江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年8月27日)

2023-08-27 13:12:44 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第12主日)    2023.8.27

廊下は走ってはいけません』   マタイ15:1~20   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第四の日曜日を迎えました。私たちの救い主であるイエス様を共に賛美、礼拝できますことを心から感謝致します。

私たちは毎日、ルール(規則)の中で生きています。青信号なら横断歩道を渡り、赤信号なら止まれです。それを守ることによって安全に生きるように、世の中には様々なルール(規則)があります。記録は破るためにあるではありませんが、ルール(規則)は破るためにある、と言ったかどうかわかりませんが、ルールを破る人も多くいるでしょう。

ルール(規則)は、何か窮屈で、縛られるというイメージがあります。学校の規則、規則でいやだった。窮屈だった、という方々もいるでしょう。

今日は、マタイによる福音書15章1節から20節を通して、「廊下は走ってははいけません」という題でお話しします。「廊下は走ってはいけません」という言葉は多くの方々がご存知でしょう。学校では、走らないことがルール(規則)として徹底されています。

また、「食事の前には、きれいに手を洗いましょう。」は、学校でも家庭でもよく言われることです。聖書こそ、ルール(規則)が徹底されています。キリスト者である私たちも、規則、律法、神様の言葉によって歩んでいるとも言えます。

Ⅱ本論部

一、手を洗いましょう

15章1節と2節には、「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」」とあります。「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て」とあります。本格的に、エルサレムにいる宗教指導者が、イエス様について調べる必要を感じたのでしょう。先週の5つのパンと2匹の魚で1万人以上の人々を満腹させたという情報は、エルサレムの宗教指導者たちにも報告されていたことでしょう。奇跡の食事で、人々が手を洗って食べたかどうか、ということもとても気になっていたのでしょう。もし、手を洗わないで食べていたら、大問題なのです。ですから、釘を刺しておいていたほうがいいと、エルサレムから、ファリサイ派の人々と律法学者たちを、イエス様の元に送り込んだのです。

案の定でしょうか。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」とイエス様を責めました。「食事の前に手を洗う」ことは、昔の人の言い伝えでした。律法の中にはありません。当時は、律法つまり神の言葉は、成文律法と言われ、言い伝えは口伝律法と言われ、二つのものがありました。律法は、シナイ山で、モーセを通してユダヤ人に与えられたものでした。バビロン捕囚後に、エルサレムに帰還後、学者エズラが聖書の各書を集め、書き写し、まとめ、聖書の解釈が加えられ、その後も解釈が蓄積して、年数を得るごとに、成文律法と口伝律法の間の権威の差がなくなり、やがて律法、聖書の言葉よりも聖書解釈、つまり言い伝えの方が、権威を持つようになったのです。成文律法以上に口伝律法、言い伝えが尊ばれるようになったのです。

食事は神様との交わりの場であると共に、人間同士の交わりの場でした。特別の席である食事の席は、信仰的にも清められた時でなければなりませんでした。そのような食事の席で、食物に触れる手が洗われていない、つまり汚れているということは許されないことでした。そのような汚れをどのように清めるのか、ということがいつも問題になりました。手を洗わないで食事をするというのは、不衛生というよりも、自分を清めることなく、神様の前に出るという神様への冒涜にまで至る重大事件だったのです。

ここには、イエス様が手を洗ったかどうかは記されていませんが、おそらくイエス様は手を洗っていないでしょう。もし、イエス様が手を洗っていたら、弟子たちも洗っていたはずだからです。イエス様と弟子たちが、手を洗わずに、食事をしたということは、この世の汚れや罪を洗い落としてから、その手で食事をするということをしなかったということなのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、もし手を洗わなければ、神様から離れており、呪われると主張しました。手を洗うということが、自分たちの救いに関わるところまで重要視されていたということなのです。言い伝えを最終的な権威としたのでした。

二、聖書、律法に帰れ

するとイエス様は3節で、「そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」と逆に問われたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法を大切にして厳守してきた人々ではありました。ユダヤ人が旧約聖書の教え、律法を守るために、彼らの生活の全般において、何をどうしたらよいのかを考えて、それを口伝律法、言い伝えとして伝えてきたのです。「自分の言い伝え」とは、2節の「昔の人の言い伝え」のことですが、昔話や伝説といったものではなく、これまでのユダヤ人の先祖が生活の全般において、神様に従うために、考え、伝えられてきた大切な言葉でもありました。その中で、「手を洗うこと」や「手の洗い方」も決められて来たのです。手を洗うという行為は、もともと礼拝する者が、神様の前に立つための儀式として「手を洗う」という行為があり、神様の前に立つ祭司に適用されていた決まりでしたが、時代が進む中で、食事自体がひとつの礼拝の行為であると考えられるようになり、イエス様の時代には、一般の人々も食事の前には「手を洗う」ことが広まっていたのです。また、「手を洗う」という行為は、ユダヤ人にとっては、宗教的な聖め、聖さを求めた行為だったのです。

私たちはコロナの感染防止に、手を洗う、消毒するということを徹底してきたように思います。手は一番多くの物に触れるからでしょう。この手をどのようにしていくのか、というのは、人間を「清める」ためには、重要な事とされ、ユダヤ人は手を洗うこと、洗い方、洗う水の量までも決められていたのです。

そのような言い伝えを厳粛に守って来た律法学者やファリサイ派の人々に、イエス様は、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」と問われたのです。そして4節から6節の例を上げるのです。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」とあります。

