賛美礼拝(復活後第三) 2012.4.29
「私に奇蹟を起こして下さい」 ヨハネ15:16-17
Ⅰ導入部
おはようございます。4月の第五主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝を守ることができますことを感謝致します。
先週は、韓国サンアンドン教会の申牧師先生、クォン長老、キム勧士、ミン勧士、チャン執事、キム執事をお迎えしました。姜先生が通訳者としてご奉仕して下さいました。この訪問のためにお祈り下さり、ご奉仕して下さいました方々に心から感謝致します。特に、ホームスティのために宿を提供し、労して下さいました姉妹方、食事の準備のために労して下さいました兄弟姉妹、共に横浜観光に同行して下さいました兄弟姉妹方に心から感謝致します。良き交わりが与えられました。特に、申先生の礼拝と火曜日の午前のメッセージは、今青葉台教会に最も必要なメッセージであったと確信しています。日韓の間には、最も近い国ではあっても、歴史的な痛みがあり、習慣も性格も随分違いがあります。けれども、日韓の関係に主が介入して、私たちはサンアンドン教会との交わりが導かれてまいりました。私たちは、この交わりを生かしてお互いの信仰と霊性の祝福のために、これからの若い魂の良き交わりが祝福されますように祈りつつ、主に期待して歩ませていただきたいと思います。けれども、そこには経済的な負担、人的な、労的な負担があることも確かです。けれども、その負担を神様は驚くべき祝福に変えて下さるのです。
先週の月曜日には、横浜観光に出かけましたが、あいにくの雨で、港の見える公園も、外人墓地もゆっくりできず、港の見えない公園、雨の外人墓地で、横浜と言えば、この2つの場所が観光の名所ですが、韓国の方々には印象的ではなかったのではないかと思います。横浜中華街での食事はゆっくりできたよかったと思います。火曜日の夕方、お台場に出かけ、とてもゆっくりと良い時を持ちました。姜先生が、「月曜日は雨であまり観光できなくて、かわいそうなので神様が良い時を与えて下さった。」と語っておられました。このお台場の観光がとても良きものになりました。感謝です。
8月には、青年たちを中心にサンアンドン教会を訪問する予定です。ぜひ、お祈りして下さり、主の導きがありますならば参加していただきたいと思います。
私たちは、今回経験した事柄を生かして次の交わりに期待したいと思います。
今日は、先週韓国訪問の前に教会成長の学びをさせていただきましたが、その時に与えられました聖書の個所、ヨハネによる福音書15章16節から17節を通して、「私に奇蹟を起こして下さい」という題で、お話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、愛し合うというみ言葉の実践
イエス様は、最後の晩餐の席で「互いに愛し合う」ことをご自分が弟子たちの足を洗うということを通して、弟子たちの心にしっかりと植えつけられました。性格も出身も立場違う12人の弟子たちは、イエス様が自分の足を洗うという出来事に驚きつつも、その意味をその時は理解することはできませんでした。けれども、師であるイエス様のしもべがする行動を弟子たちは忘れなかったのだと思います。
今回の韓国ナザレン、サンアンドン教会の一行を迎えて、多くの方々が愛の業をして下さいました。梶原修兄弟は、最初の日空港まで出迎えに車を出して下さり、一行を歓迎して下さり、最初の晩餐では給仕に徹して下さり、一人ひとりの名前を聞いて、次の日、日曜日には名札を準備して下さいました。月曜日の夜の食事会にも参加して下さいました。
また今回、ホームスティとして家を提供して下さいました和田姉、岩渕姉、熊手姉はいろいろと大変だったと思います。見えない御苦労、勿論、見えるご苦労もたくさんあったのだと思いますが、本当にしもべに徹して下さいました。感謝です。
