江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(23年5月28日)

2023-05-28 13:00:44 | Weblog

ペンテコステ礼拝(聖霊降臨日)  2023,5.28

      「教会に魅力はあるんか」 使徒言行録2:42~47

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月第四の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。第一礼拝では、中高生の方々も合同の礼拝となっています。

26日の金曜日には、故福田美喜子さんの告別式が行われ、会堂一杯の方々が参列されました。御親族や、友人知人の方々に美喜子さんの復活の信仰をお伝えできました。悲しみの中にありますご家族の上に主の慰めがありますようにお祈り下さい。 

ペンテコステ(聖霊降臨日)は、キリスト教においては、クリスマス(救い主イエス様の誕生)と復活祭(イエス様の復活)と並んで大切な祝祭日となっています。イエス様が昇天されて10日目、イエス様が復活されて50日目に聖霊が120人の人々の上に注がれました。ペンテコステによって、教会が誕生しましたが、今日はその初代教会の姿をみたいのです。初代教会は魅力にあふれていました。「魅力」という言葉を調べると、「人の心を惹きつけて夢中にさせる力」とあります。初代教会の姿は、周りの人々を惹きつけ夢中にさせ好意を持たれていたのです。その魅力の秘密を探りたいと思います。

今日は、使徒言行録2章41節から47節を通して、「教会に魅力はあるんか」という題でお話し致します。

 Ⅱ本論部

 一、聖霊降臨による神様み業

 イエス様の約束の言葉を信じて、聖霊が与えられることを願い祈り続けた120人の上に聖霊が降りました。2章1節から4節には、聖霊が降ったことの現象が記されています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と記されています。天からのしるしであり、炎のような舌が一人ひとりの上に現れとどまりました。120人全員が聖霊に満たされたのです。そして、120人は、神様の偉大な業を語りました。それも、過越しの祭りを祝うために各地から集まった人々の母国語の言葉で語っていたので、それを聞いた人々は皆驚き惑いました。この現象が理解できないので、酒に酔っているという者もいたほどでした。

 イエス様が昇天する前に弟子たちに語られた言葉、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)という約束は、イエス様が行ったように驚くような奇蹟の業を行うというよりも、イエス様の証人として偉大な神様のみ業、救いのみ業、福音を語る者にされるということだったのでしょう。

 この後、ペトロが12弟子を代表して語ります。この時のペトロは、イエス様を三度知らないと言った時のような自分の命を守るために、イエス様を否定した臆病な者ではなく、聖霊に満たされた姿であり、聖霊降臨が神の約束の成就であることを旧約聖書の言葉を引用しながら示し、イエス様の十字架と復活を大胆に語りました。ペトロの説教を聞いていた人々は、その説教に大いに心を打たれ、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」(使徒2:37)と問い、ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)と語りました。すると41節です。「ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。」と言いました。聖霊に満たされた人々、ペトロを通して語られた神様の偉大なみ業、救いのみ業、福音を通して3000人ほどの人々が洗礼を受けたと記されています。120名がイエス様の約束の言葉信じて祈り、聖霊降臨によって力を受けた人々を通して、3000人ほどの人々が救われるという神様の驚くべきみ業が起こされたのです。120人から3000人ほど、約25倍に

なったのです。悔い改めるということは、聖霊の働きです。そしてイエス様の十字架と復活の神様の偉大なみ業を信じるということは、人間の知恵や努力ではなく、聖霊の働きなのです。自分で信じるということではなく、聖書に示された救いの出来事、十字架と復活を神様が救いのために与えて下さったと感謝することが、受け入れることであり信じるということなのです。まだクリスチャンでないかたは、神様にお任せすればよいのです。

 ペトロは聖霊に満たされて、彼の笑顔には魅力があったのでしょうか。「力強く証をし」(使徒2:40)とペトロが力強く語るその姿勢に魅力があったのでしょうか。ペトロが語った言葉は内容が整えられ、理解できる言葉に魅力があったのでしょうか。ペトロ自身に魅力があったというよりも、聖霊に満たされたペトロに魅力があったのでしょう。ペトロは聖霊を受けて、力をいただいて、イエス様の証人としての働きをしたのでした。その結果、3000人ほどの人々が洗礼を受けて仲間に加わったのです。これが、120人の上に聖霊が降り、力を受けた結果、神様のみ業が起こされたのです。

 二、礼拝を大切にした初代教会

 聖霊の満たしを経験し、神様の偉大なみ業、救いのみ業、福音を通して3000人ほどの人々が洗礼を受けて、聖霊によって誕生した初代教会に加えられたのでした。初代教会は、現代のような教会堂があったわけではありません。ですから、それぞれの家庭で集まって、それぞれの場所での信仰生活が始まったのです。その初代教会の信仰の歩みを見てみたいと思います。

