江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年2月24日)

2019-02-24 10:28:57 | Weblog

日曜礼拝(公現後第七)    2019.2.24

     「良くならないけど良くなりたい」 ヨハネ5:1~9

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。2月の第四日曜日を迎えました。今日も、愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

先週の日曜日、浦和から教会に帰りますと第三礼拝が始まっておりました。少し疲れ気味で、メッセージ中に、少しうとうととしましたが、素晴らしいメッセージでした。イエス様の憐れみを本当に感謝することができました。10日の日曜日は、塚本先生、先週の17日は岩淵兄、今日は私と、週替わりのメッセージで、皆さんは本当に恵まれておられると思います。3月も週替わりのメッセージになると思いますので、こうご期待下さい。

今日は、ヨハネによる福音書5章1節から9節を通して、「良くならないけど良くなりたい」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、仕方のない人生を送る

今日は、ベトザタと呼ばれる池のそばでの出来事です。5つの回廊(リビングバイブルでは、屋根つきの5つの廊下)があり、そこには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人という人々が大勢横たわっていた、と聖書は記しています。

今でいえば、病院と言ったところでしょうか。体に病や痛みを持つ人々がいたのです。少しの痛みや調子が悪いぐらいではなく、重症と言われる人、生活に大きな支障がある人、困難な人々がいたわけです。ここに横たわっている人々は、喜びや幸せを味わうことのできない人、幸せな人生を歩むことを許されていない人々と言えるのかも知れません。1節には、ユダヤ人の祭りがあった、と記されているように、ベドザタの池の近くでは、盛大なお祭りが行われていたようです。お祭りとは、日ごろの苦労や苦しみ、痛みを忘れて、横において、楽しむものでしょう。この祭りの時だけは、日ごろ背負っているものを脇に置いて、忘れて、楽しむのです。けれども、ベトザタの池のそばにいた人々、5つの回廊に横たわっている人々は、日ごろの苦労や痛み、苦しみを脇へ置いておくことのできる人々ではありませんでした。自分の背負っている苦しみを忘れて祭りをすることなど、到底することのできない人々だったのです。

そこに横たわっている人々は、そこに何故いたのかと言いますと、4節なのですが、新共同訳聖書には、4節がありません。4節の代わりに、十字の葉っぱのような印がついています。ヨハネによる福音書の最後のページに、底本に節が欠けている箇所の異本による訳文とあります。3節bから4節として、「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」という言葉があります。

口語訳聖書では、4節があります。今読んだ内容です。これは、聖書には、写本というものがあり、写本が多ければ多いほど正確だと言われています。聖書の翻訳のもととなった写本には、4節は、もともとなかった部分ではないかと言われていますが、3節後半から4節までの部分を含んだ有力な写本もあるため、こういう説明を含んだ写本もありますよ、という意味で、ヨハネによる福音書の最後のページに載せるようにしているようです。

でも、この説明があるので、回廊に横たわっていたという理由がわかります。

多くの病んでいる人々、そこには競争があり、人を出し抜いたり、人を押しのけてまで、最初に入らないかぎり、癒されないのです。しかし、ほとんどの人々が、癒されないままで、そこにい続けているのです。そこには、希望も将来もないけれども、そこにいるしか仕方のない人生を送っていたのです。私たちの人生は、どうでしょうか。この人々と同じような人生を歩んでいることはないでしょうか。イエス様の業は、そこになされるのです。

 

二、「良くなりたい」、と叫びたい

ここには、大勢の人が横たわっていましたが、聖書はただ一人の人を紹介しています。

5節の後半には、「そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。」とあります。この三十八年間病気で苦しんでいる人について、榎本保郎先生の書いた新約聖書一日一章では、このように記されていました。「その人は、水が動いても自分を池の中に入れてくれる人はいないし、自分が入ろうと思えば、他の人が先に入ってしまう。自分はどうせだめなのだという絶望、あきらめの中に横たわっていた。それでもなお、恵みの家に来ていることを気休めにしていた。」

イエス様は、大勢の人が横たわっていたけれども、この38年間病気で苦しみ、横たわっている人を見たのです。そして、長い間病気であることを知ったと聖書は記しています。イエス様は、よく人を観察し、よく見られるお方です。その人の現状、状態、表情、姿形をよく見られます。そして、外見だけではなく、この人が病気のゆえに長い間苦しんで来たこと、耐えてきたこと、多くの病気を持つ人々の間で、水が動くのを期待し、その瞬間のために、水面を凝視し続けてきたこと、いつの間にか、自分の病気が癒されることに対しても期待を持てなくなったこと、けれども、この場所にい続けるしか仕方がないこと、その人の心の苦しみ、切なさ、痛み、怒り、憎しみの思いを知っていて下さるのです。

イエス様は、この人に言われました。「良くなりたいか」と。良くなりたいから、ここにいるのでしょう。38年間もいるのでしょう。しかし、良くならないままで38年間が過ぎたのです。「良くならないけど良くなりたい」のです。しかし、その希望も消えかかっていたのではないでしょうか。あきらめの思いがあったのではないでしょうか。

イエス様の質問に答えます。7節です。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」早い者、強い者が勝ち残れる世界です。この人は、「良くなりたいです」とは答えませんでした。本当なら、そう答えたいはずです。しかし、良くはなりたいけれども、良くなれない理由、水が動く時、自分のために手伝ってくれる人が誰もいない。強い人、早い人が先に行ってしまう、と答えました。彼は、だれにも愛されない、見向きもされない孤独だったのです。

