江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(2019年4月28日)

2019-04-28 17:09:49 | Weblog

日曜礼拝(復活後第一)      2019.4.21

      「アイ(愛)を止めるな」 ヨハネ21:15~23

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。4月の第四日曜日になりました。今日も、愛する皆さんと共に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。

昨日からゴールデンウィーク、怒涛の10日間の休みが始まりました。皆さんはどのような休みを過ごされるのでしょうか。予定のない方々が6割もおられるとニュースでありました。良き休みと交わりが与えられますことをお祈りいたします。

今日は、平成最後の礼拝式です。来週は、令和最初の礼拝式となります。ある意味では、今日の礼拝式と来週の礼拝式は歴史的な、記録に残る礼拝式となるのでしょうか。私たちにとっては、毎週の礼拝が自分自身にとっても、歴史的にも大切な礼拝だと思います。

先週は、イ-スター礼拝式、復活祭の礼拝式でした。主がよみがえられたことを記念する大切な、喜びの礼拝でした。経田輝邦兄が洗礼を受けられました。また、野田勝昭兄、川田寿美子姉が入会され、新しい方々を青葉台教会に迎え入れることができて感謝でした。

ペンテコステ礼拝にも、洗礼者や入会者が起こされたら感謝だと思います。

今日は、ヨハネによる福音書21章15節から23節を通して、「アイ(愛)を止めるな」という題でお話し致します。

 

Ⅱ本論部

一、イエス様はあなたを大切に思っている

イエス様は、十字架につけられ死なれ、葬られましたが三日目によみがえられました。イエス様は、ご自分がよみがえられたことを弟子たちに示されました。そして、今回三度目になります。ペトロは、イエス様の裁判の時、イエス様の仲間だと言われて、それを三度否定してしまいました。ですから、ペトロはイエス様がよみがえられて自分の目の前に現れても、目を合わすことができなかったでしょう。イエス様がよみがえられたことは、嬉しいのには、嬉しいのだけれども、素直に喜べないペトロだったのだと思うのです。

イエス様がよみがえられたという事実は、イエスの弟子たちには大きな喜びであったはずです。しかし、ペトロにとっては、自分の犯した過ち、イエス様を三度否定したという事実は、ペトロ自身を苦しめていたのです。

私たちも失敗することがあります。やってはいけないことをやってしまうことがあります。一度失敗したら、もう、立ち直ることはできないと、失敗しないように、過ちを犯さないように、私たちは気をつけるのです。しかし、私たちは、どんなに注意をして、気をつけていても、失敗する者なのです。ヤコブの手紙3章2節には、「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」という言葉があります。どのように立派に見える人も、いろいろな役職や肩書を持っていても、失敗しない人はいないのです。「わたしたちは皆、度々過ちを犯すからです。」と聖書が語る通りなのです。

一度失敗してしまうと、立ち直るのには時間がかかります。周りの目が気になりますし、失敗したという事実、過ちを犯したという事実に、目も思いも注がれて、後悔ばかりが心を支配するように思うのです。

ペトロは後悔の連続だったでしょう。彼は、よみがえられたイエス様の前に、ひれ伏して、「イエス様ごめんなさい!」と泣き叫んだり、「これからは、あなたに忠実に従います。」と誓ったという事はありません。ですから、イエス様に出会うたびに、イエス様の事を考えるたびに、ペトロの心は痛み、張り裂けそうになっていたのです。そして、イエス様は、そのことをよくご存知でした。そして、ペトロを癒そうとして下さるのです。

弟子たちが、イエス様の準備された食事を終えると、イエス様は個人的にペトロに話されるのです。ここで、ペトロは、イエス様がよみがえられてから、初めて目を見ることができたのではないでしょうか。イエス様もペトロの目をしっかり見て語られたのです。「ヨハネの子、シモン」と。イエス様のペトロの呼び方は、親しい中ではあまりしない呼び方のようです。かしこまった呼び方なのです。それは、イエス様が最初にペトロに会った時の呼び方でした。「イエスは、彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩)という意味」と呼ぶことにする」と言われた。」(ヨハネ1:42)「ケファ」とはアラム語で、ギリシャ語では「ペトロ」です。イエス様は、いつもは「ペトロ」と親しい関係で呼んでおられたのですが、この時は、そうではなかったのです。あの最初出会った時、あの時を思い出せ、と言わんばかりに、いつも呼んでいるペトロという名前ではなく、ヨハネの子シモン、とペトロの本名を呼ばれたのです。そして、いつもと違う呼び方で自分の名前を呼ばれたシモンも何かを感じていたのではないかと思うのです。

イエス様は、あなたの名を親しい仲間としての名前で呼ばれるのでしょうか?それとも、改まった、かしこまった呼び方で、あなたの名を呼ばれるのでしょうか?