また、日曜日の夜の壮年会の食事は前の日から準備して下さり、多くの人数の量で大変でしたが、これもまたしもべに徹して労して下さいました。女性会では、月曜日の夜と火曜日の昼と、心のこもった食事を準備して下さり、月曜日の夜は、観光があまりできなくてがっかりの所でしたが、とてもきれいで配慮に満ちた準備で、日本的な細やかな配慮で、みなさん本当に喜んで下さいました。またまた、しもべに徹して下さいました。韓国の方々は、そのような一つひとつの事柄を忘れることはできないでしょう。感謝、感謝の連続でありました。イエス様がご命令された「互いに愛し合う」ことを今回は実践されたのでした。韓国の方々がこられる前に、私の説明足や準備不足のために、特に女性会には迷惑ご苦労をおかけしていたので、女性会の方々がどのようなことをして下さるのか、あまり期待できないというか、心配しておりましたが、何の、何の素晴らしい、とても細やかに、配慮に満ちた準備とチームワークで、素晴らしいおもてなしができたと感じています。やっぱり、青葉台教会はすごい教会、いや、素晴らしい、すごい信徒の方々がおられるのだと強く感じさせられました。
申先生は、2パーセント足りない時というドリンクの例話を離されましたが、不足のない100パーセント以上のおもてなしができたように思います。
16節には、選びの事が書かれていますが、青葉台教会の方々は、本当に神様に、イエス様に選ばれて立てられていることがよく分かりました。本当に感謝です。
二、イエス様が私を選んだ
16節を共に読みましょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
今日、私たちはここに集い礼拝をささげています。お一人おひとりが、自分の意志で、自分で選んで、青葉台教会の4月29日の礼拝に出席したと考えておられることでしょう。けれども、イエス様が選んでここに導かれているのです。私たちはイエス様が私の罪の身代わりに十字架について死んで下さったことを自分の意志で信じ、自分から選んで洗礼を受けたと感じておられるでしょう。でも聖書は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と語るのです。私が先ではなく、イエス様が先であるということです。ここにいる全ての人は、クリスチャンであるかどうかに関係なく、イエス様に選ばれているのです。その選ばれた理由は、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ためなのです。実を結ぶことと実が残ることとあります。私たちが実を結ぶことは、イエス様の願いであり、私たちが選ばれた理由です。ここにイエス様の大いなる期待があります。
イエス様は、最後の晩餐で弟子たちに、彼らを選んだ理由は、弟子たちが行って実を結ぶことだと言われました。この後、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げます。ペトロはイエス様との関係を完全に否定します。そして、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて死んでしまうのです。実を結ぶ、実が残るというイエス様の言葉とは正反対の出来事が次から次へと起こるのです。
けれども、イエス様が死んで三日目に驚くべき出来事が起こります。イエス様の復活です。弟子たちは、復活のイエス様に出会い喜びます。そして、イスラエルの国の再興を願いますが、彼らには力がありませんでした。エルサレムで聖霊を待ち望む必要があったのです。やがて、弟子たちは聖霊を受けて、イエス様のお言葉通りに、「出かけて行って実を結び、その実が残る」者となるのです。
私たちも、弟子たちと同じようにイエス様に選ばれ、立てられた者です。けれども、弟子たちと同じように、実を結ぶにはほど遠い所にいるかも知れません。クリスチャンとして実を結ぶ生活ではなく、罪の生活、不信仰な生活、力のない惰性の生活、喜びよりも苦しみと悲しみ、痛みの多い生活と実が結ばれていないと感じる生活かも知れません。でも、大丈夫。弟子たちもそうでありましたが、実を結び、実を残す者とされたのです。彼らには何の力もありませんでした。復活の主が彼らに近づき、イエス様の言葉を信じて祈り待ち望むところに、聖霊が与えられたのです。
私たちにも同じイエス様の言葉が与えられているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残る」とイエス様が語っておられるのですから、大丈夫。必ず成就します。イエス様の言葉を信頼して信仰生活を励みたいと思います。
