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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 179(中国)

2019-03-07 19:37:46 | 短歌の鑑賞
   馬場あき子の旅の歌23(2009年11月実施)【紺】『葡萄唐草』(1985年刊)
     参加者:K・I、N・I、T・K、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


179 上海の青葉どきなる夕暮を静けき紺ぞ人民服は

     (レポート)
 今、上海は初夏の青葉時である。風も爽やかだしとてもよい季節だ。そして多くの人々が散歩や買い物に出ている。しかしその人出の割には、街に喧噪がない、静かである。83年は開放路線もまだ途についたばかりで、一般化されていない。それで本来なら、もっと喧噪状態であるはずの中国、上海の街角を、人民の自由な自己主張が制限されている共産社会の恐ろしさを、人民服の紺に準えて、静かだとの感慨をお持ちになった。戦前、上海は諸外国に牛耳られ租界なる地域を余儀なくされていた。そのような中から復活した新中国なら、もっと自己主張をして賑やかであってもよいのではないか、との先生のお気持ちが込められているのではないだろうか。(もっとも、2009年現在の上海は、少々行き過ぎの感があるが。)(T・H)


      (当日意見)
★写生の歌。レポーターがいうような思い入れはない。(藤本)
★私には思想の歌とは読めません。夕暮れ時に静かに紺の人民服で散策する人達、青葉どきの青
 と静かな色のハーモニーがあるようだ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 178(中国)

2019-03-06 19:44:39 | 短歌の鑑賞
  馬場あき子の旅の歌23(2009年11月実施)【紺】『葡萄唐草』(1985年刊)
  参加者:K・I、N・I、T・K、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:T・H       司会とまとめ:鹿取 未放

 
178 肥りたる青年に遇はざりしこと人民服とよぶ紺の春

      (レポート)
 馬場先生ご一行は、今上海や杭州方面を旅しておられる。中国では共産革命以来、「贅沢は敵」とばかりに、1980年代までは男性は人民服という木綿の青い上下の詰め襟を、上は国家主席から、下は農村の人民にいたるまで着ていた。しかし開放路線が進んだ現在ではもうほとんど見かけなくなったが。時は春であるのに、若き青年達は春らしい色彩の服装も叶わず、青い人民服を着ている。馬場先生はこの画一化された状況をご覧になって、そこに共産主義の貧しさ、恐ろしさを悲しく見つめておられる。また戦前であったなら、中国ではでっぷりと太っていることがステイタスであったのに、そのような青年に会わないことも、その変貌ぶりを悲しく見ておられる。(T・H)


      (当日意見)
★革命以前はステイタス・シンボルとして男性も女性も肥っていた。だから、偉い、よくがんば
  っていますねという感銘。(T・H)
★痩せていることに対してその努力を偉いという訳?
★全体主義の恐ろしさ。(曽我)
★日本では脂ぎった青年が増えてきた頃なのに、中国は食が貧しくすがすがしく痩せている。
  (慧子)
★いろんな見方があるだろうけど、少なくとも痩せていることには作者はすがすがしさを感じてい
 るのではないか。(鹿取)


           (後日意見)(2019年3月) 
 T・Hの当日発言、痩せていることに対してその努力を偉いというのか?レポートと矛盾しているようにも思えるが。レポーターのように作者が「共産主義の貧しさ、恐ろしさを悲しく見つめておられる」とは思わない。また曽我発言のように「全体主義の恐ろしさ」を言っているとも思わない。もう少しさらっと、属目の実感ではなかろうか。(鹿取)


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追加版 渡辺松男の一首鑑賞 2の145

2019-03-05 18:47:01 | 短歌の鑑賞
  ブログ用渡辺松男研究2の19(2019年2月実施)
     Ⅲ〈錬金術師〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P96~
     参加者:泉真帆、M・I、岡東和子、A・K、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


145 暗黒界から引っぱられたる大根は身を響かせてあらわれにけり

      (レポート)
 役者が舞台の袖から出るとき舞台にくちづけをしたい心だと聞いたことがある。心の震えるほどの緊張と晴れの舞台への喜びなのだろう。さて一首のひっぱられたる大根は暗黒界からとあるので、とにかくその境遇から抜け出ることが出来る。その喜びたるや身を響かせるほど一入なのだ。前述の役者と状況は違っているが、心の内はどことなく似ているように思う。いずれにせよ「身を響かせてあらわれにけり」がなんとも素晴らしい。(慧子)


