江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2014年2月23日)

2014-02-25 09:52:06 | Weblog

小平詩織主事のメッセージのため原稿はありません。

青葉台教会のホームページから音声、映像での説教をご覧ください。

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日曜礼拝(2014年2月16日)

2014-02-16 12:43:07 | Weblog

日曜礼拝(公現後第六)       2014.2,16

      「戦力外クリスチャン」 創世記27:30~40

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第三日曜日を迎えました。先週は雪のために礼拝に出席できなかった方々がたくさんおられました。また、今日もおそらく金曜日の大雪のために礼拝に出席できない方々が多くおられるのだと思います。今日も礼拝に出席できないので、ユーストリームでの礼拝中継を通して礼拝をささげられる方々もおられるでしょう。また、その置かれた場所で、イエス様を思い礼拝をささげておられる方々もおられることでしょう。

 1度あることは二度ある。二度あることは三度ある、といいますが、このあたりで打ち止めと願いたいものです。金曜日は、朝から雪が降り続き、どんどん積っていきました。テイィンエイジャーを持つ親の会を村上姉の御自宅で持たせていただきましたが、行きも帰りも雪で大変でした。私は、夜の10時過ぎに牧師館から教会まで歩いて行きましたが、雪のために大変でした。午前1時前に、教会から牧師館まで帰るのに、膝までズボズボと雪道を帰りました。まるで北海道にでもいるようで、スキーができるほどにたくさん積りました。土曜日の朝は、教会の前と牧師館の前を雪かきしました。宮本兄は雪かきをしてギックリ腰になられたそうです。皆さんもご自宅の雪かき等で体がガタガタだという方もおられるでしょう。

 私が横浜に来て、いや奈良の13年間も、神戸での約20年間もこんなに雪が降ったのは初めての経験だと思います。牧師館と教会の生き返りするだけでも大変な労働でした。ぜひ、3度目はありませんように神様にお祈りしたいと思うのです。

 ソチでは冬季オリンピックが開催され、スケートの羽生君が金メダルを取りました。ショートで100点を越えるすごい記録でした。フリーで三回転んだのでしたか、これはもしかしてと誰もが不安がよぎったでしょうが、2位にいた選手も転倒して結局、羽入君が金メダルを取りました。男子としては日本人で初めての快挙でした。高橋選手も町田選手もがんばりましたね。オリンピックに出るだけでも大変な競走を勝ち抜いてきた。そして、世界の強豪を相手にメダルを取るということはすごいことだと思います。

 スポーツの世界は、華やかな世界でもあり、厳しい、シビアな世界でもあります。脚光を浴びて成績もグングン伸びる選手、メダルに手の届く選手もいれば、年を重ね戦力にならない選手出てきます。プロ野球の世界では、結果次第、実力次第ですから、結果が出なければ、実力がなければ首を切られるのです。自分のチームから首になり戦力外の選手は、他のチームのテストを受けて、また雇ってもらう為にがんばっているという様子を時々テレビで放映しているのを見たことがあります。大打者であったラミレスという選手は、巨人でも活躍しましたが、彼は戦力外となり、プロのチームでは雇ってもらえず、群馬の独立リーグでプレーすることになり、年俸は巨人にいた時の100分の1になったとニュースで知りました。ラミレス選手は野球が好きなんですね。

 今日は、「戦力外クリスチャン」と題して、創世記27章30節から40節を通してお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、ヤコブとエサウの始まり

 神様はアブラハムを選び彼を祝福の源、祝福の基となさいました。その祝福が息子のイサクに与えられ、その祝福がその子へと受け継がれていくのです。そして、イサクにはエサウとヤコブという双子が与えられました。そして、その祝福は本来兄であるエサウが受け継ぐはずでありましたが、今日の箇所を見ると弟のヤコブに与えられたのです。

 イサクの妻リベカはなかなか子どもが与えられませんでしたが、イサクの祈りによって妊娠しましたが、胎内で子ども達が押し合い大変な状況になりました。その時神様はリベカに次のような事を語られました。「主は彼女に言われた。「二つの国民があなたの胎内に宿っており/二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」」(創世記25:23) 生まれる前から、兄は弟に仕えると神様のみ心がここにありました。母の胎内から争っていた二人は、出産の時も争っていました。「先に出てきた子は赤くて、全身が毛皮の衣のようであったので、エサウと名付けた。その後で弟が出てきたが、その手がエサウのかかと(アケブ)をつかんでいたので、ヤコブと名付けた。」(25:25-26) ヤコブの名前の由来は、彼が兄のかかとをつかんでいたから、かかと(ヤコブ)と名付けられたのでした。リビングバイブルには、ヤコブはつかむ人の意と記されています。エサウは、赤いと毛深いを結び付けた名前だそうです。

