江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年11月26日)

2023-11-27 13:46:19 | Weblog

門田純師のために、説教原稿はありません。

青葉台教会のホームページより、ユーチューブでの映像でご覧になるか、

あるいは音声でお聞きください。

よろしくお願いいたします。

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日曜礼拝(23年11月19日)

2023-11-19 16:42:25 | Weblog

聖霊降臨節第26主日礼拝説教(青葉台教会)                                                        2023年11月19日

満山 浩之

『まず、一から始めよう』

マタイによる福音書 25章14節〜30節

  

 この話は与えられた、預けられたタラントンの話です。神様から与えられた、神様から預けられた賜物と言っても良いでしょう。

 では、皆さんに質問です。自分に賜物があると思う人、どれだけいらっしゃるでしょうか。では、自分に賜物がないと思う人、どれだけいらっしゃいますか。私を含め日本人の悪い癖なのですが、出来るのに出来ないと言ったり、変な遠慮をしてしまうところがあります。それが文化、風習なので身に染みついて仕方ない部分ではあるのですが、なんてもったいないのかなって、いつも思います。私は今、このようにして皆さんの前で、話をする職業に就いていますが、正直苦手で、極力裏で静かにしていたい人でした。前に出るとモジモジしていて、なかなか言葉が出てこない人でした。まぁ、今も出て来ないのですけど。だから、原稿を書いて準備しているのです。モジモジ出身の牧師です。でも、神様が招いてくださるので、嫌々ではないですが、「私で良いのですか、本当に?」という気持ちでいつもいます。クリスチャンになってからまだ2年もしないうちに、牧師養成学校である神学校へと導かれ、聖書知識は皆無。「イエス様って誰?」というところから、クリスチャン生活が始まり、「神様ってどんな方なの?」ってところから、神学校生活が始まり、苦しみに苦しみ抜いた神学校生活でした。猛勉強し、猛訓練し、何とか神学校を卒業することが出来ました。苦行としか思えなかった神学校。今から7年前の神学校1年生の時に、青葉台教会の皆さんに支えられ、色々とお世話になりました。感謝しております。「モジモジ出身の私を牧師に招くなんて神様、頼みます。助けてください。」いつもこのように思っているのです。

 でも、最近慣れてきました。牧師となって6年目に入っていますが、慣れるもんなんですね人って。まだまだ、力が入ってしまうと大事なところで噛んでしまったり、言いたいことがまとまっていなかったりと、訓練が必要なことが多々あるのですが、そこそこギリギリのところで牧師をやれてる感は出てきたかなと、神様に感謝しております。皆さん、最初は誰も出来ないことだらけなのです。音楽家も、最初はまったく弾けないのです。サッカー選手も、最初はものすごく下手くそなのです。私を含めて。学校の先生も最初は何にも知らないのです。どんな仕事も最初は何にも出来ないことだらけなのです。このような人たちが、出来るようになるのには、必ずコツコツとやり続けているからです。人間の力って、ものすごいのです。神様が創造された、造って下さった、神様の形に似せて造られた私たち人間というのは、ものすごい力を持っているのです。それを過小評価しないでください。

 神様は、あなたをこの世に生きる存在として、命の息を吹き入れて下さいました。神様の目から見たら、あなたは高価で尊い、愛される存在として、この世に誕生させて下さったのです。このことをまずは、心の中に留めて、忘れないようにしてください。

