かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 197(中国)

2019-03-22 18:38:51 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌26(2010年3月実施)
    【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)164頁~
     参加者:N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


197 風早(かざはや)の三保の松原に飛天ゐて烏魯木斉(うるむち)に帰る羽衣請へり
  
          (レポート)
 今、馬場先生は「飛天」から、三保の松原の「羽衣」を思い出しておられる。謡曲「羽衣」はよく知られた内容で、天女が隠された羽衣を返してくれるよう、漁師に頼む。その際、漁師は舞を所望する。天女は羽衣を纏い、舞を舞いながら天に帰って行く。馬場先生は今、その天女を烏魯木斉に帰るためにその羽衣を要求したのだと規定される。なぜ烏魯木斉なのだろうか。敦煌から、まだ遙か西方である烏魯木斉へ、馬場先生ご一行は、これから向かわれるのであろう。その烏魯木斉は、日本の三保の松原から考えると、それはもう遙かに遠い天空のようなところと思われる。それで「烏魯木斉に帰る~」と言われたのであろう。(T・H)
烏魯木斉:新疆ウイグル自治区の区都。海抜900メートルにあり、町の名はウイ
        グル語で「優美な牧場」の意。市街ではポプラ並木が三、四列と連なり
、       その間を清水が流れるオアシス都市特有の光景を持つ。北京より約27
        00キロ。東京~北京間より300キロも遠い。


     (当日意見)
★烏魯木斉の字面のおもしろさを狙っている。(慧子)


      (まとめ)
 歌は「三保の松原に飛天がいて烏魯木斉に帰る羽衣を返して欲しいと言った」の意。「風早の」は風が激しく吹く意味だが古歌では「三保」に掛かる枕詞のようにも使われている。(万葉集に「風早の三穂の浦廻(うらみ)の白つつじ」(四三七)などとある)しかし「風早の」がこの歌では意味としてよく機能していて、三保の松原から烏魯木斉までの途方もない距離を帰っていく飛天にスピード感や爽やかさを与える役目をしている。
 羽衣伝説は日本各地にあるが、近江、丹後、三保の松原のものが特に有名である。謡曲「羽衣」は三保の松原が舞台で、羽衣を見つけた漁師が、天女の舞と交換にこれを返す美しいお話。飛天が帰って行く場が作者らがこれから尋ねようとしている烏魯木斉だという断定がほほえましい。
 歌集『飛天の道』のあとがきに、この歌に関連する部分があるので長いが引用させていただく。(鹿取)

  シルクロードという東西の文物の交流の道は、同時に仏教やイスラム教や、道教などの思想・宗教の伝来の道でもあり、その激しい葛藤の道であった。しかし、天翔る飛天の表情はどれも温雅で、閑雅な楽の音とともにある。それは魂を癒すべき無辺の愛を導き運ぶもののやさしく強い意志の力にかがやいていた。その飛天の道の終点が日本であることも感慨深い。日本の天女伝説はすでに『風土記』の中にあるが、能「羽衣」によって定着し、一般化した三保松原の天女も、このシルクロードから飛行してきた天女の一人だったと思うと特別ななつかしみが湧く。
     (馬場あき子、あとがきより)

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馬場あき子の外国詠 196(中国)

2019-03-21 18:39:22 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌26(2010年3月実施)
    【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)164頁~
     参加者:N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


196 靡くもの女は愛すうたかたの思ひのはてにひれ振りしより

       (レポート)
 このお歌も、莫高窟内に描かれた「飛天」たちの衣を詠われたものと思う。「飛天」は天空を飛んで、仏陀を礼賛・讃美する天人。しばしば散華や奏楽器の姿で表現される。天空を降りてくるのであるから、衣も乗っている雲もたなびいている。「たなびくもの」を女は愛す。そうかな?確かに柔らかな衣・スカーフなどをたなびかせて女は歩く。「うたかたの思ひのはてに」はかない思いの果てに、「ひれ振りしより」布を振って以来。これは万葉集の「~いもがそでふる」を引用されているのかも知れない。(T・H)
(万葉集20「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」など)
   

          (当日意見)
★「袖を振る」と「領巾を振る」は、違う。また、「うたかたの思ひ」とはかつての自分のことだ
 ろうか。(藤本)
★佐用姫伝説の主人公が、せっかく恋仲になった大伴狭手彦と瞬く間に別れがやってきて、領巾(ひ
 れ)を振って泣くことになるんだけど、「うたかたの思ひ」ってそのことじゃ ないですか。
    (鹿取)


      (まとめ)
 195番歌(蜃気楼の国のやうなる西域の飛天図を見れば夜ふけしづまる)で衣がなびく飛天図に見入っていての連想であろうか。万葉集に載る「ひれ振る」歌を幾首かあげてみる。

 a 松浦県佐用姫(まつらけんさよひめ)の子が領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞き
   つつ居らむ(巻五・八六八) 山上憶良
 b 遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負ひし山の名  
     (巻五・八七一)   作者不詳、一説に山上憶良とも
 c 海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
      (巻五・八七四) 大伴旅人

