かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  213

2021-05-04 17:02:33 | 短歌の鑑賞
 渡辺松男研究26(2015年4月)【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)89頁~
    参加者:かまくらうてな、M・K、M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放

 
213 死のごとき岩を摑める根の張りを見つづけていて摑まれてくる

   (レポート)
 普通、生死は生物に由来する有機物の話と思っているから、命のない無機物の岩に対しての「死のごとき」という比喩が意表を突く。岩が生死にかかわるように読めるからである。有機物は無機物の炭素原子から偶然に生まれ、いわば無機物は有機物の生死を内包しているともいえるのだ。そのような背景を思えば、岩を摑める根の張りが半端なものではなく必死のものに思えて、それを見つづけているわれも「摑まれてくる」のである。(鈴木)    


        (紙上意見)
 樹齢は千年に近い凄まじい根の張りなのだろうか。その行方をみていると、岩に絡み、強固に巻き付いている。まるで根に意識があり、岩を摑んでいるようだ。じっと見続けていると、自分自身も、なにか得体の知れないものによって摑まれ、息の根を止められるような思いになる。(石井)


      (当日意見)
★岩は私達が見ても死を思わせる。だけどそれを渾身の力で摑んでいたらかえって摑まれてしまっ
 たというような。(曽我)
★曽我さんの意見だと摑まれたのは「木の根」ということになりますが、「見つづけてい」る〈わ
 れ〉が摑まれるのだと思います。何によって摑まれるのでしょう?「摑まれてくる」の「くる」
 が微妙ですけど。(鹿取)
★見ていると自分の心までが摑まれてしまう、という感じかな?(曽我)
★はい、自分の心が摑まれて危うい感じになるのだと思いますが、何によって?(鹿取)
★根の張りに自分が摑まれる感じ。(鈴木)
★作者は死に摑まれてくると言いたいのですか?「見続けていて…死のごとき岩に摑まれてくる」
 という文脈になっていますよね。死という形のないものに摑まれるというイメージなのかなあと
 思うのですが。(うてな)
★いや、文脈上は「根の張りを見続けていて…摑まれてくる」ですから、根に絡め取られたことに
 なりますが。ただ、この文脈、捻れているような気もしますが。(鹿取)
★短歌は凝視をすることで何かをつかみ取れと言われるけど、この歌では凝視していて逆に自分が
 危うくなったような感じ。向こうが隙を見て自分を摑んでしまったというような。そんな力の拮
 抗のようなものを感じました。(慧子)


        (後日意見)
 どっしりして沈黙している岩からは、自然に「死」を連想させられます。その岩に絡まる木の根の凄まじい生命力を見ていると、〈われ〉も生命力が湧いてくるかというとそうではなくて逆に死の方にとりこまれてしまうような感覚だというのでしょうか。結局、石井さんの紙上意見の最後のフレーズと同じような意見になります。文脈上は根に摑まれると読めそうですが、意味上は不思議な捻れがあるようで、〈われ〉は得体の知れないものに絡め取られ、引きずり込まれる感じ。そう考えると、うてなさんの結論ともあまり違わないようです。(鹿取)

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