 ある時、エサウが疲れて野から帰って来た時、ヤコブは煮物をしていました。エサウは空腹の故に、煮物を求めます。その時聖書はこのように記しています。「エサウはヤコブに言った。「お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。」彼が名をエドムとも呼ばれたのはこのためである。」(25:30)

リビングバイブルには、「あーあ、腹ペコで死にそうだ。その赤いやつを一口くれよ。」とあります。すかさずヤコブはエサウの長男の特権と引き換えならあげると言ったのです。

 エサウは言います。「「ああ、もう死にそうだ。長子の権利などどうでもよい」」(23:32)

 聖書は、「ヤコブは言った。「では、今すぐ誓ってください。」エサウは誓い、長子の権利をヤコブに譲ってしまった。ヤコブはエサウにパンとレンズ豆の煮物を与えた。エサウは飲み食いしたあげく立ち、去って行った。こうしてエサウは、長子の権利を軽んじた。」

(25:33-34)

 聖書は、エサウが「長子の権利を軽んじた。」と記しています。けれども、エサウを弁護すれば、お腹がすいて頭が働かない時に、「長子の特権云々(うんぬん)」を持ち出して、そんなの冗談じゃないか。お腹がすいてすいて死にそうな、そんな状況でそんな大事な権利を渡すはずがない。」、と普段ならば、冷静に受け止める事柄も空腹の状況では、冷静に対処できなかった。あれは無効だ、とはエサウの思いですが、聖書は、「長子の権利を軽んじた。」とあるのです。

 リビングバイブルには、「今にも飢え死にしそうなんだぜ。長男の権利なんか何の役に立つんだい。・・・エサウはお腹いっぱい食べることしか頭にありません。長男の権利のことなど、軽べつしていたのです。」(25:33-34)とあります。このような経緯(いきさつ)があり、今日の箇所となります。

 

 二、問題が問題でなくなる

 イスラエルでは、長男と次男とでは天と地の差がありました。長男として生まれてくるというのは、大きな意味があったのです。特に、祝福の系図、神様に選ばれた祝福を受け継ぐということは大いなる祝福であったのです。それをエサウは軽んじたのです。

 それ以前にと言いますか、聖書は、彼らが生まれる前に、「兄が弟に仕えるようになる。」と神様のみ心はここにありました。

 イサクは年を取り、自分の行く末を考えて、長男のエサウを祝福しようとします。とても大切な事です。アブラハムからイサクへ、そしてイサクからエサウへと引き継がれることになるわけですが、先ほどお話ししたようにエサウは長子の特権を軽んじた。つまり、煮物と引き換えに売り渡したのでした。それが空腹であったからという理由は成り立たないことになるのです。

 イサクは、祝福する前に、大切な儀式の前に獲物をとってきておいしい料理を作ってほしいとエサウに言います。聖書には、「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。」(25:28)とあります。リビングバイブルには、「イサクのお気に入りはエサウです。鹿の肉をよく持ってきたからです。」とあります。イサクは食いしんぼうだったのでしょう。このようなことで、ヤコブはエサウを愛したのです。そして、リベカはヤコブを愛したと聖書は記しています。

 そのリベカ、ヤコブを偏愛していたリベカが、イサクとエサウの話しを盗み聞きします。そして、ヤコブにイサクから祝福を祈ってもらうようにと勧めるのです。それは、リベカがエサウとヤコブを生む前に、神様が語られた内容、「兄が弟に仕えるようになる。」と言う事だったでしょう。リベカはその事をイサクに話したことがあるのかも知れない。けれども、自分の好物の鹿の肉の料理をいつも持ってくるエサウを祝福したい、当然長男だからということでしょう。別の見方をすると、イサクは神様のお心に反することをしようとしたと見ることもできると思うのです。

 ともあれ、祝福を受け継ぐ家族、信仰の継承する家族としては問題多しと、言われるような家族であったのです。

 神様を中心とした家族が、こんなんでいいのですかと問われる事柄です。しかし、聖書は真実をそのまま隠さず語るのです。牧師の家族がそんなんでいいのですか、と言われる立場にある私は、この記事、この家族の内容に安心するのです。信仰の家族だから、クリスチャンホームだからちゃんとしなさいということを聖書は言っていないのだと思うのです。

 神様を信じても、その信仰を受け継ぐ家族にも、現実にはいろいろな問題や闘いがあるということです。その問題があるのにもかっかわらず、ないかのように見せかけることが、神様の前にも人の前にも問題があるように思うのです。もし、ちゃんとできる、さすがと言われるような信仰が与えられているならば、それは本当に感謝なことだと思いますし、神様の恵みだと思うのです。

