黒駒 寺社参拝記

畿内を中心とした寺社参拝記です。主に西国三十三所や聖徳太子霊場を巡礼中です。

蔵人御所 本光院門跡

2010-03-19 18:29:58 | 京都の寺社・御所・離宮
北野天満宮の近く、上七軒という花街がありますがこの一帯は真盛町という地名で、
この真盛とは天台宗真盛派の寺院があったことから興った地名です。この地に残る尼門跡は
蔵人御所本光院門跡です。

本光院寺史
本光院は乾元元年(1302)後二条院(天皇)の皇女である硬子内親王が父帝の菩提を
弔うために開創、蔵人御所号を勅許される。元は上京二階町にあったが荒廃して、
天正年間に織田信長が再建して北野に移転した。この時より延命地蔵菩薩を本尊とする。
中興の祖、本光院日心尼の院号により本光院と改称する。宗派も臨済宗・法華宗・天台宗と
時代により変わり、現在は天台真盛宗。摂家子女が入寺する寺であったが、次第に荒廃。
昭和43年に天台真盛宗の西方尼寺境内に再建されて、西方寺住職が本光院門跡も兼ねて
法灯を継承している。江戸期の石高は20石余。天台真盛宗 本尊延命地蔵菩薩。

本光院がある西方尼寺は上七軒にあります。境内には北野大茶会の時に千利休が使用した
井戸「利休井戸」や利休手植の「五色散椿」があり、千家にゆかりのある尼寺です。
上七軒の舞妓芸妓は西方尼寺で茶道を習うそうです。五本線の壁が門跡寺院の寺格を
あらわしていますが、門は閉じられていて寺名を書いた表札もありませんでした。


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北野天満宮参詣その2

2010-03-17 22:39:06 | 京都の寺社・御所・離宮
北野天満宮の神宮寺だった「東向観音寺」 本尊は十一面観音菩薩で北野天神の本地仏と
される。洛陽三十三観音の札所です。


北野天満宮三光門(重文) 「天満宮」の扁額は後西院(天皇)のご宸筆。


北野天満宮社殿(国宝) 桃山時代の名建築。




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北野天満宮参詣

2010-03-15 06:19:27 | 京都の寺社・御所・離宮
曇華院門跡をあとにして、次は京福嵐電で北野白梅町まで。その途中の御室仁和寺駅で
常盤貴子に出会いました。電車が駅に着いてもなかなか乗らない男女数人がいたので、
乗り方わからん観光客かな?と思って見ていたら、その中心に常盤貴子。ドラマの撮影で
京都滞在中らしいです。しっかりガン見しておきました(笑)

北野白梅町から北野天満宮までは徒歩で5分あまり。もう受験シーズンは終わって
いるので、どちらかというと梅花目当ての人が多かったです。梅もラストシーズンです。





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竹之御所 曇華院門跡

2010-03-14 17:10:37 | 京都の寺社・御所・離宮
週末はいい天気でした。京都の右京区・上京区の尼門跡をいくつか巡りました。
最初はJR嵯峨嵐山駅を下車して歩くこと約10分のところにある曇華院門跡です。

曇華院の寺史
開基は室町二代将軍義詮室の母にして四辻宮尊雅王の娘である智泉聖通。当初は通玄寺と
称し、尼五山に列せられて竹之御所号を勅許される。智泉尼が退隠所として曇華院を
建立する。応仁の乱で荒廃して本寺である通玄寺と合併して曇華院を寺名とする。
慶長8年(1603)焼失、延宝年間(17C後半)に後西院(天皇)皇女で24世住持の
大成尼により復興する。江戸後期より無住寺となり、さらには元治の兵乱で焼失する。
明治に入り現在地に移り、鹿王院塔中の瑞応院を買得して再興した。寺領684石。
禅宗単立 本尊十一面観音菩薩。

曇華院は鹿王院というお寺に隣接してあります。


お寺の中というか横には「若竹保育園」という保育園がありますが、曇華院の保育園
のようで、私が訪れた時もご門跡(住職)は保育園におられたそうです。
「若竹」は言うまでもなく「竹之御所」にちなんだ名前でしょう。
脇玄関でご朱印を請うと「どうぞお参りください」ということで、上がらせてもらって
本堂で勤行させていただきました。

