かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 197

2024-02-07 12:11:15 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究24(2015年2月実施)
   【単独者】『寒気氾濫』(1997年)83頁~    
    参加者:かまくらうてな、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子 司会と記録:鹿取 未放
            
  ◆欠席のS・Iさんから、まとめ後にいただいた意見も載せています。
    

197 油絵のじっと動かぬ大楡は樹冠に空が張りついている

      (レポート)
 油絵に描かれている空はおおむね絵に奥行きを与えている。しかしこの油絵の空は「樹冠に空が張りついている」である。絵の遠近感をそこなう空であるようだ。しかし「大楡」の「樹冠」の存在を際だたせていると思う。「張りついている」と独特な言葉で捉えている。(崎尾)


     (当日意見)
★松男さんは現実の樹を信奉している人だから、この油絵は生きるということを象徴で
 きていないと思っている。樹冠は光合成をしている所でしょう。そこへ空が張り付い
 てしまったら元気がなくなってしまう訳よ。絵は実物に劣っていると考えている。
   (曽我)
★大楡は自分のことで、周囲に対する違和感を表現したのだと思う。(うてな)
★上の句と下の句の関係が、不思議な技法の歌ですけど、大楡はうっとうしくて窒息し
 そうな感じなんでしょうかね。(鹿取)
★「油絵のじっと動かぬ大楡」というのは単独者だと思う。崎尾さんのいう奥行きがあ
 るというのは関係を持つことだと思う。(鈴木)


      (後日意見)
 キルケゴールは自らを「人間の記憶に生きている限り、最も憂鬱な人間だった」と称し、生涯を通じて悩んだと、語っている。彼の憂鬱は絶えず死ぬことに怯えたり、クリスチャンとしての原罪意識から来るものであった。が、なによりも父親から受け継いだ家系的な気質であった。この絵はそれを想起させる。油絵のじっと動かぬ大楡は厚ぼったく、キルケゴールの憂鬱そのものだ、樹冠には遠近感のない空が張り付き、大気を取り入れることができないし、憂鬱は発散してゆかない、やりきれない窒息しそうな状態の病理を『死に至る病』では「絶望」ということばで表現している。危うい憂鬱という絶望の状態を常とし、キルケゴールは生き抜いた。この絶望を見詰めたからこそ、彼の豊かな創作活動が生まれたのかもしれない。(S・I)


        (まとめ)追加
 「樹冠」を広辞苑で引くと「樹林において、葉が集まって光合成を行っている樹木の上部部分」とある。一本の木の上部ではない。生物史では、約5500万年前頃から地球温暖化で広葉樹が密生し個々の木の枝が重なり合う樹冠が出現したと説いている。この歌に直接関係ないかもしれないが、人類の遠い祖先であるカルポレステス(「果実を食べる人」の意、原猿の仲間)はこの樹冠のお蔭で地上に降りずに樹上生活を営むことができて繁栄したという。それが人類誕生に繋がったのである。現在、楡の最大種は中米の熱帯雨林に分布し、高さ80mにも達するという。「樹冠に空が張りついている」とは空に伸びる大楡の高さとそんな大楡に対するあこがれを詠んでいるとも読める。ただ油絵に描かれている樹であることと、「張りついている」の語感が喜びの感覚から遠いのがこの解釈の難点である。しかしこの後すぐの「光る骨格」一連に〈切株は面(つら)さむざむと冬の日に晒しているよ 動いたら負けだ〉があり、「じっと動かぬ大楡」はやはりあこがれの対象ではなかろうか。そんな空に届かんばかりの大楡と対照的に「深帽のキェルケゴールのまなうらに樹は枯れしまま空恋いつづく」(198番歌)のである。(鹿取)


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