橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

なぜ雑な家飯は美味しいのか

2016-02-04 01:07:17 | こじらせ人生

一度一緒にお茶したことのあるコンノさんが、facebookで「適当で雑な家ご飯の幸せ」について書いていた。わかるわかる。なぜだろう。フライパンで適当に玉子をぐちゃぐちゃっと焼いて、一緒にベーコン炒めて、ネギ刻んで、トマト切って、ご飯の上に乗っけて、お醤油とか辛みそとか添えるだけ。それだけ。例えば、ひき肉オンリー炒めて玉子で巻いたオムレツとパン。野菜スープは大量な作り置きを温めるだけ。

このまえ、ナレーション原稿の追い込みで5分の時間も惜しかったとき、部屋のガスストーブの上に網を乗っけて、冷凍庫にあったキスの一夜干しを焼いてかじりながら仕事した。人参は生でスティック、キャベツをちぎって味噌で食べる。それがご飯。なんてお行儀の悪い…。でも、そういうご飯がなぜか美味しいし、幸せな気がする。お腹が減っているから食べるというシンプルな動機。時間が無くて、凝ってる暇がないから、目の前にある材料を無我の境地でなんらかの形にするだけだ。

このまえ、某有名ホテルを引退したシェフがやってる小さな洋食屋に行く機会があった。70歳になるそのシェフの経歴は日本の高度成長とともにあった。そんな彼が日本の料理について思うのは、ある時代から能書きの時代になったこと。ただフレンチが好きで作っていたけれど、ある頃から言葉の飾りが必要とされるようになったという。しゃらくせえと思った。

食べる幸せとは何だろう。それは多分言葉にできないものだ。それを言葉で語ろうとして、能書きで語るグルメの時代になって、言葉にする為に無理をして、本当に美味しいとはどういうことか、食べる幸せとはどういうことかが見えなくなってしまっている。

美味しいと言われるレストランで食べる時、オシャレと言われるカフェへ言ったとき、私たちは知らない間に批評する癖がついてしまっている。人が美味しいと言ったものが本当に美味しいのかを確認しないと済まなくなっている。済まないどころか、自分なりの点を付けようとする。そして、コストパフォーマンスなんてものを無意識に計算している。なぜそんなに批評眼を競わなくてはならないのかわからないが、なぜか「目利き」というものが、歴史的に世間でもっとも尊敬をあつめる職業なのだからしょうがない。みんなそうなりたくて、ついそういうフリをしてしまうのだ。

でも、本当は食べるものを批評なんかしても意味の無いことはみんな薄々分かっている。だから、適当に作った家飯がこんなに美味しいのだ。

いつから料理は虚栄の象徴になってしまったのだろうか。おもてなしはいいのである。きどらないはずの普段の食事までもが、能書きを必要としていることがおかしいのだ。

 

あ、コンビニの弁当って結構美味しいんだよねとかいう偽悪的なのは論外です(キリッ)なんて言ったら感じ悪いかしら(笑)。

 

みなさんどんな食事してますか?
 
 
 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