 

二、私を愛しているか、とイエス様に問われ、使命が与えられる

イエス様は、ヨハネの子、シモンと呼ばれ、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と尋ねられたのです。日本人の年を重ねた男性は、奥様から「わたしのこと、愛してる。」と問われると、気恥ずかしくて、言葉を濁したり、笑ってごまかすという事が多くあるのではないでしょうか。最近の若い男性は違うかも知れません。すごい、直球の質問でしょう。その質問をイエス様は、あえてペトロにしたのです。それは、彼自身が語った言葉からきているのだと思います。

イエスは、弟子たちがご自分を裏切ると言われた時、ペトロは、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と言ったのです。みんなが、他の弟子たちがつまずいても、私だけは違う。つまずかないと宣言したのです。

ペトロは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われて、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。ペトロは、イエス様に「この人たち以上にわたしを愛しているか」と問われて、「はい」と答えたのです。しかし、この「はい」という答えと、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」と言った時の、絶対に裏切らない、という自信に満ちていた時の思いとは違うのです。ですから、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えたのです。この言葉は、自分がイエスを愛するということが、自分の自信や頑張り、努力や思い込みで愛するということではなくて、「わたしがあなたを愛するのは、あなたがわたしを愛して下さって、あなたが愛を教えて下さったからこそ、あなたからいただいた愛、それをわたしは持っています。だから、わたしがあなたを愛していることは、あなたが知っておられるのです。」ということだと思うのです。ペトロがイエス様を愛するというのは、イエス様に愛されているからなのです。

ペトロは、二度、三度、「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」と問われて、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」答えたのです。

しかし、三度目に「ヨハネの子、シモン、わたしを愛しているか」と問われた時、「悲しくなった」と聖書は記しています。三度目にとあるように、それは、ペトロ自身が、愛するイエス様、先生、主であるお方を、三度も知らないと完全に否定したことにあるように思うのです。ですから、ペトロは、三度目の答えの時、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えました。 ペトロは悲しくなったのです。自分がイエス様を知らないと言ってしまったという最大の汚点、失敗、このことのゆえに、今まで苦しんできたのです。イエス様は、その傷に触れるかのように、三度問われました。しかし、このことはペトロに必要な事だったのです。

イエス様は、弟子であるのに、イエス様を三度も知らないと言ってしまったペトロの否定を、三回もと覚えて、恨んで、ペトロの傷を深めようとして、3度問われたのではありません。あなたは確かに、わたしを知らないと否定したのは事実だ。しかし、その失敗は、もう赦しているよ。もう、心配しなくていいのだ。覚えていなくていいのだ。私は、あなたの失敗を、過ちを、赦しているという意味で、3度問われたのだと思うのです。それが、たとえ、5回でも、10回でも、百回でも、千回でも、イエス様は、私たちにも、あなたの失敗や過ち、罪は、私が解決した。あなたは、立ち直って、やり直しができるのだと、言われるのです。イエス様は、「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と、ペトロに新しい使命を与えられたのです。そして、イエス様は、私たちにも、新しい使命を与えておられるのだと思うのです。

 

三、イエス様にだけ目を留め、イエス様の言葉に従う

イエス様は、最初と2回目は、アガペーの愛、犠牲的な愛で「愛しているか」と問われましたが、ペトロは、「わたしがあなたを愛している」の愛は、フィレオー、人間の愛で愛すると答えています。

すると、イエス様は3度目には、フィレオーの愛で、人間の愛で「愛しているか」と問われました。そして、ペトロはフィレオーも愛で愛すると答えているのです。イエス様のアガペーの愛とペトロのフィレオーの愛とは大きな違いがあります。そのことはよく言われますが、イエス様が、ヨハネによる福音書13章13節にある、「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない。」の「愛」は、アガペーではなく、フィリオーの愛が使われているのです。ですから、ペトロがイエス様に「わたしがあなたを愛している」の愛を、フィリオーの愛で愛するというのは、まんざらでもないように思います。

