日曜礼拝(三位一体後第12主日) 2023.8.27
『廊下は走ってはいけません』 マタイ15:1~20
Ⅰ導入部
おはようございます。8月の第四の日曜日を迎えました。私たちの救い主であるイエス様を共に賛美、礼拝できますことを心から感謝致します。
私たちは毎日、ルール(規則)の中で生きています。青信号なら横断歩道を渡り、赤信号なら止まれです。それを守ることによって安全に生きるように、世の中には様々なルール(規則)があります。記録は破るためにあるではありませんが、ルール(規則)は破るためにある、と言ったかどうかわかりませんが、ルールを破る人も多くいるでしょう。
ルール(規則)は、何か窮屈で、縛られるというイメージがあります。学校の規則、規則でいやだった。窮屈だった、という方々もいるでしょう。
今日は、マタイによる福音書15章1節から20節を通して、「廊下は走ってははいけません」という題でお話しします。「廊下は走ってはいけません」という言葉は多くの方々がご存知でしょう。学校では、走らないことがルール(規則)として徹底されています。
また、「食事の前には、きれいに手を洗いましょう。」は、学校でも家庭でもよく言われることです。聖書こそ、ルール(規則)が徹底されています。キリスト者である私たちも、規則、律法、神様の言葉によって歩んでいるとも言えます。
Ⅱ本論部
一、手を洗いましょう
15章1節と2節には、「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」」とあります。「そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て」とあります。本格的に、エルサレムにいる宗教指導者が、イエス様について調べる必要を感じたのでしょう。先週の5つのパンと2匹の魚で1万人以上の人々を満腹させたという情報は、エルサレムの宗教指導者たちにも報告されていたことでしょう。奇跡の食事で、人々が手を洗って食べたかどうか、ということもとても気になっていたのでしょう。もし、手を洗わないで食べていたら、大問題なのです。ですから、釘を刺しておいていたほうがいいと、エルサレムから、ファリサイ派の人々と律法学者たちを、イエス様の元に送り込んだのです。
案の定でしょうか。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」とイエス様を責めました。「食事の前に手を洗う」ことは、昔の人の言い伝えでした。律法の中にはありません。当時は、律法つまり神の言葉は、成文律法と言われ、言い伝えは口伝律法と言われ、二つのものがありました。律法は、シナイ山で、モーセを通してユダヤ人に与えられたものでした。バビロン捕囚後に、エルサレムに帰還後、学者エズラが聖書の各書を集め、書き写し、まとめ、聖書の解釈が加えられ、その後も解釈が蓄積して、年数を得るごとに、成文律法と口伝律法の間の権威の差がなくなり、やがて律法、聖書の言葉よりも聖書解釈、つまり言い伝えの方が、権威を持つようになったのです。成文律法以上に口伝律法、言い伝えが尊ばれるようになったのです。
食事は神様との交わりの場であると共に、人間同士の交わりの場でした。特別の席である食事の席は、信仰的にも清められた時でなければなりませんでした。そのような食事の席で、食物に触れる手が洗われていない、つまり汚れているということは許されないことでした。そのような汚れをどのように清めるのか、ということがいつも問題になりました。手を洗わないで食事をするというのは、不衛生というよりも、自分を清めることなく、神様の前に出るという神様への冒涜にまで至る重大事件だったのです。
ここには、イエス様が手を洗ったかどうかは記されていませんが、おそらくイエス様は手を洗っていないでしょう。もし、イエス様が手を洗っていたら、弟子たちも洗っていたはずだからです。イエス様と弟子たちが、手を洗わずに、食事をしたということは、この世の汚れや罪を洗い落としてから、その手で食事をするということをしなかったということなのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、もし手を洗わなければ、神様から離れており、呪われると主張しました。手を洗うということが、自分たちの救いに関わるところまで重要視されていたということなのです。言い伝えを最終的な権威としたのでした。
二、聖書、律法に帰れ
