江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年3月26日)

2023-03-26 15:35:12 | Weblog

「神の時と弱さに働く神の力」       2023.3.26

                        矢野正教師

 

コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1~10節

1.序文

 本日はこの第二コリントの個所から、この手紙を書いたパウロを通して、そして私の証しも交えながら、神様には人間が思う時と違う時があること、そして弱さの中にこそ神様の強い力が発揮されるという、この二つのことを共に学ばせていただきましょう。

2.神様の時

 まず神様の時についてです。我々、特に日本人は、事あるごとに神様に祈ります。信仰を持っている我々キリスト者は、神様への感謝の祈りをもささげたりして、神様の交わりの中で祈っています。しかし日本の宗教心から見ると、ほとんどの日本人は御利益宗教的にお願い事しか祈らない人が多いのではないでしょうか。お金が多く欲しいとか、高い地位に就きたいとか、自分の私情をはさんだお願い事しか祈らないのが実情ではないでしょうか。しかも、その願いはすぐに答えをもらえると思っています。だから、神様からの答えがもらえない、また願っていることが与えられないと、「なしや、神さんにこげん祈っちゅうに、なし答えてくれんのや」あ、つい大分弁で言ってしまいました。これは大分弁で、「なぜですか。神様にこんなに祈っているのに、なぜ答えてくださらないのですか」という意味です。つまり、神様からの答えが来ない、また、違う答えが来ると、「神様なんかいない。この神様を祈る意味がない」と判断し、違う神様へと鞍替えしてしまう。そういう信仰を持っている日本人が残念ながら多いのではないでしょうか。

 日本人だけではなく、パウロもすぐに答えが与えられない経験をしています。8節に「わたしは三度主に願いました」とあります。7節から見ますと、パウロに一つのとげが与えられています。とげが刺さると痛いですよね。つまり、「とげ」というのは、パウロにとって、それがあると痛く、苦しく、そして不都合なもののことだったようです。

パウロのとげというのがどんなものだったのかについては幾つもの推測が立てられています。それが絶え間ない誘惑だったとか、多くの反対者達だったとか、目、マラリヤなどの不治の病だったとか、多くの考えがあります。そのとげが何であったかははっきりと断言することはできませんが、パウロは、このとげに相当苦しめられたようです。このためパウロは三度も祈ったのです。でも彼からとげはすぐには取り除かれなかったのです。

このように、神様には我々人間が思っている時とは違う時や計画があるのです。皆さんも考えてみてほしいのですが、祈った時には神様から答えが与えられなかったけど、何年か経って思い返すと、最初に願っていたことよりも違っているが、その方がはるかに良い結果となっていた、という経験はないでしょうか。

 私もその経験をした一人です。会社を立ち上げて順調にその経営をしていた時に心臓の病を患い、その病気が不治の病だったため仕事を続けられなくなり、会社を友人に譲り渡しました。そして私は神様に祈り続けました。何日も何日も「神様どうしてですか」と神様からの答えを問い続けたのです。しかし神様からの答えはすぐには得られず、「神様は果たしておられるのだろうか」という気持ちにもなりました。しかし何年か経った時、神様は牧師としての召命の言葉を私に与えてくださり、話の下手な私に務まるのか、と悩む私に励ましの言葉をも与えてくださったのです。その励ましの言葉が本日のこの箇所の中の9節の御言葉です。このように自分が願っていたことよりもはるかに素晴らしい結果が私にも与えられたのです。

 人間はすぐに答えを求めてしまいます。しかしそれは人間の考える時です。ペトロの手紙Ⅱ3章8節に「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」とあるように、神様には人間の時とは違う神様の時と御計画があるのです。ですから、祈りがすぐに聞かれないとしても、そこで諦めてはならないのです。何年でも常に祈り続けることが必要なのです。そうすることで、神様の時に、神様はあなたに一番良い結果としての答えを与えてくださるのです。たとえ祈っていた願いと違っていても、神様の御計画の答えの方が確実に良い結果として与えられるのです。

3.弱さに働く神の力

 次に神様の力は弱さの中にこそ働くということについてです。

「弱さの中の強さ」、それは一体何でしょうか。

弱さと強さは相反するものです。そして残念なことに、この世では強いことがいいことであって、弱いことはダメだと思われています。特に今の世の中、学歴で人を判断し、高学歴の人は強く、逆に低学歴の人は弱い立場にある。そう思っている人が多くいるのが現状です。その結果お受験戦争と言われるものまで生まれてしまっています。しかし、神様の世界、聖書の世界では、必ずしもそうとは限りません。いやむしろ、聖書の真理が解ると、弱さの中にこそ本当の強さを発見することができるのです。

「信仰生活の中で神様に何度お祈りしても、なかなかその祈りに答えてもらえない。だから私の信仰は弱い。本当に私はダメな落ちこぼれの信徒だ」とそう思っている人がいるとします。でも愛する皆さん、実はそのダメな部分がいいのです。なぜなら、10節でパウロは、「わたしは弱いときにこそ強い」と言っています。その真理が解ると、自分の弱さを乗り越えることができるのです。

先程も言いましたけども、7節にあるように、パウロには一つのとげが与えられています。ではなぜ、神様はとげを与えられるのでしょうか。それは私たちが、高ぶることがないように与えられるのです。口語訳などの他の聖書では、高慢にならないように、思い上がらないようにとあります。私たちは、高ぶりやすく、高慢になり、一人舞い上がってしまうことがよくあります。