 42節には、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあります。これは教会の本質といえるものでしょう。使徒たちの教えとは、公生涯の間にイエス様から教えられたことを弟子たちが語ったことです。弟子たちは、多くのことをイエス様から学びましたが、聞いていなかったり忘れてしまっていたことがありました。イエス様は、最後の晩餐の席で「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」(ヨハネ14:26)と語られました。聖霊を受けた弟子たちは、「あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」とありますので、イエス様の語られたことを思い出したり、聖霊が数々の内容を教えて下さったのです。それが、新約聖書に記されていることです。イエス様の言葉、聖書の言葉を守ったのです。彼らはイエス様の言葉に目を留めた、特に、イエス様の十字架と復活の証言を大切にしたのです

 相互の交わりとは、教会につながる信仰者同士の交わりです。神様の言葉を聞くだけで終わってしまうのではなく、交わりをするのです。神様の言葉によって養われて、本当に生きる場所が、兄弟姉妹との交わりの場所となるのです。礼拝の説教は聞くけれども、み言葉は聞くけれども、交わりをしないということは、本当の意味でみ言葉を聞いている、説教を聞いているということにはならないし、み言葉によって、神様の言葉によって生きているということにはならないのだと思うのです。み言葉を、説教を聞いて生きることは、相互の交わりをするということなのです。

 交わりは、コイノニアですが「分かち合い」という意味があるようです。この分かち合いは、親しくなる、楽しむという以上のものです。交わりの本質は、私たち一人ひとりが神様との交わり、ディボーション、静まり時を持つということです。では私たちは何を分かち合うのでしょうか。何を分かち合うかによって、交わりの本質が問われます。み言葉による良い分かち合いは、喜びも感謝も苦しみも痛みも共有できるのだと思います。来週から1階のアパルームにおいて、交わりの場所が提供されます。コロナ感染によって、交わりが断たれてしまいました。ぜひ、第二礼拝後に交わりの時、分かち合いの時を持ちましょう。礼拝メッセージに対する分かち合いができれば、私としては嬉しいと思います。

 パンを裂くことは、食事する事、聖餐式のことです。聖餐に預かるということは、私たちの交わりの中心です。洗礼を受けた人の事を陪餐会員という呼び方もします。聖餐に預かることのできる会員ということです。聖餐式において、パンとぶどう酒を分かち合う、そこにおいてこそ本当の意味で一つになる交わりがあるのです。来週は、聖餐式が行われますので、ぜひ会堂にお越しになり、聖餐を受けて分かち合い、交わりをしたいのです。

 パンとぶどう酒を分かち合うとは、イエス様を分かち合うということでしょう。イエス様の恵みに預かることなのです。

イエス様との交わりが、兄弟姉妹の交わりの中心に置かれる時に大切な事は祈りです。祈りにおいてこそ、イエス様との交わりに生きる者となるのではないでしょうか。祈りを分かち合うということでしょう。リビングバイブルには、「使徒たちの教えをよく守り、聖餐式(パンと杯によりキリストの体と血の祝福にあずかる、キリスト教の礼典の一つ)や祈り会に加わっていました。」とあります。祈り会を大切にしたのです。ユダヤ教に定められた日々の祈りの時間を大切にして実行したといことでしょう。

「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」ということは、礼拝を大切にしたとも言えます。初代教会は、礼拝を大切にし、説教を聞くということから教会形成を始めたのです。

 三、聖霊に満たされることが魅力となる

 43節には、「すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。」とあります。リビングバイブルには、「誰もが神を畏れ敬うようになり」とあります。弟子たちは、イエス様の証人として福音を語る者とされましたが、聖霊は弟子たちにイエス様と同じように、「不思議な業としるし」を行う力を与えました。ですから、イエス様が奇跡の業を行って群衆が驚き、畏れたように、弟子たちもみ業を通して人々に畏れを与えたのです。信仰を持った人々の心にまず起こったことは、神様を畏れるということでした。神様が恐いお方として恐れるというのではなくて、神様の偉大さ、大きさの前で、自分の小ささや無力さ、罪深さを感じるということです。魚の最も獲れない時間帯に、イエス様のお言葉に従い網を降ろして大漁を経験したペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」とイエス様の足元にひれ伏したペトロのようです。しかし、私たちの弱さや足りなさのある所に、神様の力があり、神様を信じる信仰のある所に奇跡が起こり、神様を神様として恐れる思いは、さらに大きなものになっていくのでしょう。44節、45節の「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。」とあるように、信じた人々の群れは、必要に応じて自分の財産や持ち物を分け合ったのです。分かち合ったのです。交わりの基本的なあり方として、財産や持ち物を分かち合ったのです。

それは強制されたものではなく、自発的なものでした。聖書には、「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(Ⅱコリント9:7)と記されています。

 46節、47節には、「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」とあります。毎日神殿での礼拝、家ごとの聖餐式、食事、神を賛美する姿は、「民衆全体から好意を寄せられた。」のです。リビングバイブルには、「彼らは町中の人に好感をもたれ」とあります。「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」というみ言葉に基づく彼らの信仰と敬虔な祈りの生活、温かい交わりの生活、聖餐式の生活は、周りの人々の関心を呼び起こさずにはいきませんでした。彼らは、教会に人を集めようとしたのではなく、人が集まって来たのでした。私たちが行うように、伝道集会やコンサートや何かのキャンペーンを行って、特別に一生懸命に伝道したから人々が集まったというのではありませんでした。教会そのものに、教会に集う人々そのものに、魅力があったのです。不思議な魅力があったのです。そこに、周りの人々は惹きつけられ、引き寄せられたのです。それは、ただ聖霊の働きによるものでした。

