かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 195(中国)

2019-03-20 19:51:03 | 短歌の鑑賞
馬場あき子の旅の歌26(2010年3月実施)
    【飛天の道】『飛天の道』(2000年刊)164頁~
     参加者:N・I、Y・I、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:T・H 司会とまとめ:鹿取 未放


195 蜃気楼の国のやうなる西域の飛天図を見れば夜ふけしづ

       (レポート)
 馬場先生ご一行は、今、中国はシルクロードの旅をしておられる。そして今日は敦煌の莫高窟を見学して来られたのだと思う。「蜃気楼の国のやうなる」とは、歴史的にも遙か彼方、漢の武帝の時代より(B・C140年頃)注目されていた西域・シルクロードへ、今、足を踏み入れられた。それはまさに日本からも「蜃気楼の国のやう」に遙かに遠い「西域」であり、また今日見てこられた「飛天」の多くは、天上遥かから、音曲を持って、仏の来迎を讃美する姿である。それらを見てこられて、今、夜のしじまの中を寝付こうとしておられる。しかし目は冴え渡って、今日見てこられたさまざまな莫高窟内の図柄が目の前に浮かび、なかなか寝付かれない。(T・H)

     
      (まとめ)
 この歌は現地に行って飛天を見ての感慨か、蜃気楼の国のようだと考えていたその西域に正に自分が旅しようとして、あこがれの飛天図を写真か何かで眺めている図か、二通りに考えられる。四首めに富士が出てくる構成から考えると、行く前のあこがれの気分と読んで欲しいという作者のメッセージかもしれない。
 蜃気楼の国のようだというのは、距離の遠さもさることながら何千年という時代的な距離感なのだろう。ぼんやりと見えるがすぐに消えてしまう蜃気楼のように、ほんとうに存在するのかも危ぶまれるような、それゆえ強い憧れをかきたてるそんな西域なのだろう。夜は更けて静かだが、自分はあこがれの飛天図を飽きもせずに見入っているのだ。(鹿取)




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