江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

日曜礼拝(24年2月18日)

2024-02-19 16:34:30 | Weblog

受難節第1主日礼拝説教(青葉台教会)                                                                 2024年2月18日

満山 浩之

『失われたものを取り戻す』

ペトロの手紙一 3章18節〜22節

皆さん、おはようございます。今年も藤沢からやって参りました。

 どうぞ、よろしくお願いいたします。

今回この青葉台教会に来させて頂いて、

またまた、前回来させて頂いた時と違う所があるのですが、

皆さんどこか分かるでしょうか。

 実は私、1月31日にデビューしてしまったのです。

そう、何を隠そう、39歳にして、入れ歯デビューをしてしまったのです。

 まだ介護保険も始まっていないのに。

ショックを隠しきれずにいるので、皆さんからの励ましのお言葉待ってます。

 さて皆さんは、失われたものを取り戻したいけれど、

 取り戻せないものはあるでしょうか。

私の場合は、この歯です。

 失ってしまった永久歯は、もう帰ってきません。

小さい頃からサッカーをずっとやっていて、

人一倍歯を食いしばって来たからでしょうか。

 分からないですけど、一本だけもうすでに失ってしまいました。

失われた歯は、もう2度と取り戻せない。

 何かで代用しなければならない。

それが人間というものです。

 でも、私たち人間というのは、

 失われたものを取り戻すことができるものもあるのです。

それは、神様との関係を取り戻す、ということです。

 この聖書の最初の方に、創世記という書簡があります。

その中にこう記されてあるのです。

 「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。」(1:27)

私たち人間というのは、神様にかたどって造られたということです。

 新しい訳の聖書、聖書協会共同訳では、

「神は人を自分のかたちに創造された。

神のかたちにこれを創造し、男と女に創造された。」とあるのです。

 そしてその少し後の方にはこのようにも記されています。

その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」(2:7)