イエス様は、ペトロに羊、小羊の世話をする、飼うようにと命令されました。それは、羊飼いとして羊を守る、育てる、つまり、教会の群れを養うようにと命令されました。イエス様は、ヨハネによる福音書10章11節では、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言われました。そして、その言葉の通りに、私たちのために十字架にかかって命を捨てて下さったのです。そして、ここでペトロに羊を飼う、つまり、良い羊飼いとして、羊のために命を捨てることを示すのです。

18節を共に読みましょう。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」 行きたくない所とは、ペトロや弟子たちにとっては、十字架でした。そこに、十字架に連れて行かれる、ということを示しているのです。

ペトロは、最後の晩餐の席で、「主よ、どこへ行かれるのですか。」とイエス様に尋ねた時、イエス様は、ペトロに、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」(ヨハネ13:36)と言われましたが、それこそ、「行きたくないところへ連れて行かれる。」という十字架の苦しみを現しているようです。ペトロはローマで、逆さ十字架にかかって殉教したと言われているのです。19節には、「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。」とあります。ペトロの死の予告と、死を通して栄光を現すこと、どのような最後であれ、イエス様に従うことを示されたのです。

20節に、「ペトロが振り向くと」とイエスの愛しておられた弟子、つまり、ヨハネがついて来たので、ペトロは「主よ、この人はどうなるのでしょうか。」と尋ねたのです。自分の将来が、不吉だったので、ヨハネの事が気になりました。ペトロとヨハネは年が離れていたと言われていまが、仲の良い関係であったようです。最後の晩餐でも、ペトロはヨハネに、イエス様を裏切ると者とは、誰のことを言っておられるのかをイエス様に尋ねさせたり、イエス様がよみがえられた、と女性たちから聞いた時、一緒に墓まで走ったり、使徒言行録では、二人は一緒に神殿に参り、足の悪い人を癒したりと共に行動することが多いので、良い関係だったのでしょう。ヨハネの事が気になったのです。ペトロとしては、良かれと思って、ヨハネの事を聞きましたが、イエス様は、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」ペトロに言われました。

何を言いたいかというと、「仲の良いヨハネの事は気になるだろうが、それは、ペトロおまえが気にすることではない。ヨハネのことは私が考えているので、あなたはわたしに従えばいいのだ。」ということです。私たちは、人の事がとにかく気になります。特に仲の良い人、大切な人、愛する人が気になりますが、人の事はイエス様に任せて、あなたは私に従えばいいのだ、人を見るのではなく、私を見るのだ、と言われたのです。私たちは、人を見るのではなく、私たちの罪のために十字架にかかり、身代わりに死んで下さり、よみがえられて今も生きておられるイエス様に目を留めて、イエス様に従っていきたいと思うのです。

 

Ⅲ結論部

ペトロは、イエス様を知らないと3度も否定して心に大きな傷を持ち、苦しんでいました。イエス様は、神様のアガペーの愛、犠牲的な愛で包んで下さり、癒して下さり、やり直しさせて下さったのです。救い主、イエス様にあっては、私たちは失敗しても、過ちを犯しても、罪を犯しても、立ち直れないのではなく、やり直しのきく人生を歩むことができるようになったのです。あなたの過去がどのようなものでも、イエス様の十字架と復活、福音によって、私たちはイエス様を信じて、罪赦され、魂が救われ、死んでも生きる命、永遠の命が与えられ、イエス様と共に歩む人生、イエス様に従って生きる人生、やり直しのできる人生と導かれているのです。何と幸いな事でしょうか。

私たちは、私たちの状態がどのようであっても、私たちがどんな人間であっても、イエス様はそのままの私を、そのままのあなたを丸ごと受け止め、愛で包んで下さり、あなたの傷を癒して下さるのです。

イエス様は、最後の晩餐の席でも、「信仰が大事だ」というのではなく、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合うこと」を命令され、復活してペトロに、「信仰があるのか」と問うたのではなく、「わたしを愛しているか」と問われたのです。私たちは、イエス様から愛をいただいて、愛をやめては、止めてはならないのです。この週もあなたを愛してやまないイエス様と共に、全てを委ねて歩んでまいりましょう。

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