かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 52 中欧 379

2022-06-13 15:04:24 | 短歌の鑑賞
  22年度版 馬場あき子の外国詠52まとめ(2012年5月実施)
       【中欧を行く ドナウ川のほとり】『世紀』(2001年刊)P100~
      参加者:I・K、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、藤本満須子、
          渡部慧子、鹿取未放
       レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放


379 ドナウ川クルーズもややに夕暮れてハンガリー舞曲奏でられたり

       (レポート)
 やや夕暮れてきたドナウ川の周遊船のなかで、演奏が始まり、人々の耳目をひく。演奏されているのは、「ハンガリーにおけるマジャール人の国民舞踊曲調をもととし、国民音楽の優れた典型として知られている」ブラームスのハンガリー舞曲。「涙によってのみハンガリー人は愉快であるという言葉どおり、啼泣の憂愁と狂乱の歓喜は特有の魅力をもって迫ってくる。」(鈴木)


         (当日発言)
★演歌を聞かされると私は政治とか思想とか全てなげうって流されてもいいような気分にな
 る。だから演歌には警戒している。ハンガリー舞曲が演歌と同じ作用をするとは思わない
 し、私も好きな曲だが、もともと民族音楽を採譜して編曲したものだから、いろんなもの
 を溶かし酔わせる魔力もあるようだ。この歌には関係ないが音楽による民心の操縦という
 のはいくらでもあることだ。ヒトラーもそのように民族音楽を利用した。もちろん音楽の
 効用は認めるが、反面麻薬のように政治とか思想とかに向かう人の心をへなへなと溶かす
 ように働く気がする。378番歌(くらしの時間はすみやかに何かを忘れしめ孤独なり老
 いて静かに肥ゆる)の後に置かれた歌なので「何かを忘れしめ」るものの一つとして人々
 を酔わせ陶酔させる音楽も、いくぶんそのようなモノとして捉えている気もする。一方で
 この歌ではハンガリー舞曲を旅情をかき立てる抒情として扱っているのだろう。(鹿取)
★ハンガリー舞曲を麻薬のようには思わないし、作者もそうだと思う。378も379も自
 分は肯定的に捉えている。(鈴木)
★人が集まれば歌い踊るという民族だから、酔わされるというようには思わない。みんなで
 踊ることでまた力を得て蜂起する力の源にもなる。(藤本)


      (後日意見)(2018年9月)
 夫君の岩田正はブラームス好きで知られていたから、作者にとっても特に思い入れがあり、軽い情景描写の歌として作られたのかも知れない。だから、この歌のハンガリー舞曲を否定的に読むわけではないが、レポーターの引用(引用元不明)されたハンガリー舞曲の説明後半に「涙によってのみハンガリー人は愉快であるという言葉どおり、啼泣の憂愁と狂乱の歓喜は特有の魅力をもって迫ってくる」とあるように陶酔の魔力を持つ曲ではある。掲出歌から離れて言えば、ともすれば同じ民族ということで狭隘な国家主義、排外主義の思想に操縦されていく危惧がないとは限らないだろう。また、国家単位でなくとも、素晴らしければ素晴らしいほど音楽は麻薬の反面を持つことも確かだろう。(鹿取)
 岩田正『土俗の思想』(12頁)から、齋藤史『密閉部落』の一首を引いておく。
  密閉の中の饐(す)えたる濁汁に酔へば愉(たの)しき麻痺の楽あり 斉藤 史


   (後日意見)(2021年12月)
 「歌壇」2021年11月号で川野里子さんと哲学者の納富信留さんが対談をしているが、その中に上記の音楽が麻薬になる旨に関連する記述があるので抜粋する。(鹿取)
 川野:(略)プラトンの国歌編でソクラテスが自分達の理想国家に詩はいらないと言いま
    すよね。詩人を追放せよと。(略)
納富:(略)プラトンは紀元前5世紀の終わりにリアルタイムでソフォクレスやエウリピ
    デスやアリストフォネスの新作を毎年見ている。三万人くらい入るアテナイの野外
    劇場で。劇場全体で感情がうわぁと沸き起こるなかにいて、プラトンは心底から危
    険だと感じたんでしょう。感情がすべて強引にもっていかれる。これって全体主義
    的です。(略)
 川野:ナチスドイツの演説の演出を思えば確かに非常に怖いです。


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