 イエス様が奇跡を起こして3000人が救われた。毎日救われる人が起こされたというような事はありませんでした。イエス様は、「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」(ヨハネ14:12)と言われました。つまり、イエス様が父の元へ行かれ、聖霊を遣わして、聖霊を通して、イエス様の行う業を行い、もっと大きな業を行うと言われた、そのみ業が起こったのです。

 初代教会の人々は、こういう生活をすれば理想的な教会になると考えて、信仰生活を送ったのではないでしょう。こういう活動をすれば、人々が教会に集うと宣教活動を行ったのでもないでしょう。自分が罪人であることを認め、イエスが父なる神様に裁かれ、自分の罪の身代わりに十字架にかかって下さった事、尊い血を流して下さり、苦しみ死んで下さったこと、死んで葬られましたが三日目に甦らされたことを信じ、イエス様の十字架の死と復活を通して罪が赦された事、義とされた事、魂が生かされた事、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたことを信じて、イエス様の愛と恵みと赦しの中を生きていたのです。ただ聖霊の導きに従って信仰生活を歩んだのです。

 Ⅲ結論部

 私たちは、聖書が示しているように「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」とあるように実践しています。ただ、コロナ感染によって、聖餐式をできない時もありましたが、これからは聖餐式も執り行われます。また、交わりの場所の提供、お茶を飲んだり、軽食を通して交わりたいのです。ぜひ、礼拝説教の感想や教えられたこと、発見した事、理解できなかったこと等、分かち合えたらと思うのです。

 初代教会は、「民衆全体から好意を寄せられた。」と聖書は語ります。教会は、中で何が行われているのかがわからないので、教会には行かない、という人々もいたでしょう。しかし、コロナ感染を通して、インターネット礼拝や説教や集会等が目に見えるようになりました。どのような内容が話されているのかが分かるようになりました。しかし、教会の中で何が行われているのかが分かれば、人々は教会に来るのでしょうか。勿論、来られるようになった方々もおられるでしょう。私たちは、初代教会のように「民衆全体から好意を寄せられた。」というような教会形成、魅力あるキリスト者になりたいのです。それは、

何か楽しいイベントをするとか、おいしいものを食べるとか、ワクワクするようなイベントを企画するとか、今までに私たちもやつてきました。それらのことも大切ですから、考えていきたいと思いますが、それ以前に、教会に魅力があるためには、私たちキリスト者が、聖霊に満たされるということなのです。聖書は聖霊に満たされ人々の事を、「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」と記しています。自分の聖書の知識や自分の知恵、経験で語ったのではなく、霊が、聖霊が語らせるままに語ったら、外国語で神様の偉大な業、福音の恵みを語っていたということなのです。私たちは、福音を人に語るという時、恐れや恥ずかしさ、おっくうな思いがあります。しかし、私たちが聖霊に満たされる時、聖霊に取り扱われる時、恐れも、恥ずかしさも、気にするということを超えて、聖霊の導きのままに歩むことができるということなのです。私たちは、何か分からないことがあれば、パソコンやアイホンを見て調べるように、「アレクサ、今日の天気は」と頼るように、CHAT JPTに頼るように、事あるごとに、聖霊様に心を向け、信頼するのです。聖書を読む時も祈る時も、礼拝の時も、学校でも職場でも、食事の時も、あらゆる場面で、聖霊様が共におられること、イエス様が共におられることを感じて、信じて、この週も聖霊様に引き回していただきましょう。

私たちが聖霊と共に歩む時、「民衆全体から好意を寄せられた。」とか、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」ということが起こるのです。私たちは、この週、聖霊様の導きのままに歩ませていただきましょう。

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日曜礼拝(23年5月21日)

2023-05-21 12:34:55 | Weblog

日曜礼拝(復活後第六主日)   2023,5.21

      「待った甲斐がある」 使徒言行録1:3~15

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月の第三日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを感謝致します。来週は、聖霊降臨日、ペンテコスタの礼拝となります。今日は、使徒言行録1章3節から15節を通して、「待った甲斐がある」という題でお話し致します。今日の説教題に何か違和感があると感じておりましたが、実は、2013年5月19日のペンテコステ礼拝において、「待った甲斐がある」という同じタイトルでお話しをしておりました。今日は、ペンテコステ前ですが、待つということをイエス様が弟子たちにご命令されたこと、そのことが大切であることを見たいのです。

私たちは、待つという時、どちらかというとネガティブなことを考えてしまいます。試験や就職の合格結果を待つ時、「落ちたらどうしよう」と考えても、「合格したらどうしよう」と期待はなかなかできないのです。私たちの世界、社会の流れは、待つ時間をとにかく排除する傾向にある、早さを求めるのです。パソコンもアイホンも早く操作できることをよしとします。早いことが善で、遅いことはだめなのです。待つことが苦手な人は、待つ時間をワクワクする時間に変えることができたらいいのではないかと思います。長蛇の列を作る食堂で食べることができるなら、何時間待っても良いと思うのかも知れません。そこで食べる料理を期待できるからです。弟子たちがイエス様の言葉を信じて、期待したかどうかはわかりませんが、待ったのです。

