団塊太郎の徒然草

つれづれなるままに日ぐらし

トトロの森にはサツキとメイの家はない、その2

2009-09-18 16:57:48 | 日記


 


記事に対してコメントを頂きました。



団塊太郎の徒然草【トトロの森にはサツキとメイの家はない】を受けて


2009年09月01日 | ★【ちょいと聞いて!】



名古屋の河村市長が宮崎駿監督と対談したという新聞記事が団塊太郎の徒然草【トトロの森にはサツキとメイの家はない】に載っている。
河村市長が視察した【トトロの森】は実際の名前は【淵の森】という。その淵の森を買い取るために宮崎駿監督が3億円寄贈した。その資金を元手にして、市民団体の寄付等で開発業者から買い戻して、市有地化された。




元々のトトロの森はここ【淵の森】を指しているのではないのだ。
みんな誤解をしている。
本当の【トトロの森】は次のとおりなのだ。




トトロに出てくる【七国山】は東京都と埼玉県の境に横たわる狭山丘陵の東端部分の名称【八国山】を捩った名前の山だ。その稜線は東村山市と所沢市の境となっている。

その【七国山】にある病院は、東村山市側に実際にある旧結核サナトリュ-ム病院、今では一般病院となっている【新山の手病院】と【東京白十字病院】のどちらかがモデルになっている。

東村山市民は(名古屋万博会場のサツキとメイの家の)払い下げを受けようと署名を集め、万博協会に出したが、実現しなかった。

移築する場所の確保=用地取得費だけでも億単位の費用が必要になる。

移築費用と再建築費と維持管理費を考えると数千万円の費用がかかる。

夢とロマンを掻き立てて、サツキとメイの家があるにこしたことはない。

しかし、これだけの税金投入が許されるのかという問題もある。

移築したらしたで、ジブリさんの意向を無視しては維持管理も改修もできない状態になることを考えると、そこに家がある限り、修理費用、維持管理費が継続して必要になる。

はじめから何もなかった八国山なのだ。

夢とロマンを掻き立ててくれる物語が生き続ければ、いつまでも心の隅に【八国山がモデルとなった】が残り、孫子に語り継がれるほうが賢明な選択なのかもしれない。


常識破りの発明

2009-09-18 15:34:40 | 日記

日本の製造トップ企業が認めた技術力
業界の常識覆したエックス線検査装置開発
ユニハイトシステム社長 平嶋龍介








ユニハイトシステム社長 平嶋龍介(撮影:相川大助)

「エックス線源をペン型にして動かせばいいんじゃないのか」──。ユニハイトシステム社長の平嶋龍介の頭にこんな考えがひらめいたのは、自宅で晩酌中のことだった。酒の肴を箸でつまもうとして、ふと思いつく。10年以上も前のことだ。


 同社はエックス線を当てて、はんだの接合不良を見つける非破壊検査装置製造などを手がける。電子部品が小型化、高密度化するなかで、検査の精度は製品の出来にそのまま直結する。高品質を誇る日本の製造業の根幹を支える技術がここに凝縮されているといってもいい。


 最終的にはペン型にこそならなかったが、エックス線を斜めから当てることを思いつく。サンプルをかなり近づけることができるため、これまで見えなかった接合部の死角が解消されるだけでなく、拡大も可能になった。検査部位を中心に360度ぐるりと回す「ユーセントリック機能」も世界で初めて開発、業界を驚かす製品を生み出した。


 医療技術がベースになっているため患者の安全が第一とされるエックス線検査では、対象物を動かすのが当たり前だった。エックス線自体もまっすぐ当てるものとされてきた。その意味で常識破りの発明だった。


 その後、画像の解像度を上げた三次元斜めCTシステムの開発にも成功、パナソニックやソニー、トヨタ自動車など名だたるグローバル企業に納入するなど、ミクロならぬナノの目で高精度に解析できる技術力の高さは一目置かれている。




