8/31から2泊3日で富山県にある黒部ダムへの原付旅に出かけました。
帰り道、長野県南木曽町にある妻籠宿(つまごじゅく)と
岐阜県八百津町にある杉原千畝記念館を訪ねました。
主な走行ルート
8/31、白浜→国道311号→三重県熊野市→国道42号→松阪市→
国道23号→名古屋市→国道19号→長野県松本市
9/1、長野県松本市→国道19号→安曇野市→国道147号→大町市→県道45号線→大町市扇沢駅
扇沢駅=電気バス=黒部ダム駅(往復)
扇沢駅→県道45号線→大町市→国道147号→安曇野市→国道19号→塩尻市→国道153号→飯田市
9/2、長野県飯田市→国道153号、国道256号→岐阜県南木曽町(妻籠宿)→
国道19号→岐阜県土岐市→国道21号→御嵩町→みたけエコライン→
八百津町(杉原千畝記念館)→国道418号→川辺町→国道41号→名古屋市→
国道23号→三重県松阪市→国道42号→熊野市→国道311号→白浜町
走行距離 1245㎞
ガソリン代4,690円、ホテル代11,450円、飲食代5,833円、交通費(バス代)3,200円
合計25,173円
黒部ダムを訪れた翌朝の長野県飯田市から始まります。
本日宿泊のエルボン飯田エレベーター内にて
窓を開けていると、てんとう虫さんが入って来るようですね(^^ゞ
ホテルからの眺め
空が明るくなってきました
建物の間に中央道が見えます。
長野県飯田市は、若い頃に仕事で一度来た事があり、
来る途中に走った中央道恵那山トンネルですが、
何と長いトンネルなんだ!!✨✨という印象があります。
ただ原付では、恵那山トンネルを走れないので(笑)
宿泊したビジネスホテル エルボン飯田外観
エルボン飯田
相棒(原付バイク)おまたせ!
♬さぁ出発だ!今、日が昇る~
この歌がわかる方は、私と同年代の方でしょうね(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=uKs6emQS0ug
⇧母をたずねて三千里OP - 草原のマルコ / 大杉久美子
0分53秒付近から始まります。
今日も良い天気になりました♪
国道153号 名古屋131㎞、豊田98㎞、稲武57㎞
飯田市中村 国道153号と国道256号の重複区間となります
中央道の下を抜けます。
伊那谷の夜明け!とも言われた中央道
この先にある中央道 恵那山トンネルの開通は、大きかったようです。
ここで名古屋、豊田方面の国道153号から分岐して、国道256号を走ります。
当初の予定では、このまま国道153号を走って、
旧伊勢神トンネルを見に行く予定でしたが変更しました(^^ゞ
南木曽30㎞、清内路6㎞
国道256号を走ります。
清内路トンネル 長さ1642m、標高1094m
飯田市内から昼神温泉を通って、ひたすら上り坂を走って来ましたが、
このトンネルを抜けると南木曽町になります。
標高1000mを越えているなんて…ずいぶん高い所を走っています。
長野県南木曽町に入りました
気温18℃とかなり峠付近は、かなりヒンヤリとしていました((+_+))
妻籠宿(つまごじゅく)案内図
重要伝統的建造物群保存地区
妻籠宿の街並み
中山道 妻籠宿
この暖簾(のれん)が何とも言えない良い雰囲気を醸し出しています
江戸時代の面影を感じます
土間
写真が暗いのですが、囲炉裏を通して中山道を望む
中山道側から室内を写す
板張りの床が良い感じです
この畳の上で、ゴロンとなっていたのかなぁ?
上嵯峨屋を正面から写す
有形文化財
上嵯峨屋
この建造物は四十四年の解体復原によって
江戸中期(十八世紀中期)の建物と推定される。
建造当初の形式をよくとどめ庶民の旅籠(木賃宿)としての
雰囲気をうかがうことができる。
今もこうして、ここで生活をされているのが、とても素敵だと思います。
水があるだけで潤いを感じます。
これは珍しい
厩(うまや)
寺下地区の復原保存工事
妻籠宿は全国でも初めての集落保存〇〇し、
長野県の明治百年記念事業として
昭和四十三年から四十五年にかけて寺下地区を中心に
二十六戸の解体復元工事等を実施した。
これによって、江戸時代の面影をそのまま残すことができた妻籠宿は
全国に注目されるに至り、五十一年九月四日、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
面積一、二四五四ヘクタール、
現在この地区〇〇町の有形文化財に指定されている
上嵯峨屋、下嵯峨屋をはじめ、馬屋跡(現在地)を、
一般に公開している。
*〇〇は、判読不能なため
道具が残されています
ここに馬がいたんだろうなぁ~
馬の大きさに合わせてなのか?少し地面が掘られていました。
障子が美しい
縁側で腰を下ろして、どんな話をしていたのでしょうか?
