江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

寛永寺

2014-06-21 | まち歩き

寛永寺は上野の山に在るお寺です。寛永二年(1625年)に発足したので、年号から「寛永寺」と名付けられました。現在であれば、「平成寺」と名付けるようなものでしょう。山号は東叡山。東の比叡山という意味で、年号を寺の名前にしたことや造営は比叡山延暦寺に倣っています。芝の増上寺と並んで徳川家の菩提寺として有名ですが、最初は徳川家の安泰と江戸庶民の平安を祈る祈願寺として創建が決められたお寺です。

 

古地図[1]を眺めれば一目瞭然ですが、かつては現在の東京国立博物館や上野公園一帯を境内とする大寺院で、江戸時代の天台宗の実質上の本山であり、我が国の宗教界全体の上に立つ存在でした。しかし、徳川の時代の終焉と共に、寛永寺も戊辰戦争の一つである上野戦争に巻き込まれることとなり、慶応四年(1868年)に全山が消失。境内地もほとんどが国に没収されてしまいました。当時の建物が現代の世に残っていたならば、東京を代表する歴史遺産となっていたことは間違いないはずですから大変惜しいことです。しかし、世を治める仕組みが変わる中で、前の時代の権力と共に存在したものが失われるというのは、歴史的には止むを得なかったことなのでしょう。

 

現在の寛永寺は、かつての子院の一つであり、最後の徳川将軍である徳川慶喜公が江戸城を新政府に明け渡すまで身を置いた大慈院の跡地に本堂に相当する根本中堂が建つほか、いくつかのお堂、五重塔、大仏、徳川家霊廟を含む霊園が上野の山内に点在しています。東京の多くのお寺は、ビルや住宅に囲まれて、窮屈な感じで建っていることが少なくありませんが、寛永寺の場合は、周りを東京国立博物館や東京芸大、上野公園内の美術館や上野動物園等に囲まれているので、都会に在りながら静寂で、文化的な落ち着きを感じます。

 

寛永寺は江戸を代表するお寺だったので、時代小説にも度々登場します。例えば、剣客商売(七)「越後屋騒ぎ」(池波正太郎著、新潮社)の中では、主人公・秋山小兵衛は、不忍池の湖畔から上野の山を上り、東照宮を参拝し、大仏殿の後ろへ出て、中堂(寛永寺)を拝し、車坂へ向かいます。その頃の根本中堂は、現在の上野公園の噴水の辺りに在りました。大慈院の跡地に建つ現在の根本中堂は、当時の場所から直線距離でおよそ500メートル離れた、東京芸術大学の北側に位置しています。

寛永寺が登場するその他の作品

  • 葉室麟著「いのちなりけり」、文藝春秋
  • 葉室麟著「花や散るらん」、文藝春秋

 

[1] 東都下谷絵図、嘉永四年(1851年)

 

寛永寺根本中堂 東京都台東区上野桜木1-14-11

JR上野駅から約1,200m 徒歩約15分

JR鶯谷駅から約700m 徒歩約9分

 

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寛永寺根本中堂


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