 三、全てを見て支配される神

 先ほど聖書を読んだように、ヤコブは自分がエサウのように毛深くないので、兄エサウの毛皮を身に付けて、エサウと偽って神様の祝福を受けたのです。

 皆さんと共に、34節を共に読みましょう。「エサウはこの父の言葉を聞くと、悲痛な叫びをあげて激しく泣き、父に向かって言った。「わたしのお父さん。わたしも、このわたしも祝福してください。」」 「実は、お前が来る前にわたしはみんな食べて、彼を祝福してしまった。だから、彼が祝福されたものになっている。」(27:33)と父イサクから聞いて、エサウは「このわたしも祝福してください。」と懇願しました。残り物には福があるではりませんが、残りの祝福を下さいということでしょう。

 この後、エサウはヤコブに殺意を抱き、ヤコブは逃亡者となっていくのです。リベカは、もう二度とヤコブに会うことなしに死んでいくのです。

 神の祝福を引き継ぐ家族が、まさかこのような展開するとは、そのようなてん末は誰にも予測できませんでした。だましだまされ、策略が通ってしまう。だまされる前に、策略が通ってしまう前に、神様何とかして下さらないのですか、と祈るような経験を私たちはっすることもあるでしょう。人間の営みには実に様々な事が起こってきます。私たちも例外ではありません。神様を信じる、神様に従うクリスチャンと言えでも、辛い経験をすることがあるのです。「何で、どうして」という事柄を経験することがあるのです。

 けれども、それらの事柄をじっと見ておられる方がいるのです。それらの出来事を見守っておられる方がいるのです。それを、苦しみや悲しみゆえに忘れてはならないのです。

人間の世界では、うそやだましが平然と通用します。人間の世界では多くの偽りがまかり通っています。しかし、それを神様は見ておられるのです。

 神様は私たち人間の心の動きや策略、根回しと言われる事柄も全てお見通しなのです。どんなに正当化しようとしても、神様は私たちの心の中にあることをご存知、見透かしておられるのです。そして、「義人はひとりもいない」と聖書は語るのです。

 全てのことを眼中に収め、神様御自身の御手の中に握っておられる神様は、その全体を眺めながらも、小さい事柄、細かなところまで自在に動かす主権者として、人間がなす極限の知恵やはかりごとをも、神様御自身の思いで、自在に組み合わせて、完璧なまでのみこころの道を神様ご自身が形造っておられるのだと思うのです。

 成功したとか、失敗した。だました、だまされたという事柄は、限りある人間の知恵のぶつかり合いの世界なのです。その背後には、全知全能なる神様、そして愛の神様が、ゆっくりと、そして確実にその御手を動かして確実に働いておられるのです。だから大丈夫なのです。

 ヤコブの策略、だまして偽って祝福を自分のものにしてしまったという事柄は、信仰を受け継ぐ家庭内でにわかに表面化し始める複雑な人間関係の駆け引きや感情のもつれ合いなどの全てを見通しながら、それらを一つに束ねながら、神様の約束の成就や祝福に導いていかれるのが神様のみ業なのです。そこに人知を超えた神様の導きがあるのです。

 このごちゃごちゃとした人間の世界に、イエス様をお送りくださり、私たち人間にはどうすることもできなかった罪の問題、救いの問題に解決を与えて下さったのです。人間の憎しみや恨み、様々な問題が十字架でイエス様の身代わりの死により、そして復活によって解決が与えられたのです。

 「このわたしも祝福してください。」とエサウは叫んでも与えられませんでした。けれども、その祝福がイエス・キリスト様の十字架と復活を通して、私たちにも与えられたのです。与えられただけではなく、その祝福を受け継ぎ、その祝福の源となり、その祝福を多くの方々に流すパイプの役目を果たすことができるようになったのです。

 

 Ⅲ結論部

 ヤコブは本来祝福を受け継ぐような資格はありませんでした。兄の弱さをいいことに長子の特権を奪いました。また、父をだまして祝福をもらいました。神を信じる者として、クリスチャンとしてはふさわしくない者でした。クリスチャン的というか、行いの面、あるいは内面に置いても、神様の証人にはふさわしくない、正統派クリスチャンからみたら戦力にならないクリスチャン、戦力外クリスチャンなのです。

 けれども、そんな者に生まれる前から、「一つの民が他の民より強くなり/兄が弟に仕えるようになる。」と神様のみ心を示し、神を信じる者にはふさわしくない生き方をも受け入れて、やがて神様の祝福を受け継ぐ器として、神様は彼を訓練し導いて行かれるのです。

 私たちも、一般に言われるクリスチャンとしての標準から見れば、ちょっと困ったクリスチャン、神様から見て戦力外のクリスチャンかも知れません。でも、神様はその戦力外のクリスチャンである者をイエス様の十字架と復活を通して、弱いままの私が、そのままの私が神様に受け入れられ、神様の祝福をいただき、その祝福を多くの人々に与える者として下さるのです。

