「神の時と弱さに働く神の力」 2023.3.26
矢野正教師
コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1~10節
1.序文
本日はこの第二コリントの個所から、この手紙を書いたパウロを通して、そして私の証しも交えながら、神様には人間が思う時と違う時があること、そして弱さの中にこそ神様の強い力が発揮されるという、この二つのことを共に学ばせていただきましょう。
2.神様の時
まず神様の時についてです。我々、特に日本人は、事あるごとに神様に祈ります。信仰を持っている我々キリスト者は、神様への感謝の祈りをもささげたりして、神様の交わりの中で祈っています。しかし日本の宗教心から見ると、ほとんどの日本人は御利益宗教的にお願い事しか祈らない人が多いのではないでしょうか。お金が多く欲しいとか、高い地位に就きたいとか、自分の私情をはさんだお願い事しか祈らないのが実情ではないでしょうか。しかも、その願いはすぐに答えをもらえると思っています。だから、神様からの答えがもらえない、また願っていることが与えられないと、「なしや、神さんにこげん祈っちゅうに、なし答えてくれんのや」あ、つい大分弁で言ってしまいました。これは大分弁で、「なぜですか。神様にこんなに祈っているのに、なぜ答えてくださらないのですか」という意味です。つまり、神様からの答えが来ない、また、違う答えが来ると、「神様なんかいない。この神様を祈る意味がない」と判断し、違う神様へと鞍替えしてしまう。そういう信仰を持っている日本人が残念ながら多いのではないでしょうか。
日本人だけではなく、パウロもすぐに答えが与えられない経験をしています。8節に「わたしは三度主に願いました」とあります。7節から見ますと、パウロに一つのとげが与えられています。とげが刺さると痛いですよね。つまり、「とげ」というのは、パウロにとって、それがあると痛く、苦しく、そして不都合なもののことだったようです。
パウロのとげというのがどんなものだったのかについては幾つもの推測が立てられています。それが絶え間ない誘惑だったとか、多くの反対者達だったとか、目、マラリヤなどの不治の病だったとか、多くの考えがあります。そのとげが何であったかははっきりと断言することはできませんが、パウロは、このとげに相当苦しめられたようです。このためパウロは三度も祈ったのです。でも彼からとげはすぐには取り除かれなかったのです。
このように、神様には我々人間が思っている時とは違う時や計画があるのです。皆さんも考えてみてほしいのですが、祈った時には神様から答えが与えられなかったけど、何年か経って思い返すと、最初に願っていたことよりも違っているが、その方がはるかに良い結果となっていた、という経験はないでしょうか。
私もその経験をした一人です。会社を立ち上げて順調にその経営をしていた時に心臓の病を患い、その病気が不治の病だったため仕事を続けられなくなり、会社を友人に譲り渡しました。そして私は神様に祈り続けました。何日も何日も「神様どうしてですか」と神様からの答えを問い続けたのです。しかし神様からの答えはすぐには得られず、「神様は果たしておられるのだろうか」という気持ちにもなりました。しかし何年か経った時、神様は牧師としての召命の言葉を私に与えてくださり、話の下手な私に務まるのか、と悩む私に励ましの言葉をも与えてくださったのです。その励ましの言葉が本日のこの箇所の中の9節の御言葉です。このように自分が願っていたことよりもはるかに素晴らしい結果が私にも与えられたのです。
人間はすぐに答えを求めてしまいます。しかしそれは人間の考える時です。ペトロの手紙Ⅱ3章8節に「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とあるように、神様には人間の時とは違う神様の時と御計画があるのです。ですから、祈りがすぐに聞かれないとしても、そこで諦めてはならないのです。何年でも常に祈り続けることが必要なのです。そうすることで、神様の時に、神様はあなたに一番良い結果としての答えを与えてくださるのです。たとえ祈っていた願いと違っていても、神様の御計画の答えの方が確実に良い結果として与えられるのです。
3.弱さに働く神の力
次に神様の力は弱さの中にこそ働くということについてです。
「弱さの中の強さ」、それは一体何でしょうか。
