けなくなったのに、女性たちはそうではありませんでした。イエス様の遺体に香油をそそぐという強い意志、目的をもっていたからでしょう。天使は女性たちに「恐れることはない。」とまず語りました。クリスマスのメッセージはやはり「恐れることはない。」ということでした。人間の世界に、神が人となって介入された特別の時、今までにない経験、そこには当然恐れが生ずるのです。イースターのメッセージもやはり「恐れることはない。」なのです。死んだらおしまいの世界、それが常識、当たり前の世界であったのです。しかし、死んだらおしまいの世界にピリオドが打たれた。イエス様は死んでおしまいではない。死んでよみがえられたのだ、という新しい世界、今までに人間が経験した事のない世界、そこには当然恐れが生じます。だから、天使は「恐れることはない。」と言われたのです。
 女性たちの目的は、イエス様の遺体を見て、その遺体を丁寧に扱うこと、香油できれいにすることでした。けれども、その目的のイエス様の遺体がないわけです。天使は言いました。「あの方は、ここにはおられない。」と。もし遺体ならば、「遺体はここにはない。」と表現するはずです。「あの方は、ここにはおられない。」という表現は、生きている人に使う言葉です。天使ははっきりと、「かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」とイエス様の復活を語りました。「さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。」と言われて女性たちは見たでしょう。けれどもそこには、イエス様の遺体はどこにもありませんでした。空っぽの墓だったのです。
 女性たちの目的は、イエス様の遺体でした。遺体がないということは、香油を塗ることが出来ないので悲しいはずが、遺体がないことのゆえに、墓が空っぽの故に、そのことが喜びとなったのです。そこに遺体がないことが、喜びとなった。つまり、イエス様はよみがえられたということなのです。
 私たちはないことのゆえに、不安になり、がっかりすることが多くあります。けれども、ないということが、空っぽが恵みとなるのです。

 三、見ないのに信じる信仰

 天使は、イエス様は死者の中から復活したこと、ガリラヤに行けば会えることを弟子たちに伝えるようにと語りました。8節を共に読みましょう。「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。」恐れるなと言われても、恐れるのです。死んだイエス様がよみがえったと聞いても不安があるでしょう。けれども、空っぽの墓の故に、彼女たちは恐れながらも、不安を抱えながらも、大いに喜んだのです。愛する主が復活したことを信じたからです。そし、この福音の喜びを少しでも早く伝えるために、急いで弟子たちに伝えに行ったのです。
 イエス様はよみがえられたと言われても、まだイエス様には会っていません。けれども、彼女たちは天使の言葉と空っぽの墓の故に、イエス様のよみがえりを信じて喜んだのです。
見ないで信じる信仰です。イエス様もトマスに言われました。「見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)。ヘブライ人への11章1節には、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」とあります。
 私たちは、見えるものに左右されます。車に乗っている方々は、ガソリンのメーターを確認するでしょう。満タンなら安心、でもエンプティなら不安でしょう。赤いランプがついたら、いつ止まるか、ガソリンがなくなるかと心配します。貯金箱にたくさんのお金が入っていると、貯金通帳に多くの数字があると安心し、額が少なくなると不安です。教会でも礼拝人数が多いと安心し、減ると不安になるでしょう。今、会計さんは新年度の会計のことで不安でいっぱいでしょう。多くささげられると安心されると思います。やはり、信仰者である私たちも、目に見えるものに左右されて生きています。けれども、多くあることが、目に見えるゆとりが神様に目を向けることから妨げることがあります。あるということは人間的には安心です。安心とは、神様に頼らないで生きてけることをも意味します。あることのゆえに、見るべきものを見ないということが起こるのです。
 イエス様は、弟子たちを二人組にして宣教に遣わしたことがありました。杖以外は何ももたないようにと言われました。宣教旅行に何とも頼りのないことです。しかし、弟子たちが必要なものを何でも持っていったら、神様を必要としないからです。ないからこそ、神様に信頼するのです。明日がわからないからこそ、神様に祈るのです。
 ないということは、空っぽということは不安です。けれども、不安だからこそ、私たちは上を見上げるのです。神様に信頼するのです。ないことも恵みとなるのです。