さぁ出発だ!と空を見上げて当時の旅人も思ったのかなぁ?
今日は、とても良い天気でした(^^ゞ
中山道沿いの街並み
延命(えんめい)地蔵堂
延命(えんめい)地蔵堂
享保十年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。
堂内には直径が二メートルほどもある自然石が安置されているが、
この石の由来は、文化十年(1813)五月十日頃、
河中(蘭(あららぎ)川の川原)に
地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、
当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、
ここまで運びあげたというものである。
命岩を別名汗かき地蔵というのは、
この石が常にぬれているようにみえることによる。
毎年四月二三か二四日にお祭りが行われている。
寺下の町並み
妻籠宿は全国で初めての集落町並み保存に着手し、
昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、
江戸時代の面影を残すことができました。
生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、
学者の三者一体で始めたところに妻籠宿の特徴があります。
古い町並みを保存することは、環境を守り心を守り、
歴史を生きたまま受け継いでいくことです。
このようにして一見無人家とも思われる家々でも、
人々はくらしているのです。
このような街並みが、皆様の努力によって残されている事に敬意を表します。
妻籠宿で見かけた蓑(みの)昔のカッパですね。
室内に薪が置かれています。
天井付近を写す
大昔の家って感じです
桶(おけ)が置かれています
窓が無い時代は、こうやって開け閉めをしていたんですね
箪笥(タンス)になるのかなぁ?
天井が無く梁(はり)が見えています
囲炉裏(いろり)が見えます
私が子供の頃でも、まだ土間のある家が残っていました
有形文化財 下嵯峨屋
有形文化財 下嵯峨屋
この下嵯峨屋は建造当初長屋であったものの一戸分を
昭和四十三年に解体復元したものである
妻籠宿における庶民の住居を代表する片土間に
並列二間(ふたま)取の形式をよくとどめている
昭和四十九年十一月三日
南木曽町教育委員会
中山道
京へ五十四里二十七町二十一間
https://keisan.casio.jp/exec/system/1315358108
54里ってどの位の距離かなぁ?と思い、
上記サイトで調べてみると
215,056.15m
京都まで約215㎞との事です。
当時の面影を残しています
江戸時代の五街道 旧中山道
この付近は、舗装されずに残されています
桝形(ますがた)の跡
桝形の説明版
拡大
桝形(ますがた)の跡
江戸時代のはじめに制定された宿場は、
一種の城塞の役割も持たされて整備され、
宿場の出入口には必ず桝形が設けられた。
宿場の桝形とは、街道を二度直角に曲げ、
外敵が進入しにくいようにしたものである。
この妻籠宿の桝形は、明治三二年からの
大平(おおだいら)街道の改修工事により、
その上部斜面を掘り割られているが、
よく当時の姿を伝えている。
国道19号から入ってくると入口付近に大きな看板があります。
妻籠宿
国道19号 長野県南木曽町 妻籠宿入口交差点
さぁ、ここから左折して木曽川沿いに走る国道19号を岐阜方面に走ります。
記念館近くにあったモニュメント
心 真実を見つめる純粋な心
勇気 人のために正しいことを行う勇気
愛 ヒューマニティーあふれる愛
杉原千畝記念館まであと少しです
杉原千畝(ちうね)記念館に到着
駐車場に駐輪
タクシーの方への案内
杉原千畝記念館の入口付近
入口付近の掲示
隣接して道の駅志野・綾部があります
周辺案内図
杉原千畝記念館パスポート
パスポートを開いたところ
記念館の館内は撮影禁止のため1枚も写真がありません。
写真は、これで最後になります。
杉原千畝(ちうね)は、第二次世界大戦という特殊な時代背景のなか、
命のビザを発給し多くのユダヤ人を救った外交官として知られています。
そんな記念館で資料を見ながら杉原千畝の名前の由来を知った時
「名は体を表す」とも思えてきました。
千畝の「畝(うね)」とは、畑の細長く土を盛り上げた部分を表し、
八百津の段々畑から命名されたと言われています。
この後は、名古屋市を通って三重県から白浜へと走りましたが、
ひと言で簡単に言えば、とても充実した3日間でした。
他にも感じた所はありますが、長い時間にわたって相棒(原付バイク)と
過ごせたのは良かったです。
今回の旅で私が昨年、目標としていた行きたい所としていた
しまなみ海道、富士山、黒部ダムを達成する事が出来ました。