 本来ならば、あのエサウのように祝福はほかにないのですか、と悔やんでも、悔やんでも与えられないはずの私にも、神様の恵みにより与えられる者となったのです。

 私たちは、正しいクリスチャンだから、真面目なクリスチャンだから、立派なことを言える、立派なことができるクリスチャンだから愛されるのではありません。戦力外、どうしようもない者に、神様の愛と恵みが注がれているのです。そのことを覚えながら、ちゃんとしたクリスチャンを生きるよりも、どんな者にもその愛と恵みを与えて下さるイエス様に目と止めながら、イエス様に愛され、支えられていることを実感しながら、この週も歩んでまいりましょう。私はあなたと共にいるから大丈夫と言われる主が共におられます。

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日曜礼拝(2014年2月9日)

2014-02-09 13:24:12 | Weblog

日曜礼拝(公現後第五)       2014.2,9

      「振り返ればそこにあなたがいた」 創世記19:16~29

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第二日曜日を迎えました。昨日から雪が降り続き、日曜日の礼拝においでになれるのかと心配しておりました。昨日から心も体も、いろいろな事を考えて準備しておいでになられた方々もおられるでしょう。ようこそおいで下さいました。また、家族の協力や誰かの助けで来られたという方々もおられることでしょう。教会に行く方法がないので、どうもこうも仕方がないと今、ユーストリームで礼拝をしておられる方々もおられることでしょう。画面を通しての礼拝はいかがでしょうか。これもれっきとした礼拝です。ちゃんと礼拝を守っているということを自覚して、心からの礼拝をおささげ下さいね。また、今日は大雪のために礼拝に出席できなかった方々もおられるはずです。その場で、イエス様を見上げ、そこが礼拝の場所であることを感謝して、主を礼拝していただいているのだと信じます。

 私たちは、なにはともあれ、こうして会堂で礼拝をささげることができることを心から感謝しながら、イエス様を礼拝したいと思うのです。

 先週は、関東地区の教職セミナーの後、伝道委員会の専門委員会を持ちました。今年の11月に予定しています伝道委員会主催のナザレン伝道フェスタと題して、信徒教職共に礼拝や宣教についての学び、礼拝の体験をと考えており、講師には多摩カトリック教会の晴佐久神父、JTJ宣教神学校学長の横山英実師を迎えるので、お二人の先生にお会いしてお話しするのが目的でした。晴佐久神父は、4名の伝道専門委員を見て、天使たちが来られたと言って下さいました。私たちは、4名でよく晴佐久神父を訪問したり、お会いしているので、そのように言って下さいました。今回は、晴佐久神父のリビング、ご自分が物を書いたり、食事したりする生活の場に招いて下さり、随分私たちを受け入れて下さっているのだと感じました。

 せっせとお一人で、コーヒーを入れて下さったり、いろいろなお菓子の準備をして歓迎して下さいました。本当に、良き交わりができました。カトリック、プロテスタントを越えた、イエス様に深く豊かな交わりがそこにありました。

 また、JTJ宣教神学校に行き、横山先生とお交わりしました。謙遜で、腰の低い先生で、先生の牧師としてのお働きやその思いや姿勢を聞かせていただき、本当に期待できることを確信しました。お昼をホテルでごちそうになり、良き交わりが与えられました。

金曜日は、横山先生の礼拝学の講義があると聞きましたので、早速金曜日の夜の3コマの講義を受けてきましたが、本当に素晴らしい講義で多くの事を教えられ、大いに励まされました。岩淵兄は、2年間JTJ宣教神学校で学ばれ、このような先生から多くの教えと恵みを受けられたのだなあとうらやましく思いました。

 11月のナザレン宣教フェスタは、会場は我らが青葉台教会ですので、ぜひ皆さんには参加していただきたいと思います。

 さて、今日は創世記19章16節から29節を通して、「振り返ればあなたがそこにいた」という題で、ロトとその家族についてお話ししたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、マイナスを経験しても大丈夫

 先週、アブラハムがソドムとゴモラの町のためにとりなしのお祈りをして、「正しい人が10人いたら滅ぼすのですか」という問いに、神様は、「その10人のためにわたしは滅ぼさない。」と語られました。御使いはソドムの町に向かい、アブラハムの甥のロトが彼らを迎えました。アブラハムが一生懸命にとりなしたのは甥のロトがソドムにいたからだとも考えられます。身内の住んでいるソドムの町のためにアブラハムは祈ったのでしょう

 けれども、ソドムの町には10人の正しい人はおりませんでした。ソドムの人々は、ロトの迎えた御使いを渡せと詰め寄り、御使いは老若男女を問わず、目つぶしを食らわせたと記しています。そして、ロトに、「実は、わたしたちはこの町を滅ぼしに来たのです。大きな叫びが主のもとに届いたので、主は、この町を滅ぼすためにわたしたちを遣わされたのです。」(19:13)と神のご意志を伝えたのです。

 そして、ロトの娘たちが嫁いだ婿の所へ行って、「ここから逃げるように。主がこの町を滅ぼされるから」と伝えましたが、婿たちはそれが冗談だと思い信じませんでした。

 ですから、御使いは15節にあるように、「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」と神のご意志を伝えました。