 さて、今日の箇所でイエス様は、弟子たちに伝えたいことがありました。それはこれから伝道していく中で、自分の賜物をどのように用いていくか、ということです。イエス様はこの時、いよいよ十字架での死が近づいているときでした。だから、その前に伝えたかったのです。これからは、イエス様ご自身がいなくなってしまう。そのとき、君たちはどのようにして伝道していくのかって。ここに出てくる1タラントンというのは、6,000デナリオンのことです。1デナリオンは労働者1日分の賃金ですので、今の価値観で言いますと、1万円でしょうか。そうなると6,000日分、6,000万円が1タラントンとなります。おそよ16年と半年分の労働賃金を預けられたということになるのです。かなりの大きな額を僕たちは受け取っていたのです。5タラントンの人は、3億円、2タラントンの人は1億2,000万円、それぞれが預けられました。ここで注目して頂きたいのが、15節の「それぞれの力に応じて」という言葉です。誰もが同じ額を預かった訳ではなくて、それぞれの能力に応じて、預かった額が違うというところです。私たちは、どうしても周りと見比べてしまう弱いところがあります。「あの人はものすごい能力が高くて、何でも出来て凄いな羨ましいな。私はあんなことは出来ないし、何一つ出来ないや。」「私は1タラントンしか与えられていないから、何も出来ないや」1タラントンしか、ではなくて、1タラントンも、です。

 ローマの信徒への手紙にこのような言葉があります。「私たちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、勧める人は勧めに精を出しなさい。施しをする人は惜しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。」(ローマ12:6-8)

 私たちは異なった賜物が与えられているのです。いや、神様から賜物を預かっているのです。人一人一人顔や性格が違うように、この賜物もそれぞれが違う物を預かっているのです。神様が命を与えて、この世に生きる者として下さっている。それと同時に、私たち人間一人一人に誰とも比較しなくても良い、その人にしか預けていない、その人にしか出来ない賜物を預けて下さっているのです。実は私たちは、これが賜物なのかと気付いていないものがたくさんあるのです。「私はあの人のようには出来ない」だとか。「あんなに立派に出来るわけがない」だとか。そんなことを少しでも思っておられる方、心に少しでも感じておられる方。あなたはもしかしたら、神様から預かっているその賜物を地中に埋めているのかもしれない。神様からしたら、「えっ、何言ってるの?あなたにしか出来ないと思っているから、あなたにこの賜物を預けているのだよ。」と思っておられます。少し興味があるもの、あのことは美しいな、これをやっていることはまったく苦にならないな、むしろ時間が過ぎるのを忘れてしまうくらい。また、本当は向いてはいないと自分では思っているけれど、なんか心の内側で、行うように促されている気がする。心の内におられる聖霊なる神様に言われている気がする。そういう思い、そう感じることがないでしょうか。

 教会というのは、イエス様を頭とする共同体、人の集まりのことです。イエス様がリーダーであって、そこに集う人々はその体です。サッカーに例えるならば、みんながGKなら、攻撃出来ません。みんながアタッカーなら守備が出来ません。ゴールを守る人、守備をする人、攻撃をする人、試合をコントロールする人、体が強い人、小さい小柄な人、足が速い人、声を出し続けられる人、様々な人がいるからこそチームが成り立ち、戦うことができるのです。全員が同じことをする必要はありません。人と違くて良いのです。神様はあなたを高価で、特別な大切な存在として愛して下さっています。もし、自分の賜物が何なのか分からないのなら、神様との関係の中で、神様に聞いてみてください。

 求めなさい、そうすれば与えられます。 探しなさい、そうすれば見つかります。門をたたきなさい、そうすれば開かれます。世の中には、豊かな賜物に恵まれていて、羨ましいような人もいます。でも彼らは最初からそうだったのではありません。

 世界的な伝道者として有名なビリー・グラハムという人物をご存知でしょうか。最初はアメリカの国内でも無名の伝道者でしかありませんでした。でも、彼は神様が与えてくださった、預けてくださった賜物を信じて、忠実に伝道者としての奉仕を続けるうちに、カルフォルニア州で素晴らしいリバイバルが起こり、それがきっかけとなって全米に名が知れ渡って、ついには世界的に用いられるようになったのです。彼の素晴らしい伝道者としての賜物は、わずかな時間で与えられた物ではないのです。むしろ、忠実にコツコツと用いることによって、やり続けることによって、段々と豊かにされていったのです。