するとイエス様は3節で、「そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」と逆に問われたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、律法を大切にして厳守してきた人々ではありました。ユダヤ人が旧約聖書の教え、律法を守るために、彼らの生活の全般において、何をどうしたらよいのかを考えて、それを口伝律法、言い伝えとして伝えてきたのです。「自分の言い伝え」とは、2節の「昔の人の言い伝え」のことですが、昔話や伝説といったものではなく、これまでのユダヤ人の先祖が生活の全般において、神様に従うために、考え、伝えられてきた大切な言葉でもありました。その中で、「手を洗うこと」や「手の洗い方」も決められて来たのです。手を洗うという行為は、もともと礼拝する者が、神様の前に立つための儀式として「手を洗う」という行為があり、神様の前に立つ祭司に適用されていた決まりでしたが、時代が進む中で、食事自体がひとつの礼拝の行為であると考えられるようになり、イエス様の時代には、一般の人々も食事の前には「手を洗う」ことが広まっていたのです。また、「手を洗う」という行為は、ユダヤ人にとっては、宗教的な聖め、聖さを求めた行為だったのです。
私たちはコロナの感染防止に、手を洗う、消毒するということを徹底してきたように思います。手は一番多くの物に触れるからでしょう。この手をどのようにしていくのか、というのは、人間を「清める」ためには、重要な事とされ、ユダヤ人は手を洗うこと、洗い方、洗う水の量までも決められていたのです。
そのような言い伝えを厳粛に守って来た律法学者やファリサイ派の人々に、イエス様は、「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。」と問われたのです。そして4節から6節の例を上げるのです。「神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。」とあります。
十戒には、「あなたの父母を敬え。」(出エジプト記20:12)とあり、律法には、「自分の父あるいは母を呪う者は、必ず死刑に処せられる。」(出エジプト記21:17)とあります。神様は聖書を通して、律法を通して、父と母を大切にするようにと教えているのです。父と母をちゃんと扶養することを教えているのです。しかし、口伝律法、言い伝えには、父と母を扶養するものを「神様にささげます」と言えば、父と母には、何もしなくてよい、と教えたのです。マルコによる福音書では、「コルバン」と言えば、いいというのです。当時のユダヤ教の理解では、父と母を敬い、大切にすることは、大事な事だけれども、神様へのささげ物の方が大事だと考えました。「コルバン」、神にささげると一旦口にしたら、親も口をはさむことはできないのです。父と母を敬えというという神様の教えが、当時の言い伝えによって、神様の名を借りて無効にされていたのです。8節と9節のイザヤ書の言葉のように、つまり、口先では神様を信じ、敬っていても、神様の大切な戒めを破っていたのです。律法学者やファリサイ派の人々は、神様の言葉を無にしていたのです。つまり、彼らは神様ではなく、神様の教えではなく、人間の教えを権威としたのでした。イエス様の指摘はそこにこそあったのです。イエス様の戦いは、ユダヤ教との戦いであり、聖書の正しい教えに立ち帰ること、「律法、聖書に帰れ」とユダヤ人に教えられたのでした。
三、心に問題がる
10節を見ると、「それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。」」と言われました。いつもは群衆の方からイエス様の所に来ることが多いのですが、この時イエス様はわざわざ「群衆を呼び寄せて」とイエス様の強い思いが、特別に、聞かなければならない、知らなければならない真理を教えようとされたのです。
11節には、「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」とあります。問題になっていたのは汚れの問題でした。ユダヤ人の言い伝えでは、「手を洗わないで食べると汚れる」という宗教的な汚れが問題でした。汚れてはいけないという恐れから、様々な細かな規則をつけ加えてきたのでした。清くなければ神様に裁かれる、と教えられてきたのです。彼らの宗教の信仰の基本は、神様を畏れ、神様に裁かれないための信仰と言っていいのでしょう。律法はサブテキストに過ぎなかったのです。
イエス様は、ここで人は食べ物によって汚れを受けて、神様から裁かれることはないときっぱりと言われたのです。律法には、食べてはいけないものの規定は確かにあります。しかしそれは、衛生面の配慮があったのです。豚を食べないのは、細菌があるので食べることを禁止するために「汚れる」と表現したのです。食べてはいけないものを食べたからと言って、神様の裁きを受けるのではない。食物規定は、人間の健康を守るために与えられた神様の規定でした。死体や皮膚病の人に触れないことは、伝染病から守るためだったのでしょう。そのため「汚れる」と表現されたのは、神様がその人を嫌って裁かれるということではないのです。あくまでも、人を守るための規定だったのです。