ではパウロの高ぶりとは、一体何だったのでしょうか。それは天国を見てきたと言うことです。2節から4節で、一見パウロではなく、別の人が経験したように書かれていますが、実はパウロ自身の経験です。そして4節を見ると、「楽園にまで引き上げられ」とあります。楽園とは、神様のいる天国のことです。神様がおられる場所なのですから素晴らしい場所に違いありません。パウロはそこに行ったであろうと思われます。なので、彼はその素晴らしさを語りたくてしようがなかったことでしょう。でも、パウロはそれを控えました。6節で、彼は「わたしを過大評価する人がいるかもしれない」と言っています。彼が伝えるべきものは、自分のことではなく、キリストが人々を救ってくださるメシアであるということでした。しかし、あまりにも見てきた天国が素晴らしすぎるので、ついつい天国のことを先に、言いたくなったのでしょう。でもそれでは単なる自慢話にしかならなくなってしまいます。神様は、そのためにパウロにとげを与えられたのかもしれません。

また神様はパウロと同じように私たちにも、高ぶらないために、とげを与えられることがあります。とげというのは小さいものです。ごく些細なものです。ですから、それ自体たいしたことはありません。もちろんそのままにしておいても全然構いません。でも、いいと解ってはいても、早く取りたい、それが私たちの思いです。パウロも、それが取り除かれるように三度も祈った、と先程も言いましたが、結果的に彼はその三度の祈りで癒されたでしょうか。いえ、癒されなかったのです。パウロは、病気の人を癒すことができても、彼自身は癒されなかったのです。でもそこに神様の素晴らしい、癒し以上の恵みの計画があったのです。

 パウロは、肉体の癒しを得ることはできませんでしたが、その代わり、キリストの大きな恵みを受けることができたのです。そのキリストの恵みとは十字架の恵みです。キリストの十字架による死と復活によって罪が赦され、私たちの心の痛みや悲しみ、魂がいやされ、私たちが新しくされることです。パウロはその大きな恵みを受けることができたのです。

三重苦の聖女と言われたヘレン・ケラーもパウロと同じく身体はいやされませんでしたが、家庭教師のサリバン女史を通じて、生きることの喜びそしてキリストの愛と力強い支えを知ることができたのです。

 それは私たちも同じです。誰もが、キリストの愛・恵みを知ることができます。神の恵みとは、先ほど言いましたように、キリストの十字架による死と復活によってすべての罪が赦され、苦しみや悲しみがいやされることです。そしてもう一つ大切なことは、キリストがいつも側にいて、私たちを慰め励ましてくださるという恵みです。そして9節で、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」とあるように、神の力は弱さの中にこそ、完全に現れると約束してくださっています。人の弱さの中でこそ、神の力は十分に発揮されるというこの恵みは真実ですが、ただ頭の中で考えただけでは分かりません。自分が弱くなった時、一生懸命お祈りして、神様に支えていただいていると理屈抜きに感じて、初めて分かることなのです。

 ではどうして神の力は弱さの中にこそ発揮されるのでしょうか。

 例として一つのコップを思い浮かべてください。もし、コップに半分だけ水が入っていたら、入れられるのは残り半分だけです。もし、コップいっぱいに水が入っていたら、もう何も入れることはできません。でも、コップが空っぽであったなら、このコップにすべて何かを入れることができます。私たち人間と神様の関係も同じです。私たちの心のコップに、私たちの個人的な思いや私たち自身の力が入っていたら、その分だけ神様の力は注げなくなります。もし私たちの心の中がすべて、自分自身の力で満たされていたら、最早神様を必要としなくなってしまうでしょう。逆に、誇れるものを何も持っていない。つまり、弱いために心の中のコップが空っぽだと、それだけ神様の力がドカッと入って来るということなのです。もちろん神様は御自身の力で私たちの心のコップに入っている人間の力を取り除くことは簡単にできます。つまりここで分かることは、神様は、私たち自身が神様の方に心を向け、私たち自らが心を明け渡すことを待っておられるということなのです。

4.神から力を頂いた証し

実は私もこの弱さの中に神様の力が与えられたことを感じた一人です。私は41年前の15歳の時に洗礼を受け、信仰の歩みを始めました。途中放蕩息子のようになり、教会に行かなくなった時も何年かありましたが、神様は私を信仰の道へ引き戻してくださり、それだけではなく、会社経営をさせてくださるほど私を愛し、導いてくださいました。しかし最初にお話ししたように、18年前に突発性拡張型心筋症という原因不明の不治の心臓病を患い、経営していた会社を友人に譲ることになったのです。それまで空手や柔道などを習い、体力だけには自信があった自分が、まともに仕事ができないまでに弱められてしまったことで、将来を本当に悩み、神様に何年も祈り続けました。そのような大きな試練の中で、苦しみ、奈落の底に落ちていくような思いをした時に、ペトロの手紙Ⅰ 5章2節の「献身」の御言葉が与えられたのです。しかし、病のことや自分の性格のことなどもあり、悩んでいた時、「私の恵みは、あなたに十分である」とのこの9節の御言葉が心に響いたのです。結果この御言葉によって「献身」という召命に勇気が与えられ、このように神学校に入学が許され、4月から福岡教会で牧会するための力を与えられ、いや与え続けられているのです。

またこの9節の御言葉による励ましを受けた際に、「わたしはあなたと共にいる。 それだけで十分ではないか」と、改めて独り子を惜しむことなく十字架に献げられた、父なる神様の愛を再確認した訳です。単に御自分の愛する独り子が死ぬだけでなく、罪人たちにあざけられ、さげすまれ、挙げ句の果てに罪の濡れ衣まで着せられ、十字架にはりつけにされて、殺されてしまう。そんな独り子の姿を、父なる神様はどんな思いで見ておられただろうか。そのことを思うと、私の胸は張り裂けそうな思いがしました。それ程までにして、私を愛し、私の罪を赦し、献身の道まで導いてくださっているとは。そう感じたので「主よ、赦してください。あなただけで十分です。感謝です。献身をさせていただきます」と祈ったのです。そして同時に、ヨハネによる福音書11章25節の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」との御言葉も心に響いて、復活の命、そして永遠の命の希望を再度覚えることができたのです。

