Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

生命・神仏・言語・ネット

2007-05-28 05:35:43 | 哲学・形而上学:宗教・超心理・神秘学
生命の考察から究極的存在について考える事がよくある。生命の誕生と死とは生命の限界としての輪郭・境界を位置づける瞬間でありプロセスである。誕生と死と言う瞬間と、それらを迎える一定の期間にヒトは宗教的になる。知的な推論よりも内省的で瞑想的な心情が上回る。如何にして生体の最少の細胞と最大の細胞とが合致して、そこから精密な生化学的反応を経て一個体が成立するのか。または意識を保持していた個体から意識が消失した後の問題は如何に、などなどである。

ここでよく宗教は絶対的真理について説いていると言う。あるヒトはそれならばなぜ絶対的真理が複数も存在するのかと問う。絶対的真理であるならば宗教や宗派が生まれ得る筈が無いではないか、と。

私は答える、それは「神や仏」といった究極的存在は絶対かも知れないし「神・仏」に遭遇し一体化する体験そのものは絶対なのであろう。神の意識とヒトの意識が完全に合一してしまえば、そこには対象は存在し得なくなる。この意味で神人合一の体験は絶対なのであろう。こんな事は古今東西の宗教書・神学・教学に書いてある事だから別に考えなくても良いのかも知れない。しかし個々人がそれぞれ汗水たらして考えてみるところに意義があるのではないだろうか?

また神・仏から降りてくる、啓示されるところの真理はこの世の何物をも超えた全く相対性の生じない絶対的真理・法則なのかも知れない。それよりも、相手は対象として認識できない、対自的には成りえない存在なのだと思う。われわれと言う存在を全て包含しているのである。対象化出来ないのであれば、存在そのものであろう。こんな存在が絶対でなくて何なのか。そしてその存在そのものに啓示された真理が絶対的真理で無いわけはなかろう。

しかし考えてみよう。我々がその究極的存在を万が一にも体得したとして、如何にして伝える事が出来ようか?私達は言語を使って記述をしている。言語は「ことば」である。ことばとは「事の端」であり、事物の一部分を何とか表しているに過ぎない。

絶対的存在や真理を体得しても、言語で伝達しようと考えている限りにおいては、人間界に伝わっている真理は絶対性が失せて相対性を帯びてしまう。また言語で表現されていない部分を表現し切れないもどかしさが未来永劫残るであろう。芸術が有史以来、不変で不朽であるのはこの為だろう。

そしてソクラテスも釈迦もイエス=キリストも自らは筆を取らず、弟子達が筆をとった理由も少しわかる気がする。ことばはもともと事の端であり、想いの内容が言語化の段階で削られ、また語った音声言語がさらに抽象言語になり豊かな情報を失い、さらには解釈の多様性から多種多様な理解がうまれる事をおそれていたのではなかろうか。

そう考えると、ネット上で文字言語だけでコミュニケーションをとるだけで、本当に人間同士のコミュニケーションをとっていると信じ込んでいる一部の人々は、実際に直接話をしたらどんな会話をするのだろうか?先日「ググれカス」と言う書き込みを見たが、私にはさっぱり意味が判らなかった。どうも状況から察するに、ある問題に疑問を感じた質問者がいて、それに対してそんな(簡単な)問題は自分で検索をして調べろ、と言う意味らしかったが、音声言語なら冗談で済まされる"かも知れない"ところが、あれでは不躾で失礼極まりなく見えてしまう。

神や仏の特徴として海よりも深い慈悲心がある。なぜ世の中には〇と×と△があるのですか?と訊ねても「ググれカス」等と言わないところがじつにありがたい。

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