私たちも、信仰的に成長したい、恵まれたいと思います。けれども、成長したい、恵まれたい、という代わりに、そうなれない理由をまくしたてることがあるように思うのです。

この人が、あの人が、云々。イエス様は、この人を見、知っていて下さっている。そして、救い主なるお方、癒し主であるお方が、「良くなりたいか」と問われているのですから、「良くなりたいです。」と答えていいのです。私たちも、そう答えたいと思います。

 

三、床を担ぐ人生を生きる

8節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」」 「起き上がる」という言葉は、「エゲイロ」という言葉が使われていますが、もともとは、「目を覚まさせる」という意味があるようです。さらに、「死人を復活させる」という意味も、この言葉にはあるようです。今まで、死んだような者を目覚めさせ、復活させるのです。イエス様は、「床を担いで」と言われました。「床」とは、絶望へ向かわせる場所、孤独の場所、そこは助ける者がいないことを意味します。その「床」を担ぐ。

「担ぐ」は「アイロー」という言葉が使われていますが、取り除くという意味があります。

「床を担ぐ」とは、この人は、38年間も床で過ごしました。床で過ごす時間が長くなった。床に縛られた人生であった。けれども、その場所が、神の栄光の現れる場所となるのです。イエス様は、生まれつき目に見えない人に、「神のみ業が現れるためである」と宣言され、主のみ業を行われたのです。

 また、「床を担ぐ」とは、今まで病気で床の上で生活してきた。床に縛れていた人生ではなく、絶望の人生ではなく、神のみ業を信じて、病気という苦しみが、悲しみが、痛みが支配する人生ではなく、神様を信じて自分が主体となって生きていくということを現しているように思うのです。この人を見て、知って下さった神としての権威を通して、宣言された「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉を信じて、生きるものとなるのです。この人は、イエス様の言葉を信じて、今まででのように床に縛られ、病に縛られる人生ではなく、イエス様の言葉を信じて生きる道を歩み始めるのです。そして、この人は、癒されて、床を担ぐ人生、どのような苦しみの中にあっても、それに縛られることなく、イエス様を信じて歩み始めたのです。

 イエス様は、私たち、一人ひとりの状況を、境遇を見て下さり、私たちの辛い思いや傷ついた心を知って下さるお方です。愛のお方です。この方が、私たちを愛して、私たちの罪を赦すために、十字架にかかって尊い血を最後の一滴まで流して下さり、その命をささげて下さったのです。そのことにより、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられたのです。そして、イエス様が死んでよみがえることにより、私たちに死んでも生きる命、永遠の命、よみがえりの命を与えて下さったのです。

イエス様は、私たちがどのような苦しみや悲しみを、痛みを絶望を経験しようとも、私たちのそばに来て、「良くなりたいか」と問われ、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」、苦しみや悲しみ、絶望、あきらめの場所に、い続けないで、神の言葉を信じるのだ。神の愛に信頼を置くのだと、語って下さるのです。

 

Ⅲ結論部

38年間、病気で苦しんで来たこの人は、ベトザタ、憐れみの家にいながら、恵みの場所と言われる場所にいながらも、惰性とあきらめの中におり、そこに、床にいることが気休めとなっていたのです。榎本保先生は、新約聖書一日一章でこう語ります。

「私は、気休め程度に信仰生活を送っている人が多いのではないかと思う。なにか歯が抜けたような気持ちが悪いから日曜日の礼拝に行くとか、小さい時からずっとしていることだから、そうしないと気持ちが悪いというようなことで、そこでは、生ける神に出会い、神の言葉によってもう一度、自分の内に新しい生命を与えられるという希望や期待がない。三十八年の長い間ここに来ていても、それほど驚くこともなかったから、今日もまたそうであろうというふうに、いつまでも自分の過去にとらわれ、神の全能をみていこうとせず、また、神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないかと思う。私たちは、せっかく恵みの家に来ておりながら、そこで自分は恵みにあずかりたいのだという思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのではないだろうか。」

私たちは、この1週間様々な所を通らされ、苦しみや悲しみや痛みを経験したでしょう。そのような経験を持つ私たちは、今日の、この礼拝、イエス・キリスト様が中心におられ、このお方が支配される礼拝に出ながら、何の期待も持てないということがあるのでしょうか。私たちのために、私たちを愛するがゆえに、私たちの代わりに十字架にかかり、命をなげだされたイエス様が、私たちの祈りに、思いに答えられないはずはないのです。

全能なる神様、死を打ち破り復活されたイエス様は、今、私たちと共におられ、私たちを恵み、祝福して下さるのです。私たちは、この週も、どのような悪い経験をしようとも、苦しみを、絶望を経験しようとも大丈夫なのです。私たちといつもそばにおられ、見ておられるイエス様は、私たちの経験する苦しみを、悲しみを知り、理解して下さるのです。だからこそ、この週も、イエス様と共に歩み、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」というお言葉に従い、イエス様に全てをお委ねして立ち上がろうではありませんか。

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日曜礼拝(2019年2月17日)

2019-02-17 06:51:50 | Weblog

憐れみによる主の招き 19,2,17

 マタイ9:9~13 (並行箇所 マルコ2:13~17、ルカ5:27~32)

 

