Dr. Mori Without Borders / Mori-san Sans Frontieres

森 一仁が医学・国際政治経済金融・人文教養教育など関心問題を国際的・学際的に考える。

Olympic, The Power Politics

2008-04-25 06:07:08 | 地球社会:国際政治経済金融
「オリンピック」と「政治」と言うキーワードを入れると種々の記事にお目見えする。オリンピックは政治的であるべきではないとか、それは幻想であるとか、二分された意見がネット上を錯綜する。筆者はと言えば理想的には政治と無縁でスポーツ競技を見てみたい、それも世界規模で・・・と思うが、政治的でないオリンピックがいまだかつて存在したのかと言えば甚だ疑問でもある。

例えば政治的理由でオリンピックをボイコットする動きがある。モスクワオリンピック等が好例に出されるが、確かアメリカ軍パナマ侵攻は1983年だったが1984年にはロスアンジェルスオリンピックをさしたる問題もなく開催している筈だ。アメリカはよくて現在の中国や当時の旧ソ連モスクワ政府だけが避難を浴びるのならこれは公正ではない。

逆にモスクワのときには英政府がボイコットを決めた後も英国オリンピック選手団はこれを押し切って参加したとの話を聞いているから、気概があれば国家の政治的判断とは別にスポーツ選手団も戦えるのかも知れない。これには条件があって、資金力が関係する。イギリス選手団だから出場すると言えたのだろう。国家が全面支援し、国の経済もままならないような国々ではこれは不可能な芸当である。

むしろ気になるのは、ボイコット問題等が起きなかった時のオリンピックの政治性である。財団法人大阪市スポーツ・みどり振興協会によれば、日本選手団の活躍を阻止する為に幾度となくルール変更がなされた事は事実のようだ。サッカーのワールドカップでも審判員の判断には中立性が疑われるし、こうした隠れた政治性を明らかにして中立な判断が行われるように働きかけないと、オリンピックは単なる開発途上国・貧困国いじめとなる。実際に万国博覧会がそうだったではないか。

ここで、
①特定の選手団を対象とした急激なルール変更を止める
②審判員や記録判定監督者は厳正中立を厳守する
③各国の費用負担は一律価格ではなくGNPに応じて決定する
④各国市民も感情的に賛否両論を訴えない(これこそ政治闘争の種になる)
こうした条件を守らねば、いつまでもオリンピックは政治的饗宴たり続ける。だいたいダライ・ラマ師からして「シー・シェパード支持」を取り下げていない。筆者はラマ師の著作は好きだが、今回のチベット問題では彼の言動を絶対に支持しない。日本政府も通過ビザ等を発給している場合ではない。恥を知るべきである。

では翻ってオリンピックを平和の式典と位置づけ、さらにこれを政治とを絡めていたら北京オリンピックはいつまでも開催されないと思う。

<参考:現代中国史>
1949年 東トルキスタン侵略、占領(ウイグル大虐殺)、民族浄化継続中
1950年 大躍進、文化大革命3000万人大虐殺開始
1950年 朝鮮戦争参戦
1951年 チベット侵略、占領(チベット大虐殺)、民族浄化継続中
1959年 インド侵略(中印戦争)アクサイチン地方占領
1969年 珍宝島領有権問題で蘇聯と武力衝突
1973年 中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射
1974年 ベトナム、パラセル諸島(西沙諸島)を軍事侵略、占領
1976年 カンボジア、クメール・ルージュによる大虐殺を強力支援
1979年 ベトナム侵略(中越戦争)、中国が懲罰戦争と表明
1988年 スプラトリー諸島(南沙諸島)を軍事侵略、占領
1989年 天安門事件
1992年 南沙諸島と西沙諸島の全てが中国領土と宣言
1995年 フィリピンのミスチーフ環礁を軍事侵略、占領
1996年 台湾総統選挙恫喝、台湾沖にミサイル攻撃
1997年 フィリピンのスカーボロ環礁の領有を宣言
1997年 日本の尖閣諸島の領有を宣言
2003年 スーダンのダルフール大虐殺を強力支援
2005年 日本EEZ内のガス資源を盗掘

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