ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日) 2023,5.28
「教会に魅力はあるんか」 使徒言行録2:42~47
Ⅰ導入部
おはようございます。5月第四の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。第一礼拝では、中高生の方々も合同の礼拝となっています。
26日の金曜日には、故福田美喜子さんの告別式が行われ、会堂一杯の方々が参列されました。御親族や、友人知人の方々に美喜子さんの復活の信仰をお伝えできました。悲しみの中にありますご家族の上に主の慰めがありますようにお祈り下さい。
ペンテコステ(聖霊降臨日)は、キリスト教においては、クリスマス(救い主イエス様の誕生)と復活祭(イエス様の復活)と並んで大切な祝祭日となっています。イエス様が昇天されて10日目、イエス様が復活されて50日目に聖霊が120人の人々の上に注がれました。ペンテコステによって、教会が誕生しましたが、今日はその初代教会の姿をみたいのです。初代教会は魅力にあふれていました。「魅力」という言葉を調べると、「人の心を惹きつけて夢中にさせる力」とあります。初代教会の姿は、周りの人々を惹きつけ夢中にさせ好意を持たれていたのです。その魅力の秘密を探りたいと思います。
今日は、使徒言行録2章41節から47節を通して、「教会に魅力はあるんか」という題でお話し致します。
Ⅱ本論部
一、聖霊降臨による神様み業
イエス様の約束の言葉を信じて、聖霊が与えられることを願い祈り続けた120人の上に聖霊が降りました。2章1節から4節には、聖霊が降ったことの現象が記されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と記されています。天からのしるしであり、炎のような舌が一人ひとりの上に現れとどまりました。120人全員が聖霊に満たされたのです。そして、120人は、神様の偉大な業を語りました。それも、過越しの祭りを祝うために各地から集まった人々の母国語の言葉で語っていたので、それを聞いた人々は皆驚き惑いました。この現象が理解できないので、酒に酔っているという者もいたほどでした。
イエス様が昇天する前に弟子たちに語られた言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)という約束は、イエス様が行ったように驚くような奇蹟の業を行うというよりも、イエス様の証人として偉大な神様のみ業、救いのみ業、福音を語る者にされるということだったのでしょう。
この後、ペトロが12弟子を代表して語ります。この時のペトロは、イエス様を三度知らないと言った時のような自分の命を守るために、イエス様を否定した臆病な者ではなく、聖霊に満たされた姿であり、聖霊降臨が神の約束の成就であることを旧約聖書の言葉を引用しながら示し、イエス様の十字架と復活を大胆に語りました。ペトロの説教を聞いていた人々は、その説教に大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)と問い、ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)と語りました。すると41節です。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」と言いました。聖霊に満たされた人々、ペトロを通して語られた神様の偉大なみ業、救いのみ業、福音を通して3000人ほどの人々が洗礼を受けたと記されています。120名がイエス様の約束の言葉信じて祈り、聖霊降臨によって力を受けた人々を通して、3000人ほどの人々が救われるという神様の驚くべきみ業が起こされたのです。120人から3000人ほど、約25倍に
なったのです。悔い改めるということは、聖霊の働きです。そしてイエス様の十字架と復活の神様の偉大なみ業を信じるということは、人間の知恵や努力ではなく、聖霊の働きなのです。自分で信じるということではなく、聖書に示された救いの出来事、十字架と復活を神様が救いのために与えて下さったと感謝することが、受け入れることであり信じるということなのです。まだクリスチャンでないかたは、神様にお任せすればよいのです。
ペトロは聖霊に満たされて、彼の笑顔には魅力があったのでしょうか。「力強く証をし」(使徒2:40)とペトロが力強く語るその姿勢に魅力があったのでしょうか。ペトロが語った言葉は内容が整えられ、理解できる言葉に魅力があったのでしょうか。ペトロ自身に魅力があったというよりも、聖霊に満たされたペトロに魅力があったのでしょう。ペトロは聖霊を受けて、力をいただいて、イエス様の証人としての働きをしたのでした。その結果、3000人ほどの人々が洗礼を受けて仲間に加わったのです。これが、120人の上に聖霊が降り、力を受けた結果、神様のみ業が起こされたのです。
二、礼拝を大切にした初代教会
聖霊の満たしを経験し、神様の偉大なみ業、救いのみ業、福音を通して3000人ほどの人々が洗礼を受けて、聖霊によって誕生した初代教会に加えられたのでした。初代教会は、現代のような教会堂があったわけではありません。ですから、それぞれの家庭で集まって、それぞれの場所での信仰生活が始まったのです。その初代教会の信仰の歩みを見てみたいと思います。