曇華院表玄関 庭園が塀越しに見えますが通常非公開です。


   





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西国薬師第三十番 多禰寺

2010-03-10 19:12:14 | 若狭・丹後の寺社
地元舞鶴の古刹多禰寺に初めてお参りに行きました。薬師瑠璃光如来をご本尊とする
「醫王山」という山号のお寺で西国薬師霊場の第三十番札所です。

東舞鶴の山の中にあるお寺ですが、創建は大変古く飛鳥時代に遡ります。
お寺で頂いた由緒書によりますと、この地の豪族の反乱を用明天皇の勅命で平定した
第三皇子の麻呂子皇子が護持仏の薬師如来を本尊に創建した・・・とあります。
用明天皇は聖徳太子の父帝で麻呂子皇子は聖徳太子の弟王にあたります。

丹後(京都府北部)には間人(たいざ)という聖徳太子の母后である穴穂部間人皇女の
名にちなんだ地名があり、麻呂子皇子の鬼退治伝説は丹後丹波各地に残り、さらに隣接する
若狭(福井県西部)には太子創建と伝える古刹があり、このあたり一帯は太子と麻呂子皇子および
その一族に関わる伝承が多く残る地域です。また当ブログでも数ヶ寺紹介していますが
若狭には国宝・重文級の建物や仏像を有する古刹が多くあり、記紀の時代から朝廷・皇室
と深いかかわりのある地域でもあります。

多禰寺は東舞鶴市街地から大浦地区を通り海水浴場のある三浜・野原への道の途中から
分岐した山中にあります。あたりには人家がほとんどなくて降雪があれば雪に埋没する
ような山間の地域ですが、かつては七堂伽藍を有して門前も参詣の人で大変賑わった大寺
であったということです。

門前の駐車場に車を停めてから、まず目にするのがこの風景です。平地区と舞鶴港がひろがります。


山門(仁王門)梵鐘が吊られています。鐘楼門は多くありますが、単層門で梵鐘が吊られている山門は
山上山中の山寺の他ではあまり見かけません。山門下には旧参道と思われる石段が続いていましたが、
すでに廃道となっている感じでした。一撞して入山します。


山門を入り直進すると右手に弁天社を見て本堂への石段があります。


多禰寺本堂。江戸後期の再建。手前に菊の御紋章の入った立派な青銅製の灯篭が建っています。




お参りを終えて本堂を退がりますと、ご住職がいらっしゃいました。ご住職は紅葉で有名な
金剛院の住職も兼務されていまして、金剛院のブログで度々コメントを交わさせて頂いて
いましたが、お目にかかるのは今回が初めてです。

ご住職の案内で宝物殿の中を拝観させていただきました。まず目に飛び込んでくるのは
身の丈4m近くもある大きな木造金剛力士像(仁王さま)です。筋肉隆々で血管浮き立つ
ボリューム感いっぱいの迫力満点な体である一方、木目をうまく利用して掌紋を表現
するなど細かいところも秀逸で、鼻の先に仁王さまがいるような間近な距離で拝見
しましたのでよく見えました。吽形像は胸を張って右手を大きく胸の横で開いて顔も
凛々しくてすごくカッコイイです。見惚れる仁王さまです。

ご住職のお話によれば鎌倉時代の慶派仏師による作で大きさとしては東大寺のあの
どでかい仁王さまに次ぐクラスの大きさということで、その大きさからして多禰寺が
かつては大寺であった歴史を物語っているということです。それゆえに兵火にもあい、
明治の廃仏棄釈でも被害を免れなかったということです。

この金剛力士像の他にも可愛らしい童子を従えた優しい普賢菩薩像や観音菩薩像など
平安時代以降の仏尊像や般若経の諸天善神を描いた仏画など貴重な宝物が数多くありました。

境内を下がると桃山時代に作庭されたという古庭園があります。大きな自然石を笠に頂いた
豪快な石灯籠が印象的なお庭です。平安期の菩薩・明王像、鎌倉期の仁王像、室町期の仏画、
桃山期の庭園、江戸期の本堂・・・と日本の各時代のものがぎっしりと詰まったお寺でした。




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