三、イエス様の期待はあなたにある
聖書は続けて、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」とあります。神様の選びには、祈りにつながるものがあるとうことだと思います。 7節には、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」というみ言葉があります。私たちがイエス様としっかりとつながっているならば、望むものがかなえられる。「父に願うものは何でも与えられる」という16節の言葉と同じだと思います。
聖書は、イエス様としっかりとつながること、つまり聖書の言葉により、イエス様の言葉、聖書の言葉に触れ、その言葉を信じて歩む時、私たちはイエス様と神様とひとつになるのだと思います。イエス様がわたしがあなたがたを選んだ。それはあなたがたが行って実を結ぶ、ことだと言われたお言葉を信じて歩む。自分の周りに見えるものが、全てマイナスに見えても、状況が実を結ぶこととは正反対でも、語られた言葉、与えられた言葉を信じて歩む。それが信仰だと思います。み言葉を握りしめ、み言葉に信頼するとは、神様をイエス様を信頼することに他なりません。イエス様は父なる神様の語られる言葉に忠実に従われました。だからこそ、イエス様は、「私と父とはひとつである」と語られたのです。私たちも、その信仰が神様とひとつに、イエス様につながることになるのだと思います。また、イエス様とつながる、ひとつになるとは祈りを通して与えられるものだと思います。イエス様が父なる神様に信頼して祈られたように、私たちも神様に祈るのです。
先週の礼拝メッセージで、申先生は聖霊に満たされることのすばらしさを語って下さいました。聖霊に導かれることの大切さを語って下さいました。私たちのうちにおられる聖霊は、私たちを聖書のみ言葉に触れることに導きます。私たちを祈りに導きます。そして、私たちを神様とイエス様とひとつにして下さるのです。その結果、実を結ぶ者、実を残す者とされるのです。
私たちは、そして青葉台教会はイエス様に大いに期待されているのです。実を結ぶことにおいて、実を残すことにおいて、そして祈りを通して神様に答えられる経験をするのです。今日の説教題は、「私に奇蹟を起こして下さい」としました。このみ言葉に触れた時、そのように感じたのです。神様は私を通して、あなたを通して、青葉台教会を通して、神様の大いなる業を行われるのです。
私たちは、神様が一人ひとりに大いに期待しておられることを自覚して、聖書の言葉に触れ、祈りを通して神様とひとつとなり、イエス様につながって、祈りが聞かれ、主のみ業が進んでいくみ業を目撃する者でありたいと思うのです。
Ⅲ結論部
今日は、日本国際ギデオン教会の兄弟がおいでになり第一礼拝と第二礼拝でお証しをして下さいます。現在、大山昭夫兄が全国の会長をされ、日夜東奔西走されています。青葉台教会は多くの方々が会員となって宣教のために労しておられます。ギデオンの兄弟姉妹は、聖書を配布するという宣教の手段を用いて福音を示しておられます。聖書を配ると言っても大変なことです。朝早くから冬も夏も、寒さや暑さの戦いののみならず、聖書を否定する学生たちの態度に一喜一憂されていることでしょう。相手が聖書を受け取っても受け取らなくても、聖書を配布し続けておられるのです。すごいことです。頭が下がります。だからこそ、毎日ギデオンの働きのために祈るのです。聖書配布の祝福を祈るのです。聖書の言葉には人を救い、生かす力があるから祈るのです。ある学校では多くの聖書を受け取ることもあるでしょう。けれども、ある学校では、近隣の方々のクレ-ムや校長の意向で聖書配布そのものをやめさせられることもあるし、聖書を配布してもほとんど受け取らないということもあるのでしょう。だいたい、どの学校が聖書を受け取らないか経験でわかるでしょう。けれども、その学校にも聖書を配布するのです。わずかであっても、聖書の言葉には力があることを自分が経験しているから、聖書の言葉、神様の言葉に期待して配布するのです。聖書の言葉に信頼し、祈らなければできない働きだと思うのです。