 

Ⅱ本論部

一、イスラエルの復興はキリストの証人となること

イエス様は、復活されてから40日間、御自分が生きていることを証明され、神の国について話されました。4節には、「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」とあります。ここも「彼らと食事を共にしていたとき」とあるように、イエス様は食事を大切にされます。「食事を共にしていた」というのは、「塩を一緒に食べる」という意味があり、「一緒に食事する。一緒に野営する。一緒に留まる。」などの意味が派生しました。

この言葉は単なる食事というのではなく、イエス様の臨在が強調されているようです。

イエス様は食事の場で、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」と命じられました。次の世代の宣教はエルサレムから始まるということでしょう。イザヤ書2章3節には、「多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。」とあり、旧約時代からエルサレムからみ言葉が出ることが預言されていました。「父の約束されたもの」とは、神様ご自身が、人類の救いを達成するために準備しておられる聖霊のことです。「前にわたしから聞いた」とは、イエス様は最後の晩餐の時、聖霊について話されました。

5節を見ると、「ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」とあります。聖霊の出来事が、バプテスマのヨハネが行った洗礼以上のものであり、イエス様ご自身が、ヨハネからバプテスマを受けた時、聖霊が降ったように、選ばれた弟子たちにも聖霊が降り、聖霊による洗礼が行われることを予告します。

6節には、「さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。」とあります。1章3節には、「神の国について話された。」とありますが、イエス様が語る神の国と弟子たちが考える神の国の理解には違いがありました。弟子たちは、イエス様の内にある神様の力、奇跡の力を起こして、ローマ帝国の支配から解放して下さることを神の国として期待していたので、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」という問いになったのでしょう。

「イスラエルのために国を建て直してくださる」とありますが、旧約聖書に預言されていたメシア、救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いであり、イスラエルの人々は長い間国を失い、外国の支配下にあって、救い主出現によって外国の支配から解放され、自分たちの国を確立する救い主を待ち望んでいたのです。弟子たちは、革命を起こすことで、イスラエルに平和をもたらす神の国として描いてイエス様に大いに期待していたのです。そのように期待した弟子たちの問いに対してイエス様は7節、8節で、「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と答えられました。弟子たちのイエス様に対する期待を否定されたように思います。弟子たちの期待のようにイスラエルの国を建て直すことで終わってしまうのではなくて、聖霊を受けて、力を受け、イエス様の証人として遣わされていくということを語られました。8節は、聖霊降臨によって、教会の成立が実現すること、教会の誕生を予告しています。イエス様の十字架と復活によって実現するのは、イスラエルのための国の復興ではなく、教会の誕生なのです。弟子たちが望んだイスラエルの国の復興は、イエス様の教会の誕生とその歩みだとイエス様は言われるのです。聖霊を受けた弟子たちが、力を受けて、イエス様の証人として遣わされて行くことそのものが、イスラエルのための国の復興になるということなのだと思うのです。イエス様は、弟子たちが考えていたイスラエルの国の復興が何なのかをはっきりと示されたのでした。

 

二、困った時の神頼み

弟子たちの期待、すなわちイスラエルのための国の復興は、旧約聖書以来、神様の選ばれた民であるユダヤ人、イスラエルに限定されていました。しかし、イエス様は、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」と語られました。ユダヤ、イスラエルの範囲を超えたサマリア人、異邦人がイエス様の十字架と復活を通して救いに預かり、これから誕生するキリスト教会に加えられていくことを示しているのです。弟子たちはイエス様の証人として福音を語り続ける者とされるのです。

イエス様からの力強い言葉をいただいた弟子たちでしたが、9節には、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」とあります。イエス様は、弟子たちの前から昇天されたのです。自分たちの目の前からイエス様の姿が見えなくなって、心細くなったことでしょう。今まではイエス様中心でしたが、これからは聖霊中心に移ろうとしていました。イエス様が昇天された理由は、イエス様の代わりに聖霊が来られるためでした。ヨハネによる福音書16章7節には、「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。」とイエス様の言葉を記しています。残された弟子たちは、イエス様が共にいないと何もできない人々でした。イエス様の復活と40日間のイエス様の働きを通して、弟子たちは、またイエス様と一緒に歩んで行けると思っていたことでしょう。しかし、今イエス様は自分たちの目の前から昇天され、イエス様なしで歩んで行かなければならないという不安な気持ちになった。その弟子たちに、10節、11節で、「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」と記されています。「白い服を着た二人の人」とは、主の使いであり、イエス様の昇天の場面が神様の意思による神様の行為であることを表すシンボルです。この二人は、イエス様がまたおいでになると宣言し、天を見つめてイエス様がいなくなったことを嘆くのではなく、地を見つめてそのための準備として「あなたがたのなすべきことをするように」と促している言葉のようにもみえます。そして、弟子たちはエルサレムに戻り、今なすべきこと、弟子の補充と心を合わせて祈るのです。

