肥前の国峰 2015-01-17 | Weblog 江戸時代になり領国支配が徹底しだすと山の信仰にも新たな領域観が生まれます。 中世には行き来が自由であった山稜も国境という見えぬ限りがルートを塞ぎ、 修験道による峰入りのルートも領国に合わせたものに再編され「国峰」と呼ばれます。 脊振山を含む肥前の国峰は、牛尾山を起点に天山、彦岳、脊振山から彼杵半島の 経ヶ岳、多良岳に至るルートが成立しました。 « 肥前の霊場 牛尾山2 | トップ | 宝満山中宮跡での植樹会 »
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