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音楽人生万歳 ただ今、ブログ奮闘中 !

身の回りの生活環境の中で触れ合った出来事を中心に記録していきます。

国の重要文化財(西院大垣)を傷つける愚か者 ???

2013年11月28日 10時13分40秒 | 歴史

 

世界遺産である法隆寺(奈良県斑鳩町)の

 

 

国の重要文化財の塀「西院大垣(さいいんおおがき)」に

「殺すぞ ボケ」などと刻んだ落書きが見つかった。

 

 

法隆寺の築地塀に刻まれた落書きは

字の深さは最大6ミリということ。

地上から1・1メートル付近に、

「殺すぞボケ」(縦20センチ横85センチ)

「ヒマやね」(縦25センチ横110センチ)

と彫られていた。

字の深さは最大6ミリ。

  

専門家は修復は困難と言われていた。

 

参拝者の少ない公道沿いの壁で、

最近とがったもので

ひっかかれた可能性が高い。

 

国の重要文化財で

国民の財産とも言える

歴史ある建物等を

故意に傷つける

この愚か者は

言葉では表現出来ないほど

人間としての倫理観や理性が

欠落している。

名乗り出て

自分の罪の大きさを

社会に詫びることである。

そうでなければ

この愚か者は

同じ過ちを再び

行う事が考えられます。

 

国の重要文化財は無論のこと

国の重要文化財でなくても

歴史ある建物等は

我々の先祖の

歴史であり

足跡なので

これからも大切に

守っていく使命が

今生きる人々に

あると思います。

 

西院大垣(国の重要文化財は

南大門(国宝)の

左右から東大門(国宝)と西大門へ

延びる築地壁です。

南面(南大門の東西の大垣)は、

南大門東方長さ208.7m、

西方長さ103.8m、

築地塀の本瓦葺です。

東面(東大門から南面までの大垣)は、

東大門南方長さ86.4m、

北方折曲り延長63.5m、

築地塀の本瓦葺です。

西面(西大門から南面までの大垣)は、

西大門南方折曲り延長69.8m、

北方長さ6.2m、

築地塀の本瓦葺です。

南面と東面および西面の西大門両脇の大垣は

江戸時代中期の1697年(元禄10年)に築かれ、

西面南方部の大垣は

室町時代に

築かれたものだということです。

 

私はまだ法隆寺に

行ったことがないので

是非とも訪れて

歴史の息づかいを

感じてみたいと

思っています。

 

 

 

 

 


横溝正史さんの歴史の一端を知るために真備ふるさと歴史館へ ・・・

2013年11月20日 07時56分04秒 | 歴史

 

真備町にある

「真備ふるさと歴史館」を

訪れました。

 

 

この真備ふるさと歴史館は、

江戸時代の真備町、

岡田藩支配時代の古文書を保存した

文書(もんじょ)館です。

また、

真備ゆかりの推理作家、

横溝正史氏の遺品を

ご家族から寄贈頂いた

「横溝正史コーナー」を

設けられていました。

   

↑ 上記写真は

横溝正史さんが

創作していた時の部屋

( 机とかここにあるものは

実際に

使われていたものとのこと )

推理小説が好きな

私なのですが

もう一度

横溝正史さんの

小説を読んでみようと

思いました。

 

横溝正史さんは

この地のことを

詳細にわたって

把握されて

小説の

色々な場面に

表現されていることが

分かったからです。

 

また、

横溝正史さんの

小説の中に書かれている

真備の色々な場所が

分かり易くなるように

作成された資料も

頂きました。

 

館内では

とても親切かつ丁寧に

ご説明頂きました方の

お名前を

聞いていなかったので

わかりません。

 

岡田藩は

石高1万343石を所領、

うち備中国下道郡16村の他

美濃・河内・摂津に飛地を持ち、

ここ岡田(倉敷市真備町岡田)に

陣屋を置いたとのこと。

藩主は

伊東氏で

日向国飫肥藩伊東氏と同族。

藩祖・長実は

豊臣秀吉・秀頼に仕えて

大坂の陣まで豊臣氏の家臣であったが、

関ヶ原の戦いの際に

石田三成挙兵の報を

いち早く

徳川家康に伝えたとされ、

その功により

大坂の陣で

家康に

敵対するも許されたとのこと。
 

そして、

初代伊東長実より

藩主は十代目で明治維新を迎える。

廃藩置県後、

岡田県となり、

深津県・小田県を経て

岡山県に編入された。 

 

そして、

この地に

古川古松軒

      

という素晴らしい人物が

いたということも

教えて頂きました。

 