 Ⅲ結論部
 9節、10節を読みましょう。「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」」
 ガリラヤへ行くと会えると天使は言いました。でも、イエス様はご自身を女性たちに現されたのです。ご自身を示すことで、イエス様の復活を現実の者として信じ、イエス様のよみがえりを福音として弟子たちに伝えるためだと思うのです。
 イエス様はご自分のおさめられた墓を空っぽの墓とされました。空っぽが恵みとなったのです。
 私たちも空っぽを経験することがあります。経済的な空っぽ、信仰的な空っぽ、肉体的に癒されないという空っぽ、ないことのみじめさやつらさを経験します。けれども、そこからが神様の出番です。私たちは、経済的にも、信仰的にも、健康的にも手持ちにわずかでもあると、やはりわずかでもそれに頼るのです。その頼るものがなくなってしまった時、私たちの顔は、心は、思いは神様に向けられるのです。そして、神様から来る圧倒的な勝利、祝福を体験することができるのです。
 空っぽの恵みを私たちは、この年度も体験したいと思うのです。空っぽの時、私たちを神様に向かわせるために、私たちは日々みことばに触れて、聖霊様の導きに従いたいと思うのです。この週も、みことばに立って、復活のイエス様と共に歩んでまいりましょう。
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主日礼拝(2012年4月1日)

2012-04-01 13:10:09 | Weblog
       主日礼拝(受難節第六・受難週)  2012.4.1
       
              「呪いが祝福に変わる」  マタイ27:32-56
 Ⅰ導入部
 おはようございます。2012年度の最初の日が日曜日で礼拝をもって新しい年度を始めることができますことを感謝致します。青葉台教会の牧師としてまる11年が終わり、今日から12年目が始まることになります。愛する兄弟姉妹の度重なる忍耐を思うと申し訳なく思うのですが、それはお互い様なのかなあとも感じるのですがいかがでしょうか。
 今日も愛する兄弟姉妹と共に会堂に集い、私たちの救い主イエス様を賛美し、礼拝できますことを心から感謝致します。この1年間も毎週の礼拝を大切にしたいと思います。大切にするとは、忘れないこと、いつも心に覚えること、喜びとすることだと思います。私たちの青葉台教会には、幸いにも第一、第二、第三、ユース礼拝という4つの礼拝がありますので、どこかの礼拝を守ることができるようにと配慮されています。もし、礼拝に出席できない時は、ぜひ、ホームページで説教を音声で聞いていただいたり、説教原稿を読んでいただけたらと思います。また、礼拝に出席できないときは、ぜひ祈り会やその週の集会にぜひ参加していただいて、1週間に1度は教会に足を運ぶことができればと思います。
 神様がひとり子イエス様を与えるほどに私たちを愛して下さった、その愛に答える道は、礼拝を守るということなのだと思うのです。
 今日は受難節第六主日、受難週の礼拝です。今日は、イエス様の十字架についてマタイによる福音書27章32節から56節を通して、「呪いが祝福に変わる」という題でお話ししたいと思います。
 今週も私たちは、それぞれの与えられた場所で、それぞれの与えられた歩みを過ごしてまいりました。悲しみや苦しみ、痛みや切なさを経験された方々もおられると思います。聖書を読んだり祈りをすることもできなかったという方々がおられるかも知れません。けれども、イエス様はいつも共におられ、私たちを導いて下さいました。私たちには力もありません。けれども、大丈夫。イエス様が私たちの人生の全てに責任をもって導いて下さるので、安心してイエス様に全てをおゆだねしていきたいと思います。