 他の人の豊かな賜物を羨むよりも、まずは自分の賜物を用いて見ることが必要です。ですからまずは、一から始めてみましょう。誰も最初から5や10の人はいません。誰もがコツコツとやり続けたからこそ、用いることが出来るのです。その心、行いに神様は大いに喜んでくださいます。あなたがその与えられている、神様から預かっている賜物を用いるならば、神様は必ずあなたを祝福して下さって、その賜物を豊かに用いてくださいます。

 大丈夫、あなたは神様から愛されているのですから、あなたは神様から見たら高価で尊いですから、あなたは特別で大切な存在ですから、この神様に感謝をし、そして、自分には何が与えられているのか、自分には神様から何を預かっているだろうか、神様と一対一の時間を持って、聞いてみてください。求めるものには必ず、答えを与えられます。探すものには必ず、見つけられるようにされます。門をたたくものには必ず、開かれます。生まれ持った才能、時間、健康、金銭的な物は、自分で勝ち取ったものではなくて、神様が与えて下さった、神様があなたに預けて下さったものです。イエス様はそのことを、今日の箇所の弟子たちにも、そして、今を生きる私たちにも伝えておられます。

 さぁ、あなたは何を神様から与えられていますか、何を預かっていますか。そのことを思い巡らし、神様に問い求めて、このお方に信頼して、このお方にすべてを委ねて、このお方を信じて、今週も、そしてこれからも歩んで参りましょう。

 

 

 

 

 

 

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日曜礼拝(23年11月12日)

2023-11-12 14:41:59 | Weblog

創立55周年記念礼拝(三位一体後第23)  2023.11.12

             「教会創立感謝で55(ゴーゴー)」 マタイ16:13~20

 

Ⅰ導入部

おはようございます。青葉台教会創立55周年おめでとうございます。今日は、皆さんと共に、教会創立55周年を共にお祝いできます事を心から感謝致します。1968年11月3日、尾山台ナザレン教会から株分けで21名の方々を中心に始められました。伊豆師、大江師、持田師、森本師、私で5代目となります。多くの方々が救われ、入会されて大所帯となりました。私たちは、コロナ感染のために苦しい所を通らされましたが、その中にあっても洗礼者、入会者が与えられ、教会の歩みが守られてまいりました。また、コロナ感染の中で、礼拝にお出でになられなくなった方々、オンラインでの礼拝参加の方々が増えました。コロナ感染は、少しおさまりましたがまだまだ感染者がおられます。そのような中ですが、先日は創立55周年を記念して、ユーオディア・アンサンブルをお迎えしてのコンサート、久々に外部の方々に案内してたくさんの方々が集われました。感謝です。

私たちは、今日創立55周年を心からお祝いし、55年間共におられ、恵み導いて下さいました救い主イエス・キリスト様を心から感謝し、賛美し、礼拝したいと思います。

今日は、マタイによる福音書16章13節から20節を通して、「教会創立感謝で55(ゴーゴー)」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、あなたのお考えは?

夫婦の間で、親子の間で、恋人同士の間で、夫は妻を妻は夫を愛します。親は子を、子は親を愛します。恋人同士はお互いを愛します。しかし、愛というのは、相手が自分を愛しているとわかっていても、やはり確かめたいものでしょう。愛しているとわかっていても、「わたしのこと愛してる」と聞きたい。訪ねたい。確認したいのは当然のことです。イエス様は、御自身に対する評判など気にしません。しかし、イエス様は弟子たちを愛していたので、弟子たちの御自分への愛を疑ったりはしておられませんが、御自分をどう思っているのかを知りたかったのでしょう。フィリポ・カイサリアという異邦人の地、異教の神々が祭ってある場所で、弟子たちの御自分に対する思いを訪ねられるのです。

弟子たちの思いを知る前に、人々のイエス様に対する考えを尋ねます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と。「人の子」とはイエス様のことです。14節。「弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」」 イエス様の話を聞き、数々の奇蹟を見た人々は、イエス様が何者であるかは、様々な考え方がありました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、エレミヤ、預言者の一人と神様の言葉を聞き、それを語り、神様を指し示した預言者であると考えたということです。どれも偉大な人物です。すごい人々です。しかし、イエス様は預言者ではなく、父なる神様から遣わされたお方でした。