1、              イエスさまは、“正しい人と罪びと”を論ずるとき、“徴税人とファリサイ人”をよく対比して扱っておられます。徴税人とは、ローマ帝国から税の徴収の権利を委託された徴税人の頭(ルカ19章のザアカイ)のもとに雇われている人びとです。低賃金で貧しい人々であったようです。人々から税金の取り立てをしたことから、ローマの手先,背信者、売国奴、裏切り者とユダヤの人々から言われ激しい憎悪、軽蔑されていたようです。町の門や公道などの収税所にいて、人頭税、土地・財産税のほかに通行税や取引税等を取り立て、しかも自分の生活のため規定以上の税を取り立てたそうです。(当時の税は、ユダヤの税、神殿税、ローマの税と三重に課されていました。)

 

2、              本日の箇所は、マルコ、ルカにも同じ個所があります。マルコ、ルカでは徴税人の名がレビとなっており、マタイだけがマタイとなっており、いわばこの福音書を書いたマタイの証なのかもしれません。イエスさまは、通りがかりに収税所に座っていたマタイに、「わたしに従いなさい」といった。するとマタイは「立ち上がってイエスに従った」。そのあとマタイの家でイエス、弟子たち、マタイと食事をしていると徴税人仲間や罪びとたちが大勢やって来て食事の席に同席した。それを見ていたファリサイ派の人々は、弟子になぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪びとと一緒に食事をするのかと言った。それを聞いたイエスさまは、「医者を必要とするのは丈夫な人でなく病人である。私が求めるのは、憐れみであって、いけにえ、ではない。どういう意味か行って学びなさい。私が来たのは正しい人を招くためでなく罪びとを招くためである」といったのです。非常にわかりやすい簡潔な話であります。

  本日は、ここから3点、①マタイへの招き、②主の食卓への招き、➂私たちへの招きということを考えてみたい。

 

3、              まず、マタイへの招きです。マタイは、求道者でもなかった、イエスさまの噂は知っていたでしょうが、よくは知らなかったでしょう。突然イエスさまから、“私に従いなさい”と声をかけられ、あまりにもイエスさまに、神の権威を感じたのでしょう。突然立ち上がって従ったのです。ルカでは何もかも捨てて従ったとあります。まったく思いがけなく、劇的なことです。自分の仕事の都合、家庭の事情などとは言っていなく、しっかり立ち上がって従ったのです。アブラハムが行き先もわからず、神に従った、ノアは、本当に洪水が来るかわからなくても神さまに従い、船を作ったのと同じであります。イエスさまの招きには、マタイ側になんの根拠、理由はないのです。神の権威ある招きであり、一方的恵みなのです。マタイの行いによるのではなく神の賜物です。いまも、イエスさまは、この礼拝でも、私に従いなさいと招いておられます。この招きは受洗の時だけではなく、私どもの生活全般にもあるのです。我々はそれにきづいていないことがあります。招きは職場でも家庭、学校、教会の奉仕でも,私たちの全生活にあるのです。招きの声は、直接的なものだけでなく、牧師、他の人の話、言葉、書籍等、どのような仕方でもあるのです。私たちは仕事が忙しいからとか、家庭ですることがあるからとか、自分中心に考えて、招きに応じてないということはないでしょうか?神は、私たちそれぞれを、目的をもって創造しておられます。一人一人に神の目的があるのです。神の憐れみからの招きに、信頼して応答できたらと思います。結果はイエスさまが決めることです。招きに応じた、マタイは福音書まで書く人になったのです。

わたしは、3年前、ギデオン協会の会長をしていた時、台湾のギデオン協会の記念大会に招待されたことがありました。台湾の役員たちと交わっている中に、有名企業の社長をしている、40歳代の方がいました。そのかたに、仕事が忙しいのによくやれていますねと尋ねました。するとそのかたは、私は神さまのことを第1にしていますから、という答えが返ってきました。それを聞いて私は、そんなことを聞いたことがとても恥ずかしい思いをしました。

 

 次に、主の食卓への招きを考えてみましょう。マタイがイエスさまに従い、食卓を共にしているという噂はすぐに広がったのでしょう。それを知った同業の徴税人、罪びとが大勢集まってきて、マタイが招かれたのだから、自分たちも主の憐れみにすがろうとしたのです。彼らはいつもユダヤ社会の秩序では、ばかにされ、のけ者にされていたのです。ルカに、神殿での徴税人の祈りに、「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸をたたきながら、神さまわたしを憐れんでくださいと祈った」とあります。まさに、イエスさまが求めていたことであります。かれらは、主の食卓に招かれたのです。イエスさまが、“病人や罪人を招くために来た”というのを聞いたとき、この人々は心から病人、罪びとは自分のことだと思い、悔いており、憐れみをもとめていたのです。これは、イエスさまの裁きの言葉でもあり、これも受け入れているのです。

 

 つぎに、私たちへの招きについて考えてみたいと思います。丈夫な人、正しい人とはファリサイ派の人々だけのことでしょうか?ファリサイ派の人とは、ユダヤの律法をきちんと守り、10分の一献金、断食などを決められた以上にしており、宗教組織のきめごと、律法秩序の社会では模範的な人として人々から尊敬されていたのです。自分たちも、正しい人間だとうぬぼれ、同じことができない人々を見下していたのです。罪びとへの憐れみの心を失っていたのです。私たちも同じようなことに陥りやすいのではないでしょうか。私たちは、たえず人と比較し、自分の方が勝っていると思ったり、自分は正しいと、人を責めたりしていることはないでしょうか?相手の弱さ、痛みに、同じ立場に立ち、共に苦しんでいるでしょうか。