 けれども、ロト自身もその御使いの言葉、神様のご意志を心から信じることができませんでした。長年ソドムの町で暮らし、そこで得た財産や地位などに未練があったのかも知れません。

 ロトはかつてアブラハムと一緒に生活していました。アブラハムと共にいることが神様の祝福を体験できると感じていたのでしょう。けれども、二人の財産が多すぎてアブラハムとロトは違う道を選択することになりました。アブラハムは自分が叔父であるし年上なので、自分が先に進むべき道や土地を選択することが出来ましたが、甥のロトに先に選ぶことをゆずりました。ロトは、目に見える事柄を優先しました。聖書は、「ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。」(創世記13:10~11)とあります。

 ロトは自分の目で見た場所、良いと思われる土地を選びました。しかし、その土地は悪で満ちていたのでした。その結果が、今回の神様の裁きであったのです。

 私たちは、当然自分の思った通りの判断も大切です。経験や努力も大事です。しかし、全てのことを支配して導いておられる神様の導きも忘れてはならないのです。神様に聞いて、導いていただいて判断することは、私たちにとって大切な事です。ですから、日々ディボーションを通して、聖書のみ言葉を読んで黙想して示される神様のお心を大切にしたいと思うのです。

 ロトに道を譲り、必ず神様が最善に導いて下さると信じたアブラハムに神様は答えられました。「主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」」(創世記13:14~17)

 損をした。悪いクジをひいたと思うようなことを経験しても大丈夫、神様は私たちが驚くような恵みと祝福を用意しておられるのです。神様を信頼しましょう。

 

 二、強いられた嫌なことの中に恵みがある

 ロトは、人間的な経験や思いが先行して神様の言葉を受け入れられませんでした。ですから、神様は強制的に、御使いたちにロトとロトの妻と娘達の手を取らせて町の外へ避難するようにさせられたのです。

 私たちは、自由を好みます。何でも自分のしたいようにするのが私たちです。子どもたちを見ていると宿題はなかなかできません。好きなようにさせていると宿題よりもテレビやゲーム、コンピューターばかりをしてしまいます。ですから、お母さんは強制的に勉強させるのです。それが親の愛でしょう。神様は、ロトが躊躇しているので強制的に連れ出しました。そのことを聖書は、「主は憐れんで」と表現しています。強制的なことが神様の憐れみだったのです。リビングバイブルには、「それでもまだ、ロトがぐずぐずしているので、御使いはロト夫婦と二人の娘の手を取り、町の外の安全な場所へせきたてました。神様はほんとうに思いやりのある方だからです。」とあります。

 榎本保郎先生は、旧約聖書一日一章で次のように書いておられました。「手を取って連れ出し、町の外におかれる、ということはロトや彼の家族にとって必ずしも喜びではなかったことであろう。人間だれにとっても強制されるということはいやなことである。信仰生活においても、できれば自分の自由意志で信仰生活をしたいと願う。自分の都合のよいときに、自分の気持ちの熟したときにと願う者である。「今はそっとしておいてください。そのうちにまた気が進むようになったら、自分から求めていきますから」、私たちはよくこんな言葉を耳にすることがある。しかし、ロトとその家族が主に手を取られて連れ出されることなしにみ言葉に従い得なかったように、私たちも助け主なる主の強制なくして、決して十字架を負うことはできないのではなかろうか。」

最後にこうも語っておられます。「創世記の筆者は、ロトの受けた強制、束縛を主の憐れみであったと記して、み言葉の迫りからたえず自由な余地を残しておこうとする私たちの信仰の奥義がなんであるかを示してくれている。み言葉にためらうことが悪いのではない。それは誰もが持つ思いである。ただそこに立たず、まず神の力強いみ手のうちに身をゆだね、そこから出させていただくことこそ大切なのである。教会生活の意義はここにある。」

 私たちは、自分の人生なんだからと、自分の思いや考えのみを優先して物事を進めることがあります。そして、聖書の言葉に従えないことも多くあるかも知れません。弱い私たちだから、先のことが見えない、わからない私たちだから、何が善であるのかを知りません。知っておられるのは神様だけです。ですから、神様はわからない、知らない私たちに強制されることがあるのです。無理やりにもその権威と力で私たちを導かれることがあります。それは、ロトと同じように自分の意志ではないので、嫌な思いをしたり辛い事だったりするのです。

 もしかしたら、私たちは今自分が置かれている場所や、経験している事柄は、必ずしも自分の思いや願いではないものかも知れません。自分にとっては嫌なこと、辛いこと、悲しいこと、痛いことかも知れません。でも、それは神様の憐れみのゆえであると聖書は語るのです。神様は最善なお方です。今のあなたの苦しみや悲しみ、痛みは無駄に、無責任に与えられているのではありません。必ず、神様のみ業がそこに現わされるのです。イエス様は宣言されました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9:3)