42節には、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあります。これは教会の本質といえるものでしょう。使徒たちの教えとは、公生涯の間にイエス様から教えられたことを弟子たちが語ったことです。弟子たちは、多くのことをイエス様から学びましたが、聞いていなかったり忘れてしまっていたことがありました。イエス様は、最後の晩餐の席で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)と語られました。聖霊を受けた弟子たちは、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とありますので、イエス様の語られたことを思い出したり、聖霊が数々の内容を教えて下さったのです。それが、新約聖書に記されていることです。イエス様の言葉、聖書の言葉を守ったのです。彼らはイエス様の言葉に目を留めた、特に、イエス様の十字架と復活の証言を大切にしたのです
相互の交わりとは、教会につながる信仰者同士の交わりです。神様の言葉を聞くだけで終わってしまうのではなく、交わりをするのです。神様の言葉によって養われて、本当に生きる場所が、兄弟姉妹との交わりの場所となるのです。礼拝の説教は聞くけれども、み言葉は聞くけれども、交わりをしないということは、本当の意味でみ言葉を聞いている、説教を聞いているということにはならないし、み言葉によって、神様の言葉によって生きているということにはならないのだと思うのです。み言葉を、説教を聞いて生きることは、相互の交わりをするということなのです。
交わりは、コイノニアですが「分かち合い」という意味があるようです。この分かち合いは、親しくなる、楽しむという以上のものです。交わりの本質は、私たち一人ひとりが神様との交わり、ディボーション、静まり時を持つということです。では私たちは何を分かち合うのでしょうか。何を分かち合うかによって、交わりの本質が問われます。み言葉による良い分かち合いは、喜びも感謝も苦しみも痛みも共有できるのだと思います。来週から1階のアパルームにおいて、交わりの場所が提供されます。コロナ感染によって、交わりが断たれてしまいました。ぜひ、第二礼拝後に交わりの時、分かち合いの時を持ちましょう。礼拝メッセージに対する分かち合いができれば、私としては嬉しいと思います。
パンを裂くことは、食事する事、聖餐式のことです。聖餐に預かるということは、私たちの交わりの中心です。洗礼を受けた人の事を陪餐会員という呼び方もします。聖餐に預かることのできる会員ということです。聖餐式において、パンとぶどう酒を分かち合う、そこにおいてこそ本当の意味で一つになる交わりがあるのです。来週は、聖餐式が行われますので、ぜひ会堂にお越しになり、聖餐を受けて分かち合い、交わりをしたいのです。
パンとぶどう酒を分かち合うとは、イエス様を分かち合うということでしょう。イエス様の恵みに預かることなのです。
イエス様との交わりが、兄弟姉妹の交わりの中心に置かれる時に大切な事は祈りです。祈りにおいてこそ、イエス様との交わりに生きる者となるのではないでしょうか。祈りを分かち合うということでしょう。リビングバイブルには、「使徒たちの教えをよく守り、聖餐式(パンと杯によりキリストの体と血の祝福にあずかる、キリスト教の礼典の一つ)や祈り会に加わっていました。」とあります。祈り会を大切にしたのです。ユダヤ教に定められた日々の祈りの時間を大切にして実行したといことでしょう。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ということは、礼拝を大切にしたとも言えます。初代教会は、礼拝を大切にし、説教を聞くということから教会形成を始めたのです。
三、聖霊に満たされることが魅力となる
43節には、「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」とあります。リビングバイブルには、「誰もが神を畏れ敬うようになり」とあります。弟子たちは、イエス様の証人として福音を語る者とされましたが、聖霊は弟子たちにイエス様と同じように、「不思議な業としるし」を行う力を与えました。ですから、イエス様が奇跡の業を行って群衆が驚き、畏れたように、弟子たちもみ業を通して人々に畏れを与えたのです。信仰を持った人々の心にまず起こったことは、神様を畏れるということでした。神様が恐いお方として恐れるというのではなくて、神様の偉大さ、大きさの前で、自分の小ささや無力さ、罪深さを感じるということです。魚の最も獲れない時間帯に、イエス様のお言葉に従い網を降ろして大漁を経験したペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエス様の足元にひれ伏したペトロのようです。しかし、私たちの弱さや足りなさのある所に、神様の力があり、神様を信じる信仰のある所に奇跡が起こり、神様を神様として恐れる思いは、さらに大きなものになっていくのでしょう。44節、45節の「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」とあるように、信じた人々の群れは、必要に応じて自分の財産や持ち物を分け合ったのです。分かち合ったのです。交わりの基本的なあり方として、財産や持ち物を分かち合ったのです。