弟子たちは、イエス様がいなくなって困ってしまいました。困った時の神頼みとして祈りました。自分たちにはどうすることもできない状況なので、神様に心を向けるのです。本当に困った時に、神様に祈らないようでは、信頼しないようでは信仰とは言えないのです。私たちが本当に困った時に、頼りにならない神様ならば、そのような神様は必要ない事になります。困った時、苦しい時、悲しい時、痛い時、私たちは神様に心を向けて、イエス様に祈りたいのです。私たちたちの信じる神様は、困った時にしか祈らない祈りにも、そんな者の祈りにも耳を傾けて下さり、その祈りを聞いて下さり、何とその祈りに答えて下さるのです。私たちは困った時に祈りをささげたいのです。

 

三、礼拝の場、祈りの場にとどまり心を合わせて祈る

弟子たちは、12節にあるようにエルサレムに戻りました。13節の「泊まっていた家の上の部屋」とは、イエス様と最後の晩餐をした部屋ではないかと思います。14節には、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。」とあります。11人の弟子たち、イエス様に従ってきた女性たち、イエス様の母マリアとイエス様の兄弟たち、そしてイエス様を信じて従ってきた人々が心を合わせて熱心に祈っていたのです。15節には、120名ほどと人数が記されています。

イエス様が昇天されたので、弟子たちにとって、聖霊が与えられる約束はあっても、まだ与えられていないので、イエス様の約束の言葉だけが頼みの綱でした。聖霊が与えられるので、「待ちなさい」というご命令を守るのです。

信仰とは、私たちの何かではなくて、神様がなして下さるということでしょう。神様がなして下さるみ業を待つことなのです。この待つということが私たちにはなかなかできないのかも知れません。しかし、待つことができないならば、神様のみ業は起こってこないのです。聖霊による初代教会の歩みは、聖霊が降るというイエス様の言葉を信じて待ち、聖霊を受けた人々が力を受けてイエス様の証人となり、彼らの成長と発展の姿なのです。

弟子たちが待っていたのは、イエス様の約束でした。そこには約束の確かさがありました。1章3節にある「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。」という確かな証拠を示して確信させて下さった確かなイエス様の証があったのです。ですから、イエス様の語る「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」という約束の言葉は確かなものだったのです。この確信があって、弟子たちは120名の人々と共に、聖霊を祈りながら求め、待つことができたのではないでしょうか。120名の人々は、「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」というイエス様の言葉を信じて祈りました。「エルサレムを離れず」とは、現代的に言うと、「礼拝の場に、祈り場にとどまりなさい」ということだと思うのです。これから神様の言葉を宣べ伝え、イエス様の証人としてイエス様を証しするために遣わされて行く弟子たちが、その使命を果たすためには、第一にしなければならないことは、エルサレムにとどまって、共に礼拝し共に祈り、イエス様の約束の言葉を信じて、聖霊を待つということでした。聖霊の働きを信じて、じっと待って祈り続けました。ここに教会の誕生と成長と発展の姿があるのです。

私たちは毎週の礼拝にとどまり続けたいと思います。また、水曜日の定例の祈祷会を大切にしたいと思うのです。聖霊の油注ぎを信じ、神様のみ業を信じて、共に集い、心を合わせて熱心に祈りをささげたいのです。祈らなければならないことがたくさんあります。祈るべき方々がたくさんおられるのです。今こそ祈りを必要としている方々がおられるのですから、私たちは、個人の祈りでも祈りますが、弟子たちと同じように、共に集まって祈りをささげたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

聖霊を待つということは、神様の働きを、神様の力を発揮して下さることを待つということです。120名の人々は、自分たちの活動、自分たちで動き回り、自分たちの力で何かをすることをやめて、心静めて、神様に思いを向けて祈りました。祈る時、私たちは自分の行動をとどめます。自分の行動をやめなければ祈ることはできないのです。私たちの行動は毎日忙しものでしょう。次から次からとやるべきことがあります。その中で祈るということは、日々の行動とは違うもの、異質なものなのです。私たちの行動がとどめられ、停止して、心が神様に向けられるのです。そして、祈りを通して、私たちは神様と深い交わりができるのです。神様の愛と恵みを思い返すことができます。神様が私に何をして下さったのか。私の罪を赦すために、罪のない神の子イエス様が、罪人の私、滅ぶべき私に変わって十字架にかかり、裁かれ、尊い血を流し、命をささげて下さり、死んで下さったのです。死んで墓に葬られましたが、三日目に甦らされたのです。イエス様の十字架の苦しみと死、復活を通して私たちの罪が赦され、義とされ、魂が生かされ、死んでも生きる命、永遠の命、天国の望みが与えられたのです。

聖霊を待つということは、祈りであり、信仰の歩みの備えとなるのです。弟子たちの祈りは、一人の祈り、個人の祈りではなく、120名の人々が一つ所に集まって祈りました。共に祈る祈りこそが、聖霊が降ることへの最善の備えとなったのです。教会の誕生への準備、伝道の備えは、120名の人々の心を合わせた熱心な祈り、イエス様の約束の言葉を信じた祈り、共同の祈りにおいてこそ、なされたのでした。