そこでイエス様は、弟子たちに尋ねます。もちろん、イエス様は間もなく十字架にかかられるので、弟子たちがイエス様の身分、本質をわかっているのか、弟子たちにイエス様の働きを継続させることができるのかという思いと、イエス様は弟子たちを愛しておられるので、御自分に対する弟子たちの考え方を訪ねます。15節です。「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」」 人々は、それぞれにイエス様に対する見方がありましたが、じゃ、弟子たちはイエス様をどう見ているか、直接に聞かれました。弟子たちは、どう答えたらいいか考えたことでしょう。口先だけの答えなら、イエス様はすぐに見抜きます。弟子たちのリーダーとも言えるペトロが答えます。いつも、考えてから手を上げて答えるペトロですが、16節です。「シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。」ペトロは、「あなたはメシア、生ける神の子です」とイエス様のことを言いました。「メシア」とは、ヘブライ語で「油注がれた者」という意味で、ギリシャ語に訳すと「キリスト」になります。「メシア」とか「キリスト」は、来るべき救い主を意味していました。

ペトロの答えにイエス様は言われます。17節です。「すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」」 イエス様は、ペトロに「シモン・バルヨナ」と言われました。

イエス様は、御自分で名前を付けたペトロと呼んでおられましたが、今回は、「シモン・バルヨナ」という名前、ペトロの本名を言われたのです。とても大切な時、重要な事を語られる時には、本名を呼ばれました。イエス様はペトロをほめられたのです。

 

二、ペトロの信仰告白の上に教会を建てる

イエス様は、ペトロに「あなたは幸いだ。」と言われました。ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したことに対して、「あなたは幸いだ。」と言われたのです。

ペトロの心からの信仰告白でした。心からの信仰告白というのは、神様が与えて下さった恵みや幸せに対して感謝する、ということから生まれてくるものでしょう。ペトロは、3年と少しの間、イエス様と交わりの中で、イエス様の言葉や教え、様々な奇跡のみ業を通して、イエス様が、メシア、キリスト、救い主であり、神の子であることを数々の恵みの中で体験し、そのように信仰告白したのです。しかし、それは、ペトロ自身から出たもの、彼の人格、知識や信仰から来たものではなくて、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」とイエス様が言われたように、神様の導きでした。

 私たちが導かれてイエス様を私たちの救い主として信じるという時も、私たちは、自分の知識や信仰でイエス様を救い主として信じることは不可能です。信じることができたのは、聖霊の助けと導きなのです。そして、それはとても幸いなことなのです。「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(Ⅰコリント12:3)とあります。

 18節には、「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」とあります。ローマ・カトリック教会では、ここでペトロが個人的に評価されたということで、ローマ教皇が代々、ペトロの監督権を受け継ぐと理解しています。ペトロのこれからの使徒的教会を形成していく中で、果たしていく役割を考えると、イエス様がペトロに個人的に語られたことには大きな意味があるのでしょう。しかし、イエス様はペトロ個人というよりも、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の上に、教会を建てると言われたとプロテスタント教会は考えるのです。ギリシャ語では、「あなたはペトロス、わたしはこのペトラの上にわたしの教会を建てる。」となります。「ペトロス」とは小石というような意味で、「ペトラ」とは、大きな岩、

という意味です。イエス様は、ペトロに「あなたの上に教会を建てる」とは言われませんでした。「この岩の上に」と言われたのです。「この岩」とはイエス様の事だと思うのです。