古川古松軒は

少年期から地理学に親しみ、

各地を旅行し、

生涯を通じて

全国を歩いたとのこと。

1783年(天明3)

山陽道から九州を一巡し、

瀬戸内を航行した

旅行記『西遊雑記』と、

1788年

奥州から蝦夷(えぞ)地に渡った

旅行記『東遊雑記』は

当代紀行文学として名高いと

評価されている。

1793年(寛政5)

老中松平定信に招かれて出府、

下問にこたえ、

著書や地図を献じた。

翌1794年武蔵(むさし)国の

地理調査を命ぜられ、

半年余の調査結果を

『四神地名録』

『武蔵国御府外之地図』に

まとめて奉呈したとのこと。

こんな方が昔

真備にいたんですね。

 

今日

感じたことは

歴史って

深すぎて

興味はつきないものですが

理解していない事ばかりです。

知らないことが

あまりにも

多すぎます。

自分自身の

無知無能を

今更ながら

教えられました。

 

さて、

平成25年11月23日から

下記のイベントがスタートする

らしいです。

興味のある方は

行って見て下さい。

 

 

今年“100歳”の

金田一を記念した企画。

羽織はかま、お釜帽という

映画などでおなじみの

スタイル5組用意しており

貸し出しくれるらしいです。

(1回千円らしいです)。

金田一になりきって

闊歩(かっぽ)してみては」と

呼び掛けている。

問い合わせは

同館(086―698―8433)。 

 


吉備津彦神社と吉備津神社に行きました

2013年11月03日 19時54分23秒 | 歴史

 

吉備国はもともと総鎮守であったが、

吉備国の三国への分割により

備前国の一宮は

吉備津彦神社となった。

 

そこで、前週末

古き歴史に触れ合う為に

吉備津彦神社と吉備津神社に行きました。

 

まず、吉備津彦神社に行きました。

 

ここではボランテアの方が

本当に親切に

色々教えてくれました。

 

そのしゃべりはベテランらしく

あまりに早すぎてというより

知らないことが多すぎて

頭の中に入らずじまいで

ブログでどう書こうかと

悩みながら聞いていました。

 

そして、夏至の6月21日の朝4時頃に

また来て下さいと言われました。

 

当神社は

夏至の日に太陽を

真正面から迎えるよう鎮座していることや、

磐座や大杉、

鶴島亀島の配祀方位からみても

吉備津彦神社が

人間本来の

自然崇拝を元となしているとのこと。

大自然の恵みに感謝し

風水害などの自然の災害を

畏敬して鎮め、

日本民族の根幹精神たる自然との調和と

自然界に育み育まれる地球本来の

神様の御心にかなう祈りの

神域としてここにあると

いうことでした。

 

朝日を見るのは嫌いではないのですが

そうか朝4時かと思いながら

来年覚えていたら来ようと

心の中でつぶやく

自分がいました。

 

古代より背後の吉備の中山に

巨大な天津磐座(神を祭る石)

磐境(神域を示す列石)を有し、

山全体が神の山として

崇敬されてきたらしいです。

第10代崇神天皇の御世に

四道将軍 として遣わされた

大吉備津彦命もこの山に祈り

吉備の国 を平定し、

現人神として崇められたとのこと。

諸民と国を深く愛し、

永住された吉備中山の麓の屋敷跡に

社殿が建てられたのが

当神社のはじまりということらしいです。

 

ではいつものように

写真をアップします。

   

  

    

   

    

  

   

  

  

 

そして、正面の入り口より

右側に

  

国歌の君が代の歌詞についての

説明文がありました。

さざれ石 ・・・ とは

細かい石のことですが

それが時を経て、

やがて巌ともなる様に

国が栄えていくようにと

念じられているとのこと。

個々の細かい石が集結して

一致団結して

次第に大きくなると

いう意味らしいです。

 

恥ずかしながら

今まで君が代を何度か

歌っていましたが

意味も分からず

歌っていたことを

恥ずかしく思いました。

やはり君が代って

国歌にふさわしい歌なんだと

あらために認識しました。

この年になって

この年になって

情けない。

 

そして、さらに右方向に行くと

桃太郎の像がありました。

桃太郎伝説

大和朝廷から派遣された大吉備津彦命が

吉備の地を平定するに際して、

渡来人として吉備の国に

製鉄文化をもたらした

温羅(うら) との戦いが、

童話「桃太郎さん 」の物語として

今に伝承されています。

 

吉備津彦神社は古来、

夏至の日には社殿真正面から

太陽が昇ることから

「朝日の宮」とも

いわれてきました。

 