私たちは、この週も聖書の言葉に信頼し、祈りを通して神様の偉大なるみ業を体験したいと思うのです。私を通して神様の偉大なるみ業、奇蹟が起るのです。イエス様は今日も語ります。「大丈夫。私が共にいる。あなたのすることを全て祝福する」と。
「私に奇蹟を起こして下さい」 ヨハネ15:16-17
Ⅰ導入部
おはようございます。4月の第五主日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝を守ることができますことを感謝致します。
先週は、韓国サンアンドン教会の申牧師先生、クォン長老、キム勧士、ミン勧士、チャン執事、キム執事をお迎えしました。姜先生が通訳者としてご奉仕して下さいました。この訪問のためにお祈り下さり、ご奉仕して下さいました方々に心から感謝致します。特に、ホームスティのために宿を提供し、労して下さいました姉妹方、食事の準備のために労して下さいました兄弟姉妹、共に横浜観光に同行して下さいました兄弟姉妹方に心から感謝致します。良き交わりが与えられました。特に、申先生の礼拝と火曜日の午前のメッセージは、今青葉台教会に最も必要なメッセージであったと確信しています。日韓の間には、最も近い国ではあっても、歴史的な痛みがあり、習慣も性格も随分違いがあります。けれども、日韓の関係に主が介入して、私たちはサンアンドン教会との交わりが導かれてまいりました。私たちは、この交わりを生かしてお互いの信仰と霊性の祝福のために、これからの若い魂の良き交わりが祝福されますように祈りつつ、主に期待して歩ませていただきたいと思います。けれども、そこには経済的な負担、人的な、労的な負担があることも確かです。けれども、その負担を神様は驚くべき祝福に変えて下さるのです。
先週の月曜日には、横浜観光に出かけましたが、あいにくの雨で、港の見える公園も、外人墓地もゆっくりできず、港の見えない公園、雨の外人墓地で、横浜と言えば、この2つの場所が観光の名所ですが、韓国の方々には印象的ではなかったのではないかと思います。横浜中華街での食事はゆっくりできたよかったと思います。火曜日の夕方、お台場に出かけ、とてもゆっくりと良い時を持ちました。姜先生が、「月曜日は雨であまり観光できなくて、かわいそうなので神様が良い時を与えて下さった。」と語っておられました。このお台場の観光がとても良きものになりました。感謝です。
8月には、青年たちを中心にサンアンドン教会を訪問する予定です。ぜひ、お祈りして下さり、主の導きがありますならば参加していただきたいと思います。
私たちは、今回経験した事柄を生かして次の交わりに期待したいと思います。
今日は、先週韓国訪問の前に教会成長の学びをさせていただきましたが、その時に与えられました聖書の個所、ヨハネによる福音書15章16節から17節を通して、「私に奇蹟を起こして下さい」という題で、お話ししたいと思います。
Ⅱ本論部
一、愛し合うというみ言葉の実践
イエス様は、最後の晩餐の席で「互いに愛し合う」ことをご自分が弟子たちの足を洗うということを通して、弟子たちの心にしっかりと植えつけられました。性格も出身も立場違う12人の弟子たちは、イエス様が自分の足を洗うという出来事に驚きつつも、その意味をその時は理解することはできませんでした。けれども、師であるイエス様のしもべがする行動を弟子たちは忘れなかったのだと思います。
今回の韓国ナザレン、サンアンドン教会の一行を迎えて、多くの方々が愛の業をして下さいました。梶原修兄弟は、最初の日空港まで出迎えに車を出して下さり、一行を歓迎して下さり、最初の晩餐では給仕に徹して下さり、一人ひとりの名前を聞いて、次の日、日曜日には名札を準備して下さいました。月曜日の夜の食事会にも参加して下さいました。
また今回、ホームスティとして家を提供して下さいました和田姉、岩渕姉、熊手姉はいろいろと大変だったと思います。見えない御苦労、勿論、見えるご苦労もたくさんあったのだと思いますが、本当にしもべに徹して下さいました。感謝です。