「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」」(マタイ7:24)とあります。

わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」とイエス様は言われました。教会は、牧師や教会員のものではなくて、イエス様のものです。教会は、私たちが建てるのではなくて、イエス様が建てて下さるのです。教会は、イエス様の所有であり、イエス様によって運営されるのです。青葉台教会は、教会員の献金で建てられ、日本ナザレン教団の所有であり、青葉台教会の役員を中心に、教会員によって運営されているのですが、実は、青葉台教会はイエス様の所有であり、イエス様が運営されているのです。また、イエス様が言われた「わたしの教会」とは、建物としての教会というよりも、目に見えない霊的な意味での信仰者の交わりとしての教会を意味しているのです。そして、この教会の前では、サタンの力、死の力も通用しないのです。勝ち得て余りあるのです。

 

三、天国の鍵、それは福音を伝えること

19節には、「「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」」とあります。イエス様は、ペトロに「天の国の鍵を授ける。」と言われました。この「」は、複数形になっていて、家の管理人がいくつもの鍵を持ち歩いて、家全体を管理する務めを担っていたことに対応しているようです。ペトロを代表する使徒たちは、イエス様から天国の管理が任せられているということです。ペトロは、ペンテコステの日、使徒を代表して福音を語り、ペトロの説教を通して多くの人々が救われました。また、ペトロは異邦人に、最初に

福音を語り、異邦人伝道の先駆けになったのでした。その意味では、ペトロに天国の鍵、ペトロを通して、天国に導く福音を語り、人々が救われるという恵みがあったのです。

天の国の鍵を授ける。」という意味が、「つなぐ」「解く」という言葉で示されています。

つなぐ」「解く」は、元来、律法に関して用いられた法律用語で、ラビたちには親しいものでした。律法には、細かな決まりがあって、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20:8)という掟一つに33もの規則があり、安息日に歩く距離は1㎞とか、細かな規則がありました。ですから、律法学者たちが、日常生活の様々な行為の善し悪しを定める権威を持っていたので、ある行為が律法にかなった行為かどうかを定め、律法の遵守から免れているということを律法から「解かれている」と表現し、律法を守る義務がある時は、「つながれている」と表現したのです。この「つなぐ」「解く」の権威がペトロに与えられているのです。マタイによる18章18節で、「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」とあり、イエス様は、ペトロ以外の弟子たちにも「つなぐ」「解く」の権威を与えられていることがわかります。

20節で「それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。」とあります。当時、ユダヤ人の間では、間違ったメシアに対する期待があり、ローマの権力の打倒を目指すメシアの期待が高まっていたのです。

「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの信仰告白は、クリスチャンの一致した信仰告白であり、教会の基礎となるものです。イエス様が私たち罪人のために、身代わりに父なる神様から裁かれ、十字架の上で尊い血を流し、命をささげて下さった。死んで下さり墓に葬られましたが、三日目に甦り、罪と死に打ち勝たれました。イエス様の十字架の死と復活を通して、私たち罪人の全ての罪が赦され、義とされ、清められ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。イエス様こそ、メシア、救い主、神の子なのです。私たちは、毎週、この信仰告白をするのです。

 

Ⅲ結論部

イエス様は、エルサレムから遠く離れた異邦人の地、偶像の町で、弟子たちに信仰告白を導かれました。私たちは、毎週、使徒信条により信仰告白をします。信仰告白は教会でするというのが通常でしょう。でも、イエス様は、エルサレム神殿ではなく、異教の地、偶像が溢れている所で、「わたしは何者か」と問われたのです。私たちの住む日本は、偶像に満ちた所です。家族がクリスチャンでなければ、家には神棚や仏壇があるでしょう。また、多くの寺や神社があります。正月には多くの人々がお参りに行くのです。私たちは、そのような所で信仰生活を送っているのです。教会では、大きな声で祈りもするし、賛美もします。信仰告白もします。しかし、イエス様は、あえてそのような場所だからこそ、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われるのだと思うのです。そのように問いかけられるのには大きな意味があるのです。教会の中では、クリスチャンばかりの所では、信仰告白も楽でしょう。当たり前でしょう。しかし、教会を一歩出れば、そこは異教の地、祈りも、賛美も、信仰告白もなかなか難しい。家族の中で、自分だけがクリスチャンならば、思い切って賛美をしたり、お祈りをしたり、他の本を読むように聖書を読むというのにも苦労があるのでしょう。私もそうでしたのでよくわかります。イエス様は、教会の中ではなく、教会の外で、この世で、家庭で、会社で、学校で、地域で、偶像礼拝に満ちている場所で、イエス様の知らない人々の中で、イエス様を、信仰を必要としない人々の中で、あなたに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われるのです。あなたはどう答えられるのでしょうか。ペトロのように、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白したいと思うのです。