次は、どこかなぁ?来年にでも、もう一度、新潟県長岡市は、行けたらと思います。
ここまでの長文お読みいただきありがとうございました(*´ω`)
帰り道、長野県南木曽町にある妻籠宿(つまごじゅく)と
岐阜県八百津町にある杉原千畝記念館を訪ねました。
主な走行ルート
8/31、白浜→国道311号→三重県熊野市→国道42号→松阪市→
国道23号→名古屋市→国道19号→長野県松本市
9/1、長野県松本市→国道19号→安曇野市→国道147号→大町市→県道45号線→大町市扇沢駅
扇沢駅=電気バス=黒部ダム駅(往復)
扇沢駅→県道45号線→大町市→国道147号→安曇野市→国道19号→塩尻市→国道153号→飯田市
9/2、長野県飯田市→国道153号、国道256号→岐阜県南木曽町(妻籠宿)→
国道19号→岐阜県土岐市→国道21号→御嵩町→みたけエコライン→
八百津町(杉原千畝記念館)→国道418号→川辺町→国道41号→名古屋市→
国道23号→三重県松阪市→国道42号→熊野市→国道311号→白浜町
走行距離 1245㎞
ガソリン代4,690円、ホテル代11,450円、飲食代5,833円、交通費(バス代)3,200円
合計25,173円
黒部ダムを訪れた翌朝の長野県飯田市から始まります。
本日宿泊のエルボン飯田エレベーター内にて
窓を開けていると、てんとう虫さんが入って来るようですね(^^ゞ
ホテルからの眺め
空が明るくなってきました
建物の間に中央道が見えます。
長野県飯田市は、若い頃に仕事で一度来た事があり、
来る途中に走った中央道恵那山トンネルですが、
何と長いトンネルなんだ!!✨✨という印象があります。
ただ原付では、恵那山トンネルを走れないので(笑)
宿泊したビジネスホテル エルボン飯田外観
エルボン飯田
相棒(原付バイク)おまたせ!
♬さぁ出発だ!今、日が昇る~
この歌がわかる方は、私と同年代の方でしょうね(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=uKs6emQS0ug
⇧母をたずねて三千里OP - 草原のマルコ / 大杉久美子
0分53秒付近から始まります。
今日も良い天気になりました♪
国道153号 名古屋131㎞、豊田98㎞、稲武57㎞
飯田市中村 国道153号と国道256号の重複区間となります
中央道の下を抜けます。
伊那谷の夜明け!とも言われた中央道
この先にある中央道 恵那山トンネルの開通は、大きかったようです。
ここで名古屋、豊田方面の国道153号から分岐して、国道256号を走ります。
当初の予定では、このまま国道153号を走って、
旧伊勢神トンネルを見に行く予定でしたが変更しました(^^ゞ
南木曽30㎞、清内路6㎞
国道256号を走ります。
清内路トンネル 長さ1642m、標高1094m
飯田市内から昼神温泉を通って、ひたすら上り坂を走って来ましたが、
このトンネルを抜けると南木曽町になります。
標高1000mを越えているなんて…ずいぶん高い所を走っています。
長野県南木曽町に入りました
気温18℃とかなり峠付近は、かなりヒンヤリとしていました((+_+))
妻籠宿(つまごじゅく)案内図
重要伝統的建造物群保存地区
妻籠宿の街並み
中山道 妻籠宿
この暖簾(のれん)が何とも言えない良い雰囲気を醸し出しています
江戸時代の面影を感じます
土間
写真が暗いのですが、囲炉裏を通して中山道を望む
中山道側から室内を写す
板張りの床が良い感じです
この畳の上で、ゴロンとなっていたのかなぁ?
上嵯峨屋を正面から写す
有形文化財
上嵯峨屋
この建造物は四十四年の解体復原によって
江戸中期(十八世紀中期)の建物と推定される。
建造当初の形式をよくとどめ庶民の旅籠(木賃宿)としての
雰囲気をうかがうことができる。
今もこうして、ここで生活をされているのが、とても素敵だと思います。
水があるだけで潤いを感じます。
これは珍しい
厩(うまや)
寺下地区の復原保存工事
妻籠宿は全国でも初めての集落保存〇〇し、
長野県の明治百年記念事業として
昭和四十三年から四十五年にかけて寺下地区を中心に
二十六戸の解体復元工事等を実施した。
これによって、江戸時代の面影をそのまま残すことができた妻籠宿は
全国に注目されるに至り、五十一年九月四日、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。
面積一、二四五四ヘクタール、
現在この地区〇〇町の有形文化財に指定されている
上嵯峨屋、下嵯峨屋をはじめ、馬屋跡(現在地)を、
一般に公開している。
*〇〇は、判読不能なため
道具が残されています
ここに馬がいたんだろうなぁ~
馬の大きさに合わせてなのか?少し地面が掘られていました。
障子が美しい
縁側で腰を下ろして、どんな話をしていたのでしょうか?
さぁ出発だ!と空を見上げて当時の旅人も思ったのかなぁ?
