かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞  198

2024-02-08 12:05:06 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究24(2015年2月実施)
   【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~
    参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
            
  ◆欠席のS・Iさんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
    

198 深帽のキェルケゴールのまなうらに樹は枯れしまま空恋いつづく

      (レポート)
 〈死〉によってもたらされる絶望を回避できないと考え神による救済の可能性のみが信じられるとした(Wikipediaより)キェルケゴールの神への信仰の厚さを表していると思う。西洋の人々の暮らしに深く根づいていたキリスト教という宗教の不思議さも伝わってくる。(崎尾)

    
     (当日意見)
★レポートを書き終わって思ったのですけど、この「枯れしまま」というのは絶望の深
 さを詠っているのかなあとそれから「恋いつづく」は絶望を回避したいと思っている
 心の表現。(崎尾)
★キェルケゴールは実存主義者ですよね、でも実存というのは神の存在を否定するんで
 すよね。ですので、キェルケゴールが神を信仰しているというのがわからない。
    (うてな)
★いや、後になって実存主義の創始者とか呼ばれただけで、キルケゴールは神を否定し
 ていません。むしろ、神を希求したした人です。(鹿取)
★キェルケゴールは人間の存在から考えていくわけで、神から出発しているんじゃない
 んです。だから視点の違いなんじゃないかな。神から始まって人間の本質を神に持っ
 てくるやり方ではなくて、今現在存在しているところから出発するんですよ。神を否
 定するとかじゃなくて存在していることからものごとを考えていくんです。この神は
 キリスト教的な神ではなくて存在の根拠のようなものです。(鈴木)
★そうすると私のレポートの一般的なキリスト教について書いた部分は間違いですね。
   (崎尾)
★では、この神はキリスト以前の綜合神的なものですか?(うてな)
★この神はむしろ今に近い感じ方では。われわれには何かによって生かされているとい
 う思いがあるじゃないですか。存在の根拠を神と言っている。一神教の神ではないで
 す。(鈴木)
★いや、キルケゴールの神は一神教の神ですよ。私はキルケゴールは『死に至る病』と
 『愛につい て』しか読んでいないですが、そこでキルケゴールが求めている神は一
 神教の神です。(鹿取)
★レポーターは「キェルケゴールの神への信仰の厚さを表している」と書かれています
 が、そうではなくて、自分のかたくなな何かを信じているという、この空は自分のこ
 とでしょうかね、単独者のそういう在り方を詠われたのじゃないかと。(慧子)
★「深帽のキェルケゴール」と言っているので単独者がキェルケゴールに繋がります
 ね。キェルケゴールが存在の根拠として神の恩恵のようなものを感じる訳ですよ。
 自分自身は虚無だけどそういうものによって支えられている。ということで枯れし
 まま移ろうものとしての自分を自覚しながら空の神の恩恵を追い続けていますよと
 いうことじゃないかと。(鈴木)
★私単純だからどうして短歌でこんな難しいことを詠うのかと。そういう思想があるな
 ら文章で表せばいいのに。短歌には限界があるので、特殊なことを短歌にするのは無
 理というのがあって。塚本邦雄はすごく理屈っぽいけど分かるんですね。だけどこの
 人は分からないです。(うてな)
★いや、私は違う考えです。むしろ短歌の限界を超えて詠っているところが松男さんの
 力だし魅力だと思います。散文ではなく短歌を松男さんは選んだんです。正直私には
 この歌の下の句よく分からないですし、松男さんの歌理解できないものもたくさんあ
 ります。でも、短歌にできる内容には限界があるとか、哲学を詠み込むのは無理とか
 は思いません。伝統を破ることが伝統を継続する力になるんじゃないですか。別に短
 歌だけじゃなくて、これが絵か!と言われたピカソが絵画の世界を広げ、これが音楽
 か!っていわれて音楽の世界は広がったんです。定家だって塚本だってこれが歌かと
 言われて歌の世界を広げてきたわけですから。松男さんもそういう歌を広げてゆく一
 人だと思います。(鹿取)
★塚本邦雄の時からそういう議論はありましたね。(鈴木)


      (まとめ)
 レポーターがWikipediaから引用されているが、最後の「そして神による救済の可能性のみが信じられるとした」の続きが大切だし分かりやすい部分だと思うので(研究書から飲用するのが筋で、Wikipediaを根拠にするのはまずいが、レポートの続きなので)下記に引用させていただく。

  これは従来のキリスト教の、信じることによって救われるという信仰とは異質で
  あり、また世界や歴史全体を記述しようとしたヘーゲル哲学に対し、人間の生には
  それぞれ世界や歴史には還元できない固有の本質があるという見方を示したことが
  画期的であった。 (Wikipedia )
        
 この歌の鑑賞の場で、「神」についていろいろ意見が出たが、キェルケゴールは「デンマーク教会に対する痛烈な批判者であった」だけで、救済を求めた対象は従来の一神教の神であった。ただ、教会や牧師を媒介としない、神と〈われ〉が直で繋がることを希求したのだ。うてなさんの「実存というのは神の存在を否定する」というのは、直接にはレポートの「神への信仰の厚さを表している」の部分に対する疑義だと思うが、そこだけ取り出すと誤解を招きそうだ。無神論的実存主義と言われたサルトルや、「神は死んだ」と言ったニーチェには当てはまるかもしれないが、この歌のキェルケゴールには当てはまらないからだ。確かにキェルケゴールは「実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている」が、膨大な書物を書いて彼はずっと神を希求しつづけた人だ。歌に戻ると「樹は枯れしまま空恋いつづく」は、直前の「油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている」の続きとして読むべきだろう。(鹿取)


         (後日意見)
 197番歌(油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている)で憂鬱という絶望状態の楡は時間が経過し、枯れてしまったのである。『死に至る病』では、神を離れ、見失っている人間の状態を「絶望」ということばで表現している。「絶望」して、枯れてしまった人間。キルケゴールは絶望しつつ、常に真のキリスト教者になろうと苦悶している。そんな彼の神への救済を求める心が「空恋いつづく」ではないだろうか。
 鈴木さんの「キリスト教的な神ではなくて存在の根拠のようなものです」はキルケゴールの書物のどこからも出てきません。このように根本的理解を誤ると「単独者」が理解できなくなります。(S・I)

      (まとめ)②(鹿取)
 『悲劇の思想』(河出書房)の概説で、高橋健二、秋山英夫はキェルケゴールについて以下のように記述している。

   「実存」とは神の前にあらわになった自己、いっさいの世俗的かかわりを消し
   去って、純粋に本来的となった自己、つまり神という絶対者に対して絶対的関
   係に立った自己とでもいえるのであろうが、それは無限の過程であり、不断の
   精進である。 

 また、同書の「死にいたる病 解題」で松浪信三郎は次のように言う。

  ……キリスト者となることがいかに困難であるかを嘆じることにおわっ
  ている。

  

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