 

 三、

 皆さんと共に17節を共に読みましょう。「彼らがロトたちを町外れへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」」ロトは山に逃げるように言われますが、それはできないのでツォアルという町に逃げることを願い許されました。

御使いは、「後ろを振り返ってはいけない。」と言いました。

 共に26節を共に読みましょう。「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった。」

チェーンバイブルという聖書には、この26節の説明がありました。「振り返った」というのが、「残してきた物、残してきた生活を惜しむ気持ちが、御使いの禁令(後ろを振り返ってはいけない。)を犯させることになった。」

 大爆音、硫黄が振る。その物音が気になったロトの妻は振り返ってはいけないという言葉を聞けずに、塩の柱になったのです。イスラエル旅行に行くと、あそこに見えるのが

ロトの妻の姿、塩の柱ですと説明があります。本当に女性の姿のように見えました。ロトの妻は後ろを振り向いて、神様の言葉に従えなかったので裁かれました。私たちは、裁かれないように神様の言葉に従いましょう、ということを言いたい箇所ではないと思います。 

 勿論イエス様も次のような事を言われたことがありました。「ロトの妻のことを思い出しなさい。自分の命を生かそうと努める者は、それを失い、それを失う者は、かえって保つのである。」(ルカ17:32~33) ロトの妻を思い出せと言われました。自分の事しか考えなかった。自分の蓄えたアクセサリーや洋服、お金等、後ろ髪をひかれるような大切なものがあったでしょう。それが気になった。それは、私たちもあることでしょう。

 神様の言葉に従えなかったということがあるでしょう。1度や2度ではない。何度もあるでしょう。自分の思いを優先し振り返ったこともあるでしょう。けれども、私たちは裁かれないのです。なぜならば、イエス様が私たちのさばきをご自分が十字架の上で受けて下さったからです。私たちが罪の故に、本来受けるべき罰をイエス様が十字架で身代わりに受けて下さったのです。私たちに代わってご自分の血を流し、その命を捨てて下さったのです。死んで葬られましたが、三日目に復活されたのです。そのことによって、私たちの罪、過去、現在、未来の罪でさえも赦されました、と宣言されたのです。そして、私たちは死では終わらない復活の命、永遠の命をいただいたのです。

 私たちは、ロトの妻にならないように頑張って、緊張して信仰生活を生きる必要はないのです。イエス様の十字架と復活の故に、私たちは裁かれないのです。

 

 Ⅲ結論部

 今年のイースターは4月20日ですが、その時の聖書箇所はヨハネによる福音書20章を選んでいます。そこはマグダラのマリアとイエス様との話しです。マリアはイエス様の死んだ体に香油を塗りに来たけれども、イエス様の体が見当たらない。だから、マリアは泣いていたのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか」という天使たちの声に振り向くと、そこにイエス様が立っておられたのです。しかし、それがイエス様だとは分からなかったのです。ここにはマリアは振り向いたとあります。

 ロトの妻は振り向いて塩の柱になりました。そして、マグダラのマリアが振り向くとそこに復活されたイエス様が立っておられたのです。

 イエス様は、十字架と復活を通して、のろいを祝福に変えて下さったのです。私たちは、呪いじゃないのかと思われるような出来事を経験することがあるでしょう。悲惨な人間関係も経験するでしょう。しかし、あなたの背後にはイエス様がおられるのです。泣きながら、絶望の中で振り向いたマリアの前にはイエス様が立っておられたのです。

 今、悲しみの中に置かれていますか。絶望でいっぱいですか。信じられないような苦しみがありますか。大丈夫です。あなたの後ろにはイエス様がおられます。あなたのために血を流し、命を投げ出されたイエス様がいつもあなたと共におられるのです。心配はいりません。イエス様があなたを支え、あなたを必ず助けて下さいますから。

 この週も、私たちがどのような立場にあろうとも、罪を犯す者であっても、イエス様の愛と恵みは、あなたの上に注がれているのです。我慢して、頑張って信仰を勝ち取るのではありません。すでに勝利者なるイエス様があなたの後ろ盾になっていて下さるのです。だから、安心して、大丈夫の神様に全てをお任せして、この週も歩んでまいりましょう。

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日曜礼拝(2014年2月2日)

2014-02-02 12:54:21 | Weblog

日曜礼拝(公現後第四)       2014.2,2

      「あなた一人のためにも」 創世記18:16~33

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。2月の第一日曜日を迎えました。新しい年を迎えて1カ月が経ちました。1月はあっという間に過ぎたという感じでしょうか。今日も皆さんと共に礼拝を持つ事が出来て感謝します。

