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はるかに遠い夢

沢田研二さんにロ・メロメロ。
ジュリーの事を考えると頭の中がお花畑。
その花を押し花にしたいなぁなんて…

収録を無事終えられたようで

2012年12月09日 | ジュリー ラジオ時々拓郎さん
お正月公演のチケットが一昨日到着いたしました。

まるで、私の人生のような微妙なお席をいただき、思考がフリーズしたまま今日まで来てしまいました
(ちなみに、中日の渋谷は一階に降りられたもののほぼ最後列、ファイナルの渋谷は、はぁまあねぇという二階後方、初日に外れた振替の名古屋は取りあえず一桁ですが端…)

一桁センターなんて、今生で望むなどおこがましい事なのか
まぁ、始まっちゃえば参加出来るだけで感謝感謝の日々なのですが、悩む時間が悩ましい(なんちゃって)

そんな、ど~しようもない事で私なんかがグダグダしているうちに、拓郎さんとの対談の収録が終わったようです

彼はやっぱり変わらずに
愛すべき男だった
(2012年12月8日付 拓郎さんからのメッセージより)

わぉ今のジュリーをTVに引っ張り出せるなんて、タイガースか拓郎さんかって位なもんです

番組放送は年明けとの事。まさにつづくシアワセ有り難いことです。

ところで、拓郎さんからのメッセージによると

(「月刊明星」、「ラブラブ愛してる」に次いで)今回は人生で3度目だ

と、あったのですが、1981年に拓郎さんの「オールナイ○ニッポン」にジュリーがゲスト出演をされた事があったはずですが、それについては忘却の彼方なのでしょうか

今日のアルバム:忘却の天才(2002)

拓郎さんのジュリーのお話し その2

2012年12月05日 | ジュリー ラジオ時々拓郎さん
拓郎さんがジュリーの事をまたまた熱く語って下さいました
坂崎さんと拓郎さんの『オールナイト○ッポンgold』2012年12月3日放送分です。
ツベにもアップして下さっている方がいらっしゃって、前回のリンクから辿れます。

この感じだと、収録後もお話しをして下さいそうですね
ジュリーのお正月公演のMCもこのお話しかな?

ジュリーについてのお話しのみ、書き起こしました。
聴き間違い等もあると思いますので、ご了承下さい
以下、坂崎さんの言葉はで表記しています。(というか、ほとんど拓郎さんが喋り通しだったんですけど)

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実は近々に沢田研二という人とTVで対談するんですね。

沢田研二さんと拓郎さんて何か接点はあったんですか?

ないんですが、70年代に、彼も若い頃僕も若かった頃に一度月刊明星で対談してるんです。 
これはすごい僕は記憶に新しくて、40年も前の事なんですが印象深かったんです。 
僕は渡辺プロダクションに入りたかったし、ライバルはザ・タイガース、沢田研二がライバルだと思っていたから。
僕もTVでいっぱい歌を歌うような人間になりたかった。
僕の狙いはフォークシンガーじゃないですから。
フォークシンガーになりたいなんて思ってなかったですから。
時代の流れでフォークというカテゴリに入れられて、フォークのプリンスになってしまいました。
当時からフォークソングをやっているつもりはなかったですから。

当時、そういう話もしてるんですか?

それはなかったけど、二人とも記憶にあるのは、彼も覚えてると思いますが、
二人ですごい気持ち良かったんだよね、対談が。
二人ですごい酔っ払っちゃったわけ。
酒飲みながらの対談で。
二人で酔っ払っちゃって、ベロベロになっちゃった。 
僕もベロベロ、沢田研二もベロベロで。
胸は肌蹴てるは、おいサワダ~おさわのケンちゃんとか言いながら。 

調子こいちゃったんですね。

調子こいちゃった。
そんな感じでベロベロになって、そのあと、風の便りで聞いた話では、沢田研二さんは家に帰ってゲロゲロあげちゃったと、それくらい飲んじゃったと。
僕も家に帰ってあげたし。
そういう思い出があるんです。
彼もやっぱり…沢田研二もあげるんだ~みたいな感じがあって。 
凄い気持ち良かったわけ、対談して。 
気持ちのいい男だなという印象があって…だから、その時から僕の脳裏に常に沢田研二がある。