十戒には、「あなたの父母を敬え。」(出エジプト記20:12)とあり、律法には、「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記21:17)とあります。神様は聖書を通して、律法を通して、父と母を大切にするようにと教えているのです。父と母をちゃんと扶養することを教えているのです。しかし、口伝律法、言い伝えには、父と母を扶養するものを「神様にささげます」と言えば、父と母には、何もしなくてよい、と教えたのです。マルコによる福音書では、「コルバン」と言えば、いいというのです。当時のユダヤ教の理解では、父と母を敬い、大切にすることは、大事な事だけれども、神様へのささげ物の方が大事だと考えました。「コルバン」、神にささげると一旦口にしたら、親も口をはさむことはできないのです。父と母を敬えというという神様の教えが、当時の言い伝えによって、神様の名を借りて無効にされていたのです。8節と9節のイザヤ書の言葉のように、つまり、口先では神様を信じ、敬っていても、神様の大切な戒めを破っていたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、神様の言葉を無にしていたのです。つまり、彼らは神様ではなく、神様の教えではなく、人間の教えを権威としたのでした。イエス様の指摘はそこにこそあったのです。イエス様の戦いは、ユダヤ教との戦いであり、聖書の正しい教えに立ち帰ること、「律法、聖書に帰れ」とユダヤ人に教えられたのでした。

三、心に問題がる

10節を見ると、「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。」」と言われました。いつもは群衆の方からイエス様の所に来ることが多いのですが、この時イエス様はわざわざ「群衆を呼び寄せて」とイエス様の強い思いが、特別に、聞かなければならない、知らなければならない真理を教えようとされたのです。

11節には、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」とあります。問題になっていたのは汚れの問題でした。ユダヤ人の言い伝えでは、「手を洗わないで食べると汚れる」という宗教的な汚れが問題でした。汚れてはいけないという恐れから、様々な細かな規則をつけ加えてきたのでした。清くなければ神様に裁かれる、と教えられてきたのです。彼らの宗教の信仰の基本は、神様を畏れ、神様に裁かれないための信仰と言っていいのでしょう。律法はサブテキストに過ぎなかったのです。

イエス様は、ここで人は食べ物によって汚れを受けて、神様から裁かれることはないときっぱりと言われたのです。律法には、食べてはいけないものの規定は確かにあります。しかしそれは、衛生面の配慮があったのです。豚を食べないのは、細菌があるので食べることを禁止するために「汚れる」と表現したのです。食べてはいけないものを食べたからと言って、神様の裁きを受けるのではない。食物規定は、人間の健康を守るために与えられた神様の規定でした。死体や皮膚病の人に触れないことは、伝染病から守るためだったのでしょう。そのため「汚れる」と表現されたのは、神様がその人を嫌って裁かれるということではないのです。あくまでも、人を守るための規定だったのです。

イエス様は、かえって「口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われました。

17節から20節には、「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」」とあります。口から出るもの、つまり言葉は心から出て来るのです。「悪意、殺意、」という思いの段階、それは人を憎み、妬みの思いが蓄積されて殺意につながり、心の中の罪はまず私たちの心の思いに現れてくるのです。「姦淫、みだらな行い、盗み、」という、思いが具体的な行為となり罪を生むのです。思いは思いだけでは終わらないのです。具体的な行為につながるのです。「偽証、悪口」この2つは、言葉が問題となっています。「偽証」とは嘘をつくこと、言葉において偽りを語り、それによって人を陥れ、あるいは、自分の利益を得ようとするのです。「悪口」は、悪口(わるぐち)、本人のいない所でその人の悪い噂を語ることで、人の心を傷つけ、踏みにじるような言葉を語ることの全てを指しているのです。心の中に湧き上がる汚れ、罪は口から言葉となってほとばしり出るのです。私たちは、言葉においてこそ罪を犯してしまう、汚れた者となってしまうのです。

私たちは、知らず知らずのうちに悪い言葉を発します。幼い子どもに、悪い言葉を教えなくても話すようになります。「どこでそんな言葉を覚えたの」と両親は驚くことがあります。食べ物が原因ではなく、心にこそ問題があるのです。律法が、「汚れる」と宣言したのは、全ての人が罪人であることを知るためであり、旧約時代は動物の犠牲の血を流すことによって「清い」と宣言されたのです。言葉においても、行動においても罪を犯す私たちを神様は愛して下さり、私たちの血を流すのではなく、十字架の上でイエス様が身代わりに裁かれ、尊い血を流すことにより、尊い命をささげて下さること、死んで下さることによって私たちの全ての罪を赦して下さり、イエス様が死んで葬られよみがえられることにより、私たちの魂を生かし、聖め、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。私たちはそのことを信じたいのです。

Ⅲ結論部

宗教指導者たちは、聖い生活を願っていたので、異邦人たちとのかかわりを断つことを「手を洗う」ことを通して現わしていたようにも思うのです。きよめ、清さを求めるナザレン教会ですが、清さを求める余り、神様の愛を見失わないようにしたいと思うのです。

榎本保郎先生の新約聖書一日一章には、次のようなことが記されていました。「言い伝えそのものが目的になってしまうと、その奴隷になってしまうのである。そういうことはキリスト教の中にもあると思う。たとえば、信者は酒やタバコを飲んだりしないということが一つのしきたりのようになっている。酒を飲み、タバコを吸う人は、あの人はもう信仰はないのだと教会の信頼を失ったりすることがあると思う。しかし酒やタバコは本来信仰とはあまり関係がないものである。信仰とは神を信じることである。私は禁酒禁煙を勧める。できたらやめた方が良いと思う。しかし、それをやめなければ天国に入れないというものではない。神から愛された者として証ししていくため、神からいただいた自分の体を大切に保っていくために、そのことがプラスかマイナスかを考えて言われたことであって、禁酒や禁煙が目的になっては間違っていると私は思う。」 

私たちのナザレン教団にも「マニュアル」という規則がありますが、世界総会では、その会議の多くの時間をマニュアルの改定等に使います。聖書の言葉以上に、マニュアルを守ることが大事になると問題になるのです。ナザレン教団でも他の教団でも、各教会において歴史があり、大切にして来たものがあるのでしょう。それが教会の誇りになってしまうことさえ現実にあるのです。神様の言葉、聖書の言葉に養われるよりも、聖霊の導きに従うよりも、教団や教会の言い伝え、しきたりが中心となり、神様の愛が遠い存在になっていることがあるのかも知れません。