 Ⅱ本論部
 一、誰にでも嫌な経験はある
 イエス様は、一晩中不当な裁判を受けられました。鞭打たれ、殴られ、いばらの冠をつけられと体には痛み、そして一睡もできないままに十字架刑の判決で刑が執行されることになるのです。神であるお方が、私たち人間と同じ肉体を取って、この世に来て下さいました。その最大の目的は、人類の罪の身代わりに十字架につくことでした。肉体を持つ者にとっては、疲れはつきものです。仕事での疲れ、勉強での疲れ、レジャーの疲れもあるでしょう。
 先週は、私は家内の父の77歳のお祝い、喜寿の祝いで伊豆へ行きました。そして、一泊して、伊豆キングダムという動物園に行って、夕方神戸に向けて車で出発しました。神戸に着いたのが、午前3時だったでしょうか。もう肉体的な疲れのピークでぐっすり休みました。帰りは、懐かしい奈良により横浜へ。途中名古屋から渋滞で全く動かず。およそ8時間の運転しっぱなしで、3回のトイレ休憩以外運転の連続、横浜にたどり着いたのが次の日で風呂にも入らず、バタンキューでした。
 どんなに元気な人でも疲れます。イエス様の裁判後の肉体はもうすでに限界で、自分がつけられる十字架を背負っての移動は無理な話でした。ですから、何度か倒れて、もうだめだとローマ兵が判断して、アフリカから巡礼のためにエルサレムに来ていたキネレ人シモンに十字架を無理に担がせたのでした。
 シモンは、神様を礼拝する為にエルサレムに来たはずが、とんでもない事態にでくわしたのです。何と、十字架刑を受ける犯罪人の十字架を背負わされたのですから、縁起でもない。とんでもない話です。神様を礼拝しに来たはずが、恵みが呪いとなったのです。
 エルサレムでの礼拝や観光がどんなに素晴しいものでも、このたったひとつの十字架を担がされるという忌まわしい経験で全てが台無しにされたのでした。
 私たちも、10のうち9がよくても、その1つにいやなことがあれば、全てが台無しになってしまったということを経験されたことがあると思うのです。
 シモンは自分の故郷に帰ってからも、自分が死刑の道具である十字架を担がされたことが忌まわしい過去であり、忘れたい過去であり、絶対に思い出しなくない出来事だったのです。けれども、シモンにとってこの忌まわしい経験が、呪いの経験が、思い出しなくない経験が、祝福に、恵みに、いつも思い出しなくなる経験と変えられるのです。
 今私たちが経験する悲しいこと、苦しいこと、嫌なこと、思い出しなくないこと、それらの出来事をイエス様は恵みに、祝福に変えられるお方であることを信じたいと思うのです。

 二、見捨てられるという最大の苦しみ
 イエス様は午前9時に十字架につけられました。両手、両足に釘を打ち込まれ、全身に激痛が走り抜けました。十字架の下では、イエス様の服をローマの兵士たちが、くじを引いて分け合っていました。また、イエス様の両脇には、強盗が十字架刑につけられ、二人ともイエス様をののしりました。また、十字架刑を見物している祭司長や律法学者、長老たちは、イエス様を馬鹿にし、ののしりました。イエス様を十字架刑にしたという満足感と自分たちの勝利に酔いしれていたのです。
 人からバカにされるとか、ののしられるということは人間にとってはとても辛いことです。いやなことです。私たちの人間関係の中で、夫婦や親子や兄弟同士が馬鹿にするとか、ののしりあうということは本当に不幸なことですが、現実にはあるのです。愛し合った夫婦が、ののしりあって分かれるということもあります。自分のおなかを痛めた子どもからののしられたり、その子をののしるという現実もあります。同じ兄弟で、ののしりあうこと、馬鹿にすることもあるのです。何とも辛いこと、いやなことではありませんか。
 そのような時、私たちの心をとても痛みます。辛くなります。ひどくなると病気にもなります。そのような人間の痛みを苦しみを神であるお方、イエス様は経験なさったのです。人々から馬鹿にされ、ののしられて心が痛む経験、悲しい思いをなさいました。だからこそ、イエス様は、私たちが経験する悲しみや苦しみ、痛みを理解し、私たちを慰めることがおできになるのです。
 ヘブライ人への手紙4章15節には、「この大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われたのです。」とあります。イエス様は、私たちの苦しみを理解できるお方なのです。
 イエス様は、強盗たちからも、周りにいる祭司長、律法学者、長老、その他のユダヤ人たちからけなされ、ののしられても黙っておられました。ルカによる福音書では、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)と祈られたのです。勿論、人からののしられることは苦しいことです。悲しいことです。しかし、もっとつらいことがあったのです。
 46節を共に読みましょう。「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。」 午後9時から午後3時まで6時間の間、苦しまれた後、イエス様は大声で叫ばれたのです。「なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。
 私たちも、イエス様と同じ心境になったことはないでしょうか。神様に見捨てられたと。
祈っても聞かれない。祈っても何も起こらない。事態が良くならない。悪くなる一方である。神様に見捨てられたと感じることを私たちは経験します。
 イエス様は、父なる神様に忠実に従われました。父と私はひとつである、と言われました。その父から見離された。見捨てられるという経験をなさったのです。神様からの何の助けもありませんでした。何も起こらなかったのです。私たちも同じ経験をします。守られなかった。助からなかった。でも、それで終わりではないのです。神様のみ業はここから始まるのです。