      (当日意見)
★暗黒界って普通は浮いてしまうような言葉だけど、身を響かせてとか少し古風な「あらわれにけ
 り」でうまく収まっている。好きなようにうたいなさいと誰かに言われたんでしょうかね。
   (真帆)
★素晴らしいと思います。暗黒界という言葉が普通は出てこない。自分の感覚を信じてうたってい
 る。説得力があって浮いた感じが全くしないですね。緩急がとっても上手いですね。ここでは大
 根ですけど、混沌としたものがこの世に顔を出す時のエネルギーを感じます。(A・K)
★暗黒界って悪い意味ばかりじゃないのですね。(真帆)
★赤ちゃんがオギャーって出てくる感じですね。(慧子)
★自分だったら大根を引き抜いたと作るけど、松男さんは大根になっているところがすごいですね。
 私が歌を始めた頃に、上の句下の句のつながりが分からないと批評されて、その後たまたま近く
 に座った松男さんにどう作ったらいいのですかと聞いたら「上の句に手がかりを入れておかない
 といけないんだよ」とおっしゃった。(真帆)
★「言いおおせて何かある」ってありますよね、芭蕉の言葉みたいですが。何がうたってあるかは
 分かってもそれだけでは駄目で、何か無いといけない。何かあると思わせることが詩だと結社 
 に入ったとき叩き込まれましたね。佐太郎なんかは、何も言ってないですよね。例えば晩年の病
 院に入っている時、リハビリを兼ねて海まで散歩してくるというだけの歌なんか。(A・K)
★ 「ただ水を見るのみの」ですね。(慧子)
★はい、ただそれだけのことしか言ってないのに何かあるんですよね。馬場先生の『あさげゆふげ』
 もそうですね。何も言ってないけど何かある。(A・K)
★そうですね、今、ネットで馬場先生へのインタビュー記事が配信されていて。そこで若い人と老
 年の歌を比較して述べられています。老年の歌は言葉も少なくてあっさりしているけど、助詞と
 助動詞で人間の心を伝えているって。若い人の歌は言葉をいっぱい詰め込んで面白いけど、それ
 は「時の花」で本当の花ではないから長持ちしないって。また、「言いおおせて何かある」って
 言葉も歌会でよく馬場先生がおっしゃっていました。「言いたいことを言っただけでは歌は駄目
 なんだよ」あるいは「言いたいことを全部言ってしまっては駄目なんだよ」というニュアンスだ
 ったと思います。(鹿取)
★むかし学士会館で馬場先生の講演を聴いたのですが、新しい言葉、新しいことばってみんなは探
 しているけど、そんなのは駄目。枕詞とかバーンと使ってご覧っておっしゃった。(A・K)
★では、松男さんのこの歌に戻りますが、暗黒界って抜け出したい嫌な世界だとは私はとりません。
 だから身を震わせるのが嫌な場所から出られる喜びだとも思いません。そういう意味づけの無い
 もっと即物的な歌だろうと。暗黒界はむしろ豊穣な世界のようにも思いますが。たとえば、こん
 な歌と比べても、そう思います。この歌の少し先(124P)に出てくる歌です。(鹿取)
   人参の地中に奪う朱のいろにおもいおよびてぞくぞくとせり    

      (後日意見)
 A・K、慧子発言の佐藤佐太郎の歌は、次のものだろう。(鹿取)
ただ広き水見しのみに河口まで来て帰路となるわれの歩みは
『天眼』(昭和54年刊)
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渡辺松男の一首鑑賞 2の144

2019-03-04 20:03:53 | 短歌の鑑賞
  ブログ用渡辺松男研究2の19(2019年2月実施)
     Ⅲ〈錬金術師〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P96~
     参加者:泉真帆、M・I、岡東和子、A・K、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


144 赤翡翠(あかしょうびん)きょろろと宙へ消え去りて哭きたきはわれ垢穢を濃くせり

        (レポート)
 一首中のまずは「きょろろ」に目がとまった。鳥たちの動き、目のまるさ、鳴き声など簡潔な生のすべてが「きょろろ」に込められていよう。そして飛びながら「宙へ消え去りて」のような状態を目にすると作者のみならず哭きたくなるような感情におそわれることを読者も経験していよう。しかしそこから作者の思いはどう広がったのか。
 鳥たちは常に身を軽く生きていて垢穢(あかとよごれ)のようなものさえ身につけない。振り返って私たちは身体に精神に「垢穢を濃くせり」なのだ。赤翡翠が目にとまって宙に消え去ってゆくまで作者のこころに去来したものは、それぞれの命や生であり、そこに人間の負う傲慢、垢穢というようなものを鳥に比べて思ったのだろう。
     (慧子)