「そうだ、私には天国、パラダイスがあるんだ。死んで終わりではないんだ。天国の希望があるんだ。」そう思うと、心は大きな平安に包まれたのです。本当に感謝な気持ちでいっぱいになりました。「キリストの力が私をおおう」とありますが、まさにその思いで、心は満たされたのです。

5.結論

ですから、私たちは弱くていいのです。キリストの力があなたを覆うのです。あなたを守り、その愛であなたを包んでくださるのです。弱いことは恥ではありません。むしろ弱さの中にこそ、十字架のキリストは現れてくださり、慰めてくださるのです。

「弱さ」は、できれば無くしたいものです。しかし、何度も言いますが、この「弱さ」は決してマイナスばかりではありません。逆に私たちに大切なことを教えてくださるのです。神様の力を教えてくれ、そして感謝を教えてくださるのです。

強さを誇ることは簡単なことです。そして世の中の人々はその強さをほめたたえるかもしれません。しかし、弱さを認め、逆にその弱さを誇るなら、神様はその弱さのコップに力の水を思いっきり注いでくれるのです。その神様の注いでくださった力の水によって本当の強さを持ってこの世を旅することができ、また神様の愛そして感謝を知ることができるのです。どうぞ皆様もパウロのように、強さを誇りたい心を抑え、逆に弱さを誇り、神様の本当の力による支えをもってこの世を旅していただきたいと願うのです。

自分の弱さの中にキリストの強さがある。そのことを信じましょう。

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日曜礼拝(23年3月19日)

2023-03-19 12:18:58 | Weblog

日曜礼拝(受難節第四)         2023.3.19

         「神への究極の祈り」 マルコ14:32~42

 Ⅰ導入部

 おはようございます。3月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと会堂に共に集い、あるいはオンラインを通して、ご家庭で、置かれた場所で礼拝をささげることができますことを感謝致します。受難節の第四の日曜日となります。昨日は、ユース礼拝が行われ、ユーの方々が礼拝や交わりをされました。ユースの方々は、コロナ感染を通して、今までに経験したことのない辛い歩みを経験されました。なかなか対面での交わりがで

きませんでした。これからは、礼拝も、あらゆる交わりも対面で出来たらと願います。

 今日は、マルコによる福音書14章32節から42節を通して、「神への究極の祈り

と題してお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、私の側にいて欲しい

 イエス様は、弟子たちと最後の食事をしてからゲッセマネの園に行かれました。ゲッセマネの園は、エルサレムの東側、キドロンの谷の向こう側にある海抜814mの小高いオリーブ山の西側斜面にある場所です。キドロン(黒いという意味)の谷は。エルサレムの町とオリーブ山の間にあり、イエス様は、昼はエルサレムの神殿で教え、夜はしばしばオリーブ山で過ごして眠ることにしていたようです。「それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。」(ルカ21:37)

 ルカによる福音書22章39節、40節には、「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、」とあります。

 オリーブ山は、ゲッセマネの園はイエス様と弟子たちがよく行かれた場所であったのです。32節には、「一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。」とあります。34節では、「ここを離れず、」と言われました。ここと強調されました。「ここ」とは、イエス様が祈るために少し進んで行かれた場所からほど近い場所でした。33節で「イエスはひどく恐れてもだえ始め」とあるように、イエス様の苦しみのうめき声、嘆く声が弟子たちに届く場所でした。私たちは、どのようにかんばってみても、イエス様と全く同じ場所に、イエス様のその苦しみの場所に、重なって、イエス様の苦しみや痛みを100%受けるということはできません。イエス様と一つになって、十字架の苦しみそのものを苦しむということは私たちにはできないのです。少し離れた場所にいて、何とかイエス様の声が聞こえる場所、それがここなのです。イエス様は、弟子たちにそばにいて欲しいと願ったのです。一人になるのが寂しかったのです。ですから、弟子たちはイエス様の側、ここにいたのです。

 33節を見ると、「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、」とあります。リビングバイブルには、「恐れと絶望に襲われて、イエスはもだえ苦しみ始められました。」とあります。詳訳聖書には、「彼は恐怖に打たれて、深くみ心を騒がせ(深く打ち沈み)はじめて」とあります。イエス様は、一人の人間として苦しみと痛みの表情、その姿というものを隠そうとはされませんでした。ここには、今までのような毅然とした態度ではなく、ひどく恐れもだえる姿があったのです。弱さを見せる神様であり、一人にしないで側にいて欲しいという強い願いがあったのです。全人類の罪を背負うという人としての恐れ、その恐れを真正面から受け止められるイエス様は、私たちが様々な事柄で経験する恐れや苦しみ、もだえを知って下さり、体験しておられるので、私たちを理解し、私たちを受け入れ、私たちを癒して下さるお方なのです。

二、私の願いではなく、神様の御心が優先

 34節には、「彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」」とあります。マタイによる福音書では、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)とあります。「わたしは死ぬばかりに悲しい。」とは、イエス様の苦しみの叫びでしょう。イエス様は、メシア、救い主として人間の世界に遣わされました。そして、イエス様が救い主であるということは、十字架にかかり苦しみ死ぬということであり、それは避けられないことでした。