 1月28日には故須田幸子姉の告別式が執り行われました。皆さんのお祈りとご協力とにより無事済ませることができました。ご家族の方々が、心から喜んで下さいました。お骨は教会墓地でということで、4月の墓前礼拝時に納骨式ができたらと願っています。

 あっという間に、天国に行かれたという感じで、本当に須田さんらしい最後であったと思います。人は生きて来たように死んでいくと言われますが、私たちは神様から与えられた命を一日一日大切に、そして前向きに神様に信頼して歩ませていただきたいと思います。

 さて、今日は創世記18章16節から33節を通して、「あなた一人のためにも」と題して、アブラハムのソドム滅亡へのとりなしの祈りについて共に見させていただきたいと思います。

 

 Ⅱ本論部

 一、神様と人の間に立つ

 神様は、アブラハムに現れ来年の今頃、サラに男の子が生まれていると約束の確認をされました。けれども、それを聞いていたサラは笑ったのです。アブラハムと同じです。

 神様は、17節で、アブラハムは大きな強い国民となり、世界のすべての国民がアブラムによって祝福に入ると宣言されます。アブラハムが祝福の源、基となるようにと約束されたことの確認です。そして、アブラハムを選んだ理由、アブラムの息子たちとその子孫が、主の道を守り、主に従って正義を行うように命じて、神様がアブラハムに約束した事を成就するためであるとあります。

 そのように神様は、アブラハムを選び、彼を祝福する存在なので、アブラハムにこれからしようとすることを隠す必要はないので、神様はアブラハムにソドムとゴモラの罪は非常に重いので、その罪を調べ、確認し、さばきをおこなう旨を伝えるのです。

 アモス書3章7節には、「まことに、主なる神はその定められたことを僕なる預言者に示さずには何事もされない。」という言葉があります。リビングバイブルには、「わたしはいつも、事が起こる前に、真っ先に預言者を通して警告する。今も、そうしているのだ。」とあります。

 神様は、ご自身のみこころをアブラハムに示されたのは、神様のご計画をアブラハムに知らせ、その計画の中でアブラハムを用いようとされたのだと思います。18節にあるように、「アブラハムは大きな強い国民になり、世界のすべての国民は彼によって祝福に入る。」からだと思うのです。アブラハムには、神様を伝える使命が与えられ、彼を通して全ての国民の祝福を神様は願っておられるのです。そして、アブラハムは、ソドムとゴモラの人々のために、とりなしの祈りをささげるのです。

 聖書は、信仰によって私たちはアブラハムと同じ祝福が与えられていると約束しています。私たちもまた、神様から神様を知らない人々に神様の愛と救いを伝えること私たちを通して祝福を与えるという使命をいただいているのだと思うのです。

 私たちは、家族の中で、友人や知り合いの中で、職場や学校の中で、アブラハムと同じ使命をいただいているのですから、祝福の源、基とならせていただきたいと思うのです。

 

 二、人間の限界

 アブラハムは、神様からソドムとゴモラの町の罪の大きさと神様のなさることを聞いて、神様にとりなすのです。

 皆さんと共に23節から25節まで共に読みましょう。「アブラハムは進み出て言った。「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか。」

 ソドムとゴモラの町は悪で満たされているとおっしゃいますが、もし50人の正しい人がいたら、その50人も他の人々と共に滅ぼされるのですか、と談判しました。正しい者と悪い者を同じ扱いになされるのですか。あなたは公平なお方ですから、そんなことなさらないですよね、とアブラハムは神様に詰め寄りました。

 アブラハムは、50人の正しい者がいたら、その50人は助けて下さいと祈りませんでした。その50人のために町を赦していただきたいという訴えでした。

 神様は答えました。26節です。「主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」」 50人だけを赦すのではなく、50人のために町全部を赦すと言われたのです。

 アブラハムは続けます。「45人いたら。40人いたら。30人いたら。20人いたら。もう一声、10人いたら。」と。神様は、アブラハムの問いに真摯に答えられました。「45人いたら滅ぼさない。40人いたら、それをしない。30人いたらそれをしない。20人いたら滅ぼさない。その10人のためにわたしは滅ぼさない。」と答えられました。

 アブラハムは、自分が神様から選ばれ、祝福の基とされているので、何とか滅びる者たちをお救い下さいと祈っているのではありません。27節には、自分のことを「塵あくたにすぎないわたし」と言っています。自分自身は、無力な者、無価値な者であると認めながら、神様の前にへりくだっているのです。

 けれども、アブラハムは何故、10人でとどめたのでしょうか。「5人いたら、いや1人いたら」と言わなかったのでしょうか。そこには、限界がありました。アブラハムも人間ですから、そのとりなしにも限りがありました。神様は、「5人いたら、1人いたら」とアブラハムが問うても、聞いて下さったでしょう。「何、たった5人ぐらいで、1人ぐらいで赦せるか」とは言われなかったでしょう。そこには、人間の限界、旧約の限界がありました。

 