 イエスさまは、ファリサイ派の人々に、私が求めているのは憐れみ(愛)であって、いけにえ、ではないと、ホセア6:6、“わたしが喜ぶのは、愛であって、いけにえ、ではない。神を知ることであって、焼き尽くす献げものでない”から引用しています。

“これが、どういう意味か、行って学びなさい”と命じられたのです。そして“私が来たのは正しい人を招くためでなく、罪びとをまねくためである”といったのです。

律法秩序のなかで堕落しているファリサイ人にたいする痛みを抱えたイエスの愛です。

神の前に、義人はいない、一人もいないのです。すべての人が罪びとであり、イエスさまはすべての人を救いに招くために来られたのです。ファリサイ人をもここで招いているのです。この招きは、正しいものと心の中で思っている私たちへの招きでもあります

 

 

4、              皆様は、明治時代にもキリシタンの弾圧があったことはご存知でしょうか。昨年10

 月に、ユネスコ世界文化遺産に指定された五島列島のキリシタン遺産を教会の皆さんと見学してきました。この指定はキリスト教禁教下、250年間神父不在のなか、信仰を守り、信仰共同体を維持してきたことが認められたものです。江戸末期、鎖国が解け、長崎に神父が来日し、フランス人居留者のため大浦天守堂が献堂され、そこに潜伏していたキリシタンの人が同じ信仰だと告白に来たのです。続々とあらわれ、五島からも長崎に行き、さらには五島で神父を呼びミサまでしたのです。禁教下であったので捕まり、迫害され殉教された人も多くいたのです。明治6年までこの状態でした。神父来日という神の招きに、禁教下でもすぐ立ち上がり信仰告白したことは、マタイと同じことのように感じます。

5、              イエスさまは、十字架への途上でマタイを招きました。イエスさまは、わたしどもの罪を贖うため十字架にかかり死に、3日後に復活したのです。そして、いま、私たちすべての人の心の戸を叩いて招いておられます。マタイがイエスさまの招きにすぐ立ち上がり従ったように、イエスさまに信頼して応答し、新しい生活を歩んでみませんか!

招いたイエスさまは、すべて良いように導いてくださいます。“神は、実に、その一人子をお与えになったほどに世をあいされた。それは、み子を信ずるものが、一人として滅びることなく、永遠の命をもつためである(ヨハネ3:16)。

さあ、今週も、み言葉に従いつつ、イエスさまとともに元気に歩みましょう。

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日曜礼拝(2018年2月10日)

2019-02-10 16:07:46 | Weblog

主日礼拝(公現後第5

2019.2.10

主は来ませり

ルカによる福音書5:1-11(新共同訳)

導入部

   みなさん、おはようございます。最初にお祈りをします。心合わせてください。

 

本論部

一.信じるときに経験する驚き

   本日の箇所の舞台は「ゲネサレト湖」という湖の湖畔です。これは現在イスラエルの北部にある「ガリラヤ湖」の別名でして、そこに、イエス様が語る神さまのメッセージを聞きたいと、群衆が押し寄せてきた。

   そこでイエス様は、そこにいた漁師たちに頼んで、舟を借り、陸から少し漕ぎ出して、そこから群衆に、神の言葉を語った。

   その漁師たちの一人が、後にイエス様の一番弟子となるシモン・ペトロでした。イエスさまは話が終わった後、舟に乗っていたペトロにこのような命令をします。4節をご覧ください。

 

5:4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。

 

   2節を見ると、漁師たちは網を洗っていたとあります。これは、その日の漁が終わった後にやることであり、もしもう一度漁に行けば、またイチから洗い直さなければならない。

   しかも、ガリラヤ湖は、私も行ったことがありますが、けっこうでかい湖なんですね。茨城県の霞ケ浦くらいです。そっちは行ったことありませんが。

   その大きな湖の沖の方、奥まで舟を出して、網を降ろし、漁をしなさいとイエス様は言われる。これは、なかなかの重労働なんですね。

 

   しかも、ペトロの答えからはさらに衝撃的な事実が判明します。5節ですが、先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。

 

   なんと、ペトロたちは徹夜で漁をしていた。それなのに、何も取れなかった。せっかく徹夜したのに、無駄だった。

   この中には、徹夜で働いたり、勉強をすることがあるという方もいらっしゃるでしょう。私も今は徹夜がしんどくなりましたが、昔はよく徹夜してテスト勉強をしたりしました。

   ここでペトロに起こっていたことは、言うなれば、徹夜して勉強したのに、テスト範囲を間違ってたみたいなものです。みじめな気持ちがして、一瞬でも早く家に帰って寝たかったでしょう。

 

   しかも(三度目の「しかも」です)、もう一度沖へ行って網を降ろしなさいと言っているイエス様の本職は何でしょう。大工です。まあ救い主が本職なのかもしれませんが、漁に関してはしろうとのはずです。

   ペテロはこういう気持ちだったと思います。「こういう日は無理に決まっているんです。私たちはプロですよ。そんなことしても無駄ですよ。僕らは徹夜で一生懸命働いて、疲れてるんです。舟を貸しただけで十分じゃないですか。冗談はやめてください。」

   そのようにペテロが答えるかと思いきや、なんとペテロはこのように答えるのです。「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。

 

   このペテロのことばをどう思うでしょうか?