 35節には、「少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り」とあります。イエス様にとって、十字架の苦しみと死は、避けて通りたい出来事でした。「苦しみの時」の「時」とは、決定的な事柄が生じる期間を指しているようです。ですから、36節の前半で、「こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたのです。「アッバ」とは、父に対する親しい呼びかけです。「お父ちゃん、おやじ」というイメージでしょうか。遠くにおられるのではなく近くにおられる神様に向かって訴えるのです。

あなたは何でもおできになります。」と、父なる神様の全能に対する全幅の信頼をもって「杯」に象徴される苦しみを、痛みを耐えることはできないと祈られたのです。「あなたは何でもおできになります。」と、父なる神様というお方は、み心を行って下さるお方だと、そう信じて「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈られたのです。

 新型コロナ感染や戦争、紛争、自然災害によって、多くの人の尊い命が犠牲となりました。信仰があるからと言って、災いから必ずしも逃げ切れるというわけではありません。「この杯をわたしから取りのけてください。」と祈って見たところで、その杯を、その苦しみを飲まなければならないという現実があります。イエス様は、十字架の苦しみと死を前にして、「この杯をわたしから取りのけてください。」と正直に自分の思いを祈られたのです。この祈りが向かう所は、神様のみ心なのです。その現実の厳しさの中に、どのような神様のみ心があるのかと苦しみ叫びたくなるような場所にも、神様のみ心は必ずあるのです。神様のみ心から切り離され、神様と関係のない場所はどこにもないのです。私たち一人ひとりは、イエス様が背負われる十字架の苦しみと死を、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」と祈られた、その祈りに支えられているのです。

 36節の後半、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」」とあります。このゲッセマネの園での祈りは、究極の祈りと言えます。私たちが祈りにおいて真実に生きるとするならば、イエス様が祈られたように、御自分の全てをさらけ出しながらも、「しかし」という自分の思いや願いだけに立つのではなく、父なる神様の深い愛に信頼して、一番良い用にして下さると信じて、期待し、希望を持って生きる祈りだと思うのです。私たちも、そのような祈りをささげたいと思うのです。

 三、私たちの弱さに寄り添うイエス様

 37節、38節には、「それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。「シモン、眠っているのか。わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」」とあります。眠っている弟子たちに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」と言われました。恥ずかしげもなく、もだえ苦しむイエス様の姿に目を閉じてはならないということなのでしょうか。しかし、弟子たちは疲れのために眠ってしまいました。イエス様の苦しみ、悲しみ、痛むその姿を見ながらも、イエス様のそのような姿が見える場所におりながらも、弟子たちは眠ってしまいました。弟子たちには、自分たちの師であるイエス様の苦しむ姿を見たくないという人間の本能が、彼らを眠らせたのかも知れません。

 イエス様の十字架の苦しみと死は、父なる神様は私たち人間の罪のために支払われた犠牲の大きさを示しています。父なる神様が私たちの苦しみを見て、悲しみを知って、その痛みを感じて居ても立ってもおられないのです。トボトボと帰って来る放蕩息子を、じっと見ておられずに、思わず走り出した父親のように、神様の深い愛がそこに現わされているのです。神様だけは、私たち一人ひとりを見捨てることのできないお方なのです。この世において、人の命の価値がどのように扱われていたとしても、どのような苦しみを負わされていようとも、神様は苦しみ、悲しみ、恐れ、嘆く、その人を見て下さり、決して見捨てることはなさらないのです。見捨てられないだけではなく、その人の負っている苦しみも悲しみも、恐れも痛み、そして罪さえもその全てをイエス様の十字架で、御自身が負って下さるのです。このゲッセマネの祈りがあったからこそ、私たちは率直に、今自分の置かれている苦しみや悲しみ、嘆きや痛みをイエス様の名によって祈ることがゆるされているのです。今も、イエス様は私たち一人ひとりのために祈っていて下さる、とりなしていて下さるのです。イエス様に祈られている私たちも、困難の中にある人々のために、イエス様の救いの恵みを知らない人々のために、祈りをささげたいのです。

 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。」という言葉には、教会の働きが象徴的に語られているようにも感じます。私たちキリスト者が、教会が、イエス様のみ声が聞こえるように、目を覚まして祈るということが第一の務めと言えるのではないでしょうか。イエス様は、「心は燃えても、肉体は弱い。」と言われたように、何度も眠り込んでしまうような弟子たちの元に来て声をかけて下さいました。目を覚まして祈れない私たちの所に来て、声をかけて下さいます。十字架の苦しみと死を前にして、「この杯をわたしから取りのけてください。」とまで祈られたイエス様は、弟子たちの事を思い、心使って下さったように、私たちにもそのように寄り添って下さるお方なのです。

 42節には、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」」とあります。イエス様の心には、もはや十字架の苦しみと死という「杯」への恐れはありませんでした。十字架を避けるというのではなく、十字架から逃げるというのでもなく、全人類の罪の身代わりに十字架で苦しみ死ぬという自分の使命を果たすために、確信を持って立ち上がり、ゲッセマネの園から立ち上がって出て行かれるのです。ヨハネによる福音書10章18節には、「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」とあります。イエス様は、父なる神様のみ心を第一にして歩まれるのです。

 Ⅲ結論部

 「この杯をわたしから取りのけてください。」とイエス様は祈られました。「この杯」というのは、今ご自分の前に突きつけられている神様の審判、十字架でした。神様から離れ、神様を神様としないで神様に背を向け続けている人間に対する神様の怒りです。この神様の前に立たされて泣かざるを得ない全ての人間を代表して、イエス様はこの時が過ぎ去るように、「この杯」が取り去られるようにと祈られました。イエス様が味わっておられる苦しみと痛みというのは、私たち一人ひとりが本来味わうべき神様の怒りの前に立つ人間の苦しみなのです。罪のないお方、神の子であるイエス様が、父なる神様から全く答えのないままに見捨てられるという本当の苦しみと痛み、恐れがあったのです。そのような中で、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。3度そのように祈りながら、ついにイエス様は父なる神様のみ心のままに十字架の苦しみと死を受ける道へと踏み出して行かれるのです。