初任地の盛岡で医大の研修生としてレントゲンのイロハ学ぶ


 平嶋が技術開発でブレークスルーできたのは偶然ではあるまい。柔軟な発想の源には、専門バカではない、バックグラウンドが影響しているともいえる。


 父親が医療機器商社、ユニハイトを営んでいたことで身近に「医療」があった反面、自らは大学で経済を専攻。大学を卒業した1982年、ユニハイトに就職し、2年間に及ぶ初任地の盛岡で「レントゲン」にどっぷり浸ることになる。


 岩手医科大学で技師長を務めていた叔父から「面倒を見るからやって来い」と誘われ、赴任したのだ。最初の半年は研修生として、レントゲンのイロハを学ぶ。その後、営業マンとして、レントゲンフィルムを売り回っていた平嶋に、本社から「東京に帰って来い」と命令が下る。折からの不況で、会社の経営が厳しくなっていた。


 再建の重責を負った平嶋は、商品を眼科器具とレントゲン用品に分け、自らは後者を担当。消費者金融から借りたカネを事業に充てたり、納品時に現金払いを求めて絶縁されるなど、綱渡りを強いられる日々が続いた。


 そんなとき、転機が訪れる。レントゲン装置の展示会で、工業用の製品を目にして「これは売れるぞ」とひらめいた。当時は、電子レンジみたいな無骨な形の製品ばかりで、ゴルフボールや真珠貝の中身を見るなど限られた応用範囲しかなかった。


 早速、平嶋はメーカーに工業用装置を作るよう依頼。カタログも作成したところ、専門誌で記事が紹介され、引き合いが100件あまりに上った。企業にアポイントを取りまくり、2週間かけて全国を回り、市場調査を行なった。90年代に入り工業用へのニーズが飛躍的に高まっていた。電子機器の小型化・高機能化に伴い、電子部品も微細化し、高度な検査技術が求められていた。たとえば、極小のICチップの裏側にある数百のボール状のはんだがプリント基板に接合されているかまで、一つひとつチェックしなければならなくなっていたのだ。


 それをクリアするために、思いついたのが冒頭の斜めからエックス線を照射するというアイディアだった。展示会に試作機を出品したところ、バイヤーたちは驚いた。他社の製品では画面に接合部が30個は映っていたのに対し、1個1個見ることができたのだから無理はない。




 だが、展示会の成功に酔ったのも束の間、いきなり目の前が真っ暗になる。「展示会を見たある大手メーカーが『うちも同じ製品を発売しますよ』とセールスしていたのが耳に入ってきた。本当に悔しかった」。






わが社はこれで勝負! 1600倍の高倍率、ナノオーダーのフォーカスサイズ(250/800ナノメートル切り替え)を実現した「高分解能3次元X線CTシステム」。直径0.6ミリメートルのボール状はんだの接合不良(右上)もくっきり


 それでも、救いの手が差し伸べられる。ある大手企業が「まだ商品もできていないのに信用できない」とユニハイトに発注。これが呼び水となって、1台数千万円の高額商品にもかかわらず、50台を売り上げる大ヒットとなった。


新装置も次々に開発
世界に市場は拡大
事業にかける情熱やまず


 事業が軌道に乗ったことで、平嶋の頭には、メーカーになりたいというこれまでの夢が強く頭をもたげてきた。そこで、エックス線装置事業を切り離し、メンバ14人とともに2000年、ユニハイトシステムを設立する。


 先述の三次元斜めCTシステムの開発では、05年に産業技術総合研究所と共同で特許を取得するなど常に業界の先頭を走り続けている。今春には自動検査技術に秀でたオムロンと共同開発した検査装置を発売、これによって抜き取りだけでなく全数の検査が可能になった。


 平嶋の目は世界にも向いている。「中国、欧州などではもっと市場が拡大する。ぜひ売り込みたい」と目を輝かせる。穏やかな語り口にもかかわらず、事業にかける情熱は今でも熱い。(敬称略)


(『週刊ダイヤモンド』編集部 田中 博)


ひらしま・りゅうすけ/1960年2月1日生まれ。82年明星大学人文学部経済学科卒業後、ユニハイト入社。営業職などを経て、94年同社社長。2000年2月ユニハイトシステム設立。