Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

救える命と救われない命、そして社会情勢のなかの「救命」

2005-07-17 19:45:18 | 危機管理:国際人道保健支援・災害救急
あるアジアの地域では致命的な心筋のけいれん「心室細動A-fib」(或いは心房細動V-fib)への対応として、愛・地球博でも各所に設置されている除細動器(AED)の設置やら市民への心肺蘇生法(CPR)のトレーニング施行などの努力にもかかわらず、心停止した患者さんの蘇生率が一向に上がらないと言う。それはなぜか?さらに同地域では現場の医師と救命担当の行政としての消防本部と合同で、人命救助プログラム制定のための医学的・疫学的な研究調査と評価を行おうとしたが、これも一向に進まないと言う。それもなぜか?


某医科大学を会場とした「国際災害・救急シンポジウム」に出席。会場は大ホールというが、場所がわからず困っていた。幸いにも前日の土曜日に国際保健ボランティア団体で会った同大学看護学部の女性によって問題解決、天の采配と思った。国際シンポジウムと言うが全て揃ったパネリストは日本人が3名程に台湾人とシンガポール人が1名ずつ、司会者の日本人が3名であり主要言語は日本語であった。JR福知山線事故に適確に対応した某大学病院の災害医学対応の話題から始まり、最後は除細動器(AED)と心肺蘇生法(CPR)という通常の救急医学の話題でしめくくられたのだが、アジア特有ともいえる「ご当地問題」を見聞するにつけ、「世界標準」の伝播はうまくいかないものだなと改めて思った。具体的なケースをここでは2つ選び、辺縁状況とからめて見てみよう。


ケース①:台湾では除細動器(AED)の設置と市民へのCPRトレーニングを実施したが、患者の蘇生率が一向に上がらないと言う。
→報告をした医師によると、アジア人特有のメンタリティーが蘇生率の邪魔をしていると言う。アジア人のもつシャイネスが、心停止の第一発見者となった時にも働いてしまい、人命救助を躊躇するというのだ。極端な例としては、公園のベンチに座ったまま放置されて周囲が気が付いたら死亡していたという。但し後者については割り引いて考えねばならないと思う。アメリカでも同様のケースがあるからだ。オフィスでやり手のビジネスマンが数日以上「缶詰」になって出てこないと思ったら、デスクに突っ伏して死亡していたという。先日の熱波の時のフランスでも極端な個人主義が災いして、多数の老人が酷暑で具合を悪くした折に、誰からもケアされないで亡くなったと言う。これについてはアジア人意識だけでは説明がつかなさそうだ。

ケース②:同地域では医師と消防本部と合同の人命救助プログラム制定のため、医学的・疫学的な研究調査と評価を行おうとしたが、これも一向に進まないと言う。
→同医師によると、消防隊は警察官と同様の意識があり、外部からの査定・評価を受け付けないという。医師のように研修等においてパフォーマンスを何かしら評価されるという「文化」が無いのだ、彼は力説していた。この国においては「医療文化」と「消防署文化」は全く異なっているという。彼曰く『「消防署文化」は警察官と同様であり権威主義的である、だからデータ供出は現場の消防吏員のボスに直接頼むとうまくいく』のだそうだ。『もちろん昇給・昇進をほのめかす事も忘れずに・・・』と言う。私の師匠の一人も言う。「君は好まないかも知れないが、フィリピンでは賄賂をつかまさないと政府系プロジェクトが成り立たないんだよ。好き嫌いではなく、そういう仕組みなんだよ。」と。権威主義・金権主義も逆手に取れば、物事を円滑にしうるという所か。何やら永田町の事を考え始めてしまった・・・。(笑)

救命行為を一つとっても、同じような解剖学的構造と生理学的機能を持った人間にありとあらゆる因子が絡んできている事が容易に判る。ちなみにこのシンポジウムは愛・地球博との関連で、最近隣の医科大学を会場として開催されたのだが、なぜか「MASSCARE」やテロリズムについての話題が出なかったように思う。純粋な日本的救急医学の話題に終始していた。これがアメリカならば銃火器による損傷、交通事故による極端な外傷、そして児童虐待・肉体的/性的虐待による外傷の問題が論じられていたかも知れない。救急医学における基礎医学的研究の話題などについては別の機会に書いてみたい。一つの話題からありったけ情報を抽出して考察する癖がある限り、ブログがいくつあっても書ききれないだろう。(笑)

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