宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

宝満修験の解体

2008-05-16 | Weblog
 明治新政府は維新後直ちに神仏判然令(神仏分離令)を明治元年までに太政官布告により発布し、その影響は直ちに全国の宗教界に波及しました。
 宝満山では二十五坊あった修験者組織の構成員の大半は、明治3年の段階では竈門神社に奉仕する神職となったようです。
 追い討ちをかけるように明治5年9月にだされた修験道廃止令によって、多くの山伏たちが宝満山からの離山を余儀なくされ、近郷や博多周辺の都市域や周辺集落に居を移したようです。
 二十五坊の内の有力な坊は筑紫野市側の東院谷に寄っていたこともあり、その山裾の集落で、現在の筑紫野市大石では明治初年頃には富倉坊(富永)、新坊(井上)、歓明坊(柴田)、尾崎坊(長谷尾)、道場坊(原田)、仲谷坊(仲谷)、修蔵坊(佐々木)、岩本坊(緒方)、東院坊(高木)、南之坊(橋)などが居住していたとされています。
 しかし、富倉坊の末裔を残して他はその後早くに退転して、宝満修験の伝承や遺産も散逸してしまったようです。


参考文献;『筑紫野市史民俗編』1999筑紫野市

※ 今日5月16日の読売新聞夕刊5面に宝満34次調査の関連記事が掲載されています。(「遺跡そこでその時 その5 933年筑前宝塔院建立」 池田和正記者)

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