 私たちは、日々の生活の中で、うめき、嘆き、祈り願います。何でもどんな事でも自由に祈ることができます。このような自分勝手な祈りをして、神様は気を悪くしないだろうかと思うことがあります。しかし、私たちのありのままに祈れるのです。他の人に、人間に言えば愚痴になることでも、神様に言うならば、祈りの言葉になるのです。そして、どのような祈り、ありのままの祈りをささげてもいいのです。ただ一つ、どんな祈りの後にも「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」という祈りをささげるものでありたいのです。

 イエス様は、私たちの罪の身代わりに十字架にかかり、尊い血を流し、命をささげ死んで下さり墓に葬られましたが、三日目によみがえらされて、罪と死に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活によって、私たちの全ての罪が赦され、汚れが清められ、死んで生きる命、永遠の命が与えられたのです。イエス様は、今も私たち一人ひとりのために祈りをささげておられるのです。私たちは、この週、イエス様に祈られていることを感謝しつつ、病の中、治療の中、闘いの中にある方々を覚えて祈りをささげる者でありたいと思うのです。

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日曜礼拝(23年3月12日)

2023-03-12 12:51:02 | Weblog

日曜礼拝(受難節第三)       2023.3.12

   「裏切りに勝る神の愛」 マルコ14:27~31.66~72

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。3月の第二日曜日を迎えました。受難節の第三日曜日となります。今日も愛する皆さんと共に、心を合わせて礼拝をささげることができますことを感謝致します。3月3日から5日まで、大阪のフクラシア大阪ベイホテルで日本ナザレン教団の大年会が4年ぶりに対面で行われました。選挙が行われ、現教団事務室主事の土肥努先生が、新理事長として選ばれました。選ばれた瞬間に、肩の荷が軽くなったように感じられました。長老の按手主式では7名の牧師が、グレイブス監督から按手を受けられました。オンラインでご覧になった方々もおられると思います。感動的でした。ご夫妻で按手を受けられた方々もおられ、青葉台教会出身の門田純牧師もご夫妻で按手を受けられ、私は門田牧師のためにお祈りさせていただきました。神学校卒業式、按手式、聖会、召天教職者、引退教職者の感謝会、礼拝と盛沢山のプログラムでした。皆さんのお祈りに感謝致します。この4年間、理事長としての働きは、役員を初め、愛する兄弟姉妹の篤きお祈りと多くの犠牲の上に守られてまいりました。本当に心から感謝致します。26日の上京教会の礼拝をもって理事長としての働きを終えることになります。コロナ禍の中にあって、様々な制約と困難の中で、健康が守られ、理事長としての働きを全うできましたこと感謝です。これからは、青葉台教会と愛する兄弟姉妹のために、心を注いで、仕え、ご奉仕させていただきたいと願っております。

さて、本日はマルコによる福音書14章27節から31節と66節から72節を通して、「裏切りに勝る神の愛」と題してお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、つまずいても大丈夫

 イエス様は、12弟子たちと最後の食事、過越しの食事をされ、御自分の血による新しい契約を弟子たちに受けるようにされました。この事を通して、イエス様と弟子たちの間には、切っても切れない深い関係が生まれたのでした。しかし、イエス様はゲッセマネの園に行かれる道すがら、27節で、「あなたがたは皆わたしにつまずく。」と言われたのでした。「つまずく」という言葉は、「スカンダリゼイン」という言葉で、「罠に付けたえさ」を意味する言葉です。動物を捕獲する時に餌で釣って捕まえるのです。そういう言葉です。イエス様は、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」という旧約聖書のゼカリヤ書13章7節の言葉を引用して、羊の群れである弟子たちがつまずき散らされるのは、羊飼いであるイエス様が打たれ、殺されるから。羊飼いを失った羊の群れはバラバラになってしまうのです。羊飼いを打つのは、「わたし」と言われる父なる神様ご自身なのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく。」とは、弟子たちがイエス様に従って行くことができなくなること、信仰を失ってしまうことなのです。自分の力や知恵で、人間の何かで事を運ぼうとする弟子たちはつまずいてしまうのです。「わたしに」と言われたイエス様につまずくのです。弟子たちは、イエス様の権威ある言葉と奇跡のみ業に驚くと共に、自分たちがイエス様の弟子であるという誇りと、イエス様が政治的な指導者としてイスラエルを復興されると信じて従って来たのですが、そのイエス様が捕らえられ、裁かれ、十字架のつけられて殺されるという出来事に、つまずくのです。十字架について死んでしまうようなお方に従って行くことはできなくなるのです。そこには絶望しかないのです。けれども、28節では、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。」と言われました。イエス様の逮捕と十字架の死によって、弟子たちはつまずき、散らされます。しかし、イエス様は復活して、ガリラヤでもう一度弟子たちと出会って下さるというのです。彼らを新たに弟子として、信仰者として立てて下さるという約束の言葉だと思うのです。ガリラヤとは、弟子たちがイエス様に出会った場所であり、召されて弟子としてイエス様に従った場所でもあります。ガリラヤは弟子としての信仰の第一歩を踏み出した場所でもありました。また、ガリラヤは、信仰に挫折して帰っていく場所でもあるのです。イエス様は、その場所で弟子たちを迎えられるのです。つまずき倒れた弟子たちは、イエス様の十字架の死と復活によって、再び集まって、もう一度新たにされて、イエス様の本当の弟子として歩み出すことができるのです。そして、その歩みは以前の弟子たちの姿とはちがうものなのです。