私たちが、日本の中で先にキリスト者とされていることは、本当に恵みであり、感謝なことです。私たち青葉台教会の歩みが、一人ひとりの信仰の歩みが、聖書、神様のみ言葉や聖霊の導きを差し置いて独り歩きしているなら、イエス様が示したように、マルチン・ルターが示したように、「聖書、神様の言葉に帰る」べきなのかも知れません。

私たちはこの週も、イエス様が、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われたように、聖書の言葉、神様の言葉に触れて、聖霊の導きの中で、信仰生活を歩ませていただきたいと思うのです。たとえ、私たちが信仰から道を外してしまったとしても、イエス様は、私たちを見捨てることなく、いつも寄り添い、支え励まして下さるのです。イエスの愛をいっぱいただいてこの週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年8月20日)

2023-08-20 12:13:10 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第11主日)    2023.8.20

肝っ玉イエス』   マタイ14:13~21   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第三日曜日を迎えました。お盆休みはゆっくりとお休みになられたでしょうか。台風の影響で、疲れた、散々だったということもあるのでしょう。それらの中にも神様のお守りと導きがあったことを思います。

今日は、マタイによる福音書14章13節から21節を通して、「肝っ玉イエス」という題でお話し致します。

Ⅱ本論部

一、イエス様の心弟子知らず

13節には、「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。」とあります。

「これを聞くと」の「これ」とは、この前の記事のバプテスマのヨハネが、ヘロデに首を切られて死んだという報告を受けたということです。バプテスマのヨハネは、イエス様よりも半年先に生まれ、イエス様の道備えの存在として遣わされました。イエス様はこのヨハネから洗礼を受けられました。イエス様はヨハネの事を「はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。」(マタイ11:11)と言われました。バプテスマのヨハネの死は、イエス様にとっては大きな痛みであったのです。そして、ヨハネの死を知って、人を避けるように、ただ一人で父なる神様との交わりの中に、御自身の身を置くことを願われました。イエス様は、ヨハネの死を誰よりも悲しみ、そのことを祈る必要があったのです。また、ヨハネの死を通して、御自分の十字架の死に向かって生きるということを受け止めておられたのではないでしょうか。ヨハネの死は、またイエス様の十字架の死を指し示していたのでしょう。

イエス様は、「ひとり人里離れた所に退かれた。」とあります。「人里離れた所」とは、荒野を意味し、かつてイスラエルの民が40年間の荒野の中を旅したことを思い起こさせる表現のようです。イエス様は、一人になりたかったのですが、群衆はイエス様の後について行ったのです。一人にはさせてはもらえなかったのです。詳訳聖書には、「陸路を歩いて彼の後に従った。」とあり、舟で移動するイエス様の後を群衆は陸路でついて行きました。

14節には、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」とあります。バプテスマのヨハネの死を知り、一人になり祈りたかった。その願いが群衆のせいでできなくなった。けれども、イエス様は、「大勢の群衆を見て深く憐れみ」とあるように、群衆一人ひとりを憐れんで下さったのです。この「憐れみ」という言葉は、「はらわたが震える」という深い感情を表す言葉です。イエス様は、御自分の内臓がねじれるような痛みを持つほどに、群衆の痛みや苦しみに同情され、苦しむ者と御自分をひとつとされ、群衆の痛みと苦しみを御自分の痛みを苦しみとされたのでした。そして、

「その中の病人をいやされた。」のです。

15節には、「夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」」とあります。弟子たちの言葉は、疲れているイエス様への心配と群衆を思いやっての言葉であったのでしょうが、この言葉は、現場のイエス様が群衆に話している、つまり集会に対して放棄している姿でもありました。「夕暮れ」になった。つまり、群衆への対応が気になりました。弟子たちの考えは、群衆を早く解散させて欲しいということ。人里離れた場所で、夕暮れで、食べ物を用意する確率は非常に低いこと。群衆がお腹を空かせて混乱し、暴動が起こらないかと心配したのかも知れません。正直な弟子たちの思いは、群衆を厄介払いしたいということだったのでしょう。イエス様は、群衆を見て憐れまれたのに、弟子たちの思いは違いました。イエス様が一人になりたかったように、弟子たちも休みたかったのかも知れません。弟子たちが、自分たちの事だけを考えるならば、群衆は邪魔でしかなかったのです。私たちはどうでしょうか。

二あなたにあるものは何か

弟子たちの「群衆を解散させてください。」という言葉にイエス様は16節で、「イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」」とあります。この言葉は、弟子たちにチャレンジを与える言葉だと思います。男が5千人ですから、女性子どもを合わせて1万人以上いる群衆にどうやったら食べ物を与えることができるのでしょう。「イエス様、現実を見ていますか。」と弟子たちは問いたい思いでしょう。

イエス様は、1万人以上の人々だという現実だけを見て判断するのではなく、たとえ不可能だと思えても、何も考えられないという状況であっても、問題に立ち向かっていくのだというチャレンジなのでしょう。イエス様は弟子たちに、最後まで群衆の世話をするように、面倒を見るようにと言われるのです。弟子たちに責任を自覚させる言葉であったのでしょう。この弟子たちに対するイエス様のチャレンジは、私たち一人ひとりに今日与えられているチャレンジでもあるのだと思うのです。

あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」とイエス様に言われた弟子たちは、17節では、「弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」」とあります。

