かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

馬場あき子の外国詠 392(中欧)

2020-04-10 17:36:41 | 短歌の鑑賞
 馬場あき子の外国詠54(2012年7月実施)
   【中欧を行く 虹】『世紀』(2001年刊)P109~
    参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:藤本満須子      司会と記録:鹿取 未放


392 ホフマンスタール、リヒャルトシュトラウスに出会ひたる三十五歳のウィーンを思ふ

        (レポート)
 ホフマンスタールが三十五歳でリヒャルトシュトラウスに出会った年のウィーンを偲ぶ、という歌だが散文のような歌で、ホフマンスタールの三十五歳といえば1909年である。1909年のウィーンについて調べては見たが作者の意図やおもいには至らなかった。まずふたりの関係から考えると1909年1月にウィーンではなくドレスデンで「エレクトラ」は初演されている。ホフマンスタールは1909年2月には次の「ばらの騎士」をまとめあげている。またふたりが出逢ったのは1900年だ、パリで。リヒャルトシュトラウスは43歳でウィーン・フィルの常任客員指揮者となっている。1907年のことだ。1907年、イギリス、フランス、ロシアの三国協商が完成、1914年第一次世界大戦勃発。この頃のウィーンは日常生活にいたるまで反ユダヤの雰囲気が色濃く漂っていた時代と言われている。後にリヒャルトシュトラウスにもその生涯において音楽活動において負の影響を及ぼすことになる。かのヒトラーはこの頃ウィーンにおいて反ユダヤの思想を確実に養っていたといわれる。ヒトラー、1907年にウィーンに入り1913年まで過ごした。芸術大学を二回失敗、行方不明、浮浪者収容所でも収容されていたという。ヒトラーは十二歳の時「ローエングリーン」に魅せられたという。ウィーンに放浪、滞在していた二十歳前後の感性豊かな時期、水だけを飲み、リンツの歌劇場でワーグナーの歌劇を観ている。1回につき7,8時間観ていたとも。ヒトラーのワーグナー崇拝は生涯変わらなかった。(藤本)


         (当日意見)
★二人が出逢った三十五歳のウイーンで何かがあったのではないか。(N・I)
★三十五歳という年齢に思いがあるのではないか。先生はこれを詠われた時何歳だったの
 だろう。芸術家としてウィーンにある時の年齢、成熟度のことを問題にしているのでは
 ないか。(慧子)
★それはあるかもしれないわね。逆算すると作者七十歳くらいですね。(鹿取)
★しかし、ホフマンスタールはウィーン生まれだからこの年に来たわけではない。また「エ
 レクトラ」の初演は一九〇九年ではあるが、ウィーンではなくドレスデンで行われてい
 る。だから分からない。(藤本)
★ルエガーというウィーン市長(在一八九七~一九一〇)が反ユダヤ主義者として有名だ
 った。一九一〇年に病死したが、葬儀行進には若きヒトラーが参加していたという。世
 紀末の気分が尾を曳いた退廃的で不穏な空気の中のウィーンということだろうか。 
       (鹿取)


          (まとめ)
 レポートにも書かれているように、ホフマンスタールは一八七四年生まれで、三五歳になるのは一九〇九年。ちなみにリヒャルトシュトラウスは一〇歳年上。ホフマンスタールの詩とリヒャルトシュトラウスの曲が出逢ったという解釈も考えてみたが、三十五歳とあるところから難しいかも知れない。また一九〇九年もポイントになりそうだが、初演場所はドレスデンなのでウィーンの部分がやはり食い違う。出逢ったのは初めてとはいっていないのでそこはクリアーできるが、どこかに作者の勘違いがあるのかもしれない。(鹿取)



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