 三、死が復活への始まり
 イエス様は、十字架の上で息を引き取られました。死んだのです。何の助けもありませんでした。イエス様は死んだのです。万事休す。けれども、神様は働かれたのです。
 51節から53節までを共に読みましょう。「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」 イエス様は死にました。イエス様が死んだのでと言ってよいでしょう。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたのです。神様と人間の断絶に終わりが来ました。年に一度大祭司が犠牲の血をたずさえて、この幕を通り至聖所に入り、人々の罪の贖いをすることができたのです。けれども、イエス様の血が流されることにより、もう罪の贖いはイエス様の血で完結したのです。
 神殿の幕が避けた結果、イエス様の死で人間の罪の贖いが完成したので、地震が起こり、岩が裂け、墓が開き、先に死んだ聖なる者たちが生き返り、イエス様の復活の後にも、墓から出て多くの人々に現れたというのです。
 イエス様は死んだのです。神様の助けはどこからも起こりませんでした。けれども、神様の御計画の通り、神様のおこころであったイエス様が、全人類の罪の身代わりに死ぬ、つまり裁かれることにより、神様の新たなるみ業が行われたのです。その完成が来週のイースター、復活なのです。
 54節を共に読みましょう。「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。」
 百人隊長とローマ兵たちは、イエス様が死んだのにもかかわらず、神様の助けがないのにもかかわらず、神殿の幕が裂けたり、地震や、死人のよみがえりを通して、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。
 イエス様が十字架上で叫んだので、天の大軍が助けに来てイエス様を救ったので、「本当に、この人は神の子だった」と告白したのではないのです。イエス様の死そのものの意味はわからなかったでしょう。しかし、イエス様の死を通してなされたいろいろな出来事を通して、イエス様に対して神の子と告白したのです。百人隊長だけではなく、見張りをしていたローマ兵も同じ告白をしたのです。
 イエス様のこの地上での最大の目的は、十字架で全人類の罪の身代わりに死ぬことでした。それが神様のみこころでありました。イエス様の死を通して神様のみ業が起こされたのです。死というのは終わりではありません。死を通してみ業が起こされるのです。
 私たちは肉体を持つ者として、いつかは必ず死を迎える時が来ます。その死を通して大きなみ業が起こされるのです。クリスチャンでない家族に、友人に、クリスチャンの私の死が、神様のみ業の始まりになるのです。伊東みどり姉の死を通して、こうして伊東けんさんが毎週、礼拝に集うようになりました。死は神様のみ業を生み出すのです。死を通してでなければ生まれないもののあるのです。まさに復活は、死を経験しなければ起こらない出来事なのです。

 Ⅲ結論部
 木にかけられるものは呪われるというのが律法でした。イエス様は私たちの罪のために呪いとなられました。そして、御自分の命を投げ出して、血を流し、命を落として私たちに罪の赦しの恵みを与えて下さったのです。
 イエス様の十字架を担がされたシモンは、この出来事が自分の人生の最大の汚点でした。けれども、やがて彼もイエス様を信じてクリスチャンになりました。そして、自分の救い主であるイエス様の十字架を担いだことは、実は呪いではなくて恵みであることを知らされたのです。あのことさえなかったらという出来事が、自分にとって喜びに、祝福にかえられたのです。あのことさえなかったら、今の自分はないとさえ思えるようになったのです。
 私たちも今、何でこんな苦しい経験をしなければならないのか。どうして痛まなければならないのか。どうして助けがないのかという経験をしているかも知れません。神様の助けがないのではないのです。マイナスを通しても、何も起こらないということ通しても、死さえも恵みに祝福に、神様のみ業を行う始まりとして下さるのです。
 ですから今どのような経験をしていても大丈夫。イエス様は私たちに一番良いようにして下さいます。このイエス様に信頼してこの週も歩んで参りましょう。
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