青葉台教会は、今年創立55周年を迎えます。55年間祈りが積み重ねられてきたのです。そして、これからも祈りが積み重ねられていくのです。私たちは、定例の祈祷会を大切にし、そこに集い、今祈りを最も必要としている方々のために、心を合わせて祈りをささげたいのです。私たちは共に祈り合える存在なのです。祈りを通して私たちは、待った甲斐があることを実感するのです。

この週も私たちは、困った時の神頼み、神様に、イエス様に祈りをささげる週を送りたいと思うのです。イエス様がいつも共におられますから、心配しないで、安心して、イエス様を信頼して祈りをささげる週でありたいと思います。

 

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日曜礼拝(23年5月7日)

2023-05-07 12:55:53 | Weblog

日曜礼拝(復活後第四主日)   2023,5.7

      「世界の片隅でキリストに叫ぶ」 マルコ10:46~52

 

 Ⅰ導入部

おはようございます。5月の第一の日曜日を迎えました。今日も愛する皆さんと共に、会堂に集い、あるいは、インターネットを通して、ご家庭で、置かれた場所で共に心を合わせ、心を一つにして、私たちの救い主であるイエス様を賛美し礼拝できますことを心から感謝致します。ゴールデンウィークの休みも終わりました。お出かけになったり、親しい人との交わり、良き時が与えられた事だと思います。どこにも行かなかった。行けなかったという方々がおられるかも知れません。どちらにしても、イエス様が共におられて、皆さんを守り支えて下さったことを思います。各観光地は、どこも満員で高速道路も渋滞で大変な状況でした。4年ぶりの規制なしでのゴールデンウィークで、どこもにぎやかだったと思います。

明日から本格的な学び、仕事のスタートとなります。長い休みだったので五月病で、会社や学校に行けなくなるのもこの時期です。今日も心からの礼拝をささげて、一杯の恵みをいただいて明日からの歩みに備えたいと思います。今日は、星利咲さんが洗礼を受けられます。本当に感謝です。嬉しい時を共に預かれますことを感謝しつつ、求道中の方々は洗礼の事について考えてみたり、クリスチャンの方々は、御自分の洗礼の時を思い出して、感謝の時としたいと思います。今日は、ルカによる福音書10章46節から52節を通して、「世界の片隅でキリストに叫ぶ」という題でお話し致します。

Ⅱ本論部

一、イエス様の憐れみを信じたバルテマイ

46節には、「一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」とあります。「エリコ」は、エルサレムから約24キロ離れた場所で、古代都市の中で最も古い町だと言われています。ヘロデ大王によって、リゾート地として再建され、緑豊かな町、オアシスでありました。エリコにはエルサレムに向かう巡礼者が多くいたようです。「一行」とは、イエス様と12弟子、その他の弟子、イエス様の話を聞きたいと願う者たち、エルサレムで行われる過越しの祭りに出るために、エリコに滞在していた人々のことです。イエス様は十字架にかかるために、エリコに立ち寄り、エリコからエルサムに向かっていたのです。エリコを出て行こうとしていた時、「ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。」のでした。盲人であった彼は、エルサレムの町の中には入れませんでしたので、エリコの町を出た所の道端に座っていて、人々が多く行きかう所で物乞いをしていたのです。

「バルティマイ」というのは、アラム語で「バル」と「ティメオ」から成り、「バル」は子という意味で、「ティメオ」はカオス(混沌)とか、不潔とか、不浄という意味があり、「カオス(混沌の子)」、不潔、不浄の子という意味があるようです。罪に汚れている者の 子ということでしょう。このような名前を子どもにつける親はおりません。バルテマイという名前は、救われる必要のある人の本質をその名で表しているのであり、バルテマイは救われる必要のある、私であり、ここにいる全ての人を指しているように思うのです。

47節には、「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。」とあります。同行する人々やイエス様の一行を見る人々が、「ナザレのイエス様」と呼ぶ声をバルテマイは聞いたのでしょう。バルテマイには、イエス様や人々の姿は見えませんが、発する声には音には敏感でした。「ナザレのイエス」、「どこかで聞いた名前、そうだ、病める人々、中風の人を立たせ、耳の聞こえない人の耳を開き、口のきけない人に話すことができるようにし、盲人の目を見えるようにされたというお方」、そのお方だと気づいた時、バルテマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言ったのです。新改訳聖書では、「叫び始めた」、口語訳聖書では、「叫び出した」とあります。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言ったというよりも叫んだのです。すると、48節には、「多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。」とあります。イエス様の話を聞いている時、イエス様から直接話が聞ける時に、大声を出してイエス様の話を遮断する。そんなやつは許せないのです。人々は叱り黙らせようとしました。バルテマイは、多くの人々がイエス様に対する呼び名「ナザレのイエス」ではなく、「ダビデの子イエス」と叫びました。ナザレ出身の預言者という一般的な理解以上に、ダビデの子孫としてくる王を言い表す表現であり、ペトロのメシア告白に並ぶようなことでした。この名前は、救い主の称号でありました。また、この呼び名は、治安に関する罪の問われる禁句でもあったのです。ですから、その呼び名はまずいと、人々はしかり黙らせようとしたのです。バルテマイは、たとえ叱られようが、黙らせようとされようが、ダビデの子孫として来られる救い主イエス様が、今自分の近くにおられる。この時をのがしてなるものか、と「ダビデの子イエス」と叫び続けたのです。今、神様に、救い主イエス様に叫ぶことがあるでしょうか。イエス様は、今あなたのすぐそばに確かにおられるのです。