      (当日意見)
★私はこれを「垢穢(くえ)」って読んだんですけど。(A・K)
★そうですね。レポーターは「宙」を「そら」、「垢穢」を「こうあい」と読まれましたが、普通
 に読めばそれぞれ「ちゅう」「くえ」ですね。特別の読みを指定したい場合は風邪(ふうじゃ)
 のようにルビが振られていますから。(鹿取)
★でも、「垢穢(こうあい)」とも読みますね。(慧子)
★読むかもしれないけど、それだと結句が9音になって間延びします。ここは簡潔な漢音「くえ」
 じゃなくては駄目で、垢穢(くえ)の語が響きも美しいし、歌を引き締めています。(鹿取)
★漢語の垢穢(くえ)をもってこられたところがすばらしいです。(電子辞書で声を聞かせて)は
 い、赤翡翠はこんな鳴き声です。「カワセミの一種。大きさはツグミぐらい。背は朱色、腰は瑠
 璃色、背面は黄褐色、嘴は長くて赤色。渓流の近くの広葉樹林にすみ、蛙・昆虫・小魚などを好
 んで食う…」と広辞苑に出ています。(A・K)
★すごく正統派の歌ですね。声調も美しいし、景を出してから自分の心を述べて、アララギに出し
 ても高評価されそう。(鹿取)
★はい、上の句で景を、下の句で心象を述べていますね。赤翡翠という鳥を持ってきた所もいいで
 すね。(A・K)
★松男さん、野鳥に関係するような仕事もされていたようですね。日本野鳥の会にも入っていらし
 たようで。プライベートでも双眼鏡を持ってよく山歩きをされている。(鹿取)
★慟哭の「哭」で「哭きたきはわれ」というのも上手いと思いました。(慧子)
★ちょっと話がそれますが、以前私が「かりん」に「アンチ朔太郎」という渡辺松男論を書いたら、
 松男さんからアンチというほど朔太郎が嫌いではありませんというメールが来ました。それでい 
 ろいろやりとりしたんですが、朔太郎の中では「大渡橋」(郷土望景詩の中にある)などの調べ 
 の張った韻文詩が好きみたいでした。現在、朔太郎の詩にうたわれた風景がどんなふうに変貌し 
 たかの話もそのときに松男さんから聞きました。私も朔太郎の前衛的なひらがな感覚の歌よりも 
 ちょっと古風で悲壮な韻文調の歌が高校時代は好きでしたね。「大渡橋」の他にも「小出新道」 
 とか。この歌の「垢穢を濃くせり」の声調からそんなことを思い出しました。それから「哭きた
 きはわれ垢穢を濃くせり」をレポーターは人間一般のこと、私たちと複数でとらえていますが、
 ここで「哭きたき」と思っているのはあくまでも作中主体の〈われ〉だと思います。赤翡翠がき
 ょろろと啼いて宙へ消え去ったのを見て、反射的に「哭きたきはわれ垢穢を濃くせり」という気
 分になったのですから。その一瞬をとらえたところが大切だと思います。また、慟哭の「哭」で
 泣くという歌は宇宙の果てで星が哭くとか松男さんに何首かありましたね。(鹿取)


      (後日意見)
 鹿取の当日発言中の萩原朔太郎の「大渡橋」の出だし3行を挙げる。
ここに長き橋の架したるは
かのさびしき惣社の村より 直(ちよく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
 また、宇宙の果てで星が哭く歌は、例えば次の歌。(鹿取)
斧振りし父はるかなりクエーサー激しく宙のさいはてに哭く『歩く仏像』



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渡辺松男の一首鑑賞 2の143

2019-03-03 21:03:29 | 短歌の鑑賞
  ブログ用渡辺松男研究2の19(2019年2月実施)
     Ⅲ〈錬金術師〉『泡宇宙の蛙』(1999年)P96~
     参加者:泉真帆、M・I、岡東和子、A・K、T・S、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子   司会と記録:鹿取未放


143 うんうんと焼葱を首に巻き付けて風邪(ふうじゃ)の父は座しておるなり

       (レポート)
 「焼葱を首に巻き付けて」とは民間療法で咽頭の炎症に効くのだろう。それにしてもこの語順が巧みだ。焼葱を首に巻き付けてうんうんうなるなどとはしない。さらに風邪(ふうじゃ)とルビのあることも、なんとなく父を邪気あるもののごとく思わしめる効果があり、ユーモラス。(慧子)

  
      (当日意見)
★葱の香が鼻から入ってそれもいいようですよ。晒しに巻いて使うんですね。昔は火鉢で気軽に葱
 が焼けたんですね。(T・S)
★具体的で、この歌いいですね。時代というものが見えてきて。「おりたり」じゃだめで「おるな
 り」がいいですね。ふうじゃというふりがなもいい。(A・K)
★「ふうじゃ」が堂々とした感じでいいですね。「父を邪気あるもののごとく」とレポーターは書
 いているけど、私はそうは思わない。このお父さんの設定は大正生まれか、昭和の初めかもしれ
 ないけど、そういう風格というか、父親としての大きさを「ふうじゃ」から感じます。(鹿取)


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