Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

ヒトは動物として生まれ、神仏と悪魔の間を彷徨い

2007-11-08 21:37:08 | 哲学・形而上学:宗教・超心理・神秘学
ヒトは動物として生まれ、神仏と悪魔の間を彷徨う存在である、と思う。人間はあらゆる自然界の中の生物では弱小存在として生まれ、それがためかあらゆる他の生物に対して優位を誇り示そうとする。しかし何をしようが人間の最高の叡智を持ってしても、神仏の愚かさには露ほど塵ほどにも近づけないのである。

ヒトは他の動物と同じくいくつかの反射を備えこの世に生を受ける。ただ他の動物とちがうのは本能があまり発達していないと言うことである。何事も学習する必要がある。生存欲求の基礎は持ち合わせているが、それとて社会的文脈の影響を多分に受けるのである。例えば同じ食事行動でも、食事の作法などとなると万国で共通性が無い。

食事と言えば、われわれは植物とも異なるから栄養も従属して得なければならないのである。植物性機能とか動物性機能と言うが、動物性機能である運動系統も最初は機能しない程の情けなさである。植物のように、或いは他の動物のように独立独歩と言う事が不可能であるのがわれわれ人間である。植物は光合成を経て自主独立を保つ。動物は本能に従って、さらに本能や遺伝的基礎を持つ学習行動をへて自主独立の道を歩むのだが、ヒトはそうはいかないのである。

本能が無い事で、生まれて間もなく自ら独りで動き出すことは不可能である。それがため、親の庇護のもとで動き出す事を学ばねばならない。遺伝か環境かと言う議論がある。遺伝的基礎を持つ本能が壊れているのなら、環境要因さえ整えてやればよいかと言うとそうでもない。逆境をバネにして、或いは必要は発明の母と言う事で必ずしも追い風では無い環境の中でヒトは成長する事が出来る。環境整備と言うが、不備な環境が人を成長させることもある。この辺りは一筋縄ではいかない。なぜならば、環境要因のなかで、人には自由意思を発揮する事が出来るからである。

この自由意思たるや曲者である。究極的にはヒトは善か悪かの二つから選ぶしかない。常に善を目指す事は不可能に近い。常に悪を目指せばこの世での生活は立ち行かない。司法官憲の世話になるからである。善への道と必要悪の道との間に立ってヒトはおそらく人生を全うするのだろう。

また、自由意思とは言うが相当に生育環境の影響を受けている。この辺りからヒトは最初から自由では無いのである。自由意思そのものの発揮の仕方が過去の先人達の影響を受けるのである。

こうして考えると、現代人とは常に全歴史を意識・無意識下に留めながら自由であると錯覚して生きている存在である。ヒトの脳の解剖をすればよくわかる。神経解剖学は、ヒトの脳の構造が進化の所産である事を教えてくれる。脳に生命体と宇宙の全歴史が刻み込まれているのである。宇宙が生まれた時、物理的自然法則が決まっていった。その全部の物理化学的法則を踏まえながら、なおも因果律から外れた自由意思を少しだけ発揮できる人間は善悪の道徳律においては神仏と悪魔との中間体的存在なのであろう。

身体が即宇宙であり即自然である。健康ファシズムと環境ファシズムが酷似しているのもその所為かも知れない。自ら健康を害する事は最も身近な自然環境破壊だからである。健康の国家管理も自然環境の国家管理もその意味においては同じなのであろう。人知による自然の統御とは理性によって神仏の恩寵を越えようとする思想につながるであろう。これももしかしたらヒトのもつ悪魔に近い側面の究極の姿かも知れない。

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