『LOVE LOVEあいしてる』にゲストで沢田研二が来たときに、後ろからハグして
(拓郎さん)「元気でした?」 
(ジュリー)「元気でしたよ」
と言った瞬間に、ピピッて電波が流れたんですよ、二人の間に。 
僕はそう思っている。沢田さんがどう思っているかは分からないけれど僕には流れた。
あ、やっぱり覚えてたな、俺のことという感じがあって。
僕も覚えていたし。
沢田研二と俺なんだという感じがあるわけ。
この世界には誰もいれないぞと、そう僕は思っているわけ、勝手に、僕の中では。 
今度久しぶりに会えるんで、その思いを遂げられるという幸せ感と、
沢田研二と話しができる、というのがあってね。

ちょっと凄そうですね。

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その後、ジュリーとの対談より凄い事が来年あると強調されていたのはちょぴり寂しかったですが、これだけ愛を叫んでいただけたのですから、これ以上望むのは贅沢ですよね。

『LOVE LOVEあいしてる』の収録前のインタビューのようなコーナーで、ジュリーが
「拓郎さんが抱いてくれた」っておっしゃっていて、
「えっなになに」と、妙に慌てました

お二人の対談が、出来るだけ長い時間ON AIRされますように
というか、値段はいくらでもいいからジュリーがスタジオ入りされたところから対談のぜ~んぶをノーカットで収録したブルーレイとか発売してくれないでしょうか

けんぞう&けんそうのHELLooニューウェイヴ

2012年12月04日 | ジュリー ラジオ時々拓郎さん
昨日は、ジュリー祭り 記念日に勝手に便乗したMy birthdayへコメント等をいただき、本当にありがとうございます
思い込みの激しいレポもどきを、ちらっとでも楽しみにしていただけているなら本当に嬉しいことです
実は息子からも鼻をかんだティシュ以外の物を初めて貰い、ちょっとは大人になったかと感慨深かったりしました


さてさて、白井さんがゲスト出演された『けんぞう&けんそうのHELLooニューウェイヴ』はお聴きになりましたか?
もしまだの方はバックナンバーがこちらから聴けるので、是非聴いてみて下さい
当然全編面白かったですが、ジュリーのお話しは30分頃から始まります。
ジュリーが参加された“聴こえなかったシグナル~karma event horizon~”も流れます。

サエキさんはお変わりなく、“単純な永遠”の頃のイメージそのままでした

白井さんはお話しをされている姿を初めて観ましたが、ゆったりと落ち着いた雰囲気な方で、全くいつもの私の思い込みですが、ジュリーと相性が良さそうな感じで、長くお仕事をご一緒されたのも納得です
多分、先日の国際フォーラムでのファイナル公演でもお見かけしたと思います。


取りあえずネタバレになるので多くは書きませんが、
白井さんのお父様のお葬式にジュリーが参列した、というお話しには感動しました。

それから今回のレコーディングの際、スタジオ入りしたジュリーは、
うれし はずかし
って、おっしゃったんですって
ジュリーがはにかんだ笑顔で(ここは妄想)そんな風に言われるなんて
あ~~~んなんて可愛らしい方なんでしょ
想像しただけで腰が抜けそうですいやもう、抜けてます

はあぁぁ腰が抜けたので「耒タルベキ素敵(2000)」を聴いて安静にすることにします

祝ビバリー 2012年11月26日

2012年11月26日 | ジュリー ラジオ時々拓郎さん
ジュリーも高田先生も楽しそうでしたね~

ラジオのON AIRが終わったあと、録音したものを電車の中で聴いていたのですが、さっき聴いたばかりなのにまた吹き出しそうになりました

冒頭の、お二人とも飛ばし過ぎで圧が凄かったトークはこちらで聴けます

あちこちでアップされているようなので、私のツボだったところを少しだけ、性懲りもなく書き起こしました
高田先生のトークはで表記してます。

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「ほとんどテレビに出てないから、電車に乗ってもバスに乗ってても誰も分からない。
思わず歌っちゃおうかと思っちゃいますよね。
壁ぎわに…

「寝がえりうっちゃおうかな、と。
うっちゃうぞ寝がえり、ガタガタ言うとうつよと」


「バ~ンとかぶつかって
『てめ~このやろ~
と言う前に、壁ぎわに…と、歌っちゃおうかなって。

でも若い人だったら分かんないかもしれないね。

(若者)『なんだよそれ、なに歌ってんだよ。歌わしたろか

って、言われたりしてね」

「大変だね(笑)」

「困ったもんだね(笑)」

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この間、アシスタントの松本さんを含めて皆さん爆笑しながらのトークでした