弱さと強さは相反するものです。そして残念なことに、この世では強いことがいいことであって、弱いことはダメだと思われています。特に今の世の中、学歴で人を判断し、高学歴の人は強く、逆に低学歴の人は弱い立場にある。そう思っている人が多くいるのが現状です。その結果お受験戦争と言われるものまで生まれてしまっています。しかし、神様の世界、聖書の世界では、必ずしもそうとは限りません。いやむしろ、聖書の真理が解ると、弱さの中にこそ本当の強さを発見することができるのです。
「信仰生活の中で神様に何度お祈りしても、なかなかその祈りに答えてもらえない。だから私の信仰は弱い。本当に私はダメな落ちこぼれの信徒だ」とそう思っている人がいるとします。でも愛する皆さん、実はそのダメな部分がいいのです。なぜなら、10節でパウロは、「わたしは弱いときにこそ強い」と言っています。その真理が解ると、自分の弱さを乗り越えることができるのです。
先程も言いましたけども、7節にあるように、パウロには一つのとげが与えられています。ではなぜ、神様はとげを与えられるのでしょうか。それは私たちが、高ぶることがないように与えられるのです。口語訳などの他の聖書では、高慢にならないように、思い上がらないようにとあります。私たちは、高ぶりやすく、高慢になり、一人舞い上がってしまうことがよくあります。
ではパウロの高ぶりとは、一体何だったのでしょうか。それは天国を見てきたと言うことです。2節から4節で、一見パウロではなく、別の人が経験したように書かれていますが、実はパウロ自身の経験です。そして4節を見ると、「楽園にまで引き上げられ」とあります。楽園とは、神様のいる天国のことです。神様がおられる場所なのですから素晴らしい場所に違いありません。パウロはそこに行ったであろうと思われます。なので、彼はその素晴らしさを語りたくてしようがなかったことでしょう。でも、パウロはそれを控えました。6節で、彼は「わたしを過大評価する人がいるかもしれない」と言っています。彼が伝えるべきものは、自分のことではなく、キリストが人々を救ってくださるメシアであるということでした。しかし、あまりにも見てきた天国が素晴らしすぎるので、ついつい天国のことを先に、言いたくなったのでしょう。でもそれでは単なる自慢話にしかならなくなってしまいます。神様は、そのためにパウロにとげを与えられたのかもしれません。
また神様はパウロと同じように私たちにも、高ぶらないために、とげを与えられることがあります。とげというのは小さいものです。ごく些細なものです。ですから、それ自体たいしたことはありません。もちろんそのままにしておいても全然構いません。でも、いいと解ってはいても、早く取りたい、それが私たちの思いです。パウロも、それが取り除かれるように三度も祈った、と先程も言いましたが、結果的に彼はその三度の祈りで癒されたでしょうか。いえ、癒されなかったのです。パウロは、病気の人を癒すことができても、彼自身は癒されなかったのです。でもそこに神様の素晴らしい、癒し以上の恵みの計画があったのです。
パウロは、肉体の癒しを得ることはできませんでしたが、その代わり、キリストの大きな恵みを受けることができたのです。そのキリストの恵みとは十字架の恵みです。キリストの十字架による死と復活によって罪が赦され、私たちの心の痛みや悲しみ、魂がいやされ、私たちが新しくされることです。パウロはその大きな恵みを受けることができたのです。
三重苦の聖女と言われたヘレン・ケラーもパウロと同じく身体はいやされませんでしたが、家庭教師のサリバン女史を通じて、生きることの喜びそしてキリストの愛と力強い支えを知ることができたのです。
それは私たちも同じです。誰もが、キリストの愛・恵みを知ることができます。神の恵みとは、先ほど言いましたように、キリストの十字架による死と復活によってすべての罪が赦され、苦しみや悲しみがいやされることです。そしてもう一つ大切なことは、キリストがいつも側にいて、私たちを慰め励ましてくださるという恵みです。そして9節で、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とあるように、神の力は弱さの中にこそ、完全に現れると約束してくださっています。人の弱さの中でこそ、神の力は十分に発揮されるというこの恵みは真実ですが、ただ頭の中で考えただけでは分かりません。自分が弱くなった時、一生懸命お祈りして、神様に支えていただいていると理屈抜きに感じて、初めて分かることなのです。
ではどうして神の力は弱さの中にこそ発揮されるのでしょうか。
