橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

0か1か。デジタルな世の中

2006-06-23 01:08:34 | Weblog
てっくさんという人のブログを読んでいたら、次のような記述に出会った。
『改革を止めるな?アホですか?あなたたちはなんですぐに0か1かのデジタルになる』

私が反応したのは、なんですぐに0か1のデジタルになるという部分。
ああ、デジタル社会ってこういうことかと、あらためてうなずいてしまった。

なんだか最近いろんなことが2者択一みたいなことになっていて、イライラすることが多いが、
身の回りのいろんな電気製品がデジタルに変わって行ったのに連れて、
実は人間の思考も0か1かの2者選択なデジタルと化していたのかもしれない。

てっくさんが指摘してたのは、最近の新人議員の傾向について。
いわゆる抵抗勢力が旧態依然とした公共事業バラマキを復活させようとしていることに対する反発が
「改革を止めるな!」の小泉節だけなのかよ、という突っ込みである。

5年が過ぎて、これだけ小泉改革に批判の声が上がっているのには、やはりどこかに不備があったからと考えるのが普通だろう。私だって行政改革はすべきだと思うし、悪しき利権構造はなくすべきだと思う。しかし、いくら公共事業バラマキに反対だからといって、これだけ四方八方から聞こえてくる小泉批判の声を検証もせず、ただ抵抗勢力と切り捨て、バカの一つ覚えのように「改革を止めるな!」と叫ぶのはホントのバカである。

このところずっと注目の、六本木ヒルズがらみ金融騒動、ライブドアとか村上ファンド騒動とかで起こってくる議論も、市場原理主義批判と、そうでなければ、昔ながらの談合資本主義かという思われるような主張だ。
なぜ、臨機応変、是々非々でこれからの日本に本当に必要な思想やシステムについて考えられないのかと歯がゆくなる。

そこにはメディアの責任もあるのかもしれない。メディアが「わかりやすく」とか「面白く」伝えるという名目で、とり上げようとする状況に対抗軸を作ることばかりに腐心してきた結果なのかも。
対立してぶつかって派手になればなるほど視聴者は関心を持ってくれる、そんな思いがこんなデジタルな世の中を作ってしまったのかもしれない。

世の中には、白と黒があれば赤も青もある。0か1のどちらかを選び続けてたら、永遠に進歩は無いということに気がつかないのだろうか。今ある選択肢を現状肯定して、「しょうがないよね」なんてどちらかを選んでたら、結局笑うのは既得権益だ。
0側の既得権益と1側の既得権益。いわゆる抵抗勢力が0側の既得権益だとすれば、ライブドアや村上ファンドはいってみれば1側の既得権益になりかけてた人たちかもしれない。彼らがつまづいたのは、彼らが真の挑戦者ではなく、旧既得権益を羨ましく思って、それ以上になるために、もっとエラいアメリカの既得権益様にすがっただけだったからではないかと思うのである。

ああ、日本はどうすればいいのかなあ。

そういう時、是々非々という言葉を多様していた田中康夫は、どんなに批判されてもやっぱり正しいのではないかと思うのである。そういえば、今日長野県知事選出馬表明したらしい。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