   書いていないことをあまり深読みするのは危険なことですが、私の想像では、この時点でペトロには、何かが起こるかもしれないという期待も、少しはあったのではないかと思うのです。

 

   なぜかと言うと、イエスさまが命令していることは、「まぁ、ちょっとやってみるか」というレベルの労働ではないんですね。徹夜して、疲れ果てているなかで、もう網も洗ったのに、こんな重労働、普通はできない。

   実は、この直前の箇所では、イエスさまはペトロの姑さんの高熱を癒しています。お義母さんを助けてくれたイエス先生がおっしゃるならという期待はあったのではないかと想像します。

 

   でも、そこまで期待はしていない。なぜなら、言い訳も用意しているからです。「たぶん無理だと思いますけど」みたいな感じですね。

   しかし、それでもペトロが幸いだったのは、不十分かもしれないけれど、ちょっとの期待だったかもしれないけれど、「イエスさまが言われたとおりやってみた」ということです。イエスさまが言われたとおりにやってみた。

 

   普通に考えたら、完全に常識外れのことです。ふつうじゃないことです。迷いもあったことでしょう。迷う方が当然なのです。正直に言って、疲れてめんどくさいと思ったかもしれない。

   「でも、イエスさまが、この方が言うなら」。それゆえに、ペトロはこの非常識な命令を実行したのです。飛び込んだ。すると、想像以上のことが起こった。おびただしい魚が網にかかったわけです。

 

二.イエスは主なり

   みなさんは、こういう奇跡って経験してみたいですか?羨ましいなあと、こういうことがあったら信じやすいのに、と思われるかもしれませんが、実は奇跡を経験するということは、怖いこと、恐ろしいことなのです。5:8をご覧ください。

 

5:8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。

 

   舟のなかで、ペトロはイエスに土下座します。ここで、ペトロはイエスに「主よ」と言います。5節では、ペトロはイエスのことを「先生」と言っていました。しかし、ここでは「主」と言っています。「主」とはどのような意味なのでしょうか?

 

   教会では、よく「主イエス・キリスト」と、イエスさまに、「主」をつけます。私などは普通に、あんまり考えずに「主」という言葉を使ってしまうこともありますが、実はこの当時、「主」という言葉は、非常に重い意味をもつことばでした。

   当時あった、ギリシア語の旧約聖書(もともとは旧約聖書はヘブライ語でしたが)においては、神さまにのみ使われる言葉でした。そして、当時の世界においては、当時の世界の支配者であったローマ皇帝、当時の世界ではローマ皇帝は神格化され、皇帝を礼拝する皇帝崇拝も盛んに行われていましたが、「主」というのはローマ皇帝に使われる言葉でした。

 

   ペトロが、イエスさまに「主」という言葉を使ったのは、あなたは神であるという信仰を告白しているのだということが分かります。

   もっと言えば、ローマ皇帝は神ではない。世界の王はイエスさまであり、他の神々は偶像であるという意味を持つのです。言うならば、非常に緊張感のある言葉を、ここでペトロは使っているのです。

 

   私たちも、もし「主イエス・キリスト」と言うならば、「主よ」と祈るならば、それはこういう意味なんです。イエスさま以外に、神はいない。イエスさま以外に主人はいない。イエスさまだけが、神であり、この世界の王であるのだという信仰を、言い表しているのです。

 

   明日2/11は、「建国記念の日」です。この日の由来は、ご存知のように、日本書紀という日本の神話において、初代天皇とされる神武天皇が即位したとされる日です。昔々、この国でも、ローマ皇帝と同じように、天皇も自らを神の子孫、神と等しい存在であるとしました。

   今では、天皇は、もちろん様々な素晴らしい働きもしてくださっていますが、実は今でも、天皇の最も重要な働きとされているのは日々皇居で行われる様々な神道儀式であり、非常に宗教的な存在なんですね。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、「君が代」という歌は、天皇・皇后は歌わないんですね。それは、自分たちに向けられている賛美歌だからです。

   特に、今年は天皇が変わりますので、様々な儀式が行われ、この国では今も神道が非常に強いということがよく分かる一年になると思いますが、この国で、「イエス・キリストだけが主だ」と告白することは、表明することは、このペトロの時代と同じような緊張感があると思うのです。

 

   本日の説教題は、「主は来ませり」です。ある方に「季節外れですね」と言われました。そうです。これはクリスマスの賛美歌である「もろびとこぞりて」のサビの部分です。

   「主は来ませり、主は来ませり、主は、主は、来ませり」と賛美しますが、私は昔これは何の呪文だろうかと思っていました。

   これは、主が来られた。神の子が、世界の王が、全世界の救い主が生まれた。新しい時代が幕を開けた。そういう意味の歌詞なんですね。

   「もろびと」というのは、「世界中の人々」という意味です。イエスさまは、世界の王だから、世界中の人が来て、この方を迎えなければならない。もろびとがこぞらなければならない。そういう歌なのであり、私たちもイエス・キリストが主である、全世界の救い主であるということを、歌い、また伝えていきたいと思いますが、ここで、あの偉大な奇跡を見たペトロは、イエスさまをこのような意味での「主」であると認識した。主が来られたということが分かった。

 

三.主に出会うと罪が分かる

   イエスが主だと分かったときにペトロが気づかされたのが、自分の罪でした。主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とペトロは叫ぶのです。

 

   イエスさまの偉大さが分かると、罪が分かる。ペトロにとっては、この主を少しでも疑って、言い訳を作ってしまったことに恐ろしさを感じたと思われますが、イエスさまの偉大さが分かったときに、自らの罪が分かったというのは私自身の経験でもありました。