イエス様は、かえって「口から出て来るものが人を汚すのである。」と言われました。
17節から20節には、「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」」とあります。口から出るもの、つまり言葉は心から出て来るのです。「悪意、殺意、」という思いの段階、それは人を憎み、妬みの思いが蓄積されて殺意につながり、心の中の罪はまず私たちの心の思いに現れてくるのです。「姦淫、みだらな行い、盗み、」という、思いが具体的な行為となり罪を生むのです。思いは思いだけでは終わらないのです。具体的な行為につながるのです。「偽証、悪口」この2つは、言葉が問題となっています。「偽証」とは嘘をつくこと、言葉において偽りを語り、それによって人を陥れ、あるいは、自分の利益を得ようとするのです。「悪口」は、悪口(わるぐち)、本人のいない所でその人の悪い噂を語ることで、人の心を傷つけ、踏みにじるような言葉を語ることの全てを指しているのです。心の中に湧き上がる汚れ、罪は口から言葉となってほとばしり出るのです。私たちは、言葉においてこそ罪を犯してしまう、汚れた者となってしまうのです。
私たちは、知らず知らずのうちに悪い言葉を発します。幼い子どもに、悪い言葉を教えなくても話すようになります。「どこでそんな言葉を覚えたの」と両親は驚くことがあります。食べ物が原因ではなく、心にこそ問題があるのです。律法が、「汚れる」と宣言したのは、全ての人が罪人であることを知るためであり、旧約時代は動物の犠牲の血を流すことによって「清い」と宣言されたのです。言葉においても、行動においても罪を犯す私たちを神様は愛して下さり、私たちの血を流すのではなく、十字架の上でイエス様が身代わりに裁かれ、尊い血を流すことにより、尊い命をささげて下さること、死んで下さることによって私たちの全ての罪を赦して下さり、イエス様が死んで葬られよみがえられることにより、私たちの魂を生かし、聖め、死んでも生きる命、復活の命、永遠の命を与えて下さるのです。私たちはそのことを信じたいのです。
Ⅲ結論部
宗教指導者たちは、聖い生活を願っていたので、異邦人たちとのかかわりを断つことを「手を洗う」ことを通して現わしていたようにも思うのです。きよめ、清さを求めるナザレン教会ですが、清さを求める余り、神様の愛を見失わないようにしたいと思うのです。
榎本保郎先生の新約聖書一日一章には、次のようなことが記されていました。「言い伝えそのものが目的になってしまうと、その奴隷になってしまうのである。そういうことはキリスト教の中にもあると思う。たとえば、信者は酒やタバコを飲んだりしないということが一つのしきたりのようになっている。酒を飲み、タバコを吸う人は、あの人はもう信仰はないのだと教会の信頼を失ったりすることがあると思う。しかし酒やタバコは本来信仰とはあまり関係がないものである。信仰とは神を信じることである。私は禁酒禁煙を勧める。できたらやめた方が良いと思う。しかし、それをやめなければ天国に入れないというものではない。神から愛された者として証ししていくため、神からいただいた自分の体を大切に保っていくために、そのことがプラスかマイナスかを考えて言われたことであって、禁酒や禁煙が目的になっては間違っていると私は思う。」
私たちのナザレン教団にも「マニュアル」という規則がありますが、世界総会では、その会議の多くの時間をマニュアルの改定等に使います。聖書の言葉以上に、マニュアルを守ることが大事になると問題になるのです。ナザレン教団でも他の教団でも、各教会において歴史があり、大切にして来たものがあるのでしょう。それが教会の誇りになってしまうことさえ現実にあるのです。神様の言葉、聖書の言葉に養われるよりも、聖霊の導きに従うよりも、教団や教会の言い伝え、しきたりが中心となり、神様の愛が遠い存在になっていることがあるのかも知れません。
私たちが、日本の中で先にキリスト者とされていることは、本当に恵みであり、感謝なことです。私たち青葉台教会の歩みが、一人ひとりの信仰の歩みが、聖書、神様のみ言葉や聖霊の導きを差し置いて独り歩きしているなら、イエス様が示したように、マルチン・ルターが示したように、「聖書、神様の言葉に帰る」べきなのかも知れません。
私たちはこの週も、イエス様が、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と言われたように、聖書の言葉、神様の言葉に触れて、聖霊の導きの中で、信仰生活を歩ませていただきたいと思うのです。たとえ、私たちが信仰から道を外してしまったとしても、イエス様は、私たちを見捨てることなく、いつも寄り添い、支え励まして下さるのです。イエスの愛をいっぱいただいてこの週も歩んでまいりましょう。