 

二、イエス様の事を聞いて信じたバルテマイ

盲人バルテマイは、エリコの町の外の道端で人々に物や金を求めて生活していました。目が見えないことで、仕事もできず、物乞いをするしか生きる道はありませんでした。それが、毎日の彼の生活そのものでした。ただ生きていくための物乞いの生活、変わらない日々の生活の中に、「ナザレのイエス」という名前に、彼の生涯が変わろうとするのです。

惰性で生きていた人生、あきらめの人生、生きているのは名ばかりで、死んでいるような人生に終止符を打つ時が現れたのです。そして、この時を、このチャンスをのがすまいとバルテマイは、「ダビデの子イエス」と力を込めて、お腹の底から大声で叫ぶのです。イエス様に届くように、イエス様にわかってもらうように、叱られようが、黙らせられようが、彼は叫び続けたのです。「ダビデの子イエス」と。

 イエス様一向について言った人々は、イエス様の奇跡を目で見た人々でしょう。その目で、人が癒される姿、中風の人が起き上がり歩く姿、目の見えない人が見えるようになる姿、耳が聞こえない人の耳が開く所、口のきけない人が話し出す所を見て、神の権威、神の力を見たので、ついて来たのでしょう。この一行は、力に期待して、力ある人の後についていく群れであり、力に救いを求め、力による偉大な神様のみ業の実現を求める群れでありました。しかし、バルテマイは、目が見えませんし、イエス様にお会いしたこともないのでイエス様の奇跡の業を、癒しを見たことがありませんでした。ですから、神様の権威も力も知らないのです。けれども、47節の「ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。」とあるように、バルテマイは、「ナザレのイエス」が、「ダビデの子イエス」が、中風の人を起き上がらせ歩かせたこと、目の見えない人を見えるようにしたこと、耳が聞こえない人の耳を開いたこと、口のきけない人を離せるようにしたことを聞いて信じたのです。イエス様の力あるみ業を通して現わされた神様の憐れみを聞いており、そこから「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と深い憐れみを信じていたのです。見るのではなくて、聞くことにより信じたのでした。聖書には、「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)とあります。

見える人々は、イエス様の行われた奇跡のみ業、癒しを見ていた。だから、力ある王としてイエス様に期待していたのです。イエス様の奇跡を見ていないバルテマイは、奇跡の業、癒しの業は見てはいないけれども、イエス様の奇跡のみ業、癒しのみ業のことを聞いて、ただ聞いて、神様の力ではなく、イエス様に憐れみを求めたのです。イエス様の憐れみを見えない目で確かに見ていたといえるのでしょう。目が見えないということで、苦しみの人生、辛い人生を送り、あきらめの人生、投げやりの人生、神様の力のみ業、癒しのみ業は見えない。見たことがないからこそ、癒しの出来事を聞いて、イエス様の憐れみがわかった。信じたのです。だからこそ、その憐れみに期待して、その憐れみに信頼して「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と大声で、イエス様に自分の声が届くように叫んだのです。そこにバルテマイの思いが、熱心さが、信仰があるように思うのです。

バルテマイは、自分が見たことを根拠に反応したのではなく、聞いたことを根拠に反応したのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」ということなのです。私たちも神様の奇跡のみ業や癒しのみ業を見たことがなくても、聖書に記されているイエス様のみ業を通して、聞いて信じる者でありたいと思うのです。

 

三、イエス様の十字架を見たバルテマイ

49節、50節を見ると、「イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。」とあります。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続けるバルテマイの声はイエス様に届きました。イエス様が、バルテマイに気づいて「あの男を呼んで来なさい」と言って下さったのです。バルテマイをしかり、黙らせようとした人々は、「安心しなさい。」と言いました、新改訳聖書では、「心配しないでよい」、口語訳聖書では、「喜べ」、詳訳聖書では、「元気を出せ」とあります。狂ったように叫び続けるバルテマイに、イエス様が呼んでおられるので、安心するように、心配しないように、喜ぶように、元気を出すように告げたのです。バルテマイはどんなにうれしかったでしょう。「上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た」とあります。詳訳聖書には、「上着をかなぐり捨て」と記しています。「脱ぎ捨て」よりも「投げ捨て」が正しい意味のようです。当時は、上着の半分を尻の下に敷いて、半分を自分の前に置いて、上着を広げて物乞いをし、上着の上にお金が積み上げられていた。夜になれば、上着は布団の役割をしていたようです。バルテマイにとっては、この上着は彼の持つ唯一の財産と言えるものでした。その上着を投げ捨てたということでしょう。毎日、上着の上に置かれた施しを受けることによって、生活していたことを捨てるということでしょうか。「立ちなさい。」と人々は言いました。「自立しなさい。自分が自分として、自分らしく生きなさい。」ということでしょうか。バルテマイは、イエス様に呼ばれて、「上着をかなぐり捨て」て、新しく生きていくように導かれるのです。