弟子たちは、1万人以上の群衆の前では、何もできない。ないないとそこに目を留めていて、ここにあるものに気づいていないのです。しかし、それは1万人以上の群衆の前には、あまり意味がないし、何の役にも立たないということでした。「しかありません。」という言葉は、弟子たちの思いを表しています。「ここにはパン五つと魚二匹があります」とは言いませんでした。「しかありません。」とは、「これだけです。これで全部です。」ということです。弟子たちの何気なく出る言葉に、その人の考え方や生き方が出るものなのでしょう。「これしかない」という言葉、考え方には、感謝の心は生まれてはこないのです。そこには、つぶやきや不満だけが出てくるのでしょう。つぶやきや不満は、「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」というイエス様の言葉に対する弟子たちの姿なのです。

18節を見ると、「イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、」とあります。

イエス様は、あなたがたの不満やつぶやきの源である5つのパンと2匹の魚をここに持って来なさい、と言われたのです。何もないのではないのです。5つのパンと2匹の魚がここにあるのです。マルコによる福音書6章38節には、「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」とあるように、弟子たちは、自分たちの手元にあるものを見なければなりませんでした。それがたとえ、わずかなものでもいい。不可能だと思えるものでもいい。何にもならない感じるものでもいい。これっぽっちと思えるものでもいいから、わたしのもとに持って来なさい、とイエス様は言われるのです。

 私たちは、常識的に、効率的に物事を考えてしまうことに慣れているのではないでしょうか。しかし、常識的とか効率的というのは、信仰とは全く違う基準でしょう。1万人以上の前では、5つのパンと2匹の魚は、常識的ではないし、効率的ではないのです。しかし、それをイエス様に差し出す、委ねるということなのです。イエス様に何とかしてもらうことが信仰なのではないでしょうか。自分の頑張りや努力で何とかする、考えるというのは信仰とは程遠いものなのです。イエス様に全てをお任せするのです。

三、神様の目には高価で尊い私たち

19節を見ると、「群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。」とあります。「座るようにお命じになった。」の「座る」という言葉は、「横になる」という言葉です。それは、腰を下ろすのではなく、食事の席に着くという意味です。イエス様は、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、」とあります。「賛美の祈りを唱え、」は、新改訳聖書では、「神をほめたたえ」とあり、口語訳聖書には、「祝福し」とあり、詳訳聖書には、「感謝をささげ」とあり、リビングバイブルには、「神の祝福を祈り求め」とあります。イエス様は、弟子たちが「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と言った、「パン五つと魚二匹」を祝福し、ほめ、感謝し、賛美したのです。これしかないと暗い顔をして下を向き、つぶやいている弟子たちとは対照的に、イエス様は天を見上げて賛美し、感謝しました。神様を見上げたのです。上を向いて歩こうなのです。この地上で、全ての事が閉ざされたとしても、天はいつも開かれているということです。弟子たちは、現実だけを見て、自分自身の不足だけを見て、目の前の問題だけを見て、下を向いてつぶやきました。その弟子たちの上に、イエス様が5つのパンと2匹の魚を感謝し、賛美する言葉が、声が、喜びの言葉が響き渡ったのです。

イエス様が、感謝して賛美して祈るそばから、パンと魚があふれ出たのでしょう。弟子たちは、今の状況、不足や小ささ、少なさということで一喜一憂する必要はありませんでした。イエス様に全てをお任せすればよかっただけのです。

20節には、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。」とあります。当時は今のように飽食の時代ではありませんでした。今ある時に食べておかないと、明日食べるものがあるかどうかは保証もない貧しい農村であり、人々はいつも空腹で、がつがつしていたのでしょう。その人々が、満腹になったのでした。もう食べられないという状態になったのです。「満腹した」という言葉は、もう何も食べたくなくなるまで、飼い葉桶の前にとどまっている動物に適用される言葉でした。

「すべての人が食べて満腹した。」という「すべての人」の中には、弟子たちもいたでしょう。「すべての人」の中で、最も深く養われたのは弟子たちだったように思うのです。

私たちは、キリスト者として、数も少ない、力もない、その自分の祈りが何になるのか、自分の信仰なんてと思わされることがある。それが現実でしょう。しかし、イエス様は、それをここに、私の元に持って来なさい、と言われるのです。少ないということが問題なのではありません。弱いということが問題なのではありません。足りないということが問題なのではありません。自分の祈りが、信仰が足りない、小さい、弱いということが問題なのではありません。私が、あなたが自分自身をイエス様の手に差し出していない、委ねていないということが問題なのでしょう。私たちは、今日この時から、私の全てをイエス様にお任せして、お委ねして、信頼して歩ませていただきたいのです。イエス様は、5つのパンと2匹の魚を通して、奇跡を起こされたように、私とあなたを通して、奇跡のみ業を起こして下さるのです。

Ⅲ結論部

少年ダビデが巨人ゴリアテに立ち向かった時、ゴリアテはダビデの小ささ、弱さ、貧弱さに目を留めバカにしました。しかし、ダビデは、自分の何かを見るのではなく、私を今まで守り導かれた神様だけを見上げて、信じて、自分の普段の慣れた石投げで巨人ゴリアテを倒したのでした。私たちはどうしても、自分を見てしまいます。他の人と比べてしまいます。私は小さな存在であり、弱い存在です。私一人がいてもいなくても、この世から見れば、何の関係もないように思われます。感じます。自分が生きようが死のうが世の中の人にとっては、何の関係もないのでしょう。自分がイエス様の十字架と復活を信じて、救われてキリスト者として歩んでいても、何の力にもならないのではないかと感じることもある。しかし、しかし、イエス様の目には、イエス様から見たら、絶対に、絶対にそうではないのです。私という一人の存在が、イエス様の十字架と復活を信じて、救われてキリスト者となった私が、自分自身をイエス様に委ねる、お任せするということは、イエス様の目には、とてつもなく大きな事であり、イエス様の喜びなのです。数の問題でもなく、力の問題でもなく、大小の問題でもなく、イエス様を信じるかどうか、イエス様の十字架を信じて、罪が赦され、魂が生かされ、死んでも生きる命が与えられていることを信じて、イエス様に全てを差し出す、委ねる、お任せするかどうかなのです。この世の中から見たら、いてもいなくてもどうでもいいと思える、私一人の存在は、イエス様にとっては、大切な存在、なくてはならない存在であると見ていて下さるのです。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ」とあるように、イエス様は深く憐れまれたので、人々を癒されました。深く憐れまれたので奇跡を起こし、目の前にいる多くの人々を満腹させたのです。癒しも奇跡も、イエス様の深い憐れみが引き起こしたと言えるのでしょう。見逃してはならないのは、神様の姿は癒しや奇蹟の中にあるのではなく、癒しと奇跡を起こした源、深い憐れみの心だと思うのです。

