江上環礼拝説教

日本ナザレン教団青葉台教会礼拝説教

イースター礼拝(2019年4月21日)

2019-04-21 14:48:11 | Weblog

イースター特別礼拝        2019.4.21

      「イエス様と二人三脚」 ルカ24:13~35

 

 Ⅰ導入部

 おはようございます。津田姉妹、見ておられますか。ユーチューブを見ておられる方々とも、一緒に礼拝をささげることができますことを心から感謝致します。

 イースターおめでとうございます。全日本、全世界のキリスト教会でイースターの礼拝がささげられています。牧師の在住していない教会で、イースターの礼拝、復活の礼拝が豊かに祝福されることを祈ります。

 先週、受難週において聖餐礼拝式、聖金曜日礼拝をささげました。イエス様が木曜日に最後の晩餐において弟子たちと共に守られた聖餐の恵みに、同じ木曜日に持つことができ、いつもの聖餐式とは違う、心新たに、イエス様の思いを感じながらの、幸いな聖餐式を持つことができました。金曜日は、朝に聖金曜日礼拝を持つ予定でしたが、故門田美佐子姉の葬儀が入り、葬儀が聖金曜日の礼拝となったように思います。夜は、聖金曜日礼拝式で、学園教会の久米先生から教えていただいた司式を通して、イエス様の十字架の聖書の箇所を読みつつ、十字架の賛美を歌いつつ、イエス様の十字架を忍び、イエス様の十字架が私の罪のためであったということを深く感じる礼拝となりました。

 イエス様は、十字架で私たちの罪の身代わりに死なれました。神であるお方が、罪のないお方が、罪の結果、死が入り込んで来たという罪の罰を受け、死を経験されたのです。けれども、イエス様は三日後、死からよみがえられたのです。そして、イエス様の復活を信じる者に、同じ復活の命、よみがえりの命を与えて下さるのです。

 聖金曜日に、門田美佐子姉の葬儀を通して、姉妹はご自分の死を通して、イエス様の十字架を示して下さり、やがてイエス様の復活をご自分の死と復活の信仰を通して、私たちにイエス様の復活の恵みを示して下さいました。そのような意味では、聖金曜日が、さらに特別な日となりました。

 さて、今日はイースター礼拝です。今日は、ルカによる福音書24章13節から35節を通して、「イエス様と二人三脚」という題でお話し致します。

 

 Ⅱ本論部

 一、イエス様を遮(さえぎ)るものが何かありますか

 今日の箇所は、イエス様が十字架で死んで、墓に葬られてから三日目によみがえられた日の午後の話です。エルサレムから約11キロ離れたエマオという村へ向かっていた弟子たちの話です。エマオとは、「温かい井戸、温泉」というような意味があるようです。ここには、二人の弟子とあります。イエス様を神の子と信じる者、今でいえばクリスチャンの二人の話です。12弟子とは違う弟子です。一人の名前はクレオパという人物です。エマオ途上の出来事は、多くの画家が題材にしています。二人の男性の弟子の姿がイエス様と共に歩んでいます。今回、説教の準備の中で、この二人は、一人はクレオパですが、もう一人はクレオパの妻ではなかったか、というような事柄もありました。ある画家は、男女の弟子の姿を描いているそうです。二人の弟子としか書いてありません。男性二人とは書いておりません。女性だからこそ、名前が記されていないということもあるのかも知れません。聖書には、どちらとも書いてありませんが、夫婦であったということも考えられないわけではないのです。

 この二人にイエス様が加わったのです。二人の間にイエス様が割り込んで来たのです。

イエス様の弟子ですから、イエス様の事はよくわかっています。その姿も、その声も、その雰囲気も、イエス様の品位ある、格式のある姿を、弟子である彼らは見過ごすはずがありません。しかし、聖書は、「目は遮(さえぎ)られていて」(16節)とあります。「遮(さえぎ)る」とは、「しっかり捕まえる。握って離さない。」というような意味があるようです。イエス様がそばにいるのだけれども、他の何かが彼らをしっかり捕まえていたのです。イエス様が横にいるのにもかかわらず、他の何かを握って離さないでいたのです。だから、彼らの目が遮(さえぎ)られて、イエス様だとはわからなかったのです。その何かとは、イエス様が十字架にかかって死んでしまわれた、という事実のゆえに、何の希望も、期待も持てない。先行きのない、絶望と悲しみで満たされていたのです。21節には、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」 わたしたちというのは、12弟子も、その他の弟子たちもでしょう。イエス様がイスラエルをローマの支配から解放して下さる政治的なメシアとして考えていたということです。仕事も、家族も、全てを捨ててイエス様にかけ、イエス様に従ってきたのは、政治的なメシアとして、イエス様に期待していたからです。ですから、イエス様が十字架にかけられて死んだ、という事実は、弟子たちにとって、それは、自分たちの将来がなくなった。希望が持てなくなった。自分の人生をかけて来たことが無駄になったということなのです。