私たちの歩むその先を、イエス様は歩んで下さるのです。十字架という苦しみの道であり、その先には復活という新しい命の道なのです。私たちの歩む道のその先頭に、イエス様が歩いて下さるのです。先頭におられるイエス様に目を留めて、一歩一歩歩き出すのです。私たちも挫折から、弱さからもう一度歩き出す勇気をいただきたいのです。

 

二、神の言葉に反発ではなく受容

29節を見ると、「するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。」とあります。リビングバイブルには、「だれがどうあろうと、私だけは、この私だけは絶対にあなたを捨てません。」とあります。ペトロが信じていたのは、自分の信仰、自分の強い思いでした。「つまずき」とは、「罠に付けたえさ」と説明しましたが、ペトロは、自分の信仰、自分の力、自分の思いの強さを信じるという餌に罠にかかってしまうのでしょう。ペトロは、「わたしはつまずきません」と言えたのは、「みんながつまずいても」と言ったように、他の弟子たちと自分を比べたからでしょう。私たちも人間的な基準で自分を評価してしまいます。自分と他の人と比べて、「自分はまだました。あの人ほどひどくない。」と思い込んでしまいます。私たちキリスト者も、他の人と信仰や働きを比べて、自分の正しさの基準を自分自身に置いてしまうということがあるのではないでしょうか。

30節には、「イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」」とあります。「わたしはつまずきません」と答えたペトロに、「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」と言われました。

今夜、もうすぐです。鶏が鳴く前に、イエス様を3度知らないという、と言われたのです。31節では、「ペトロは力を込めて言い張った。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」皆の者も同じように言った。」とあります。新改訳聖書の第三版には、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」とあります。

ペトロは再び、「私は」と自分を強調しているのです。彼は、「今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」とイエス様にはっきり言われても、自分の力、自分の肉に誇りを持っていたのです。

私たちも、イエス様の言葉に、聖書の言葉に反発してしまうことがあるでしょう。自分の信仰、自分の知恵や力に立って歩もうとする。自分でできると思い込んでしまう。私たちは他の人と比べて、自分の方がましだと感じる。自分の信仰や働きが上だと思い込んでしまい、聖書の言葉やイエス様の言葉を聞かない。聞けない。聞きたくないということがあるのかも知れません。私たちは、毎日聖書の言葉に触れて、イエス様の言葉に触れて、その言葉が自分に語られた言葉、他の人にではなく、自分に示された言葉として、深く受け留めて、その言葉を聞いて、悔い改めることがあれば悔い改め、従うべきことがあれば従いたいのです。

 

三、イエス様は私たちとの関係を切らない

66節には、「ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」」とあります。ペトロは、イエス様がゲッセマネで捕らえられて大祭司によって裁判を受けていた時、身分を隠して人々の中に溶け込んで、大祭司の中庭で火にあたっていました。すると、女中がペトロの顔を見て、「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」と面が割れてしまいました。イエス様と一緒にいたことがばれたのです。68節でペトロは否定し、出口の方へ移動すると鶏が鳴いたのです。69節には、「女中はペトロを見て、周りの人々に、「この人は、あの人たちの仲間です」とまた言いだした。」とあります。最初は、ペトロに言ったのでしょうが、今回は、ペトロを見て、周りにいる人々にわかるように、「この人は、あの人たちの仲間です」と言ったのです。リビングバイブルには、「「ほら、あの人。あの人はイエスの弟子よ」と言いふらしました。」とあります。女中だけではなく、周りにいる人々にペトロは顔を知られ、イエス様の仲間であるとわかりました。70節には、「ペトロは、再び打ち消した。しばらくして、今度は、居合わせた人々がペトロに言った。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」」とあります。詳訳聖書には、「あなたの言葉のなまりでわかる」とあります。追い詰められたペトロは、言い訳をすればするほど、墓穴を掘るのです。あわてたペトロは、ついいつもの自分の言葉、素のペトロ、なまりが出たのです。ガリラヤのにおいがしたのです。ペトロは完全に逃げ場を失って、71節を見ると、「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、「あなたがたの言っているそんな人は知らない」と誓い始めた。」と言ったのです。「呪いの言葉さえ口にしながら」とは、その人を知らないということが嘘なら、神様に呪われてもかまわない、ということです。ペトロは、イエス様との関係を完全に切ってしまいました。完全に裏切ったのです。

72節には、「するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。」とあります。新改訳聖書2017には、「彼は泣き崩れた。」とあります。ペトロは、自分がイエス様を裏切ってしまったという自分の弱さや愚かさに泣いたのでしょうか。ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。自分の力で、自分の頑張りで何とかなると思っていましたが、自分の本当の姿をこれでもかと見せつけられたのでした。イエス様の言われた通り、予告の通りになってしまったのです。ペトロの心の中にある自分の弱さ、罪をえぐり出されたのです。ペトロは、イエス様の言葉を思い出しました。自分の愚かさも弱さも、罪も全て知っておられたのです。イエス様を知らない、関係がない、というのは罪の根源でしょう。イエス様は、この罪のために十字架にかかり尊い血を流し、命をささげられたのです。父なる神様に、私たちの罪の身代わりに裁かれたのです。死んで葬られましたが、三日目によみがえらされて死と罪に勝利されたのです。イエス様の十字架の死と復活により、私たちの全ての罪が赦され、魂が清められ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられ、神様と共に新しく生きる者とされたのです。私たちはこの恵みの中に置かれていることを感謝したいのです。

 