また、日曜日の夜の壮年会の食事は前の日から準備して下さり、多くの人数の量で大変でしたが、これもまたしもべに徹して労して下さいました。女性会では、月曜日の夜と火曜日の昼と、心のこもった食事を準備して下さり、月曜日の夜は、観光があまりできなくてがっかりの所でしたが、とてもきれいで配慮に満ちた準備で、日本的な細やかな配慮で、みなさん本当に喜んで下さいました。またまた、しもべに徹して下さいました。韓国の方々は、そのような一つひとつの事柄を忘れることはできないでしょう。感謝、感謝の連続でありました。イエス様がご命令された「互いに愛し合う」ことを今回は実践されたのでした。韓国の方々がこられる前に、私の説明足や準備不足のために、特に女性会には迷惑ご苦労をおかけしていたので、女性会の方々がどのようなことをして下さるのか、あまり期待できないというか、心配しておりましたが、何の、何の素晴らしい、とても細やかに、配慮に満ちた準備とチームワークで、素晴らしいおもてなしができたと感じています。やっぱり、青葉台教会はすごい教会、いや、素晴らしい、すごい信徒の方々がおられるのだと強く感じさせられました。
申先生は、2パーセント足りない時というドリンクの例話を離されましたが、不足のない100パーセント以上のおもてなしができたように思います。
16節には、選びの事が書かれていますが、青葉台教会の方々は、本当に神様に、イエス様に選ばれて立てられていることがよく分かりました。本当に感謝です。
二、イエス様が私を選んだ
16節を共に読みましょう。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」
今日、私たちはここに集い礼拝をささげています。お一人おひとりが、自分の意志で、自分で選んで、青葉台教会の4月29日の礼拝に出席したと考えておられることでしょう。けれども、イエス様が選んでここに導かれているのです。私たちはイエス様が私の罪の身代わりに十字架について死んで下さったことを自分の意志で信じ、自分から選んで洗礼を受けたと感じておられるでしょう。でも聖書は、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と語るのです。私が先ではなく、イエス様が先であるということです。ここにいる全ての人は、クリスチャンであるかどうかに関係なく、イエス様に選ばれているのです。その選ばれた理由は、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ためなのです。実を結ぶことと実が残ることとあります。私たちが実を結ぶことは、イエス様の願いであり、私たちが選ばれた理由です。ここにイエス様の大いなる期待があります。
イエス様は、最後の晩餐で弟子たちに、彼らを選んだ理由は、弟子たちが行って実を結ぶことだと言われました。この後、弟子たちはイエス様を見捨てて逃げます。ペトロはイエス様との関係を完全に否定します。そして、イエス様は十字架に磔(はりつけ)にされて死んでしまうのです。実を結ぶ、実が残るというイエス様の言葉とは正反対の出来事が次から次へと起こるのです。
けれども、イエス様が死んで三日目に驚くべき出来事が起こります。イエス様の復活です。弟子たちは、復活のイエス様に出会い喜びます。そして、イスラエルの国の再興を願いますが、彼らには力がありませんでした。エルサレムで聖霊を待ち望む必要があったのです。やがて、弟子たちは聖霊を受けて、イエス様のお言葉通りに、「出かけて行って実を結び、その実が残る」者となるのです。
私たちも、弟子たちと同じようにイエス様に選ばれ、立てられた者です。けれども、弟子たちと同じように、実を結ぶにはほど遠い所にいるかも知れません。クリスチャンとして実を結ぶ生活ではなく、罪の生活、不信仰な生活、力のない惰性の生活、喜びよりも苦しみと悲しみ、痛みの多い生活と実が結ばれていないと感じる生活かも知れません。でも、大丈夫。弟子たちもそうでありましたが、実を結び、実を残す者とされたのです。彼らには何の力もありませんでした。復活の主が彼らに近づき、イエス様の言葉を信じて祈り待ち望むところに、聖霊が与えられたのです。
私たちにも同じイエス様の言葉が与えられているのです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残る」とイエス様が語っておられるのですから、大丈夫。必ず成就します。イエス様の言葉を信頼して信仰生活を励みたいと思います。
三、イエス様の期待はあなたにある