 

   私が、本当にイエさまスの偉大さに気づかされたことがこれまでの人生のなかで4回あります。大学1年、2年、社会人1年目、そしてアメリカ留学2年目のときなのですが、4回とも、メッセージを聴くなかで、イエス様の偉大さを、イエスさまの愛の大きさを、イエスさまの力を知った。

   それはまさに奇跡でした。人間のことばを通して、神さまが働いてくださり、私の心に語ってくださった。この方は主だということが分かった。

   でも、そのときにまず見えてきたのは、自分の罪でした。ちょうど、光に近づくときに、闇の中では見えなかった汚れが見えるように、イエスさまに出会ったとき、自分は本当に罪人だと思った。

 

   私はクリスチャン家庭に生まれたので、幼い頃から自分は罪人だって知ってました。それもよく考えるとすごいことですが、それまでは、自分は罪人だけど、「普通の罪人」だと思っていた。

   「普通の罪人」ってなんだって話ですが、周りと一緒というか、ちょっと悪いことしちゃいます、神さま忘れちゃうこともあるんですよね〜くらいでした。

   でも、この4回は、それぞれ、もう私はもうダメだ。本当に自分は糞野郎だ。主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです本当にこれが、正直な思いだった。

 

   私は「罪」という教えほど、クリスチャンではない方にも分かりやすい聖書の教えはないと思っています。確かに、全ての人間は多かれ少なかれ自己中心であり、インターネットを開き、新聞を読み、テレビを見れば、人間に問題があるということはすぐに分かると思います。でも、本当の意味で、自分が罪人だということを知るには、イエスさまに、主に、出会うしかない。

    

   以前にお話ししましたが、私の友人で、中学校でギデオン協会が配っている聖書をもらって、生まれ初めて読んだときにこう思ったという方がいます。最初は、カタカナの羅列なのですが、だんだん、この書物はどうやら私のことを罪人扱いしているらしいということが分かった。そこでこう思った。「何様だ?」この方も、やがて、イエスさまと出会ったとき、自分の罪が分かったと話してくれました。

   あるいは、逆に、アメリカで出会った大学生で、クリスチャンになる前から、自分は罪人だとある程度分かっていた。アメリカで初めて教会に来て、聖書のメッセージを聞いてなるほど!と思った。そのような方がいるのですが、その彼も、イエス様と出会って、イエスさまを礼拝していけばいくほど、ますます自分の罪が分かっていったと言っています。

 

四.恐れることはない

   でも、もしもペトロが、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と叫んで、このストーリーが終わっていたとすれば、こんなに悲劇的なストーリーはありません。希望が全くない。でも、このストーリーはここで終わらない。自らの罪に恐れるペテロにイエスは、このように語られる。10節。

 

5:10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」

 

   罪を知ることは幸いなことです。なぜならば、それが、私たちの本当の姿だからです。そして、それでもなお愛してくださるその愛の、それでもなお救ってくださる救いの、それでもなおあきらめずに作り変え続けてくださるその力の偉大さが、もっともっと分かっていく。

   心配しなくていい、「恐れることはない。」こわがらなくてもよいのだと言ってくださることの意味が分かる。

   イエスさまは、ペトロに、「今から後、あなたは人間をとる漁師になると言われました。他の人を救う存在に、自分がそうされたように、他の人を、その弱さにもかかわらず、許し、愛し、期待する者へと変えられるのだ、約束をしてくださった。

 

   この主が来られた。主は来ませり。この主を迎えるかということが問われている。

   ペトロたちは、イエスさまについていきました。ご存知のように、その後ペトロは何度も失敗を繰り返します。今、夜の祈祷会で、江上先生がマルコの福音書から順番にメッセージをしてくださっていますが、本当にペトロはダメなんですね。イエスさまは主だと告白した、言ったとは思えない行動を繰り返す。

   そのなかで、ペトロは、さらに、少しずつ少しずつ、自分の罪を、そしてイエスさまの愛の深さを教えられていった。計り知れない恵みを知っていった。何度も何度も、恐れなくて良いのだということを語られていった。そしてやがて彼は変えられ、使徒言行録を見ると、「人に従うより神に従うべきです」と言い抜くことができる、恐れない者に変えられていくのです。

 

   イエスは今日あなたにも、「恐れることはない。」もう恐れなくて良いのだと語られている。

   非常識に見えても、沖へ漕ぎ出していきたい。自らの罪を、弱さを、もっと知っていきたい。そして、それにも関わらず示されるイエス様の愛をもっともっと知っていき、その愛ゆえに、仕える者として、この世界に送り出されていこうではありませんか。お祈りしましょう。

 

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日曜礼拝(2019年2月3日)

2019-02-03 12:50:44 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後)         2019.2.3

泣かなくてもいいのですよ」 ルカ7:11~14

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月第一日曜日を迎えました。この一か月「ぼっ~と生きてんじゃないよ。」とチコちゃんに叱られるかも知れません。今日も、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。

 皆さんに祈っていただきました私の母の告別式も無事感謝のうちに終わりました。母が天の御国に行ったことを確信しながらの地上での最後のお別れの時でした。久しぶりに親族と同席して、良き時を持つことができました。私たち家族も7人揃っての行動も、久しぶりで、とても有意義な時を過ごすことができました。皆さんのお祈りに感謝です。