 私たちもイエス様がいつもそばにおられるのに、横にいて下さるのに、まるでイエス様がいないかのように過ごしていることはないでしょうか。この弟子たちは、イエス様の復活を女性たちから聞いても信じられませんでした。それは、仕方のない事かも知れません。しかし、私たちは、聖書を通してイエス様の復活を知り、復活を信じているのです。それなのに、仕事や勉強、人間関係がうまくいかない、失敗ばかり、何も成功しない。経済的にも大変、体も病気や痛みで苦しい。これらの事柄に捕まえられて、これらの苦しみを握って離さないので、目が遮(さえぎ)られて、イエス様がそばにおられることがわからないでいることはないでしょうか。

 

 二、あなたの顔はどのような顔をしていますか

 17節で、イエス様が、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねられて二人は、「暗い顔をして立ち止まった。」と聖書は記しています。「暗い顔」とは、マタイによる福音書6章16節には、このような言葉があります。「断食するときには、あなたがたは偽善者のように沈んだ顔つきをしてはならない。偽善者は、断食しているのを人に見てもらおうと、顔を見苦しくする。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。」 リビングバイブルには、「やつれた顔」とあります。顔に彼らの思いが丸出しにされているのです。イエス様の権威ある言葉や奇蹟の業に大きな期待をかけ、イエス様に自分の人生をかけ、従ってきたことが、イエス様の死で水の泡と消えたのです。今までの努力もがんばりも報われない結果となってしまったので、彼らの顔は沈んでいたのです。やつれていたのです。私たちの顔は、いろいろな表現があります。笑っている顔、怒っている顔、泣いている顔、いろいろあるでしょう。顔色をうかがうと言います。相手の顔を見て、笑顔なら安心しますが、怖い顔をしていると、緊張します。顔はいろいろな、私たちの状態を表すように思います。

 イエス様の二人の弟子も、「暗い顔」をしていたのです。自分の願いや思い通りにならない状況の落ち込んでいたのです。

 彼らの話の中心は、ナザレのイエス様の事、イエス様は民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした、と言っています。彼ら自身が、イエス様のそばで権威ある言葉に教えられ、感動し、イエス様の奇跡の業に興奮していたのですが、彼らにとって、イエス様は預言者の一人でした。ペトロは、生ける神の子だ、と告白しましたが、クレオパは預言者だと言いました。このお方が十字架にかかって死んでしまわれたのです。これが、彼らが暗い顔をしていた理由です。

 イエス様の十字架の死で終わりなら、それは、絶望です。希望もありません。金曜日には、故門田美佐子姉の葬儀が行われました。聖金曜日の正午、イエス様が十字架につけられた時間帯でした。イエス様の十字架の死が全てなら、私は、葬儀で、ただ悲しいだけです。希望も未来も見出せません、としか語れないのです。しかし、イエス様は、死んでよみがえられたのです。23節にあるように、「イエスは生きておられる」のです。

 安息日が終わり、女性たちがイエス様の身体に香油を塗りに行ったところ、イエス様の遺体がない。イエス様は生きておられる、と天使から聞いた。それを、女性たちは弟子たちに伝えたのです。しかし、弟子たちはイエス様の復活の事を聞いても信じられなかったのです。「『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」にとどまっていたのです。

 25節から27節まで、共に読みましょう。「そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」

 イエス様は、聖書全体を解き明かして下さったのです。私たちは、どのような時も、特に苦しい時、悲しい時、聖書に目を向けたいと思うのです。

 

 三、あなたの顔も変えられるのです 

 イエス様は、二人にご自分が今話しているイエスだ、とは言われませんでした。それが、信じることの一番手っ取り早いことです。しかし、そうなさらなかった。復活という信じられない出来事、それは、復活を信じる前に、聖書に記されているので、聖書に目を向けるべきであることを聖書自身が私たちに語っているように思うのです。