例として一つのコップを思い浮かべてください。もし、コップに半分だけ水が入っていたら、入れられるのは残り半分だけです。もし、コップいっぱいに水が入っていたら、もう何も入れることはできません。でも、コップが空っぽであったなら、このコップにすべて何かを入れることができます。私たち人間と神様の関係も同じです。私たちの心のコップに、私たちの個人的な思いや私たち自身の力が入っていたら、その分だけ神様の力は注げなくなります。もし私たちの心の中がすべて、自分自身の力で満たされていたら、最早神様を必要としなくなってしまうでしょう。逆に、誇れるものを何も持っていない。つまり、弱いために心の中のコップが空っぽだと、それだけ神様の力がドカッと入って来るということなのです。もちろん神様は御自身の力で私たちの心のコップに入っている人間の力を取り除くことは簡単にできます。つまりここで分かることは、神様は、私たち自身が神様の方に心を向け、私たち自らが心を明け渡すことを待っておられるということなのです。
4.神から力を頂いた証し
実は私もこの弱さの中に神様の力が与えられたことを感じた一人です。私は41年前の15歳の時に洗礼を受け、信仰の歩みを始めました。途中放蕩息子のようになり、教会に行かなくなった時も何年かありましたが、神様は私を信仰の道へ引き戻してくださり、それだけではなく、会社経営をさせてくださるほど私を愛し、導いてくださいました。しかし最初にお話ししたように、18年前に突発性拡張型心筋症という原因不明の不治の心臓病を患い、経営していた会社を友人に譲ることになったのです。それまで空手や柔道などを習い、体力だけには自信があった自分が、まともに仕事ができないまでに弱められてしまったことで、将来を本当に悩み、神様に何年も祈り続けました。そのような大きな試練の中で、苦しみ、奈落の底に落ちていくような思いをした時に、ペトロの手紙Ⅰ 5章2節の「献身」の御言葉が与えられたのです。しかし、病のことや自分の性格のことなどもあり、悩んでいた時、「私の恵みは、あなたに十分である」とのこの9節の御言葉が心に響いたのです。結果この御言葉によって「献身」という召命に勇気が与えられ、このように神学校に入学が許され、4月から福岡教会で牧会するための力を与えられ、いや与え続けられているのです。
またこの9節の御言葉による励ましを受けた際に、「わたしはあなたと共にいる。 それだけで十分ではないか」と、改めて独り子を惜しむことなく十字架に献げられた、父なる神様の愛を再確認した訳です。単に御自分の愛する独り子が死ぬだけでなく、罪人たちにあざけられ、さげすまれ、挙げ句の果てに罪の濡れ衣まで着せられ、十字架にはりつけにされて、殺されてしまう。そんな独り子の姿を、父なる神様はどんな思いで見ておられただろうか。そのことを思うと、私の胸は張り裂けそうな思いがしました。それ程までにして、私を愛し、私の罪を赦し、献身の道まで導いてくださっているとは。そう感じたので「主よ、赦してください。あなただけで十分です。感謝です。献身をさせていただきます」と祈ったのです。そして同時に、ヨハネによる福音書11章25節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との御言葉も心に響いて、復活の命、そして永遠の命の希望を再度覚えることができたのです。
「そうだ、私には天国、パラダイスがあるんだ。死んで終わりではないんだ。天国の希望があるんだ。」そう思うと、心は大きな平安に包まれたのです。本当に感謝な気持ちでいっぱいになりました。「キリストの力が私をおおう」とありますが、まさにその思いで、心は満たされたのです。
5.結論
ですから、私たちは弱くていいのです。キリストの力があなたを覆うのです。あなたを守り、その愛であなたを包んでくださるのです。弱いことは恥ではありません。むしろ弱さの中にこそ、十字架のキリストは現れてくださり、慰めてくださるのです。
「弱さ」は、できれば無くしたいものです。しかし、何度も言いますが、この「弱さ」は決してマイナスばかりではありません。逆に私たちに大切なことを教えてくださるのです。神様の力を教えてくれ、そして感謝を教えてくださるのです。
強さを誇ることは簡単なことです。そして世の中の人々はその強さをほめたたえるかもしれません。しかし、弱さを認め、逆にその弱さを誇るなら、神様はその弱さのコップに力の水を思いっきり注いでくれるのです。その神様の注いでくださった力の水によって本当の強さを持ってこの世を旅することができ、また神様の愛そして感謝を知ることができるのです。どうぞ皆様もパウロのように、強さを誇りたい心を抑え、逆に弱さを誇り、神様の本当の力による支えをもってこの世を旅していただきたいと願うのです。
自分の弱さの中にキリストの強さがある。そのことを信じましょう。