 つまり、私たちは神様のかたちに造られて、

 神様に命の息を吹き入れられて生きる者とされているということなのです。

ですので、

今このように生きていることが当たり前のように思っているかもしれないけれど、

そんなことはなくて、神様によって生かされている、それが私たち人間なのです。

 まずはこのことを心に留めておくことです。

すべてが順調な時もあれば、なかなかうまくいかない時もある。

 それが人生というものですよね。

神様があなたに特別な、あなたにしかない人生を与えられています。

 自分の理解し難いような出来事もありますけど、

 何でなんですか、何でこんなことが私に起こるのですかって、

 思うこともいくらでもあります。

でも神様は、あなたを大切で特別な存在として、いつも愛して下さっています。

 目には見えないけれど、いつも傍らにいて下さって、

 私たちが倒れないように、つまずかないように、

 悲しみに打ちひしがれて下を向き続けないように、支え続けて下さっているのです。

神様はこの世のどんな人をも、愛し続けて下さっています。

 色々な方法で、神様の存在に気付いて欲しい、受け入れて欲しいって、

 側で見守り続けておられるのです。

そのことをも心に留めておいていただきたい、そのように思うのです。

 そんな私たち人間は、神様の存在を忘れ、いや、知らずに、神様なんているのかと疑い、

 神様以外のものを神とし、それに頼って生きています。

ある人は何よりもまず、お金が大切なのだ。

 お金があれば何でもできるし、困ることなんかない、そのように考えます。

ある人は、地位や名誉、世の中での立ち位置、

周りの人と比べて人よりも上に立ちたいと願う。

 そのために日々仕事をし、切磋琢磨して頑張っている。

決して悪いことではないですが、動機に問題がある。

 またある人は、恋人さえいれば、人生のパートナーさえいれば、

 他のものは何もいらない、そのように考えます。

ある人は、SNSのいいね!の数さえ多ければ、

投稿した再生回数が多ければ多いほど、私には価値があるのだ、

すごいだろ、まるで有名人と、自慢げに誇りを持っている。

 そのことは悪いことではないですが、動機がそれだけだと心配です。

これらのことだけを、自分の心の支えにしていたら、

人はいつか音を立てて崩れていきます。

 いい事ばかりではないのが、私たちの人生です。

絶対に失わないものなどありません。

 それらが失われてしまった時に、絶望のどん底に落とされたような、

 もうお先真っ暗と思わせるような状況に陥ってしまうでしょう。

神様から離れてしまう私たちは、人間本来の生き方が分からなくなってしまうのです。

 私はどう生きて行ったら良いのか、何を求めたら良いのか、

 人生の意味は何なのか、もうブレブレの状態になってしまうのです。

でも、そんな私たちにも希望があることを聖書は記しています。

 私たちにとって絶対に無くならないものがあるのです。

絶対に失わないものがあるのです。

 それがイエス様の愛です。

神様の独り子であられるイエス様が、神様から離れてしまっている私たちを、

神様との関係を失ってしまっている私たちを、

回復させるためにこの地上に来られたのです。

 この世のすべての人が神様との関係を取り戻すために、

 何も罪を犯していない正しいお方であるイエス様が、

 あなたのために十字架で一度だけ苦しまれました。

命を懸けて、あなたのために死んで下さった。

 この世の全人類の罪のために、誰一人として漏れることのないすべての人のために、

 十字架で死んで下さったイエス様です。

これは一度だけて良いのです。

 一度だけ罪を全部背負って、何も悪いことをしていないイエス様が、

 人々の罪が全て赦されるように死んで下さった。

しかも苦しみながら、あと一回鞭で打たれたら死んでしまうくらい鞭で打たれ、

血を流されて、手には釘が打たれ、全体重をその釘で支えるくらいの十字架刑です。

 最も苦しいと言われていた死刑のやり方です。

なぜそこまでされるのか。

 神様のかたちに造られた私たちが、神様との関係を取り戻す、

 失われていた神様との関係を回復させるためです。

18節にありますように、「あなたがたを神のもとへ導くため」だからです。

 当時の人たちは日々、祭司によって、犠牲をささげてから、

 罪の悔い改めをしていました。

ですから、毎日のように、神様に背を向けてしまったこと、

神様を無視してしまったことなどをすべて告白し、

祭司が犠牲のものをささげて赦されるものとされていました。

 罪を犯すたびに犠牲をささげなければならなかったのです。

でもイエス様の犠牲による死というのは、全き犠牲、完全なる犠牲なので、

一度きりで十分なのです。

 その十字架の死によって、すべてが赦されるのです。

ヘブライ人への手紙7章27節にこのように記されてあります。

 「この方は、ほかの大祭司たちのように、まず自分の罪のため、

 次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。

というのは、このいけにえはただ一度御自身を献げることによって、

成し遂げられたからです。」(ヘブ7:27)

 またヘブライ人への手紙9章28節にはこのように記されてあります。

「キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた」(ヘブ9:28)

 だた一度だけイエス様が御自分の体を献げられたことによって、

 私たちはきよめられているのです。(ヘブ10:10)

あらゆる罪から解放されて、神様と共に歩む道が開かれているのです。

 この私たちが持っているこの聖書、特に新約聖書には、

 十字架の上で、2度と繰り返す必要がないことが起こったこと、

 罪が徹底的に打ち破られたことを、この確信を持って伝えています。

この罪というのは、神様と私たち人間との間にあるべき正しい関係を妨げるものです。

 イエス様の犠牲のすべての目的は、この失われた関係を回復することなのです。

そのためだけにイエス様は十字架の上で死なれた、その役目を果たされました。

 そのためにこの世に誕生されて、地上の生活を過ごされて、

 罪ないものが罪あるもののために死なれたのです。

罪あるものである私たち人間のために、神様と関係が失われている私たちのために、

そんなの関係ないって言うことも出来る存在だけれども、心から愛を注がれて、

私たちが受けなければならない罰を身代わりとなって受けて下さった、

このイエス様の愛というのは、無限であり、

この世の考えでは絶対にあり得ないことです。

 このイエス様は、私たちを神様のもとへと導くために、この苦しみを拒むことなく、

 自らが受け入れて死なれました。

この「導く」と言う言葉は、「近づける」と言う意味のある言葉です。

 この言葉の派生語を見ていくと、「紹介する」と言う意味になります。

つまり「導く」というのは、「紹介した結果、近づく権利が与えられている」

ということになるのです。

 ですから、イエス様はこの十字架の死を通して、それを信じる者、

 イエス様の十字架での死が、この自分のためなのだ、私に神様を紹介して、

 その結果、神様に近づくことができる、神様に近づく権利が与えられている、

 神様と一緒にこれから生きていくことができる、という道を開いて下さった、

 その道を示して下さった、ということなのです。

私たちが生まれながらに失っている神様との関係を、

もうすでに、約2000年も前に、イエス様によって解決されているのです。

 神様との関係が失われている私たち人間は、

 イエス様の十字架での死を受け入れ、信じることによって、

 それを取り戻すことができるのです。

この世の中で生きていく上で、何を拠り所として生きて良いか分からない時も、

何を目的として生きていけば良いか分からない時も、

心に空いてしまった穴を何で埋めたら良いのか分からない時も、

このイエス様を心に携えて行くことさえ出来れば、

神様との関係を取り戻すことができ、人間本来の生き方が出来るのです。

 迷わずに従っていけるお方に気付くことが出来るのです。

暗闇の中を歩んでいると思っていたとしても、

明かりが灯されて、導きの中を歩むことが出来るのです。

 特に先週水曜日から始まっている受難節には、

 イエス様の十字架の死という出来事を心に強く留め、

 これからの日々を過ごして参りましょう。

人生の意味を見失っている人たちに、

一人でも多くの人たちにこの神様の御言葉が届くことを私は切に願い、

そして、一人でも多くの人たちが、この神様と共に歩む人生を送ることが出来るように、

祈りつつ、また実際に言葉にして、行動に移していきたい、そのように思います。

 私たちは、そんな神様のことを忘れてしまう時があります。

今の自分があるのは当たり前だとか、

人よりも上手く行っているから、順調にいってるからって、

ちょっと天狗になって傲慢になってしまいやすい存在です。

 いくらでも神様との関係を失うことは出来ます。

神様なんかいらないと自分勝手に生きることもできます。

 でも神様は憐れみ深い愛のお方ですから、あなたを決して離しません。

あなたは神様を離すかもしれない。

 でも神様はあなたを離しません。

ガシッと手放すことがない、見捨てることがないお方です。

 この1週間も、この神様が私たちには居て下さる。

支え続けて下さる、守り続けて下さる、導き続けて下さることを覚え、

心に留めて、これからの日々を過ごして参りましょう。

 

 

 

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