平成29年11月25日付 紀伊民報に投稿が掲載されました。
10月28日付の本紙「JR減便に知事激怒」という見出しの記事に、
白浜駅以南の乗客が少ないとあり、実際どうなのかと思い調べました。
県総合交通政策課サイト内の「JR駅別乗降客数の推移」に、
1980年度(昭和55年度)から2015年度(平成27年度)まで、
各駅の1日あたりの乗降客数の推移が示されています。
白浜駅では、1980年度(昭和55年度)の2634人が、2015年度(平成27年度)は、1602人と約40%減、
紀伊田辺駅では、6024人が3036人と約半分に減っていました。
紀南の各駅とも減少傾向で、駅によっては2015年度(平成27年度)の乗降客数が
1980年度(昭和55年度)の1割にも満たない駅もあります。
この数字にはかなり驚きましたが、私自身も今年に入って、白浜から電車に乗った事がありません。
今回の記事は、いつも目にする紀勢本線について、考えるキッカケになりましたが、
同線建設には、先人の大変な努力があった事も知り、
その功労者として、明治時代の政治家、山口熊野(ゆや)という方の存在を知りました。
県企画政策局文化学術課のサイトには、山口熊野は紀伊半島での鉄道建設の必要性を一貫して訴え
「サル乗せて走るか熊野の汽車の旅」などと揶揄(やゆ)されたが、
1910年(明治43年)に鉄道建設の建議案を提出。その後も弛(たゆ)まぬ努力を続け、
1919年(大正8年)に第41回帝国議会で紀勢線の着工が可決されたと紹介されていました。
鉄道のある事が当たり前で、あまり深く考えたこともありませんでしたが、
その当たり前を維持できなくなって、初めて気付かされました。
私にもできることは何だろうと思った時、今年もあと1ヶ月少々ですが、
1回は電車に乗ろうと小さな目標を立てました。
微々たるものですが、できる事から始めようと思うと、
久々に白浜駅から電車に乗るのが楽しみになりました。
引用資料
和歌山県総合交通政策課サイト内の「JR駅別乗降客数の推移」
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/020500/tetudou/documents/jreki.pdf
和歌山県企画政策局文化学術課 山口熊野
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yama.html
10月28日付の本紙「JR減便に知事激怒」という見出しの記事に、
白浜駅以南の乗客が少ないとあり、実際どうなのかと思い調べました。
県総合交通政策課サイト内の「JR駅別乗降客数の推移」に、
1980年度(昭和55年度)から2015年度(平成27年度)まで、
各駅の1日あたりの乗降客数の推移が示されています。
白浜駅では、1980年度(昭和55年度)の2634人が、2015年度(平成27年度)は、1602人と約40%減、
紀伊田辺駅では、6024人が3036人と約半分に減っていました。
紀南の各駅とも減少傾向で、駅によっては2015年度(平成27年度)の乗降客数が
1980年度(昭和55年度)の1割にも満たない駅もあります。
この数字にはかなり驚きましたが、私自身も今年に入って、白浜から電車に乗った事がありません。
今回の記事は、いつも目にする紀勢本線について、考えるキッカケになりましたが、
同線建設には、先人の大変な努力があった事も知り、
その功労者として、明治時代の政治家、山口熊野(ゆや)という方の存在を知りました。
県企画政策局文化学術課のサイトには、山口熊野は紀伊半島での鉄道建設の必要性を一貫して訴え
「サル乗せて走るか熊野の汽車の旅」などと揶揄(やゆ)されたが、
1910年(明治43年)に鉄道建設の建議案を提出。その後も弛(たゆ)まぬ努力を続け、
1919年(大正8年)に第41回帝国議会で紀勢線の着工が可決されたと紹介されていました。
鉄道のある事が当たり前で、あまり深く考えたこともありませんでしたが、
その当たり前を維持できなくなって、初めて気付かされました。
私にもできることは何だろうと思った時、今年もあと1ヶ月少々ですが、
1回は電車に乗ろうと小さな目標を立てました。
微々たるものですが、できる事から始めようと思うと、
久々に白浜駅から電車に乗るのが楽しみになりました。
引用資料
和歌山県総合交通政策課サイト内の「JR駅別乗降客数の推移」
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/020500/tetudou/documents/jreki.pdf
和歌山県企画政策局文化学術課 山口熊野
http://wave.pref.wakayama.lg.jp/bunka-archive/senjin/yama.html