イエス様は、今日私たち一人ひとりに、どんなに欠けた所があっても、そのままで私の元に来なさい。どんなにわずかでも、あるだけを持って私の元に来なさい。私はそれを豊かに用いて、私のために大きく役立てることができると言われるのです。私たちは、自分自身をイエス様の御手に委ねる時、お任せする時、小さな私が、弱い私が、乏しい私が豊かに用いられることを信じて、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(23年8月13日)

2023-08-13 12:28:29 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第10主日)    2023.8.13

悪者を探せ』   マタイ13:24-30.36-43   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第二の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと会堂で、オンラインを通して、ご家庭で、置かれた場所で、あるいは、他の教会の方々と共に礼拝を守ることができますことを心から感謝致します。

奥多摩バイブルキャンプもナザレンの全国ティーンズキャンプも恵みの内に終えられたようです。皆様のお祈りに感謝致します。

今、NHKの朝ドラでは、「らんまん」牧野富太郎という植物学者のお話しです。いろいろな植物が出てきますが、珍しく、面白い植物が登場し、神様の創造のみ業を見ているようです。今日は、植物の話です。毒麦です。あまり日本では見ないようです。マタイによる福音書13章24節から30節と36節から43節を通して。「悪者を探せ」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、この世にはサタンの仕業がある

24節から26節を見ると、「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。」とあります。

「毒麦」という言葉は、語義的には「雑草」という言葉です。穀物の生育を阻害するような雑草を「毒麦」と言っているようです。「毒麦」というと、恐ろしいですが、この草自体には毒はないようです。ただ、めまいや吐き気をもようさせる毒性の菌が、この草にはつきやすいために「毒麦」という名前で呼ばれるようになったようです。また、この毒麦は、成長力があり、黒い実をしており、その実は、特にカビ菌と合わされると強い毒性を発揮すると言われているようです。この「毒麦」は、毒麦というレッテルを貼られただけで、元々は人に害を及ぼすような毒を持つ草ではなったようです。

この「毒麦」は、自然に生えて来たのではなく、敵が意図的に蒔いた、菌をばら蒔いた結果でした。創世記を見ると、この世界は神様が創造された世界です。創世記1章31節には、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。」と記されています。神様は良い種を蒔かれるのですが、敵、サタンによって毒麦が蒔かれる世界でもあるのです。神様に創造された極めて良い世界に悪い事が起こるのです。神様に愛されている人間に、苦しいことや悲しいことが起こるのです。そのような世界に、良い麦の中に毒麦が、菌が蒔かれていることを表しているのです。

私たちは、本来神様の最高傑作として創造されました。私たちは神様に愛されるために生まれてきたのです。そして、私たちは神様と隣人を愛するために生まれてきたのです。しかし、創世記3章には、アダムとエバが自分の自由意志によって、神様に背き、神様の御命令を無視して、サタンにそそのかされて自分中心、自己中心に生きるようになったのです。罪が人間の心に芽生えた瞬間でした。神様は良い種を蒔いたのに、敵、サタンによって麦の中に毒麦を蒔いた。麦に菌をつけて行ったということでしょう。

27節には、「僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』」とあります。

28節の前半には、「主人は、『敵の仕業だ』と言った。」とあります。僕たちは、どこから毒麦が入ったのか知りませんでしたが、主人は、「敵の仕業だ」と知っていたのです。どうして畑に毒麦があるのか、どうして、この世に悪があるのか。それは敵の仕業、悪の霊の働きなのです。悪の霊の働きによって、人間が利用され、人間を通して悪の業がなされていくのです。神様の御心に反対する悪の霊が、一人ひとりの人間の心のふるまいを利用して、毒麦をもたらしていると言えるのでしょう。私たちの住む世界は、神様のみ言葉だけが成長するのではなく、それを妨害するものも、また成長してくるということなのです。

二、悪者を取り除かれない理由

28節後半には、「そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、」とあります。僕たちは、「麦と毒麦を区別して毒麦だけを取り除きましょうか。」と言いました。私たちの世界は、麦と毒麦が混ざっているのです。蒔かれたみ言葉が、そのみ言葉の力によって育つように、そのみ言葉を妨げるような毒麦も育ったのです。麦と毒麦が一緒にどちらも育ってくるのです。良いものと悪いものが一緒に存在する世界であるということでしょう。私たちの世界には、至る所に多くの悪が現実に存在します。だから、悪、毒麦は排除すればよいと考える。犯罪は厳しく取り締まり、悪人を社会から抹殺すれば、良い社会になると私たちは考えます。3対4対3の法則というのがあるようです。これは、組織で働く構成員の構成比の数です。働き蟻や働き蜂は、全体の3割の蟻や蜂は全く働いていない、悪い蟻や蜂なのです。3割はやる気のあるもの、4割は普通に働くもの、3割はやる気のないもの、働かないもの。わるいやつらです。ですから、効率を図るために、3割の働かない、悪い奴らを取り除けばよいと考え、取り除いても、時間の経過とともに、3割にやる気のない、悪い奴らが発生するというものです。人間に当てはまるかどうかはわかりませんが、悪いものを除けばよくなると思う。「では、行って抜き集めておきましょうか」というのが、多くの人の考えでしょう。

