初任地の盛岡で医大の研修生としてレントゲンのイロハ学ぶ
平嶋が技術開発でブレークスルーできたのは偶然ではあるまい。柔軟な発想の源には、専門バカではない、バックグラウンドが影響しているともいえる。
父親が医療機器商社、ユニハイトを営んでいたことで身近に「医療」があった反面、自らは大学で経済を専攻。大学を卒業した1982年、ユニハイトに就職し、2年間に及ぶ初任地の盛岡で「レントゲン」にどっぷり浸ることになる。
岩手医科大学で技師長を務めていた叔父から「面倒を見るからやって来い」と誘われ、赴任したのだ。最初の半年は研修生として、レントゲンのイロハを学ぶ。その後、営業マンとして、レントゲンフィルムを売り回っていた平嶋に、本社から「東京に帰って来い」と命令が下る。折からの不況で、会社の経営が厳しくなっていた。
再建の重責を負った平嶋は、商品を眼科器具とレントゲン用品に分け、自らは後者を担当。消費者金融から借りたカネを事業に充てたり、納品時に現金払いを求めて絶縁されるなど、綱渡りを強いられる日々が続いた。
そんなとき、転機が訪れる。レントゲン装置の展示会で、工業用の製品を目にして「これは売れるぞ」とひらめいた。当時は、電子レンジみたいな無骨な形の製品ばかりで、ゴルフボールや真珠貝の中身を見るなど限られた応用範囲しかなかった。
早速、平嶋はメーカーに工業用装置を作るよう依頼。カタログも作成したところ、専門誌で記事が紹介され、引き合いが100件あまりに上った。企業にアポイントを取りまくり、2週間かけて全国を回り、市場調査を行なった。90年代に入り工業用へのニーズが飛躍的に高まっていた。電子機器の小型化・高機能化に伴い、電子部品も微細化し、高度な検査技術が求められていた。たとえば、極小のICチップの裏側にある数百のボール状のはんだがプリント基板に接合されているかまで、一つひとつチェックしなければならなくなっていたのだ。
それをクリアするために、思いついたのが冒頭の斜めからエックス線を照射するというアイディアだった。展示会に試作機を出品したところ、バイヤーたちは驚いた。他社の製品では画面に接合部が30個は映っていたのに対し、1個1個見ることができたのだから無理はない。
だが、展示会の成功に酔ったのも束の間、いきなり目の前が真っ暗になる。「展示会を見たある大手メーカーが『うちも同じ製品を発売しますよ』とセールスしていたのが耳に入ってきた。本当に悔しかった」。
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わが社はこれで勝負! 1600倍の高倍率、ナノオーダーのフォーカスサイズ(250/800ナノメートル切り替え)を実現した「高分解能3次元X線CTシステム」。直径0.6ミリメートルのボール状はんだの接合不良(右上)もくっきり |
それでも、救いの手が差し伸べられる。ある大手企業が「まだ商品もできていないのに信用できない」とユニハイトに発注。これが呼び水となって、1台数千万円の高額商品にもかかわらず、50台を売り上げる大ヒットとなった。
新装置も次々に開発
世界に市場は拡大
事業にかける情熱やまず
事業が軌道に乗ったことで、平嶋の頭には、メーカーになりたいというこれまでの夢が強く頭をもたげてきた。そこで、エックス線装置事業を切り離し、メンバ14人とともに2000年、ユニハイトシステムを設立する。
先述の三次元斜めCTシステムの開発では、05年に産業技術総合研究所と共同で特許を取得するなど常に業界の先頭を走り続けている。今春には自動検査技術に秀でたオムロンと共同開発した検査装置を発売、これによって抜き取りだけでなく全数の検査が可能になった。
平嶋の目は世界にも向いている。「中国、欧州などではもっと市場が拡大する。ぜひ売り込みたい」と目を輝かせる。穏やかな語り口にもかかわらず、事業にかける情熱は今でも熱い。(敬称略)
(『週刊ダイヤモンド』編集部 田中 博)
ひらしま・りゅうすけ/1960年2月1日生まれ。82年明星大学人文学部経済学科卒業後、ユニハイト入社。営業職などを経て、94年同社社長。2000年2月ユニハイトシステム設立。