Ⅲ結論部

罪の本質で、神様を知らない、関係ないという内側には、「神様なしでも、自分は自分の考えで、自分の力で生きていける。」と考えてしまうことです。キリスト者である私たちも、そう考えてしまうことがあるのかも知れません。ペトロは、イエス様に召された時、自分の意思で舟を捨て、仕事を捨て、イエス様に従ったと考えていたでしょう。しかし、ペトロはイエス様を裏切り、自分の罪の本質、弱さを知らされました。「鶏が二度鳴く」というのは、夜明けが近いということです。ペトロの夜明けが近いのです。今回の事で、ペトロは自分の力では、頑張りではどうにもならないことを知りました。自分の罪を認め、自分の罪を知ったのです。それは、自分に絶望するのではなく、ここから神様の御業が始まるのです。夜明けが来るのだということなのです。自分の力で強く生きる必要はないのです。頑張って何かをする必要はないのです。勇気がなくてもいいのです。ペトロは、ペテロ自身の力によって生きるのではないのです。「わたしがあなたと共にいる」と言われるイエス様の助けと導きによって歩むことができるのです。

イエス様を裏切ったペトロ、過去にも様々なことがあったでしょう。キリスト者を迫害した使徒パウロもそうでした。自分の過去に犯した罪や経験した事柄は、なかったことにはできないのです。私たちも過去のことをなかったことにはできないです。私たちは、過去の自分を思い出し、その過去を無理に忘れる、なかったことにする必要もないのです。私たちの苦しい過去も、数々の罪も、神の子、正しいお方、聖いお方イエス・キリスト様が私たちの全ての罪や汚れ、苦しみの一切を十字架の上で背負って下さり、御自分の尊い血とその命を投げ出して、私たちの身代わりに死んで下さったのです。裁かれて下さったのです。私たちが受けるべき罰を受けて下さったので、全てが赦され解決されているのです。ですから、なかったことにできない過去の辛い出来事に捕らわれる必要はないのです。イエス様の十字架の死と復活で、私たちは罪赦され、清められ、義とされ、天国への備えがなされているのです。たとえ、私たちがイエス様を裏切ろうとも、どのような罪や汚れがあっても、すでに解決されていること、神様の愛は、イエス様の愛は、私たちの裏切りや罪にも勝る大きくて、深くて、驚くべきものであることを信じて、感謝して、この週もイエス様に信頼して歩んでまいりましょう。

 

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日曜礼拝(23年3月5日)

2023-03-05 22:49:18 | Weblog

主日礼拝

                                                                                                            2023.3.5

この時のためにこそ

エステル記4章1〜14節(新共同訳)

 

1導入部

  • みなさん、おはようございます。はじめましての方もいらっしゃるかと思いますので、最初に自己紹介をしたいと思います。
  • 2021年3月まで、この教会で青年担当牧師、ユースパスターとして奉仕していました、塚本良樹です。

 

2本論部

一.エステルという人物

  • 本日開かれたエステル記という書物は、聖書のなかでも一風変わった書物です。この書物には、「神」についての記述がありません。神、主という単語が出てこないばかりか、はっきりとは神の働き、神のみわざが出てきません。
  • この書物の主人公であるエステルが生きたのは、イスラエルから遠く離れたペルシャという国でした。歴史の話ですが、イスラエルは、神さまを裏切った結果、南北に分裂し、やがて北はアッシリアに、南はバビロンに滅ぼされ、「バビロン捕囚」、つまりバビロンに連れて行かれた。エステルは、連れて行かれた南王国ユダの人々の子孫だと思われます。
  • しかも、その後、南王国ユダを滅ぼしたバビロンが、ペルシャという国に滅ぼされた後、希望する人はイスラエルに帰って良いよということになります。エズラやネヘミヤの時代、多くの人がカナンに帰ったにもかかわらず、どんな事情があったのかは分かりませんが、帰らずに留まった人々がいた。そのなかの一人がこのエステルでした。
  • イスラエルから遠く離れたペルシャで、真の神を信じない人々に取り囲まれている。しかも、あの信仰熱心な人たちはイスラエルに帰ってしまった。さらには、開かなくて結構ですが、エステル記の2章7節によれば、エステルには父も母もおらず、いとこのモルデカイに育てられていたとあります。ひょっとしたら、自分の境遇を呪うこともあったかもしれません。
  • にもかかわらず、王様と結婚できたという意味ではシンデレラっぽいですが、この王様が最悪なんです。すぐキレて、無茶なことを言い始める。エステルの前のお妃様もそれで離婚させられます。DV夫か、パワハラ上司みたいな人です。
  • 敵として登場するハマンは、上昇志向とそれゆえの激しい妬み、劣等感を抱え、ライバルであるモルデカイをなんとか蹴落とそうとしています。こんな同僚がいたら嫌ですね。
  • エステル自身も、異邦人・異教徒であるペルシャの王様と結婚していますが、これは明確に旧約聖書の律法によって禁じられた行為であり、同時代のエズラやネヘミヤが聞いたら腰を抜かしたのではないかと思います。
  • しかも、ユダヤ人であることを隠しながら、宴会にも出席していることから、おそらく律法における食物規定、豚はダメなど、それも守っていなかったのではないかと言われます。エステルは、旧約聖書のなかで言えば、倫理的に、生き方において妥協していると言われても過言ではないでしょう。
  • エステル、それは、神などどこにもいないかのような異教の世界で、難しい人たちに囲まれ、困難な境遇のなかで、一人ぼっちで、しかも秘密裡に神を信じるユダヤ人として、ひっそりと、しかも道徳的にも妥協しながら生きていた。それがエステルという人物だったのです。

 