29節と30節の前半には、「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」とあります。

「では、行って抜き集めておきましょうか」という僕たちの言葉に対して、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。」と言われました。麦と毒麦は見分けがつきにくいので、毒麦を抜く時に、麦までぬいてしまう可能性があるので、刈り入れの頃には、見分けがつくので、その時まで、そのままにしておくということなのです。

主人は、「両方とも育つままにしておきなさい。」と言われたのです。毒麦が良い麦に変わるということはないのでしょう。リンゴの木が梨の実をつけることはないでしょう。しかし、私たち人間の世界では、悪い者が良い者に変わるということが起こるのです。罪人が救われて神の子に変わるということが起こるのです。「両方とも育つままにしておきなさい。」という、主人の言葉の裏には、人間の世界に起こるような変化を期待する願いが込められているように思うのです。悪しき者、罪ある者に猶予が与えられているということは、神様の愛と憐れみの心であり、全ての人が神の民として、神様の元に立ち帰るための猶予期間だと思うのです。良い麦も毒麦も一緒に育てましょうということです。不条理と思われる事柄の中にも、神様の深い秘められた御計画が隠されているのです。

 イエス様は、最後の晩餐において、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」(ヨハネ13:21)と言われました。ユダが裏切るとは言われませんでした。弟子たちは、互いに顔を見合わせた、とあります。ユダの裏切りをイエス様は知っておられましたが、毒麦、ユダを引き抜かないで、一緒に育て、明らかにされるまで待たれたのでした。イエス様は、他の弟子たちと同じようにユダの足を洗われ、再三、ユダが悔い改めるチャンスを与えておられたのでした。イエス様の願いは、ユダが裁かれることではなく、悔い改めて信仰に立ち帰ることでした。13章43節の最後には、「耳のある者は聞きなさい。」と語られています。あなたは、今、イエス様とどのような関係にありますか。悔い改めるべきことがあれば、聖霊の導きに従って神様を見上げてはどうでしょうか。

三、悪者の生きる道がある

30節の後半には、「刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。」とあります。40節には、「だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。」とあります。

この譬えの最終的な事は、神は毒麦(罪人)を裁かれるということです。しかし、このたとえの本来のメッセージは、「両方とも育つままにしておきなさい。」ということなのです。確かに、世の終わりには裁きがあるのです。しかし、今は裁かないということなのです。

私たちには、良い人と悪い人の区別はなかなかつきません。外見で判断することはあるでしょう。丸刈りで、刺青(いれずみ)をしていたら悪い人に見えます。髪の毛を染めて、眉毛を剃って、いかつい服装をしていたら悪い人に見えます。スーツを着て、髪の毛を七三に分けていると真面目で良い人に見えるのかも知れません。しかし、詐欺を働く悪い人は、外見は良い人に見えるのです。良い人に見せるのです。やくざ風の人がとてもやさしい人であるとか、恐そうで、いかつい体格の人が親切であったとは、よくあることです。私たち人間には、本来良い人と悪い人の区別はできません。神様だけがわかるのです。ダビデが神様に選ばれる時、サムエルは、長男のエリアブが、イケメンで、すらっとして、見た目に良いと感じて、油を注ごうとしましたが、神様は違うと言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(サムエル記上16:7)と言われたのでした。ですから、人の目には毒麦に見えても、神様の味方は違うということです。あわてて判断してはならないということでしょう。神様は、どんな人も、悪人さえ見捨てることはされないのです。

 主人は、「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。」と言いました。この主人が大切にしたのは、毒麦を抜くことではなく、良い麦を抜いてしまわないことでした。不必要と思われるもの、迷惑なもの、マイナスを排除するのではなく、そのようなものを含めて共に生きるという道でした。これが神様の選ばれた道でした。毒麦を蒔いたのは敵の仕業でしたが、私たちにとって敵とは誰でしょう。自分の価値観で、不必要な人、迷惑な人、嫌な人を敵と見るのでしょう。自分の意見と違っていても、そこにも大切な意見、優れた考えがあるのかも知れないのです。自分の価値観における正しさを振りかざして、他人の意見を台無しにしていることがあるでしょう。毒麦を抜くことに、一生懸命になって、麦まで抜いてしまっている姿があるのかも知れません。律法学者やファリサイ派の完全主義、律法主義の生き方がそうであったでしょう。39節には、「毒麦を蒔いた敵は悪魔」とあるように、私たちの敵とは悪魔、サタンなのです。悪魔は、自分は正しく、他の人を排除するような価値観を持たせるように誘惑するのです。自分の意見こそ、判断こそ、一番だと思っている時、私たちはサタンの誘惑に惑わされているのかも知れないのです。

 そのような私たちのために、イエス様は十字架にかかって死んで下さいました。イエス様が十字架にかかって死んだからといって、全ての人が神様の元に立ち帰るとは限らないのです。現に、日本の99%は、まだ神様の元に立ち帰っていないのですから。イエス様の十字架の死と復活を無駄だったのでしょうか。そうではありません。99%が救われていないからと言って、神様は99%の人々を今は裁くことはなさらないのです。神様はあきらめないのです。まだ神様に目と心が向いていない人の将来を見つめておられるのです。

 

Ⅲ結論部

今日のたとえ話にあるように、神様は一本の麦が、毒麦を抜く時に巻き込まれて滅んでしまうことを恐れているのです。毒麦を滅ぼすことよりも、麦と一緒に抜いてしまうことに、気にかけておられるのです。神様がアブラハムに、ソドムとゴモラの町を滅ぼすと伝えた時、50人の正しい人がいたら、45人、40人、30人、20人、10人いたら滅ぼさないと言われました。正しい人が悪い人と共に滅びることを望まれないからです。あなたがキリスト者であるならば、あなたの家族が、あなたの職場が、あなたの学校が、地域が、サークルの人々が滅びないということでしょう。あなたのゆえに滅びないのです。