私たちは、青葉台教会の創立55周年記念礼拝を守っています。60周年を目指して歩んでまいりましょう、60周年まで、もつかどうかと弱気にならないで、60周年までしぶとく生きていただきたい、信仰生活をゴーゴーしていただきたいと思います。私たちは、今までと同じように、礼拝に集い、イエス様を救い主と告白すると同時に、キリスト者として、その言葉と行動を通して、イエス様を証しする者となりたいのです。この週もイエス様が共におられます。イエス様と共に信仰生活をゴーゴーしてまいりましょう。

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日曜礼拝(23年11月5日)

2023-11-05 13:06:39 | Weblog

日曜礼拝(三位一体後第22)      2023.11.5

                 「天国へのプラン」 ヨハネ14:1~9

 

Ⅰ導入部

おはようございます。11月の第一日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、私たちの救い主であるイエス・キリスト様を賛美し、礼拝できますことを感謝致します。

今日は、召天者記念礼拝として守り、天国への望みを持ちたいと思います。幼い者、若い者、働き盛りの者、年を重ねた者、病いや事故で召された者、様々な状況の中で神様のみ許に召されて行かれました。生も死も、私たち自身の思いで選び取ることはできません。神様のみ心です。けれども、あまりにも若く、あるいは人生の半ばで、大切な方々を残しながらの死、本人にとりましても家族や友人、知人にとりましても、その死をなかなか受け入れらないということがあります。愛する者との別離は、本当に悲しいものです。けれども、私たちは悲しみだけで終わるものではありません。もう一度天国で会えるという神様の約束があります。私たちはその約束を信じて、私たちも天国へのプランを持ちたいと思うのです。今日は、ヨハネによる福音書14章1節から9節を通して、「天国へのプラン」という題でお話し致します。

Ⅱ本論部

一、神様を信じイエス様を信じる

今日の箇所は、イエス様と弟子たちとの最後の晩餐の席でのお話しです。イエス様は、12人の弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭かれ、互いに愛し合うことを示されました。この後、ゲッセマネで捕らえられ、裁判にかけられ、明日は十字架刑にかけられて死ぬのです。そのような状況で、イエス様は、最後の食事の時、弟子たちとの交わりをとても大切にされたのです。いつもと違うイエス様の様子に弟子たちも何かを感じていたのでしょう。13章36節で、イエス様が「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」と言われ、弟子たちの心は不安で一杯になったことでしょう。

14章1節には、「「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」」とあります。今までにイエス様は、御自身が心を騒がせられたことがありました。ラザロの死で、マリアが泣き、ユダヤ人たちが泣いているのを見て、「心に憤りを覚えて、興奮して」(11:33)とあり、この「興奮して」は「心騒がす」という言葉です。また、イスカリオテのユダの裏切を知り、「イエスはこう話し終えると、心を騒がせ」(13:21)とあります。

