日曜礼拝(公現後第七) 2019.2.24
「良くならないけど良くなりたい」 ヨハネ5:1~9
Ⅰ導入部
おはようございます。2月の第四日曜日を迎えました。今日も、愛する皆さんと共に、私たちの救い主イエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。
先週の日曜日、浦和から教会に帰りますと第三礼拝が始まっておりました。少し疲れ気味で、メッセージ中に、少しうとうととしましたが、素晴らしいメッセージでした。イエス様の憐れみを本当に感謝することができました。10日の日曜日は、塚本先生、先週の17日は岩淵兄、今日は私と、週替わりのメッセージで、皆さんは本当に恵まれておられると思います。3月も週替わりのメッセージになると思いますので、こうご期待下さい。
今日は、ヨハネによる福音書5章1節から9節を通して、「良くならないけど良くなりたい」という題でお話し致します。
Ⅱ本論部
一、仕方のない人生を送る
今日は、ベトザタと呼ばれる池のそばでの出来事です。5つの回廊(リビングバイブルでは、屋根つきの5つの廊下)があり、そこには、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人という人々が大勢横たわっていた、と聖書は記しています。
今でいえば、病院と言ったところでしょうか。体に病や痛みを持つ人々がいたのです。少しの痛みや調子が悪いぐらいではなく、重症と言われる人、生活に大きな支障がある人、困難な人々がいたわけです。ここに横たわっている人々は、喜びや幸せを味わうことのできない人、幸せな人生を歩むことを許されていない人々と言えるのかも知れません。1節には、ユダヤ人の祭りがあった、と記されているように、ベドザタの池の近くでは、盛大なお祭りが行われていたようです。お祭りとは、日ごろの苦労や苦しみ、痛みを忘れて、横において、楽しむものでしょう。この祭りの時だけは、日ごろ背負っているものを脇に置いて、忘れて、楽しむのです。けれども、ベトザタの池のそばにいた人々、5つの回廊に横たわっている人々は、日ごろの苦労や痛み、苦しみを脇へ置いておくことのできる人々ではありませんでした。自分の背負っている苦しみを忘れて祭りをすることなど、到底することのできない人々だったのです。
そこに横たわっている人々は、そこに何故いたのかと言いますと、4節なのですが、新共同訳聖書には、4節がありません。4節の代わりに、十字の葉っぱのような印がついています。ヨハネによる福音書の最後のページに、底本に節が欠けている箇所の異本による訳文とあります。3節bから4節として、「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。」という言葉があります。
口語訳聖書では、4節があります。今読んだ内容です。これは、聖書には、写本というものがあり、写本が多ければ多いほど正確だと言われています。聖書の翻訳のもととなった写本には、4節は、もともとなかった部分ではないかと言われていますが、3節後半から4節までの部分を含んだ有力な写本もあるため、こういう説明を含んだ写本もありますよ、という意味で、ヨハネによる福音書の最後のページに載せるようにしているようです。
でも、この説明があるので、回廊に横たわっていたという理由がわかります。
多くの病んでいる人々、そこには競争があり、人を出し抜いたり、人を押しのけてまで、最初に入らないかぎり、癒されないのです。しかし、ほとんどの人々が、癒されないままで、そこにい続けているのです。そこには、希望も将来もないけれども、そこにいるしか仕方のない人生を送っていたのです。私たちの人生は、どうでしょうか。この人々と同じような人生を歩んでいることはないでしょうか。イエス様の業は、そこになされるのです。
二、「良くなりたい」、と叫びたい
ここには、大勢の人が横たわっていましたが、聖書はただ一人の人を紹介しています。
5節の後半には、「そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。」とあります。この三十八年間病気で苦しんでいる人について、榎本保郎先生の書いた新約聖書一日一章では、このように記されていました。「その人は、水が動いても自分を池の中に入れてくれる人はいないし、自分が入ろうと思えば、他の人が先に入ってしまう。自分はどうせだめなのだという絶望、あきらめの中に横たわっていた。それでもなお、恵みの家に来ていることを気休めにしていた。」
イエス様は、大勢の人が横たわっていたけれども、この38年間病気で苦しみ、横たわっている人を見たのです。そして、長い間病気であることを知ったと聖書は記しています。イエス様は、よく人を観察し、よく見られるお方です。その人の現状、状態、表情、姿形をよく見られます。そして、外見だけではなく、この人が病気のゆえに長い間苦しんで来たこと、耐えてきたこと、多くの病気を持つ人々の間で、水が動くのを期待し、その瞬間のために、水面を凝視し続けてきたこと、いつの間にか、自分の病気が癒されることに対しても期待を持てなくなったこと、けれども、この場所にい続けるしか仕方がないこと、その人の心の苦しみ、切なさ、痛み、怒り、憎しみの思いを知っていて下さるのです。
イエス様は、この人に言われました。「良くなりたいか」と。良くなりたいから、ここにいるのでしょう。38年間もいるのでしょう。しかし、良くならないままで38年間が過ぎたのです。「良くならないけど良くなりたい」のです。しかし、その希望も消えかかっていたのではないでしょうか。あきらめの思いがあったのではないでしょうか。
イエス様の質問に答えます。7節です。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」早い者、強い者が勝ち残れる世界です。この人は、「良くなりたいです」とは答えませんでした。本当なら、そう答えたいはずです。しかし、良くはなりたいけれども、良くなれない理由、水が動く時、自分のために手伝ってくれる人が誰もいない。強い人、早い人が先に行ってしまう、と答えました。彼は、だれにも愛されない、見向きもされない孤独だったのです。