神様は悪者を探して排除する、見捨てる、裁くとは言われないのです。たとえ、今悔い改めなくても、神様に立ち帰らなくても、すでにイエス様の十字架と復活のゆえに、全ての人の罪を赦し、魂を生かし、永遠の命の約束を与えておられるのです。今信じなくても、神様はあきらめないのです。あなたを愛しておられるから、あきらめないで待っておられるのです。私たちは、今、私の夫や妻、親や子ども、友人が全く神様に向いていないから、

ダメだ、とあきらめたり、切り捨てるのではなく、イエス様はあきらめていないのですから、イエス様に期待して、家族の救いのために、愛する者の救いのために祈り続けようではありませんか。神様の愛は、人の心を変えることができるのです。救いは神様によるものです。良い麦が菌によって、毒麦となるように、毒麦なる罪人は、イエス様の愛と憐れみに触れて、良い麦と変えられるのです。これが神様の御心なのです。私たちは、その事を知っている者として、神様を知らない人に福音を伝えたいのです。イエス様が共におられるので、イエス様に期待して、信頼して、この週も歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(23年8月6日)

2023-08-06 12:40:29 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第9主日)    2023.8.6

究極の愛に生きる』   マタイ5:38~48   

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。8月の第一日曜日を迎えました。このひと月も暑い日が続くことが予想されます。暑さ対策、コロナ対策と気を使うことが多くありますが、私たちには、イエス様が共におられますから、イエス様におんぶに抱っこではありませんが、全ての事をお委ねして歩ませていただきたいと思います。

8月は平和を思う季節です。8月15日は78回目の終戦記念日を迎えます。戦争は過去の出来事ではなく、今も現実に戦争は起きており、尊い命が奪われ、愛する者を失った痛みや悲しみを経験している方々が多くおられるのです。戦争を起こしてはならない。戦争反対誰もがそう思うのでしょう。誰もが戦争をすることをよしとしないのに戦争は起こるのです。それは、罪の性質を引き継いでいる人間の心の問題が大きく影響しているのだと思うのです。

今日は「究極の愛に生きる」という題で、マタイによる福音書5章38節から48節を通してお話ししたいと思います。「究極」という言葉はよく使われます。「究極」とは、物事をつきとめて最後にたどりつくこと、善と悪、高と低、全ての方向につきとめてたどりつくことと説明しています。神様の愛、その究極の愛とはどのようなものでしょうか。

Ⅱ本論部

一、やられたらやり返すのではない

38節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。」とあります。リビングバイブルには、「あなたがたの教えでは、『人の目をえぐり出した者は、自分の目もえぐり出される。人の歯を折った者は、自分の歯も折られる』とあります。旧約聖書の律法には、「目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、生傷には生傷、打ち傷には打ち傷をもって償わねばならない。」(出エジプト記21:24)とあり、「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。」(レビ記24:19-20)とあり、「あなたは憐れみをかけてはならない。命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足を報いなければならない。」(申命記19:21)とあります。

目には目を、歯には歯を」というのは、同害復讐の原理といい、受けた害を超える復讐をするのが一般的であった時代に、復讐を一定の範囲に抑える歯止めとして機能していたようです。過剰な復讐をしてならないということでしょう。人から何らかの害を受けた時、その行為に対して個人的な恨みや憎しみによって復讐をしようとすると、自分が受けた被害や傷よりも、さらにひどい復讐をしようとします。(やられたらやり返す。倍返しだ。十倍返しだ。)それが、私たち人間の共通の感情的なものでしょう。復讐が復讐を生み、さらにエスカレートしていくのです。このように復讐することが過剰になっていくことへの抑止力として、「目には目を、歯には歯を」という戒めがあるわけです。

目には目を、歯には歯を」という戒めは、決して恨みを晴らすための方法ではなくて、この世に対して、正義を実現するために神様が示された人道的な教えと言えるのです。しかし、多くの人は個人的な復讐を正当化するために、この戒めを勝手に用いてしまうことがあるのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法はその文字通りに守ることが正しいと考え、「目を傷つけられたら、目を傷つけてもよい」「歯をやられたら、歯をやり返せばよい」と考えて、復讐するということが自分の権利でもあるかのように思ってしまいました。元々、「目には目を、歯には歯を」という戒めは、神様が人と人とが互いに傷つけ合うこと、殺し合うことから守るために、与えられた律法でしたが、「目には目を、歯には歯を」という言葉どおりの解釈に変えられてしまったのでした。

しかし、イエス様は39節で、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と言われました。

悪人に手向かってはならない。」と復讐を否定するだけではなくて、「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」と驚くような事を語られたのでした。イエス様が引用された「目には目を、歯には歯を」という旧約の教えは、復讐の方法ではなくて、神様がモーセを通して与えた、義に生きる道、愛に生きる道だと言えるのです。

二、愛で悪に勝つ

だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」というのは、右手で相手の頬をビンタすると相手の左の頬を叩くことになります。左利きの人は相手をビンタすれば右の頬を打つことになります。ですから、普通右利きの人が、相手の右の頬を打つためには、右手の甲で左から右に打つと相手の右の頬を打つことになります。手の甲で相手の頬を打つというのは、ユダヤ人にとっては、打たれた人にとっては侮辱的な、屈辱的な行為となり恥となるのです。とても恥ずかしいことなのです。人間としての尊厳を否定される行為なのです。「お前を叩いたら汚れる」というようなことです。ここでいう「右の頬を打つ」というのは、殴り合いの喧嘩ではなくて、侮辱を受けることであり、イエス様は、侮辱を黙って受け、対抗したり、抗議したり復讐をしてはならないと言われたのです。