心を騒がせるな。」とイエス様は弟子たちに語られましたが、御自身に対しても語っておられるように思うのです。

 イエス様が自分たちから離れていくように不安を感じている弟子たちに、イエス様は「心を騒がせるな。」と言われました。イエス様は、明日になれば十字架刑につけられ死ぬのです。イエス様の十字架は死をもたらします。死は、人間的に見ればもっとも悲劇な別離です。関係が切られるということであり、孤独の始まりにもなるのでしょう。弟子たちの心はひどく騒いでいたのだと思うのです。その弟子たちに、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。13章の最後で、ペトロはイエス様に「あなたのためなら命を捨てます。」(13:37)と言いました。ペトロや他の弟子たちもでしょう。死ぬことも恐れないで、イエス様について行くという信仰があったのでしょう。ペトロは、イエス様がして下さることを信じるのではなく、自分に何ができるか、という自分を信じる信仰でした。そのような自分を信じる信仰は当てにならないのです。だからイエス様は、そういう信仰を信用されませんでした。それは、そのような信仰が、ペトロや他の弟子たちの自信あふれる信仰であったからです。イエス様を信じる気持ち、イエス様に従う熱心さというのは、熱する時もあれば、冷める時もあるのです。イエス様は、そのような人間の不安定な信仰をよく知っておられました。信仰というのは、そのような不安定なものに基礎を置いてはならないのです。そうではなく、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われるのです。変わりやすい自分自身の気持ちを信じる心ではない、どんな時も変わることのない神様とイエス様を信じること、それが本当に信仰だとイエス様は言われるのです。私たちの人生にどんな事が起ころうとも、たとえ死を前にしても、神様を信じ、イエス様を信じる者でありたいのです。

二、大工のイエス様が天国の家を準備する

2節、3節には、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」とあります。私たちが心騒がせる問題の一つには、どこに住むのかという住宅問題があるでしょう。大学進学や就職や転勤など、まず探すのは、住宅ではないでしょうか。住む所がちゃんとしてこそ、他の事が可能になります。イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と言われました。その場所を備えるために、イエス様は父の元に行かれるのです。その家に住むことができるのは、成績が良いとか、成功したとか、たくさんのボランティアをしたとか、教会のために特別に尽くした人が入れるのではありません。私たちの罪の身代わりに、十字架にかかり、父なる神様に裁かれ、命をささげられた。死んで下さり、墓に葬られましたが、三日目に甦られて罪と死に勝利されたのです。そのイエス様の十字架での身代わりの死と復活を信じることによって、私たちは救われ、神の子とされ、父の家、天国に行くことができるのです。先に信仰を持って召された方々は、父の家、天国の約束が与えられているのです。父の家とは、イエス様が私たちのために用意して下さる場所であり、イエス様が共におられる場所なのです。

その場所がどんなに素晴らしい場所であっても、イエス様が共におられなければ、真の満足はないのです。私たちの魂の満足は、場所や環境によって満足するものではなく、イエス様が共におられることによって与えられるものなのです。

 2節、3節の言葉は、葬儀に関する式の時に読まれる個所でもあります。単に死後の世界を言っているのではなくて、イエス様が何をするために地上に来られたのか、それを言っている言葉です。イエス様のふるさと、父なる神様のふところ、天の住まい、永遠の世界から限られた時間を持つ人間の世界に来られたのです。神様であるイエス様が人間として来られたというのはそういうことでしょう。神様である永遠のお方が、人間として限りのある時間の中に入って来られたのです。何のためかというと、私たちを永遠の世界に招き入れるためでした。4節で、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」とイエス様は言われました。しかし、5節のトマスの言葉、「トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」」とあるように、信仰を持っていても、それが分からなくなる時があるのです。イエス様は、9節で、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。」と問われました。イエス様はフィリポに6節で答えられました。「イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」この道は、道路という意味ではないでしょう。日本語の「道」という言葉には、「書道」「華道」「剣道」「柔道」と道を究めることそのものが目的なのです。イエス様は、真理を知る道、命に通じる道であるだけではなく、真理そのもの、命そのものである、道そのものなのです。

三、道、真理、命であるイエス様

イエス様は、真理も命も与えることのできる道であると言われました。道は歩くためにあります。道を知っていることは大事です。道は歩かないと進めません。キリスト教は、イエス様という道を歩くことなのです。新約聖書の使徒言行録には、キリスト教の事を「この道」と呼んでいました。クリスチャンのことは「この道の者」と呼ばれていました。キリスト教は、教えではなく道と呼ばれていた事には意味があるからでしょう。クリスチャンは、キリスト教の信奉者ではなくて、キリストの道を歩く者、キリストを通して新しい生き方をする者でした。