それから、相変わらずサリー my loveが炸裂していましたね。

お正月公演では“ROCK 黄 WIND”をどの会場でも歌われるようです

番組HPには今回はお写真がまだアップされていないのですが、お写真は撮られなかったのでしょうか

高田先生曰く「白髭さん」らしいのですが、是非アップしていただきたいです~

加瀬さん、ジュリーを語る 2012秋

2012年11月24日 | ジュリー ラジオ時々拓郎さん
拓郎さんのラジオは嬉々として即書き起こしていながら、加瀬さんのラジオでのお話しが放置状態だったのを反省し簡単にですが書き起こしました

2012年11月1日放送の、文化放送「くにまるジャパン」という番組の「ラジオバイオグラフィー 5冊のアルバム」というコーナーでのお話しです。
以下、司会の方の言葉はで表記しています。


グループサウンズが粗製濫造となり、余りの忙しさに曲を作る時間もなくなり、
「これはもうそろそろ終わるな…」
と、加瀬さんは思い始めたそうです。

そして、1971年にワイルドワンズは解散。

加瀬さんは、かねてから才能を認めていたジュリーと仕事を始めます。

「当時ジュリーとは仲が良くて、しょっちゅう家に泊まったり一緒に遊びに行ったりしていた。

彼は凄くいいシンガーだと思っていて、将来一緒に仕事をしたいなと思ってた。

ソロになったジュリーの曲を頼まれたのをきっかけに、ジュリーのプロデュースをしたいとプロダクションに申し出た。

当時はプロデューサー制度がなかったので、渡辺プロの契約社員になった。

ジュリーのステージの演出、レコードのプロデュース、そして作曲を手掛けるようになった」

当時の沢田研二というシンガーをどう売っていこうかという事についての、総責任者になったわけですね

「やっぱり、今までになかったシンガーにしたかった。それはもう、最初からジュリーにも言っていた。

今までにないようなデザイナーを探して衣装を作ってもらったり。

今までにない歌謡シンガーで、歌謡曲と言ってもポップな感じのスターにしたかった。

曲のそれぞれのテーマは(僕が見つけてきた才能あるデザイナーの)早川君と僕とジュリーでいろいろ考えた。

“カサブランカ・ダンディ”でウイスキーをプーッと吐くのはジュリーのアイデア。

ただ衣装だけでなく、ストーリー性みたいなものを持たせるために」


「プロデューサーとして、凄く楽しかった。

楽しさもあるけれど、次に何をやるかという苦しさも凄くありましたね。

ヒットは義務付けられていたし」

この曲は良く出来たなという印象的な曲はありますか?

「“TOKIO”の時はみんなに反対されたんです。

『既に、アルバムに収録されていてファンは買っている』と。

アルバムはそんなに売れていなかったし、大ヒットするには何十万枚と売れなければならないんだからそんな数は問題にならない。

本当にあれが一番強引でした。

糸井さんの詩が面白かった。他に候補の曲があったが、その曲では派手な演出が出来ない。

サウンドも含めてみんなをビックリさせたかった」

「化粧も反対されました。

『ジュリーは綺麗なんだから、化粧なんかさせるなしなくても綺麗だから』と。

『そういう事じゃない。男がこれからメイクをする時代になってくる。ジュリーがまず先にそれをやらなくちゃいけない。

綺麗に見せるためではなく、男が化粧をするというインパクトを世間に与えるために」

「先に行き過ぎても行けない、半歩先を行くのが難しい。

アイデアは、みんなと話しているうちに沸いてきました」

「あの頃のジュリーは、今も時どき昔の映像が出てくるけど、カッコいいですよね」

女性ファンは勿論ですが、男がジュリーに惚れましたもんね

「やっぱりジュリーもね、こういう風に今度はやろうっていうと無理な事もやってくれて。電飾を付けて落下傘背負ったり。

あれはね、前から大きい扇風機で落下傘に風を当ててるから、凄い辛いんです、それを耐えて歌うって。踏ん張って歌わなきゃいけない。

それでもね、ジュリーはね、決まると絶対やってくれるんです。

嫌だとか、これはやりたくないって、一回も言わない。

それでやるとカッコいいから『すげーな』って、僕たちが今度その凄さに…」

プロのシンガーとプロのプロデューサーがガッチリ四つになって組んだプロジェクトですよね

「そうですね」


書き起こしながら、何だか感動してしまいました
勿論ご本人にそれだけ魅力があるから当然と言えば当然とは言うものの、ジュリーって本当に色んな方に愛されて幸せな方ですよね