聖書は続けて、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」とあります。神様の選びには、祈りにつながるものがあるとうことだと思います。 7節には、「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」というみ言葉があります。私たちがイエス様としっかりとつながっているならば、望むものがかなえられる。「父に願うものは何でも与えられる」という16節の言葉と同じだと思います。
聖書は、イエス様としっかりとつながること、つまり聖書の言葉により、イエス様の言葉、聖書の言葉に触れ、その言葉を信じて歩む時、私たちはイエス様と神様とひとつになるのだと思います。イエス様がわたしがあなたがたを選んだ。それはあなたがたが行って実を結ぶ、ことだと言われたお言葉を信じて歩む。自分の周りに見えるものが、全てマイナスに見えても、状況が実を結ぶこととは正反対でも、語られた言葉、与えられた言葉を信じて歩む。それが信仰だと思います。み言葉を握りしめ、み言葉に信頼するとは、神様をイエス様を信頼することに他なりません。イエス様は父なる神様の語られる言葉に忠実に従われました。だからこそ、イエス様は、「私と父とはひとつである」と語られたのです。私たちも、その信仰が神様とひとつに、イエス様につながることになるのだと思います。また、イエス様とつながる、ひとつになるとは祈りを通して与えられるものだと思います。イエス様が父なる神様に信頼して祈られたように、私たちも神様に祈るのです。
先週の礼拝メッセージで、申先生は聖霊に満たされることのすばらしさを語って下さいました。聖霊に導かれることの大切さを語って下さいました。私たちのうちにおられる聖霊は、私たちを聖書のみ言葉に触れることに導きます。私たちを祈りに導きます。そして、私たちを神様とイエス様とひとつにして下さるのです。その結果、実を結ぶ者、実を残す者とされるのです。
私たちは、そして青葉台教会はイエス様に大いに期待されているのです。実を結ぶことにおいて、実を残すことにおいて、そして祈りを通して神様に答えられる経験をするのです。今日の説教題は、「私に奇蹟を起こして下さい」としました。このみ言葉に触れた時、そのように感じたのです。神様は私を通して、あなたを通して、青葉台教会を通して、神様の大いなる業を行われるのです。
私たちは、神様が一人ひとりに大いに期待しておられることを自覚して、聖書の言葉に触れ、祈りを通して神様とひとつとなり、イエス様につながって、祈りが聞かれ、主のみ業が進んでいくみ業を目撃する者でありたいと思うのです。
Ⅲ結論部
今日は、日本国際ギデオン教会の兄弟がおいでになり第一礼拝と第二礼拝でお証しをして下さいます。現在、大山昭夫兄が全国の会長をされ、日夜東奔西走されています。青葉台教会は多くの方々が会員となって宣教のために労しておられます。ギデオンの兄弟姉妹は、聖書を配布するという宣教の手段を用いて福音を示しておられます。聖書を配ると言っても大変なことです。朝早くから冬も夏も、寒さや暑さの戦いののみならず、聖書を否定する学生たちの態度に一喜一憂されていることでしょう。相手が聖書を受け取っても受け取らなくても、聖書を配布し続けておられるのです。すごいことです。頭が下がります。だからこそ、毎日ギデオンの働きのために祈るのです。聖書配布の祝福を祈るのです。聖書の言葉には人を救い、生かす力があるから祈るのです。ある学校では多くの聖書を受け取ることもあるでしょう。けれども、ある学校では、近隣の方々のクレ-ムや校長の意向で聖書配布そのものをやめさせられることもあるし、聖書を配布してもほとんど受け取らないということもあるのでしょう。だいたい、どの学校が聖書を受け取らないか経験でわかるでしょう。けれども、その学校にも聖書を配布するのです。わずかであっても、聖書の言葉には力があることを自分が経験しているから、聖書の言葉、神様の言葉に期待して配布するのです。聖書の言葉に信頼し、祈らなければできない働きだと思うのです。
私たちは、この週も聖書の言葉に信頼し、祈りを通して神様の偉大なるみ業を体験したいと思うのです。私を通して神様の偉大なるみ業、奇蹟が起るのです。イエス様は今日も語ります。「大丈夫。私が共にいる。あなたのすることを全て祝福する」と。