 

冒頭に書いてある通り

吉備国の三国への分割により

備中国の一宮は

吉備津神社となった。

 

吉備津神社は

大吉備津彦大神を主祭神とする

山陽道屈指の大社です。

 大吉備津彦大神は、

記紀によれば、

崇神朝四道将軍の随一として、

この地方の賊徒を平定して

平和と秩序を築き、

今日の吉備文化の基礎を

造られたとされています。

古来より、

吉備国開拓の大祖神として尊崇され、

吾国唯一の様式にして

日本建築の傑作「吉備津造り(比翼入母屋造)」の

勇壮な社殿、

釜の鳴る音で

吉凶を占う鳴釜の神事、

また

桃太郎伝説のモデルなどで

知られています。

 

では同様に写真をアツプします。

  

    

    

    

    

  

  

本殿は棟札によって1425年(応永32)の

再建ということが判明しており、

正面7間、側面8間の神社建築としては

最大規模のものである。

その建築は吉備津造とよばれ、

比翼入母屋(ひよくいりもや)造の

特異な構造をもち、

拝殿とともに国宝に指定されている。

また、

本殿から本宮に至る

400メートル余の回廊は

、傾斜する自然の地形にあわせて構築されており、

その間にある御釜殿(おかまでん)で行われる

釜鳴(かまなり)神事は有名。

 

いつも思うのですが

歴史に触れるというのは

人間の足跡を知るということなので

現在を知ることとは

全く異なる

感動と人間の偉大さを

覚えます。

 

生あるときに

現実を知るというのは

たかが数十年です。

 

その意味では

こういった神社等に行くと

私は

人生を見つめることにも

なっています。

 

 

 


自然豊かな足守にあり7月には「お滝祭り」が行わる龍泉寺に行きました。

2013年10月22日 08時39分54秒 | 歴史


今回は足守にある
龍泉寺に行ってみました。

  

創建は奈良時代は天平勝宝年間、
この地で山岳修行をしていた
報恩大師によるものと
されています。

雨乞いの神である竜神様、
八大龍王と、豊作の神であるお稲荷様、
最上稲荷が渾然一体となった
民間信仰の霊場でした。


宗派は、
かつて天台宗であった時期があり、
日蓮宗に改宗したのは
江戸期の備中高松領主の
花房氏の影響によるものと
言われています。

いまなお
日蓮宗と稲荷信仰が
一体となった神仏混在の
祈祷の寺です。

毎年七月第四(日)に行われる
「お瀧まつり」は、
多くの参拝客で賑わっています。

そして、
自然豊かな当寺院と
その周辺は県立自然公園に
指定されており、
山桜や紅葉など、
四季を通じて
美しい草木が見られます。

龍王池周辺の湿地には
現在では見かけることが少なくなった
野草が自生しています。
また、
敷地内には多くのもみじが
植樹されており、
秋には大変美しい
姿を見せます。

  

    

 

    

  

    

   

  

    

    

  

 

七月には「お滝祭り」が行われ、

全国から信者さんが大勢訪れ

滝にうたれるそうです。

  

 

今日は幸いにも

境内には参拝客の姿は

ほとんどありませんでした。

従って、ゆっくりと

散策しながら

歴史の一端に触れながら

静かな豊かな時間を

もつことが出来ました。


緑が豊かで

とにかく広い境内です。

本殿の迫力には

圧倒されます。

 

また、

紅葉の時期も

別な味わいが

あるのではないかと

思います。

 

 

 

 

 


和気町にある八幡和気神社に行きました ・・・

2013年10月21日 08時37分59秒 | 歴史
 
今回も英国庭園に行ったのですが
英国庭園のすぐそばにある
 
八幡和気神社に
行きました。
 
社はかなり古く
傷みも目立っていました。
 
 
 
 
和気清麻呂公
 
 
延暦3年に
和気公が宇佐八幡宮の分霊を勧請し、
以後、
子孫が代々宮司を務め、
現在に至ると伝える。
天文17年に
小野田茂行が再興し、
天正年間には
浦上正宗が社領として
田地五町八反を寄進した。
本殿の横にある末社護王神社は
明治6年に
当社の神官行本吉盛が
和気公を尊崇して、
奉祀したものである。
行本吉盛は
同社境内に末社として
護王神社(和気宮)を勧請した。
清麻呂公から
61代目の後裔であると
勧請申請書に述べ、
認可された。
 
また、
神社近くの殿谷には
和気氏の末裔が住むと伝え、
和気公に与えられた土地(和気地、和気田)は
松木村が中心地であったともいう。
 
    
     