また、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」という言葉は、イエス様が神様の元に行く道であるけれども、私が本物だ、というように言っているのではありません。仏教やイスラム教、ユダヤ教、様々な新興宗教ではなく、キリスト教を選び取りなさい、という言葉ではありません。むしろ、自分で選び取り、自分でその道を歩き通すことによって、真理に到達し、命を得ようとする人間の宗教的な営みや生き方によってではなくて、そのような私たちに向かって、「わたしは道であり、真理であり、命である。」と自ら救いを成し遂げるという形で迫って来られるのです。道であるイエス様ご自身を見出すようにと言われるのです。

わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とは、人生にとって命懸けの道となり、これを踏み外せば全てを失わなければならない道だと言われるのです。それゆえに、この道は、真理であり、命なのです。父なる神様と人間の唯一の架け橋として、イエス様はこの地上に来られ。弟子たちにそのことを強く宣言されたのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」とは、排他的な言葉のように思えます。しかし、このような強さがなければ、弟子たちにとって、真の道、本当の道が何なのか、真理は何かをすることはできないのだと思うのです。

7節で「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」とか、9節の「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言われました。1節で、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われましたが、何か二つのものを信じるかのような印象があります。神様を信じることは、イエス様を抜きにしては考えられないということです。ヨハネによる福音書1章18節には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」とあるように、父なる神様の事は、独り子であるイエス様を通してでなければ理解することはできないのです。「ふところにいる」という表現は、愛において一つの交わりの中にいるという意味のようです。父なる神様と一体の交わりをしておられるイエス様だけが父なる神様を見ている、知っているのです。イエス様は、父なる神様を見せることのできる唯一のお方なのです。旧約聖書では、「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

(出エジプト記33:20)と神様の顔を見た者は死ぬと言われていました。しかし、イエス様は、見えない神様が見える形で人間の世界に来られたのです(クリスマス)。そして、イエス様を通して、父なる神様を見るのです。

Ⅲ結論部

イエス様にとって、十字架の死と復活は、愛する者たちのために父の家に、天国に場所を用意しに行くことなのです。そして、場所の用意ができれば、イエス様は迎えに来て下さるのです。イエス様は、もう一度来て下さるのです。私たちの死は、全ての事の終わりではなく、むしろ、新しいものの始まりであることをイエス様は語られるのです。私たちにとって、全ての事の終わりと見られる死を境にして、死は終わりではなく、命の始まりとなり、天国への道となるのです。私たちが、天国へ行くために、神様が用意されたのが、イエス様の十字架と復活なのです。

このイエス様の十字架と復活を信じて、愛する方々は天に召されていかれました。天寿を全うして亡くなったとしても、別れは辛いものです。幼くして亡くなったとか、親よりも早く亡くなったことは、本当に悲しい辛いことです。また、人生半ばでの死は、子どもたちにとっては、必要な親であった。大切な夫、妻であった。子どもであった。友人知人であった。その別れは、本当に、絶望でしかなかったでありましょう。けれども、イエス様は、心騒いでいる私たちに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われるのです。父の家、天国に場所を用意するからだというのです。私たちは、天において先に召された愛する方々と再び会うことが、会えることが約束されているのです。先に召された方々はすでに天国です。次は私たちの番です。正直に自分の心にある罪を認めて、イエス様がその罪のために、十字架にかかり、死んでよみがえられたことを感謝して受ければいいのです。イエス様の十字架の横で、「わたしを思い出してください」とイエス様に期待した強盗は天国に行きました。何も難しいことではありません。イエス様によろしくとお願いすればいいのです。天に召されたあなたの愛する人は、あなたがイエス様を信じて、救われて、天国に来るのを待っているのです。神様が備えられた天国のプランを実行しようではありません。心に騒ぐことがいろいろあるでしょう。でも大丈夫です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われるイエス様が共におられます。このイエス様に信頼して、この週も歩んでまいりましょう.

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