 これらの歌はいずれも佐賀県唐津市に伝わる佐用姫伝説をもとにして後世の歌人達が詠ったもので、伝説はこうである。
 537年、百済救援の為、兵を率いて唐津にやってきた大伴狭手彦(さでひこ)は、軍船建立まで滞在した長者の家で、長者の娘佐用姫と恋仲になった。やがて狭手彦は出航し、姫は鏡山に登って領巾を振り続けた。その後、七日七晩泣き続けてとうとう石になってしまった。そこで領巾を振った鏡山を領巾振山(ひれふりやま)と呼ぶようになった。現代も唐津市に鏡山(領巾振山)は残っている。ところで憶良や旅人は7世紀後半から8世紀前半にかけて活躍した歌人だから、領巾振山の伝説からは既に150~200年の時が経過していたことになる。
 ともあれ、馬場のこの歌は万葉集のこれらの歌を背景におきながら、悲恋の姫に想いをよせ、そこから靡くものを愛するようになったと女のはかなげな習性を思っているようだ。(鹿取)

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馬場あき子の外国詠 195(中国)

2019-03-20 19:51:03 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌26(2010年3月実施)
    【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)164頁~
     参加者:N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


195 蜃気楼の国のやうなる西域の飛天図を見れば夜ふけしづ

       (レポート)
 馬場先生ご一行は、今、中国はシルクロードの旅をしておられる。そして今日は敦煌の莫高窟を見学して来られたのだと思う。「蜃気楼の国のやうなる」とは、歴史的にも遙か彼方、漢の武帝の時代より(B・C140年頃)注目されていた西域・シルクロードへ、今、足を踏み入れられた。それはまさに日本からも「蜃気楼の国のやう」に遙かに遠い「西域」であり、また今日見てこられた「飛天」の多くは、天上遥かから、音曲を持って、仏の来迎を讃美する姿である。それらを見てこられて、今、夜のしじまの中を寝付こうとしておられる。しかし目は冴え渡って、今日見てこられたさまざまな莫高窟内の図柄が目の前に浮かび、なかなか寝付かれない。(T・H)

     
      (まとめ)
 この歌は現地に行って飛天を見ての感慨か、蜃気楼の国のようだと考えていたその西域に正に自分が旅しようとして、あこがれの飛天図を写真か何かで眺めている図か、二通りに考えられる。四首めに富士が出てくる構成から考えると、行く前のあこがれの気分と読んで欲しいという作者のメッセージかもしれない。
 蜃気楼の国のようだというのは、距離の遠さもさることながら何千年という時代的な距離感なのだろう。ぼんやりと見えるがすぐに消えてしまう蜃気楼のように、ほんとうに存在するのかも危ぶまれるような、それゆえ強い憧れをかきたてるそんな西域なのだろう。夜は更けて静かだが、自分はあこがれの飛天図を飽きもせずに見入っているのだ。(鹿取)



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馬場あき子の外国詠 191(中国)

2019-03-19 20:00:13 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の旅の歌25(2010年1月実施)
  【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)127頁~
    参加者:K・I、N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放

 
191 貧しからねど豊かならざる表情に水牛は耕し終へて我をみる

      (レポート)
 肉牛はビールを飲まされブラシで磨かれ高く売られることに価値があるのですが、水牛は労働のために使われ又ある種の競技にも用いられます。泥に近い畑を耕し終えた水牛の眼にある種の険しさを見たのでしょう。人間にも、また今の世相にも通じる含蓄の深い歌と思いました。(N・I)


      (まとめ)
 動物側から「我をみる」という詠み方は馬場がよくする技法。何度かこの旅の歌シリーズにも例歌を挙げてきた。「貧しからねど豊かならざる表情」とはどういう感じなのだろうか。牛のことではないが、この中国旅行では「民衆は豊かならねどくつろぎて飲食に就く暗き灯のもと」のように歌われている。しかし牛には経済上の解釈はできないので(もちろん、その反映として心地よい牛舎や美味しい餌をもらえるということはあろうが。)あくまでも内面の表情である。それも耕すという労働が終わってほっとしたひとときである、貧しくはないけれども豊かではない表情で我をみて、水牛は何を思っているのであろうか。(鹿取)


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馬場あき子の外国詠 190(中国)

2019-03-18 20:35:50 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の旅の歌25(2010年1月実施)
  【向日葵の種子】『雪木』(1987年刊)127頁~
    参加者:K・I、N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
  レポーター:N・I 司会とまとめ:鹿取 未放

 
190 売られたる鶏は水見てゐたるかな二丁艫(ろ)に漕ぐ蘇州運河に

       (レポート)
 買ったのではなく売られてきたと詠み、鶏の眼に注目したのはさすがだと思います。川は人生にも例えられます。その流れが見えているのだろうかと、言い差しで終わっているのが深みを与えていると思いました。(N・I)


      (まとめ)
 下句と上句が倒置になっているので言い差しではない。また終助詞「かな」は詠嘆だから「水を見ていたことよ」の意味で、「その流れが見えているのだろうか」というような疑問では全く無い。
 二丁艫だから艫が2本しかない小さな船、そこに売られた鶏たちが乗せられている。何羽とは書かれていないが、小さな船だからせいぜい10羽というところだろうか。たぶん脚でも縛って数珠繋ぎにされているのだろう。鶏たちはしょうことなしに運河の水を見ている。水は188番歌に「楊花散りて蘇州春逝く季に来つ濁れる運河一日下りて」とあったように濁っていて水中は見えない。拘束された鶏たちは直感的に自分の運命を把握しているのだろう。作者たちの乗る観光船と擦れ違ったときの属目だろうが、「水見てゐたるかな」のところにそこはかとないあわれが滲む。(鹿取)


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