二.神がいないかのような世界に生きる私たち

  • エステルは、神などどこにもいないかのような異教の世界で、難しい人たちに囲まれ、困難な境遇のなかで、しかも秘密裡に神を信じるユダヤ人として、ひっそりと、しかも道徳的にも妥協しながら生きていました。巨大な帝国の王宮で、神を信じない人々に取り囲まれ、一人ぼっちで、一生懸命に生きていた。
  • このようなエステルの状況は、私たちと共通するのではないでしょうか。あたかもバビロンという異教世界に連れて行かれたかのように、エステルが、王宮のなかでただ一人の信仰者であったように、私たちも、日々の歩みのなかで、例えば職場で、家族のなかで、たった一人のクリスチャンであるとき、この世界でたった一人ぼっちのクリスチャンであるかのような錯覚に陥ることがある。
  • もちろん日曜日、教会に行けば神様に祈り、賛美する。教会に行ったときには、あるいは家で聖書を読むときには、クリスチャンの友人と会うときには、神様を思い出す。でも、それ以外の時間は、神様を全く意識することなく、神が登場しないエステル記のように、神などいないかのような世界を生きている。
  • そのようななかで生まれやすいのが生き方における妥協です。クリスチャンだって言わない方が安全だ。どうせここで伝道なんてできない。じゃあ言わない方が良い。この世の「常識」が絶対だ。聖書の命令は分かっている。これは神様が喜ばれることじゃないってどこかで分かっているけれど、仕方ないじゃないかと開き直る。以上のように考えるとき、エステルが置かれた状況は、私たち現代社会で生きるキリスト者と共通するように思うのです。

 

三.覚悟が問われるとき

  • さて、そんなエステルのもとに、育ての親モルデカイから、ある日ニュースが届くのです。ハマンのたくらみによって、全ユダヤ人が虐殺されようとしている。だから王のもとへ行って、願い求めて欲しい。
  • エステルは躊躇します。それは、この当時、許可なく王のもとに行くと、命の危険があったからです。しかも、王様はすぐキレる人ですからね。それに対して、モルデカイが語ったのが、本日の箇所です。もう一度お読みします。4章13節から14節をご覧ください。

 

4:13 モルデカイは再びエステルに言い送った。「他のユダヤ人はどうであれ、自分は王宮にいて無事だと考えてはいけない。

4:14 この時にあたってあなたが口を閉ざしているなら、ユダヤ人の解放と救済は他のところから起こり、あなた自身と父の家は滅ぼされるにちがいない。この時のためにこそ、あなたは王妃の位にまで達したのではないか。」

 

  • この時のためにこそ」。この言葉には、モルデカイの信仰が現れています。神という言葉は登場しません。はっきりとは分からない、偶然に見える出来事の背後に神を見出しているのです。
  • 私たちにも、「この時のためにこそ」、私はここに遣わされたんだ、と分かる瞬間があります。神があなたを、その場所に、その職場に、人間関係に、家族に、教会に遣わされた意味はこれだったんじゃないかと思う瞬間があります。
  • もちろん、クリスチャンは、今、自分がその場所に遣わされたことに意味があるということは知っていると思います。どのような小さな働きであっても、いわゆる仕事ではない、給料が出ない仕事、家事、ボランティア、奉仕を含め、もちろんそれが罪である場合を除いて、神が私たちを遣わした、神が与えた使命であって、神の国の視点からすれば、永遠の意味がある。そして、いわゆる仕事や目に見える奉仕ができなくなったとしても、私たちの祈りが、捧げる礼拝が、永遠の意味をもつ。
  • ただし、じゃあ具体的にどんな意味があるのかと言われても、私たちの人生に起こるほとんどの出来事のように、終わりの日まで分からないということも多い。意味があるということは知っていてもどのような意味なのかは分からないことほとんどです。
  • しかし、時に、「この時のためにこそ」ということが分かるときがある。そして、そのときに、エステルが問われたとは、命をかけてまで従うか、ということでした。
  • 当然ながら、そのような決断するときには、エステルのように躊躇するでしょう。だからこそ必要なのは交わりです。神に従うことに躊躇し、葛藤するときがある。そのようなときに、躊躇するエステルを励ましたモルデカイのように、決断が問われるとき、誰がそばにいるかということは大切なことです。
  • 私にとって、青葉台教会こそが、そのように励まし合う教会、交わりであると思います。私自身、本当にこの教会のなかで励まされました。みなさんが、私にとってのモルデカイでした。本当に感謝しています。

 

四.神の見えざる御手を信じて遣わされる

  • 命をかけた決断をしたエステルのその後はご存知の方もいらっしゃるでしょう。その夜、皆が眠っているうちに、王様が眠れなくて、記録の書を読んでいるときに、自分の命を救ったモルデカイに何もご褒美を与えていないことに気づき、そのタイミングでやってきたハマンにモルデカイに栄誉を与えるように命令し、そこから大逆転が始まっていきます。
  • 夜の間に、人が何もしていないうちに、偶然に見える歩みのなかで、神はそのみわざを成し遂げてくださった。決して完璧ではない。むしろ生き方においては妥協していたエステルを用いて、神は多くのユダヤ人の命を救ってくださった。
  • 私たちも、完璧とはほど遠いかもしれない。でも、それでも神に従おうと、応答しようとする、できることをしようとするあなたを、神は用いてくださる。だから、あなたがその場所に遣わされ、そこでなしていることには「意味」がある。
  • この時のためにこそ」と分かるときが来ることを信じつつ、安心しながら、時に妥協することがあっても、孤独を覚えることがあろうとも、交わりに励まされながら、それでも神に信頼して、それぞれの場所に遣わされていきたいのです。この主の招きに、あなたはどう応えるでしょうか。お祈りしましょう。
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