何気なくTVを見ていて入った一報。静岡在住の男が秋葉原に向かい暴走トラックとナイフで多数の死傷者を出したらしい。TVの偽善的コメンテーターは皆一様に「けしからん」とか「許せん」の一言。悪行を為したのは明白だが他にコメントが無かったのか、自称文化人に脳が無かったのか私の知るところでは無い。
唯一、犯罪精神病理学者だけは淡々と「ネットに書き込みをして犯行のプロセスを記録する事で犯行へと意識を高めていったのでしょう。」と容疑者寄りのコメントを出していた。高みに立って偉そうに「けしからん」と言えば聞こえも良いし「世間」には迎合できる。世論の攻撃にも合わず、似非文化人としての株も上がるかも知れない。そして何よりも本人は「世間」と言う名の無意識集合体のルサンチマンを自ら引き受け投影されて動く事で「社会の代弁者」となり、社会に何かしら貢献できた事で気持ちが良いであろう。
こうした脳無し似非文化人はおそらく成績も比較的優秀で有名大学等に進学して現在のような地位を築いたに相違ない。ジャーナリストや文芸や政治、音楽等の評論家や弁護士、元検事から警視庁の人間にエコノミストまで色々なのがいる。精神科医のなだいなだ先生によると、ここに述べているような大合唱を「ケシカラニズム」と呼ぶらしいが、世はケシカラニズムのファシストで埋め尽くされて気持ちが悪い。嘘と虚偽と作話で埋め尽くされた現代日本の糞メディアの太鼓持ちは皆、広告代理店に金銭でも貰っているのであろうか?
容疑者の人生の経過を追う中で当たり来たりのコメントが残されているのだが、気になったのは「成績優秀だった彼が進学校に進んでからは成績は中くらいであまり目立たなかった・・云々」と言うくだりである。コメンテーター達は「以前は優秀だった彼が進学校では平均的な成績と成ることで悩み、自分をアピールする何かを求めていたのであろう」等と極めて浅薄な意見を並べる。
大事な事を忘れてはいけない。進学校と構成員達が自称する集団においては成績ランキングが即ち人間の定量的な価値判断指標となる事実を。成績優秀者は人間扱いされ、成績不振者は人間扱いされないのである。某有名大学大学院ではその大学の学部出身者の事を「ネイティブ」と呼び、外部の大学出身者を「非ネイティブ」として揶揄している事をご存知であろうか?容疑者K君は、恐らく「進学校」とされる高校で自分より成績が上位の人間たちに囲まれてその後に鬱積していった劣等感を形成し、形成された劣等感により日々の行為・行動に自信をなくし、自信を無くして事に臨む事で余計に事がうまく運ばず、自信喪失と自己嫌悪を強化の上に再強化していったのだろう。
容疑者は確かにアキバで人殺しをしたのだろう。(現在は容疑者である)しかしこの上にさらに、心の中に彼ほどの、いやそれ以上に悪を抱えているかも知れない人間から成り立つ社会から疎まれ、攻撃の対象と鬱憤の発散の対象にだけ成っている事に対して考え込んでしまう。容疑者君よ、シャバに帰ってきたら遺族に思いっきり血が出るまで殴られろ。そして究極の甘えを悟れよ。犯行過程を書き続けるなんて、専門家でなくても「第三者に止めて欲しい」と言う甘ったれた欲求が見え見えで分かり易過ぎる。
我々は社会の一員として、偽善者として遺族程には彼に制裁を加える事は出来ないかも知れないが、「社会が悪い」と言った分だけは思いっきり血が出るまで殴ってあげてもよい。そうする気持ちがなければ「社会への受容」等と言う言葉は易々と発せられないと思う。誰が今の社会でこれを引き受けるのか?疎外がまかり通る世の中で、おそらく次の容疑者K君が出てくるのだろう。