     
  
 
  
    
 
 
 
 
 
 
赤磐市松木(旧赤磐郡熊山町松木)字姫顔には
清麻呂・広虫墓
 
  
 
 
 
小さな古墳の上に
砂岩の宝篋(ほうきょう)印塔二基があり、
大小それぞれ
和気公と広虫姫の墓と伝えられている。

昔から清麻呂様、
清麻呂塚として
地元で信仰を受けていた。

公の出身は当地という説もあり、
この墓は崇敬の表れであります。
 
 
 
 

井山宝福寺の後、備中国分寺も散策致しました ・・・

2013年10月14日 20時40分12秒 | 歴史

 

先ほどアップしました

井山宝福寺に行った後

(2013年10月14日)

時間があったので

同じ総社市にある

備中国分寺(びっちゅうこくぶんじ)に行きました。

 

真言宗御室派の寺院です。

山号は日照山

本尊は薬師如来。

奈良時代に聖武天皇の詔により

日本各地に建立された国分寺のうち、

備中国国分寺の後継寺院にあたる。

 

田園風景の中に建つ五重塔は、

観光地吉備路のシンボル的な

存在となっています。

市南部のアカマツにつつまれた

丘陵地のほぼ中心部に位置し、

聖武天皇の発願によって

創建された国分寺の一つです。

建物は南北朝時代に焼失したと伝えられ、

現在の建物は

江戸時代中期以降に再建されました。

境内にそびえる五重塔は、

県内唯一のもので

吉備路の代表的な景観と

なっています。

 

備中国分寺跡は、

聖武天皇が天平13年(741)に

仏教の力を借りて

天災や飢饉(ききん)から

人々そして国を守ること (鎮護国家)を

目的に建てられた官寺の一つです。

その当時の境内は、

東西160m、南北1788mと推定されますが、

江戸時代に再興された

現在の備中国分寺があるため、

 南門・中門以外の

建物の位置は

明らかではありません。

しかし、

創建当時の礎石が多く残されており、

当時を偲ぶことができる

国指定史跡であります。

  

備中国分寺五重塔は、

弘化元年(1844)ごろに完成し、

34.322mの高さがあります。

この塔は、

屋根の上層と下層が

ほぼ同じ大きさの細長い造りで

相輪も短く、

江戸時代後期の様式を

濃く残す代表的な塔です。

また

県内唯一の五重塔でもあります。

塔内は初層内部中央に心柱が立ち、

四周に四天柱を据え、

その内側に仏壇を作り、

四如来像を安置しています。

天井は格子状で天井板には

55cm角大の欅の一枚板を使い、

彩色画が描かれ、

堂内をいっそう荘厳にしています。

絵は全部で104枚あり、

四天柱の脇にある

4枚の天女図のほかは

季節の花々を描いた草花文で

国指定重要文化財となっています。

 

いつものように

境内を散策しながら

写真を撮りましたので

アップ致します。(順不同)


    

    

  

    

    

    

 

この五重塔を見ると

驚くような

技術の集積がありますよね。

昔の方々も凄かったのだと

つくづく思います。

 

歴史に触れるというのは

人を知ることでもありますね。

私たちは現在しか

見ていませんが

過去を見ることは

現在以上に

学ぶことが

あると感じました。

 

 

 


吉備真備公を訪ねて、まきび公園を散策致しました ・・・

2013年10月09日 11時59分05秒 | 歴史

 

吉備真備公や金田一耕助ゆかりの

真備に古代吉備王国の

ロマンを少しだけ訪ねて散策しました。

 

 

吉備真備(キビノマビ 695~775)は奈良時代の

大学者、政治家として知られています。

遣唐留学生、

遣唐副使として二度にわたり入唐し、

その知識を政治文化に反映させた。

「日本の留学生で唐で名をなした者は

吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」と

まで称された。

帰国後朝廷で異例の出世を果たし(右大臣)、

国政の多方面にその才能を生かした。
温厚、実直、誠実、清廉、潔白、

忍耐強く機略に富んで、

人の信頼厚く、才能、人徳、

天運を兼ね備えた

スーパーマンのような

人だったらしいです。


今は真備町箭田の吉備様に祀られ、

地元の信仰厚く、

特に進学、出世に

ご利益があるといわれています。

真備町の町名は

真備公にちなんでつけられています。

 

従って、まきび公園に行き

散策しながら写真を撮りました。

 

まきび公園には

◆菩提寺吉備寺

◆吉備公墳

◆吉備真備公記念碑

◆まきび記念館

◆たけのこ茶屋・竹工房

◆その他

 