私たちも、信仰的に成長したい、恵まれたいと思います。けれども、成長したい、恵まれたい、という代わりに、そうなれない理由をまくしたてることがあるように思うのです。
この人が、あの人が、云々。イエス様は、この人を見、知っていて下さっている。そして、救い主なるお方、癒し主であるお方が、「良くなりたいか」と問われているのですから、「良くなりたいです。」と答えていいのです。私たちも、そう答えたいと思います。
三、床を担ぐ人生を生きる
8節を共に読みましょう。「イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」」 「起き上がる」という言葉は、「エゲイロ」という言葉が使われていますが、もともとは、「目を覚まさせる」という意味があるようです。さらに、「死人を復活させる」という意味も、この言葉にはあるようです。今まで、死んだような者を目覚めさせ、復活させるのです。イエス様は、「床を担いで」と言われました。「床」とは、絶望へ向かわせる場所、孤独の場所、そこは助ける者がいないことを意味します。その「床」を担ぐ。
「担ぐ」は「アイロー」という言葉が使われていますが、取り除くという意味があります。
「床を担ぐ」とは、この人は、38年間も床で過ごしました。床で過ごす時間が長くなった。床に縛られた人生であった。けれども、その場所が、神の栄光の現れる場所となるのです。イエス様は、生まれつき目に見えない人に、「神のみ業が現れるためである」と宣言され、主のみ業を行われたのです。
また、「床を担ぐ」とは、今まで病気で床の上で生活してきた。床に縛れていた人生ではなく、絶望の人生ではなく、神のみ業を信じて、病気という苦しみが、悲しみが、痛みが支配する人生ではなく、神様を信じて自分が主体となって生きていくということを現しているように思うのです。この人を見て、知って下さった神としての権威を通して、宣言された「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」という言葉を信じて、生きるものとなるのです。この人は、イエス様の言葉を信じて、今まででのように床に縛られ、病に縛られる人生ではなく、イエス様の言葉を信じて生きる道を歩み始めるのです。そして、この人は、癒されて、床を担ぐ人生、どのような苦しみの中にあっても、それに縛られることなく、イエス様を信じて歩み始めたのです。
イエス様は、私たち、一人ひとりの状況を、境遇を見て下さり、私たちの辛い思いや傷ついた心を知って下さるお方です。愛のお方です。この方が、私たちを愛して、私たちの罪を赦すために、十字架にかかって尊い血を最後の一滴まで流して下さり、その命をささげて下さったのです。そのことにより、私たちの罪が赦され、魂に救いが与えられたのです。そして、イエス様が死んでよみがえることにより、私たちに死んでも生きる命、永遠の命、よみがえりの命を与えて下さったのです。
イエス様は、私たちがどのような苦しみや悲しみを、痛みを絶望を経験しようとも、私たちのそばに来て、「良くなりたいか」と問われ、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」、苦しみや悲しみ、絶望、あきらめの場所に、い続けないで、神の言葉を信じるのだ。神の愛に信頼を置くのだと、語って下さるのです。
Ⅲ結論部
38年間、病気で苦しんで来たこの人は、ベトザタ、憐れみの家にいながら、恵みの場所と言われる場所にいながらも、惰性とあきらめの中におり、そこに、床にいることが気休めとなっていたのです。榎本保先生は、新約聖書一日一章でこう語ります。
「私は、気休め程度に信仰生活を送っている人が多いのではないかと思う。なにか歯が抜けたような気持ちが悪いから日曜日の礼拝に行くとか、小さい時からずっとしていることだから、そうしないと気持ちが悪いというようなことで、そこでは、生ける神に出会い、神の言葉によってもう一度、自分の内に新しい生命を与えられるという希望や期待がない。三十八年の長い間ここに来ていても、それほど驚くこともなかったから、今日もまたそうであろうというふうに、いつまでも自分の過去にとらわれ、神の全能をみていこうとせず、また、神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないかと思う。私たちは、せっかく恵みの家に来ておりながら、そこで自分は恵みにあずかりたいのだという思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのではないだろうか。」
私たちは、この1週間様々な所を通らされ、苦しみや悲しみや痛みを経験したでしょう。そのような経験を持つ私たちは、今日の、この礼拝、イエス・キリスト様が中心におられ、このお方が支配される礼拝に出ながら、何の期待も持てないということがあるのでしょうか。私たちのために、私たちを愛するがゆえに、私たちの代わりに十字架にかかり、命をなげだされたイエス様が、私たちの祈りに、思いに答えられないはずはないのです。
全能なる神様、死を打ち破り復活されたイエス様は、今、私たちと共におられ、私たちを恵み、祝福して下さるのです。私たちは、この週も、どのような悪い経験をしようとも、苦しみを、絶望を経験しようとも大丈夫なのです。私たちといつもそばにおられ、見ておられるイエス様は、私たちの経験する苦しみを、悲しみを知り、理解して下さるのです。だからこそ、この週も、イエス様と共に歩み、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」というお言葉に従い、イエス様に全てをお委ねして立ち上がろうではありませんか。