 三、イエス様がいるから大丈夫

 モーセも、偶像礼拝に走ったイスラエルのために執り成しました。「今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」」(出エジプト32:32)と破れ口に立ちました。

 また、ダニエルもまた、彼自身は神様の前に忠実に歩んでいた者でしたが、罪を何度も繰り返すイスラエルの一員であることを彼は自覚し、「わたしたちは罪を犯し悪行を重ね、背き逆らって、あなたの戒めと裁きから離れ去りました。」(ダニエル9:5)と祈り、「わたしたちの神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、荒廃した聖所に主御自身のために御顔の光を輝かしてください。」(9:17)とイスラエルの罪の赦しを祈り願ったのです。

 また、パウロも、同胞イスラエルのために心を痛め、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」(ローマ9:2-3)と祈ったのでした。けれども、そこにはやはり限界がありました。

 イエス様は、私たちと神様との間の完全なとりなし手となられました。ヘブライ人への手紙7章25節には、「それでまた、この方は常に生きていて、人々のために執り成しておられるので、御自分を通して神に近づく人たちを、完全に救うことがおできになります。」

とあります。

 イエス・キリスト様は、神であり、罪のないお方であるのに、私たちを愛するがゆえに、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死んで下さいました。十字架の上で、「「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」」(ルカ23:34)と祈られました。十字架で裂かれたその傷の故に、十字架で流されたその血潮のゆえに、十字架でささげられたその尊い命と引き換えに、私たちの罪が赦されたのです。そして、神様の前に義なる者とされたのです。神様の怒りが罰がイエス様の上に置かれたので、私たちは裁かれないでいるのです。イエス様は、死んで三日目に復活されたのです。私たちに、罪の赦しと魂の救い、永遠の命を与えて下さったのです。

 イエス様は、今も私たちのために、そして、まだ神様を知らない方々のために、父なる神様の前にとりなしていて下さるのです。

 私たちは罪深くどうしようもない者です。不信仰な者です。けれども、そんな者のためにイエス様は命をささげ、今も祈り続けていて下さるのですから、心配しないで、安心してイエス様に全てを委ねて、イエス様と共に歩みたいと思うのです。

 

 Ⅲ結論部

 ローマ8:34には、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」とあります。

 Ⅰヨハネ2:1~2には、「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」

 罪を犯さないように努力することは大切です。しかし、罪を犯さない人間、失敗のない人間はいません。だからこそ、罪を犯しても、私たちにはイエス様がおられるのです。すでに、十字架と復活を通して、罪の赦しを完成して下さったのですから、もう大丈夫なのです。

マタイ5:45には、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」とあります。神様は、クリスチャンだけ、正しい者だけを愛されるのではありません。罪ある者にも、神様に背を向け、神様を信じようとしない者をも愛しておられるのです。

 先週の多摩カトリック教会の晴佐久神父のメッセージに次のようなお話がありました。

 無神論者の左翼系の雑誌の編集長との対談の話しです。「あなたは、神様を感じられますか?」というような、ちょっとぶしつけなことを聞く人のようです。正確には、「あなたは、神の恩寵(おんちょう)に触れたと感じていますか?」と聞いたようです。恩寵って、神からの一方的な恵み、無償の愛のことで、教皇様はだいたいこのように答えたそうです。
「恩寵は感覚で感じたりするものではないので、それは誰にもわかりません。恩寵は、自分の意識の一部ではないのです。知識や理屈でもない。恩寵は、魂の中に差し込む光なんです。あなたのうちにだって、知らないうちに恩寵が注がれてるんじゃないですか?」
 すると、その編集長が、「信仰も持っていないし、神も信じていない私のうちにですか?」
 と答えると、教皇様は、「はい。恩寵は、魂に働きかけるものです」と答え、編集長は、
「でも、私は魂なんか信じていないんです。」と言い、それに対して教皇様は、「あなたが信じていようといまいと、あなたには魂がありますよ。」とお答えになった。そうすると編集長が、こう言ったそうです。「・・・教皇様、私は回心してしまいそうです。」と。

 教皇様は、イエス様のように心が広く、魂を愛しておられることがよくわかります。

 私たちは、クリスチャンでございます、というような上から目線ではなく、アブラハムのように、神様の前にも人の前にも謙遜で、神様と家族、神様と友人知人、神様と人々との間にたって、神様の祝福と救いのみ業が起こされますようにと祈る者とならせていただきたいと思うのです。

 正しい人なんて一人もいないのです。滅びて当然の私が、イエス様の十字架と復活のゆえに滅びないでいるです。神様の恵みです。そして、アブラハムに約束されたように、私たちは祝福の基となるのです。神様がそうして下さったのです。大丈夫。何も心配要らない。私があなたを赦した。罪は消えた。そう語られるイエス様と共にこの週も歩み、誰かのために祈りをささげる者とならせていただきましょう。

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