今日は、とても良い天気でした(^^ゞ
中山道沿いの街並み
延命(えんめい)地蔵堂
延命(えんめい)地蔵堂
享保十年(1725)の書上げには「地蔵堂」と記されている。
堂内には直径が二メートルほどもある自然石が安置されているが、
この石の由来は、文化十年(1813)五月十日頃、
河中(蘭(あららぎ)川の川原)に
地蔵尊が浮かび出ている石があることを旅人に告げられて知り、
当時の光徳寺住職中外和尚をはじめとする村人たちが、
ここまで運びあげたというものである。
命岩を別名汗かき地蔵というのは、
この石が常にぬれているようにみえることによる。
毎年四月二三か二四日にお祭りが行われている。
寺下の町並み
妻籠宿は全国で初めての集落町並み保存に着手し、
昭和四十三年より、寺下の町並みを中心に復元保存工事を始め、
江戸時代の面影を残すことができました。
生活と保存を一体化させる運動を、住民と行政、
学者の三者一体で始めたところに妻籠宿の特徴があります。
古い町並みを保存することは、環境を守り心を守り、
歴史を生きたまま受け継いでいくことです。
このようにして一見無人家とも思われる家々でも、
人々はくらしているのです。
このような街並みが、皆様の努力によって残されている事に敬意を表します。
妻籠宿で見かけた蓑(みの)昔のカッパですね。
室内に薪が置かれています。
天井付近を写す
大昔の家って感じです
桶(おけ)が置かれています
窓が無い時代は、こうやって開け閉めをしていたんですね
箪笥(タンス)になるのかなぁ?
天井が無く梁(はり)が見えています
囲炉裏(いろり)が見えます
私が子供の頃でも、まだ土間のある家が残っていました
有形文化財 下嵯峨屋
有形文化財 下嵯峨屋
この下嵯峨屋は建造当初長屋であったものの一戸分を
昭和四十三年に解体復元したものである
妻籠宿における庶民の住居を代表する片土間に
並列二間(ふたま)取の形式をよくとどめている
昭和四十九年十一月三日
南木曽町教育委員会
中山道
京へ五十四里二十七町二十一間
https://keisan.casio.jp/exec/system/1315358108
54里ってどの位の距離かなぁ?と思い、
上記サイトで調べてみると
215,056.15m
京都まで約215㎞との事です。
当時の面影を残しています
江戸時代の五街道 旧中山道
この付近は、舗装されずに残されています
桝形(ますがた)の跡
桝形の説明版
拡大
桝形(ますがた)の跡
江戸時代のはじめに制定された宿場は、
一種の城塞の役割も持たされて整備され、
宿場の出入口には必ず桝形が設けられた。
宿場の桝形とは、街道を二度直角に曲げ、
外敵が進入しにくいようにしたものである。
この妻籠宿の桝形は、明治三二年からの
大平(おおだいら)街道の改修工事により、
その上部斜面を掘り割られているが、
よく当時の姿を伝えている。
国道19号から入ってくると入口付近に大きな看板があります。
妻籠宿
国道19号 長野県南木曽町 妻籠宿入口交差点
さぁ、ここから左折して木曽川沿いに走る国道19号を岐阜方面に走ります。
記念館近くにあったモニュメント
心 真実を見つめる純粋な心
勇気 人のために正しいことを行う勇気
愛 ヒューマニティーあふれる愛
杉原千畝記念館まであと少しです
杉原千畝(ちうね)記念館に到着
駐車場に駐輪
タクシーの方への案内
杉原千畝記念館の入口付近
入口付近の掲示
隣接して道の駅志野・綾部があります
周辺案内図
杉原千畝記念館パスポート
パスポートを開いたところ
記念館の館内は撮影禁止のため1枚も写真がありません。
写真は、これで最後になります。
杉原千畝(ちうね)は、第二次世界大戦という特殊な時代背景のなか、
命のビザを発給し多くのユダヤ人を救った外交官として知られています。
そんな記念館で資料を見ながら杉原千畝の名前の由来を知った時
「名は体を表す」とも思えてきました。
千畝の「畝(うね)」とは、畑の細長く土を盛り上げた部分を表し、
八百津の段々畑から命名されたと言われています。
この後は、名古屋市を通って三重県から白浜へと走りましたが、
ひと言で簡単に言えば、とても充実した3日間でした。
他にも感じた所はありますが、長い時間にわたって相棒(原付バイク)と
過ごせたのは良かったです。
今回の旅で私が昨年、目標としていた行きたい所としていた
しまなみ海道、富士山、黒部ダムを達成する事が出来ました。
次は、どこかなぁ?来年にでも、もう一度、新潟県長岡市は、行けたらと思います。
ここまでの長文お読みいただきありがとうございました(*´ω`)