本音は他人の事なんて、みんな本当はどーでも良いのだろう。証拠は?と言うならば、秋葉原交差点で流血沙汰を写メ撮って連中を見ると良い。あの手合いが彼の言う「社会」の具現化されたものでなくてなんだろう。
唯一、犯罪精神病理学者だけは淡々と「ネットに書き込みをして犯行のプロセスを記録する事で犯行へと意識を高めていったのでしょう。」と容疑者寄りのコメントを出していた。高みに立って偉そうに「けしからん」と言えば聞こえも良いし「世間」には迎合できる。世論の攻撃にも合わず、似非文化人としての株も上がるかも知れない。そして何よりも本人は「世間」と言う名の無意識集合体のルサンチマンを自ら引き受け投影されて動く事で「社会の代弁者」となり、社会に何かしら貢献できた事で気持ちが良いであろう。
こうした脳無し似非文化人はおそらく成績も比較的優秀で有名大学等に進学して現在のような地位を築いたに相違ない。ジャーナリストや文芸や政治、音楽等の評論家や弁護士、元検事から警視庁の人間にエコノミストまで色々なのがいる。精神科医のなだいなだ先生によると、ここに述べているような大合唱を「ケシカラニズム」と呼ぶらしいが、世はケシカラニズムのファシストで埋め尽くされて気持ちが悪い。嘘と虚偽と作話で埋め尽くされた現代日本の糞メディアの太鼓持ちは皆、広告代理店に金銭でも貰っているのであろうか?
容疑者の人生の経過を追う中で当たり来たりのコメントが残されているのだが、気になったのは「成績優秀だった彼が進学校に進んでからは成績は中くらいであまり目立たなかった・・云々」と言うくだりである。コメンテーター達は「以前は優秀だった彼が進学校では平均的な成績と成ることで悩み、自分をアピールする何かを求めていたのであろう」等と極めて浅薄な意見を並べる。
大事な事を忘れてはいけない。進学校と構成員達が自称する集団においては成績ランキングが即ち人間の定量的な価値判断指標となる事実を。成績優秀者は人間扱いされ、成績不振者は人間扱いされないのである。某有名大学大学院ではその大学の学部出身者の事を「ネイティブ」と呼び、外部の大学出身者を「非ネイティブ」として揶揄している事をご存知であろうか?容疑者K君は、恐らく「進学校」とされる高校で自分より成績が上位の人間たちに囲まれてその後に鬱積していった劣等感を形成し、形成された劣等感により日々の行為・行動に自信をなくし、自信を無くして事に臨む事で余計に事がうまく運ばず、自信喪失と自己嫌悪を強化の上に再強化していったのだろう。
容疑者は確かにアキバで人殺しをしたのだろう。(現在は容疑者である)しかしこの上にさらに、心の中に彼ほどの、いやそれ以上に悪を抱えているかも知れない人間から成り立つ社会から疎まれ、攻撃の対象と鬱憤の発散の対象にだけ成っている事に対して考え込んでしまう。容疑者君よ、シャバに帰ってきたら遺族に思いっきり血が出るまで殴られろ。そして究極の甘えを悟れよ。犯行過程を書き続けるなんて、専門家でなくても「第三者に止めて欲しい」と言う甘ったれた欲求が見え見えで分かり易過ぎる。
我々は社会の一員として、偽善者として遺族程には彼に制裁を加える事は出来ないかも知れないが、「社会が悪い」と言った分だけは思いっきり血が出るまで殴ってあげてもよい。そうする気持ちがなければ「社会への受容」等と言う言葉は易々と発せられないと思う。誰が今の社会でこれを引き受けるのか?疎外がまかり通る世の中で、おそらく次の容疑者K君が出てくるのだろう。
本音は他人の事なんて、みんな本当はどーでも良いのだろう。証拠は?と言うならば、秋葉原交差点で流血沙汰を写メ撮って連中を見ると良い。あの手合いが彼の言う「社会」の具現化されたものでなくてなんだろう。