まきび記念館には素晴らしい

歴史資料が展示されていました。

写真など一切撮れないので

見たい方は是非現地でご覧下さい。

 

まきび公園全体は素晴らしい空間で

心安らぎが感じられます。

  

吉備真備公園について

 


 旧山陽道の北側の平地三万平方メートルは、

古代の布目瓦を出土すること等により

古来から「壇の内」と呼ばれ、

正二位右大臣吉備真備公の

居館跡と伝承され、

遺跡に指定されています。

 遣唐留学生の吉備公が

天平七年(七三五)当時世界最高といわれた

貴重な文物をもって帰国して以来一、

二五〇年になるのを記念して、

県民有志により中国西安市へ

日中友交のしるしの記念碑を建立しました。

これを承けて

吉備公の地元矢掛町では

この館址に記念公園を建設いたしました。

 公園は八〇メートルの石敷参道の正面に、

上下二段になった基壇を造り、

古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、

上壇中央に総高六・四五メートルの

吉備公の銅像を安置し、

周囲に絵巻石屏風、

大碁盤、日時計を配置し、

広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。

また背後の林地を古代の丘として

前方後円墳を形どった広場に

環状列石風にオブジェを建て、

四方を守る方位石、

代風俗を示す風物石、

吉備公の功績を示す歴史石を配置、

周囲は森林浴を満喫できる憩いの場とし、

県下唯一の

古代オブジェ公園を造成いたしました。

 どうぞ林間を散策しながら

古代の文化に親しんでください。 

 

では、撮りました写真を

順不同に添付致します。

 

   

    

    

  

    

  

    

    

  

 

吉備真備公の菩提寺。

箭田大塚の出土品や、

国の重要文化財指定の

白鳳時代の蓮華文鬼瓦と

当時の礎石などを保存しています。

南の丘には吉備様と呼ばれる

吉備真備公の墳墓があり、

入学・就職の祈願で

多くの参拝者が訪れています。

 

竹細工をしている方に

聞いたのですが

11月に入ると

紅葉が綺麗だそうです。

 

皆さんも

是非一度

散策してみて下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 


凄いな !! マヤ文明の最古建造物発見 ・・・

2013年04月26日 07時36分16秒 | 歴史
マヤ文明で最古の建造物である
グアテマラ遺跡で発見したということ。



この施設はマヤ文明より2百年さかのぼるらしい。

凄い発見ですね。

しかし、私にはそれ以上に年代をどうやって
計算しているのか全く解りません。

その当時の資料などない中、歴史を探るというのは
本当にミステリーです。

遺跡を調査されている方々は
途方もない細かい作業を重ねてのことだと思いますが
その努力の積み重ねには心から尊敬を感じます。

メキシコ南東部から中米で
16世紀まで繁栄したマヤ文明は、
従来の学説より約200年早く、
紀元前1000年ごろには発展し始めていた
可能性が高いことが分かっているらしいです。

国際調査団がグアテマラのセイバル遺跡を発掘し、
当時の中央広場や祭祀(さいし)施設の跡を発見した。
団長の猪俣健・米アリゾナ大教授や青山和夫茨城大教授らが
26日付の米科学誌サイエンスに発表した。

遺跡はジャングルを流れる川に近い丘の上にあり、
発掘調査が2005年、約40年ぶりに再開された。
自然の地盤に突き当たるまで深く掘削したところ、
最も古い紀元前1000年ごろの地層から、
当時の人々が集められた中央広場や、
大小三つの「基壇(きだん)」と呼ばれる
土造りの舞台のような祭祀施設の跡が見つかったとのこと。 


地球の歴史を探るには
人類の歴史を探っていくことになると思いますが、

人類の歩みの時間というのは
本当に長いもので
その時間の中で人類が本当に
進化してきたことを理解することになります。

そして、人類が進化していくと共に
科学や医療や文化も進歩しています。

しかし、その中で多くの物も失っています。

それにも光をあてて考えていくことも
必要ではないでしょうか。

日本もこの数十年の時間の中で大切なものを
沢山失っていると思います。

昭和の人間としてはつくづく感じることが
多々あります。

本当に良き時代になってほしいと
心から願うものです。




さて、愛犬ダンディ君は
セントバーナードの子犬(約8ヶ月)ですが、



君たちはあまり進化しないでほしいと思います。

なんとも言えない顔、可愛い目、
人なっこい性格



どれをとっても愛しいです ????



しかし、君の素晴らしい相手を
探さないといけないのか。


ダンディ、君はどう思っているのか ???



何、そんなことより だって