それは強制されたものではなく、自発的なものでした。聖書には、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(Ⅱコリント9:7)と記されています。
46節、47節には、「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあります。毎日神殿での礼拝、家ごとの聖餐式、食事、神を賛美する姿は、「民衆全体から好意を寄せられた。」のです。リビングバイブルには、「彼らは町中の人に好感をもたれ」とあります。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」というみ言葉に基づく彼らの信仰と敬虔な祈りの生活、温かい交わりの生活、聖餐式の生活は、周りの人々の関心を呼び起こさずにはいきませんでした。彼らは、教会に人を集めようとしたのではなく、人が集まって来たのでした。私たちが行うように、伝道集会やコンサートや何かのキャンペーンを行って、特別に一生懸命に伝道したから人々が集まったというのではありませんでした。教会そのものに、教会に集う人々そのものに、魅力があったのです。不思議な魅力があったのです。そこに、周りの人々は惹きつけられ、引き寄せられたのです。それは、ただ聖霊の働きによるものでした。
イエス様が奇跡を起こして3000人が救われた。毎日救われる人が起こされたというような事はありませんでした。イエス様は、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(ヨハネ14:12)と言われました。つまり、イエス様が父の元へ行かれ、聖霊を遣わして、聖霊を通して、イエス様の行う業を行い、もっと大きな業を行うと言われた、そのみ業が起こったのです。
初代教会の人々は、こういう生活をすれば理想的な教会になると考えて、信仰生活を送ったのではないでしょう。こういう活動をすれば、人々が教会に集うと宣教活動を行ったのでもないでしょう。自分が罪人であることを認め、イエスが父なる神様に裁かれ、自分の罪の身代わりに十字架にかかって下さった事、尊い血を流して下さり、苦しみ死んで下さったこと、死んで葬られましたが三日目に甦らされたことを信じ、イエス様の十字架の死と復活を通して罪が赦された事、義とされた事、魂が生かされた事、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたことを信じて、イエス様の愛と恵みと赦しの中を生きていたのです。ただ聖霊の導きに従って信仰生活を歩んだのです。
Ⅲ結論部
私たちは、聖書が示しているように「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあるように実践しています。ただ、コロナ感染によって、聖餐式をできない時もありましたが、これからは聖餐式も執り行われます。また、交わりの場所の提供、お茶を飲んだり、軽食を通して交わりたいのです。ぜひ、礼拝説教の感想や教えられたこと、発見した事、理解できなかったこと等、分かち合えたらと思うのです。
初代教会は、「民衆全体から好意を寄せられた。」と聖書は語ります。教会は、中で何が行われているのかがわからないので、教会には行かない、という人々もいたでしょう。しかし、コロナ感染を通して、インターネット礼拝や説教や集会等が目に見えるようになりました。どのような内容が話されているのかが分かるようになりました。しかし、教会の中で何が行われているのかが分かれば、人々は教会に来るのでしょうか。勿論、来られるようになった方々もおられるでしょう。私たちは、初代教会のように「民衆全体から好意を寄せられた。」というような教会形成、魅力あるキリスト者になりたいのです。それは、
何か楽しいイベントをするとか、おいしいものを食べるとか、ワクワクするようなイベントを企画するとか、今までに私たちもやつてきました。それらのことも大切ですから、考えていきたいと思いますが、それ以前に、教会に魅力があるためには、私たちキリスト者が、聖霊に満たされるということなのです。聖書は聖霊に満たされ人々の事を、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と記しています。自分の聖書の知識や自分の知恵、経験で語ったのではなく、霊が、聖霊が語らせるままに語ったら、外国語で神様の偉大な業、福音の恵みを語っていたということなのです。私たちは、福音を人に語るという時、恐れや恥ずかしさ、おっくうな思いがあります。しかし、私たちが聖霊に満たされる時、聖霊に取り扱われる時、恐れも、恥ずかしさも、気にするということを超えて、聖霊の導きのままに歩むことができるということなのです。私たちは、何か分からないことがあれば、パソコンやアイホンを見て調べるように、「アレクサ、今日の天気は」と頼るように、CHAT JPTに頼るように、事あるごとに、聖霊様に心を向け、信頼するのです。聖書を読む時も祈る時も、礼拝の時も、学校でも職場でも、食事の時も、あらゆる場面で、聖霊様が共におられること、イエス様が共におられることを感じて、信じて、この週も聖霊様に引き回していただきましょう。
私たちが聖霊と共に歩む時、「民衆全体から好意を寄せられた。」とか、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」ということが起こるのです。私たちは、この週、聖霊様の導きのままに歩ませていただきましょう。