私たち人間にとっての最大の恐れは、死です。全ての者には、必ず死は訪れるからです。しかし、死を経験しなければならない私たちに、「泣かなくてもいい」と声をかけて下さるのです。今日はルカによる福音書7章11節から17節を通して、「泣かなくてもいいのですよ」という題でお話しします。

 

Ⅱ本論部

 一、イエス様の目も心もあなたの上に注がれている

 今日の箇所は、死んだ息子が生き返るというお話しです。私たち人間は、全ての者が死を経験しなければなりません。聖書の中には、死を見ずして天に上げられたエノクやエリヤの話がありますが、全ての人は生まれた以上、死を経験しなければなりません。全ての人は、共通して死を経験しますが、その死にざまは、死に方は様々です。愛する家族に見守られて、天寿を全うして召される人がいます。先日、亡くなりました私の母も、兄の家族に見守られて、天寿を全うしました。老衰でした。また、災害や事故によって死を経験する方々がいます。病気による死、自死による死、貧困の死、虐待の死、孤独死と言われる死、その他、死に方は様々ですが、私たちは、誰もがいつか死を経験しなければなりません。

 ヨハネの黙示録14章13節には、「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」という言葉があります。死ぬということは、縁起が悪いので、あまり「死」については語らない、触れないというのが、この世の説ですが、聖書は、主にあって、つまりイエス様を信じる者は、イエス様を信頼する者は、幸いである、と語るのです。死は悲しむべきものではない。幸い、幸せな事なのだと聖書は語るのです。そこには、復活の望み、天国の望みがあるからです。

 私たちは、死ぬという悲劇と死別という悲劇を経験します。一人の人の死は、愛する者との別離を意味します。ラザロの死は、マルタ、マリアには大きな悲しみでした。会堂長ヤイロの12歳の娘の死は、ヤイロにとって、家族にとって大きな悲しみと痛みでした。そして、ナインの未亡人の一人息子の死も、彼女には大きな絶望と痛みを与えていたのです。

 ナインの町から遺体を墓場まで運ぶ一行に、イエス様と弟子たち、それを取り囲む人々の一行とが出くわしたのでした。悲しみに満ちた葬儀の一行と希望と祝福に満たされたイエス様の一行が、町の門の所で出会ったのです。

 ナインという町に住む一人息子を持つ母親は、夫を失い、そして、また、一人息子を失うという悲しみを経験します。イエス様は、この母親に対して、「憐れに思い」と聖書は記しています。他の訳では、「深く憐れみ、深い同情を寄せられ、かわいそうに思い」と訳されています。イエス様は、特にこの母親の事に関心を持たれたような気がします。それは、イエス様の母マリアさんも、夫ヨセフに先立たれた未亡人だったからです。マリアさんには、イエス様一人だけではなく数人の子どもたちがいました。しかし、大工の夫に先立たれて、子どもたちを食べさすために苦労したことをイエス様は知っていたでしょう。だからこそ、ご自分が父ヨセフの大工の仕事を継いで、家族を養っていたのではないでしょうか。ですから、夫に先立たれた母の気持ちが、イエス様には痛いほど感じたのではないでしょうか。

しかも、一人しかいない息子に先立たれた、この母親には、将来に対する希望が何もなかったのです。だからこそ、この母親を知る人々、近所の人々が、彼女の悲しみや苦しみに寄り添っていたのだと思うのです。

 やがて、イエス様の母マリアさんは、自分の息子のイエス様が十字架に磔(はりつけ)られるのを見、息子の死を経験するのです。ヨセフとマリアさんは、生まれたイエス様を神殿に連れて行きましたが、その時、シメオンという人は、イエス様を腕に抱き、マリアさんに対して、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」(ルカ2:35)と語ったのです。 一人息子を亡くした、この母親とやがて息子を十字架の死で失う母マリアとがオーバーラップしたのかも知れません。13節には、「主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」とありますが、元の訳では、「主は彼女を見て、彼女を憐れみ思い、「もう泣かなくてもよい」彼女に言われた。」とあり、彼女、つまり、この母親に強い関心を持って見つめておられたことがわかるのです。イエス様は、私たち一人ひとりをも見つめて下さり、私たち一人ひとりに強い関心を持っていて下さるのです。

 

 二、イエス様はあなたの苦しみや悲しみをご自分のもとのされる

 13節には、「主はこの母親を見て、憐れに思い」という言葉があります。「憐れに思い」とは、ただ、かわいそうだと感じる、同情するというような意味ではなく、相手の悲しみや苦しみを思うと、自分のはらわたがよじれ、腹が痛む、相手の悲しみや苦しみ、痛みを自分のことのように感じる、という強い思いがここにはあります。

 ルカによる福音書10章には、良きサマリア人の話がありますが、このサマリア人は、傷つき、倒れているユダヤ人に、「その人を見て、憐れみ思い」(ルカ10:33)とあります。

また、ルカによる福音書15章には、放蕩息子の話がありますが、全てのものを失い、傷つき、帰って来た息子を発見し、走り寄った父親は、「息子を見つけて、憐れに思い」(ルカ15:20)とあります。サマリア人も放蕩息子の父親も、倒れ、傷ついている者の痛みと苦しみを自分のこととしたのです。サマリア人は、強盗に襲われる危険を覚悟し、自分の持てるものを使いました。放蕩息子の父親は、財産の全てを失い、憐れな姿で帰って来た息子を、そのままの姿を受け入れたのです。簡単なことではないのです。彼らの痛みを自分の痛みとしたのです。彼らの悲しみを自分の悲しみとしたのです。単なる、同情やかわいそう、という感覚ではないのです。イエス様は、この母親の痛みと悲しみをご自分の痛みとし、ご自分の悲しみとされたのです。イエス様は、今私たちが背負っている痛みや悲しみ、苦しみをご自分の痛みや悲しみ、苦しみとして下さるのです。