また、40節から42節には、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。

求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」とあります。出エジプト記22章25節から26節には、「もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」とあります。律法には、上着はその人が生きるための最低限の権利として奪われてはならないと定めています。しかし、イエス様は「下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」と、貧しい人に認められている最低限の権利さえも放棄しなさいと言われるのです。また、強いられた倍の働きをしなさい、求める者、借りようとする者には答えるようにと言われるのです。

 42節にある、「求める者」「借りようとする者」とは、38節からの内容を見ると、悪をなす者と言えるでしょう。普通に困っている人というのではなく、悪をなす者が、悪人が困って求めてきたら与えなさい、ということなのです。悪人が借りようとして求めたら貸してあげなさいということなのです。悪人が困ったら、「ざまあ見ろ。いい気味だ。自業自得だ。」と言って批判するのではなく、助けてあげなさいというのです。パウロは、ローマの信徒への手紙12章17節には、「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と言い、20節、21節では、「「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。」悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」とイエス様の教えを言っています。

三、敵の救いのために祈ることか始める

43節には、「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。」とあります。旧約聖書には、「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)とはありますが、「敵を憎め」とはどこにもありません。「敵を憎め」とは、ユダヤ人たちの間で、口伝で伝えられてきた教えのようです。ユダヤ人たちは、隣人とは同じ神様への信仰を持つ同胞のことで、神様の契約共同体に入っている人の事をいいました。ですから、ユダヤ人以外の人々、異邦人や寄留する人々は隣人ではないのです。ユダヤ人以外は、よそ者であり、敵であり、憎むべき存在であり、愛する対象とはならないのです。そのような考え方があり、「敵を憎め」という考え方になったのです。

44節には、「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とあります。旧約聖書には、敵に対抗する祈りはあっても、敵のための祈りはありませんでした。私たちは、「愛する」ということを憎まないことや傷つけないことと考えてしまうことがあるでしょう。イエス様は、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」と言われました。「敵を愛する」とは、具体的、積極的なことで、「迫害する者のために祈りなさい。」で、敵のために祈ることなのです。自分と合わない人、自分の嫌いな人、自分が赦せない人、恨みを持つ人、そのような人のために神様の前に祈ることなのです。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とは、「神様わたしを迫害する者が、イエス様の十字架と復活、福音を通してイエス様を救い主と信じて、善人にも悪人にも神様の用意された罪の赦しを受け取ることができるようにして下さい。」と祈ることなのです。キリスト者である私たちが、このように迫害する者、敵のために祈るということが、神様との関係の回復に関係なくされるということは不可能なことなのです。

45節の後半には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。私たち人間に対する神様の働きは、私たち人間の側によって条件づけられるものではないということなのです。神様には、敵とか味方とか、善人とか悪人とかの区別はないということなのです。神様は正義の味方ではないのです。しかし、私たち人間は、神様は善人、正しい者だけを愛し、悪人や正しくない者には、厳しい裁きを下さることなら納得できるのでしょう。善人や正しい人が悪人や正しくない人と同等に扱われることが不当であり、納得のいかないことになるのです。神様が正義の味方ならば、神様が悪人を、正しくない者を憎まれるならば、私たち人間は例外なく全ての人は神様に逆らう罪人、敵なのですから、私たちこそ裁かれる者なのです。私たちは罪のゆえに裁かれる以外にはないのです。しかし、神様は罪人の私たちを愛して下さり、イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架につけられ、裁かれ、イエス様の流された尊い血とささげられた命、身代わりの死によって私たちの罪を赦し、イエス様が死んで葬られて、よみがえることにより、罪と死に勝利され、私たちは義とされ、永遠の命が与えられるのです。善人にも悪人にも、正しい者にも、正しくない者にも、全ての人に神様は神様との回復、救いを提供しておられるのです。これこそが、神様が私たちを無条件で愛しておられるということなのです。

Ⅲ結論部

迫害する者のために祈りなさい。」の「ために」のギリシャ語の前置詞は、「利益になるように」という意味があるようです。「迫害する者の利益になるように祈りなさい」ということでしょう。イエス様は、十字架の上で、「「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」」(ルカ23:34)と祈られたことが記されています。イエス様は、御自分を傷つけ、御自分に暴力をふるった人々、十字架につけた人々が、神様の罰を受けないようにと、自分を迫害する者の利益のために祈られたのでした。私たちと同じ人間であるステファノも「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)と自分に石を投げつけ、迫害する者のために祈ったのでした。

神様は、イエス様の十字架の死と復活を通して、罪の赦しを全ての人に差し出されました。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」と言われたように、この救いを善人にも悪人にも、全ての人々に与えられたのです。イエス様が求めておられることは、とても高度な倫理と言えるでしょう。「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」とか、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という内容は、「そんなことはできません。無理です。」というのが多くの人の意見でしょう。イエス様は、「何が何でも歯を食いしばってでも努力しろ、実行しろ」と無理な要求をしているのではないのです。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」とイエス様は語られました。十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」という祈りを通して、十字架で同じ刑を受けていた犯罪人が救われました。石打の刑を受けていたステファノの「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」という祈りで、石打の刑をしている人々の服の番をしていたパウロが救われたのです。迫害する者のために祈る祈りは、神様との関係を回復する人が必ず起こされてくるということなのです。

敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」という言葉は、ギリシャ語では未来形なのです。「敵を愛するようになるだろう。自分を迫害する者のために祈るようになるだろう」とイエス様は、私たちにそう願っておられるのです。私たちは、愛する人や家族は愛する努力をしなくても愛せます。しかし、自分の敵だと考える人、迫害する人はなかなか愛せません。ですから、その人たちがイエス様を知ることができるように、信じて救われることができるように、神様の助け、聖霊の助けで祈る者にならせていただきたいと思うのです。その実践が、真の平和への道だと思うのです。この週も、イエス様の深い愛に触れた者として、愛されている者として歩ませていただきたいのです。

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