情報と実感の乖離

市長選で旧知の一人の候補者の選挙を手伝って駅頭でビラを配ったり宣伝カーを運転したりしていて感じる事がある。普通に暮らしている大多数の人々の意識は政治や選挙どころではなく、メディアの言葉で言えば「無関心・不信感」かもしれないが、とにかく現実の政治からは可也はなれたところにいるなと感じる。
 無関心であったり不信感を抱いた人々のせいというより、ちょっとしたら当たり前かな?と思った。
 原因が、日々の生活が忙しくそんな事に関わってていられないかもしれないし、
政治に関する情報が現実生活とはかけ離れたものに感じたり、政治で良い思いをした実感が無いからかもしれない。
 それは与野党や党派が差異を大言するほどのものではなく、ニューアンスの違であり、政治以前の社会の仕組みや全体的な文化の問題が横たわっており乗り越えられないでいるのかもしれない。
 仮にどこかの熱心な支持者であっても、意識や行動と実感は大きく乖離しているかもしれない。一致していると考える方が難しい。
 麻生総理ではないが、郵政民営化は本音は賛成でなかったと言うように政治家そのものも言ったりやったりしている事と本音が違っている。それが普通かもしれない。自然な行動が取リにくくなっていないか?
 人々は全体的に心と体が分離し、情報と実感が分離し乖離して来ているかもしれない。
 今の仕組みやメディアで刷り込まれた情報で、自ら手足を縛り、他人の手足も縛っていないだろうか?
 そんな網をかいくぐって内側から湧くように出てくる力が次代を担う新しい芽なのかもしれない。
 選挙の勝敗や当落よりそこにどうしてもそんなところに目が行く。
 世界が閉塞し混迷しているからこれも自然なのかもしれない。
本来は政治もメディアも教育も実感と情報〈体と心の)一体化を求めるのだろうが、実際はそうは行ってない。
 しかし、地球や自然はそんなに人間中心、自分中心には出来てはいないから、そんなに心配する事はない、復元し調整するように出来ている。
 
この3日間、日野市は春もうららで桜が満開。
今日は8時を過ぎた頃、スズメや山鳩と一緒に庭に近所の男の子も遊びに来た。子供だと、スズメも大して警戒しないところが面白い。
 地球も人間もスズメも色々やっているんだなー。
 
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