ヘブライ人への手紙4章15節には、「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。」という言葉があります。イエス様は、大家族の中で、父を失った母を思いやり、弟や妹たちのために大工をして働きました。私たちが経験するような人間関係の問題や経済の問題、働けど働けど楽にならない状況を経験なさいました。失望や痛みを確かに経験されたのです。そして、罪がないのにもかかわらず、罪ある私たちのために十字架の上で、ご自分を犠牲にして下さったのです。私たちの罪を全て、イエス様が受けて、裁かれたのです。「見て、憐れに思い」というのは、疲れ、苦しみ、悲しみ、痛む、私たち全ての者に注がれているイエス様の愛なのです。

 

 三、イエス様はあなたの元にも訪れて下さる

 夫に先立たれ、一人息子が死んだ母親の悲しみは、知人や近所の人々にはわかりました。ですから、彼らは彼女に寄り添っていたのです。イエス様は、この母親に、「この母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。」のです。「もう泣かなくともよい」と言える人はイエス様以外には存在しないのです。イエス様は近づいて棺に手を触れられ、担いでいる人たちが立ち止まったので、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われたのです。すると、若者は起き上がって物を言い出したのです。生き返ったのです。

 イエス様が、多くの人々に触れて、「わたしの心だ」と言われてお癒しになられました。イエス様が触れられるのは、そこに愛があるからです。イエス様は、この母親を愛し、息子を愛し、母親と共に悲しんでいる群衆を愛して、棺に触れ、若者を生き返らせたのです。そして、悲しみと絶望の中にあった母親に生き返った息子を返されたのです。「もう泣かなくともよい」といわれた通りなのです。

 死んだ若者が生き返った出来事を目の当たりにした人々は、神の業に恐れを抱きました。そして、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言いました。大預言者とは、旧約聖書に出てくるエリヤやエリシャを指しているようです。

 列王記上17章には、ザレパテの未亡人の息子が死んで、その息子をエリヤが生き返らせたことが記されています。また、列王記下4章にはシュネムにおいて、エリシャが、裕福な夫人の息子が死んで、その息子を生き返らせたことが記されています。ナインの人々は、「大預言者が我々の間に現れた」と賛美しましたが、このエリヤやエリシャの死んだ息子を生き返らせたことを思い出して賛美したのではないでしょうか。ナインの町は、シュネムとエンドルの間にあり、エリシャが奇跡を起こしたゆかりの地でもあったのです。神様の愛の目は、旧約時代も新約の時代も、そして、今も確実に注がれているのです。そして、あなたの上にも、神様の愛は注ぎ続けられているのです。

 

 Ⅲ結論部

 16節には、「神はその民を心にかけてくださった」とあります。「心にかける」を直訳すると、「訪れてくださった」となります。イエス様は、私たち罪ある者に心をかけて下さり、私たち罪ある者の所に訪れて下さったのです。そして、罪を持ち滅びに向かう私たちのために、ご自分が十字架にかけられ、私たちの罪の裁きを受け、尊い血を流し、命をささげて下さったのです。そのことにより、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられ、イエス様が死んでよみがえられたことにより、死んでも生きる望み、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」と聖書が語るように、イエス様の十字架と復活を通して、死さえも幸いなものとされたのです。

 金曜日には、三浦綾子文学講座があり、森下先生が「塩狩峠」を読み解いて下さいました。列車が連結から離れて、このままでは多くの人が死ぬという事態に、自分の身体を犠牲にして多くの人を助けたというお話しです。その亡くなった日は、ふじ子さんという、愛する人との結納、婚約の日でした。主人公の母が、ふじ子さんに宛てた手紙に、「信夫の死は、母親として悲しゅうございます。けれどもまた、こんなにうれしいことはございません。この世の人はやがて、誰も彼も死んで参ります。しかし、多くの死の中で、信夫の死ほど、祝福された死は、少ないのではないでしょうか。ふじ子さん、このように信夫を導いて下さった神様に、心から感謝いたしましょう。」とありました。

 また、ふじ子さんの兄が、ふじ子さんと共に、信夫の死んだ場所に行く途中で、「かわいそうな奴、不具に生まれ、その上長い間闘病し、奇跡的にその病気に打ち勝ち、結婚が決まった喜びも束の間、結納が入る当日に信夫を失ってしまったのだ。何というむごい運命だろう。だが、そうは思いながらも、吉川はふじ子が、自分よりずっと本当の幸せをつかんだ人間のように思われた。」と記されているのです。

 私たちも、人生において、信仰生活において、むごい事、悲しい事、辛い事を一杯経験します。でも、そのような悲しみを経験しながらも、「自分よりずっと本当の幸せをつかんだ人間のように思われた。」とか、「信夫の死ほど、祝福された死は、少ないのではないでしょうか。」とあるように、苦しみや悲しみ、絶望さえ、イエス様にあって、良きこと、幸せだと思わせて下さるのです。私たちには、このイエス様がいつも共におられるのです。この週も、2月の月も、何があっても大丈夫です。イエス様は、全てのマイナスをプラスに、良きことに、祝福に変えて下さるのです。主と共に、安心してこの週も歩みましょう。

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