 二人の弟子は、イエス様に聖書全体を解き明かしていただいても、イエス様であることがわかりませんでした。イエス様は、エマオの村に近づきましたが、なおも先に行こうとしたのですが、二人は、もう日も傾いているので、一緒に泊まるように無理に引き留めたのです。イエス様は泊まる家に入り、一緒に食事の席に着き、パンと取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いたのです。これは、最後の晩餐の席でイエス様がされたことと同じです。

この時、二人の目が開け、イエス様だとわかった、と聖書は記しています。み言葉と同時にパン裂き、聖餐式を大切にするということを示しているように思うのです。

 カトリック教会では、聖餐式のない礼拝はありませんが、プロテスタント教会では、聖餐式のない礼拝は存在します。プロテスタント教会、私たちの教会もそうですが、聖餐式の回数はカトリック教会に比べると少ないです。私たちは、聖餐式をもっと大切にしてもいいと思います。しかし、聖餐式を大切にするということだけではなく、聖書は、礼拝も、祈祷会も、教会の営みの中に復活の主は共におられるという事を示しているように思うのです。ですから、私たちは、聖書を読むだけにとどまらず。教会で行われる様々な集会や営みに出席することを通して、目が開かれていくのです。私たちは、礼拝を通して、祈祷会を通して、教会学校を通して、その他の集会や行事を通して「主が生きておられる」ということを知るのです。そのように目が開かれるのです。

 二人がイエス様だとわかると、イエス様の姿は見えなくなりました。イエス様が見える必要がなくなったからでしょう。イエス様が復活した、生きておられるという事を信じることができたからです。彼らは言います。32節を共に読みましょう。「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。」

 共に歩いておられたお方がイエス様だとわかった時、「わたしたちの心は燃えていたではないか」と感じたのです。今から考えると、イエス様の聖書全体の説明の時、心燃えていた。あの時燃えていた。そして、そのことがわかった今も、心が燃えている。イエス様を認めた瞬間、過去の出来事の中にイエス様が共におられたことを認めることができるのです。彼らの今の顔は、暗い顔つきではなく、喜びと期待にふくらむ輝いた顔であったに違いないのです。

私たちのどのようなつらい経験も、苦しい事も、悲しい事も、そこにイエス様は共におられた、そして、今も共におられるということを信じる時、認める時、喜びに感謝に変えられるのではないでしょうか。私たちの顔も輝くことができるのです。

 イエス様の十字架の死というものは、弟子たちとっては、あってはならない事、あってほしくない出来事でした。しかし、イエス様の苦しみも、十字架上で流された血潮も、裂かれた体も、死なれたことも、神様の偉大な救いのご計画の中で起こったことなのです。

 私たちは、イエス様を信じていても、祈っても、苦しい事や悲しい事を経験します。イエス様が共におられるのなら、このような経験はしないのにということを経験します。私たちが苦しみや悲しみ、絶望を経験するのは、イエス様が共におられないのではなく、神様の偉大な救いのご計画の中にあることなのです。私たちが経験することで無駄な事はひとつもありません。神様は、今の苦しみを、悲しみを納得し、意味あるものとして下さることを信じることができるようにして下さるのです。「イエスは生きておられる」まさしく、これなのです。

 

 Ⅲ結論部

 二人の弟子は、「心は燃えていた」と言いました。燃えていたという言葉は、言語では「燃やす、ランプに火をつける」という意味があります。その受け身の形です。自分の力や頑張りで燃えるのではなく、イエス様の言葉で、イエス様の働きで、聖霊の導きで私たちは心が燃やされるのです。

 今日はイースターです。経田さんが洗礼を受けられます。天に召された経田姉妹、奥様の、ゆるぎない信仰を見て、洗礼を受けたいと願わされました。また、二名の兄弟姉妹の入会式があります。私たちの教会に新しい方々が加わり、私たちはますますイエス様にあって心燃やされたいと思うのです。

 イエス様は私たちと共におられます。イエス様と二人三脚で歩むのです。今日の話で言えば、三人四脚になるでしょうか。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)とイエス様は言われました。あなたが一人であってもイエス様はあなたと共におられるのです。イエス様は死んでよみがえられ、生きておられるのです。この週も、よみがえりの主イエス様と二人三脚で歩んでまりましょう。

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