世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
「平和」と言う言葉
「世界の平和のために」との言い方はしても 「日本の平和のために」との言い方をしないのは 「平和」が国内の努力だけで全う出来るものではなく 国境を越えた世界的な状況を表わす言葉だからだろう。これは近代思想や法の「基本的人権」の形で現代の原理原則になっているが、法に依らずとも『平和」の言葉自身が普遍的な事象を示す認識上の概念だから当然である。
同様に「世界の平和と繁栄」も暗黙の内に人類は人間活動の前提として共有している。 だから自ずと それを実現するため視野は国家ではなく世界でなけらばならないのだが、、現実は国の内外を問わず 国家中心の政治が展開され 世界的な行き詰まり状態に陥っている。
学級担任が学級全体を見渡さない限り学級活動が出来ないように 世界全体を見渡さないで「世界の平和や繁栄」を叫んでいるに等しいのだから現実は当然の帰結でもある。
人類や社会の水先案内の役を果たすべきマスコミが スポンサー中心の情報を世界に発信していたのではままならないが、世界の事象は 人為だけに因るものではないから、自然をはじめ人類が意図せずもたらしたものによって人為(人の意思)のコントロールを離れる。 正に 今はそれが進行してはいないか。
余計な心配
前記の「ズボラとハッタリ」に通ずるが
学級を構成している子供たちを理解することなしに彼らの発信する信号は認識できない。
学級がまとまって何かをしようとすると必ずそれを妨げようとする子どもが出てくる。(ある意味で当然なことでもある)
その子供たちを抜きに学級を理解することは出来ないしあり得ない。
仮に( 問題行動)であっても、その子供にとっては必然性のあることが分かったところで 初めてその子供を理解したことになり そこから担任の仕事は始まる。
世界を一つの学級と見た場合、国外の出来事や問題も同様で、当方には不都合でも それなりの因果と必然性をもっていることを少なくても情報を伝えることを目的とした情報機関は仕事として認識すべきではないか。現在そうなっているだろうか。
それどころか一方的に描き さらに表現する言葉の語感で是非善悪を決めつけ強いるようなことはないだろうか。
一つの学級と世界が同じで無いことは分かっているが、無関係でもない筈だから 余計心配になる。 (是非 余計な心配であってほしい。)
ズボラとハッタリ
個人も社会も空間意識の拡大は難しい。それは科学的な知識の獲得とは必ずしも繋がらないからである。
世界のグローバル化は日進月歩だが、人間の意識は それに伴っていないのではないか。
人々が得る社会的な情報の多くは テレビ新聞だが、そのほとんどは 国内が中心であり、国外の報道は国益を中心に 国内向けて報道されるものが多い。
国内のスポンサーの力により国内の読者や視聴者に情報を提供を生業としている情報機関だから当然とも言える。
ただ、いかなる国や国民も世界のグローバル化の中にあってはそこで生きていく為にグローバル(ユニバーサル)な空間意識が求められてはいるはずである。
世界の行き詰まりは内向きな狭い空間意識と現実との間に生じた認識や意識の乖離が原因しているように思われてならない。
「海外ニュース」 この言葉一つとっても これは日本のように島国でなければ意味を為さず、多くの国は「国外ニュース」と表現するだろう。
海外ニュースの多くは欧米と近隣国で 日本の視点で伝えられる。
学級担任の最大の仕事は学級集団を掌握することだが、それは子どもから発する一見目につかない細かな信号(動き)を察知しそれに対処することだろう。
学級崩壊はこの仕事に後れを取った学級の状態のことだと思う。
世界に伍して日本が生き発展するするには、現在の情報の発信の仕方は真逆に近く、地上で最も困難な国や人々に目を向けるべきではないか。昔から言う「明日は我が身」の姿勢ぐらいは持ちたい。
南半球などの飢餓難民や太平洋ど真ん中で海に沈み込んでいるツバルなど、これに反応できずに世界の平和や安全など有り得ず、日本の情報発信は信号無視する 学級担任にダブって見える。 学級担任はズボラとハッタリでは務まらない。
時代錯誤
将来的には経済活動の舞台は資源の豊かな東南アジアさらに南半球へと移動するだろう。
お金の集まるところに人が集まり都市が作られる。 現在、世界の大都市は北半球に多いがその分布は新陳代謝するかのように変化するに違いない。
企業の海外移転や人口や人口構成の変化だけでも見ても、東京は大きく様変わりし経済に求められるものも違ってくる。 果たしてその準備はオリンピックなんかでは 済むのか。
ついて行けるか?
約束通り「強い国日本」を目ざしているからなのか 金融緩和で経済を膨らませ集団安全保障で身を固め秘密保護法で国内を抑える。正に国の内外へ向けファイティングポーズをとっているかのようだ。
国内はマスコミの主導権を掌握しその力でどうにでもなる国だから良いかも知れないが、果たして世界はこれで通用するだろうか?
これまでのようにアメリカを念頭に判断しているようだが、国際社会の力学的な関係の現状は そう単純ではない。
経済活動の環境の変化に対応し 安全保障の在り方も変化してきている。
古典的な「強い国日本」の描いてる安全保障観と アメリカを含めた国際的な国々の安全保障観に方向的なズレが無いかの検証が必要でないか。
国際的には世界的な経済の行きづまりだけではなく 国々の安全を脅かす現状が 古典的な安全保障観では間に合わなくなっていることに対応し始めてきているように感じるのだが。
放置されてる公害
テレビの番組を中断しコマーシャルがよく入る。
あれを不快に思わない人はいないだろうが あの不快さは人体や思考への影響が良くないことを示していないだろうか?
人は意識が集中した時に落ち着きを覚え、思考が深まる。
音楽会、芝居、展覧会はもちろん 教育現場でも子どもが授業に集中できるように最大の配慮をし教師の力量が問われる。
テレビは 公共の電波を使いながら一方的に番組を中断する。予めコマーシャルの時間を番組として設定するか、せめて番組の前後に設定し途中で無断で割り込む事の無いようにしてほしいものだ。育ちざかりの幼児や子供のいる仮定の茶の間まで無断で侵入している。 教育・医療・文化・政治分野からクレームの無いことも不思議である。
水や空気を汚すと同様の公害の一つだと思うが感じなくなったのだろうか。
因果を語らぬ報道
またまた あちこちの自爆テロやアフリカの砂漠で違法難民が何十人と命を落としたことが報道された。
暴力や断り無しの国境越えが違法なのは当然だが 併せてその原因ぐらいは報じるのも当然ではないか。
犯罪や違法だと決めつける側がまいた種が芽を出していることは普通にあることなのだから 公正な報道姿勢ではない。
次ページ » |