51節には、「イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。」とあります。バルテマイの記事の前には、イエス様の弟子のヤコブとヨハネの願いという記事があります。ヤコブとヨハネがイエス様にお願いをかなえていただきたいと言います。イエス様が、「何をしてほしいのか」と問われると、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」とお願いしたたことが記されています。イエス様の権威と力を見た彼らは、イエス様がその奇跡と力でローマを蹴散らし、王として君臨する時、自分たちが力あるイエス様の側近の地位につきたいという欲望でした。私たちは、イエス様に「何をしてほしいのか」問われてと何と答えるでしょうか。バルテマイは、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。見えないことで苦労してきた。辛い日々を送って来たからでしょう。イエス様は目が見えないバルテマイの願いは目が見えるようになるということを知っておられたでしょう。それなのに、どうして、「何をしてほしいのか」と問われたのでしょうか。それは、バルテマイが、目が見えるようになりたいと思っていても、自分の願いを自分の口から自分の言葉で明らかに伝えるということを求められたのでしょう。

52節には、「そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」とあります。

イエス様のお言葉を通して、バルテマイは目が見えるようになりました。そして、「なお道を進まれるイエスに従った。」とあります。イエス様に従って、エルサレムに行ったのです。そして、バルテマイは見えるようになった目で見たものは、イエス様の苦しみ、イエス様の十字架だったのです。バルテマイは、目が見えるようになって自由に自分の行きたい所に行けるようになりました。バルテマイにとって、イエス様の行かれる所が自分の行きたい場所となったのです。福音書に出て来る癒された人がイエス様について行ったのは、バルテマイ以外には誰もいないのです。バルテマイは、エルサレムでイエス様の十字架の姿を、苦しみを見て心痛めたことでしょう。しかし、それでは終わらず、イエス様の十字架と復活を通して、神様の完全な憐れみと愛を見たのです。十字架の死と復活を通して示された神様の大いなる憐れみを見たのです。イエス様の奇跡のみ業を聞いて憐れみを求めたバルテマイは、イエス様の十字架と復活を通して、神様の愛、憐れみ、復活の望みを信じることができたのです。

Ⅲ結論部                                                                    

バルテマイは、「何をしてほしいのか」というイエス様の質問に、「先生、目が見えるようになりたいのです」と答えました。信仰とはイエス様が見えるようになることでしょう。自分の全ての願いに優先すべきことは、イエス様の姿が私の目に、私の心に、私の信仰の目に、くっきりと、しっかりと、はっきりと見えるようになることではないでしょうか。イエス様の事がよく見えるように、イエス様がどのようなお方かわかるように、イエス様の愛がわかるようにしてください、というのが私たちの願いではないでしょうか。エフェソの信徒への手紙1章17節~18節には、「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。」とあります。

今日、洗礼を受けられる星利咲さんは、小学生の時、近所にアメリカ人の宣教師家族が住んでいて、交わりがありキリスト教に触れたそうです。関西での社会人2年目、辛い挫折を経験した夜、キリストに向かって「助けて下さい」と叫ばれたそうです。翌朝、目が覚めた時、今までに感じたことのない平和を感じたそうです。キリストが存在するお方であること、そして、平和はキリストにしかないことを知ったのです。そこから聖書を読み始め、聖書アプリ等で聖書を学び、中学の時にアメリカでのホストファミリーであったスーザンさんと聖書を学ばれました。そして、自分自身をキリストに明け渡されたのです。神様が様々な人を通してこの教会に導かれ、洗礼を受けたいと願われました。自分の心に罪があること、その罪のためにイエス様が十字架で死に、尊い血を流し、命をささげ、死んで葬られ、三日目に甦られたお方であることを信じて救われたのです。

星さんは、バルテマイのように「助けてください」と叫びました。苦しい時の神頼みだったのかも知れない。しかし、バルテマイの「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」との叫びに答えて下さったように、星さんの叫びにイエス様は答え、心に平和を与えて下さったのです。神様は星さんを導くために、アメリカの宣教師やホストファミリー、友人たちを備えていて下さったのです。同じように、困った時の神頼みでもいいのです。「わたしを憐れんでください」とイエス様に叫びたいのです。

聖書は、癒された人の名前を記してはいません。ここでバルテマイの名前があることは異例の事です。また、癒された人でイエス様について行った人も、このバルテマイ以外にはいないのです。ここでバルテマイという名があるということは、彼が初代教会でよく知られていた人物であったということ、信仰者であったことを示しているのです。

あなたの信仰があなたを救った。」とイエス様はバルテマイに言われました。バルテマイは、ただ憐れみあるお方だと信じて「わたしを憐れんでください」と叫んだだけです。

叫ぶ者の声に答えて下さるイエス様に信頼してこの週も歩んでまいりましょう。

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